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<title>不如帰～戦国武将の幻影～</title>
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<description>Ⅰ・・＜覇王編＞・・～逆賊　織田信長を討て！～Ⅱ・・＜争覇編＞・・～織田家簒奪！秀吉の野望～</description>
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<title>コラム　ＮＨＫ大河ドラマ天地人　武士の誇り、武士の意地</title>
<description> 「奉公を構われる、奉公構（ほうこうかまい、ほうこうかまえ）」というのは、秀吉によって始められた慣わしであると云われる。これが江戸時代になると武士に対する刑罰として一般化し、出奔した家臣や改易された者に対して主人である側の大名家が、「なにがしは奉公構にした人物である。もしもこの者を仕官させたならば、当家は今後、そちらとのいっさいのつき合いをやめる。」といったような文言で綴られた回状を他家に乱発するの
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<![CDATA[ <span style="color:#000000"><br />「奉公を構われる、奉公構（ほうこうかまい、ほうこうかまえ）」というのは、秀吉によって始められた慣わしであると云われる。<br />これが江戸時代になると武士に対する刑罰として一般化し、出奔した家臣や改易された者に対して主人である側の大名家が、<br />「なにがしは奉公構にした人物である。もしもこの者を仕官させたならば、当家は今後、そちらとのいっさいのつき合いをやめる。」といったような文言で綴られた回状を他家に乱発するのである。<br />これによって、他家への再仕官が非常に難しくなり、その土地からも追放されたというから、武士階級においては切腹についで苛酷な重刑であった。<br /><br />　戦国時代の主従関係は君臣ともにお互いの資質や能力、人物としての器量や才能などを認め合うことによって成立した。<br />したがって頼むに足りない主人であったり、仕官するに値しない大名家であれば、家来の側はその場を立ち去って他家に再仕官することが多かったのである。また、そうすることによって「武士としての名を上げる」という考え方が当時の武家社会における一般的な通念であった。<br />　<br />　しかし、秀吉の天下統一が完成に近づくにつれて、これがなんとも具合の悪いことになってきた。<br />　<br />　家臣が出奔して諸大名の間を渡り歩くということは、その者は相当の上昇志向の持ち主であり、かなり腕に覚えのある人物なのだ。しかも年月に応じてその才覚や技能に磨きがかかり、大人物に成長して他家の重臣に取り立てられることもあったから、元々の大名家からすれば主人が無能であったようでおもしろいはずがない。<br />さらに、重臣ともなれば重要な機密を知り得る機会に恵まれているから、そのまま出奔されて他家に仕官されたりしては内情が筒抜けのようでまことに都合が悪い。<br />その他にさまざまな要因が複雑にからみ合ってその大名同士の仲がギクシャクしはじめて険悪な状態になったりしたら大変なのだ。封建主義社会を統治する上で、大名同士の争いごとほど始末の悪いものはないのである。<br />　秀吉は大名間での紛擾を防止するために奉公構を制度化しようと考えたのであろう。<br /><br />　大坂の役の折りに、豊臣方として入城した後藤基次（通称は後藤又兵衛）、塙直之（塙団右衛門で有名）などは奉公を構われた人物である。<br />　後藤基次は黒田家に仕え、黒田官兵衛の元で勇将の名をほしいままにしたが、息子の長政とは実に折り合いが悪く、最後は主君の長政と大喧嘩になって出奔している。その後は旧主の長政の奉公構によって他家への仕官が困難となり、大坂の陣までのその生活は窮乏を極めたと云われている。<br />塙直之は主君の加藤嘉明と意見が衝突して出奔し、その後は小早川秀秋や松平忠吉、そして福島正則らに仕えたようであるが、いずれも旧主の嘉明の奉公構による邪魔が入って長続きしていない。一時期は仏門に入っていたという。<br />また、大坂冬の陣の時、徳川方の藤堂高虎の配下である渡辺了（わたなべさとる。渡辺勘兵衛で有名）が戦陣の采配のことで高虎と大喧嘩となり、その戦場での勘兵衛の独断専行がはなはだしかったという理由で高虎や重臣たちから疎まれるようになって後に出奔しているが、その後は旧主の高虎から奉公構に遭って不遇な余生を送っている。<br />渡辺勘兵衛といえば「槍の勘兵衛」で実に有名な勇士であり、勘兵衛の固めている陣と聞けば敵の武将がひるんだと云われるほどの采配の名人でもあった。しかし勘兵衛もまた傲然と剛情を張る人物であったようである。<br />　<br /> 戦国時代の武士は実に剛毅で豪快だ。特に、腕に覚えのある者であればあるほどこの傾向はいっそう顕著に現れた。こんな逸話がある。<br />　本多正信の弟の正重（直江兼続の養子になったのは本多正信の次男の政重。似ているので間違いやすいのである。）は剛勇で剛毅な荒武者で有名だ。<br />　本多三弥正重は家康の三河の一向一揆の際に出奔し、その後は諸家を渡り歩いて功名を立てたが、秀吉の九州征伐の時には蒲生氏郷の配下となって従軍している。<br />　蒲生氏郷は秀吉に豊前の巌石城攻めをしいて願い出て、これが許されてさっそく攻囲にかかるのであるが、氏郷が軍勢の士気を鼓舞するために自ら貝を吹くのだが、これが全然鳴らない。<br />本陣に居合わせた本多三弥がそれを見て、<br />「総じて腰抜けの吹く貝は鳴らぬものでござる。」と言った。<br />氏郷は激怒し、「ならばその方が吹けい！鳴らずば生かしておかぬ！」と怒声を放ちながら刀のつかに手をかけた。<br />　本多三弥は貝を取り上げ、高々と三度までも貝を吹き鳴らし、<br />「これが剛の者の吹く貝でござる！しかとお聞き候か！！」と言い捨て、槍を取って敵中に突入して行ったという。<br />　本多三弥という人物は平然とずけずけとものを言う人で有名で、これは特異な例であろうが、しかしこのような剛情な気質が戦国の武士たちには少なからずあったのである。　<br />　<br />　<br />　統治と統制とは両輪の関係にあるという。戦国から太平の世に向かう過程において、世の中の秩序が整い始めて安定に向かう一方で、独特で強烈な個性を持った武士たちが生きにくい時代になってきていたのであろう。<br /><br /><br />　<br />　ところで、ドラマでは大坂の陣が放映され、直江兼続と真田幸村の連携プレーによる千姫の大坂城脱出劇が映し出され、<br />「うむ、。。さもありなん。。。。」の気分で楽しく拝見させて頂いたが、確かに千姫の脱出劇については諸説あって定かではないのである。<br /><br />　有名な説の一つに、石見津和野の領主である坂崎出羽守成正が大炎上する猛火の中に飛び込んで千姫を救って来たことになっている。江戸時代に流布した小説も、現代の演劇や映画もこの筋書きを踏襲している。<br /><br />　この坂崎出羽守成正という人物は宇喜多家の一族で、宇喜多秀家のいとこにあたる。<br /><br />　この人は実に剛情で、執拗なこと粘着質のごときタイプの人物である。戦国の武士の中でも無類の我が儘さ、強情さだ。<br /><br />　長くなって疲れてきたので詳しい経緯は機会があれば詳述するが、この人の強情で強引な意地のために、三軒の大名家がつぶれている。<br /><br />著者ＨＰ　http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/<br />メールアドレス　hokenpuro@yahoo.co.jp　　</span> ]]>
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<title>コラム　ＮＨＫ大河ドラマ天地人　曲学阿世の弊害</title>
<description> 秀吉は慶長三年八月に病没したのであるが、その遺言の際に五大老の一人一人から、「秀頼が成長して十五歳になったら必ずや親政する。」という内容の文言の入った起請文を取り付けている。 淀殿はこの誓約書の文言が守られることを固く信じ、彼らが将来的に秀頼を盛り立ててくれるであろうことに期待して信頼したに違いないが、秀頼の後見役であった前田利家は翌年の三月には早々と病没し、その後の前田家は家康によって首根っこを
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<![CDATA[ <span style="color:#000000"><br /><br /> 秀吉は慶長三年八月に病没したのであるが、その遺言の際に五大老の一人一人から、<br />「秀頼が成長して十五歳になったら必ずや親政する。」という内容の文言の入った起請文を取り付けている。<br /> 淀殿はこの誓約書の文言が守られることを固く信じ、彼らが将来的に秀頼を盛り立ててくれるであろうことに期待して信頼したに違いないが、秀頼の後見役であった前田利家は翌年の三月には早々と病没し、その後の前田家は家康によって首根っこを押さえられ、関ケ原役の後は毛利輝元・上杉景勝が徳川家に屈従し、宇喜多秀家は薩摩の島津家にかくまわれた後に家康から流罪に処せられてしまった。宇喜多秀家の八丈島での流人生活の逸話が多々あるが、彼は不遇のままに相当以上の長生きをしてその生涯を終えている。<br />　その後の家康は朝廷に働きかけて征夷大将軍職を賜り、慶長十年の四月には世子の秀忠が将軍職の後継者であることを平然と天下に知らしめ、秀頼に対しては上洛を促してもいるから以前の起請文の件を知っている豊臣恩顧の武将たちは憤懣やるせない思いであったろうし、期待を裏切られた淀殿が激怒するのも無理はないのである。母親の我が子に対する愛情はいつの時代も同じだ。息子の将来を心配し、わが子のために既得権をいっさい失うまいとするのは自然のなりゆきなのである。<br /> 家康の豹変ぶりはまさに慇懃無礼、力任せのやりたい放題であり、ドラマでの家康も冷酷的で権勢欲のかたまりみたいな印象を受けるが、しかし彼は冷血漢な人物ではない。<br />諸書によれば、秀頼は家康のことを、「江戸の爺（じい）。江戸の爺。」と呼んで慕っていたようであるし、秀頼と千姫との婚儀の件は老獪で政略的な打算であったことも事実ではあるが、豊臣家の生き残る道を模索して苦心惨憺する家康の温情も感じられるのである。<br />秀頼の上洛の件にしても、淀殿の心情に配慮し、豊臣系の諸大名の間にはいまだに秀吉の感恩の深いことを考慮して取り止めにしている。<br />「へたにこじれたら命取りになりかねない。」と思ったのかもしれないが、温情的になって時期尚早と考えて見送ったのであろう。<br /><br /><br />　そして、月日は流れ六年後の慶長十六年三月、家康は上洛して二条城に入り、織田有楽斎を通じて秀頼に上洛を促した。以前の蒸し返しである。<br />　<br />　この六年の間に徳川家の覇権はゆるぎないものになっている。<br />　<br />　また、豊臣恩顧の諸大名は家康の巧妙な財力弱体化政策によって財政難に陥り、軍資金にもこと欠くありさまになってしまっていたのである。<br />家康は西国の諸大名や豊臣系の武将たちに江戸市街の開発と整備、名古屋城・駿府城の増改築、二条城の普請、諸所の水路の開発や土木工事などを命じて財力を消耗せしめている。加藤清正・福島正則・浅野幸長・黒田長政・池田輝政などという豊臣恩顧の有力大名たちが特にかり出されているから豊臣家の勢力を弱体化させる方策であったことは明らかだ。<br /><br />　さらに、大坂城に蓄蔵されている金銀の消耗もおびただしい。<br />　秀吉が建立した東山の方広寺の大仏殿は大地震で崩壊してしまったのであるが、家康は使者を通じて執拗に再建を勧めている。<br />　淀殿は肖像画にあるようにとても美しくて誇り高い女性であったように感じられ、諸書によれば母性愛の強い人であったように思われるが、しかし家康のたくらみを見抜けるほどの賢母ではない。喜んで再建に尽くすことになるのであるが、なんと方広寺の再建には十年もの歳月をかけて完成させているのだ。<br />再建中に火事に遭ってはやり直し、焼けこげてとけてしまった大仏を作り直したりして、やっと完成したのが慶長十七年の春であったというから膨大な費用に及んだことは想像に難くない。<br />　鐘の鋳造は慶長十九年の四月に完成させているが、その重量は一万九千貫もあったというから驚くほどの巨大な鐘である。その他に堂宇や大仏殿もあるのだからその費用たるや莫大であったろう。<br /><br />　<br />　秀頼の上洛の件については機会があれば詳述するが、この鐘の銘文の件で後日、大問題が勃発する。<br /><br />　<br />　鐘の銘文は、当時名文章家で評判の高い禅僧、文英清韓の作である。<br /><br /><br />　徳川家側は、「国家安康」というのは家康公の名を切断しているので無礼千万、「君臣豊楽、子孫殷昌」は豊臣家を君とし、子孫の殷昌を楽しむと隠し書きしており、徳川家を呪詛しているのだと言い張り、これは豊臣家の天下になることを祈願しているのだと言いがかりをつけるのだ。<br /><br />　日本で漢文を訓読する際には、場合によっては返読しなければならないが、しかしだからといって「臣豊」を「豊臣」と読むことは絶対にできない。こんなことは漢文学の初歩なのだ。<br /><br />　ところが、本当に驚くべきことに徳川家の儒官である林羅山がこれを認め、博識の高いことで有名な京都五山の長老のほとんどが認定しているのである。<br /><br />　これは、破廉恥なほどの「曲学阿世」ぶりと言わざるを得ない。<br /><br />　今の現代も、世間の人々が学者に対して直感的に一種の嫌悪感を覚えてしまうのはここのところに起因するのかもしれない。<br /><br />　<br />「史記」儒林伝によれば、「曲学阿世」とは、学問上の真理をまげて、世間や権力者の気に入るような言動をすることをいう。<br /><br />　<br />　この事態は、現代に生きる我々も肝に銘じておかなければならない教訓であろう。<br /><br /><br />著者ＨＰ　http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/<br />メールアドレス　hokenpuro@yahoo.co.jp　</span> ]]>
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<title>コラム　ＮＨＫ大河ドラマ天地人　兼続の政略</title>
<description> 　 　戦国時代の当時は、江戸時代のような儒教に基づいた君臣関係はない。比較的に自由で弾力性があり、主人は家来を三年ぐらい使ってみて見込みが無ければ平気で暇を出すし、家来の方もしばらく仕えてみて頼りにならない主人であればサッサと立ち去ってしまうのである。　戦国時代は君臣ともに「信頼するに足る人物かどうか」をしっかりと確かめ、お互いの合意があって初めて主従関係が成立したのである。　直江家に婿入りした本
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<![CDATA[ <span style="color:#000000">　 <br /><br /><br />　戦国時代の当時は、江戸時代のような儒教に基づいた君臣関係はない。比較的に自由で弾力性があり、主人は家来を三年ぐらい使ってみて見込みが無ければ平気で暇を出すし、家来の方もしばらく仕えてみて頼りにならない主人であればサッサと立ち去ってしまうのである。<br />　戦国時代は君臣ともに「信頼するに足る人物かどうか」をしっかりと確かめ、お互いの合意があって初めて主従関係が成立したのである。<br /><br />　直江家に婿入りした本多政重は以前、大谷吉継に仕え、その次ぎは宇喜多秀家の家臣になって二万石を与えられている。<br />関ヶ原合戦の際には宇喜多勢の侍大将格で奮戦しているから実に勇猛な武将だったことが分かる。<br />その後、福島正則の家臣になるのだが、まもなくそこを去って前田利長に召し抱えられて三万石を拝領している。<br />ドラマの冒頭で、本多政重のことを主家を次々に変える「得体の知れない人物」とのナレーションで紹介していたが、これは残念ながら少し時代考証の足りない見解であろう。<br />　本多政重は宇喜多家から二万石、前田家から三万石を拝領している。この時代は江戸時代と違って能力給なのだから有能な人物だったに違いない。<br />逸材の人であればなおさら、月日の流れや時代の変化に応じてその才能に磨きがかかり、さらに信頼するに足る主人を探し求めるようになるのであろうし、その結果として主家を次々に変えることになってしまうのである。有名な武将では島清興（通称は島左近）、藤堂高虎などがその好例だが、詳しく調べればきりがないほどに沢山あるはずである。<br /><br />　直江兼続も政重のことを高く買っていたように思える。<br />　政重は本多正信の次男であるが、徳川家を出奔した後は秀吉の信任する大谷吉継の家臣となり、その次は秀吉の寵愛する宇喜多秀家に仕え、関ヶ原の合戦においては西軍の主力部隊の先鋒となって勇戦している。<br />どちらかといえば大坂方の人物であるし、有能な武将のように思えるし、徳川家の宿老である本多正信の息子であったりするので、主家の上杉の社稷をまっとうすべく策動していた兼続の目にとまったのであろう。<br />　１６０４年（慶長九年）の八月頃、兼続は政重（この頃まで正木左兵衛と称している。当時の武士は名前を変えることが多かったからややこしい）と兼続の娘である於松との婚儀を整え、政重は直江家の婿養子となって直江大和守勝吉と称した。<br />しかし翌年には於松が病死しているから、兼続の心痛はいかばかりであったろう。<br />当時の大名レベルの結婚は王朝時代の頃と違って恋愛もへちまもない。お見合いすらないのだ。<br />「家」と「家」とが結婚し、子孫を残すことだけを目的に結ばれるのである。<br />　恋愛に恵まれる機会すらなく、夫婦の情愛を知らず、政略の犠牲者となってこの世を去ってしまった娘を想う兼続の胸中は悲壮である。万感胸に迫る思いであったろう。<br /><br />　その後、兼続は勝吉との養子縁組をそのまま継続し、１６０９年（慶長十四年）に弟の大国実頼の娘・阿虎を養女にして勝吉に嫁がせている。<br />弟の実頼は以前、兼続が政重を養子に迎える事に猛反対したのであるが受け入れてもらえず、憤懣おさまらずに強行手段に出て政重を迎えに来た兼続の家臣を斬殺して出奔している。<br />またこの年、本多正信が仲介役となって兼続の実子・景明が膳所藩主戸田氏鉄の娘を娶っている。この頃から勝吉は本多安房守政重と名乗るようになったようである。<br /><br />　<br /><br />　ところで、徳川家康は慶長八年二月に征夷大将軍となったが、それと前後して世子の徳川秀忠の娘である千姫と豊臣秀頼との婚儀を進めている。こちらも家同士の無味乾燥で味気ない結婚である。しかし二人とも幼少であったから飾り雛のように綺麗でかわいらしい出で立ちであったろう。<br /><br />　家康はこの婚儀によって豊臣恩顧の武将たちの反感をやわらげ、淀殿の憤激を慰撫して煙に巻いてしまうつもりだったのかもしれないが、しかし翌年の慶長九年になると家康が上洛した際には大坂に赴いて秀頼に拝謁することもなく、まっすぐ江戸に戻ってしまっている。家康は上洛する度に大坂に足を運んで秀頼に謁していたが、天下の実力者たる覇者になってからはその態度を急変させている。<br /><br />　さらに、翌翌年の慶長十年四月には世継ぎの秀忠に大軍勢（公称で十万とも云われる）を添えて上洛させているから、これは将軍職を徳川家が世襲することを公に表明したようなものなのだ。<br /><br />　おまけにこの時、秀頼に対して上洛を促すようなことまでしでかしているから、豊臣系の諸大名である加藤清正、福島正則、浅野幸長などは疑心暗鬼に陥り、淀殿の憤激ぶりは察するに余りあるものがあったようである。<br /><br />　家康はあまりにも強烈な拒絶反応に驚いて、慌てて六男の忠輝を大坂に派遣して秀頼の上洛の件はうやむやの内に取り止めになっている。<br /><br />　<br />　秀吉が病没したのは慶長三年八月十八日だから七年余り、関ヶ原役からは五年も経過しているのだが、太閤秀吉の威光はまだまだ根強かったのだ。<br />　<br />　<br />　焦る家康を見て、あの世の石田三成が苦笑していたかもしれない。<br /><br /><br />　大坂冬の陣は、この年から約九年もの歳月を経過した後に勃発しているのである。<br /><br /><br />著者ＨＰ　http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/<br />メールアドレス　hokenpuro@yahoo.co.jp　</span> ]]>
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<title>コラム　ＮＨＫ大河ドラマ天地人　天下の趨勢と将星たち</title>
<description> 　慶長八年二月十二日、徳川家康は朝廷から征夷大将軍職を賜わり、名実ともに天下の主権者となった。武家の棟梁であり、もはや単なる豊臣家の大老職ではなく、家康は天下の覇者として日本国に君臨することになったのである。　豊臣恩顧の諸大名である福島正則、加藤清正、浅野幸長らはこの事態に心平らかでなかったと伝承されており、ドラマでは福島正則が豊臣秀頼の御前で憤慨しながら憂慮する場面が放映されたが、しかし彼らは以
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<![CDATA[ <span style="color:#000000"><br /><br />　慶長八年二月十二日、徳川家康は朝廷から征夷大将軍職を賜わり、名実ともに天下の主権者となった。武家の棟梁であり、もはや単なる豊臣家の大老職ではなく、家康は天下の覇者として日本国に君臨することになったのである。<br />　豊臣恩顧の諸大名である福島正則、加藤清正、浅野幸長らはこの事態に心平らかでなかったと伝承されており、ドラマでは福島正則が豊臣秀頼の御前で憤慨しながら憂慮する場面が放映されたが、しかし彼らは以前に秀吉の織田家の簒奪ぶりを十分すぎるほどに見てきているのだから全然予測できなかった出来事ではあるまい。<br />　信長が本能寺で横死した後、秀吉は織田家当主の三法師を飾り雛同然にして権勢を奪い取り、その後には成人した織田秀信を崇め奉るだけの置物のように扱っていたのである。<br />家康が秀頼に対して同じようなことをするであろうことは容易に推察のつくことであり、彼らの心情はかつての織田家の宿将であった丹羽長秀や池田恒興、森長可らが味わった胸中と同じようなものであったろう。<br />　その時代の趨勢とはいえ、その理不尽さが頭では分かっているのだが、我が「家」の存続と繁栄の為にどうにもならんのである。唯物と観念の狭間で煩悶して悩まされるのも道理といえる。<br />拝金主義が横行し、人間をまるで物のように扱う現代社会に生きる我々にも同じことがいえるかもしれない。<br /><br /> 　時代の趨勢をいち早く読み取り、家康の覇権を予感した加賀国の前田利長は関ケ原役の以前に徳川家に屈服し、家康の恫喝に驚き恐れて実の母親を人質に差し出していたおかげで社稷をまっとうして加賀百二十万石を保ちえたのであるが、こんな逸話がある。<br />　「不敗の名将」で知られる立花宗茂は関ケ原の合戦に参加していないが、大坂城での徹底交戦を主張してやまなかった。<br />しかし毛利輝元や増田長盛は家康に対する弁解のことで頭がいっぱいの時だ、どのように言い訳をしたらよいのかでシドロモドロの真最中だったのだ。全然話しにならないのである。<br />　こうして、宗茂は失意のうちに九州柳川に帰り、その後は肥後の加藤清正の親身な忠告に従って城を明け渡したのであった。<br />その後、宗茂には数多の大名家から仕官の誘いがかかったのだが、加賀の前田利長からも十万石で召し抱えたいと使者を遣わしてきた。<br />　宗茂は退屈そうにその使者と対面し、その口上に全然興味を示さず、つぶやくように、<br />「憎いやつめ。腰抜けのぶんざいで、いろいろなことを言いよる。」といって立ち去ってしまったので、そこに居合わせた家臣たちが冷や汗をかいてその場をつくろうのに苦労したという。<br />　前田利長の徳川家への屈従の是非は人それぞれに意見の異なるところであろうが、温厚で寛大、人徳の声望があって驕ることなく、功があっても自慢せず、寛容で民に恩を施し、義をもって将士を励ましたといわれる立花宗茂ほどの人でも、利長は好感の持てる人物ではなかったのであろう。<br /><br /><br />　戦国の快男児で有名な前田慶次も諸大名からの仕官の誘いが多かった人であるが、関ヶ原役の後は、<br />「追従軽薄、さてさて男は一人もなし。」といって上杉景勝を主君と仰ぎ、米沢の郊外に住んで居候を決め込んだと云われる。上杉家を管掌する直江兼続もこの噂は知っていたであろうから、おそらくは苦笑いしながらも心の晴々とする思いであったろう。<br /><br />　<br />　上杉領は三十万石であったが、兼続の卓抜な民政手腕によって五十万石前後になっている。<br />　<br />　後年、上杉領は荒地が多いということで幕府から十万石の軍役を免除されているから、実質的には六十万石前後の実収はあったかもしれない。<br />　<br /><br />著者ＨＰ　http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/<br />メールアドレス　hokenpuro@yahoo.co.jp　<br /><br />　</span> ]]>
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<title>コラム　ＮＨＫ大河ドラマ天地人　家康と兼続の質実</title>
<description> 　有名な格言に、「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し、いそぐべからず。」というのがある。徳川家康の言葉として伝えられているが、これは後世の人が創作したものであり、家康公の遺訓ではない。日光東照宮付近ではこの格言を表装したおみやげ物の数々が売り出されていたが、しかし徳川家康の生涯とはまさに「忍従」の一生だったわけで、「忍耐」が家康公の精神的支柱であったことを象徴的に表現した言葉としては抜群で
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<![CDATA[ <span style="color:#000000"><br /><br />　有名な格言に、「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し、いそぐべからず。」というのがある。徳川家康の言葉として伝えられているが、これは後世の人が創作したものであり、家康公の遺訓ではない。<br />日光東照宮付近ではこの格言を表装したおみやげ物の数々が売り出されていたが、しかし徳川家康の生涯とはまさに「忍従」の一生だったわけで、「忍耐」が家康公の精神的支柱であったことを象徴的に表現した言葉としては抜群である。<br />この格言が家康公の遺訓として根強く出まわってしまうのも仕方がないのかもしれない。<br /><br />　家康は小牧・長久手の役の後、秀吉に十分に反抗できる戦力を保持しながらも天下への望みを断ち、辛抱強くも秀吉に臣従し、その後、秀吉から「つねに律儀な内府殿。」と言われるぐらいに深い信頼を得ていた。<br />詮ずるところ「律儀さ」と「忍耐力」は表裏一体なのである。この「強靭な耐性」は家康の嘱望を成就させるための重要な鍵の一つであったろう。<br /><br />　<br />　さて、その徳川家康が関ヶ原合戦において西軍を一戦にして壊滅させ、その年の十月一日、西軍の首謀者として捕らえられた石田三成、小西行長、安国寺恵瓊らは首かせをはめられて大坂・京の街を散々に引き回され、六条河原で斬首の上、華やかな人々の往来する京の三条橋の際にその首をさらされた。<br /><br />　石田三成・小西行長の伝記によれば、この二人は統制好みの質実な官僚肌だったようである。<br />　石田三成は生前、<br />「御公儀の金銀を無駄に費やすことは盗人も同然である。」と言い放ち、実際に関ヶ原での戦いの後に東軍が三成の居城である佐和山城を攻め落とした際に蓄財の形跡は全然見あたらなかったと云われる。<br />　小西行長も財産が全く残っていなかったので、これを伝え聞いた堺の町人たちが、<br />「二十四万石の領主でありながら金銀の蓄えが費えてしまうものか。さてさて武士とはつまらぬもの。」と言って笑ったという逸話がある。<br />　この世の富を享受して栄華を極めることを無上の喜びとする商人たちから見たらそうなのかもしれないが、しかし私は大名でありながらも質実で清廉な小西行長の魂を買わないわけにはいかない。<br />　古代中国の蜀漢の諸葛孔明は宰相の身でありながら残された財産といえば公務に必要なわずかな金銀と、その家族たちが暮らしていけるだけの痩せた桑畑のみであったという。<br />　現代の高級官僚たちは平気で税金を貪り荒らし、貪欲と思えるほどに蓄財に励む一方で汚職まみれという体たらくぶりであるが、石田三成・小西行長の爪の垢でも煎じて飲み、諸葛孔明の姿を後学の鏡とすべきであろう。汚吏・汚職の蔓延が亡国の兆しであることは歴史が如実に証明していることである。<br /><br />　家康の質実も実に有名で数多くの逸話があるが、こちらは質素がかなりこうじすぎてケチな倹約家だったと批評する書物も多い。<br />しかし家康は十九歳前後の頃まで人質生活を送り、その後は織田信長の為に膨大な軍費を消耗させられたのだから家康ほど金銀の捻出に困らされた大名はなかったのである。<br />金銀のありがたみが骨髄に染み付いていたのであろうし、金銀の欠乏による恐怖心が精神的なトラウマの反動となって異常と思えるほどの倹約的な質実による莫大な蓄財を生み出したのであろう。<br />　家康は莫大な財産を残した人物であるが無駄な費えはいっさいしていないのである。<br /><br />　直江兼続も実に質実な人物だったようである。<br />　<br />　会津の上杉家は関ヶ原役の後も最上家・伊達家との戦闘を依然として継続し、翌年の慶長六年の七月まで抗争に及んでいる。<br />　徳川家の重臣である本多正信が仲介役となって上杉景勝との和睦交渉が始まり、その年の七月二十四日には景勝・兼続は上洛して伏見に入っている。<br />　上杉家は三十万石に減封されて米沢に入ることになるが、景勝はその内の六万石を兼続に与えている。<br />　兼続は直江家の為に五千石だけ残し、五千石を部下たちに分け与え、残りの五万石は同僚や将士に分与したと云われる。清廉な政治家だったのである。<br /><br />　当時の米沢の人口は六千前後、戸数は八百前後であったというから小さな城下町だったようだ。<br />　兼続はここで抜群の民政手腕を発揮して大なる功績を残す一方、農民には奢侈を徹底的に戒めている。兼続自身も驚くほどに簡素・倹約的な生活をしていたらしく、<br />「副食品などは一品で十分である。」といって食膳はつねに質素であったと云われる。<br /><br /><br /><br />著者ＨＰ　http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/<br />メールアドレス　hokenpuro@yahoo.co.jp　</span> ]]>
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<dc:date>2009-10-07T14:29:08+09:00</dc:date>
<dc:creator>不如帰の幻影</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
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