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考察6 宗教と鉄砲
 織田信長の根強い頑敵は、一向一揆であった。伊勢・長嶋の一向一揆では何度となく派兵を繰り返し、約二万人を虐殺して終息を見ている。
あまりの手強さに、九鬼水軍を使って軍艦による艦砲射撃までさせている。諸所で激戦が展開され、猛将で名高い柴田勝家が重傷を負い、美濃三人衆と謳われた一人の氏家朴全は戦死している。
 一揆勢は鉄砲をふんだんに使って織田勢を苦しめ、悩ませたのである。

 信長は越前の一向一揆鎮定の際には、柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛、羽柴秀吉、明智光秀といった織田家の蒼々たるメンバーを送り込んでいる。いかに手強い相手であったかがよくわかる。

 当時の富山県を中心とした範囲は、一向衆の門徒によって支配されていたが、越前(福井県)の朝倉家が信長に滅ぼされると、一向衆の勢力は旧朝倉領にまで及ぶようになり、越前の国侍や国人衆と結びつきを強化して政治的に支配しはじめ、信長の勢力に反抗していたのだ。

 我々は一揆といえば、「むしろ旗を掲げ、鋤や鍬を手に持ち、集団で暴れまわる農民」をイメージしがちであるが、これは完全な誤りである。一向衆の信者の多くは国侍や国人衆で構成されている。戦争の専門家なのである。恐ろしく強いのだ。

 しかも、熱烈な一向衆門徒である雑賀衆が鉄砲を担いで傭兵のごとく戦地に赴いてくる。
「鉄砲といえば信長」という固定観念に現代人は縛られている。
 紀伊の雑賀衆は、信長をはるかに凌ぐ鉄砲量産の技術を修得しており、鉄砲の扱いに関する豊かな経験を積んでいたのだ。

 当時、畿内の大実力者であった三好長慶が本願寺攻めの際に、本願寺に加勢する雑賀衆の激烈な銃撃に遭い、勇猛士卒の多くを失って大損害を被り、ついに攻略を諦めたという史料が現存している。
 鉄砲の三段撃ちも雑賀衆が最初に開発した戦法である。信長はそれを大々的に応用したにすぎない(これは別の章で詳述する)。

 ところで、「信長の宗教ぎらい」は定番になっている感があるが、信長は宗教そのものを否定
したわけではない。
 信長が憎悪したのは政治勢力に取り入り、特権を乱用する坊主・神主であり、信長が嫌悪した
したのは戒律を破り、獣肉を喰らい、般若湯と称して酒を呑み、女を抱き、男色にふける高僧ども
だった。
 この時代の宗教界の堕落ぶりは、実にひどい。

 信長が比叡山を焼き討ちにした際、女人禁制であるはずの山の中には女子供がたくさんいて、
女は遊女が大半を占めていたという。全く呆れた話しだが、本願寺の法主である本願寺顕如は
この時、「仏罰である。」と言っている。

 一方、信長は政治勢力に介入しない、観念的な宗教にはまことに寛大であり、仏教徒やキリスト教徒に棄教を迫ることはしていない。
 信長が政教分離の支持者であったことは明白であり、政教分離の実現に向けて冷酷的で残虐な手段を用いてしまうのもこの時代の背景を考えれば仕方のない観もあり、信長の悲しい宿命でもあったろう。

 さて、この時代は宣教師が多数来日し、九州を中心としてキリシタン大名もいくつか生まれて
いるが、宣教師から洗礼を受けた彼らの本当の目的は貿易であった。
ポルトガル、スペインからの天文・地理、医学などの文物を好み、武器・弾薬に興味をもったよう
である。最近、世間から厳しく締め出されているタバコは、この時代に日本に上陸している。

 九州の豊後の大友宗麟は、ポルトガルから大砲を輸入し、その名を「国崩し」と呼び、
それを島津家との決戦(有名な耳川の合戦)で用いているが、目もあてられない大敗北によって
島津勢にぶんどられて、今では鹿児島にある歴史資料館に陳列されている。

 また、食文化にも影響を与え、当時は獣肉を食べる習慣は一部の地域に限られていたが、
キリシタン大名の細川忠興や小西行長は、どうやら暇があれば焼肉を食べていたらしい。
「やはり、キリシタンは焼肉にかぎる!」と、喜んで牛肉を焼いて食べていたという逸話がある。



著者HP http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/
メールアドレス hokenpuro@yahoo.co.jp



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【2008/09/30 01:15】 | 未分類
Ⅲ 織田・徳川の血盟成立
 松平元康は長い人質生活を経験し、苛酷な環境下の中で強靭な忍耐力と用心に用心を重ねる思慮深さとを体得したであろうことは想像に難くないが、別の一面をうかがい見ることもできる。

 今川氏真の詰問の使者に対して元康は、
「織田家は強国でもあり、この度の同盟は一時の権謀にすぎません。義元公仇討ちの御出陣の際には、この松平元康が喜んで先鋒を受け賜わることでしょう。」と、
心にもないことを礼儀正しく述べて返答している。
 この横着さというか、人を喰った性格は後年、鮮明に現われることになる。

 また、元康は駿河に使者を送って氏真の側近にうんと贈賄した。欲深な近臣の説得により、
暗愚な氏真はまんまと信用して、元康の離反に気づかぬままに安逸に時を過ごすのである。

 ところで、織田・松平が同盟を結んでいる頃、上杉・武田は川中島で壮烈な激戦を展開していた。
これは当時の強豪同士の対決なのだが、この中央政権になんら関係のない戦闘により、両者は貴重な戦費を費やしていたのである。

 武田信玄も、さすがにうんざりしていたことだろう。信玄にとって、この戦争はいい迷惑なのだ。
信玄はこれ以上北進するつもりはないし、ましてや上杉領の越後を侵略するつもりもない。
 信玄に信濃を奪われた村上・小笠原が失地回復を求めて上杉謙信に泣きつき、
義侠心に厚い謙信が、
「よし。俺にまかせい!」とばかりに川中島に出てきたことが始まりだ。
 上杉謙信は領土欲のない、義を重んじる、戦いに芸術性を追求する人で、前後合わせて川中島に五回も顔を出すことになる。信玄もやりきれぬ思いであったろう。

 さて、永禄六年(1562年)今川氏真の一族に近い鵜殿長持が松平元康の軍勢に攻め殺され、
その二子が生け捕りにされるに至り、さすがのボンクラ氏真も元康の離反に気がついた。
 駿河では氏真が猛り狂い、松平家の人質たちの処刑を言い張っていたが、元康の妻は氏真の一族である関口親永の娘であり、亡き義元の養女なのである。ようするに氏真の義姉なのだ。

 騒ぐわりに軟弱な氏真は決断しかねて日々悶々とすごしていたのだが、
捕らえられた鵜殿長持の二子は関口親永の孫にもあたり、関口はかわいい孫の命が心配でならない。
 関口親永も、日々悶々とすごしていたのであった。

また、その当時、人質の竹千代(元康の息子、信康。幼名は父と同じ)の側近くに、松平家の重臣である石川数正が慇懃と控えていた。数正は竹千代を守護し、元康の妻子を脱出させる算段に余念がなかったが、たまたま、近臣の者から関口親永の心境を聞きつけた。

 石川数正はさっそく、元康の妻子と鵜殿兄弟との人質交換を関口に申し入れてみた。
 関口親永は渡りに船とばかりに今川氏真に会い、切々と説き伏せて、ついに同意を得たのである。

 元康の妻子が人質生活から開放される瞬間であった。

 そして、石川数正は元康の妻子を連れて三河に向かい、元康は数正をねぎらうとつつがなく妻子と再会し、これを機会に公然と今川家に叛旗の色を示し、その名も「家康」と改めた。

 いい面の皮である氏真は烈火のごとく怒り、駿河に残された人質のほとんどを処刑したのだが、氏真の報復手段が三河衆の憤激を買い、今川滅ぼすべし!の怨念ともいえる結束を固めさせてしまった。太原雪斎が生きていれば、このようなバカげたことをしでかさずに済んだのであろうが、これも運命なのだろう。

 今川家はこれ以後、家康に徹底的に攻略される「まな板の鯉」と化すのである。


 
 ところで、この時期は、織田家で鍛錬の日々を送る藤吉郎にとって記念すべき年であった。

 懸命に働いた功績が認められ、藤吉郎は一躍、織田家の将校に大抜擢されたのだ。五年間の苦労がようやく実ったのである。
 藤吉郎は卒然と驚喜して、その感激に随分と酔いしれたことであろう。
もしかしたら、まっさきに家路を急いで、妻のおねの元に走り寄り、おねの両手をしっかりと握りしめて笑顔で喜び合い、共にピョンピョンと家じゅうを飛び跳ねていたかもしれない。
 おねは、夫の苛酷な苦労ぶりを知り尽くしているだけに、感涙するほど嬉しい気持ちでいっぱい
であったろう。
 
 そして信長も、将来性のある有望な将校の誕生を喜び、満足感を隠しきれない心境であったろう。

 しかし、松平元康は、まだ知らない。

 信長のもとに英傑の一将校が生まれたことを。

 我が生涯の大敵となる好敵手が、たくましく成長しつつあることを。





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メールアドレス hokenpuro@yahoo.co.jp


 
【2008/09/29 16:11】 | 未分類
Ⅱ 織田・徳川の血盟成立
 織田家からの同盟提案は松平家中を震撼させ、騒然とさせた。織田か今川か、この選択は松平家の興廃を決する大難題であった。

 織田家は日の出の勢いであり、三河衆がいくら豪なりといえども単独ではあたり難い。今川氏真はボンクラで、どう考えてみても到底頼りになるまい。

しかし、今川と手を切ることは、松平家代々の方針を一変させることであり、駿河で人質生活を送る者たちを諦めて、「棄て殺し」にする覚悟がいる。家臣たちだけではなく、当主の元康の妻子も駿河にいるのだ。

 評議は難航し、松平家一同は困惑した。
 重臣の酒井将監は同盟に大反対であり、彼を支持する者も少なくなかったが、御家第一を信条とする重臣の酒井忠次は同盟に賛成であった。

 元康は絶えず爪を噛み続け、焦慮して考え込んでいたが、ついに卒然と決意を固め、断腸の思いで酒井忠次の意見を取る。
 
 しかしながら元康も辛い決断に迫られたものである。これでは父親の広忠と大差のない、悲惨極まる状態だ。涙をのんだ悲痛な決断であったろう。

 元康の口から聞かされた採決の言葉に、酒井将監は卒然と席を立ち、その場を荒々しげに立ち去り、憤然として自分の領地に帰るのであった。

 他にもさまざまな経緯があったが、元康は家中の異論を押さえ、織田との同盟を決心したのである。独力では自立し得ない、弱小国の悲壮な決断であった。

 
 さて、元康は主従百人ほどを率いて岡崎城を出発し、熱田で織田方の出迎えを受け、清洲城に入る(異説あり。)のだが、同盟を持ちかけたのは信長のほうである。

 盟約の提案を受けた側であるはずの元康が、わざわざ危険な思いをして織田領内にまで出向いているのだ。
 織田・松平の力関係がうかがい知れるところだが、私は視点を変えて、信長と元康との間には以前に交情があったと考えたい。交情の始まりの場所は、元康が人質時代を過ごした織田領内の万松寺天王坊である。
 松平家の当主が敵の領地内で会見するわけで、盟約の話しとはいえ実に危険極まりない。
 信長と元康との間には、なんらかの信頼関係があったのではないかと、私は思うのである。

 さて、元康一行は、信長の使者らに導かれて織田領内を歩いて行き、しばらくして清洲城下に到着するのだが、その城下では民衆が元康見たさに集まり急いだというから、大変な騒ぎであったようだ。
 
後年の徳川四天王の一人、当時十四歳の本多平八郎忠勝が元康に付き添い、自慢のとんぼ切りの長槍を大きく振りかざし、群集の中を割って入りながら鋭い眼光であたりを威嚇して歩く。

 余談になるが、この時代の民衆は実にたくましく、猛々しい。
 往来での口論から、ささいなことで斬り合いになることも多かったという。悪行もかなり横行しているが、信長は厳刑主義の態度で臨み、「一銭切り」を励行している。
 一銭切りとは、罪の軽重に関係なく、罪を犯した者であればことごとく斬り捨てることをいう。
 たったの一銭でも、盗みを働いた者は罪人として斬られるという意味だ。

 信長は罪刑に厳しく臨んだ人だが、その反面、信長の領内は非常に安全で、夜も安心して旅ができたという。昼夜にわたり戸締りに心配がなく、道に落ちている物を拾う者がいなかったというから、本当に徹底している。信長の厳刑主義の態度は斉藤道三や松永久秀と酷似しているが、詳しく書いては果てしがない。別の機会に詳述する。

 ともあれ、信長は同盟を切望し、元康もその気で来ているのだから話しは早い。

 盟約の件はスラスラとまとまり、お互いが対等の立場で、危急の際にはお互いに助け合う、
互助の精神で結ばれた血盟ともいうべき盟約が成立したのである。
 因縁の宿敵同士の同盟であった。

 
 しかし、この話しを耳にした駿河の今川氏真は驚いて怒り、岡崎城に詰問の使者を走らせるの
であった。
 


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【2008/09/29 00:33】 | 未分類
Ⅰ 織田・徳川の血盟成立
 今川義元の敗死を知った岡崎城の城代、山田某は、殉死を決意して桶狭間に出向いて行き、
義元を偲んで割腹して果てた。それを知った山田の家臣たちは、早々に駿河に帰ってしまった。

 こうして、もはや岡崎城は空き家同然となったのである。

 元康は棄て城を拾う気持ちで岡崎城に入城し、松平家の本城への復帰を果たしたのであった。
 元康は感無量であったに違いないが、油断できないところであろう。情勢は混乱している。

 さて、話しを少し戻すが、元康は大高城守備の際に、母親と阿古屋で再開している。
 お大の夫の久松定俊と水野信元(お大の兄)の好意によってこの再開は実現したのである。

 戦国の動乱の中で、悲しい宿命に翻弄された母子なのだ。互いに手を取り合い、とめどなく
涙を流し、感涙にむせんで泣いたことであろう。親子の情愛は、いつの世も同じだ。

 また、久松定俊と水野信元は情けを知る人であったろう。二人とも織田方なのだから猜疑の眼
で見られてもおかしくないのだ。ましてや織田と今川は戦時中なのだからなおさらであったろう。

 この時、お大は久松定俊との間に三人の男子をもうけていた。

 異父弟と対面した元康は、目じりをゆるめて大いに喜び、弟たち一人一人に声をかけ、その顔はやさしく微笑むのであった。
しばらくして、元康はこの弟たちに松平姓を与えている。これが有名な久松松平の起こりであり、
異父弟を思いやる元康の姿は、実にすがすがしい。
 この微笑ましい光景を見て、お大も定俊も心温まる思いであったろう。

 後年、家康はお大に孝養を尽くし、母の病没後は寺を建立している。東京都小石川にある伝通院がそれであり、お大は伝通院夫人で有名である。


 さて、元康は無事に岡崎城への入城を果たし、信長は天下にその武名を轟かせていたが、藤吉郎は一陣笠にすぎない。役職も小物頭で、足軽に毛のはえた程度、である。
 だが、藤吉郎は主君の大飛躍を心から喜び、天性の惚れっぽい性質を見せて元康に感心していたことであろう。藤吉郎は陽気で明るい。まさか自分が後年の三傑の一人になることなど、想像もしていなかったろう。

 
 これとは裏腹に、一番景気の上がらないのは今川氏真だ。総大将をみすみす死なせてしまった家臣たちは面目を失い、登城を控えるようになった。
自然、暗愚な氏真を諫言する忠臣は遠ざかってしまう。太原雪斎が生きていれば補いもついたであろうが、今となってはどうしようもない。

 侠気に厚い元康が今川義元の弔い合戦を要請をするが、この放蕩息子はマゴマゴするばかりで返事をしない。相変わらず酒色に溺れ、蹴鞠に興じるバカ殿様であった。

 もはや、今川家は虎ではなく、猫になったのである。松平家は「なで猫の傘下」ということに
なったわけだ。
 
 一方、松平元康は織田勢の来襲に備え、厳重な防備の日々に努めていたが、信長は元康の巧みな用兵を警戒し、自重して動かない。

 また、信長はこれ以上の東進を望んでいなかったであろう。

 信長が好機到来とばかりに松平領・今川領を経略したとしても、関東八州の古豪・北条家、甲斐の虎・武田家と国境になる。
 このような敵を前にして、国境には莫大な防備を強いられ、兵は進むことができず、軍資金は底をつくで旨みがまるでない。
逆に転じて西国を見れば、経済の中心地である大津、奈良、堺などの重商地帯があり、栄えた港も数多くあるので旨みがある。
 信長は鋭い経済感覚の持ち主だ。これくらいは考えたであろう。年来の宿敵、松平元康との同盟は、信長の最も切望するところであった。

 さて、早くも桶狭間合戦の翌年、織田家の滝川一益が使者となり、松平元康に同盟の提案がもちかけられた。

 「虎の織田」と「猫の今川」では比べる余地なしだが、元康の妻子をはじめ、家臣たちの妻子も今川領駿河で人質生活を送っているのだ。

 松平元康は、非常に厳しい選択を迫られることになる。



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【2008/09/28 12:06】 | 未分類
考察5 今川義元の評判
 田楽狭間での敗死により、今川義元の評判はドカリと落ち、現代に至っても愚将のレッテルを貼られている。
 お歯黒の軟弱な武将で、太りすぎて自力で乗馬することもできず、大軍を擁しながらも簡単に討ち取られた弱将と決めつけられている。「東海一の弓取り」の代名詞は、徳川家康に取られてしまった。

 しかし、今川義元が本当に愚将だったのかといえば、実は決っしてそうではない。
 田楽狭間での敗死を引き合いに出して愚将と決めつけるなら、本能寺で家臣に足をすくわれた織田信長はもっと惨めだ。
 武田信玄は徳川方の属城を攻囲中、笛の音色を聞きに行き、それに聞きほれている最中に徳川方から銃で狙撃され、それがもとで持病が再発して陣没したという説があるが、その説がもしも本当の話しであれば、戦時の最中の不見識な愚将と呼んでもよいだろう。
 
 今川義元の「死に方」にばかり眼を奪われずに、彼の政治、外交の手腕にも我々は注目すべきであろう。
 「検地」といえば、秀吉が最初に始めた感があるが、実はそうではない。高校の日本史の教科書にも書いてあるのだが、かなり早い時期から検地を実施していた戦国大名はいくつかある。
 その中で、今川領の検地の方法は最先端をいき、農業の生産的向上率は群を抜いて優れていたのである。
 今川義元は領内の発展的な農業生産や市場経済にとても敏感であり、その政策を補佐する有能な人材にも恵まれていた。太原雪斎は宗教界の碩学、諸事に明るい人物で、義元の有力な補佐役として活躍し、駿河の大国化に貢献している。
 外交面では、武田・北条との三国軍事同盟を今川義元の発案で成功させており、義元は卓抜した外交的センスの持ち主であった。
 また、武力に頼らないで外交的手段によって三河国を傘下に治めている。
 三河は家康の領国だが、当時は今川家の家臣たちが城代として三河の主要な要害に赴任して領国経営にたずさわっていた。松平家の本城である岡崎城も、しっかりと押さえる周到ぶりである。
 
 さらに、戦争も強い。義元在世中は武田家、北条家という強国にひけをとらなかった。
 家柄も足利将軍家の血筋にあたり、名門中の名門だ。それに比べて織田家などは下克上の風潮によって主家の斯波氏から家を簒奪した陪陪臣(将軍から見ると、こうなる。)であり、
徳川家にいたっては、元をたどれば氏素性の知れない遊芸の輩である。三河あたりに流れついた家康の祖先が、地元の後家さんを次々と篭絡して子供を生ませ、それが後年の有名な酒井家、大久保家となっていく。徳川家の主張する源氏の系譜でなにがし・・・・・は、強引なつじつま合わせのデタラメなもので、到底信じるわけにはいかない。

 今川義元は本当に不運な人である。

 相手が覇者信長であったばっかりに、歴史的に不当な評価を受けることになってしまった。
 歴史にもしもは禁じ手であると思うが、しかし、もし、信長が奇襲、若しくは強襲に失敗してい
たら、今川義元は覇者への道を歩んでいたかもしれない。

 しかし残念ながら、運が悪い者は決っして英雄になることはできない。
 信長は桶狭間に限らず、諸事に天運に恵まれている。

 武田信玄が信長包囲網を完全にし、精強な軍勢を率いて西進を始め、その脅威がいよいよ現実になりかけた時に、信玄は陣中で体調を崩し、嘱望むなしく陣没してしまうのだ。

 また、上杉謙信が上洛を決意し、織田勢の覆滅を期して全軍に動員令を下し、諸将の春日山に
集まる日取りも決め、毘沙門天の前で必勝の決意を固めていたが、謙信は突然、この絶妙の
タイミングに突然、厠で脳卒中を起こして倒れ、遺言を残す暇もなく帰らぬ人となってしまった。

 織田信長の強運はまさしく本物であり、信長は英雄であった。
 今川義元には残念ながら運がなかった。したがって、義元は英雄にはなれない。

 しかしながら、今川義元は当時の第一級の名政治家であり、たぐい稀な武将であったことは
絶対に間違いない。

 

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【2008/09/25 04:37】 | 未分類
Ⅲ 激闘 桶狭間の決戦
 信長の唐突な出動命令に、織田家中は騒然となり、その家臣たちは主君を探し求めて早急にその跡を追う。
 信長は道中で丸根・鷲津の落城、佐久間大学の悲報に接した。
 その結末を覚悟していた信長であったが、気を取り直して熱田に向かう。馬を疾駆させる信長の顔は悲憤のあまり怒気に満ちている。

 信長は、集合地点と定めた熱田神宮に到着し、神前で家臣たちの追いつくのをしばらく待つ。
やがて、家臣たちも少しずつ追いつき、汗だくの二、三百の兵士たちが急ぎ集まってきた。

 信長は将兵と共に神前で戦勝祈願を済ませ、すぐさま善照寺方面に向けて軍旗を進める。
そして、その日の正午頃、信長は善照寺の東の狭間まで進出し、各方面から走り急いできた家臣たちもしだいに急ぎ集まってきて、その総勢は二千を数える軍勢となった。

 信長は毅然とした面持ちで将兵を見つめ、次々に送られてくる密偵の報告に耳を傾けていたが、善照寺付近の中島砦落城の報告が信長を困惑させ、その顔は動揺の色を隠せない。

 信長は瞬時に、「よし!こうなれば中島砦に出向いて討ち死にしようぞ!」と、吐き棄てるように言い、今まさに馬の手綱を返そうとした瞬間、
「今川義元、田楽狭間にて休息中」と、密偵の梁田政綱から知らせが入った。

 この報告を聞き、信長は英雄の打算的機略を取り戻した。

 連戦連勝の今川義元は織田勢をみくびり、進軍の速度を緩めて大高城行きを延期し、休息も兼ねて桶狭間の北方、田楽狭間に本営を置いていたのだ。

 信長は馬上、「者ども!好機到来ぞ!」と言いざま馬の手綱をつかみ、猛烈な勢いで駆け出す。
 その場に居合わせた諸将も追随し、しだいに総勢が山津波のように動き出した。

 あらかじめ放っていた密偵の誘導により、密かに間道伝いに迂回して、太子々根の麓をつたわると、小高い丘に陣を張る幔幕の群れが見えはじめた。
密偵の助言により、今川義元の本陣らしき幔幕の位置もつかんでいる。

 信長は声高に、「この狭い地勢では、敵は総掛かりにかかれまい。めざすは義元の本陣のみ!行けや者ども、かかれや者ども!」と命を下し、総勢が怒涛の勢いで小高い丘を駆け登り、
義元の本陣めがけて猛然と殺到する。

 突然の強襲に今川義元の本陣は騒然となったが、義元は落ち着き払い、愛刀の宗三左文字を身構え、幔幕の中に卒然と踊り込んできた織田方の勇士、桑原甚内を一刀両断にし、
「下郎、推参なり!」
と叫ぶと、続けて入る服部小平太の膝頭を斬りつけ、そして再度、怒気をこめて服部小平太に
斬りかかる。
 だが、倒れこむ服部小平太の背後から、毛利新介が続けて踊りこみ、槍で義元の胸を突き刺し、驚いて卒倒する義元を押し付け、壮絶な組討ちをして、ついに今川義元の首を取った。
 
 この組討ちの際、今川義元は毛利新介の小指を食いちぎったという。
 まさに壮絶悲壮、義元の無念のほどがうかがえる。
 
 こうして、総大将を失った今川勢はたちまち壊乱し、駿河を目指して敗走するのであった。

 ところで、この戦闘の経緯と様相は二つの説に分かれている。
 一つは、雷雨の中で谷を駆け下りて奇襲する説。大河ドラマや映画でご存知な方も多いだろう。そしてもう一つは、上記の強襲説である。

 信憑性が高いと目される「信長公記」の解読解釈の違いによるのだが、私は強襲説をとる。
 奇襲説はおもしろいが、なんとなく講談臭さがあり、運まかせに過ぎる。

 信長は、前々から諜報網を縦横無尽に張り巡らしており、密偵を使って今川義元の動静を逐一
探索させていたが、しかし、敵本陣の正確な位置を発見することは至難の業なのだ。
この点についていえば、信長は非常に不安であったはずだ。
だから、中島砦の落城の際に、その不安が現実的になったので、すてばちのような気持ちなり、
討ち死に覚悟で中島砦に向かう決断を下したのであろう。

しかしながら、偶然にしろ、絶妙のタイミングで信長は敵本陣の正確な位置を探知した。
天佑とは、まさにこの時のことをいうのであろう。このタイミングをはずして中島砦に向かって
いたら討ち死にしていたかもしれない。

 そして、田楽狭間の地勢も、義元よりも信長の方が精通していたはずである。戦史に詳しい方
であれば、地勢の把握がいかに重要であるかはご存知なはずである。強襲は十分に可能なのだ。

 また、諸書によれば、この戦いの後、信長が勲功第一と激賞したのは、今川義元を討ち取った
毛利新介ではなく、密偵の梁田政綱なのだ。
信長がいかに「密度の濃い情報」を重要視していたかが窺がい知れるところだろう。

 
 さて、戦いの経緯はどうであれ、信長は危急存亡の戦いを一日でけりをつけることができた。
これにより、信長の武名は全国に轟き渡り、彼の運勢は急激に好転に向かうことになる。

 一方、義元の敗死は今川家を震撼させた。
 
 大高城守備の元康は、今川義元の戦死を確認後、岡崎に向けて早急に撤退し、岡崎城付近の大樹寺に宿営している。この寺は松平家の菩提寺である。
 元康は今川家の意向をはばかり、岡崎城への入城を控えたのであろう。
 
 あくまでも律儀で用心深い松平元康であった。



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【2008/09/25 01:49】 | 未分類
Ⅱ 激闘 桶狭間の決戦
 一方、最前線では、戦機熟した五月十九日の早暁、松平元康が丸根城に猛攻撃を敢行した。
 
 織田方の丸根城を死守する佐久間大学盛重は暁将で有名な人だ。弓、鉄砲で防戦よく努め、
肉薄する元康勢は大損害を被り、戦死者が続発した。
 佐久間大学は松平勢の動揺を見て取り、城門を開いて猛然と突出し、猛烈な勢いで殺倒する。

 元康は接戦を避け、ひとまず軍勢をまとめて後退し、元康が自ら殿(しんがりと読む。軍勢の
最後尾で防戦しながら後退するという危険で難しい役目)を務め、部下を励まし、弓、鉄砲で応戦させた。
 松平勢を猛追撃する佐久間大学であったが、不運にも飛来した銃弾を浴びて瀕死の重傷を負い、その場で卒倒して戦死する。それを見た織田勢はたちまち総崩れとなってしまった。
 当時の戦闘は、主将が倒されると兵はすぐに動揺し、いとも簡単に壊乱する。
 形勢は逆転し、今度は織田勢が敗走をはじめ、機を見るに敏の元康はすばやく兵を解き放ち、
城門の閉じられる前に城内に乱入させて、ついに丸根城を攻め落とした。そして、丸根城付近の
織田方の諸陣営を急襲して火を放ち、たちまち制圧に成功して勢力圏を確保したのである。

 この勝報を耳にした今川義元は元康を厚く賞し、人馬の休息という名目で大高城守備を命じた。
 今川義元は元康に、鵜殿長照と交代しろ、と言っているのだ。これは非常に危険な任務だ。
 最前線で、織田勢に一番に標的に遭うのがこの城だ。三河衆は眉をひそめて今川義元を疑い、憤然として顔色を変えた。だが、元康は泰然自若として、命令通りに大高城に入るのであった。

 しかしながら人間の運勢とは、まさに微妙だ。この時、元康の軍勢が大高城に入城せずにそのまま進撃を続けていれば、信長の軍勢と正面衝突という可能性も十分にあったのだ。今川義元と共に討ち取られていたかもしれない。

 一方、鷲津城は朝比奈・三浦の軍勢が難なく落とし、今川の勢力圏を確保していた。
まさに連戦連勝の今川軍である。義元は得意の絶頂であり、今川の諸将も織田勢をみくびりはじめていた。

 ところで、織田信長の動静である。
 
 ときは、元康が丸根城を攻撃する前日、尾張の清洲城では軍評定が開かれていた。悲壮感の
漂う評定の席で、老臣をはじめとする衆議の意見は、「ろう城の他なし。」であった。
 これは大軍勢の前に当然の思慮であり、守るは攻めるの十倍という諺もある。
 しかし、信長は特に興味を示さず、雑談や世間話しをするばかり。軍令を発することもなく、
家臣たちに帰宅を命じたのである。
 これには家臣たちもホトホトあきれ果て、大いに落胆し、肩を落として退出するのであった。

 しかしながらこの時の信長の胆力とは恐るべきものであったのだ。現段階でいくら評定を重ねても所詮は亡国なのだ。ろう城したところで勝ち目などない。結局、打つ手は何もないのだ。
 
 下手に深刻ぶり、家臣たちに動揺を与えるよりは、むしろ雑談でもして気を紛らわすほうが
良いのかもしれないが、しかし、この胆力を並の人間に求めるのは酷であろう。
強靭な胆力とは、英雄にしか持ち合わせない資質なのであろう。

 「死のうは一定、しのび草には何をしよぞ、一定語り遺すよの」が信長の人生訓だ。
 信長は「覚悟を決めた自分」に命を張れる男であった。

 さて、その深夜おそく、信長の元に丸根、鷲津から「敵勢襲来」との急報が入る。
 信長はがばりと起き上がり、側近くの小姓に小鼓を持たせ、日ごろ愛唱する敦盛の舞を一節舞う。

 「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり、一度生をうけて滅せぬ
もののあるべきか。」

 信長の人生観であり、覚悟の座りである。

 信長は、「貝を吹け!」と、直ちに出動の命を下し、「具足を起せ!」と言いざま急ぎ武具を
身につけ、鋭い眼光を放つと単騎で城門を飛び出した。

 後に続くは、主従合わせてわずか六騎。

 まさに絶体絶命のピンチであるが、信長には、天運ともいえる強運が舞い降りるのだ!

 


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【2008/09/24 06:43】 | 未分類
Ⅰ 激闘 桶狭間の決戦
 今川義元の領国は駿河、遠江、三河の三国。石高は約百二十万石。動員可能兵数は約三万。
 対する織田信長の領国は尾張半国のみ。石高は約二十万石。動員可能兵数は約五千。
 今川方の松平元康は最前線で激闘の末、大高城の守備につき、今川家と織田家は壮絶に激突する。


 さて、以前の章で少し書いたが、今川家の属城である大高城は織田領に突き出した最前線の城であった。したがって織田勢の標的に遭い、織田方の丸根城、鷲津城に圧迫されて厳重な攻囲を受けていた。
 大高城主鵜殿長照以下城兵は、残りの糧食を日々心配して、心細くなりながらも篭城に耐え忍んでいたのである。今川家としては、なんとしても兵糧を城に送り込まなければならないが、敵軍の重囲を突破することは困難を極め、生還は期しがたい。

 今川義元はこの難題を松平元康に命じたのである。まさに死地に送り込まんとする仕打ちであった。
 これを伝え聞いた三河衆は憤然としたが、元康は快く引き受け、家臣たちを慇懃になだめた。
「死地に活路を求めん!」という覚悟が元康にはあり、また、そうでもしないと御家再興などは覚束ないと忍従したのであろう。元康は若年であるにも関わらず、まことに辛抱強い。

 はたして、元康の用兵は巧妙を極め、別働隊を使って丸根城、鷲津城の敵兵をおびき出し、
その隙をついて元康の本隊は敵の手薄な箇所を突破し、難なく大高城に兵糧を運び入れたのである。

 この武功は当時、非常に有名になり、松平元康の武名は大いに天下に鳴り響いた。

 今川義元は、無事に帰陣した元康に驚きながらも喜び、また、元康の比類なき大戦功を認めざるを得ないことになったのである。
さらに、元康は軍功を誇ることなく、冷静沈着な態度であったので、義元は後日、元康に安心して気を許し、西三河の切り取り自由を認めたのであった。

 松平元康は今川家の人質になって以来、初めて単独の軍事行動の許しを得たのだ。
 西三河は織田家の勢力範囲なのだが、しかし、旧領を回復する絶好の好機到来の瞬間であった。

 元康は自ら勇躍して奮戦、西三河の織田方の城砦をかたっぱしに攻め落とし、取り戻した領地を功臣たちに分け与えた。元康を初めとする家臣一同は感無量であったろう。
こうして、西三河の地は松平家の元に帰ったのだが、織田信長の方といえば、西三河の勢力圏を失い、また、喉元に突き刺さるように存在する大高城を絶対に見逃せない。

信長は、鷲津城に織田信平をおき、丸根城に佐久間大学盛重を入れ、大高城を落城させるべく徹底的に重囲させた。いよいよ情勢は緊迫し、織田・今川の激突は必死となる。


 そしてついに、永禄三年(1560年)五月十日、今川義元は出陣の準備を終えた全軍に指令
を出し、先手として前軍の葛山信貞率いる五千の軍勢を先発させた。
 義元自身は五月十二日、選りすぐりの精鋭五千を率いて威風堂々と出陣したのであった。
旧暦であるから、蒸し暑い夏の時期である。本国の留守は、義元の嫡男、今川氏真が預かる。
織田方の丸根城には松平元康率いる二千五百の兵が向かい、鷲津城には朝日奈泰能、三浦備後守が合して五千の兵を率いて出陣している。
 最前線で織田方に睨みを利かせる鳴海城には岡部元信が入っており、水掛城には浅井政敏がおり、織田勢を牽制する役目を果たす。
 名軍師であった太原雪斎の生前の働きによる武田家・北条家との三国軍事同盟により、今川義元の背後にはもはや後顧の憂いはなかった。
 
 万全の布石を打ち終えた今川義元は勝利を確信していた。
「織田ごときなど、ひとあて蹴散らし、押し潰して、ひとひねり。」といった心境であったかもしれ
ない。
 しかし、このような慢心は油断に通じるもの、兵家の最も忌むところ、である。

 これを暗示するかのように、今川義元の行く先には、恐るべき陥穽が待ち受けていたのだ!
  



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【2008/09/24 03:01】 | 未分類
考察4 上洛戦の真偽
 今川義元と武田信玄の上洛戦は、歴史読み物としては非常におもしろいのだが、あれは本当に上洛の為の戦いであったのだろうか?

 上洛途上での敵対勢力と野戦や城攻めに及ぶことも当然あるわけで、多大な損害を被りながらの上洛となるであろう。
 また、両家ともに京都への道のりは遠い。長期に渡って本国を留守にすることになるわけで、肝心の本国で叛乱や謀反が発生すれば、帰国することができない危機に直面する。

 そもそも、織田信長の兵団は別にして、兵農分離の不完全な農民を主体とした軍隊では、農閑期が過ぎてしまったならば必然的に軍事行動がとれなくなってしまう。当時の戦闘のほとんどは、農業が休みに入っている農閑期に行われているのだ。

 自然に考察すれば、今川義元、武田信玄の上洛戦は近隣諸国を制圧する為の戦いに他ならない。

 上洛の途上にある織田領、徳川領を威嚇して威圧し、その地の諸豪族を宣撫して、いずれ制圧する為の布石として出兵したに違いない。
 さらに、いきなり三万余りの軍勢を率いての上洛には無理がある。軍勢とは、戦う武士だけで編成されているわけではない。
食料や水を運搬する者、木材などを担いで引く者、武器・武具・馬草などを運ぶ者も大勢含まれているのだ。
 こうした大軍勢での遠路の行軍には、その進路途上に確固たる補給路が確保されていることが必要だ。
野戦、攻城戦で戦勝を繰り返し、その地で略奪に励んで補給を確保する方法もあるのだろうが、そんなことをすればその地の諸豪族の反感を買って逆効果だろう。

 また上洛の為の戦いを象徴する有名な逸話に、武田信玄が徳川方の野田城を攻囲中の陣中で、死ぬ間際に枕頭に武将の山県昌景を呼んで、
「明日は瀬田に旗を立てよ。」と言い残したという話しもあるが、それは信玄の最終目標を象徴しているにすぎず、頑敵の織田・徳川を打倒すれば西上への道が大きく開くことへの信玄の嘱望であったろう。

 ところで、武田信玄も上杉謙信も、織田信長には絶対に勝てない。
信玄は軍略の大家、政治・経済・外交は老練、その軍勢は精強無比で当時日本一強い軍隊であった。
謙信もまた、信玄とは川中島で互角に渡り合い、その軍勢は武田家に劣らない精強ぶりを見せている。戦争に芸術的エクスタシーを求め、毘沙門天を崇拝する闘神の権化であった。
しかし、やはり二人とも信長に勝てない。

 私は信長の、あの中世から脱却した近世への先見性を誰から教わったのかと、余念がつきない。

 信長は当初から、戦略目標に向かって居城を移転している。信長は兵農分離をいち早く取り入れている。信長の兵団はいつでもどこでも戦えるのである。

 信玄と謙信は残念ながら中世の迷妄にどっぷりとつかった中世の天才でしかなかった。
相変わらずの農民主体の軍隊編成で、神仏にことのほか帰依し、室町幕府と朝廷の枠の中で思考は停止してしまっている。今川義元もしかり。

 上杉謙信は朝廷から官位を貰って大喜びしている。信長は後年、将軍の足利義昭から高位高官を薦められているが辞退している。朝廷から右大臣の任官を受けたときも、まもなく返上している。
比叡山を焼き、高僧を焼き殺し、第六天魔王と罵られても、この強烈な野生児は平気な顔をしているのだ。


 ところで、信長は上洛を果たしているが、その上洛の途上では南近江の六角承偵をひとあてに蹴散らしたぐらいで済んでいる。
 信長が将軍候補の足利義昭という御輿を担いでいたことが上洛を成功させた最大の要因だが、京への道のりが比較的に近かったことも大きな要因であろう。

 また、信長はいくさ上手というよりも、外交政策がことのほか巧みである。
 
 上洛に向け、北近江の浅井長政と姻戚関係を結んだり、近隣の伊勢の北畠・神戸を威嚇戦で脅迫し、その後に信長の息子を養子に送って彼らを懐柔して、伊勢を事実上平定してしまっている。
 
 信長は、事前に外交的布石を打ち、上洛への協力を他家に要請し、補給ルートもしっかり確保してから上洛しているのである。



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【2008/09/23 15:19】 | 未分類
Ⅲ 織田家に藤吉郎あり
 秀吉にまつわる逸話の多くは喜怒哀楽に富み、秀吉の個性を垣間見るようでおもしろいのだが、その多くは尾瀬甫庵の書いた甫庵太閤記の引用である。

 前章で御紹介した三話の逸話も、甫庵翁の太閤記に記載されている。
 尾瀬甫庵の太閤記は江戸時代の初期に流布したのだが、当時は秀吉のことを良く知る人が少なからず生きていて、「甫庵太閤記の記述は虚妄にすぎる」と云われ、その評判はあまり良くなかった。

 現代においても、甫庵太閤記と聞くと、「あっ、あの嘘っぱちの小説でしょ?」と、言う人がいるくらいに評判がよろしくない。

 しかし、甫庵翁が全くの空想だけで書いたとは思えないし、全くの嘘でたらめを書いたわけでもあるまい。甫庵翁も当時の風評を検証して、伝聞を綿密に調べたり、史料を見て推量ぐらいはしていたはずである。また、逸話に誇張がつきものなのは、古今東西同じである。
 

 さて、持論はこれくらいにして、懲りずにもう一つだけ逸話を御紹介したい。これも甫庵翁の太閤記にある伝説的な逸話なのだが、藤吉郎の勤勉ぶりが象徴的にわかる話しである。

 信長は、仕事を見事に仕上げる藤吉郎の才能を買い、彼を炭薪奉行にしたことがある。

 藤吉郎が炭薪奉行になった頃は、駿河の今川義元が上洛の準備を着々と進めている時であり、信長にとってまことに緊迫した情勢であった。(今川義元の上洛には異論がある。別の章で詳述する。)

 鋭敏な藤吉郎は、信長が軍費の捻出に頭を痛めていることを推察し、無駄な資金の流用には
細心の注意を払うことにした。
 まず、薪を納入する商人の賄賂をいっさい受け取らず、商人の奸計を完全に封殺したのである。
今までの奉行たちは商人から賄賂を受け取り、薪の値段を不当につり上げて報告し、高値で買いつけて納入していたのだ。
 私事で恐縮だが、これはいつの時代にもありそうな話しで、最近の防衛省汚職事件、農林水産省の事故米流出事件、文部科学省の教職員汚職など、監督責任を放棄したかのような怠慢と、
官僚の退廃的な腐敗が著しい現代、本当にうんざりさせられるのは私だけではないだろう。
彼らに藤吉郎の爪のアカでも煎じて飲ませたいものである。

 そして、藤吉郎は、昼夜を問わず城内の各部屋の巡回に努め、火種には細心の注意を払いながら城内における月々の薪の使用量をつきとめた。その後、彼は月の使用量を日割りで計算し、城内各方面に薪を配布したのであった。
 また、藤吉郎は毎日、各部屋に不具合が生じていないかを確認するために根気よく巡回に努めた。
 
 藤吉郎が各々の部屋に入ると、奉行とはいえ元々は卑せんの身上の彼を忌み嫌い、悪態をつく者もいたが、彼は辛抱して諦めずに毎日巡回を続けた。

 そして一年後、薪の使用量は以前の半分の費用で賄えることがわかり、家中に寒い思いもさせず、むしろ暖かい思いをさせたという。
 逸話とはいえ、藤吉郎の仕事への忠実ぶり、勤勉さ、苦労のほどが察せられる話しである。
 
 何度も言う。現代の高級官僚は、藤吉郎の爪のアカを煎じて飲むべきである。
 特殊法人の乱立は国を歪め、官僚の腐敗が国庫の流失をまねき、積弊と化した制度(例えば車検制度だ。現代の車は簡単に壊れない。点検で十分だろう。)が市場の構造を歪めている。
 省益ばかりに目を奪われ、利権の上にあぐらをかいて税金をむさぼっていると思われてもしかたがないだろう。



 さて、こうして、後年の天下取りの英傑、信長、秀吉、家康は三人三様の立場で、それぞれが
全力で自己の確立に努め、その持てる能力に磨きをかけ、その個性を最大限に発揮していく。

 そして、西進を志し、勇躍する今川義元の動き出す日時が刻一刻と迫り、尾張をはじめとする
近隣諸国の空気は異常に張りつめ、その情勢は日々緊迫するのであった。

 そしてまた、織田家に篤い思いを抱く藤吉郎の忠良な心も、強烈に張りつめるのであった。




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【2008/09/23 01:24】 | 未分類
Ⅱ 織田家に藤吉郎あり
 さて、秀吉が比較的に信憑性の高い史料(信長公記)に登場するのは、彼が三十二歳前後の頃であり、したがって、秀吉の前半生は不明な点が多く、伝説的な逸話だらけなのだが、藤吉郎の仕事に賭ける情熱ぶりや、その人間性がうかがい知れるおもしろい逸話も沢山あるので、数話ほどご紹介したい。

 尾張清洲城での出来事。

 信長が数十名の家臣を伴い、城を検分して歩いていたのだが、その中に藤吉郎の姿もあった。
 たまたま、清洲城の外壁を修理している現場に行き当たり、皆がその場を何気なく通り過ぎようとした時、藤吉郎は信長の耳に聞こえるように、わざと大きな声で、
「この油断ならない時代に、危ないことじゃな。」と、出し抜けに言うと、信長は激怒して、藤吉郎の元に走り寄り、そのむなぐらをグワッとつかむと、
「そんなことは十分にわかっておるわ!だから修理させておるのだろうが?文句があるなら貴様がこしらえい!!」と怒声を放ち、藤吉郎にその奉行を命じた。

 藤吉郎は職人たちの受け持ち区域を決めて割普請し、職人たちを督励し、わずか二日足らずで外壁の修理を終えた。修理の結果を検分した信長は、「猿、見事だ!」と満足そうに言い、
藤吉郎の扶持を加増したという。

 この話しは実に有名な逸話で、今でも世間に広く知られている。
 信長は、外壁の修理が遅いことに苛立ち、腹を立てながらも、同道する家臣たちの「気づき」に期待して、素知らぬ態で通り過ぎようとする。そのことに無頓着な家臣たち。

 藤吉郎は信長の真意を読み取り、信長の叱り言葉は上役連中への建前上と割りきり、その怒声を聞き流して仕事に全力を傾ける。

 信長は藤吉郎に期待し、藤吉郎はその期待以上の成果を上げて応える。藤吉郎の仕事上手もそうだが、君臣の篤い信頼関係が感じ取れて、実にみごとである。

 また、こんな逸話もある。
 ある晩秋の頃、信長は美濃に出兵したが、野営中に信長の側近(前田利家とする説あり)が所有する金竜の笄(髪をかきあげる際に使う。ハシに似ている)がなくなった。付近の者たちは、
「猿があやしい。」「猿が宿舎をうろうろしていたぞ。」などと言い、藤吉郎を疑い、あてつけがましく悪口を言う。
 藤吉郎は無念であったが、何を言っても信じてもらえないと思い、すぐに那古野(名古屋)の津島に急いだ。
 当時、那古野から十六キロほどの津島には富豪が多く住んでおり、藤吉郎はその家々に一軒一軒お願いをして歩きまわった。笄を質入れに来た犯人を捕らえようとしたわけだ。知らせてくれた者には賞金で金子十両を渡す約束もした。

 案の定、数日にして知らせが入り、藤吉郎は現地に急行し、犯人を捕らえ、信長に委細を報告した後、「このように嫌疑をかけられるのも、私が貧乏だからでしょうか。」と言い、泣くのであった。
 信長は哀れに思い、賞金の金子十両を藤吉郎に渡し、百貫の知行を加増してやったという。
 藤吉郎の無念さ、悔しさが伝わる話しである。

 また、信長は後年、清洲城から小牧山城に本城を移すのだが、おもしろい逸話がある。

 信長は内心、小牧山への移転を考えていたのだが、家臣たちの不平不満を思い、発言を控えていた。そんなある日、藤吉郎が満座の席上で進み出て、小牧山の利点を述べ、小牧山への本城の移転を進言した。
 それを聞いた信長は、「家中の者たちの苦労も考えず、ズケズケとものを言いよる!この猿思案めが!」と、叱りつけたという。

 主君の胸中を推察し、信長のかわりに泥を被る覚悟で進言する藤吉郎の姿はたくましく、
まことにすがすがしい。藤吉郎の読心術の名人ぶりもうかがえて感慨深い。

 また、この逸話に似た話しが信長公記にある。

 信長が非常に険阻な二ノ宮山への本城移転を公表し、家臣たちはその難儀のほどを思って思案に暮れていた。
 その後、信長はすぐに小牧山に変更したので、家臣たちは、
「険阻な二ノ宮山に比べれば苦労も少ない。」と、大いに喜び、小牧山への移転に進んで励んだ
ので、本城の移転はつつがなく完了したという。
 信長の類い稀な読心術のほどがうかがい知れる話しである。

 読心術は、人の上に立つ者に必要不可欠な資質なのであろう。


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【2008/09/22 06:44】 | 未分類
Ⅰ 織田家に藤吉郎あり
 秀吉がいつ頃に、どのようにして織田家に仕えるようになったかは諸説あって不明である。
 太閤素性記には、自分の実父がかつて織田家に奉公していたことを信長に言い立てて、直訴により召抱えられたという。
 祖父物語では、信長の小人頭の一若という者が、同じ尾張中村の出身であったので、一若の縁を頼って織田家に奉公するようになったと書いてある。
 豊鑑には、信長が川遊びをして帰る途中、待ち伏せをして直訴したと記している。

 ようするに、彼は二十歳前後の頃に織田家に仕えて、ごく身分の低い役職に就くことができたわけだ。以前の松下家での武家奉公が本当の話しであれば、大いに役に立ったに違いない。
 寒気のきつい冬の早朝に、彼が信長の草履を懐に入れて、それを体温で暖めたという逸話は実に有名だ。主人を想う気持ちが伝わってくるのである。

永禄三年(1560年)の頃、彼は藤吉郎と名乗るようになる。姓は、生まれ故郷の「中村」だったという説があるが、定かではない。彼が木下姓を名乗るのは、おねを妻に迎えた前後だ。

 おねは「ねね」とする説や、本来の名である「ね」に敬称語の「御」をつけて「おね」と呼ぶという説などがあるが、彼女は後年の北の政所である。

 ところで、信長の人材管理は実に見事なもので、藤吉郎の逸材性を即座に見抜き、藤吉郎を上手に宣伝して、織田家中の者たちに潰しにかけられないように十分に配慮している。
 これは、素浪人上がりで織田家の有力武将にまでなった滝川一益にもいえることだ。

 また、信長は近世的な直感に優れた現実主義者であり、徹底的に合理性を貫く実力主義者であった。古くからの慣例や慣習に縛られることなく、出自や身分の上下など全く眼中にない。

 能力のある人材であればドシドシ登用し、どんどん仕事を任せる。仕事上手であれば、スラスラと昇進させる。そして、部下が仕事を上手に仕上げてくると信長は破顔させて喜び、深くねぎらって上手にほめる。
 どの時代に限らず、古今東西の英雄たちは決まってほめ上手だ。信長には峻烈な厳命ばかりしているようなイメージがあるようだが、これは完全な誤りである。

 豊臣秀吉、蒲生氏郷はほめ上手で有名な人であったが、そのほめ方は信長と非常に似ている。
この時代を注意深く学ぶ者であれば、容易に気づくことである。

 今の時代は、やれ新人研修だ、スキルアップセミナーだ、誰それの講習会だ、宿泊研修会だのと学ぶ機会が多いが、この時代はそんなものはない。主人のやり方を観察して、主人のやり方を真似て、そして少し自己流に工夫して成長していくのである。主人が教師で講師なのだ。
だから自然と主人に似てくるのである。

 ところで、藤吉郎は下級将校になるまでに、約五年の歳月を要している。
 信長は、藤吉郎の実力を認めながらも出世をさせないのは、本人のためにならないと考えたからであろう。
 藤吉郎も、信長の意向を理解していて、シャシャリ出ては信長にガミガミ叱られている。
藤吉郎は前向きな反省はするが、悲観したりはしない。信長の真意に、軽蔑や憎悪の無いことを知っていたからである。どん底の苦労、悲惨な放浪生活を送り、さまざまな人間性との出会いの中で、度重なる試練のうちに心を磨かれた彼には良く分かるのだ。

いつの世も、陽気で前向きな苦労人は真意の洞察に優れているものである。

 そして、何ら頼るべき背景を持たない、まさに徒手空拳の彼には「でしゃばり」しか手段がない。シャシャリ出ては才知を示し、全力で仕事を完璧に仕上げ、信長と織田家中に認めてもらうしかない。

 陽気で天真爛漫な藤吉郎には悲壮感など微塵も感じられず、
「つらい仕事って、あるんですか?」といった明るさなのだ。

 信長は、藤吉郎の常に前向きで陽気な態度を褒めずにはいられない心境であったろう。
 そして自然、信長は藤吉郎を心から篤く信頼するようになる。

 藤吉郎は、信長の真意を十分に汲み取り、持ち前の全力主義で信長に徹底的に尽くすのである。

 この君臣関係は、全くもって、見事と言わざるを得ない。

 これほど篤く信頼し合い、認め合える君臣関係を、私は他に知らない。




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【2008/09/22 04:07】 | 未分類
考察3 武田信玄と上杉謙信
武田信玄と上杉謙信は実に対称的で、おもしろい。

 信玄は父親を国外に追放したことで、良い評判に疵をつけている。

 信玄の父の信虎は猛将であったが暴悪に過ぎ、甲斐の国(山梨県)での評判はすこぶる悪かった。
そこで、信玄は重臣の板垣信形(自由民権運動の板垣退助の祖先との説あり)らと謀り、
父を国外に追放して自ら当主となり、領国の安定に努めながら積極的に他領を侵略する。

 信濃の有力な豪族の村上義清、小笠原長時らを追い払い、そして、今川義元亡き後の弱体化した今川領の攻略も画策する。
これに大反対の信玄の嫡男、武田義信は即座に幽閉されて、その後、その重臣とともに殺された。
 
 武田義信は、今川義元の娘と夫婦であった。武田・今川の同盟の要だったのだ。
しかし、駿河が手に入れば、信玄の念願であった武田水軍の創設も可能だ。今川氏真の悪政により支離分裂状態の今川領は、武田信玄にとって食膳の珍味に等しい。

 信玄は領土欲旺盛な人である。食指が動かぬはずもなかった。
 信玄は、義信の妻を今川に送り返して義絶を表明、その後に今川領に侵攻し、ついに今川領駿河を併呑する。

 父親を追放して甲斐を取り、息子を殺して駿河を狙い、姉の嫁ぎ先(信玄の姉は今川家に嫁いでいる。今川氏真は信玄の甥なのだ)を攻め滅ぼしている。
領土欲の前に義理もへちまもない。まさに弱肉強食の戦国時代、信玄の欲望限りなしである。


 越後の上杉謙信は「義」を旗印に兵馬を用いる。

川中島の大開戦も、もとはといえば上杉謙信が信濃の諸豪族に失地回復を頼まれたことが原因だ。

 上野国の上杉憲政らが北条家の圧迫に耐え切れなくなって、越後に逃げ込んできた時も、
謙信は、彼らに男泣きに泣いて頼まれたので出兵を決意している。

侠気に厚い謙信は大軍を擁して春日山城を出陣、猛進撃して北条勢をひとあてに蹴散らし、
上野国の箕輪城を占拠して、北条家に「喝」を入れるためにわざわざ小田原城(神奈川県)にまで出向き、関東の諸大名を指揮して小田原城を四十日間以上も攻囲している。

 小田原城は難攻不落の堅城だ。城攻めを諦めた謙信は鎌倉に立ち寄り、その後、軍勢を率いて越後に帰国している。

「謙信の家臣たちは、たまらない心境だったろうな。」と、私は思う。

 なにせ、出兵したからといって寸余の領地が増えるわけでもない。当然、恩賞は少ないし、
負担する出陣の費用もかさむ。
 
 上杉謙信は関東管領の自負心で行動する、男性的爽快さを見せる赤心の武将であった。


 さて、戦史上有名な川中島での両者の開戦は、前後三回、いや五回だと諸説あるが、実際に
戦闘にまで及んだのは二回であると云われる。当時、両家ともに日本最強の軍隊だ。

 川中島周辺において熾烈な激戦が展開されたが、特に武田家の山本勘助が発案したという
「キツツキの戦法」による妻女山の攻防戦が有名である。

 海津城にこもる武田方の勇将、高坂昌信を尻目に、上杉謙信は大胆不敵にもその城の背後に
ある妻女山に陣を張る。敵中深く侵入した上杉勢は、妻女山を挟んで海津城と武田勢に背腹を
挟まれた形勢となり、兵法にいう死地に陣を張ったわけだ。

 武田信玄は、山本勘助の進言で妻女山に夜襲をかけ、妻女山から驚いて逃げ出す上杉勢を挟み撃ちにして殲滅する作戦をとった。
 キツツキが木をつつき、木の中の虫を追い出して捕獲することにちなんで「キツツキの法」と
云うらしいが、キツツキの生態に詳しい方であればご存知だと思うが、キツツキにそのような習性はない。
こんなことを平気で書くから、史書「甲陽軍鑑」は明治時代以降、研究者の間で非常に評判が悪い。

 上杉謙信は戦術の大家である。武田方の作戦を事前に見破り、武田勢の炊煙が上がるのを見ると夜襲攻撃の近いことを悟り、全軍を率いて静かに下山し、信玄の本隊を探索しながら進軍する。

 その日の早朝は、川中島近辺は濃霧につつまれて視界がきかない。
謙信は、自ら死地に身を置き、敵の動静を冷静に見極め、有無の決戦を期して下山している。
 もしかしたら濃霧が発生することも十分に計算に入れていたのかもしれない。

 武田勢は、霧雨の濃霧の中から突然姿を現した上杉勢を前方に見据え、愕然とし、狼狽する。
夜襲部隊が舞い戻るまでの間は、寡兵で戦わなければならない形勢となり、見事に裏をかかれたわけだ。

 必然、壮絶な大激戦となり、しばらく戦況を眺めていた上杉謙信は、
「あとは総がかりにせよ。」と言い残し、猛然と敵の本陣に斬り込み、武田の馬廻り衆を撃破し、信玄を守るむかで衆を蹴散らす。

そして、いよいよ例の一騎討ちとなる。
この一騎討ちは、戦いの後、上杉謙信の家臣が伝え聞いて、
「戦場で不覚を取ることもあるので、今後は自重なされるように」と、謙信に宛てた書状が
見つかって現存しており、ほぼ事実と判断されている。

 また、川の浅瀬での一騎討ちも実に有名だが、残念ながら根拠のない風説や、屏風絵が伝えるのみである。


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【2008/09/21 20:28】 | 未分類
Ⅲ 心術の天才 豊臣秀吉
 さて、ここで少し余談を書く。秀吉のあだ名は猿である。信長は人をあだ名で呼ぶことの大好き
な人で、煮え切らない、まぬるい人を「おおぬる山」などと呼んでいた。

 秀吉の場合は、きっとその顔が猿に似ていたのだろう。秀吉が申年生まれだったので(酉年と
する説あり)、それにちなんだとする説もあるが、少し考えすぎだろう。
 信長は直感に優れる人だ。見たまま、感じたままを素直に表現する可能性が高い。秀吉の顔立ちやしぐさなどでつけられたのだろう。

 また、後年の秀吉のあだ名は「はげねずみ」であった。年をとり、髪の薄くなった頭でチョロチョロとせわしなく動き回り、熱心に仕事に励む秀吉の姿が目に浮かぶのである。

 ちなみに、明智光秀のあだ名は「きんか頭」であった。頭の形が金柑に似ていたか、もしくは金柑の実は硬いので、頭のかたいインテリのたとえだったのかもしれない。

 
 さて、この猿面の男は武家奉公を目指して旅立つのだが、駿河国(静岡県)の今川義元の旗下である松下嘉兵衛之綱の元で奉公に励むことになる。(之綱ではなくて、之綱の父親ではないかとする説あり。秀吉と之綱の年齢差があまりにも近すぎ、また、他にも不自然な点が散見されるという。)
 勿論、これは伝説的な話しであるが、彼の働きぶりはめざましく、松下家の納戸方をあずかるまでに出世している。

 きっと、彼は死ぬ気で働き抜いたに違いない。人に言えない苦渋に満ちた過去があり、
あの忌まわしい過去を再び味わいたくないという「覚悟の座り」があったはずなのだ。
どん底を経験した者は強いものである。まして、プラス思考の彼は、ここを足がかりにして戦国
大名の雄、今川義元の旗下で身を立てようとしている最中なのだ。随分と張り切ったに相違ない。

 しかし、いつの世もそうだが、優秀な人材ほど同僚や先輩の嫉みを買い、時には潰しにかけられることもあるものだ。会社勤めの方ならよく分かるところだろう。

 しかも、彼には庇護してくれる背景が全然ないわけで、いわれのない讒言をされたり、罪を被せられたりしたようである。ましてや、当時の日本は門閥の国で、厳しいタテ社会なのだ。
身分の上下や出自に敏感な世相なのである。才知ありといえども、並々ならぬ努力と強靭な精神力が必要であろう。

 こうして、彼は悪条件の中で悪戦苦闘するのだが、家中でのけ者扱いにされる彼を不憫に思った松下は、惜しい人材と思いながらも彼に暇を出すのである。

 しかしこの時、彼の方も松下を見限っていたに違いないのだ。

 後年、信長は家中のまとまりを心配して彼に暇を出すようなことはしていない。松下と信長とでは雲泥の差なのだ。
 松下の家中にあって、彼は信長のような主を探し求めていたのだと、私は思うのである。

 松下の元で約三年間の武家奉公をした彼は、再起を期しながらも帰郷することにしたのであった。
その際、彼の脳裏に織田信長があったかどうかは不明だが、再度の武家奉公を胸に秘めていたことは確かであろう。

 ところで、こんな逸話がある。
 後年、秀吉は偉くなると、松下夫妻を自分の城に招待し、大いに歓待して松下に数万石を与えて過去の恩に報いたという。秀吉は松下の情愛の深さ、その時の恩を忘れずにいたのであろう。
心温まる話しである。(ちなみに、改正三河後風土記には、この逸話は、秀吉が武家奉公をした
ことのあるかのような話しを創作した、デッチアゲの逸話だと言いたげに書いている。)

 さて、ここで当時の君臣関係を語っておきたい。

「君主は君主らしくなくても、家来は家来らしくしなければならない。」とか、
「君主の御馬前では、家来は潔く討ち死にする。」といった君臣関係の一方的な倫理観は江戸時代からである。

 戦国時代の頃は、主人が家来を一年使ってみて、凡庸な人材であれば暇を出すのだ。
一方、家来は主人に三年間仕えてみて、頼むに足らない主人であれば、家来の方から一方的に
サッサと去っていくのである。

 この当時は、主人、家来、ともに自分の眼でしっかりと確かめて、お互いに求める能力や人格
が合った時に君臣関係が成立したのだ。この点、江戸時代よりも開放的で自由であり、君臣ともに弾力性があったのである。

 ここで余談を書くが、藤堂高虎という武将は次々と主人を変えた人で、その無節操ぶりの為か、
現代も評判があまりよくない。

高虎の主人選びの遍歴は、近江国の大名である浅井長政の元を立ち去ったのが始まりで、
(浅井家中の者と争論になり、その者を斬殺し、浅井家を立ち退いたという。)その後、
近江で主人を二度も変え、次は信長の甥の織田信澄、その次は羽柴秀長に仕えてしばらくは
落ち着くのだが、後年になって秀長が病没すると秀吉に召抱えられ、その後、秀吉が病没すると
徳川家康に急接近し、徳川家の為に涙ぐましいほどに尽力して、やっと徳川で落ち着くという
あんばいである。
(大坂夏の陣では、自ら願い出て激戦区を受け持ち、重臣が六名も戦死している。)

 このように、高虎の主人選びは度のすぎた感もあるが、高虎の希望する主人になかなか出会えなかったことが大きな要因であって、
「節度を知らない、変転心がある、利にさとい、」などという評価は辛辣にすぎるであろう。
 藤堂高虎は豊臣秀長、徳川家康には忠誠無私の精神で尽くしている。理想の主人だったのである。


 さて、猿面の男は再度の武家奉公を内に秘め、故郷の尾張中村に帰るのであった。

 彼があくまでも武家奉公を選んだのは、なんらかのひらめきと期待感があったからであろう。
 
 秀吉が商人をめざしたとしたら、さぞや名の知れた豪商になっていたと思うのだが、これは
私の狭量ゆえの浅智恵であろう。

 彼は、武家社会に大いなる嘱望を見出したに違いない。




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【2008/09/20 13:46】 | 未分類
Ⅱ 心術の天才 豊臣秀吉
さて、やがて彼は生まれ故郷の尾張中村を離れ、流浪の日々を送ることになるのだが、
それからの彼の経歴は憶測に基づく史料ばかりで、確かなことは全く不明である。

 口減らしの為に光明寺の寺小僧になったとか、美濃の陶器商人に買われて奉公に励んだとか、尾張の海西郡蛇穴村の豪農、新保某に雇われただの、野武士の蜂須賀小六の家来になったとか、ある時は三河万才の袋持ちになったなど様々だが、そのほとんどが江戸時代の講談本の引用であり、信用できない。

 まして、有名な蜂須賀小六との矢作橋での出会いに至っては、当時、矢作橋は存在していない
ことが研究者たちの間で判明し、近年はそれが定説になっている。

 いったい、あれほどの大事業をやってのけた大言壮語癖の秀吉が、若い頃の苦労を誰にも
語っていないのはなぜだろうか。

 おそらく、想い出したくないほどの悲惨極まるものであったのであろう。

 時は非情な戦国の世なのだ。
 その当時の世間の人々の様態、庶民の生活が平穏無事な時代であったとは到底思えない。
 人心は荒廃し、犯罪は横行し、殺伐とした時代背景があったはずなのだ。

 彼はどん底の苦労をいや応なしに味わうことになったに違いない。

 時にはかっぱらいもしたろうし、夜盗の見張り役を引き受けたこともあったろうし、乞食同然に
成り果てて、ふらふらとさまよい歩いたこともあったであろう。その悲惨な状態は想像を絶する。

 しかし、楽天的な彼は将来に夢を託したであろう。そしてその夢を常に思い描くことによって、
悲惨な現実を解消させたのかもしれない。人が悲惨な境遇にあるときに、何を思い、何を考え、
何を思い描くかは人それぞれ違うのである。
 
 前向きなプラス思考の人間は逆境にとても強くて、不運を幸運に好転させる力を持つことは、
現代の心理学者の一致した見解である。

 また、彼は生き抜くための根本的な智恵を吸収したであろう。
 人質生活の中で思慮と忍耐をしっかりと学び取った家康と同じように、孤独な流浪生活の中から人情の機敏を深く学び、たぐい稀な心術を体得したのであろう。



 ところで、秀吉の兄弟姉妹の話しになるが、彼には実姉が一人いて、彼女は尾張に在住する
農民の弥助に嫁ぎ、その夫の弥助は後年、有名な三好武蔵守となる。
また、この夫婦には二人の息子ができて、一人は後の関白秀次であり、一人は小吉と称した後に羽柴秀勝となる人だ。

 羽柴秀勝の名は、今の現在も混乱して混同にされるケースが多い。
 
 後年、秀吉は信長の四男を養子に貰い、羽柴秀勝と名乗らせるが病で早世した。
その死を惜しんだ秀吉は、実姉の息子の小吉に羽柴秀勝を名乗らせたのである。秀勝は唐入り
(朝鮮の役)の際に現地で病没している。

 近年の一説に、天下を取った秀吉が、信長の実子の秀勝を邪魔に思い、唐入りにかこつけて
謀殺したとあるが、唐入りの際に死んだのは秀吉の姉の子なのだ。

 ちなみに、羽柴秀俊は後年の小早川秀秋で、秀吉の妻(おね)の兄である木下家定の子である。

 秀吉は身分の低い頃に妻を娶り、その前後に木下姓を名乗るのだが、彼は婿養子だったのではないだろうか?
 古来の史料によれば、秀吉の実父の弥右衛門は木下姓だったと伝わるが、「太閤素性記」には
おねの母親は尾張国朝日村の木下某に縁づいて、そこでおねを生んだと書いてある。

 おねはその後、浅野家の養女になったのだが、どのような経緯で浅野家の養女になったのかは史料、諸説ともに入り乱れてはっきりしない。

おねの男兄弟は六人いたようだが、この六人とも木下姓を名乗っているところから、あるいは
おねの実家の木下姓を名乗っていたのではないかと思うのである。

 また、秀吉には腹違いの弟(同腹との説あり)がおり、後に小一郎と名乗り、後年、大和大納言
豊臣秀長となる人である。天正十九年、惜しまれて病没する。

 秀長は、陰に日なたに兄を支え続け、その生涯を秀吉に捧げ尽くした人で、秀吉の有力な補佐役であり、人徳の声望のある、豊臣政権の柱石ともいえる人物であった。篤実で雄略の人。

 義妹は天正十八年、京都で病没しているが、旭姫と称し、徳川家康の正室であった。南明院殿
光室とおくり名されている。


 秀吉の異常ともいえる大出世とともに、親族一同も急激に浮かび上がり、それぞれが栄華を
極めたのであるが、それはずっと後年のこと。

 その親族たちは貧しい農家にあって、毎日やせた土地を耕す貧乏百姓であった。
 
 長兄が流浪生活を続けて、たまに家にフラリと寄りもしただろうが、その兄弟姉妹にしてみれば
「困ったお兄ちゃん」ではなかっただろうか?風天の寅さんの妹、さくらの気持ちがよくわかる
のである。

しかし、この風天の兄は、厳しい戦国の世で体得した知識と経験から、農家ではなく、商人でも
なく、武家奉公を目指すのであった。

 天真爛漫、プラス思考の彼の眼前には、希望に燃える、確かな明るい未来が広がっていたのである。


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【2008/09/20 09:54】 | 未分類
Ⅰ 心術の天才 豊臣秀吉
 秀吉について語る前に、信長と元康の動向を少し書き足すことにする。ご了承願いたい。

 
 松平元信は駿河で元服を果たし、まもなくして妻を娶っている。その妻は、今川義元の親戚
の関口刑部小輔親永の娘で、元信よりも十歳年上である。

 元信は幼い頃に母親と生き別れている。きっと妻の母性愛に甘えたことであろう。
まして、年上女房は夫をかわいがるものである。仲睦まじい夫婦であったに違いない。


 さて、元信は松平家の再興を念願し、名も元康と改めて決意を新たにし、その好機到来を
日々待ち望んでいたのだが、しばらくして早くもそのチャンスが舞い込んできた。

 今川義元の要請により、元康は西三河に出撃し、その地に余勢を張る織田方を掃討する役目
を得たのだ。
 
 元康は卒然と奮起し、勇躍して三河に急いだことであろう。旧領の回復、失地奪回のことも
そうだが、主従の別れは久しいものであったはずなのだ。
主従ともに再会を喜び、感涙にむせんで泣いたことであろうし、松平家の再興を期して
勇気百倍とばかりに奮い立ったろう。

 はたして、元康率いる三河衆の奮戦ぶりは激烈果敢で、その戦功は今川家をして驚嘆せしめたのである。
織田方の諸勢力を追い払い、救援に来襲した織田勢を難なく蹴散らし、逆に追撃して敗走させたのだ。この大戦果は元康にとって幸先の良い初陣であり、彼の華やかなデビューを飾る晴れ舞台であった。
 世上では、「人間、デビューのしかたが肝心だ。」というが、まさしくその通りである。
 信長を初め、武田信玄、伊達政宗なども初陣を華やかに飾ってデビューしている。
 
 大衆は、人の噂や見た目に惑わされることが多いが、その情報に真実味が加わってくると自然に慕い寄ってくる。噂を聞いて人が集まるようになる。だから、デビューの仕方で損得が出るのだ。
初めにヘマをするとなかなかうだつが上がらず、認めてもらえないのはこのためだ。
この現象はいつの時代も同じである。 
 
 
 永禄二年(1559年)元康は18歳で父親になった。赤子の幼名は竹千代(幼名は父と同じ)
という。元康の嫡男であり、後年の悲劇の主人公、岡崎三郎信康の誕生である。

 三郎信康の不幸については別の章で詳述するが、この時の元康は喜びの絶頂であったろう。
赤子の顔をのぞきみて微笑み、その子を不器用に抱いて喜ぶ元康の姿は実にほほえましい。

 また、元康は同じこの年、大高城に兵糧を運び入れてその武名は益々上がっている。

 今川方の大高城は、織田領に突出する最前線の城で、織田方の厳しい監視下での兵糧の搬入は困難を極めていた。
ところが、元康はおとりの別働隊を使って監視網をくぐり抜け、無事に兵糧を運び入れたのだ。


 さすがの信長も、この時ばかりは度肝を抜いて、この大珍事に大いに驚嘆しながら、
 「こしゃくな奴め。なかなか、やりおるわい。」と、敵ながら元康を賞賛し、そしてこれ以後、
信長は元康の存在を強く意識するようになる。

 しかしこの時、もう一人の英傑が、信長・元康の動静を感心して眺めていた。

 身分は織田家に仕える足軽にすぎない。信長は見知っている程度であり、元康は知るよしもない。

 この足軽は、後年の豊臣秀吉その人であり、織田家にあって鍛錬の日々に努めていたのだ。
 この時、彼は二十四歳。

 豊臣秀吉は天文五年(天文六年とする説あり)尾張中村の一寒村に生まれる。
 母親の名は「なか」。後年の大政所である。

 貧乏な土民生まれの彼に幼名などあるはずもなく、幼少の頃の名も日吉、与助など様々である。
 
 生まれた日付も諸説あって、正月とする説もあるが、正月であれば貧農の母親であっても
いくらなんでも覚えて記憶ぐらいはしているだろう。諸説あるということは、正月ではない可能性
が高い。生まれた年も天文六年の酉年とする説もあり、年代も定かではない。

 伝説的な逸話によれば、彼は早い時期に父親を亡くし、継父との生活を余儀なくされたようだ。
 彼が十歳前後のわんぱく盛りの頃である。
 
 この時期は、自我の成長が著しく発達するが、その反作用で反抗期の強烈な時でもある。
必然、継父に対する反発もあったろうし、何かにつけて反抗もしたろうし、ことあるごとに継父
と衝突して、ひねくれたりもしただろう。難しい年頃だ。

 まして、後年の秀吉の母親想いは非常に有名だったから、幼少の時期にあっては母を愛する
気持ちは強烈であったろう。
自分と継父との間に入って、いじらしくおろおろする母親を見るたびに悲しい気持ちを抱いた
であろうし、このような境遇を恨んで悲哀に沈んだこともあったかもしれない。

 こうして、継父との折り合いの悪さもそうだが、彼は自己の可能性を信じ、希望の実現に向けて
旅立つ決意を固める。 

「かわいい子には、旅をさせよ。」との諺があるが、しかし、彼を待ち受ける世の中とは
冷酷非情の戦国の世であり、人の心は恐ろしいほどに荒廃しているのだ。



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【2008/09/19 02:19】 | 未分類
考察2 講談の功罪
かなり以前に上映されていた「天と地と」という映画がある。黒澤明監督の作品で、前評判も非常に良くて、戦国史に興味があった私はとても楽しみにして見に行った。

 この映画は、武田信玄と上杉謙信が川中島で決戦する歴史物語である。
特に、映画の戦闘シーンが比較的に史実に近いという宣伝も手伝って、私は期待感をふくらませ、はやる気持ちを抑えて見に行ったものだ。

 実際、画面上の映像は、陣形の展開が立体的に見て取れて、感動に値する作品であった。
 だが、友人の反応がイマイチなのだ。その理由は、

「戦闘シーンのスピード感が全然ない。御輿に担がれた女性が太鼓を叩き、大声を張り上げて、
それに呼応して軍勢がノロノロと進軍するなんて、つまらないし茶番くさい。
長槍でガシャガシャやったり、遠方から何度も弓矢を飛ばすシーンばかりでつまらなかった。」
と、言うのである。

 なるほど、友人はNHKの大河ドラマや正月番組にあるような騎馬による壮絶な突撃戦や、武士のチャンバラが見たかったのだ。

 しかし、私はこの場を借りて申し上げたい。小説の読みすぎ、講談のようなドラマの見すぎ
なのだ。講談の中毒患者が、今の現在も大量生産されているのだ。

 小説や講談は確かにおもしろいが、それらにハマルと、歴史的実像に粉飾がなされ、歴史的
事実に歪みが生じ、事実が歪曲されて伝わるという危険性がある。

 今は戦国時代ではないので、日本刀で人を斬殺した経験のある方は、皆無に近いだろう。
刀で人を斬ったとしても、斬れるのはせいぜい、二、三人までが限界なのである。人間の脂と
人を斬る衝撃力で、刀が刃こぼれを起こすからだ。なんとなくご存知な方も多いだろう。

 室町幕府将軍の足利義輝は、塚原朴伝、上泉信綱という剣聖から剣術を学び、新陰流の免許をもらうほどの剣豪であったが、三好・松永連合軍に急襲されて攻め込まれた際に、
義輝の愛刀を何十本も用意し、それらすべてを畳にブスブスと突き刺しておいて、
刀を替えがえ斬りまわって奮戦したという。

 三好・松永勢は、足利義輝のあまりの手ごわさにタジタジとなったが、畳を何度も引き剥がして
義輝に投げつけ、義輝の倒れたところを畳ごと押しつけて、そして、無惨にも大勢が群がって斬殺している。

 また、戦国時代の「騎馬軍団」は誇張である。当時は兵農分離の不完全な時代で、農耕馬が軍用に転用されるケースがほとんどなのである。

普段は日常的に農作業に従事しているので、馬の動きはノロイし、鈍いし、その足はドッシリと短い。武田騎馬軍団の密集突撃は実に有名だが、これは江戸時代に流行した軍学の影響(別の章で後述する)が濃厚だし、講談臭さプンプンで、西部劇の影響のようにも思える。

 実際は、身分の高い者だけが馬上する事を許され、兵卒が騎馬武者であったとしても、戦闘時は馬から降りて戦うことが多かったのだ。

 そして、進軍の方法だが、馬上する武将たちが各々の部隊の指揮を執り、大勢の徒歩武者が槍や弓を抱え持ち、全軍が固まるようにしてゆっくりと進んで行くのである。

 また、兵士の士気(戦闘意欲のこと)はとても重要な課題で、太鼓やドラを鳴らして兵士の士気を高め、気分を高揚させながら対陣に臨む。
当時の軍勢は、兵士が二、三人、恐怖心などで逃げ出しただけで、恐怖の連鎖が全軍に波及してアッケナイほどに自ら総崩れに陥ることも多かったのである。

 確かに、小説や講談に基づいたテレビドラマや映画は、非常に迫力があっておもしろい。
 私も大好きである。「楽しくておもしろい作品作り」を私は否定しない。

 しかし、小説や講談から歴史的実像をひも解くことは茶番であろう。売れ筋や視聴率の心配は業界の方々に任せておけばよいわけで、「楽しい、つまらない」という感覚的な要素だけでは
なく、我々は歴史的実像に近い認識力も持つべきであろう。
  

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【2008/09/18 02:55】 | 未分類
Ⅳ 律儀な器量人 徳川家康
 こうして、三河武士たちは晴れて元服を果たした元信に御家再興を託し、元信の帰国を切望して日々耐え忍んでいたのである。

 苦労して、仕事に励んで報われず、戦地で奮戦しても戦功は認められず、しかも日々の生活は
困窮を極め、戦場では必ず死地に追いやられるのだ。

 当時の三河武士は、まさに骨折り損のくたびれ儲けであり、これではまるで奴隷同然であろう。
 元信の心痛も一通りではなかったろうし、三河の窮乏化、家臣たちの惨状に懊悩し、焦慮し、
煩悶したことであろう。

 元信はその後、名を松平元康と改めている。

「康」の字は、松平家の威光を輝かしめた祖父の松平清康から取ったのである。
身の細る思いで日夜粉骨する家臣たちの為にも、松平家の再興を心に固く誓い、気を引き締めた元康であった。この改名には、彼の強い意気込みが感じられる。

 また、松平家の三河衆は苛酷な使役に耐えながらも、その鋭気は日々鍛え抜かれ、
やがて元康の有力な戦力に成長する。
 後年の事になるが、姉川の合戦において、精強な三河衆は痛快なまでに朝倉勢を撃破し、
浅井勢の猛攻の前に苦戦する織田勢を救っている(異説あり。詳細は別の章で後述する)。

 武田信玄との三方々原での戦闘では、負けはしたものの獅子奮迅の働きぶりを見せ、優勢な
武田勢に勇敢にも熾烈に突入し、敵勢を三、四町も追撃して追い払う武士も多くいた。

 その他に長篠の役、小牧・長久手の戦いなど、勇猛果敢な三河衆が大活躍するのである。

 徳川方の書である三河物語、改正三河後風土記だけを参考にして詳述すると褒めすぎの感が
否めなくなるのだが、しかし、後年の家康の天下は、三河衆あったればこそなのである。

 想えば苦労の多い主従であったが、この苦労は後年、桜が咲き乱れるかのようにいっきに開花し、華麗に花咲いて、見事に報われるのである。



さて、ここで家康の逸話を少し書いて、この章の締めくくりとしたい。家康は逸話の非常に多い
人だが、おもしろい話しがある。

 竹千代は今川家で人質生活を送り、少し成長したころに鷹狩りに出掛けたのだが、竹千代の
放った鷹が小鳥をつかみ、からんで付近の家の庭園に落ちた。

 その家の主は今川家の家臣で、孕石主水といった。
 竹千代は鷹をひろうため、その屋敷の庭内に入ったのが、主水がそれを見咎めて忌々しげに、

「三河の子せがれめ、うろうろしおって!見飽きた顔だわい、邪魔くさい。」と言い、その後も
折に触れて竹千代につらくあたり、悪態をつくこともしばしばであった。

 一方、今川家中の大河内源三郎という者は、竹千代の境遇に同情を寄せ、度々の心遣いもしてくれて温情をかけてくれる人であった。情け深い、誠実な人であったろう。

 そして数十年の歳月が流れ、主水と源三郎は武田家の武田勝頼の配下となり、二人は協力して遠州の高天神城を守備していた。
そして後日、徳川家康率いる三河衆の猛攻撃に遭い、高天神城は落城し、二人とも捕虜になった。

 その折り、家康は主水に、
「お前は以前、わしの顔を見飽きたと言っていたな。わしには必要のない者だの。」と言い、
切腹させたという。

 そして源三郎には、「駿河にいるころは本当に世話になったのう。」と、笑みを浮かべて言い、
助命は勿論のこと、その時の謝礼品まで与えたという。

 恩義に厚い一面もあれば、根強い恨みもありで、家康の親分肌がうかがい知れるところだろう。
 
 恩怨に執着する性格は、俗世に生きる大親分の特性だ。
 大親分にはなくてはならない資質なのである。



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【2008/09/17 23:27】 | 未分類
Ⅲ 律儀な器量人 徳川家康
 さて、竹千代は十四歳の頃に元服し、松平元信と名乗る。「元」の字は義元からの貰い字である。
 
 また、この元服の前後の時期に、太原雪斎は体調を崩して病没している。
 偉大な師を失っての元服だったのだ。元信は感無量であったろう。
そして、雪斎の死は今川家にとっても最大の不幸であった。その理由はいずれ分かる。

 こうして、信元は元服し、初々しい青年貴公子へと成長するのだが、彼が人質であることに
変わりはなく、彼の本国である三河は今川家の属領に成り果てていた。
 その三河には、元信の帰国を心待ちにして、今川の苛烈極める圧政に耐え続け、元信を心から
慕う忠良な三河武士たちがいたのである。

 ところで、三河を実質的に支配した今川義元は、三河から徹底的に年貢を絞り上げ、そのほとんどを横領し、元信には気持ち程度の扶持しか与えなかった。

 必然、元信は家臣たちに知行をあてがうことができない。
こうして、松平の家臣らは日増しに窮乏を極め、日々の食料にもこと欠くありさまとなった。

 元信はこうした惨状に心痛し、義元に、「本領の内、わずかでも返して頂ければ。」と懇願する
のだが、義元はノラリクラリと相手にしない。
 義元の狙いは、元信の家臣たちを離反させることにあるのだから全然らちがあかない。

 元信の家臣らは百姓同然になって働き、泥だらけの苛酷な労役に従事し、日々忍従して
その命をつないでいたのである。
 その頃の事として、こんな逸話がある。
 元信が今川義元の許しを得て、三河の岡崎に立ち寄った際の出来事。

 元信が数名の共を連れて三河の窮乏ぶりを見てまわり、逐一嘆き悲しんでは嘆息していたが、
ふと、なにげなく田畑の方を見ると、泥まみれになって除草する者に眼がとまった。

 元信の脳裏には、その者の昔の面影が走り、松平家譜代の家臣、近藤登之助とわかった。

 近藤は、実はいち早く元信の存在に気づいていたのだが、主君に苦労を知られまいと思い、
わざと顔面に泥を塗ってその顔を隠し、素知らぬ態度で草を刈っていた。
 
 その姿を眺めていた元信は近藤の胸中を察し、近藤を側近くに召し寄せて、
「顔を隠しても、わかっておるぞ、近藤。難儀させることよ。」と、涙を落として言うと、
近藤はその場で泣き崩れて号泣し、共の者たちも感涙に絶えなかったという。

 当時の三河武士の忠義心、艱難のほどが知れて心にしみる。

 また、元信の家臣らは主君に迷惑をかけまいとして、今川家の家臣たちに惨めなくらい気を遣い、今川方の横暴の日々に耐え忍んでいたのである。
その上、織田家との戦闘では常に先鋒に投入され、多大な犠牲を強いられていたのだ。
 
 大久保彦左衛門の日記、三河物語にそのありさまを鮮明に伝える記述があるので、
ここで少し、読みやすくして御紹介する。

 
「年に五度か三度は、駿河(今川家)から尾張(織田家)に戦いを挑むことがあり、松平家に
先駆けせよと命が下るけれども、竹千代さまはおいでなさらず。
 しかしながら、たとえ竹千代さまがどこにおいで遊ばされようとも、譜代の御主様への御奉公
なれば、各々残らずまかり出て、先駆けをして、親を討ち死にさせ、叔父、甥を討ち死にさせ、
従兄弟、兄弟を討ち死にさせ、その身もあまたの傷をこうむり、
その間には尾張から仕掛けてくるので、出ては防ぐ。昼夜にわたり心を尽くし、身を砕いて働く。」
とある。

 いかに三河武士が竹千代を想い、忠義一徹であったか、いかに多大な損害を受けていたかが
うかがい知れて同情の念に絶えない。

 日々の苦労もそうだが、戦地に何度となく赴き、死地で親族に守られて戦い、その親族たちを
しだいに失っていくところは壮絶、悲壮である。

 


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【2008/09/16 02:02】 | 未分類
Ⅱ 律儀な器量人 徳川家康
 竹千代を人質に取った織田信秀は、松平広忠を説き伏せて、軍門に下るように画策する。
 だが、広忠はひたすら今川家への節義を守り通し、頑として受けつけない。
 息子を棄て殺しにする覚悟なのだ。
 
 弱小国の悲哀、そして、息子への愛惜の念に悶絶する広忠の心情はまことに哀れであり、その家臣一同も同情の念に絶えない、まさに断腸の思いであったろう。冷酷無残な現実であった。

 しかし、織田信秀はさすがに度量の大きい人物であった。竹千代を殺害するどころか那古野の万松寺天王坊に移し、竹千代の母親のお大との手紙のやり取り、贈り物の受け渡し、消息のやり取りなどを許して軟禁状態にしている。

当時、母のお大は尾張知多郡の阿古野(現在の知多郡阿久比)に所在していた。お大はそこの領主で、織田方の久松定俊と再婚していたのである。
 
 心もとない人質生活なのだ。母親の確かな消息は、竹千代の心を和ませたことであろう。

 また、この頃は信長は十四歳であったが、彼は読み書きを学ぶために天王坊に通っている。
 確かな史料はないのだが、好奇心旺盛な信長のことだ、竹千代を垣間見る程度ではぜったいにおさまらなかったはずだ。もしかしたら、直接会って会話を交わしているかもしれない。さらに想像をたくましくすれば、気分に任せてちょくちょく足を運んでいるうちにお互いに交情が生まれたかもしれない。

私がここで憶測を大切にしたい理由は、後年の織田・徳川の血盟ともいうべき同盟関係の成立を考えてみたいからだ。
本来、織田・松平は仇敵の間柄で、長年に渡って交戦状態が続いていたのである。
 詳しいことは後の章で後述するが、桶狭間での今川義元の敗死の後、この同盟は仇敵同士とは思えないほどにアッサリと成立している。信長が同盟をもちかけ、家康はわざわざ尾張まで出向いてこの盟約は成立しているのだ。私は万松寺天王坊での場面で、あの時期に少年同士の交情があったからこそ、あのようにスラスラと盟約が結ばれたように思うのである。
確かに、お互いに利益があったればこその同盟だったのだろうが、私にはお互いに何らかの信頼関係があったように思えるのだ。それが拍車となって、あのスピード劇で同盟が結ばれたように感じるのである。

 さて、竹千代が織田家での人質生活を二年も過ごしている頃、その足元に戦慄すべき凶報が届く。
 父の松平広忠が家臣の乱心に遭って殺害されたのだ(病没とする説もある)。
 この不幸は、八歳の竹千代にとってあまりにも残酷な現実であり、悲壮にすぎて虚脱感さえ覚えてしまうところであろう。生きる気力を失う竹千代の姿が想像されて涙を誘う。

 また、この時期に織田信秀も病没し、信長が家督を継いでいる。

 一方、竹千代の本国の三河では、松平の家臣たちが主人を失って途方に暮れていた。
 この際、竹千代を人質に取っている織田家を盟主に仰ぐとの意見もあったが、今川義元は機先を制するが如く短兵急に駆けつけて、松平家の本城である岡崎城を占領してしまった。

 さらに義元は、松平家の有力な重臣及びその妻子ともどもを本国の駿河に移し、三河国領内には腹心の家臣を城代として次々に派遣し、三河を事実上支配したのである。

 松平家はもはや独立国ではなくなった。今川家の属国に成り果てたのだ。

 今川義元は意気揚々とさらに進撃を続け、太原雪斎に命じて織田方の三河安祥城を攻略させる。
 太原雪斎は臨済宗の高僧で、今川義元の叔父であり、当代の知勇兼備の名軍師である。
 三河安祥城は落城し、城主の織田信広は捕らえられた。ちなみに、織田信広は信秀の長男であったが、側室の子であったので、正室の子の信長が家督を継いでいた(異説あり)。
 
 三河の安定的な支配を切望する義元としては、このまま竹千代を捨ててはおけない。松平の家臣たちが幼君を想い、織田方になびいてしまう危険性があるからだ。

 さっそく義元は、信広と竹千代との人質交換を信長に打診する。
 信長はこれに快諾し、その後、竹千代は三河に帰って岡崎城に入ることができたのである。

 しかし、義元は竹千代を解放する気など毛頭ない。竹千代を人質に取って松平家を牛耳る魂胆なのだ。
はたして、竹千代は岡崎城に数日逗留の後、再度の人質として駿河に向かうことになった。
こうして、これより十二年もの歳月を駿河で過ごすことになるのである。つまり、十九歳まで
人質だったわけだ。

 竹千代は多感な少年期から青年期にかけての間を駿河で過ごすのであるが、その時期の教育係りが太原雪斎であった。雪斎は宗教界の碩学であり、今川義元の右腕として辣腕をふるい、
武田・北条・上杉などの近隣諸国にその名は鳴り響いていた。

 竹千代の境遇は不幸な人質であるが、雪斎のような優秀な師とめぐり合えたことは幸いであった。
 後年の家康は好学で、戦争も野戦の得意な人であったから、これは雪斎和尚の影響かもしれない。
 


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【2008/09/15 14:35】 | 未分類
Ⅰ 律儀な器量人 徳川家康
 多感な幼少期であるにも関わらず、人質生活を余儀なくされた徳川家康。彼の考察を重ねる
思慮深さと研ぎ澄まされる洞察力は、後年の天命ともいえる天下取りのチャンスで、
その才能はいっきに開花し、そして華麗に咲き乱れる。


 徳川家康は天文十一年(1542年)、三河の大名である松平広忠の子として産声を上げる。
幼名は竹千代。岡崎城中で生まれた彼は、織田信長の八つ年下である。

 竹千代の不幸は早いことに、やっと三歳になった頃にやってくる。

 竹千代の母親のお大は、三河苅屋城主の水野忠政の娘であったが、忠政の息子の信元が織田方になびいてしまった。
 今川家に気がねした広忠はお大と離縁してしまい、竹千代は愛する母と生き別れることになっ
たのである。
 赤心の幼子にはあまりにも悲しい現実であった。父の広忠が今川家に気がねした理由はこうだ。
長くなるが、我慢して読んで頂きたい。

 家康の祖父(広忠の父)は松平清康というが、なかなかの人物で、その武威で西三河の統一を
果たし、尾張の織田信秀とは好敵手であった。しかし、清康は家臣の乱心に遭い、二十五歳の
若さで横死する(家臣による謀殺説などもある)。

 清康の死亡によって十歳足らずの仙千代(広忠)が家督を継いだのであるが、幼少でもあり、
その実権は大叔父の松平信定の手に落ちた。
 
 しかも、権勢を掌握した信定は仙千代の殺害を謀ったので、忠良で篤実な家臣が仙千代を連れて伊勢に逃れ、その地で元服させて広忠と名乗らせ、最後は駿河の今川義元を頼って落ちのびた。

 当時の今川義元は家督を継いだばかりの時期で、意欲満々の頃だ。義元は隣国の三河に発言権を持つ好機到来とばかりに兵を繰り出し、広忠を助けて岡崎城を奪回したのである。
 こうして、広忠は松平家の当主の座に返り咲くことができたという経緯もあって、広忠は今川家
に感謝の念に絶えない。
 また、なんといっても今川家は大勢力なのだ。少しでも疑われる事を避けるために、こういった
顛末になったのである。単独では自立し得ない、弱小国の悲劇であった。

 さて、天文十六年、竹千代は六歳になったが、この時期に大珍事ともいうべき大厄難が発生する。

 今川義元は、松平家の忠誠の証しとして、竹千代を人質として差し出せと要求してきた。
 松平広忠は無念ながらその要求に応じるのだが、しかし広忠の胸中は慙愧の念に絶えない思いであったろう。夫婦の情愛、そして親子の愛情も犠牲にしなければならないのだ。
 戦国の弱小国は悲しい。

 広忠は涙ながら竹千代を今川家に差し出すのだが、その後まもなくして前代未聞の事件が起こる。

 竹千代は家臣に守られて今川領の駿河を目指して行くのだが、その道中、付き添いの戸田康光が陸路は危険なので海路をとることを勧めた。
戸田康光は広忠の後妻の父である。なんで疑うことなどあろうか。

しかし、戸田康光は密かに織田方に内通して裏取引をしていた。竹千代は事前に、永楽銭一千貫で織田家に売られていたのだ。永楽銭五百貫とする説もあるが、大久保彦左衛門の三河物語には、
「竹千代さまを売ったのだ。」と、憤激を交えた文体で書いてある。

 親族ですら、利害の為なら主君の息子を敵に売り渡す非情さだ。
 この非情性を考えると胸のつまる思いだが、争乱の世とは、人間の理性をかくも狂わせるもの
なのであろう。

 竹千代は船に乗り、大海原で方向感覚を失いながら、ひたすら家臣を信じて海を眺めている。
しかしその船は、駿河とは正反対の尾張熱田に向かっているのだ。

 いつのまにか敵国の人質になっていたのだ。

 竹千代の命は、まさに風前の灯火であった。



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【2008/09/15 02:02】 | 未分類
考察1 斉藤道三と松永久秀
 英雄の資質を備えながら、その英邁な気質が外に向けられず、ある時に内面に向けられて
自虐的に爆発して滅んでしまう者がいる。

 彼らは外的要因というよりも、内的要因によって自滅してしまうのである。
 斉藤道三と松永久秀はその代表格である。

 斉藤道三の出自は不明である。彼は美濃の土岐氏の家督相続争いにつけこみ、革手城の土岐政頼に夜襲を仕掛けて追放し、政頼の弟の土岐頼芸を抱き込んで擁立し、頼芸を美濃国主にした功労者であるという。

 後年、道三は鷺山城の頼芸を追放して実権を掌握し、稲葉山城に移って国政を牛耳る。

 ところで、道三の経済手腕は実に見事なもので、自由経済市場の発達に心血を注ぎ、美濃を
産業国にしている。また、信長の非凡な才能を見破り、愛姫(帰蝶)と信長との婚儀には
大いに喜んでいる。 

 戦争も強い。以前に少し書いたが、織田・朝倉が連合して一万数千もの大兵力で美濃に侵攻
した際、道三は寡兵ながら力戦し、野戦でこれを撃退している。

 後年、道三は家督を息子の義竜に譲って隠居するのだが、わずか二年後には義竜に叛旗を翻し、手勢わずか二千五百を率いて稲葉山城付近に押し寄せ、威嚇するように示威行為に及ぶ。

 義竜は一万数千もの軍勢で押し寄せてきて、斉藤道三はあえなく敗死してしまうのだ。

 道三の謀反の理由は古来より謎であり、様々な説が流布している。

 義竜は土岐頼芸の子であったとか(道三は頼芸の美貌の妻を強引に奪い取り、その時には
その妻は義竜を身ごもっていたという。)、道三が織田家に内通し、美濃を信長に譲り渡そう
としたとか、義竜の弟の義重を当主にしようと画策して策動したなど様々である。

 何らかの理由により、身の危険を感じた道三が絶望的な謀反に追い込まれたとの説もあるが、
有力な根拠がないので信じるわけにもいかない。

 また、松永久秀の出自も不明だ。久秀は近畿の大実力者である三好長慶に仕え、将軍家を
牛耳る三好家の家宰を務めるまでに出世している。彼は次第に権勢を欲しいままにし、
諸説によれば、三好長慶の嫡男の義興を毒殺し、長慶の弟の三宅冬康を中傷して、長慶に冬康
を殺害させたという。

 三好長慶が病没した際、久秀による毒殺説がささやかれ、今の現代もそう信じられている。
 後年、将軍の足利義輝を攻め殺してもいる。

 まさに冷酷非道、無慈悲限りなしであり、まさに下克上を絵に描いたような男である。
 ちなみに、久秀は東大寺大仏殿を焼き払ったとの説まであり、神仏を恐れぬしぶとさである。

 久秀は狡猾で利にさとい。そして機転が早い。
 信長が後年、足利義昭を担いで上洛すると、久秀は自分が擁立する足利義栄をホッポリ投げてサッサと信長に降伏し、織田家の被官になっている。

 信長は後年、朝倉征伐を強行するが、浅井家の叛旗に遭い、背腹に敵勢を受けて作戦は頓挫し、金ヶ崎からの困難な撤退を余儀なくされる。
 京までの道のりは遠い。道中は難路も多く、土民の蜂起、本願寺派のゲリラ戦など危険だらけであった。この時、久秀は信長に付き従っており、信長の為にいろいろと助言し、付近の諸豪族
の説得役も引き受けて信長を窮地から救っている。

 久秀は評判の悪い人であるが、徹底した忠臣ぶりを見せた珍しい場面なので少し御紹介した。
しかしながら、うがった見方をすれば、自分が助かりたいとの一心で、信長を手助けしたとも
いえる。恩を売って信頼を得る好機と判断したのかもしれない。

 松永久秀は後年、信長に叛旗を翻すのだが、こんな逸話がある。

 信長が安土城で酒宴を催した際、信長が満座の席で、
「わしも悪逆をしたが、そこの久秀にはかなわん。主殺しと将軍の恣意殺は、わしでもできんわ。」
と、からかった。それを聞いた久秀の顔面は憤怒で脂汗まみれとなり、信長を深く恨んだという。

 久秀の精神的トラウマに突き刺さる言葉だったのだ。無念であったろう。

 さて、1577年(天正五年)、武田信玄は病没し、浅井・朝倉が滅んで後、久秀は大和の
信貴山城に立てこもり、絶望的な謀反を決行する。

 実は今回の謀反は二度目なのだ。詳細は本文で後述するが、天正五年といえば、信長の覇権はゆるぎないものになってきている時期だ。

 また、松永久秀に味方する有力な勢力は近辺には無い。せいぜい本願寺と丹波の波多野氏ぐらいである。北条や上杉、毛利の援軍を要請していたとの説もあるが、遠国にすぎて頼りにならない。
長期の篭城にも限界があるだろう。まさに四面楚歌に等しい状態での叛旗であった。

 信長が「天下の名物、平蜘蛛の茶釜を差し出せば助命する。」と言って寄越すが、久秀は
頑と一蹴し、織田方の再三再四の降伏勧告を断り、最期は本丸で火薬を使って爆死するのである。
 


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【2008/09/14 23:00】 | 未分類
Ⅲ 中世の突破者 織田信長
また、斉藤道三の脳裏には、評判の悪い信長と直接対面して、噂通りであれば信長を謀殺し、
主不在の尾張を素早く攻略するという算段があったかもしれない。

 斉藤道三は戦国時代を代表する奸雄であり、まさに下克上の申し子というべき人なのだ。

 ここで、斉藤道三について少し書く。
 道三は一介の油売りから身を起こしたと云われるが、近年では道三ではなくて、道三の父親
の経歴ではないかと疑問視されている。

 道三は、美濃の土岐氏の家督争いに乗じてその権勢を奪い、主君の土岐頼芸を追放して
美濃一国を掌中にした奸雄である。
 
彼は経済センスに優れ、関所をいち早く撤廃している。
 当時、関所は文化の交流を遮断し、通行税を取っていた。この通行税は公益に使われず、
もっぱら一部の特権階級が搾取する諸悪の根源であった。

 商人の自由な往来は産業の促進を促し、同業者組合の「座」も開放的な形態を遂げ、物価は
安定し、自由経済市場が発達したのである。

 そして、道三は戦争も強い。
 信長公記によると、織田信秀が朝倉家と連合して南北から美濃に侵攻した際に、道三は寡兵
であるにも関わらず野戦で決戦に挑み、大激戦の末に連合軍を難なく追い払っている。
斉藤道三はまさに知勇兼備の逸材の人であった。

 道三は古来より評判の悪い人物であるが、時代の先駆者は、不当な評価を受けがちであると
いう側面もある。
 冷酷非情の戦国時代において、残忍な手段を用いてしまうのも仕方がない観もあり、
戦国に生まれた道三の悲しい宿命でもあったろう。


 ところで、正徳寺での会見には有名な逸話がある。
 道三は、会見前に町の商家に隠れ潜み、正徳寺に向かう信長の行列を見た。

 織田方の徒歩武者の持つ長槍の長さ、おびただしい鉄砲の数々には驚愕したが、信長の姿
には度肝を抜かされる。
茶筅巻きの髪、ゆかた染めの大袖を着て、腰にはひょうたんが数個ぶらさがっている。
馬の手綱も取らずに扇子をあおぎ、馬上で柿をむさぼり食うその姿に、

「まさに、評判の大たわけだわい!」と呆れ、道三につき従っていた息子の義竜にいたっては、
あまりのひどさに憤り、会見を前にしてサッサと帰城してしまう始末であった。

 道三は、信長の狂態にあきれ果てながらも正徳寺での会見に臨んだのであるが、いざ信長との対面の席になると、さらに度肝を抜いて驚愕する。

道三の眼前に現われたのは、結い直した髪に武家烏帽子をかぶり、立派な直垂袴姿の美男の
貴公子であった。道三は平静を装いながらも心底で、
「うーむ、この男量りがたく、油断ならぬ奴。」と、驚嘆したという。

 また、正徳寺での会見の後、道三が腹心の者に語った話しとして、
「うかうかしていると、あの大たわけの婿殿に美濃を婿引き出のように取られるぞ!」と言った
とか、
「残念なことだが、わしの一族はいずれ、あの婿殿の門前に馬をつなぐことになるだろう。」
と言って嘆息したという逸話もある。門前に馬をつなぐというのは、軍門に下ることを意味する。


 正徳寺での逸話の真偽は別にして、この会見で信長が得ることのできたメリットは計り知れないほど大きかったに違いない。
 まず第一に、道三は信長を器量人として認めていることである。
 この正徳寺での会見が両者の最初で最後の会合となるのだが、道三が息子の義竜に殺される
までの間は、織田家と斉藤家は合戦のない平和を保っていたことでわかる。

 第二に、この会見を機会として、信長は道三から経世の才を学び取っている節があることだ。

 信長は後年、関所の廃止・撤廃に努力し、楽市・楽座を施行するのだが、楽市とはつまり
「座」によるカルテルの禁止のことであり、これは独占禁止法のことだ。

 楽座は、今でいう規制緩和である。

 ちなみに楽市・楽座は信長が最初ではない。当時、商業地として栄えていた南近江では
その地を支配する六角家の六角承偵がすでに奨励していた政策である。信長はこれを大々的に
応用したにすぎない。
 また、これは余談だが、信長の長篠の戦いでの鉄砲三段撃ちも、実は信長が最初ではない。
これについては、いずれ別の章で御紹介するつもりである。信長は発明家というよりも
応用の名人なのだ。


 第三に、信長の厳刑主義の態度は道三の手法と酷似しており、治安維持の面で大きな成果を
上げている。信長の領内では戸締りに心配がなく、道に落ちているものを拾う者もいなかった
というから徹底している。
 
「信長の一銭斬り」は有名だ。たとえ一銭でも、盗んだ者は斬り捨てるということである。





 さて、正徳寺の会見の後、信長は尾張の経済的地盤の安定に努め、念願の尾張統一に向けて
邁進する。

 信長二十二才の弘治元年(1555年)、尾張清洲城の織田彦五郎信友を攻め滅ぼし、
信長は那古野城から清洲城に移る。

 後でわかることなのだが、信長は居城とする本城を戦略目標に向かってめまぐるしく移転
している。清洲城から小牧山城へ、その後は岐阜城に移り、後年は安土城を築城して移り住んで
いる。この発想は、当時の大名には非常に珍しい。
 在地領主が本拠地にこだわらず、戦略目標に向かって次々と本城を移転するということは、
当初から天下統一の設計図を描いていたとしか思えないからである。

 

 信長は尾張領内の反対党を次々に討滅し、破竹の勢いで攻め破ったのだが、弟の勘十郎信行が重臣の柴田勝家、林通勝、林美作らと謀って叛旗を翻す。その背後には信長の母親が暗躍している。

悲痛な親族の相克であり、戦国の非情性であるが、ともかくも信長は信行の謀反を探知すると
自ら軍勢を率いて出撃し、稲生合戦において信行勢を撃破して快勝した。

 その後、信長は寛大に弟の罪を許すのだが、信行は改心する様子を見せない。相変わらず謀反を企て策動する。

 情勢を冷静に見極め、悲壮な決意を固めた信長は、信行を清洲城に招き寄せて誘殺した。
 いわゆる騙し討ちであった。

 冷酷無残な手法を用いたとはいえ、信長の心情は断腸の思いであったろう。
 信長と信行は同腹の兄弟なのだ。

 この悲惨な兄弟の相克は、兄と弟の私情のもつれというよりも、兄弟を取り巻く一族・重臣たち
の権力闘争が招いた悲劇であった感がある。

 信行は反信長党の御輿であった。その御輿をいち早く担ぎ、謀反をさかんに扇動した柴田勝家
などは、形勢が不利になると御輿をサッサとほっぽり投げ、すぐさま信長に内通して保身に
走っている。

近年の一説に、柴田勝家は信長の力量を知って改心し、主人の信行に謀反をやめるように説得
したが、全く聞き入れてもらえず、やむなく主人を見捨てて信長に降ったと弁護して書いている
が、信行をそそのかして謀反に踏み切らせておいて、途中で形勢が不利になると主人を見限って
いることは事実なのだ。弁解の余地はないだろう。

 これは戦国の小豪族特有の、「身勝手な保身に走るあさましさ」だ。


 少し余談を書くが、室町幕府の創業者である足利尊氏は、弟の直義と仲睦まじい兄弟であった。

 弟の直義は、兄の為に絶望的な決戦に何度となく臨み、兄を助けて死地で奮戦し、必死に敵勢
をくいとめてその身に深手も負い、挺身して兄を危難から救った人であり、献身的に兄に尽くした
功労者であった。

 しかし、尊氏の覇業が完成に近づくにつれて、兄弟それぞれの重臣たちが権勢を競い合い、
しだいに反目するようになった。有名な観応の擾乱のきっかけの一つがこれである。

 様々な経緯の末に、尊氏は泣く泣く、弟の直義を毒殺している。
 
 私には、信長の兄弟相克が同じように思えてならないのである。






 さて、信長は内乱を鎮圧し、その勢力を拡大させながら地盤をしっかりと固め、
ついに尾張半国を統一するに至る。
 しかし、知多半島や愛知東春日井の東部は、今川義元の勢力圏であった。

 尾張統一を念願とする信長は、もはや今川家との対決は必死であり、今川との攻防に備えて
領内の充実を図り、自家の英気を日々養っていた。


 そしてその頃、今川家では、元服を終えた松平元康が頼もしい若武者に成長していた。

 尾張の東隣にある松平氏は、実質的に今川家の支配下にあったのだ。

 元康は人質であった。

 この人こそ、後年の天下人、徳川家康その人である。
 


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【2008/09/14 17:15】 | 未分類
Ⅱ 中世の突破者 織田信長
 さて、織田家中の者たちから危ぶまれながらも、父親の信頼を得てたくましく成長する信長で
あったが、その最愛の理解者であった信秀は合戦の古傷がもとで病没してしまう。

 信長が十六歳の頃であった。

 那古野城の万松寺で信秀の法要が行われた際に、信長は例の姿、つまり大名の子息には
あるまじき服装で突然現われ、香をぐわっと手につかみ、それを仏前に向かって投げ捨て、
ぶ然と立ち去ったのである。

 この無作法で無軌道な行為は、世間では到底認められまい。
 近隣諸国からの弔問客は驚き呆れたろうし、織田家中は騒然となったであろう。

 近年の一説に、信長の打算的な機略から、わざと無作法を装って「大たわけ」を演じて見せ、
織田家中で信長に敵対する勢力や近隣諸国を油断させようとしたという見解もあるが、
しかし、父親の早世が悲痛なまでに無念でならなかったのだと私は思う。

彼の豊かな感性が、並の人間には推し量ることのできない英邁の情念がいっきに爆発して、
こうした無作法を誘発させたように感じるのである。

 ともあれ、この葬儀における信長の無作法が織田家中を震撼させたことは事実だ。
「尾張の大たわけ」の評判に裏書したようなものだ。

 この頃、信長は母親から異常なまでに忌み嫌われ、母の土田御前は信行(信長の弟。近年、
信勝ともあり)の擁立に向けて策動している。

 次第に織田家中は支離分裂の様相を見せ始め、必然的に信長のお守り役である平手政秀に非難が集中するようになった。

 平手政秀は信長の幼少の頃からの教育係であった。

 平手は信長の教育に熱心で、馬術、水練は勿論のこと、弓は市川大介に、剣術は平田三位、
さらに鉄砲術を橋本一巴に学ばせていた。

 また、美濃国の斉藤道三の姫を迎え入れることに尽力している。信長の妻、有名な濃姫である。
(名は帰蝶という。濃姫は俗名である。美濃から迎え入れた姫という意味。)

 平手はまさに忠誠無私の忠臣であったが、残念ながら信長の無軌道な行動は直しようがない。
切々と説き伏せ、時には諫言したりもするのだが、信長の行状はいっこうに改まる気配がない。

 ついに平手政秀は「諫書」を遺書代わりに書き残し、自邸で自害して果てたのであった。

 
 諫書を読む信長の心境は、万感胸に迫る思いであったろう。

 父親の信秀は、息子の内面までもを十分に知り尽くしてこの世を去った。しかし、平手は
信長の狂態に眼を奪われ、信長の身辺に長年に渡って仕えながらも、信長を深く知ることなく
死んでしまったのだ。とても無念でならない痛恨事であったに違いない。

 信長は平手政秀の葬儀を盛大に執り行い、礼儀を正して礼服で臨み、その後、平手のために
寺を建立している。有名な政秀寺である。



 さて、平手政秀の葬儀の翌年、天文二十二年、信長は美濃の斉藤道三の申し出により、
国境にある正徳寺で会見をもつ。
 道三の娘は信長の妻であるが、戦国の世なのだ。油断できない。

 戦国の父は、領土欲のためであれば平気で割り切るとまでは言わないが、娘を「棄て殺し」
にするぐらいの忍耐力を持っている。人間の環境に順応する能力、適者生存の法則はいつの
時代も同じだ。

人は、非常に過酷な環境下でも、どんなに恐ろしい結末を迎えようとも、生と快楽を追求する
ために環境に順応して生き続けるのだ。これはどの時代にも当てはまることである。

 後年のことだが、武田信玄は、息子の義信と今川義元の娘を強引に離縁させ、今川家と義絶し、今川攻略に反対する息子を幽閉して殺害し、その後、今川家を攻め滅ぼしている。

 かくも冷酷非情な時代背景があるのだ。

 また、斉藤道三は、信長に会ってみたいという衝動に駆られていたことも想像に難くない。
 
 当時の信長の評判が近隣諸国の間で本当に悪かったからだ。

 信長は美濃の斉藤家からも軽く見られていて、斉藤道三が家臣と対面した折に、その家臣が
道三に面と向かって、堂々と、

「婿どのは、大たわけでござる!」と、言い放ったという逸話があるぐらいなのだ。

 
 斉藤道三も下克上の勝者だ。当主として見栄えは良いが、本当の意味で苦労人なのである。
 道三が平静を装いながらも内心で、
 「真偽のほどを自身の眼で確かめたい。」という激情にかられても、不思議ではないのである。


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メールアドレス hokenpuro@yahoo.co.jp


【2008/09/12 08:59】 | 未分類
Ⅰ 中世の突破者 織田信長
織田信長は尾張(愛知県)那古野(今の名古屋)城で産声を上げる。幼名は吉法師、その後、
三郎と称して信長と改める。時は天文三年(1534年)の動乱期にあたる戦国時代であった。

 厳しい下克上の世では、室町幕府でさえも、将軍の実権は管領に奪われ、管領はその執事に、執事は家宰に奪われるという、身分の上下に関係のない実力主義の世相である。

 信長の父、織田信秀は将軍家に縁の深い斯波家の尾張守護代を支える家臣であり、尾張
守護代の織田大和守の家老であったが、信秀の実力と声望は次第に主家を凌ぎ、
武威を奮ってメキメキと頭角を現した。

朝廷に莫大な献金をして官位を貰い、やがて主家から権勢を奪い取り、ついに全尾張における
主導者的な地位を獲得したのである。

 応仁の乱(1467年)以降、むこう百年の間は戦乱の世であり、下克上の世相によって
実権を奪われた室町幕府の諸国に対する命令は有名無実化し、その支配権たるや、ついに
山城一国にとどまってしまった。

 各地の守護・地頭は中央政府に貢租を納めず、領国の国境を固く守り、自主独立を志す群雄が割拠するようになった。織田信秀はこの世相にうまく乗り、群雄の仲間入りを果たした下克上の勝者であった。


 尾張の大実力者となった信秀は、足元の地盤をしっかりと固め、虎視眈々と領内を狙う
近隣諸国に備える一方、その勢力の拡大を期して絶えず隣国に攻め込むという、まさに
陣取り合戦の日々を送っていたのであった。

 東を見れば松平氏が勢力を張り、その背後には大物の今川家が控えており、北は美濃の斉藤氏が日の出の勢いである。

 全く油断も隙もない大敵に囲まれて、果てしない戦争に明け暮れる信秀であったが、
彼は息子の信長に何を期待していただろうか?

 髪を茶筅に巻き、衣服といえば膝までの薄着を身につけ、道中では馬上で柿をむさぼり食い、
食べかすを吐き散らして往来を行く不良児なのである。

 とても大名の子息とは思えない狂態ぶりなのだ。

 家臣らが見るに見かねて注意もするが、この野生児は改心するどころか傍若無人に振舞って
全く意に解するところがない。
自由奔放というよりも我が侭放題であり、織田家中での人気も人望も日増しに下がる一方な
のだ。
 
 しかし、父親の信秀はこの「不良息子」を笑って見守っていたようである。

 信秀は苦労して下克上を生き抜いた強者なのだ。人の内面的な資質を感知する能力や、先を見通す洞察力には自信があったのであろう。
信長の表立った奇行にとらわれず、息子の内面に潜む潜在的な英知を嗅ぎ取っていたのかも
しれない。

 信長は野駆けが大好きな少年であった。領地内の土地、民情にじかに触れるということは、
織田家中の誰よりも領内の実情を正確に知り得る機会に恵まれていたといえる。

 父は息子の行動に直感的な将来性を見出していたのかもしれない。
もしそうであったとすれば、忍耐強い、度量の大きい父親であったろう。

 また、信長にとって、父親は自分の最大の理解者であり、尊敬する最愛の人であったろう。
 
 人は、自分を理解してくれる者に、最愛の情を示すものなのだから。


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【2008/09/10 18:28】 | 未分類
はじめに。
 事を起こし、それを成就するには専心する勇気が必要である。

 周囲から「そんな事は無理だ。やめたほうがよい。」と言われて諦めるようでは、
念願とする目標は達成できない。

日々智恵を絞り、温かい人間関係を作る努力を怠らない者は、勇気と行動力によって
現状を打破し、日々邁進することで人生の目的を明確にし、
そして、確信を内に秘めながら勝者の道を歩みはじめるのだ。

 信長を初め、秀吉と家康は戦国乱世に終止符を打つべく果敢に挑戦し、そして、平和を招来
させたという大偉業を成し遂げている。

彼らは勇気を持って困難な現状に立ち向かい、日々智恵を絞り、現状を打破する行動力と
真摯な態度を常に忘れなかった。

 今、我々が彼らから学ぶものがあるとすれば、それは困難ながらも諦めずに真剣に取り組む
彼らの態度であり、彼らの鍛え抜かれた資質であり、豊かで魅力的な個性である。

 下克上の戦国時代は想像を絶するほどの非情な世の中であった。親族同士が争い、親子兄弟
が殺し合う、悲惨・悲痛な弱肉強食を絵に描いたような時代であった。

 このような不幸な時代背景にあって、自らの自主を主張し、希望や仕事を成就させることは
並大抵のことではない。

時には権謀術数を使って冷酷無残な結果を残すこともあるが、それは彼らの罪というよりも
時代の罪なのであり、下克上という世相での彼らの悲しい宿命であったろう。

 我々は彼らを特別な人と見てはならない。
 彼らの生涯とは度重なる試練の連続であった。我々と同じように難しい選択の連続
だったのである。

 しかし、困難を克服する過程において、彼らは常に建設的に物事をとらえる感性を
身につけていく。辛い現状を打開する勇気と智恵を、彼らは決っして忘れない。

 彼らは退屈で怠惰な人生を送るほど不真面目ではないのである。

 彼らが魅力的なのは、自分の持つ能力と個性を最大限に発揮していることだ。

 信長は「大うつけ」と周囲から白い目で見られ、母親から嫌われ、秀吉は貧民の出である
がゆえに蔑まれ、家康は自由なき人質生活を送らねばならなかった。

 越え難い現実に直面した彼らは、悩み、焦慮し、苦しみながらも、困難な現状から懸命に
這い上がり、そして、人物としての魅力を磨き上げていくのだ。

それが、現代社会の我々に生きる力強さを教えてくれる。人間性がいかに大切であるかを
伝えてくれる。
 我々は彼らの生涯から「人としてのあり方」を学び取ることができる。

 そして、魅力ある人間を目指す上で大切な「人を思いやる温かい心」を我々に再認識させて
くれることであろう。

 信長は、秀吉の出世をねたむ家臣たちがいる中で、秀吉をそれとなく励まして応援している。

 秀吉は、信長の至らないところを温かく包み込み、心優しく支援する。

 家康は謙虚であり、慎み深く、その律儀さを信長は愛した。


 乱世であり、裏切りの横行する冷酷非情の戦国時代において、織田・徳川のように二十数年以上も同盟が続いた大名は他には現れなかった。

 この血盟ともいうべき同盟関係は、信長が本能寺で横死するまで非常に固い絆で結ばれていたのである。
反復常なき戦国時代にあって、これは誠に稀有な間柄であり、誉れ高い戦国の美談といえよう。

 先行き不透明な現代社会に生きる我々は、彼らの生涯と人間性を通して見ることにより、
彼らに触発され、「得がたい貴重な何か」を発見できるかもしれない。



                   
                                                筆者 勝又 正道

著者HP http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/
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【2008/09/10 14:03】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
不如帰 ~戦国武将の幻影~


Ⅰ<覇王編>~逆賊 織田信長を討て!~  Ⅱ<争覇編>~織田家簒奪!秀吉の野望~

不如帰 戦国人物伝


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