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覇王豊臣秀吉と奥州の覇者伊達政宗

秀吉は関東八州の北条家を屈服させ、奥州の独眼竜で有名な伊達政宗もその軍門に下した。

政宗については以前に詳しく書いたことがあるが、
政宗は天正17年に摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)で芦名・佐竹の連合軍を撃破し、その勢いに乗じて芦名家を攻め滅ぼしてその領地をも奪い取り、
会津の地に居城を移して奥州での覇者としての地位を獲得していた。

秀吉が天正14年に、奥州惣無事令を発令し、諸大名の間での私闘・私戦を禁止していたにも関わらず、である。
しかも、芦名・佐竹は以前から秀吉によしみを通じており、
摺上原の戦いも詳しく調べると政宗の挑発によるものだったのだ。

 野望心の旺盛な政宗は、北条家に通謀して協力を約束し合う一方で、秀吉と親しい前田利家、浅野長政、羽柴秀次などにセッセ、セッセと貢物を送って取り入るという練ぶりである。
万が一の時に、彼らから秀吉を説得させる為であることは、いうまでもない横着ぶりである。

 くせ者に加えて横着者の政宗は、その片目をギラリと光らせて、秀吉の北条家征伐の成り行きをジィ・・・・・・、と眺めていた。
政宗と懇親を結ぶ秀吉配下の者たちから、
「早々に上方におのぼりあれ。」と、参陣を促す急使もしきりにやって来るのであるが、しかし、政宗は慎重にすぎるほどに全然動かない。戦況をじっくりと見極める腹積もりなのであった。

 とにかく、こんなわけだから、政宗の小田原参陣はずるずるとのびてしまった。
また、こんな状況の中で、奥羽の諸大名らは続々と秀吉の元に出向いて参陣し始めてしまうし、
「上方の軍勢は厖大に加えて勢いあって士気さかん、北条方は全くの不利。」との間諜の報告が政宗の元にひんぴんと入ったりする。

さすがに政宗も悩んでは迷った挙句に、老臣らと相談することにした。

 この時の事として逸話をひとつ。

 政宗は老臣らに意見を求めるが、衆議は、今からの参陣では遅すぎるといい、伊達成実は徹底抗戦を主張し、これに賛同する者も多かったが、
伊達の知恵袋で有名な片倉小十郎影綱は何一つ発言をしない。
とてもねむたい顔つきで、時々かすかにあくびなどを見せながらただ黙々と座っているばかりであった。

そしてその深夜、政宗が小十郎の家を訪れると、
「おいでになられると思っておりました。」と、小十郎はにっこりと笑って言った。
「そちが、なにも言わないので、とても気がかりだったのだ。」と、政宗は静かに言い、さっそく今後の進退を問うと、小十郎は扇子をゆるゆるとあおぎながら、
「食膳のはえは、ほんとうにうるさいものですなぁ。何度となくうちはらっても、すぐに集まってくるものでしてなぁ。」と、本当にうるさそうな感じで言う。
政宗は思わずハッとして、この時に小田原参陣を決意したのだという。

  おそらく、この逸話は事実であったろう。

片倉小十郎影綱は後年、秀吉からスカウトされるほどの人物なのである。小十郎は秀吉のスカウトを丁重に断っているが、秀吉からその才能を愛されるほどの逸材の人なのである。

 時勢を読む洞察力は抜群なのだ。



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【2016/01/03 01:47】 | 未分類 | コメント(0)
コラム 秀吉の唐入り(朝鮮陣)は、無分別で身のほどをわきまえぬ愚行だったのか? 2

 さて、秀吉の外征、つまり有名な「秀吉の朝鮮役」についてだが、しかし、そもそもこの名称自体がおかしいのである。

誰がこんな名称をつけて流布させたのかは知らないが、いまだに学校の教科書などにもしっかりと「秀吉の朝鮮役」と記載されており、
歴史の素人が朝鮮役と聞いたら、秀吉は朝鮮半島の占領が目的だったように思ってしまうであろうし、
そもそも、戦前は「秀吉の唐入り」と教えられていたはずなのである。ちなみに、私の祖父は帝国陸軍の軍人で、戦中は満州の関東軍に所属し、
戦後は無事に日本に生還して後に中学校の教師をしていたが、祖父との時折の会話の中で、「秀吉の唐入り」と言っていたのをはっきりと記憶して覚えている。

 しかし、まぁ、ともかくも、秀吉の戦略的な目標は朝鮮半島ではなくて、大陸の明にあったことを我々は忘れてはならないであろう。
秀吉は明の征服を念願し、東南アジアを含む遠大な貿易立国構想とも想えるほどの具体的な目標を持っていたのである。

 秀吉は将来的に日本を任せ預ける武将、朝鮮半島を支配させる武将などを具体的に選定し、日本の天皇家を北京に招致して大陸支配の象徴とし、
秀吉自らは寧波(ニンポー。中国,浙江省の,東シナ海に注ぐ甬江(ようこう)の下流に臨む河港都市。
遣唐使船や室町幕府の勘合船が寄港するなど,古くから対日貿易港として栄えた。ねいは。 )に居を構えて東アジア全体を統治・統括して総覧するという壮大な政治的目標があったのである。

朝鮮半島は明に入るための通り道だったのであり、朝鮮は戦略目標ではなくて、単ある戦術的な目的の用に供するための目標に過ぎなかったのである。

 しかしながら、秀吉は朝鮮半島で惨敗した。秀吉の雄大で壮大な作戦計画は緒戦でとん挫したのである。ゆえに、後世の批評家たちから痛烈な非難を浴びることになった。

 失敗の原因は山ほどあるが、最たる要因は、敵情認識の甘さであろう。

 秀吉は、朝鮮のことを対馬の属国ぐらいにしか考えていなかった節があるし、大陸の明国に関する生産力・軍事力などに関しても無頓着もいいところだし、
兵站や補給路の確保なども出たとこ勝負のようないいかげんなものだったし、生命線であるはずの制海権までもを明の水軍によって何度となく奪われている。

確かにダラシガナイ戦いぶりで、「本当に、本気でやる気があったんかいな?」
「秀吉はボケてたんじゃないのか?」と感じさせるテイタラクぶりである。

 大陸の情報に精通する小西行長などは、秀吉につき合いきれなくなって、朝鮮半島での進軍途上で明軍に利敵し、しかし逆に内兜を見透かされて大損害を被り、
そのあおりを受けた日本軍将兵らはチリジリになって窮地に追い込まれたりしている。
有名な碧蹄館の戦い(文禄2年1月26日(1593年2月27日)に朝鮮半島の碧蹄館(現在の高陽市徳陽区碧蹄洞一帯)周辺で、平壌奪還の勢いに乗り漢城(現ソウル)めざして南下する提督李如松率いる約20,000の明軍を、小早川隆景らが率いる約20,000の日本勢が迎撃し打ち破った戦い。)になったのも、これは、元々が小西行長の厭戦気分が原因といってよいのである。

また、石田三成や小西行長は、秀吉にいいかげんな情報を伝えて騙すことすらしていることは、この時代に詳しい方々であればすべてご存知のことであろうし、
秀吉の信奉者である加藤清正は、石田三成・小西行長の所業に業を煮やし、秀吉を騙して欺いていると信じてやまず、彼らを憎悪するまでになっている。

 しかしながら、諸史料によれば、豊臣家の主要なメンバーたちは早急の和平を強く望んでいたようであるし、そして現地で戦う将兵らも、戦闘による疲労・疲弊よりも、実際は食糧難のほうで苦しめられていたから、これでは厭戦気分になってしまうのも無理はないのである。

 ところが、この時代の国際情勢に着目すると、秀吉の偉大な志しが見えてくる。

この当時、日本の裏側では、スペイン・ポルトガルの国王であるフェリペ二世が海洋国家の大帝国構想を誇り、世界制覇を目指して大いに威張っていた。

 特筆すべきことは、秀吉はフェリペ二世と何度となく音信を結び合っており、贈り物のやり取りや、書簡を交わしていたことである。

さらに、秀吉はフェリペ二世に宛てた手紙の中で、
「貴殿とは、対等なのだ。」と、言い張っている。

これは、日本人の思考の枠組みを飛び越えて、世界にはばたこうとする兆戦のようにも想える、秀吉の毅然とした態度が感じられ、ひじょうに近世的な発想であったともいえるだろう。
当時の西欧諸国は大航海時代の幕開け、飽くなき膨張主義の全盛期だったのだから。

 したがって、秀吉の思考力は、その時代の最先端を走っていたともいえるであろう。


 ちなみに、大陸の明は秀吉の病没後、四十数年後には小国の金(清)に滅ぼされている。

 徳川政権下の家光の時代に、明の急使が日本に救援を求めるためにやって来たが、全然相手にされず、アッサリと断られている。



 
【2015/12/22 23:14】 | 未分類 | コメント(0)
コラム 秀吉の唐入り(朝鮮陣)は、無分別で身のほどをわきまえぬ愚行だったのか? 1

 秀吉に関する諸書を数多く読んでいると、その前半から中盤まではベタホメばかりが長々と続いて、秀吉の事績を散々持ち上げるだけ持ち上げておいて、
しかし後半の唐入り(外征)のところあたりでドカリと蹴落とし、痛烈な誹謗中傷に一変する。

秀吉はボケていた。長年の疲労でモウロクした。心労がこうじて発狂した。躁うつ病を患っていた。異常な誇大妄想につりつかれた。領土欲の権化になった等々、それまでの輝かしい称賛から一転して痛烈な非難に早変わりする。

これと同じ現象が、日清・日露戦争と大東亜戦争とを比較した批評本の中に数多く登場する。

明治・大正の政治家や軍人たちはとても優秀だったと持ち上げてから、昭和初期の政治家や軍人たちはダメだった。先を読めない人たちだった。身のほど知らずであった等々、こちらも痛烈な非難へと大暗転する。

 確かに、秀吉の外征も、大東亜戦争も、結果的に戦略・戦術的な暴挙に陥ってしまったことは事実であろう。両方ともに、結果的に散々たるアリサマだったのだから。

 だが、こんな論議であれば誰にでもできる。結果論からいえば、なんとでも言えるはずだ。

 結果論から検証する逆算的な視点は、歴史を検証し直すうえで必要な作業であり、非常に優れた手法ではあるが、しかし、我々が歴史を考察するために最も重要なことは、

「その民族国家の歴史的な伝統(歴史的な流れ・背景・風習・習俗・特性・特徴・哲理・哲学・宗教など)はどのようなものだったのか?」

「何をしようと考えていたのか?どのように対処するつもりだったのか?」

「取り巻いている国際情勢はどうだったのか?」「なぜ成功し、なぜ失敗したのか?」といったような歴史を教訓として深く学び取り、そして、広い視野をもって史料を詳しく検証し、その経緯を深く考察することであろう。

成功をホメちぎり、失敗をけなすことばかりに終始するようでは、これでは少々お粗末にすぎる。


 私見を書くが、日清・日露戦争ほど、無分別で身のほど知らずな愚行だった戦争はない。これこそ、とんでもない戦略的な暴挙だ。

当時、清・露の両国ともに超大国であり、軍事力・生産力ともにずば抜けて絶大であった。
一方の日本は総力を挙げての全力戦で、日本の国家財政はパンク寸前、しかし、相手両国は一方面軍を主力とする限定的な局地戦でしかなかったのである。

しかしながら、清・露ともに内政事情はガタガタ、米・英は親日派、日本は国際間での停戦や終戦の手助け役にも恵まれていたのである。

したがって日本の勝利は、これは国際情勢が幸いしたからであって、戦略的な見地に立って考えてみれば日清・日露戦争はとんでもない暴挙であったし、
実際に日露戦争のときは、必ず勝てると確信していたのは軍の参謀本部だけで、当時の政治家・軍人・民間人の多くが敗戦を予感し、戦況を非常に心配していたのである。

 話しがそれて誠に恐縮ではあるが、東洋思想家で経営コンサルタントの田口佳史先生によれば、
江戸時代は四書五経(儒教の教典で重要な9種の書物のことで、四書とは、「大学」「中庸」「論語」「孟子」、五経は、「詩経」「書経」「礼記」「易 経」「春秋」)を中心とする人格教育が行われており、
そのおかげで人格・見識ともにひじょうに優れた逸材の人物を数多く輩出したが、
明治政府が国民皆学を目指して明治5年に施行した学制によって、人格教育から技能教育中心になってしまい、その結果、知識一点張りの視野の狭い、道義心を欠いた、見識に問題のある人々が続出したと言っている。

同感である。

確かに、日清・日露戦争の頃の日本の政治的な主導者たちは、江戸時代の教育を受けた人々であり、ひじょうに大局的な思考に優れ、道義心のある教養人が多かったが、大東亜戦争の頃の首脳陣は、明治政府の技能教育を受けて育った人たちだ。

また、当時は日本のまわりの中国・東南アジアのほとんどすべての国々が西欧諸国・アメリカの植民地となっており、
帝国主義を推進する列強諸国の植民地支配の回避を狙う日本としては富国強兵を目指していたという事情も確かにあった。

ゆえに、早急の富国強兵を実現するためには、優秀な官僚を養成する必要があったので学制を施行したわけだが、
しかし皮肉にも、このシステムは現代も生き続けており、現在の教育界をむしばみ、官僚の汚職・腐敗を誘発し、規範意識の退廃が社会を大きく混乱させている。


話しがそれて本当に申し訳ないのだが、現代社会に生きる我々は、もう一度、江戸時代の人格教育を想い出して励行する必要があるのではないだろうか。


【2015/12/18 22:24】 | 未分類 | コメント(0)
秀吉の関東征伐 乱世の英雄・北条早雲の幻影 北条家戦国興亡記 8

 さて、智謀雄略の黒田官兵衛は誠心誠意、親身に、懇切丁寧に北条氏政・氏直親子を得々、切々と説き伏せ、降伏して開城するように促したのであった。

 そして、北条家はついに官兵衛の言葉に従って開城を決意し、叛逆者の北条家の宿老である松田憲秀を血まつりに上げて惨殺し、
その後に豊臣家に屈服して降伏したのであるが、これは、初めから徹底抗戦をあくまでも主張し続けていたはずの、あの松田憲秀が、あっさりと裏切っていたことによほど腹に据えかねてのことであったろうが、しかし、秀吉はこの行為を理由に北条家を取り潰してしまったという説がある。

近年の諸説では、秀吉は北条家の取り潰しは以前から織り込み済みで、
松田憲秀、大道寺政繁などの宿老たちへの切腹命令は、これは、彼らの恥知らずと思えるほどの所業の数々に対する見せしめの為であるとか、
北条の宿老としての責任を取らせるために切腹させる必要があったとか、いろいろと意見の分かれるところであるが、
しかし私見では、松田憲秀は北条方の強烈な圧力によって殺されているように思うのである。確証はないが、海音寺潮五郎先生はご著書の武将列伝の中で書いている。

 ともかくも、北条氏政、氏照、大道寺政繁らは切腹を申し付けられ、氏直は辛くも許されて高野山に配流と決まったのである。北条氏直は家康の娘婿なのだから、秀吉が配慮、遠慮して助命したのであろう。


 後北条家の始祖、北条早雲公はまさに戦国乱世の風雲児であった。早雲の出現をもって、室町時代から戦国時代へと時代区分する学説がたくさんあるほどだ。

 北条早雲がまだ伊勢新九郎と名乗っていた頃は、彼は徒手空拳の流浪の民同然の身の上であったが、
数多くの友人たちと明日を語り合って固い絆を結びあい、皆々と将来を約束し合って、
「この中の誰かが、いずれ大出世したら、残りの俺たち全員がその者の家臣になって大いに盛り立てていこう!」と誓い合い、頑迷固陋(がんめいころう)の門閥の世相であるにも関わらず、
血みどろの戦いの中で粉骨して縦横無尽に奮闘努力し、
やがては竜虎の昇天するが如くメキメキと頭角を現してたちまち相模を平定し、その後の関東制覇の礎を築いた乱世の英雄であった。

有名な大道寺政繁の大道寺家は、勇躍して飛竜昇天する伊勢新九郎を当初から盛り立て支え続けた親友の末裔である。

また、早雲が高僧から六韜三略の教授を受けた際に、とてもうんざりして、
「もう、よい。そんなことなら、わしは、とうの昔に知っている。」といって、片手をあげて講釈をさえぎったという逸話は、実に有名だ。

 たぐい稀な英知と勇武知略・武勇絶倫の早雲公は、血みどろの逆境を何度となく乗り越え、苛烈極まる戦国乱世に勇名を轟かせたのだ。
そして、その息子の氏綱も、孫の氏康も、熾烈で激烈な阿鼻叫喚の生き地獄の乱世を生き抜いて、ただ後北条家の繁栄をひたすらに願い続けながら血みどろになりながら家中をまとめ上げてきたのだ。

 その艱難辛苦のほどは、想像を絶するに余りあるであろう。


 ところが、北条家は氏政の時代の頃になると、お国自慢ばかりに終始し、時勢を読む目も、大局を推し量ることも、上方の情勢に関心を示すこともないのだから、これではまるで話にならないのである。

 北条氏政について調べると評判の悪い逸話だらけなのであるが、真偽のほどは定かではないのだが、おもしろい逸話があるので少々ご紹介したい。

 氏政が父の氏康と食膳を共にしたときの出来事。
氏政が湯漬けの飯に汁をかけるのだが、何度となく汁をかけて食べていた。それを見咎めた氏康は、
「毎日のように食べている、たった一杯の茶碗の飯にかける汁の分量すらわからぬのか?
こんなことでは、とても国政や軍事のことなど、到底おぼつくまい。北条家も、わしの代でおしまいか。」といって嘆息し、涙をこぼしたという。

  次は、氏政と武田信玄が同道したときの話し。
北条と武田が共同で松山城を攻め落とした後に、氏政と信玄が馬を並べて道を行くと、ちょうどその時に、大量の麦を積んだ馬車が通りかかった。
 それを眺め見た氏政が急に、もの欲しそうに、
「腹がへって、麦飯が食べたくなった。ここで少し休息して、麦飯を食べよう。
あそこの馬車を引く農民に頼んで、麦を少し分けてもらってくるがよい。」と、側近の者たちに命じた。

氏政の側近らはモジモジして困っていると、信玄はわざわざ氏政の近くにまで馬を寄せながら、
「さすが、北条殿は大国のお生まれですな。大変におおようで、まことに喜ばしく結構なことではございますが、
しかし麦飯となりますと、少々時間がかかりますぞ。
麦をこいて、こなしては乾かし、その他にも手間取る作業をいくつもして、水で煮るわけですから、食べるころには、日もとっぷり暮れておりましょう。」と、麦飯の作り方をいちいち丁寧に教えて言った。

それを聞いていた氏政の側近の者たちは、爆笑をこらえるのに苦労したという。

 以上の逸話の真偽は、先ほども書いたが定かではない。
しかし、お坊ちゃん育ちの氏政と、苦労人の武田信玄公がまことに対照的な逸話なので書いた。

信玄はもちろんのこと、信長、秀吉、家康、謙信、政宗、その他の当時の英雄たちなら、農民が川のタニシを食べることまで当然知っていたであろう。

 当時の英傑たちは、必ずといっていいほどに決まって民情を知り尽くしている。

 とても残念なことではあるが、北条氏政公は、英雄ではなかったようである。



【2015/12/10 23:50】 | 未分類 | コメント(0)
秀吉の関東征伐 名将黒田官兵衛の智謀 北条家戦国興亡記 7

こうして、徳川家康は忠誠無私の精神で徹底的に従順なまでに秀吉に惜しみなく尽くし切り、北条家をあくまでも敵として決めつける態度は首尾一貫していたのである。

家康は流言・飛言などに全く動じることもないのだから、必然、徳川と親戚関係にある北条家は失意ぼう然であった。

しかも、奥州の伊達政宗が秀吉に帰服したことを知るに及んで、ついに息も絶え絶えの状態となり、小田原城内では、「しょせんは亡国」の気運がみなぎり、厭戦気分が大充満の状態と成り果てたのであった。

そのような折に、秀吉は小田原城内の様子を見透かして、弁舌にたける黒田官兵衛を城中に送り込む。

通説では、秀吉は最初、家康が適任であると思い、徳川に使者を送って相談したのであるが、
「北条家は親戚筋なので、かえって埒があかないのでは。。。」と、家康は丁重に断ってきたので、その後、黒田官兵衛に相談すると、
「それでは、拙者がつかまつりましょう。」と言って引き受けたことになっているが、しかし諸書を丹念に調べると、秀吉はまず、内々に官兵衛に相談していたように思われる。
そして、官兵衛は秀吉の提案に対して、内心、
「徳川殿は、おそらく、引き受けないに違いない。」と思いながらも、しかしとりあえず秀吉に同意したふりをして、その後、家康が断ってきたら官兵衛自身が引き受けるつもりでいたのではないかと思うのである。

なぜなら、官兵衛は「これは、自分こそが適任である。」と自負していたようであり、したがってこの引き受け方はとてもまどろっこしくてひじょうにまわりくどいのだが、
しかし、この時期の秀吉と官兵衛との関係は昔年の面影はなく、ひじょうに微妙な間柄になっていたのだ。

 官兵衛は秀吉の猜疑心をかわすことにやっきになっている時でもあり、事実、この時は隠居を請い願って認められていない状態だったのだ。

官兵衛の智謀知略が、官兵衛の功名と威勢が、秀吉の猜疑心をくすぐり、竜虎のように恐れさせているのだとしたら、ここは、どうせ引き受けるなら、ワンクッション置いたほうがとても賢いやり方なのである。


 さて、官兵衛はまず、酒と肴を小田原城内へ贈り届けるのであるが、
その答礼として小田原城からは鉛と弾薬が送られてくる。この答礼のメッセージの解釈は黒田家中でいろいろと分かれるところであったが、しかし、官兵衛の狙いはそんなところにはない。

官兵衛はさっそくその返礼を口実として、酒2樽、鱧や鮎などの粕漬け10尾をたずさえ、涼しげな肩衣袴(かたぎぬはかま)で刀も持たずにサラサラと城内へ入っていき、北条氏政・氏直父子と対面して懇切に説得する。

官兵衛の弁舌は実にさわやかで、ひじょうに説得力があり、あまりにも見事に誠実味あふれるものであったのであろう、北条父子が官兵衛に感謝して日光一文字の太刀と吾妻鏡を贈ったと云われる。


 ここで私見を書くが、関東八州の北条家の石高は250万石以上であり、最大で10万の兵力を動員できると云われており、秀吉は1~2年の長期戦になることを覚悟していたようである。
私は神奈川県に住んでいるが、以前、さいたま県の上尾市に所在したことがあり、暇をみてはドライブ気分で遠方にまで足を運んで、行田市、館林市ともに車で訪れたことがある。
その時に、
「こんな遠方の場所まで、北条方だったのか!」と驚嘆したものである。

確かに、地図上では小田原からの距離はたいしたことはないが、しかし、実際に自分で上尾市から移動した距離と、小田原から上尾までの距離を重ね合わせた実感は、ずいぶんと果てしなく遠方にきたように感じたのである。

 しかも、私の移動手段は車や電車だが、戦国時代の当時は、移動手段といっても馬を使える身分の者はごくわずかで、兵士のほとんどが徒歩だったし、
道路は未整備な状態がほとんどで、細いクネクネ道を登ったり、くだったりして歩いて移動していたのだから、当時の人々であったらその実感は、さらにいっそううわまわるものであったはずであろう。

これに加えて箱根の峠、碓氷峠を越えることを考えたりした日には、ゾッとする。

 この秀吉の関東征伐を書くにあたって、日本地図を見ながら豊臣の勢力範囲と、北条家のそれとを見比べると、
「やはり、北条家は井の中の蛙だったのだ。」と、軽くあしらいがちになるのだが、上述したような実感を想い出すとき、関東八州を押さえていた北条家が、
「持久戦なら、必ず勝てるはずだ!」と思ってしまうのも、無理はないのではないかと、つい、考えたりもする。

 歴史を語るうえで、地図や史料ばかりだけではなく、自分自身の体を動かして、目と手足と頭を使った実体験も必要なのだと、あの時の実感を想い出して痛感したしだいである。



【2015/12/03 16:06】 | 未分類 | コメント(0)
秀吉の関東征伐 徳川家康の遠謀深慮  北条家戦国興亡記 6

 さて、秀吉は北条方の仕掛ける流言(離間の策略)などはサラサラと受け流していたのであるが、しかし、豊臣勢の将兵らの動揺は全軍の士気に関わる重要な大問題なのだ。
ここは、秀吉としては泰然自若と振る舞わなければならない重大な正念場だったのである。

 もっとも、史料・諸書によれば、一流の政治手腕に加えて天真爛漫な秀吉は、さすがは大度量の持ち主、人間心理の洞察に鋭い心術の達人であった。
ものの見事に流言などは忘れ去ったかのように平然として、時には小姓を一人連れて徳川家康・織田信雄の陣屋に出向いて楽しく談笑している。
この光景を見咎める諸将はいぶかしく思い、突発的な変乱の勃発などの心配もするのであるが、しかし、秀吉はそんなことは全然お構いなしといった感じで酒宴などを開いて、徳川家康・織田信雄と楽しく歓談する。
このようなことは一度や二度のことではなかったので、これを伝え聞いた将兵らは安心して胸をなでおろし、流言はいつのまにか封殺されたのであった。

 疑えばいくらでも疑えるところを温かく包み込んでしまうところ、秀吉の人物としての器量の大きさ、推して知るべしである。

 一方、徳川家康は以前から秀吉の猜疑心を警戒して、涙ぐましいほどに用心に用心を重ねており、
秀吉の小田原征伐の三か月ほど前には三男の長丸(後年の徳川秀忠)を大坂に人質に差し出している。これは、徳川と北条家は親戚なのだから、秀吉に疑念でも抱かれたら大損だと踏んだのであろう。

この時、秀吉は大喜びして、長丸に「秀」の一字を与えて秀忠と名乗るように伝えて、長丸との対面の折には、きらびやかで鮮やかな装束衣装を与えてその場で着替えさせ、そして、長丸を人質として大坂にとどめ置くどころか、すぐに家康の元に送り返したと云われている。
遠謀深慮のはびこるせちがらい乱世ではあるが、秀吉と家康との心温まる交情の感じられる好場面でもあろう。

 また、秀吉が主力部隊を率いて小田原に向かう途中、家康はあらかじめ領内の城々をきれいに清掃し、豊臣勢の要請があれば惜しみなく城も兵糧も補給物資も提供できる体制を整えていたという。

後年、秀吉が小田原を征伐して上方に向かう途上で徳川の駿府城に入った際にも、家康は盛大に歓待しているし、豊臣勢の通過しそうな道々をあらかじめ修理・整備し、領内の道中で宿泊しそうな所々には事前に宿舎まで建てておいたというから、これは本当に無尽の忠誠ぶりなのだ。
ここまで私心を捨てて尽くし切れる態度は尋常ではない。徳川家康の鍛え抜かれた耐性には、本当に驚くべきものがある。以前にも少し書いたが、この「耐性」は、家康の嘱望を成就させるための重要なカギの一つであったろう。


 ところで、この時の出来事として逸話がある。

 秀吉が駿府城に到着し、家康に手厚く出迎えられて歓談していた際の出来事。

 秀吉が家康の心づくしの接待を受けて、その饗応の数々に大満足していると、以前に秀吉の母親(大政所)を焼き殺そうとまでした、例の本多作左衛門重次がだしぬけに荒々しい態度で現われて、

「やぁ、殿。国主がすべての城を引き渡し、他人に明け渡して貸すなどということは、これはまさに前代未聞のことでござるな!
このようなありさまでは、他人(秀吉)が殿の奥方を貸せと申したなら、殿は、さっそくもってそうなさるのですかな?ばかばかしい、とても見られたものじゃない!」と、怒声を放ち、いきり立ちながらその場から立ち去って行った。

家康はまったく色を失い、閉口し、返す言葉も失って、しばらくして弁解ともつかない口調で秀吉に謝った。秀吉もあっけにとられていたが、

「徳川殿は、徳川思いの良い家来を持たれて幸せ者じゃ。」と言って、腹を立てるどころか逆に家康を慰めたという。


 遠謀深慮の家康も、この時ばかりはさすがにずいぶんと困ってイライラしたことであろうが、

しかし、「鬼作左」で有名な本多作左衛門重次は生粋骨髄の三河武士なのだ。

 鬼作左は徳川大事、お家第一主義者だったのだから、憤慨していきり立つ気持ちも、分からなくもないのである。



【2015/11/26 21:15】 | 未分類 | コメント(0)
秀吉の関東征伐 風魔党の暗中飛躍 北条家戦国興亡記 5

 さて、小田原城に籠城する北条方は全くの孤立無援となり、その将兵らは青息吐息の状態と成り果ててしまったのであるが、
しかし、北条家は一事が万事、全く手をこまねいて何もしなかったというわけではない。

諸史料によれば「離間の計」、つまり、流言による内部分裂を誘うという策略を用いている。

この謀略は侮れない。

古来より勇名をとどろかせた古今東西の英雄たち、いや、いや、現代社会の政治家や企業のトップ集団までもが、必ずといっていいほどに決まってこの計略によって九死に一生の窮地から生きながらえて、そして、難なく敵対する諸勢力をことごとく滅ぼしている。
以前に書いたことがあるが、戦国時代においては毛利元就の権謀術数は達人の域を極めており、特に離間の策略はひじょうに卓抜な練れ者であった。思い出して頂きたい。

 北条家には有名な「風魔党」という諜報に優れる部隊もいたわけで、このような北条家存亡の緊急事態に使わないということはないのである。

 風魔党というのは、史料の北条五代記、新編武蔵風土記稿などに詳しいのであるが、しかし、史料の信憑性に疑わしい点が多々あり、その実態についてはよく分かっていないのが実情である。
 
 風魔党は、足柄山の麓の風間谷付近(現在の小田原市風祭のあたり)を本拠とし、後北条家の創始者である伊勢新九朗長氏(北条早雲公)を影ながら支援し、その後の北条五代の繁栄を下支えし続けた一党であるという。

 風魔といえば、伊賀や甲賀と同じような忍者というイメージがあるが、しかしどちらかというと、秀吉の大出世を当初から支え続けた美濃の蜂須賀党(小六で有名。蜂須賀正勝)に近いのかもしれない。

風魔党は、希望にあふれ勇躍する徒手空拳の伊勢新九朗長氏を影に日向に助勢し続けて大なる功績を残しており、
後年は1546年(天文15年)の川越夜戦や、1580年(天正8年)の黄瀬川の合戦などで戦功を上げている。

 もっとも、風魔や伊賀も甲賀も蜂須賀も、元々は氏素性の分からない山賊のような集団であり、強盗・暗殺・縷言・諜報・略奪暴行などを生業としており、乱世においてはひじょうに重宝がられる存在であったが、
動乱の時代が終息に向かいつつある過程において、蜂須賀は大名になり、伊賀・甲賀は大名の家臣となっていくのであるが、
しかし、風魔党は後北条家のみを善とし、江戸時代の頃には以前の状態に逆戻りして盗賊になったと云われている(異説あり。確証はない)。

 さて、豊臣勢は関東で長期に渡る攻城戦を展開中であり、京都・大阪などの上方の情勢や西国に関する情報は不明瞭で曖昧だったはずなのだから、ここは風魔党を使って流言・飛語を流行らせる絶好の好機であったろう。

様々な史料や諸説を検証するに、徳川家康と織田信雄が叛旗して秀吉を暗殺するという流言がまことに多い。

これは、小牧・長久手の戦いからそんなに間がないので当然ともいえるが、しかし、豊臣家の首脳陣内部ではかなり深刻な時期もあったようであり、
石田三成は当初から家康を警戒し、自ら出馬して小田原に向かう秀吉を強く諌めている文献も散見する。

 しかし、秀吉はおそらく高笑いして、うわさ話と軽くあしらって聞き流していたことであろう。

 織田信雄は別として、家康はそんな狭量の人物ではないのである。
秀吉はそれを十分すぎるほどに分かっていたであろうし、織田信雄にしても、いくらなんでもそんなバカげたことをしでかしてしまうほどのアホウな人物ではないし、
だいいち、いくら戦国乱離の時代だからといって、暗殺などという手法を使ったことが世間に広く知れ渡ってしまったら誰からも相手にされなくなってしまうのがこの当時の風潮なのである。
 
暗殺は当時、タブー視されていたし、武士道はこの時代には確立されていないが、しかし、「武士の恥」とする通念はあったのである。

 余談になるが、昔から斎藤道三・松永久秀の評判が悪いのは、このためだ。

 謀反した明智光秀の元に武将たちが集まらなかったのも、これが大きな要因になっている。


また、 「坂東武士は、主(あるじ)の上に主(あるじ)あるを知らず」というが、しかしこれは坂東武士に限ったことではない。

主(あるじ)の上に主(あるじ)あるを知ったら、封建制度は成立しないのである。

幕末になって、多くの人々が「主(あるじ)の上に主(あるじ)ある」を知り、つまり、将軍家の上に天皇あり、を認識しだしたので、
封建制度は崩壊して幕府は滅亡したのである(異説あり)。



【2015/11/20 16:04】 | 未分類 | コメント(0)
秀吉の関東征伐 「秀吉の一夜城伝説」は本当なのか 北条家戦国興亡記 4
 
秀吉は小田原城を重囲し、とても戦時体制とは思えないほどの雄大で壮麗な大遊園都市を作り上げて将兵らの士気を鼓舞したのであるが、
この壮大な壮挙を横目で眺めている北条家側はずいぶんと意気消沈したことであろう。こちらは悲壮感ばっかり漂わせながらむなしい評定を繰り返す毎日なのだから、これではすでに脈も上がったも同然なのである。

しかも、関東では北条方の城が次々と落城したり、すぐさま降伏して開城しているありさまで、
さらに、何度となく通謀して味方になってくれると期待していた奥州の伊達政宗が日和見を決め込んでいるらしく、援軍の急使を何度となく派遣してもノラリクラリと曖昧な返事をして態度を明らかにしないという横着ぶりなのだ。

そして、頼みの綱であった東北の諸大名らは、秀吉の威勢に驚き恐れ、こぞって秀吉の前に頭(こうべ)を垂れて帰服を申し込んでいるという始末なのだ。

 どうにもならんのである。

 こうして、北条家はガックリと肩を落とし、さらに胸をかきむしるような思いで籠城を続けていたのであるが、しかし運のないものはどこまでも運が悪いものだ、さらに追い討ちをかけるようにとんでもない事態が露見する。松田憲秀の謀反がそれだ。

 松田憲秀は北条家の重臣で、北条氏康の元で辣腕をふるうほどの重鎮であった。松田家はもともとが北条早雲の頃から仕える古い家柄であり、北条の宿老格であり、伊勢新九郎こと北条早雲公以来の後北条家を脈々と支え続けた名家だ。

 松田憲秀は歴戦の猛将であるが、しかし外交政策も実に巧みで鮮やかであり、経世家としての実力も抜群であり、ひじょうに柔軟性に富んだ人物であったように想われる。
松田憲秀は当初から小田原での徹底抗戦を主張していたが、しかし、すでに前述したようないろいろなこともあり、しだいにうんざりしてきて北条を見限る気になったのであろう、秀吉に内通して小田原城内の機密を漏えいしたり、北条家の重臣の寝返りに一役買っていたと云われる。
名人久太郎こと堀秀政の調略に引っかかって豊臣方に寝返ったという説もある。

 ともあれ、北条氏政・氏直親子はこの事実に戦慄し、はらわたが煮えくり返るほどに激怒し、松田憲秀を即刻捕らえて投獄したのであるが、
しかし小田原城内はお互いを疑い合い、やがて疑心暗鬼に陥るようになって厭戦気分のみなぎる状態に成り果ててしまっている。

 ほとほと嫌になって、嘆息する者も多かったであろう。

 この時の出来事として、有名な逸話がある。
 頑迷な北条家を見限った松田憲秀が秀吉の元に密使を送り、

「笠懸山にご本陣を置いてください。この場所から小田原城を眼下に威圧すれば、城内の将兵らは動揺し、いずれは戦意を喪失して降伏するは必定です。」と助言してきた。

秀吉はさっそく笠懸山を綿密に調査させる一方で、増田長盛、長束正家などに縄張りを命じた。
築城といっても、北条方をびっくりさせればよいわけで、本格的な城塞にする必要はない。セッセと杉の木を切り倒してはサッサと安普請の城を築きあげて、櫓などもテキパキとまたたく間に完成させた。

さらに、その城の外壁には杉原の白紙をびっしりと貼り付けたというからおもしろい。
翌朝に森林を切り払わせると、これを遠望する城内の将兵らは、

「昨日はあの山にはなにも無かったはずだが?さては魔法か、蜃気楼か?」と、度肝を抜かれての大仰天、大変な大騒ぎとなった。
だしぬけに姿を現した一夜城、いくら凝視しても実に立派な城にしか見えないのである。
城の石垣も整然と組まれているように見えるし、その外壁はまばゆいばかりに白く光り輝いている。

 この壮挙をまのあたりに眺め見た北条家はすっかり戦意を喪失し、真剣に降伏を考えるようになったという。


 ここで私見を書くが、神奈川県生まれの私は子供の頃から何度となく小田原城を訪れたことがあり、笠懸山も、もちろん知っている。
この、笠懸山は今は「白壁山」とか、「石垣山」と呼ばれているが、しかしこの呼び名はこの時代からのようである。元来は笠懸山だ。

 秀吉は笠懸山の城普請を完璧に完成させた後に、この城に移って本陣を置いたと伝わっているが、しかし今では少々の石垣を残すのみで、その城を想いしのぶにはほど遠い。

 また、上述した逸話は作り話の伝説にすぎないとも云われるが、現在の小田原城は関西の大坂城と同様に再建されて大きく作り変えられているので、敷地面積も、城塞の跡も、規模も大きさも大はばにずれている。
小田原城内での将兵らの大仰天ぶりを確かめようもないのが、とても残念だ。

 ちなみに、秀吉の一夜城伝説は、今回で四回目だ。

 初めは美濃の斎藤家攻略の足がかり、有名な墨俣での築城。

 次は鳥取城の兵糧攻め。

 その次は備中高松城の水攻め。

 今回の小田原の笠懸山で四度目である。

 もしも小田原城内に、秀吉の得意とする心理作戦である一夜城戦術を知っている者がいたら、これはもうバレバレの戦法なので、少しも驚かなかったに違いないし、かくいう私もそう思うし、きっとそうだったに違いないと想うのであるが、

しかし、まぁ、当時の交通事情もあり、当時の通信事情もあったりで、秀吉の一夜城戦術を知る者が一人もいなかったので、蜂の子をつついたような大騒ぎになっていたのかもしれない。



【2015/11/14 17:04】 | 未分類 | コメント(0)
秀吉の関東征伐 小田原の大歓楽桃源郷 北条家戦国興亡記 3
 
さて、長期に渡る持久戦では、攻め込まれた側は必死になって防戦に努めるので、どちらかといえば攻め込んだ寄せて側のほうが気分の緩みがちになるもの、厭戦気分が大充満するというものだ。

以前、小田原城は上杉家の大包囲網、厳重な重囲に遭い、その後、武田家からも攻城されているが、武勇絶倫の上杉謙信公も、勇武知略の武田信玄公でさえも、
武力戦による攻城の戦力の消耗を警戒してというよりも、長期の持久戦による将兵らの士気の低下を憂慮して攻城を諦めて引き上げている。

 しかし、「城攻めの大名人」の秀吉は、あらかじめこんな場合も考えてしっかりと手を打っている。小田原の陣中を大楽園都市にして、長期の持久戦に退屈する将兵らの気分を盛り上げたのだ。

 秀吉は遊びにかけても天才的で奔放、放埓とも思えるほどだ。
その陣中のいたる所で和歌、音曲、茶会、蓮歌会などを開いて大騒ぎして楽しんでいる。酒もかなり飲んでいたようである。
秀吉は陣中に淀殿を呼び寄せたりもしたので大変なにぎわいとなったし、諸大名たちも秀吉の許可を得て同じように真似をする。

しまいには戦時中でありながらも遊山を楽しむ者たちも現れて、陣中には遊女も大勢いたという。

徳川家の重臣である榊原康政がその陣中の様子を加藤清正に書き送った書状の中で、
「いたるところに屋敷が続々と立ち並びはじめ、所々では市場が開いている。良民や商人たちも続々と集まり、物資に不足なく、一生ここで過ごしても悔いはないと思えるほどだ。」と、言っている。

史料の北条五代記には、
「西国方面から兵糧を運んでくる大小の船が、常に数千艘も海に浮かんでおり、陣中は東西南北に小路を割って町作りし、大名たちの陣所は半永久的な館作りにして、書院もあれば茶室もあり、庭には竹木や草花を植え、陣屋毎にその周囲は菜園として、
うり、なす、ささげなどを作ってある。
また商店街もたくさんあり大盛況である。
全国各地の特産物もあり、中国や朝鮮の珍物もあれば、京・堺の絹布もある。食料なども穀物類から干物や生魚など、食べられるものであればなんでもある。

そして、遊女宿もあって、京都や各地の遊女たちが色めきあって客をいざない、海道沿いには茶屋があり、はたごやもあり、いっさい不自由なことはない。」と、その様相を詳しく書いている。

これでは、いくらなんでも北条家が気の毒だ。こんな攻められ方をしたら、精神的に参ってしまうのである。


しかし、もっとも、秀吉は諸将に厳命して油断なく厳重に北条方を監視させていたし、将兵らを絶えず督励して士気を鼓舞しているし、
その軍勢の配置変えにも細心の注意をはらっている。一部の部隊を割いて小田原城の出城を攻撃させたりもしている。

 秀吉公は未曾有の大軍勢を率いての総大将であり、その統率力、指揮能力は実に卓抜であり、
厳然と北条家と対峙し、しかしその陣中では厳粛になりがちな中ではちゃめちゃに愉快に楽しんでは遊び、その一方で抜け目なく仕事もきちんとこなしているのだから、豊臣秀吉公という逸材の人物は、本当にすばらしい。


 最後に少し余談を書くが、仕事は、「運・不運」、「むいている・むいていない」、「得意・不得意の資質」、「才能の有無」などを考慮して決めなければならず、
確かに「仕事選び」というものはとても難しいのであるが、
しかし、ひじょうに辛い逆境の中でも、なんとなく楽しく続けられる仕事であれば、おそらくそれが、あなたにむいている、一生続けられる仕事である可能性が高いように思うのである。

その仕事が、あなたの日常に楽しくとけこんで存在しているかどうかが、仕事選びのポイントなのではないかと思うのである。

 秀吉公もそうであるが、信長も、光秀も、柴田も、滝川も、その他の諸将たち、私の大ファンである真田昌幸公も、とても目まぐるしくて忙しい日常生活の中でありながらも、四六時中仕事のことを考えて、自然と熱中し、夢中に奔走して、
しかも、全然疲れを感じさせないのである。

これは、本当に心から仕事を楽しんでいたように想えるのである。


【2015/11/08 15:59】 | 未分類 | コメント(0)
秀吉の関東征伐 勇将一柳直末 北条家戦国興亡記 2

 また、北条家は小田原での籠城戦に備えて、ひじょうに珍しい方策を用いている。

 小田原城内に、関東八州の分国内に所領を持つ諸大名の当主をいっきに召集して、その諸大名らの持ち城には北条家直属の重臣や与力を派遣して防備を任せるという、実に風変わりな戦法である。

これは、ていのよい人質の意味もあるが、しかし、小田原が落城すれば関八州の諸大名らも一緒に運命をともにするという面白い作戦だ。
このようなわけで、北条家の分国内の将兵らは、当主の所在する小田原に豊臣勢を迫らせまいとして必死になって防戦するはずだったのであるが、
しかし運のない者はどこまでもツキがないものである。豊臣勢の先鋒部隊は濁流のように小田原に急迫し、運河の如く押し寄せるその軍勢がびっしりと黒み渡る幔幕を続々と張っていき、次々と陣地を構築しては次第に大地を埋め尽くしていくのだ。
秀吉もゆったりとした遊山気分で湯本の早雲寺に入っている。


しかしながら、秀吉もこの関東征伐の際に衝撃的な犠牲を強いられている。勇将の一柳直末の戦死がそれだ。

 一柳直末は美濃の豪族の生まれで、1570年の元亀元年の頃に秀吉に仕えて、織田家で奮闘する若き藤吉郎の大出世物語の裏方の立役者の一人であったといっても過言ではないぐらいの武将である。
後年は秀吉の黄母衣衆(親衛隊)となり、羽柴秀次の宿老としても有名である。

 秀吉は小田原での布陣の際に、小田原城の有力な支城攻略を諸将に命令しているが、一柳直末は羽柴秀次の右腕として伊豆の山中城攻めに参加して戦死したという。この報告を聞いた秀吉は、

「熊(一柳直末のあだ名。熊も恐れるほどの猛将の意)を失い、関東制覇の喜びもいっきに消え失せた。しかし、相当の激戦じゃったのだろうか。」といって意気消沈し、しばらくの日々は食事も喉を通らないほどに落胆悲哀したと云われる。

確かに、山中城の攻防戦は熾烈を極め、豊臣勢の総勢は徳川家康の約三万を加えた七万近い大軍勢であり、
一方の守将である松田康長、北条氏勝、松田康郷、蔭山氏広、間宮康俊らは、わずか四千で激烈果敢に交戦している。これは、北条家のために討死する覚悟の戦いであったといってよい。
壮絶悲壮である。
山中城はわずか半日で落城したのであるが、城主の松田康長は北条氏勝を脱出させて玉砕し、その他の将兵らの多くも全滅い近い状態であったという。

 ちなみに、伊豆の韮山城を死守する北条氏規は卓抜な用兵を駆使して頑強に徹底抗戦し、豊臣勢はうんざりして攻略を諦めて、居残りの諸将に韮山城を遠巻きに包囲させて小田原に向かっている。


 ところで、秀吉は城攻めの名人だ。かつての鳥取城の兵糧攻め、備中高松城の水攻めは日本戦史上、前代未聞の実に雄大で遠大な作戦計画であったが、
これは、できるだけ味方の損害を最小限に抑えようとした点でひじょうに優れた戦術であったといえる。

小田原城は無双の要塞なのだから、秀吉は当初から力攻めにするつもりはなかったであろう。そんなことをすれば兵卒らを無駄に犬死させるだけであるし、
しかも、後方から来援中の豊臣勢は関東の北条方の城をかたっぱしに降伏させている真っ最中なのだし、
いずれは小田原城が孤立無援の状態と化してしまうのは時間の問題なのだから、秀吉は何か月かかろうとも厳重な重囲を続ける腹積もりであったに違いない。

まさに、秀吉の才略が光り輝く、絶好の好機到来であった。


【2015/11/03 12:22】 | 未分類 | コメント(0)
秀吉の関東征伐 北条家戦国興亡記 1

 さて、一方、天嶮の箱根の峠や、険阻極まりない碓氷峠に頼り切っていた北条家側は、ガックリと肩を落とし、その将兵らは大きなため息をついて意気消沈するのであった。
諸史料によれば、北条方は、豊臣勢の兵糧問題をあてにしていたと云われており、非常に短絡的で消極的な考え方であったように思えるのだが、
しかし、これは当時の極めて常識的な判断、いや、最善ではないにしろ、当時の良識であったといってよいのかもしれない。

 秀吉の動員する軍勢は20万近い膨大な大軍勢である。その兵糧・補給物資の消費量たるやハンパじゃない。

しかも、その補給路を確保しながら兵站を構築するのであるが、
天嶮の要害のような険阻の厳しい山々を越えて絶えず補給物資を運び入れ続けるとなると、これは確かに実に困難極まりない。
さらに、当時は道路といっても道幅の非常に狭い、けもの道みたいな作りがほとんどで、緩急の厳しい上り坂・下り坂もひじょうに多かったのである。

実際、北条方は豊臣勢の兵糧の現地調達を阻止するために事前に焼き畑などをしたり、補給路となり得る道々をあらかじめ破壊しておいて遮断を試みており、豊臣勢も一時期、兵糧難に陥って大混乱しているが、
しかし、豊臣勢の補給部隊はもっぱら海路を使ってスムーズにドシドシと補給物資を運搬しているのだから、これでは北条方の予測は早くもハズレてしまい、まったく悔しがるのみであった。

また、豊臣の諸将は各地の要所要所で次々と北条方の城をおとしいれて、まさしく無人の野を行くが如くの破竹の大進撃、一方の北条家は後世に名を残す「小田原評定」に日々明け暮れていたというのだから、これではすでに脈が上がっている。

青ざめた顔つきで何度となく争論を繰り返し、悲壮感を漂わせて篭城に専念するのみのテイタラクぶりであった。


 ところで、北条家の本城である小田原城は、天下の名城、難攻不落の要害で実に有名である。
これは、武勇絶倫の上杉謙信公の攻囲(1561年)をしりぞけ、後年は勇武知略の武田信玄公の攻城(1569年)も撃退したという経緯があるからなのであるが、
しかし、当時の上杉謙信公は鎌倉での関東管領就任の儀式のことで頭がいっぱいだったから、本当に本腰を入れて落城させるつもりであったのかどうか疑問である。

武田信玄公も本腰を入れた攻城ではなくて、今川を滅ぼして後の駿河を安定的に支配するための示威行為だったとする見解が有力である。

しかし、当時の小田原城が難攻不落の未曾有の大規模な城塞であったことは間違いないようである。


 余談を書くが、越後の上杉謙信公は関東の諸将を率いてまずは鎌倉で戦勝祈願をした後、小田原城を攻囲したのであるが、鎌倉市から藤沢市、そして茅ヶ崎市から平塚市を経由して小田原に向かっている。

私は神奈川県の茅ヶ崎市生まれで、地元の子供たちにこの話しをすると、とても驚くのである。

あんなに遠方の新潟県の謙信公が、まさかここまで来たのかと、

どの道を通って鎌倉から小田原に向かったのかと、


1号線の東海道か?


海沿いの134号線か?


さては大山街道か?と、


子供たちが、とても不思議な顔をするのである。



【2015/10/28 01:34】 | 未分類 | コメント(0)
王覇 信長の幻影 (壮麗な豊臣水軍  秀吉の関東征伐)

天正18年(1590年)の四月、秀吉は全軍の総帥として動員令を下し、関東八州を征するを期して厖大な軍勢を率いて京都を後にしている。
諸史料によれば、秀吉をはじめとする諸将の軍装は実に華やかで、その装束などもまことに艶やかで優麗であったという。

 北条家を屈服させれば、全国制覇は目前なのである。平和の招来も近いことを大々的に宣伝するうえでも、ずいぶんと派手で華麗な出陣であったに違いない。

 群衆はこの輝かしい大軍勢を遠望して、驚嘆して騒ぎ立てたであろうし、良民らは戦乱の終息を期待して歓声をあげて見送っていたことであろう。まさしく、平和の気運を感じさせる、さっそうたる大軍勢であった。

 秀吉の事前の手配り通り、東海道筋では、すでに徳川家康が先鋒となって出陣しており、その後を追うかのように織田信雄、蒲生氏郷の軍勢が諸将を率いて続いていき、その後方から秀吉の率いる本隊が進んでいく。

 東山道からは主に真田家の真田昌幸、真田信繫、真田信幸らが索敵をしながら先鋒として進み、続いてその後方から超大物大名の上杉景勝、前田利家が諸将を率いて来援している。

 海上では、宇喜多秀家の総指揮により、長宗我部元親、脇坂安治、九鬼嘉隆らが水軍を率いて小田原をめざす。

 豊臣軍は、水陸合わせての総勢は15万以上とも、20万以上とも云われている。

最近の研究ではその総勢は20万ぐらいであったというが、しかしこれは輜重隊(主に輸送や補給に従事する)も含んだ数字ではないかと思われるので、
だいたい15万ぐらいとするほうが穏やかな見解であろう。しかし、いずれにせよ、日本史上類のない未曾有の大軍勢であったことは確かだ。

 ちなみに、日本の水軍の元祖は海賊だ。
 しかし、これは日本だけのことではなく、海外も同じようなものである。
有名なサー・フランシス・ドレーク(1543年頃 - 1596年)は、エリザベス朝のイギリスの海軍提督であるが、元々は海賊を稼業としており、ふだんも同じように海賊として海で暴れまわっているのだが、
しかし、エリザベス女王の招集があった場合には、全くの忠誠無私のナイトになって即座に応じて、野蛮な大海賊から女王陛下の正規軍に大変身する、いわば「半野良海軍」であった。

 日本では、瀬戸内海の海賊が実に有名であるが、瀬戸内は小島や入り江が無数にあるので、古来より船舶の技術の発達が著しく早かったのであろう。
瀬戸内海の海賊のほとんどは以前から毛利党で、織田信長の時代の頃は、毛利家が精強な水軍を駆使して本願寺や雑賀衆を支援し、信長を随分と悩ませている。

毛利党の水軍は、水上での戦術にも精通しており、戦闘にいたっては実に勇猛果敢で、武器・弾薬・兵糧をはじめとする大量の荷を積むことのできる大型艦船もあったと云われる。

 史書の「信長公記」に、信長が鉄甲船を使って毛利水軍を辛くも撃退したとあるが、ことの真偽は別にして、このような話しがあるぐらいに毛利党の水軍は精強であった。

しかし、秀吉の時代になると、毛利は豊臣家の配下同然になっているので、秀吉の軍勢は水運に苦労がいらない。北条征伐に必要な兵糧・武器・弾薬などの補給物資は海路を使ってドシドシと送り込んでいる。

また、秀吉はあらかじめ経世の才に優れる長束正家に命じて、兵糧の調達から港、倉庫などを事前に手配させており、長丁場の対陣になった時に備えての万全の準備に余念がなかったのである。

 
海賊ついでにここで余談を書くが、
最近の研究によれば、日本海の海賊で、朝鮮半島の湾岸を荒らしまわっていた倭寇は有名であるが、しかし、実は日本人ではなくて、そのほとんどが朝鮮半島の人々が倭寇と称して暴れまわっていたのだという。

まぁ、どちらにせよ、誰がやったにせよ、今となっては分からない、今となっては確認できない「目に見えない部分」といったところか。

「目に見えない部分」といえば、今現在、世間を騒がせているマンションの傾斜問題。

マンションの地中の杭にいろいろと、続々と問題が発覚してマスコミも大騒ぎしているが、しかしその販売会社の不動産屋の殺し文句、

「目に見えない部分だからこその安心と信頼です。」と、ヌケヌケと宣伝していたという。

本当に悪質なのは、人命の軽視が見え隠れしているところだ。

もしも倒壊していたらと考えると、本当に胸が張り裂けるような思いがする。


このような悪質な者どもは、織田信長の治世であれば、「一銭斬り」の対象者であったかもしれない。



【2015/10/23 01:08】 | 未分類 | コメント(0)
王覇 信長の幻影 (秀吉の関東征伐 徳川家康と督姫)

 以前に別の章で詳しく書いたが、本能寺の変で織田信長が横死したことにより、旧武田領の甲州・信州・上州は大混乱の状態となり、隣国の徳川家・北条家・上杉家の切り取り勝手しだいの争地と成り果てた。

特に、徳川と北条との激戦が諸所で展開され、しばらくは大勢力を誇る北条方が圧倒的に優勢であったが、しかし、徳川方の真田昌幸・依田信蕃が碓氷峠の北条勢を痛快なまでに蹴散らし、北条方の糧道を徹底的に遮断したことにより戦局が大逆転し、
その後、徳川・北条は和睦したのであるが、この時の和睦の条件よって徳川家康の娘の督姫(ごうひめ。「とくひめ」と読む書物も多い。名は、おふう)が北条氏直に嫁いでいる。

 したがって、家康にとって北条家は親戚なのであり、北条家当主の氏直は娘婿なのだ。

家康としては、なんとかして北条家を救ってやりたい気持ちも山々であったろうが、しかし秀吉に逆らうことは徳川の存亡に関わる危険な賭けであったろうし、
だいたい、元々が、これは好き好んで交わした縁組でもなかったし、あくまでも和睦を成立させるためだけの政略的な必要上のことでしかなかったのだから、
したがって、そんなことよりも逆に、ここで秀吉に対してさらなる恭順の意を表しておいたほうが大いに得策だとも考えたであろう。

家康は北条家をかばうことをサラリと諦めて、しかしその内心では娘の安否を心配しながらも、秀吉に忠実に従う覚悟を決めたのであった。

 ところで、長い余談になるが、督姫の「毒まんじゅう伝説」は実に有名な話しだ。

 督姫は上述のとおり、政略上の犠牲者となって北条氏直に嫁いだのであるが、しかし後年、北条家は秀吉によってお家とり潰しの断絶の憂き目に遭ってしまう。
 当主の北条氏直は家康の助命嘆願によって一命を取りとめて高野山に入り、督姫も夫に付き添うかのように従ったようであるが、
しかし運命とは皮肉なものだ。北条氏直は翌年には病没し、督姫は27歳にして寡婦となってしまっている。
その後は、傷心の身で父の家康の元に帰ったと云われる。

その後、秀吉の斡旋・仲介によって、妻と離別してやもめ暮らしをしている池田輝政に嫁いだというのだが、しかしこれはあやしい。

なぜなら、池田輝政が妻と離縁しなければならなかった理由が、いくら調べても不明瞭であいまいであり、
妻の産後の肥立ちが悪かったことによる体調不良を離別の原因とする説もあるのだが、しかしこれも詳しく調べると説得力が全然なくて、いっこうによく分からんのである。

おそらくは、池田輝政は、秀吉から内々に督姫との縁談をもちかけられていて、池田家の安泰と将来性を期して妻と離縁したのではなかったかと私は疑っている。

だいたい、当時の戦国武将たちは、とてもずる賢くて、実にさとい。
まぁ、そうでもしなければ生き残れないという厳しい時代背景もあったのだが、家康の娘との縁談ともなれば、これは、なりふりかまわずに飛びつく者も多かったに違いないのである。

 さて、ともかくも、ことの経緯はどうであれ、督姫は池田家に嫁いでいくのであるが、しかし父親の家康としては、前回はかわいい娘を北条に嫁がせて政略上の被害者にしてしまい、
今回は今回でまた、時の大実力者である秀吉からの助言に従わざるを得えなかったわけで、督姫には無理強いの犠牲者のような思いをさせてずいぶんとむごいことをしたものだと、深く後悔していたのであろう、後年は督姫ばかりではなく、池田輝政もその子供たちも家康から実に破格なほどに優遇されている。

 池田輝政も督姫を寵愛していたようで、あの目まぐるしく忙しい時代背景の中で、男子五人、女子二人の子宝に恵まれている。

 
 ところで、史料の吉備温故秘録によれば、池田輝政には前妻との間に利隆がおり、後年、督姫が実子の忠継を世継ぎにしたいと思い、
侍女に毒入りのまんじゅうを作らせて利隆の前に供した。

 利隆は、継母(督姫)から常に冷たい仕打ち、日頃からつらいめに遭わされているので、そのまんじゅうを不審に思い、手をつけない。
 
 侍女も利隆を哀れんで、手のひらに毒と書いてそれとなく知らせるが、それを見ていた忠継は利隆をふびんに思い、哀れみ、また、奸悪な母を憎んで、

「ほう、うまそうなまんじゅうだな。一ついただこう。」といって、その場でムシャムシャと食べ始めた。

吉備温故秘録に、それを見た督姫は、

「良正院(督姫)殿の御顔色、見るうちに赤くなり、青くなり、いろいろに変じたりといふ」とある。

督姫も今さらながら自分の不明を恥じたのであろう、彼女もその場でまんじゅうを食べて、その日のうちに亡くなり、忠継もその月の23日には死んだという。

この伝説は後年、昭和の50年代にすでにいろいろと検証されでウソと判明しているのであるが、しかし、いまだに根強く伝播してしまっているので、督姫の汚名を回復するために長々と書いてしまった。

このように、逸話や伝説には信憑性の薄い話しが本当に多いのだが、
しかし、歴史は、物語にしないとなかなか伝わらないものである。これは、今の現代も同じだ。コピーライティングを少しでもかじったことのある人であれば、すでにご存知の方々も多いであろう。

単純明快で、意外性があり、感情に訴える物語は、これは伝説や逸話に限らず、末永く、世代を超えて長々と伝播している。

督姫の毒まんじゅう伝説も、単純明快な話しであり、毒殺という意外性もあり、話しの内容は実に感情を揺さぶられる構成になっている。

しかし、だからといって、私は伝説や逸話や軍記物をまがい物として否定する者ではない。

なぜなら、歴史が歴史的な事実・真実を追及するだけのものであれば、これほど無味乾燥のつまらないものはないからである。

歴史の事実・真実などというものは、つまるところ、歴史上の人々を地下から起こしてきてインタビューして判断するか、タイムマシンで過去に行って見聞してみないと分からないのである。

必死になってあらゆる史料を丹念に検証して整合性を試みたところで、歴史の事実・真実に迫るには限界がある。あくまでも予想の領域を免れないからだ。



 伝説を聞いて、逸話や軍記物を読んで、しだいに歴史に関心を持つようになって、そして、やがて歴史上の人物たちの実像に興味を持つようになっていく。

そしてそのうちに、それが本当なのかどうか疑問に感じるようになり、ここでやっと、歴史の事実・真実の追及に興味をもつようになるのではないかと思うのである。

それが、自然の発露というものであろうし、だから、私は歴史が好きなのだ。

 

【2015/10/16 00:36】 | 未分類 | コメント(0)
王覇 信長の幻影 (真田昌幸と秀吉の関東征伐)

 さて、上州の名胡桃城を奪われた真田昌幸は激怒し、その脳天から火が噴くほどに憤激してその身をわなわなと震わせながら、
「しゃっ!あの北条の猪俣めが、なりふりかまわずやりおったか!」といった感じで、さっそく大親分の秀吉に北条家の横暴を訴えた。

真田昌幸にしてみれば、名胡桃城の件で北条家とはいずれ紛争になると覚悟はしていたが、
しかしまさか、このように簡単に騙されて名胡桃城を略取されるとは、これはいくらなんでも予想外の展開であったろうし、
しかも相手が相手なだけに、ここは独力では手におえないと思案して豊臣家を頼ることにしたのであろう。

 この事態に秀吉は、

「上州の沼田の件では、寛大に譲歩してうまく取りはからってやったのに、北条家はいまだに上洛する気配を見せないでいる。実に不快に思っているところに、こんどの騒ぎときている。もう、勘弁ならんぞ!」といった感じであったろう。

大海の如く広く深い度量の秀吉であったが、しかしこうまでされては我慢の限界、ついに堪忍袋の緒が切れたといったところか、ついに断固たる北条家征伐を決意したのであった。

 ところで、秀吉は朝廷の権威を大いに利用して、天皇の勅定として惣無事令を度々発令している。惣無事令というのは、大名間での争いを禁止させる、戦闘停止命令のことである。

 秀吉は九州征伐の時に、九州で猛威を奮う島津家に対して、惣無事令を大義名分にして九州征伐を断行し、
今回の関東征伐は、真田家の名胡桃城を略取した北条家に対して、この勅定を大義名分にしているのであるが、しかしこの惣無事令というのは以前、織田信長も使っている。

織田信長が将軍家に働きかけて惣無事令を発令している史料が多々あり、また、信長の甲州征伐の際には、関東から東北の諸大名に惣無事令を出している。

 しかし惣無事令というのは、大義名分のお題目のようなものであり、その実効力はほとんどなくて効果も薄い。どちらかといえば、権力者側の錦の御旗、敵対勢力を征伐するための大義名分、単なる方便・口実にすぎないものであったろう。

この秀吉の動向を知って震え上った北条家は、すぐさま弁解の使者を立てて北条氏規を大坂に派遣しているが、秀吉に体よく追い返されてすごすごと引き返している。

 秀吉は、プラス思考の積極果敢の逸材の人だ。
おそらくは、外征を志している秀吉は、北条に上洛を促して臣従させることをサラリと諦めて、この北条家征伐を外征の予行演習として位置づけていたかもしれない。

なぜなら、この北条家征伐は、秀吉の雄志を彷彿させるほどの壮大で遠大な作戦計画であり、大陸への侵攻作戦をも視野に入れたとしか思えないほどの雄大で膨大な軍勢であった。

秀吉の鳥取城の兵糧攻め、備中高松城の水攻めは実に雄大で遠大であったが、しかしあの時の秀吉は織田家の一方面軍の司令官でしかなかったのだ。

あれほどの働きぶりを見せた秀吉だ。
今回は時の権力者として、朝廷で権勢をふるう時の実力者として、天下の大軍勢を率いて出陣するのであるから、秀吉の意気込みも増々拍車がかかる、すばらしい好場面であったろう。


しかし、ここで大変に気がかりになったのが、徳川家康だ。



 
【2015/10/10 18:13】 | 未分類 | コメント(0)
王覇 信長の幻影 (驚天動地 真田昌幸と上州の騒乱)

 さて、真田昌幸は秀吉の命令に応じ、上州沼田の所領のうち、名胡桃城及びその周辺の領地だけを残して、全て北条家側に引き渡した。

 北条家は、家臣の猪俣直則を沼田城に入れ、厳重に防備をさせて守備を任せた。


そして、しばらくの間は、平和に何ごともなくすんでいたのであるが、猪俣直則はしだいに名胡桃城が気になりはじめる。

 それもそのはずだろう、沼田城の鼻っつらに、名胡桃城があるのだ。

名胡桃城というのは、沼田城の戦略的な要衝となる枝城であり、
しかも、そもそもが以前に、武田勝頼から上州の経略を命ぜられた真田昌幸がこの城を補強・強化して沼田城を執拗に狙い続けて、
しまいには調略を使って略取したという経緯もあったのだ。

ましてや、北条家は昌幸によって何度となく煮え湯を飲まされ続けている。否が応でも油断ならないので、どうしても気になるのだ。


 案の定、猪俣直則は寝ても覚めても、名胡桃城のことが気になってしょうがない。どうしても頭から離れない。

「あそこに真田の領地があっては、なにかと不都合じゃ!どうも落ち着かんわい。うまく騙して奪い取れればスッキリするというもの、お家のためにもなるというものじゃ。」と、いった感じであったのであろう。

猪俣はさっそく名胡桃城を略取する計略を練り始めた。


 一方、真田昌幸は鈴木主水という家臣に名胡桃城を任せて厳重に守らせていたが、しかしこともあろうに、鈴木主水の家臣らが北条家に内応し、名胡桃城は猪俣直則の軍勢によって占領されてしまったのである。

猪俣直則に内通した鈴木主水の家臣たちは、真田昌幸が鈴木主水を呼び寄せているという偽手紙をねつ造し、
この手紙の内容を読んで信じた鈴木主水は名胡桃城を離れて、主人の昌幸の所在する上田城へ出かけてしまった。

この隙を突いて、猪俣に通謀している鈴木の家臣らが名胡桃城の城門を開き、北条方の軍勢を迎え入れてその城をひしひしと固めてしまったというからたまらない。

この緊急事態を道中で聞きつけた鈴木主水は大仰天し、慌て急いで引き返したものの、もはやどうすることもできない。

 鈴木は自分の不明を恥じ、割腹し、自害して果ててしまった。

この報告を受け取った昌幸は、なんとなく茫然としたろう。

人を何度となく騙しはしたが、一度たりとも騙されたことのない昌幸なのだ。
戦慄するほどの計り知れないショックと、 心臓が飛び出しそうになるほどに驚き、腹わたが煮えくりかえるほど激怒したことであろう。

 
 ここで余談を書くが、しかし、いくら出先の者(猪俣直則)がしでかした事件であったとはいえ、北条家が上方(秀吉)の情勢に精通していたならば、このようなばかげた出来事は防げたであろうし、
北条家は、もはや昔日の北条ではなく、すでに脈が上がっていたとしか思えないほどの醜態ぶりだ。

これは、秀吉の馬印の「千成ひょうたん」にいきなり泥水をぶっかけて、
「いつでも来い!」と挑戦状を叩きつけたも同然なのである。

これでは、あまりにも世間一般の情勢に愚鈍であったかを証明して見せたようなものなのだ。

ちなみに、私は神奈川県生まれの神奈川育ち、小田原城には子供の頃から何度となく見学に行ったこともあるので、どうしても北条家に対して親近感があるのであるが、

しかし、この頃の北条家は、

「老舗(しにせ)の見識倒れ」であった感が否めないのである。


北条家の実情は、なにかといえばお国自慢ばかりに終始しているし、北条氏政・氏直は世間知らずのボンボン育ちのお殿様のようであったし、

その重臣・家臣たちに到っては、数代からの大大名であったりしたから、なにかというと権威をかさにして威張り散らし、

心おごり、不勉強の実力皆無、偏屈で生意気で、人を平気で見下すような軽薄短小の輩がほとんどだったようである。

 

 北条早雲公の艱難辛苦の連続、その息子の北条氏綱公は、父と共に野戦に明け暮れる血みどろの戦いの中に生き、その息子の氏康も、父と共に攻城野戦に明け暮れて、その痩身には七か所の刀槍の傷があり、その二つは顔面にあって、
世間一般では向う傷のことを「氏康傷」とまで言ったという。

 
 この偉大な祖父にして、このていどの愚昧な子孫なのかと想うと、なぜか、たまらなく胸がしめつけられ、熱い涙のこぼれ落ちる思いがする。



【2015/10/04 15:35】 | 未分類 | コメント(0)
王覇 信長の幻影 (秀吉の外征と真田昌幸の反骨精神)

さて、真田昌幸公のファンの方々であれば(私も実は大ファンなのであるが)、いずれは、あの本能寺の変の後のような天下を揺るがす騒乱・動乱が将来的に発生するかもしれないので、
だから、ここはとりあえず、

「名胡桃城の周辺には、真田家先祖代々の供養のゆかりの地がある。」ということにしておいて、これはいずれウソとばれてしまうかもしれないが、
しかし、ここはとりあえず、秀吉をだまして時間を稼いでおいて、

そして、もしもの万が一の時に、素早く上州の経略に取りかかれるように窓口として名胡桃城を残しておいたのだと、ここで反論も出てくるかもしれないが(実際に、そのような諸説あり)、しかし、真田昌幸公の性格・性質からするとそうではないだろう。

単に「惜しい」のであり、妄執とでもいうべき所領に対する執着心のなせる業ではなかったかと、私は思うのである。


それにしても、秀吉は実に寛容で大度量の持ち主であった。

「ヘタにこじれては、なんとも面倒なことになる。。。」と、内心思っていたのかもしれないが、
しかし、秀吉は非常にウソくさい話しだと知りながらも、昌幸のいい分を認めてやっている。


余談になるが、秀吉はこのように真田昌幸に対して実に寛大で寛容なのであるが、しかし、これには理由がある。

一つは、徳川家に対する掣肘だ。

秀吉は徳川家康と和親しているとはいえ、徳川が依然として油断のならない、侮りがたい仮想敵であったことは明白なのだ。

後年、秀吉が徳川家康を関東に移封したのも、徳川家を関東に封じ込めるように、まるで数珠をつなぐように豊臣恩顧の武将たちをその周りに配置したのも、
東北の戦略的要衝である会津の地を蒲生氏郷、後年は上杉景勝に任せたのも、これらすべては徳川家康をけん制するためだったのである。

真田昌幸は、武田信玄の近習として仕えた経験があり、父の幸隆が武田二十四将に数え上げられるほどの名将であり、
長篠の戦では兄の信綱・昌輝を失っており、
武田勝頼の指令で上州の経略に取りかかって武田家のために上杉・北条と戦い、武田家滅亡の際には、勝頼を庇護して昌幸の領する岩櫃城に入城させる下準備までしていたのだ。
ちなみに、勝頼が昌幸を頼っていたならば、あの悲惨な最期はなかったかもしれないのである。


ともかくも、だから、武田を善とする真田昌幸にとって、織田・徳川は「どうしても忘れ難い仇敵」なのである。

しかも、あの三方が原の戦いで、徳川勢を痛快なまでに徹底的に撃破し、激烈果敢な大攻勢によって徳川の重臣を多数討ち取り、
戦慄すべき恐怖で逃げまわる徳川家康を脱糞逃走させた武田信玄の旧臣なのだ。

「徳川家康、なにするものぞ!」との反骨精神が、必ずやあったはずなのである。


なので、したがって、徳川を掣肘したい秀吉にとって、昌幸は大変にありがたい存在だった違いない。


もう一つは、秀吉の外征(唐入り)の構想である。

以前に少し書いたが、私は、秀吉はかなり早い段階から外征を志していたと考えている。

秀吉の外征には諸説があるが、私はルイス・フロイスの「日本史」の記載で、

織田信長が、「毛利を平定して、日本六十六ヶ国を支配したら、一大艦隊を編成して、中国を武力で征服する。日本は我が子たちに分かち与える。」と言ったという記述に注目している。

宣教師が直接聞いているぐらいなのだから、織田の師団長クラスの重臣(秀吉)ならば信長から直接聞くなり、伝聞なりで知っていた可能性が高い。

特に、秀吉は信長の一番弟子といっていいぐらいだったから、信長の思念・使命感が秀吉に与えたその影響力は計り知れないものであったろう。

こんなわけで、秀吉の念頭には「唐入り」があり、

ともかくも昌幸の言い分を聞いてやって、許してやって、

北条家にサクッと上洛してもらい、サッサと日本を統一したいところだったので、秀吉は大盤振る舞いの寛容・寛大さを見せたのであろう。


最後に、少し話がそれるが、

秀吉の外征(唐入り)に関する諸史料を調べていて気づいたことなのであるが、

秀吉は九州征伐の際に、九州のキリシタン大名たちの実態を見聞きして仰天・がく然としている。

ひどいところでは、神社・仏閣は徹底的に破壊され、キリスト教に改宗しない僧徒や一般庶民を数万人も虐殺したり、奴隷にして海外に売り飛ばすことまでしている。
諸説では、50万人以上もの日本人が奴隷として海外に流失し、海外から帰国した天正遣欧使節団や、支倉常長の一行によれば、
海外で奴隷となっている日本人の悲惨な現状が数多く報告されているのだ。

特に、秀吉が戦慄したのがキリシタン大名の大村純忠の所業だ。イエズス会に土地を寄進することまでしている。

これは、イエズス会を通して日本の一部の土地がスペイン・ポルトガル領になったということなのだ。

秀吉は仰天して、すぐにその土地を取り上げて直轄領にしているが、
この宣教師たちを裏で操っていた当時のスペインのフェリペ二世のことをもっと入念に調べれば、信長・秀吉のその当時の現実的な外交政策がもっとよく見えてくるかもしれない。



【2015/09/30 21:18】 | 未分類 | コメント(0)
王覇 信長の幻影 (秀吉の雄志と真田昌幸の術策)

 さて、秀吉は度々に渡って北条家に使者を遣わして上洛を促すのであるが、

「上州の沼田の地は、以前の徳川家との盟約上、北条のものとすると決めたにも関わらず、いまだに約定は履行されず、
その上に、依然として真田家が沼田を領有して北条家に敵対している。
豊臣家の威信にかけてでも、この沼田の地を北条家に引き渡すことができれば、仰せのとおり、いずれ早い時期に上洛いたすでありましょう。」と、
北条家が無心するかのように無遠慮にねだってきた。

秀吉はこれに快諾し、さっそく真田昌幸に使者を送り、

「上州の沼田の地は、早急に北条家に引き渡すように。
代地は、徳川家から出させるように打診ずみで、すでに手配もしている。安心してすみやかに行うべし。」といった感じで、微に入り細に入りの用意周到な準備をして知らせた。


 秀吉は以前、九州征伐の際に、陣中の本営に帰服を申し入れてきた対馬の大名の宗義調に対して、

「いずれ、大陸の明を攻略するために朝鮮半島に将兵たちを上陸させる。朝鮮国王に道を貸すように指示しておけ。」と、きつく念を押すかのように命令している。


 秀吉の念頭には、大陸への侵攻作戦の「唐入り」があるのだから、こんなところで軍資金や兵力・兵糧などを無駄に消耗したくないところだ。


 ゴタゴタする沼田の問題をサッサとかたづけて、北条家が素直に上洛して秀吉に臣従を誓ってくれれば、これに越したことはないのである。

また、北条家を屈服させれば、東北の諸大名も、暴れん坊の伊達政宗も、期せずして秀吉のもとに馳せ参じるであろうことは容易に推察できることなのである。

 秀吉の天衣無縫、大度量の太っ腹もそうであるが、秀吉の雄志の実現のためにも、ここは雄大な計略を使ってずいぶんと北条家に譲歩したのであった。


 一方、真田昌幸としては、これはどう考えても秀吉の命令に従わざるを得ない。

いくら沼田の地に執着してみたところで、なんといっても豊臣家の勢力は絶大中の絶大だ。

 これを機会に北条家と手を組んで秀吉に叛旗して反抗したとしても、これはしょせんは無駄な抵抗なのである。


これくらいの時勢なら、真田昌幸ほどの人物が読めないはずがないし、また、昌幸の信服しきっている秀吉の命令でもあり、

しかも、以前の徳川家のとんでもない所業とは全然違って、秀吉はしっかりと代地を用立ててくれているのだから、これは豊臣家を離反することなど到底考えられないところであったろう。


しかし、強烈な野望心、領土欲旺盛、異常なまでに所領に対する執着心の猛烈な昌幸にとって、秀吉の命令はあまりにも辛く、とても悔やまれる現実であったに違いない。


 そして、昌幸は無念のあまり、秀吉にウソをついている。


 昌幸は秀吉の命令書に対して、

「沼田の名胡桃城には、真田家の先祖伝来の墓があります。真田のゆかりとする土地でございますので、
名胡桃城だけはご容赦願います。その他は、必ずやいっさいすべてを北条家に引き渡すでありましょう。」と、しばらく経ってから返書を送っているのだが、


これが100パーセントのウソっぱちなのだ。


名胡桃城の付近に、真田家の先祖の墓などあるわけがない。


真田昌幸が上州の経略に専念し出したのが、天正八年の頃なのだ、これはたった数年前のことだ。


ありはしないのである。


【2015/09/26 21:33】 | 未分類 | コメント(0)
王覇 信長の幻影 (秀吉の策謀と真田昌幸)

真田昌幸は大胆不敵にも徳川領の信州佐久郡をジリジリと圧迫し、あらゆる計略を駆使してその略定に腐心中だったのであるが、
しかしながら、この頃は秀吉と家康との仲は大いに好転に向かっている。

秀吉は、妹の旭を半ば脅迫的に夫と離縁させて、強引に家康の正室として押し付けるような無理なことまでして家康の歓心を買おうとやっきになっているときなのだ。


秀吉は昌幸に対して、

「徳川殿は、わしの親戚じゃ。よけいなことをするな。」と、いった感じで注意している。

昌幸は後年、秀吉の絵に描かれた姿を居間に飾り、朝夕に礼拝していたという逸話があるぐらいに秀吉を尊敬し、信服しきっている。


すぐに了承した。


秀吉のほうも気を利かせて、昌幸と家康との和睦を取りはからっている。

真田昌幸の長男、信幸(改名して信之。後年、昌幸・幸村が反徳川だった為、家康をはばかって「幸」から「之」に改名したという)と徳川家の重臣、本多忠勝の娘との婚儀がそれである。


この婚儀には有名な逸話がある。

秀吉からアドバイスをもらった家康は、この縁談を昌幸にしてやると、

「徳川の家臣の娘など、まっぴら御免、平にご容赦。」と、きっぱりと剣もホロロに断ってきた。


家康は思案に暮れ、後日、秀吉に相談すると、

「徳川殿の養女にして、もう一度、話しを持ちかけてみてはどうか。」という。


さっそくそうして、昌幸に再度の縁談をすると、

「良縁でござる。異存はござらん。」と、慎ましやかに言ったという。


真田家は小なりといえども領国を支配する一大名である。本多忠勝は徳川の家臣なのだから、社会的な立場が違うといったところであろうか。

当時の門閥に関わる社会的な背景を考えれば、ありそうな話しではある。


こうして、昌幸の長男の信幸と、本田忠勝の娘の小松殿はめでたく結ばれて夫婦となったのであるが、

しかし、この夫婦をはじめ、真田本家、舅の本多忠勝までもが後年、昌幸と幸村によって大変に身の細る思いをさせられるのであるから、
まさに人の運命とは、一寸先は闇、 人間万事塞翁が馬 、 吉凶はあざなえる縄のごとしである。


 さて、ともかくもこうして、真田昌幸は、秀吉という最強のバックに支えられ、上杉景勝にひどく恨まれながらも許されて、徳川とは秀吉の仲介役も手伝って親戚となって和睦することもできた。


こうして、上州の沼田の地は、以前と変わらずに真田家の勢力圏のままだったのであるが、


しかし、徳川家康からは以前の約定の件をホッポラカシにされ、


しかも、真田昌幸からは何度となく煮え湯を飲まされている北条家が、これは全然おもしろくないのだ。



【2015/09/22 21:39】 | 未分類 | コメント(0)
王覇 信長の幻影 (縦横無尽、真田昌幸の真骨頂)

さて、真田昌幸は大強敵の徳川勢・北条勢を痛快なまでに翻弄して徹底的に撃退したのであるが、
しかし、今後の徳川・北条の巻き返しの大攻勢に切実な不安を覚えて、

なんと、越後の上杉景勝が秀吉に謁見するために上京しての留守を幸いに、人質の源次郎(昌幸の次男、信繁。幸村というのは、江戸時代の寛永年間の「難波戦記」という軍記物でつけられた俗名という説があるが、
しかし、後年の大坂冬の陣での信繁の大坂城入城の時に、本人が自ら真田幸村と改名して名乗っていたという説がある。

幸村はその生涯を通じて、とても素直で誠実な性格であり、本当に心の優しい人物であった。
おそらくは、徳川方について真田本家を守る実兄、真田信之の苦境的な立場を考慮しての、苦心苦肉の改名だったのかもしれない。)を、勝手に呼び戻し、
すぐさま秀吉のもとに信繁を人質として差し出し、
しかも、上杉景勝の許しもなく、なにくわぬ顔で勝手に羽柴家の直属の被官たる許しを願い出て、これが許されて大喜びだったというのだから、これは実にひどい話だ。


後日、上方から越後に帰国した上杉景勝は、この事実を知るに及んで烈火のごとく憤激して激怒している。

秀吉が怒り心頭の上杉景勝を上手になだめたので、景勝の腹の虫もなんとかおさまり、昌幸は上杉家からなんら咎められることも無くことなきを得たと云われているが、
しかしこれは、実に破廉恥極まりない言語道断な所業だ。


 真田昌幸は以前、上杉家を離反した経緯があったのだが、上杉景勝は再び泣きついてきた昌幸に同情を寄せて、微小の地方豪族の真田家を哀れに思い、
上杉家中の大反対を押し切って再度の帰参を認めてやり、以前の破廉恥な裏切り行為も快く水に流すように許してやっているのだ。

しかも、その上に真田家と徳川勢との上田合戦の際には、異説があるとはいえ、窮地に陥る昌幸を見棄て難いということで援軍まで送っているのだ。


ここで私見を書くが、私は、真田昌幸公に好意を寄せる者であるが、しかし、これほどまでに信義に反する行為は、いくら戦国時代といえども、これはもってのほかの仕業であり、この不誠実極まるやり方には一抹のいきどおりを覚え、とても無念で残念に思えてならない。

史書の改正三河後風土記に、

「真田昌幸は、生得危険の姦人である。」と、まことに手厳しい批評があり、いくら「改正三河後風土記は徳川方の史書なので徳川ビイキの史料である」といえども、確かにそのように思われてもしかたがないであろう。

とても苦しい言い訳になってしまうが、しかし、昌幸を少し弁護していえば、これは、身代以上に知略が異常にたくましいがゆえに、このように不明朗なことになってしまったのかもしれない。


余談だが、そもそも、「信義心」であるとか、「忠義一徹」であるとか、「律儀で誠実」であるといったことなどは、裏切りの横行する下剋上の戦国時代には無かったはずという諸説があるが、

しかし、諸史料を丹念に調べれば分かることなのであるが、そんなことはないのである。

信長も、秀吉も、家康も、その他の武将たちも、その身代が微小の頃から「信義心」「忠義」を心がけて励行しており、

特に信義心は、彼らの嘱望を成就させるための重要なカギの一つであったことは、これはこの時代だけに限ったことではなく、日本史に明るい方々であればすでに周知の事実であろう。

かつて、江戸時代の寺子屋などでは、「織田信長は信義の人であった。」と教えられていたのであるが、今ではその事実がすっかり忘れ去られている。

とても残念なことであるが、今の現代は、メディアや出版業界の売らんがための宣伝文句のせいもあって、戦国時代の実態、戦国武将の実像などが大はばにぶれてしまっている。

「天下は麻の如く乱れ、乱世の群雄たちは誰もが天下を狙っていた!」というのは異常に誇張がすぎるキャッチコピーであるし、

群雄たちは誰もが天下を狙っていたなどというのは、これは時代考証があまりにも甘すぎる、誇大広告のようなキャッチコピーなのである。

また、相変わらず三国志演義で使われている手法、善玉・悪玉を仕立てあげて両極端の人物像を作り上げ、まるで小説やドラマに登場するかのような非現実的な戦国武将の実像が作り上げられてしまっている。

現代は、メディア・出版業界が麻の如く乱れて横行し、戦国武将たちは誰もが虚像になっている!?と、いったところか。


 さて、ともかくもこうして、
真田昌幸は羽柴家という実に頼もしい後ろ盾を得て、ここは思案のしどころ、奇貨居くべし、まさに好機逸すべからずといわんばかりに信州の略定に着手し、

しきりに徳川領の信州佐久郡に打って出て、すぐさまジリジリと切り取り始めたというのだから、このあまりにも素早すぎる自信満々の豹変ぶりには本当に恐れ入る。


まさに真田昌幸の真骨頂、稀代の軍略家ではあるが、昌幸の領土欲、野望心の旺盛な膨張欲は、とどまることを知らない。



【2015/09/21 21:11】 | 未分類 | コメント(0)
王覇 信長の幻影 (戦国のニューフェイス 真田昌幸)

 関東八州に蟠踞して絶大な勢力を奮う北条家が、関白の秀吉によって征伐される話しを書く前に、例の真田昌幸の動静について語っておかなければならない。


なぜなら、秀吉は元々、九州征伐の頃から外征(唐入り・朝鮮陣)が念頭にあって、北条家は勅命による外交的な圧力で屈服させるつもりであったのだが、

その後、卒然と小田原の征伐を決意して強行した動機には、真田昌幸の所領である上州の沼田の地が深く絡んでいるからだ。


 以前に、本文に書いて触れたことであるが、徳川家は真田昌幸との上田合戦において散々に敗れ、みじめなぐらいの敗退劇を演じて大敗北したのであるが、

しかし、真田家にとって、徳川の勢力が依然として強大であることに変わりはない。


また、この上田合戦の折りに、北条家は抜け目なくも昌幸の隙を突いて沼田城を攻撃している。

北条家は、上田城で戦備に明け暮れる昌幸の間隙を縫うかのように、鉢形城主の北条氏邦に命じて沼田城の奪取にあたらせたのである。


だが、昌幸の指令で沼田城を守る矢沢頼綱(昌幸の家老で、叔父)の巧みな用兵で毎度のごとく果敢に防戦よく努め、いつもの北条氏邦も、いつものように撃退されて、毎度のことながらスゴスゴと引き上げていた。


こうして、真田昌幸は徳川勢を追い払い、北条勢とも戦い、これら強敵を難なく撃退したものの、しかしなんといっても北条の勢力は絶大で強大だ。

再度、北条が本腰を入れて攻め込んできたりしたら、いくら軍略に優れる昌幸でも、これはどう考えても防ぎようがない。


真田家の後ろ盾には越後の上杉がいるが、しかし、徳川・北条と相撲をしなければならない昌幸は心細くもあり、いくら強豪の上杉家がバックにいるとはいえ、ここは今後の展開に不安もあったろう。

ちなみに、以前、織田信長が武田家を滅ぼして後、上州の厩橋(前橋)城に関東探題として将領の滝川一益が入り、沼田城には滝川義太夫がおり、甲斐に川尻秀隆が入って北条家に睨みを利かせていたが、

信長が本能寺で横死して後、総帥の滝川一益は関東の諸将に金銀・財宝・戦利品などをばらまくように分け与えて北条家と有無の熾烈な決戦を挑んだのであるが、
散々に打ち負けて総敗軍となって死者算なしの様相を呈して逃げ帰っているから、北条家の武力の衰えていないことは明らかなのだ。

こうして、真田昌幸は上杉家の援護だけでは不安になり、上杉の後ろ盾になっている秀吉の被官になることを考え始める。


羽柴家の直属の被官であることを強くアピールして、徳川・北条を威圧してけん制しようと思ったわけだ。

この思案は、戦国の小大名にはありがちなことであり、こうでもしなければ生き残れないという厳しい時代背景も確かにあったのであるが、

だが、この後、昌幸はとんでもないことをしでかすのだ。


これはよくいえば、身代のわりに知略のたくましい野心家ともいえるが、


しかし、今の現代もそうであるが、人間的に度量の狭い野望心の強烈な男は、なりふりかまわずどんなことでもする。


【2015/09/18 01:03】 | 未分類 | コメント(0)
コラム 独眼竜 伊達政宗 Ⅲ

 伊達輝宗は数名の供を引き連れて畠山義継の見送りに出たのであるが、
その輝宗の陣屋から表門までは、高々と竹垣でしっかりと作られた狭い通路になっていて、
ほんの一人か二人がやっとのことで並んで通れるかどうかの狭い通路になっている。

その細長い通路を通過して表門まできて、皆々がその門前に出てくると、
義継がゆっくりと振り返り、その場に座し、伊達衆にむかって今日の御礼言上を丁寧に述べるや否や、

だしぬけに突然、いきなり抜刀して輝宗に襲いかかり、輝宗の胸ぐらをしっかりとつかみながら強引に引き寄せ、その胸のあたりに刃を突きつけて人質も同然にしたからたまらない。

また、それに呼応するかのように義継の郎党らも次々と抜刀しはじめ、義継を包囲するかのように守りを固め、用心しながらしきりに威嚇する。

そして、畠山義継一行らは辺りを警戒しながら、輝宗を強引に引き連れて二本松城をめざして歩き急いで行く。


 その場に居合せた輝宗の家臣たちは、このだしぬけの緊急事態に大仰天し、うろたえ、慌て、騒ぎ、 周章狼狽の大混乱の状態となったのであるが、
しかし、かといって手出しもままならずに、ひたすらにおろおろとするばかりで、無念ながら義継一行の後ろをひたひたと追うばかりであった。


 しばらくして、鷹狩に出ていた政宗はこの急報に接し、すぐさま手勢を率いて素早く駆けつけたのであるが、しかし、事態は急だ。このままでは川を渡られて畠山義継の二本松領に入られてしまう。


 政宗はぎりぎりと歯ぎしりし、激憤し、もだえ苦しみ、焦慮し、懊悩し、その顔面に脂汗をびっしりと浮かべながら、


「お家のためだ、仕方がないぞ!」と絶叫し、断腸の思いで突撃命令を下す。

その刹那、伊達勢は恨み骨髄とばかりに弓・鉄砲を速射し、猛然と抜刀しながら畠山勢に肉迫していく。

こうして、畠山勢は一人残らず討ち取られ、義継の遺骸はずたずたになるまで切り裂かれたのであるが、

しかし肝心の輝宗はすでに義継によって何度となく刺されており、無惨な最期を遂げて横たわっていたという。


 さて、この話しは伊達家側の史料によって書いたのであるが、

 しかし、畠山義継側の史料によれば、
輝宗があらかじめ義継を謀殺する算段をしていて、
この時をはずさずに討ち取ってしまおうともくろんでいると勘違いした義継の供の者たちが、これを即座に輝宗との会見中の義継の耳に入れたので、
義継はそのことを聞いて驚き恐れ、このままでは安全に帰城もかなわぬと恐怖し、迷い、錯乱して、
その結果、しまいにはあのような顛末になってしまったので、これは、そもそもが誤解から生じた事件であったという説がある。

また、これは誤解ではなくて、
元々がはじめから輝宗と政宗は共謀して畠山義継を謀殺するつもりであったのが、それに勘付いた義継が、決死の先手を打ったのだとする説もあって、
双方の史料をいろいろと勘案して考察するに、しかし、この事件の様相は全く判然としない、いくら考えても、いっこうに分からんのである。


畠山義継のあのような仕業には、もっともらしい理由がいくら探しても見つからない。


だいたい、降伏したとはいえ、伊達領はまだ危険な敵地であり、そこで油断をついて輝宗を捕えたからといって無事でいられるはずがないのだ。

畠山義継の仕業は、心労で疲れ切って平常心を失い、錯乱して、ついに発狂したのではないかとも思えてしまう。


ここで私見を書くが、

伊達家側の史料には、この事件は畠山義継の暴虐だと言いたげに記されているが、
しかし史料を詳しく検証すると、
事件の経緯に関する記述に不自然な点があり、わざと明言を避けている部分や、肝心なところが曖昧な表現になってぼかされていたり、明らかに他の史料との整合性が合わない部分が散見される。

なにか、言いたくない、書きたくない、隠しておきたい、といったようなニュアンスが感じられる。

畠山義継側の史料にしても、これも同じようなものであり、しかも、こちらは憶測につぐ憶測のオンパレードの記述ばかりで、どこまで信用してよいのか分からないのであるが、

しかし、前章に少しだけ書いたが、

伊達家中にひどく恨まれている者があり、畠山義継がこの者を庇護してかくまっていて、

政宗がこの者の引き渡しを要求するも、畠山義継があくまでもこの者をかばって拒んでいたという説があり、


私は、この者に、何らかのヒントが隠されているような気がして仕方がないのである。

もっとも、政宗が畠山義継と会見している頃には、この者はすでに芦名家を頼って逃亡している(異説あり)。


この者とは、これは、伊達政宗公の伝記に明るい方々であれば、すでにご存知であろう。



【2015/09/10 23:36】 | 未分類 | コメント(0)
コラム 独眼竜 伊達政宗 Ⅱ

ところで、伊達政宗の人格形成に多大なる影響を与えた事件といえば、まず第一に、政宗は幼少期の頃に疱瘡を患い、その膿が片方の目に入った為に隻眼になってしまったことであろう。

この時代は、まだ、長男が嫡男として家督を継ぐという決まりはないのであるが、しかし、戦国の世を乗り切れるだけのそれ相応の実力が認められれば、まずは長男を重要視して、優先的に家督を譲るという風潮・風習はあったのだ。

だから、長男として誕生した政宗は、嫡男として伊達家中の期待も実に大きなものであったろうし、
特に政宗の母親は、家中の期待感を一身に背負わされて、しかも、その期待にこたえなければならないという責任感から日増しに重圧感さえ感じざるを得えない状態になっていたのではなかったかと思うのである。


これは、他の有名な戦国武将の母親たちにもいえることかもしれない。


上杉謙信も、織田信長も、武田信玄も、その家の長男として生まれた有名な武将は他にもたくさんいるのだが、

彼らの伝記を読んでいて本当に痛感させられることは、いずれも共通して実母との仲がひじょうに険悪で、どちらかといえば母親のほうが嫌悪して長男を遠ざけているケースが多いということだ。


当時の女性には、江戸時代のような厳しい倫理観も道徳観もない。社会もそれを強く要求していない。この時代は女性も自由奔放で、その個性を強烈に発揮している。

また、母性愛というのは、環境や条件によっては、慈愛に満ちた愛情にもなれば、その愛情が愛憎に変わることもあれば、強烈な憎悪にすら変化することもある。これは、今の時代も同じことだ。


政宗の母親とすれば、伊達家中での強烈なストレスの上に、さらに、そのうえに、政宗は隻眼になってしまい、弓取りの武将として致命的な欠陥を背負うことになってしまったのだから、その家中での重圧感たるや、なおさらであったろう。


政宗も上述の戦国武将たちと同じように母親から忌み嫌われて、そのせいでもあったろうか、少年時代はひじょうに内向的で、てれやのはにかみやであったと云われている。

しかし、そのてれ屋のはにかみ屋が、後年は横着者の大器量人にまで成長するのであるから、人の運命とは、本当に人知の及ぶところではないと痛感させられるのである。



そして第二に、政宗の生涯を語るうえでの一番の大惨事は、彼の最愛の理解者であった父親との壮絶悲壮な別れであろう。


この経緯は、伊達成実の成実日記、史料の明良洪範、その他の諸説を勘案すると、こうなる。


伊達領の隣国には、畠山義継という武将の領する二本松城があった。

畠山義継は以前、伊達家に所属していたのであるが、やがて威勢の良い強国の芦名家によしみを通じるようになり、ついに伊達を離反して猛烈に反抗しだした。


しかし、衆寡敵せず、伊達の武威に恐れをなし、政宗に再度の帰服を申し入れた。


政宗はこの時、伊達家の家督を父親の輝宗から譲られたばかりであったので、伊達家中の心情も考慮して、畠山義継の帰参に対して過酷な条件を提示する。

また、畠山義継は伊達を叛いた経緯があるのだから、もしかしたら芦名家の間諜となっている可能性も否定できない。

しかも、畠山義継は伊達家中から深い恨みを買っている者をかくまっており、その者を引き渡すことを拒み、いまだにそのままの状態で帰参を願い出ているので、ますます信用することができない。疑わしいのである。



さて、政宗の口上に、畠山義継は青ざめて条件の緩和を要求するが、政宗は頑として聞き入れない。


困り果てて、隠居している伊達輝宗の元に何度となく出向いてとりなしを頼むのであるが、まるで埒があかない。


こうして、ガックリと肩を落とし、悲壮な顔立ちて帰っていくのだが、さすがに輝宗も気の毒に思ったのであろう、丁寧に見送りに出たのであるが、


これが、まさかの油断になってしまった。



【2015/09/07 18:44】 | 未分類 | コメント(0)
コラム 独眼竜 伊達政宗 Ⅰ

東国の奥州(陸奥の国)を席巻した伊達政宗は、戦国時代末期の風雲児である。

父親の伊達輝宗から家督を譲られたのが、若年の十八歳の頃、奥州の片田舎の米沢から他領を侵略することわずか五年、天正十七年の頃までには会津四郡、仙道七郡をたちまち平定し、その勢いはとどまることを知らず、出羽の国にまで兵馬を進めている。


強国の芦名家を攻め滅ぼして本城を会津の地に移し、二十三歳の政宗は約百万石を領するまでの大大名にのし上がったのである。


ちなみに、そもそも芦名家というのは、三浦半島の久里浜周辺の豪族であった佐原氏の一族である。

 源頼朝が奥州平泉の藤原氏を滅ぼした際に、その戦いで忠勤を抜きんでた佐原氏が会津の地を拝領し、その一族で三浦半島の芦名に所在していた芦名ノ盛連の一族が鎌倉時代の末期に会津の地に移り住んだのである。


伊達政宗が虎視眈々と狙っていた芦名家には、伊達輝宗の妹が嫁いでおり、したがって、その伊達御前にとっては政宗は甥にあたるわけで、ここが戦国時代の実に恐ろしいところだ。領土欲の前に義理もヘチマもない。

まさに無慈悲限りなし、野望心旺盛な政宗の欲望にまったく限りなしである。

もっとも、政宗によって芦名家が攻め滅ぼされる一年ぐらい前に、伊達御前は病没しているようであるから、この悲惨な現実を知らずに済んではいるのだが。


 余談であるが、この伊達御前は、非常に繊細で嫉妬深い人であったようで、もともとは、芦名盛氏から家督を譲られた息子の盛興に嫁いで女の子を一人だけ産んだのであるが、
夫の盛興(酒毒の胃潰瘍で20代の後半ぐらいに死んでいる)は、伊達御前の侍女(芦名の重臣、片平家の女)に手をつけて、伊達御前と同じ時期に男の子(幼名は力丸という)が産まれているのだ。

これが原因で、伊達御前は精神的に不安定になり、その侍女を殺そうとまでしたという伝説がある。

また、伊達御前は力丸を憎み、芦名家の世継ぎたることを頑強に認めず、後年は、その存在すら消し去るように忘れているほどで、
この伊達御前の嫉妬により、芦名家はしかたがないので、二階堂家の血筋の者や、佐竹家の一族を当主に迎えている。
これが、芦名家の重臣たちの分裂を助長し、政宗につけいる隙を与えてしまうのである。

伊達御前が早々に力丸を芦名家の当主と認めていれば、芦名の結束は強固なままであり、
あの摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)の様相は一変したかもしれないし、もしかしたら政宗の野望はとん挫してしまったかもしれない。


 
 さて、伊達政宗の戦歴を一々書いては果てしがないので書かないが、政宗はたぐい稀な戦(いくさ)上手であり、運もことのほか強い。

 外交政策もまことに巧みで、時の権力者である秀吉のご機嫌を取りながら、しかしその一方では関東の大群雄の北条家に通謀したりしている。

どちらに転んでもいいように二股をかける一方で、近隣の諸豪族をかたっぱしに征服している。

豊臣家に帰服を誓っている諸豪族らも、同様にことごとく征伐しているのだから、恐れ入る。


 政宗は、秀吉と親交の厚い前田利家、徳川家康、浅野長政などにドシドシと贈り物を送り、彼らと親しく音信を結んで取り入るという老練ぶりである。

万が一に備えて、セッセセッセと種をまいていたのだ。


後年、秀吉が北条家征伐を断行して小田原城を重囲した際に、その参陣に遅れた政宗は辛くも秀吉に許されて首がつながったのであるが、秀吉の大風呂敷、太っ腹、大度量もそうだが、以前にセッセとまいておいた種が生きたともいえる。


政宗が遅参ゆえの死罪を免れたのは、政宗を弁護してくれた武将たちのおかげでもあり、特に徳川家康はずいぶんと骨を折って政宗をとりなしている。

家康は家康で、セッセと種をまいていたのだ。



 こうした政宗の煮ても焼いても食えない横着な性質は、後年の関が原役において鮮明に現れるのであるが、詳しく書いては果てしがない。別の機会に詳述したい。


 ところで、伊達政宗は隻眼であったと云われ、政宗は独眼竜で有名である。


 独眼竜というのは、古代中国の五胡十六国の時代に、後唐の創業者である李克用のあだ名にちなんでつけられたようである。
 
 李克用は隻眼の弓の名手で、後年になって李克用がめきめきと頭角を現し、世間に広く知れ渡るようになると、独眼竜と呼ばれるようになったという。
 

【2015/09/04 01:29】 | 未分類 | コメント(0)
王覇 信長の後継者 (秀吉の大望)

秀吉は、古代中国の前漢の創業者である劉邦のように徒手空拳の身の上から飛竜昇天の如くたちまち戦乱の世に頭角を現し、
まさに乱世の英雄といってよいほどの大偉業を成し遂げた人物であり、また、異常で異様とも思えるほどの日本史上前代未聞の大出世を果たした大幸運児だったのであるが、

しかし、残念ながら、肉親・親族には決して恵まれたとはいえない。

 秀吉が親族関係に恵まれなかったことも、豊臣家最大の不幸ではなかったかと思うのである。

秀吉の家臣団を形成する上において、地縁関係がなければ、せめて血縁関係で少しは補いもついたであろうが、弟の秀長は秀吉の片腕とでもいうべき雄略の人で、思慮深い逸材の人物だったのであるが、後年の小田原征伐の翌年には病没してしまう。
秀長の子である秀保も文禄三年頃に早世している。


 諸史料によれば、加藤清正・福島正則は秀吉と同じ尾張中村の出身で、史書の清正記では、秀吉と清正はいとこ同士と記されており、これが今の現在も信じられていて、映画やTVドラマなどでもそのように放映されているケースが多いのだが、
しかし、詳しく調べてみると疑わしい記述であるとの見解も非常に多いのである。

 
 また、福島正則は秀吉とは遠い親戚であるかのように云われているが、しかし、これも諸史料を検証するに非常にいぶかしい点も多く、厳密にいえば、出自の分からない「桶屋のせがれ」ということになるだけで、秀吉との血縁関係は非常に疑わしいと思われる。

 秀吉の妻、ねね(ねね、おね、ね、史料によって様々の記述あり)の親族に木下家定、浅野長政がいるが、この両名はどちらかといえば人の良い官僚肌で、これという人物ではなかったようである。


 惜しむらくは、秀吉とねねとの間に子がなかったことであろう。歴史にもしもは禁じ手であるというが、しかし、もし、この夫婦が早い段階でいく人もの子宝に恵まれていれば、秀吉恩顧の諸将の動静は限りなく未知数であったろうし、
そしてそれが、さまざまな憶測を呼び覚まして感慨深い興趣を誘うのである。


憶測ついでに余談を書くが、

 子宝に恵まれない原因が秀吉にではなく、妻のおねの体にあったかのように表現している歴史小説やTVドラマなどが実に多いが、しかし、これはいただけない話しだ。

 秀吉は数多くの妻(当時、妻は何人でも持てたのである。もちろん、嫡妻はいる。淀殿は側室ではなくて、れっきとした妻である。また、当時はまだ、妻と側室の厳格な区別はなくてあいまいであった)たち、側室たち、お妾さんも含めて、淀殿以外は誰一人として子宝に恵まれていないのだから、これは、秀吉の体に原因があったとする見解のほうが自然なのではないだろうか。


実際、早世した鶴松にしても、豊臣秀頼にしても、秀吉の実子ではないという風評は当時もたくさんあり、伊達政宗が、

「石田三成との子ではないのか。」といって、その噂を聞いた徳川家康から、

「軽率な言動は慎むように。」と、こっぴどく叱られている。


 伊達政宗は横着者の雄略の人であり、実に直感力の優れている人物なのだ。直感的にうさんくささを感じたので、なんとなく象徴的にそのように言ったまでのことだったのかもしれない。


 また、大野治長との噂も有名であるが、名古屋山三郎の説もあって、これは否定的な見解が多いのが、しかし棄てがたいのである。
小説的な文学にするとおもしろい話しになるかもしれない。

 名古屋山三郎とい人物は蒲生氏郷の家臣で、類稀な美貌の持ち主、戦国時代の伝説的な美少年で有名で、氏郷と男色関係にあったようである。
 
 織田信長と森蘭丸のような関係だ。


また、剣豪・豪傑としても有名であったが、氏郷の死後、蒲生家を出奔し、ダテを気取って身をもちくずしたようであるが、出雲の阿国と夫婦になったという伝説もあり、実際、後年の歌舞伎踊りに多大な影響を与えており、日本芸能史上、忘れてはならない人物となっている。


 このように、名古屋山三郎は、秀吉が寵愛する蒲生家に仕えていた人であり、武士として一流であり、遊芸に秀でた人物として有名でもあり、世上の女性たちにもてたようであったし、秀麗な美貌の持ち主であったりしたから、ひょっとして淀殿の引見があったかもしれない。


 ちなみに、名古屋山三郎は派手好きな人で、有名な前田慶次、伊達政宗などもそうであったが、派手好きを「ダテをする」というのが伊達家のダテが由来であるというが、これは間違いで、ダテは、鎌倉時代から使われている言葉である。




 さて、九州を制圧して西国を安定させ、京都に凱旋して天下泰平の気運を盛り上げた秀吉は、いよいよ東国の大群雄である関東に威勢を張る北条家にその眼光を光らせる。


 素浪人同然だった伊勢新九郎長氏が知勇の限りを尽くして北条早雲と名乗るまでになり、関東を切り従えて勢力を張ることついに五代に及び、今では関東八州を制するまでの大勢力になっていた。



 秀吉は北条に度々に渡って使者を遣わし、上洛の催促状を何度となく送っていたのであるが、北条氏政・氏直親子は、まるで意にかいさない。


「あれは、まともな関白じゃない。」と、思っていたのであろうし、上方の情勢に暗かったことも事実であったろう。



 彼らは頑迷な、井の中の蛙であった。




【2015/08/28 20:14】 | 未分類 | コメント(0)
王覇 信長の後継者 (秀吉の遺産 関ヶ原役と家臣団)

諸説によれば、後年の豊臣家は武断派と文治派に分かれ、その派閥争いにつけ込んだ徳川家康が武断派を抱き込んで関ヶ原役に大勝したというが、
しかし、このような分裂騒動がなかったとしても、秀吉恩顧の武将たちの多くは、無念ながらも家康につくしかなかったであろうと思われる。

なぜなら、前章で書いたことであるが、秀吉の取り立て武将の多くは、その家臣団との信頼関係に非常に不安のある君臣関係だったからである。

独裁政権下で絶大な権勢をふるい、諸大名に睨みを利かせて重石役を果たしていた秀吉はすでに病没していたのだから、ここはなおさら不安なところであったろう。

また、精神論の上でも、

「武士たる者は、君主の前で潔く討死する」といったような武士道は、戦国時代にはまだ一般化していない。

この当時は、江戸時代のような儒教に基づく君臣関係など、まだ確立されていない。

この時代、家臣団の主たる構成員の老臣・家老たち、重臣・知行主である中小豪族らにしてみれば、他家の当主(つまり、家康のことだ)が実に頼りがいのある主人で、自分たちの所領を安全に確保してくれて待遇もよければ、人質を棄て殺しにしてでも、平気で離反して去っていくのだ。

秀吉の取り立て武将らの家中がこんな状態であるにも関わらず、秀吉亡き後の即席集団である豊臣家に加担したら、これは大名家のみならず、その家臣団を構成する知行主たちの家も潰しかねないだろう。


 秀吉のたぐい稀な政治的采配によってまとまっていた豊臣家が、秀吉の亡き後は、上から下まで全くの寄せ集め集団と化していたのである。


 徳川家康は豊臣家の大老職筆頭であり、あくまでも外征に反対であった良識者であり、徳川家の石高は諸大名中ナンバー1であり、
しかも、徳川家の内情は外征において全くの無傷の状態だったのだから、戦国大名にしろ、その家臣団を構成する老臣・重臣たちにしろ、知行主の中小豪族たちにしろ、どちらに加担したほうが家の保全上得策であるかは明白であったはずなのである。


 余談を書くが、後年、明治時代の頃にドイツの有名な戦略家が来日し、旧日本軍の高級将校らと関ヶ原に遊んで散策した際に、

「どうして西軍は敗れたのだろう。戦略は完璧な布陣なのだが。」というと、関ヶ原役での小早川秀秋の裏切りを聞いて、

「なるほど、そうだろう。そうであったにちがいない。」と納得したという話しがあるが、しかし、私には、この話しがどうしても信じられない。

これは、日本人の悪弊である「員数主義(その内実を問わずに、数字さえ合っていればいいという形式主義。数合わせの論理 )」の典型の話しであり、

戦争の勝敗を、数字合わせ・数の論理でかたづけてしまおうとする戦略家としてあってはならない員数主義の迷妄に陥っていると思うからである。


 関ヶ原役での西軍の敗因は、他にもたくさんある。

 
 西軍で激烈果敢に死力を尽くしてまともに戦っているのは、宇喜多秀家と大谷吉継の軍勢だけだ。

  また、小早川秀秋の裏切りが勝敗の明暗を分けたのは確かに事実ではあるが、しかし、これは後世から見た場合の結果論にすぎない。

秀吉の取り立て武将の多くは小早川秀秋の裏切りを聞いただけで、
まだ、小早川秀秋の裏切りが勝敗の決定打になるのかどうかも分からない五里霧中の状態であったにも関わらず、
西軍の敗戦を決め込んで早々と東軍に寝返る者あり、遁走するかのように戦場からサッサと逃走する者ありで、まったくのテイタラクの状態に成り果ててしまっている。

これは、前述した家臣団の問題点が爆発するかのように噴出した結末であったろうし、西軍の家臣団の中には、家康の調略がなかったとしても、あらかじめ徳川家への加担を熱望していた家老・重臣たちも多かったに違いないのである。


 小早川秀秋はあまり評判のよくない人物であるが、しかし、私は彼に同情的だ。


 前述の理由によって、老臣・家老・重臣たちが常に脅迫的に威圧して、小早川秀秋の東軍への加担を強いていたように思えてならないのである。

実際、諸史料によれば、小早川家の重臣の多くが徳川家への加担を切望しており、当主の小早川秀秋に対して諫言するかのように説得している。


 松尾山の陣中で、どちらに加担するか悩みに悩み、焦慮し、老臣の意見にまどわされ、徳川から鉄砲を撃ち込まれて慌て、うろたえ、そしてしまいにはなしくずし的になって東軍に寝返って西軍に突入する場面をTVドラマなどで見ることが多いが、

しかし、小早川秀秋公の立場を想えば、これは、是非もなし、いたしかたなし、といったあきらめに近い胸中なのではなかったかと思うのである。


 その胸中を想うとき、なぜか、目がしらが熱くなり、自然と涙がこぼれ落ちてしまうのである。
 

 
【2015/08/22 18:22】 | 未分類 | コメント(0)
王覇 信長の後継者 (豊臣政権の功罪 秀吉の家臣団)


秀吉は英雄中の英雄であるが、門閥の特性である主君を支える譜代の家臣団というものを持っていなかった。

織田信長は勇猛な尾張衆に支えられ、徳川家康は忠誠無私の三河衆を最も頼りにしていたのである。

その他の乱世の群雄たちも、優秀な家臣団に恵まれて、しかも実に強固な結束、家中の運命共同体的な団結力に支えられていたからこそ、その支配する領国は安定し、五里霧中の戦国乱離の世を生き抜くことができたのだ。


 また、譜代の家臣団というものは、長い年月を経過しながら次第に形成されるものであり、その時々の都合や気運や時運などで、まるでテマエミソのように簡単に出来上がるものではない。

古来からの血縁関係、地縁関係などから次第に協力関係が形成されて、それが強固な団結力となって主君と仰ぐ統治者を支えていたのである。


 
 出自のあやしい、門閥外の秀吉には譜代の家臣団などあろうはずもなく、したがって、秀吉は早急に、しかも短期間のうちに家臣団を編成しなければならない運命にあった。

その結果、非常に脆弱な間に合わせの感を否めない家臣団が形成されて、まるで即席の寄せ集め集団のようにならざるを得ない様相を呈することになったのである。


これは、秀吉が取り立てた数多くの武将たちの家臣団にもいえることである。

加藤清正、福島正則、加藤嘉明、山内一豊、中村一氏、加藤光泰、小西行長、石田三成、数え上げたらきりがないぐらいにまだまだ大勢いるのだが、彼らはわずか数千石の身上から、いきなり数十万石の大名になっているのだ。

彼らは秀吉から拝領した領国に赴き、その地で地縁・血縁で結ばれている中小豪族らの協力を得て家臣団を編成することになるのであるが、
しかし元々が地縁・血縁で結ばれているわけではないのだから、当主と家臣団との信頼関係は非常に希薄で脆弱なのだ。


また、彼らは大量に人員をかき集め、膨大にふくれ上がった領国経営の指揮・命令系統を早急に形成する必要性に迫られたから、
必然的に、信頼関係のある今までの部下たちの社会的な地位を引き上げて、重要な要所・要職を任せることになった。


その結果、にわか家老、にわか奉行、にわか目付、にわか物頭が続出することになったのだ。


つまり、元々が小者を五・六人ぐらいしか使っていなかった者を老臣にしたり、家老にしたり、
もともと士分の家来のいない者などは、中間や小者などを武士の身分にして、重臣にしたり、奉行にしたり、目付にしたりしたのだ。

これは、もちつけない権力をふるう者たちを続出させることになったのだから、言語道断な仕業が次々と続発することになった。


以前の章で書いた九州地方での一揆、後年の奥州地方で発生する一揆にしても、もとはと言えば、このもちつけない権力をふるった者たちの言語道断な横暴が原因で発生したといってよいのである。

一揆の原因に関する諸史料によれば、にわか奉行、にわか目付どもが部下を率いて農家に押し入って米穀を奪ったり、
百姓の男女をかすめ取ってきて下女・下人にしたり、身分のある旧臣の娘をさらって妻にしたり妾にしたりと、言語道断の乱暴狼藉の数々が記録されているのだ。


 ここで視点を変えて考察するが、

 秀吉に取り潰しの憂き目にあった大名家が多々あるが、しかし彼らのほとんどは、別に食うに困ることはないのである。元々が先祖伝来の領地を持っており、帰農するか、または他の主家を探し求めて仕えれば武士の身分は維持できるのである。

大名家が滅んで変わったことといえば、以前は知行主だったから納税の義務はなかったが、しかし今は単なる地主だから納税の義務がある。

ここに、にわか奉行・にわか目付らがやってきて納税の交渉となるのだが、しかし以前、要職を歴任したことのある旧臣たちにしてみれば、
どうみても役職(奉行・目付)のわりには能力が稚拙でヘタクソであるし、虎の威を借るの典型で態度がデカイ、無礼・非礼であったりするし、身分のわりには礼儀知らずでツケツケとものは言うしで、
これでは、身分ある旧臣であった者たちからすればおもしろかろうはずがない。

そこに先ほどのような言語道断の狼藉の数々とあっては、これでは一揆が発生しても不思議でもなんでもないのである。


 また、検地も一揆続発の原因だ。

 秀吉は占領政策として必ず検地を励行したのであるが、
農家には隠し田といって、これがあるから領主の苛斂誅求、横暴な年貢の取り立てなどにも耐えることができたのであるが、この厳密な測量方法によって隠し田を失う可能性があるのだから、騒がないほうがおかしいのだ。



【2015/08/16 13:42】 | 未分類 | コメント(0)
王覇 信長の後継者 (乱世の英雄と天皇家の野望)

天正16年(1588年)秀吉は後陽成天皇の行幸を仰ぎ、聚楽第への行幸を実現させている。

これにより、天皇家をはじめとする朝廷の権威を擁する秀吉が天下一の大実力者であることがさらに誇示され、全国の群雄らは秀吉の命令を無視できないものとなり、また、果てしのない戦乱の世から平和への招来を感じさせる気運と希望がいっそう高まったのである。

ところで、織田信長は、朝廷の権威を利用はしたが、その利用価値の必要性が感じられなくなると、すぐさま執着することなく捨て去り、
後年、建前の上では次々と官位の拝命を受けてはいるが、しかし、その後は実質的には官位を返上して、朝廷の枠組みを越えて逸脱していくかのような状態になりながらも覇者足りえている。

近世的な直感に優れ、懐疑的に物事をとらえる信長にとって、まやかしごとは大嫌いであり、旧時代の積弊・悪弊を蛇蝎の如く忌み嫌う実際家の現実主義者であり、したがって、実力のともなわない飾り雛的な官位などには全然興味の無いものであった。


こんな逸話がある。

信長が武田家を征伐しての駿河路を通っての帰路の際に、前太政大臣の近衛前久が同道を願い出ると、

「そなたは、木曽路でもとおって帰るがよい。」と、馬上で吐き捨てるようにいったという有名な話しがある。

 朝廷の最高位である前太政大臣閣下に対して、この態度なのだ。

朝廷の権威や官位など、この実際家の野生児には全然興味がないのである。

ちなみに、この逸話は「信長の暴言」ということで有名であるが、しかし史料の原文を詳しく調べると、これは親しい友人だからこそ使われる言葉であり、
どちらかというと暴言というよりも、近衛前久と親しい間柄であったからこそ使った言葉ではなかったかと思われる。

確かに、信長の態度は朝廷の権威を軽視している感はあるが、しかし、近衛前久との人間関係は良好であったように思うのである。


 さて、織田信長と比べて、秀吉のほうが熱心に皇室を崇拝し、朝廷を敬い大切に扱っていたかのように思えるのだが、しかし実はそうではない。
「そうせざるを得ない事情」が秀吉にあったという事が本当のところだろう。

 秀吉は門閥の生まれではない。

 まさに、徒手空拳からの立身出世、異常で異様とも思えるほどの前代未聞の大出世であった。門閥の背景を持たない秀吉が、門閥の国で覇者をめざすことになったのである。


頼りとする血縁に恵まれず、有力な地縁関係も持たない秀吉が覇者足りえるには、秀吉を擁護するカリスマ的な存在が絶対的に必要なはずだったのだ。

秀吉の盤石を期して築き上げていく豊臣政権下において、天皇を中心とする朝廷の権威は必要条件であったはずなのである。

 また、朝廷サイドとしても、秀吉の天下は歓迎すべきものであったに違いない。

 なぜなら、人に仕えてもらうことには慣れていても、人に仕えることを知らない、実に独善的で非人情な天皇家・公家衆にとって、
形式的な儀礼にばかりに終始して、実質的な政治力の無い、軍事力も経済力も皆無の彼らにとって、あくまでも朝廷を崇拝して天皇家を最上位として敬う秀吉を大いに歓迎したに違いないのである。


 私見を書くが、私は、皇室は日本の伝統的な存在であり、日本の歴史的な宝であり、今の現在も日本の貴重な象徴的な存在であると信じる者であるが、
 しかし日本史を歴史的に詳細に考察するときに、天皇家をを中心とする公家衆が歴史的な大問題を続発させて、その結果、その時代の社会的な通念を大混乱させたことも事実である。

一つは荘園制度。

 私は小学生の時に、荘園と聞けば「別荘のような庭園」を想像して、藤原氏が金にものをいわせて別荘地をたくさん作っていたかのようなイメージがあったが、
これはとんでもない錯覚であり、とんでもない間違いであり、この件に関しての問題点は別の章で書いている。思い出していただきたい。


 二つ目は、保元・平治の乱。

 これは日本史上、人倫上の大事件であり、上は天皇家から摂関家、下は平氏・源氏の武士にいたるまで、親子・兄弟が殺し合う凄惨な大事件であり、ことのはじまりが天皇家の権力闘争であったから社会的な影響力は大であったし、とにかく社会的にあらゆる点で、人倫上あらゆる意味で、非常に始末の悪い大事件である。


 三つ目は、承久の乱・建武の新政。

 天皇家・公家衆の特性を知るうえで、なくてはならない事件。

 承久の乱では、後鳥羽上皇は、討幕を決意して官軍を鎌倉に向かわせておきながら、その後、敗報を知るや否や保身に走り、鎌倉方に敗れて敗走してきた官軍の将兵たちは、紙くず同然に見棄てられている。

 後醍醐天皇などは、討幕計画の密謀がもれるたびに、次々と身代わりを強要して罪をまぬがれ、身代わりとなって罪を被せられた数多くの忠臣たちが死んでいる。

楠正成の一族などは、朝廷の勅命によって次々と悲壮な最期を何度となく強要されて、その一族郎党は全滅に近い状態に成り果ててしまったのだ。

後醍醐天皇という人は、時代錯誤もはなはだしい王朝時代の政治を夢見ていた人物であり、討幕の戦功や功績のある武士たちに恩賞を与えず、なんら功績のない朝廷の公家衆や蹴鞠の上手な者たちなどにばらまくように恩賞を与えて、そのあつれきが原因で建武の新政はわずか数年でとん挫している。


  四つ目は、応仁の乱。

 元々が天皇家の皇位継承問題、足利将軍家・公家衆のみにくい家督相続争いが原因であり、しかも始末の悪いことに、上がこうなら下はならえで、守護大名から地方豪族にいたるまで争いが飛び火して大混乱の状態となり、ついに下剋上の戦国時代に突入することになる。


 後年の徳川家康の功績は、どんなアホウでも長男(嫡男)を相続人とすることを制度化したことだ。

 これによって、天下万民のみにくい家督相続争いも激減し、安定的で平和な江戸時代が訪れるのである。

 
 最後に、古来より、天皇を中心とする朝廷(公家衆)は、万民から崇拝される権威を持つ社会的な優位者でありながら、熾烈な権力闘争あり、醜い皇位継承問題あり、親子兄弟が殺し合う凄惨な事件も頻繁に見受けられる。

彼らは、人に仕えてもらうことに慣れており、したがって人に仕えてもらうことが当然のことであり、ゆえに、人に仕える者たちの気持ちに恐ろしく鈍感で、日常的に独善的で非人情な体質になったのであろう。

 
日本史を知るとき、非人情で刻薄で陰険、人を無感動に平然と切り捨てる天皇家・公家衆の体質をあらかじめ知っておくことも、非常に重要な要素なのかもしれない。




【2015/08/08 19:59】 | 未分類 | コメント(0)
王覇 信長の後継者 (秀吉、天下取りの夢)

九州の肥後国(今の熊本県)は非常に農業生産力の優れた土地で、秀吉は九州征伐の時に肥後に入った際に、

「いまだかつて、これほどの美国を見たことがないぞ!」と驚嘆しているし、あの大東亜戦争当時においても、日本で自給自足にこと欠いたことのない唯一の土地であった。

秀吉は後年の外征(唐入り)において、肥後国を任せる加藤清正、小西行長を先鋒に立てて朝鮮半島に上陸させているから、肥後がいかに生産性の富んだ土地であったかがよく分かるのである。


 ここで私見を書くが、改正三河後風土記や、その他の諸説によれば、秀吉は以前から佐々成政を憎んでいて、肥後は天下の美国であるうえに、猛将勇卒を率いる国人衆の諸勢力の混在する肥後をわざと佐々に与えておいて、
その一方でいずれ続発するであろう一揆にかこつけて佐々を陥れ、その責任を取らせて切腹に追い込んだとする見解があるが、しかし、そうではないように思われる。

 秀吉は、佐々が肥後に入る前に、諸豪族を刺激しないようにする方策であるとか、検地は三年間行ってはならないとか、肥後の国人衆との融和策であるとか、こと細かく丁寧にアドバイスしている。

佐々成政は織田の猛将で実に有名な人物だったのだ。
秀吉が佐々に肥後を与えたのは、後年の外征を視野に入れて、猛将の佐々をその先鋒に使うつもりであったに違いない。


 さて、ともかくも九州を平定した秀吉は、京に築いた聚楽第の完成を楽しみにしながら意気揚々と凱旋するのであった。


 織田信長もそうであったように、秀吉も大の建築好きだ。

 現代の心理学者によれば、いつの時代も、高層建造物は「人心を安定させる特効薬」なのだそうである。


 秀吉は信長と同じく、人民が天下泰平のシンボルを強く望んでいることを直感的に気づいていたのであろう。

 また、秀吉は信長以上に派手でにぎやかなことが大好きで、その性格も実に陽気で明るく、果てしのない歓楽の追求者でもあった。
それを象徴する大イベントが有名な北野の大茶会である。

茶を愛好する人々を身分の上下に関係なく広く招き入れ、前代未聞の時の権力者主催の大遊園会を開催したのである。

 陽気な演出屋の秀吉のことだ、大いにその宣伝に励んだであろうし、開幕したイベントは様々な趣向をこらした華やかなものであったろうし、泰平の世の気運も十分に高まったことであろう。


 織田信長は戦国乱世を終息させる先駆者であった。中世の積弊、悪弊と化した古いシステム(荘園制度から派生した領主(後年の守護大名・戦国大名)・寺領(自治権を持つ寺領・僧兵)、同業者組合の座、流通を阻害する関所、既得権益にあぐらをかいている公家衆、などとの闘争の連続であり、ゆえに、血で血を洗う抗争は常に避けられないものであった。

 しかし、秀吉の時代になると、信長の偉業に拍車をかけた秀吉によって政治的な安定性がもたらされ、人々は平和を謳歌するだけの余裕が生まれたのである。


 ましてや、秀吉は人間学の大家であり、人をなるべく殺さないように努めた人物だ。
天下の英雄豪傑たちを呑み込むが如くの大度量の持ち主であった。

秀吉は「人たらし」で有名であるが、秀吉の人間的な魅力が人々を融和させて、平和の招来を感じさせる気運を盛り上げたことも事実であったろう。


ここで最後に、 少し私見を書くが、

 秀吉は、織田家の家臣だった人であり、信長のおかげで立身出世した人物であり、織田の師団長格にまで出世したとはいえ、しかし、どこまでも織田家の一武将にしかすぎなかった。


 秀吉は、どこまでも織田家を簒奪した逆臣なのであり、織田家当主の三法師から権勢を奪い取った叛臣であり、信長の偉業をうまく利用して活用したにすぎないことは明白な事実なのであるが、しかし、信長の後継者を想うときに、秀吉がぴったりの逸材の人物であったことは、
これは、残念ながら認めざるを得ないところであろう。




【2015/08/02 23:22】 | 未分類 | コメント(0)
王覇 信長の後継者 (秀吉、西国平定)

さて、九州において猛威をふるった島津であったが、秀吉の前代未聞の膨大な大軍勢の前に降伏し、島津家の当主である島津義久は剃髪して恭順の意を示し、急速に南下を続ける豊臣勢の総大将の羽柴秀長に対して寛大なる処置を懇願するのであった。

 この報告を受けた秀吉は快諾して許し、九州での今後の仕置きもテキパキと済ませて京都に凱旋するのであるが、
秀吉はこの九州征伐の際に、帰服して恭順する中小豪族たちに本領安堵状を乱発している。

 
 後日、秀吉に命ぜられて九州での新しい国主として赴任する武将たちにしてみれば、非常に不安だらけであったはずだ。

まさに、爆発寸前の火薬庫を抱えているようなものだったのだ。


 九州は広大な土地に加えて険阻な山岳地帯もことのほか多い。

地方豪族が割拠しやすい土地がらでもあり、山間部などは天然の要害になっている。

こんな場所で諸豪族たちに反抗し続けられたら大変にやっかいなことになり、九州征伐が非常に長引いてしまうであろうし、
豊臣軍は膨大な軍勢なのだから長期戦になれば兵糧の面でも心配なところであろうし、秀吉の不在による東国の動静も予断を許さない状態だったのだ。

秀吉の大風呂敷、太っ腹もそうだが、ヘタに地方豪族たちを刺激して警戒させるよりも、ここは気前よく本領を安堵してやったほうが九州平定もうまく運ぶというものだ。

こんなわけで、秀吉は本領安堵状を乱発したのであろうが、しかし、もともとが険阻な天然の要害に拠っている中小豪族たちなのだ、反抗する力も十分にあれば、長期に渡る防戦・籠城戦にも耐えられるし、地方豪族たちのそのほとんどが兵力を温存しての降伏だったのだから、反乱した場合においての戦力にも十分に自信があったはずなのだ。

これでは、まるで独立した諸勢力が混在しているようなもので、新しい領主となって赴任する者たちにしてみれば、これほど統治しにくい領国はあるまい。


 このあつれきは後年、九州の国人衆を中心とする一揆にまで発展し、やがて九州全土に広がり、新領主たちを悩ませて困らせることになる。

 一揆勢といっても、在地の国人衆が率いる軍勢なのだ。戦争の専門家なのだから、恐ろしく強いのだ。


 織田家の旧臣で、やむなく秀吉に降伏した佐々成政は肥後国を任されてその地に赴任するのであるが、猛将で有名な佐々が一揆勢の鎮圧に手を焼いて、隣国などの協力を得た末にやっとのことで平定している。

 後年、佐々に代わって加藤清正、小西行長が肥後国に入り、肥後を半国ずつにして統治することになるのであるが、両名ともに、頻発する一揆勢の鎮圧には大変に苦労させられている。

 有名な逸話で、小西行長が選りすぐりの精強な精鋭を集めて、その総勢三千人を船に乗せて一揆勢の征伐に向かわせたところが、一人残らず全員が討ち取られて、船頭だけが船をこいで帰ってきたという話しがあるほどなのだ。


 豊前の黒田官兵衛も非常に手こずって、息子の長政とともに半年以上もかけて鎮圧し、その後もヒンピンと発生する一揆をやっとのことで平定している。


 九州人の粘り強い性質に加えて天然の要害もあり、その兵力は上方の軍勢よりも実に精強で猛将勇卒の多いことで有名だったのだ。いかに難しい土地であったかが分かるのである。



【2015/07/27 15:03】 | 未分類 | コメント(0)
コラム 総司令官 石田三成の悲運

 石田三成は実に優秀な行政官僚であるが、しかし、武将としての働きぶりはイマイチで、秀吉の小田原征伐の際にはあまりにもフガイナイ醜態ぶりを見せており、しかも、運も非常に悪い。

 秀吉は、石田三成の経世家としての才能を高く評価しながらも、その一方で、武将としての功名も立てさせてやろうと思ったのであろう。
この小田原征伐の際には、この時は珍しく三成は武将としての働きを見せて、その方面軍の総大将的な役割を担って出陣している。

石田三成は幕下の参謀として大谷吉継、長束正家らと共に各地から続々と集結する諸軍勢を率いて北条方の館林城、忍城を攻めたのであるが、
上州の館林城の攻略戦では、城の周囲の沼地に阻まれて攻城戦に手こずって難儀し、その沼地に木材をどんどん投げ込んで橋を作ってみたものの、
その橋の完成の翌日には、橋がすっかりと泥沼の中に沈み込んでしまい、三成の指令による諸将の寝る間を惜しんでの昼夜の突貫工事の日々の苦労にも関わらず、あえなくとん挫して大失敗。

ついに攻めあぐねて、降伏した北条方の使者(北条氏勝。黄八幡で勇名を轟かせた北条綱成の孫。)に城兵を説得させて、これでようやくのことで開城にこぎつけている。


なんだかんだの結果、なんのことはない、ようするに降伏して、開城したわけだ。



 つぎは武蔵に入り、忍城(北さいたまの行田市付近にあった城。)を重囲して、その付近の川を利用して堤防を築き、水攻めを断行するのであるが、
せっかく築いた堤防はあえなくあっけなく崩れてしまい、逆に味方の陣地・陣所がこの濁流の被害に遭って大混乱してしまう始末。

しかも、この濁流によって忍城の周囲は泥沼のようになってしまい、前回の館林城のような状態になり、マタマタ攻めあぐねてしまった。

そんな折に、豊臣方の真田昌幸、浅野長政らが精鋭を率いて応援に駆けつけてくれたのであるが、

失敗続きの小心者の三成は功をあせり、戦功を急いで抜け駆け、先駆けなどをするありさまで、これはもう、総大将どころか、端武者のごとき言語道断の仕業であり、実際、この時に温厚で実直なことで有名な浅野長政が、

「おのれ三成めが、平気でだしぬきおって!卑怯千万とはまさにこのことじゃ!」と、珍しく激怒しているぐらいなのだ。

だいたい、一武将ならいざ知らず、総大将ともあろう者が諸将を出し抜いて戦功を急いでいるわけで、こんな司令官では信頼性は限りなくゼロであるし、こんなていたらくぶりでは、諸将の結束は欠いてしまうし、したがって攻撃が散発的になって効果が全然上がらないしで、全くうまくいかない。


けっきょく、むなしく時を過ごして、北条家が秀吉に降伏し、小田原開城の後に、小田原からの使者がのこのこやってきて、その命令で忍城は開城している。


また、降伏して、開城したわけだ。
 

 さらに、

泥沼のかけ橋戦術、堤防の水攻め戦術と、秀吉のまねをしているところ、

「猿まねばっかり、するからじゃ!」と、諸将に思われていたに違いないのである。


 こんなていたらくな司令官では、戦場で命がけで戦う武将・兵士たちは認めてくれない。


 後年の関ヶ原役で、西軍のほとんどの部隊が動かなかったのは、石田三成の野戦司令官としての信頼性が限りなくゼロに近いものであったことも大きな要因であろう。



石田三成は優秀な行政官僚ではあったが、武将としての資質は非常に低かったと言わざるをえない。


しかし、私が、石田三成のことを書いていて思うことは、 

人の能力・才能・資質とは、「こうなのだから、これもきっと、こうなのだろう。」と、簡単に予測して割り切れるものではないということである。


今の現代も、「お金持ちには仁徳者が多い」とか、「名監督は名政治家」という言葉があるが、このような言葉がいかに的外れで、いいかげんで危険な判断であるかが分かるのである。


五輪選手やプロレスラー、芸能人などが政治家になってしまう時代なのだから。



【2015/07/18 17:28】 | 未分類 | コメント(0)
不如帰 ~戦国武将の幻影~


Ⅰ<覇王編>~逆賊 織田信長を討て!~  Ⅱ<争覇編>~織田家簒奪!秀吉の野望~

不如帰 戦国人物伝


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