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Ⅰ 第六天魔王の英断

信仰心の象徴である比叡山を焼き、社会的な権威の象徴である室町幕府をも滅亡させる信長。
世上の人々に第六天魔王と罵られようとも、信長は己を信じて力強く突き進む。そして日本は再生し、新しい時代、近世の幕開けを呼び覚ます。


 さて、姉川合戦の後、信長は安心して中央政権の安定に向けて専念することができたのであるが、これは家康のおかげであった。
 家康は浜松城で武田信玄に睨みを利かせ、三方々原の戦いでは勇戦し、精強な武田勢の進撃を懸命にくい止めた。織田・徳川の同盟以来、家康は常に信長を手助けし、援軍も送り、防御の役目も果たしてきたのである。信長は大助かりであった。

 家康が東国の要となり、諸事に忙殺させられている頃、信長もまた、非常に精力的に活動していた。最も際立つ出来事は、比叡山延暦寺を焼き払ったことであろう。
この焼き討ちの経緯には、浅井・朝倉が深く関わっている。

 姉川合戦の後も戦力を温存していた浅井・朝倉は、近江の本願寺門徒と結んで騒擾を起こし、
信長に対して猛烈に反抗しだした。これは、近隣諸国にも呼びかける大運動なのだ。
 阿波の三好家が浅井・朝倉と呼応して勢いを盛り返し、淀川下流に複数の砦を構築し、付近の
諸豪族をさかんに扇動して敵対する、本願寺は一揆を誘発させる、六角承偵がどこからともなく
舞い戻ってきて、近江の土民をいっせいに蜂起させる。乱麻の状態となった。

 しかも、この騒動の背後には将軍の足利義昭がいる。義昭は信長の操り人形同然なので、それが悔しくて我慢ならない。さかんに浅井・朝倉をそそのかしては信長打倒に暗躍する。
この人は、やたらに謀略の手紙を諸国に乱発するので、手紙公方と呼ばれていた。

 信長は行動派だ。美濃の岐阜城で騒動の急報に接し、直ちに軍勢を率いて摂津に向かい、
三好・本願寺と熾烈な大激戦を展開する。
しかし、勝敗は双方譲らず、激闘は数日間に及んだ。

 こうした戦況のさなか、浅井・朝倉連合軍は二万五千もの軍勢を率いて南下、比叡山のふもと付近にまで進撃し、宇佐山城の織田信治(信長の弟)と森可成(森欄丸の父)をたちまち屠り、比叡山の僧兵と連携して近江の北坂本に布陣したのである。
 これは浅井・朝倉の謀略なのだ。
 摂津において対陣中の信長の留守を衝き、その背後を遮断したのだ。しかも、浅井・朝倉勢は京都にまで迫る勢いであった。

 信長は戦慄し、その本営は騒然となった。信長生涯最大の危機であったといえる。

 前面には対陣中の三好・本願寺、後方には大軍を率いて侵攻する浅井・朝倉連合軍、背腹に敵勢を受けた兵法にいう死地に布陣する形勢なのだ。そして万が一、浅井・朝倉に京に入洛でもされたら信長の武威は大失墜する。
また、義昭と結託する浅井・朝倉が朝廷にねだって信長追討の令旨を頂くということも十分に考慮しなければならない。日本史上、古来よりそんな例はいくらでもあるからだ。

 こうして、信長は大厄難とでもいうべき窮地に陥るのであるが、信長は実際家であり、胆力の人だ。直ちに英雄の打算的機略を取り戻し、素早く総退陣の命を下す。
 そして、早急に軍勢を率いて南坂本に向けてとって返し、すぐさま浅井・朝倉勢の糧道を封鎖し、早々と浅井・朝倉を重囲して兵糧攻めの構えを見せた。この信長の迅速極める行動に浅井・朝倉勢は度肝を抜いて驚愕する。

 しかし、信長の運命は好転しない。

 本願寺がさかんに一向衆徒に指令を出し、その熱狂的な信者たちが琵琶湖を渡って糧食を運び、織田勢の監視網をかいくぐって命がけで浅井・朝倉を援助するのだ。
 また、伊勢長嶋の一向衆が突然蜂起した。
 一揆勢は略奪暴行の限りを尽くし、代官を殺害しては租税を横領する。この征伐軍の滝川一益が鎮圧に向かうも、一揆勢は行けば四方八方に逃げ散り、去れば集まり群がるで全然手におえない。
まるで食事中のハエのようにしつこいのだ。

 そして、特に困ったのは比叡山だ。
 糧食に限らず、武器・弾薬、兵士にいたるまで、ありとあらゆる物資をしきりに浅井・朝倉に補給するのだ。
信長は憤怒しながらも何度となく警告の意味で比叡山に使者を送り、
「我が方に味方して頂きたい。それができないのであれば、中立を守って頂きたい。しかし、
両方とも聞き入れがたいというのならば、比叡山を焼き討ちにするであろう。ご返答はいかに?」
と、いってやるが山からは何の音沙汰もない。何日も、待てど暮らせど返事がこない。
 それどころか、相変わらずセッセ、セッセと浅井・朝倉に補給を続けている始末なのだ。

 信長は脳天から火を吹くように激怒したことであろうが、どうしようもない。

 
 ここで私見を書くが、テレビドラマを見たり小説を読むと、信長は浅井・朝倉との姉川の合戦で勝利し、その後、順風満帆に浅井・朝倉を滅ぼしたかのような印象を受けるケースが非常に多い。
 また、比叡山の焼き討ちにしても、宗教嫌いで残虐、非常に独善的で強引な信長像が演出される場面も散見される。
 確かにテレビドラマや映画は時間的な制限があり、同時多発的に根強く抵抗する様々な敵を相手にする信長を表現することは非常に難しいし、書物は文章の構成上の問題や、楽しくてワクワクする箇所が多いほど人気が出て売れるのかもしれない。
しかし、信長の事跡を丹念に追っていくと、姉川合戦の後から浅井・朝倉を滅亡させるまでの期間が、信長の生涯最大の危機に迫られた時期であったといっても過言ではないのだ。
 また、比叡山の焼き討ちの件にしても、これは藤原摂関家の開発した荘園制度から派生している悪弊とでもいうべき歴史的な根深い問題が関与しており、現代風にいえばこれは積弊と化した特殊権益に巣食う勢力を排除する為の政治的な構造改革だったのである。
 現代の日本が省庁の省益によって蝕まれ、特殊法人の乱立が国を傾けていることは誰が見ても明らかなのであるが、これがなかなか手に負えないのと同じことなのだ。

 しかし信長は、特殊権益の上にあぐらをかき、私利私欲をむさぼる勢力に毅然とメスを入れ、
まさに命がけで懸命に努力しているのだ。
 
 だから、信長はえらいのである。
 


著者HP http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/
メールアドレス hokenpuro@yahoo.co.jp


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【2008/10/31 05:43】 | 未分類
考察13 歴史史料の信憑性とは?

 歴史史料を考察する上で注意する点がある。史料を知る以前に、史料的価値が高いとか低いなど、史料の価値基準や信憑性が決定づけられている。

 例えば、信長公記や武功雑話は価値基準が高く、甲陽軍鑑や明智軍記は信憑性が低いといわれている。
 史料的価値基準の低い理由として、年代の誤りや史料同士の照合が合わないケース、各史料との整合性の問題や、明らかにウソとわかる記述があるなど、さまざまだ。

 資料的価値の高い信長公記は、信長の祐筆であった太田牛一の書であり(太田牛一は祐筆ではないとする説もある。)、武功雑話は九州の肥前の大名、松浦鎮信が編集させた書物とする説がある。
 つまり、大名の祐筆や、大名自身が関わった書物は信用度が高いのだそうだ。

 しかし、これには全く納得いかない。
 戦国時代に電話もテレビもない。現代のように情報公開などあり得ないし、記者会見などあるはずもなく、戦況がテレビやラジオで報じられることも全くない。
ほとんどすべて、見聞きされた伝聞なのだ。直接本人にインタビューして書き留めるなど、ひどく困難に違いないし、本人がウソをつくことも十分にあり得るだろう。

 したがって、大名の祐筆であろうが、大名自身だろうが、伝聞に基づいて記述されている以上、全ての史料を疑って読む態度が必要不可欠なのだ。伝言ゲームと同じことで、真実が自分の都合の良いように解釈され、事実がねじまがり、それが伝わってしまう危険性がとても大きい。
 稀に、本人直筆の書状や手紙が発見されて現存もしているが、それを読んだとしても予想の領域を免れないだろう。

 ゆえに、史料は全て先入観なしに公平に認知されるべき物であり、また、あらゆる史料を読んだ中から自分の判断を決めるべきであるし、その決めた判断も己自身で日々疑念を抱きつつ、常に試行錯誤をくりかえして再検討する必要がある。
そして、新しい史料の発見や、発掘などの調査による史料の新解釈の可能性を追求し、歴史解釈は日々進歩しなければならない。

 それに対し、歴史解釈を権威づけて、固定観念で縛り上げることは愚の骨頂であろう。
 残念なことに、史学会の権威主義と師弟制度が史料の価値基準やその信憑性に深く関わり、歴史解釈を決定づけてしまっている。
しかも、屏風絵まで持ち出してきて説得性を持たせる老獪ぶりなのだ。その最たるものが、
「長篠合戦図屏風」であろう。学校の歴史教科書には必ずといっていいほどに載せられている。

 あの屏風絵は江戸時代の作品で、講釈師(講談を話し、それを生業とする者)の語る世界が鮮明に表現されている。陣形から戦闘の様相まで、ほとんどの部分が江戸時代に流行した講談や軍学の影響を受けている(軍学については別の章で述べる)。

 また、以前にご紹介した桶狭間の戦いで、私は奇襲説と強襲説があると書いた。信長公記の解読解釈の違いであるとも書いている。
 奇襲と強襲ではえらい違いだが、これは記述された語句と文脈の解読解釈の相違に他ならない。なにせ、ぶっきらぼうで、あいまい極まる表現の記述も数多くあるのだ。田楽狭間での天候ですら、雷雨、大雨、曇り雨、曇り、はたまた晴れとする説まで登場し、文脈の判断も諸説混在している。
 史料の解読とその解釈が、いかに難しいかがうかがい知れるところであろう。

 もっとも、現代の日本でも同じような現象があり、日本国憲法の第九条の解釈をめぐる自衛隊の派兵論争などがその最たるものだろう。自衛隊はどう考えても軍隊だと思うのだが、そうではないと解釈する議員はいるし、あの条文を読んでなぜ海外派兵が可能なのかと悩むのだが、政治家の多くが文脈的に可能として派兵を容認しているわけだ。
 
 現代日本国の最高法規ですらこのありさまなのだから、史料の解読解釈が諸説混在するのも無理はないのである。

 少し余談になるが、私は歴史小説や歴史ドラマが大好きである。ただし、娯楽としてである。
 したがって話しの信憑性など、全然気にしないし、
 「フムフム、なるほど、さもありなん。」の気分で楽しんでいる。
 しかしこの前、友人が収録したNHKの大河ドラマ「利家とまつ」を借りて見た時に、びっくりさせられた。
 桶狭間といえば雷雨の奇襲と相場は決まっているが、映像では天候は曇り雨、小高い丘を駆け登る強襲説とも思える場面が映し出された。少々、驚きと感動を覚えた次第である。
 


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【2008/10/28 13:01】 | 未分類
Ⅲ 壮絶 三方々原の血戦

 武田信玄は徳川勢の突撃に全く動じることなく、悠然と采配をふるって全軍を素早く反転させ、
得意の魚鱗の陣を展開しながら猛反撃に転じた。
 後続部隊から一転して先鋒となった小山田信茂は勇猛果敢に織田勢に突入、援将の佐久間、滝川は驚き恐れて後退し、平手は血だるまになって戦死した。

 徳川勢は鶴翼の陣形で包囲網を敷き、右翼の酒井忠次が奮戦して小山田勢を食い止め、なんとかこれを撃退する。
 これと呼応するかのように「甲州の赤備え」で勇名を馳せる山県昌景が徳川勢の左翼を狙い、
本多忠勝・小笠原長善に熾烈な斬り込みをかけ、大激戦となった。

双方ともに壮絶な死闘をくりひろげ、野は朱に染まり、馬蹄が大地をゆり動かす。
しばらく大乱戦が続いた後、本多忠勝が奮戦し、山県昌景を押し返したかに見えたその時のことだ。

「信玄が七手の先鋒ことごとく破れ、味方勝ちいくさと見るところに、四郎勝頼(武田勝頼)
白地に黒き大文字、黒地に白き大文字付たる二本の馬印を、左右の脇に押したて、馬より下がり、山県が人数崩れかかる右手の方へ、たたき廻して、御旗本へ横筋かいにかかり突き崩す」
                                <改正三河後風土記>

 信玄は、各々の武将に負けたふりをさせて後退させ、猛追する徳川勢の陣形が伸びきったところで、手薄になった家康の旗本勢の側面を武田勝頼に狙わせたのだ。
 武田勝頼のすさまじい猛烈な突入によって家康の旗本勢は大きく崩れ、敗色が濃厚になる。
 徳川方で討たれる武将は数知れず、本多忠真、鳥居忠広、成瀬正義、松平康純などの勇将が
次々に壮絶な戦死を遂げる。
 熾烈な戦闘で苦戦する本多忠勝を石川数正が果敢に援護するが、これを眺める信玄は米倉丹後、馬場信房に命じて本多・石川勢の側面を突かせた。
そして、内藤昌豊が小山田勢と入れ替わり、徳川勢の右翼に再度襲いかかる。

 徳川勢には入れ替わる味方がいない。徳川・織田連合軍の敗北は決定的となり、形勢は断然、武田方の優勢となった。

 敗退する徳川勢は武田の猛追撃に遭い、一挙に大損害を被り、鮮血を残して野を戦死者の山で埋め尽くす。家康の赤黒く染まる鎧には数本の矢が突き刺さり、敗走する主従わずか五騎は浜松城をめざして落ち急ぐ。
 家康の近辺に迫る武田方は執拗に弓・鉄砲を撃ちかけ、飛来する強矢は家康の顔面をかすめ、鉄砲が間断なく飛び交い、まさに生還は絶望的に見えた。
 しかし、徳川方の天野康景が果敢に防戦に努め、家康は奇跡的に入城を果たした。
この時、家康が恐怖のあまり、馬上で脱糞していたという話しは実に有名だ。

 家康は入城するや否や供のものに絵師を呼ばせ、その姿の自画像を描かせている。
この絵は今でも現存していて読者の中にもご存知な方は多いと思うが、あの表情は本当にじょうずに描けている。
恐怖で顔面が引きつり、武田勢がいかに恐ろしい軍隊であったかが知れ、また、敗戦による家康の無念のほどが伝わってくるのである。

 ところで、ここで有名な逸話を一つ御紹介する。
 武田勢は馬場信房、山県昌景を先鋒に立て、家康が逃げ込んだ浜松城に押し寄せる。
 城は白昼の如き大かがり火がたかれ、城門は八文字に開いており、人なきが如く静まり返って
いた。
 馬場と山県は知勇の士なので、「さては敵の計略だな。」と思案し、攻城を諦めて引き返したと
いう話しだ。
 この逸話は、三国志演義に登場する諸葛孔明が司馬仲達に謀る、「空城の計」にそっくりだ。
江戸時代の軍学者か、若しくは講釈師か、いずれかが机の上でこしらえた創作であろう。

 さて、大敗北を招いた家康であったが、天下無敵の武田に勇敢にも戦いを挑んだことは賞賛に
値するであろう。
領主は頼もしくなければならず、勇敢な陣頭指揮ができてこそ、家臣たちは信頼感を持つものだ。
相手が強敵だからといって居すくむようでは家臣の心をつかむことはできない。家康はそれを十分に熟知していたから、勝敗を運にまかせて出陣したのであろう。
 勝ち負け、損得ではなく、「トップの決断と行動が、組織の興亡をいかに左右するか」
の参考事例となろう。

 私が心残りに想うことは、信玄が家康と敵対してしまったことである。
 
 信玄が家康に少しでも譲歩して、遠江の領有を家康に譲り、縁組などして親しく交わり、
老練な政略を使って家康を味方に引き入れていれば、それは信長にとって脅威そのものであり、天下の形勢は大きく変わったかもしれない。今川領分割協議の際に、そのチャンスがあったように思う。

 家康を味方にした信長は、本当に幸せ者であった。
 信長の覇権は家康のおかげであり、秀吉もまた、そうであった。

 信玄の生涯最大の不覚を挙げるとすれば、それは家康を敵にしてしまったことであり、
私はそれが、とても残念でならない。



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【2008/10/28 04:30】 | 未分類
Ⅱ 壮絶 三方々原の血戦

 ところで、武田信玄の目的は上洛の為の西上であり、浜松城の素通りは余計な戦闘による消耗を避けた為であると古来より伝わるが、私はそう思わない。詳しいことは考察で詳述した。思い出して頂きたい。
 信玄は三河・遠江の制圧を志し、織田・徳川との戦闘による戦術的勝利を期して出兵したのであると、私は確信する。
 以前の考察に加えていえば、信玄の背後を狙う上杉謙信は、雪どけの始まる四月に入れば出動可能であり、高坂弾正昌信がいくら豪なりといえども長期に渡る防戦には限界がある。
 また、信玄は約半年間の作戦行動しか取れない。農民混じりの軍隊だからだ。農繁期の前に兵士たちを帰国させる必要がある。
 実際、織田信長はこの時、「信玄の上洛、おぼつかなし。」と、断言している。

 武田信玄は合理主義者で非常に計算高い人物だ。観念的に上洛を考えもしたであろうが、現実的な手段を誤るような愚かな人ではない。信玄に詳しい方ならご存知のことであろうと思うが、信玄は出兵する際には、必ず占領すべき領土を選定して戦略目標を明確にしてから軍事行動を起こす。
 以前の川中島での謙信との戦闘は、売られたケンカなので仕方なしに受けただけで、出兵することによって信濃の諸豪族を宣撫して支配権を強化するという政略的な目的があったのである。

 私見になるが、信玄の戦略目標は三河の岡崎城までのラインであったろう。
 武田勢は三方々原での大勝の後、野田城、吉田城を激烈に攻撃している。両城ともに岡崎城を守る為の戦略的要害だ。以前に通過した高天神城、二俣城には、たいした攻撃を加えていない。
浜松城は素通りにしている。
高天神城は要害堅固な城で、武田勢は攻略を諦めて放棄しているが、信玄が本気で攻め落とすつもりがあったのかどうか、私は疑っている。話しが尽きない。本論に入る。

 ともかくも、家康は武田勢の素通りには我慢ならない。
 軍評定の席上、家康は出撃を主張してやまないのだが、重臣をはじめ、織田の援将たちも自重を要望して全然動く気配を見せない。
多勢に無勢な上に、武田勢が怖いのだ。勇敢な三河衆にも武田の精強さは脅威そのものであった。
 衆議は武田勢を素通りにさせて、後日に期すの論議になる。 

 しかし家康は、ガンとして譲らない。

 重臣たちは悩み抜いた末に、この活気あふれる青年武将にその命を託すことにした。
 家康のたぎる闘志は部下を励まし、全軍が一丸となって浜松城の北方、三方々原へ向かって猛然と出撃する。
 そして、家康は武田勢を追尾し、敵影を眺めながら進軍していくと、武田勢は狭い谷間の隘路を行軍している。しかも坂道を下っている最中であった。

 これは、千載一遇のチャンスだ。
 武田勢は、狭い隘路に妨げられて大軍での行動は不可能に近い。また、武田は反転を余儀なくされ、しかも坂道を駆け登りながらの戦闘となる。地形は武田勢に不利なのだ。

 家康はこの時、勝利を確信した。
 はたして、徳川・織田連合軍は時を置かずに急追撃の態勢を整え、前方の武田勢に突撃を敢行、猛烈に肉薄していく。

 だが、これは武田信玄一流の罠だったのだ。
 信玄としては、徳川勢の来襲がなければそのまま長篠方面に向けて進軍するつもりであった。
しかし、徳川勢の来襲があった場合には、徳川方を徹底的に殲滅する必要がある。
 徳川は有利なろう城をムザムザ放棄して、ワザワザ出向いて来てくれたのだ。徳川家の戦力を温存させておく手はない。家康率いる徳川の主力部隊を壊滅させれば、後々の戦術も非常に楽になる。
 しかしながら、徳川方は多勢に無勢だから、おそらくは警戒して無理をしないはず。

 ところが信玄は、この無理をさせたい。
 油断と見せかけ、その油断から敵を誘い出し、その誘いに乗じてこの無理を徳川勢にさせたところに、武田信玄の軍略の才が光るのだ。
 武田勢の後尾には、後続部隊にいるはずのない武田勝頼と小山田信茂が好機到来とばかりに待ち受けていた。

 両将ともに、本来は先鋒の大将で知られる、武田家屈指の猛将である。



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【2008/10/26 10:35】 | 未分類
Ⅰ 壮絶 三方々原の血戦

 卓越した軍略と老練な政略を兼ね備える武田信玄。得意の外交戦略により、将軍足利義昭を中心とする諸大名との連携を強め、信長包囲網を完全にし、いよいよ西進を開始する。


 さて、家康は武田の脅威を感じ取り、浜松城で睨みを利かせ、信長の同盟国としての義理も果たしていたのだが、ある日、家康が遠江の大井川まで巡検に出で来ると、信玄がいきなり抗議してきた。
 信玄は、「大井川周辺は武田領である。なにゆえ国境を侵すのか!」と、強圧的に言い張る。
 しかし、これはおかしい。
 先年の今川領分割協議の際、国境は「川切り」と誓約していた。
 川切りとは、遠江と駿河の境にある大井川を指す。当時であれば誰でも知っている常識なのだ。
それを信玄は天竜川切りであると勝手に解釈し、家康にイイガカリをつけてきたのだ。
 まさに挑発的な詭弁であった。
 この事態を憂慮した信長と家康は、越後の上杉謙信と和親を図って信玄を牽制する。

 ところで、信玄は今川領駿河に侵攻した際、小田原北条氏の激烈な攻撃を受け、まさかの横槍が入った為に駿河攻略を半ばで諦め、一度は甲斐に引き上げていた。
 今川氏真の妻は北条氏康の娘で、信玄の横暴に腹を立てた北条家は兵をくり出し、信玄の侵攻にストップをかけたのである。
 その後、信玄は何度と無く駿河に侵攻し、執拗に経略を手がけ、やっとの思いで駿河を併呑した。
そして、老練な政略を用いて北条家と和親を図り、婚姻政策を使って親戚関係を結びなおし、駿河の支配権を北条家に認めさせたのである。
 こうして信玄は、北条家とは親密な仲にまで回復させるのであるが、しかしその一方で常陸の佐竹家、房総の里見家との絆も強化し、北条家が容易に動けないように牽制もする。
 こうした信玄の外交的手腕はまことに鮮やかであり、実にしたたかである。

 また、越後の上杉家の押さえとして、武田の勇将、高坂弾正昌信を海津城に配置して厳重な防備もさせた。
 もはや後顧に憂いなしであった。
 信玄は摂津の石山本願寺、越中の本願寺門徒と結び、浅井・朝倉とは連携を確認し合い、織田方の武将、松永弾正久秀には裏切りの確約まで取り付けていた。
信玄はあらゆる外交的布石を打ち、信長を厳重に包囲し、あとは上杉謙信が雪に隔てられる時期を待つばかりであった。

 そして、元亀三年(1572年)十月、武田信玄は風林火山の大旗を押し立て、織田・徳川の覆滅を期して甲府を発した。
 武田信玄の所領は甲斐、信濃、駿河、遠江の北部、三河の東部、上野の西部、飛騨の北部、越中の南部で約百二十万石。動員可能兵数は約三万。本国に五千を残し、自らは本隊の二万を率い、北条家の援兵とともに遠江に向けて進軍する。別働隊を指揮する猛将山県昌景は五千の兵力で三河東部から遠江に向かい、諸所を威圧して進軍し、本隊との合流を目指す。
 飄々たる軍旗は一糸乱れず、威風堂々の進撃であった。

 一方、徳川家康の所領は遠江、三河の約五十六万石。総動員兵力約一万四千。
さらに、織田家の援将である佐久間信盛、滝川一益、平手汎秀率いる三千が加わる。

 当時、武田といえば兵馬は精強無比、名将の数はきら星の如く、勇将士卒の士気の高さは天下一品だ。武田の武威は、伝説的な恐怖となって広く知れ渡っていたのである。
 はたして、武田の猛威猛攻によって多々羅、飯田の両城はあえなく落城し、二俣城にいたっては恐れをなして開城してしまう始末。
二俣城は、本城の浜松城を守る為の重要な戦略的要害だったのだ。
余ほど怖かったに違いないのである。

 武田勢はその後、破竹の進撃で三方々原まで進み、浜松城外の町や村を放火しながら長篠方面に向けて進路を取り始めた。家康の所在する、浜松城を素通りにするつもりなのだ。
 これを知った家康は激怒する。
 いわば、布団に入って眠れずにイライラしているところに、汚れた足で枕の上を踏み越えられたような、なんともいえない嫌な気分になったのだ。このままでは武田が怖くて萎縮した卑怯者になってしまう。
 
 領主としての面目上、勇将である自負心に賭けても、家康は断固として決戦を決意する。



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【2008/10/26 03:11】 | 未分類
考察12 織田家の猛将 佐々成政

 プライドは異常に高いが狭量な人物、この典型の武将が佐々成政だ。彼は歴戦の猛者で、織田家の猛将で名高い。
 秀吉が織田家に仕えて身分の低い頃は、佐々は織田家の高級将校で、その将来は非常に明るいものであった。諸書によれば、佐々の性格は陰険で陰湿であったようだから、さぞかし威風堂々と風を切って歩いて、その眼下に身分の卑しい秀吉を見据え、バカにして笑っていたことであろう。
 ところが、秀吉はトントン拍子に出世して、誰もが羨む織田家の師団長クラスにまでなった。
佐々成政の方はといえば、師団長の柴田勝家の配下だ。彼の性格からして、無念と憎悪で倒れるほどであったろう。

 天正八年、信長は加賀を平定し、佐々成政を富山城に配置して、越中の上杉勢に備えさせる。
 これ以後、佐々は対上杉戦に没頭するのであるが、その際、佐々と柴田勝家はひどく残酷で残忍、無慈悲なことをしでかしている。
 上杉方の魚津城を攻略する際に、城があまりにも頑強で難攻不落なので和平案を提出し、
城兵方とお互いに人質を交換し合ったのだが、和睦に安心した城兵や女子供がその城を出た途端に、無惨にも狙いすましてことごとく討ち果たしたのだ!これはむごい。
 これは誘降しておいて無抵抗な城兵や女子供を殺戮し、彼らが差し出した人質をも棄て殺しにしたのだ。人質として城内に入った者たちは、裏切り行為に憤激した城兵によって斬殺されている。
 秀吉であればこんなバカなことはしないところだが、この高いツケは後年、佐々と柴田の運命を鮮明に左右し、柴田勝家は賎々岳の戦いで敗れてしわ腹を斬ることになり(詳細は別の章に書く)、佐々成政は転落するかのようにしだいに没落していく。

 後年の賎々岳の戦いでは、佐々は魚津城の件で怨み骨髄の上杉勢に備える為に出陣できず、したがって柴田勝家に助勢もできず、この合戦には全く参加していない。しかしこれが逆に幸いして秀吉に許されて本領は安堵されるのだが、佐々は大の秀吉嫌いだ、彼は復讐の怨念に燃え上がる。

 佐々は必死に秀吉打倒に向けて策動するが、越中を領する佐々の隣国には無尽の秀吉方の前田利家がおり、隣の上杉家は以前の魚津城での佐々の仕業を憎んでいて、怨み骨髄とばかりに今にも攻め寄せてくる勢いだ。
 現状に窮した佐々は策を練った。幸いなことに秀吉と家康が風雲急を告げていて(後年の小牧・長久手に発展する戦い)、秀吉は北陸の越中にまで兵を出す余力がなかった。
 佐々は好機到来とばかりに前田利家の領国に目をつけ、利家に偽りの縁談話しを持ちかけ、その油断を誘う。
 しかし、前田利家は佐々の性格なら十分に良く知っている。奸悪な計略かもしれない。
 利家は表向きは縁談を受け、万が一に備えて国境の末森城に寵臣の奥村永福を籠めておいた。
 案の定、佐々は一万三千もの兵力を率いて押し寄せてくる。
 
 佐々は名高い猛将だ。利家は接戦を避けて末森城の救出に専念、敵軍の重囲を突破して末森城の危難を救い、その勢いで佐々勢と猛烈に激戦して見事に撃退した。
 この利家の武功は「末森城の後ろ巻き」といい、当時は大変な評判になったという。

 こうして、佐々のもくろみは前田利家の武名をあげただけで終わったわけである。

 一方、秀吉は家康との長久手の戦いで徳川家に惨敗していた。これを伝え聞いた佐々は大喜びだ。居ても立ってもいられない。佐々は家康と同盟を結ぶ為に厳寒のアルプス山脈を横断し、
その供の多くを凍死させ、やっとの思いで家康の所在する浜松城にたどり着いた。
 凍てつく雪深い険阻な山脈をはるばると越えてきたのだ。まさに男の妄執である。

 こうして、佐々は切々得々と家康を口説くのであるが、家康はノラリクラリとするばかりで
まるで相手にしない。この頃、秀吉と家康との仲は好転に向かっていたし、
「こんな奴と組んでは大損だ。」と家康は思っていたのかもしれない。
 
 佐々はガックリして再び難路の山脈を越えて越中に帰っていくのであるが、約百名もいた供の人数のうち、無事に戻り着いたのがわずか十人足らずであったという。
これを「佐々のサラサラ越え」という(ザラ峠)。
 家の安泰を第一に考え、家臣良民を愛し大切にする武将であればこのような愚挙に走らないはずだ。
将器の欠いた、執念深い野望心に満ちた男は、なりふり構わずどんなことでもする。


 さて、徳川家と和睦した秀吉は余力充満し、膨大な軍勢を率いて佐々成政を攻めた。
 佐々は領内に五十八箇所もの砦を構築して敵対したが、秀吉の擁する大軍勢を眺め見て呆然とし、戦意を喪失して頭をまるめて降伏した。
 秀吉は寛大にも佐々を許し、越中の一郡を与えて御伽衆にする。御伽衆とは、暇な時の話し相手のことだ。

 秀吉の九州征伐が完了した際に、佐々成政に肥後五十万石が与えられた(後年の朝鮮役に備えての手配りであったはずだ。秀吉は猛将の佐々を朝鮮役の先鋒に使うつもりであったに違いない)。
 秀吉はむこう三年間の検地の禁止を佐々に命令していたが、佐々は検地を強行して一揆が続出し、その領内は乱麻の状態となり、一揆勢の猛威は近隣諸国にも飛び火する。
 佐々はその責任を取らされ、切腹して果てる。

 一揆の原因は、秀吉が九州征伐の際に本領安堵状を乱発していたことも起因しているが、佐々の民政手腕がお粗末にすぎたことも事実であろう。
 
 佐々成政は歴戦の猛将であったが、残念ながら将器にたる人物ではない。その理由は説明するまでもないであろう。
 いつの世も、非常に執念深い人間は妄執に陥りやすく、時として周りが見えなくなるものである。

 

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【2008/10/25 12:20】 | 未分類
Ⅲ 姉川の死闘

 ここで私見を書くが、浅井勢の猛攻によって織田の陣営はもろくも次々に突破され、総崩れしかねない状態に成り果てるのだが、織田方は約二万八千もの兵数を持ちながらこのテイタラクなのだ。浅井勢は約八千だ。

 一説によれば、これは信長の考案した策略で、浅井方を油断させるためにわざと負けているふりをして各々の陣営を突破させ、調子づいて敵中深く進入する浅井勢を次第に重囲し、数を頼みに袋叩きにして徹底的に殲滅する作戦だったのだという。

 あるいはそうだったのかもしれないが、それにしてもダラシナイ戦いぶりだ。
 十三段に構えた陣営のうち、十一段を突破されたわけで、これではいくら作戦の為とはいえ兵士の動揺、士気の著しい低下を必然的に招き、総崩れの危険性は否めない。

 実は、信長は野戦・攻城戦ともにあまり上手とはいえない。彼は大軍勢で相手を威圧する威嚇戦に本領を発揮し、どちらかといえば有能な政治家なのであり、外交的戦略を得意とする。
この点は秀吉もよく似ている。
また、以前に書いた桶狭間の合戦では、信長はバクチを打つしか手がなかったから打ったまでのことで、天運にも恵まれている。田楽狭間での勝利と信長の用兵の力量とは関係あるまい。


 さて、一方の家康率いる徳川勢は、五千の兵力で約一万を擁する朝倉勢を押し返していた。
鍛え抜かれた三河衆の奮戦ぶりは非常にめざましく、二倍を上回る朝倉方を蹴散らしていく。
 
 徳川勢の勇猛な突入により、朝倉勢は動揺して慌てふためき、早くも敗色が見え始めるのだが、この朝倉のダラシナイ戦いぶりは徳川勢が勇猛果敢であったこともそうだが、朝倉勢の総大将は朝倉景健であり、当主の朝倉義景は出陣を見合わせていたのである。総大将が当主ではなく、家中の一武将では兵士の士気は全然あがらない。
 朝倉方は戦闘の以前から、将兵の士気が著しく低かったことが最大の敗因といえるかもしれない。

 さて、戦況を遠望する家康は、織田勢の救援に駆けつけるべく勝敗を急いだ。
そして、とどめの一撃の如く、武将の榊原康政に遊軍として朝倉勢の側面を突かせたのだ。
 家康の卓抜した戦術眼に狂いなく、朝倉勢はこれによってたちまち総崩れとなり、敗走を始めた。
 
 朝倉を撃破した徳川勢は直ちに織田方の救援に向かい、浅井勢に突入、壮烈に斬りこんでいく。
 しかし、浅井勢は大乱戦の中で猛烈に反抗し、浅井方の勇将、赤尾清綱が徳川勢を押し返し、織田勢を蹴散らし、熾烈な突入を何度となく敢行して猛然と斬りこみをかける。壮絶な大激戦となった。

 しかしながら浅井勢には後詰め(援軍)がいない。しかも、横山城を落城させた織田方の安藤守就、氏家朴全が救援に駆けつけた。
 これにより、浅井方は次第に士気を失い、後退を重ねて敗退し、やがて戦場を離脱して去っていくのであった。
 古来よりいくさには追撃はつきもので、敗走する敵を殲滅して大打撃を与えることが常道なのだが、織田勢・徳川勢にその余力なく、浅井方と同じように死傷者を回収すると早々と引き上げている。勝利はしたものの、甚大な被害を被っていたことが分かるのである。

 ところで、浅井方の横山城は、浅井長政の居城である小谷城からわずか八キロしか離れておらず、この城は姉川合戦の直後に織田勢によって占拠されたのである。
 諸書を見るに、姉川合戦の後も、横山城が浅井方の城と勘違いして記す書物もあるので、念のため、書いておく(甫庵太閤記の尾瀬甫庵翁も、勘違いなされておられる)。

 横山城は姉川合戦の後、藤吉郎が任され、竹中半兵衛と共に浅井方と戦い続け、半兵衛の巧みな用兵で浅井勢を何度となく撃退し、対浅井・朝倉の備えとしての最前線を死守することになる。


 
 さて、この姉川合戦の後、家康は一年半以上もの間、三河領内の浜松城を全く動かなかった。
信長の緊急の要請には武将を派遣しただけである。
これは、足利義昭が甲斐の武田信玄にも密使を送り、信玄は虎視眈々と信長の隙をうかがっていたからだ。
 表面上は信長と平穏な仲で、家康とも穏やかにつきあっている信玄なのだが、彼は老獪な策略家なのだ。
 煮ても焼いても食えない俗世界の超大物、それが武田信玄その人なのである。 


 
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【2008/10/22 09:20】 | 未分類
Ⅱ 姉川の死闘

ともかく、殿に携わった経緯は別にして、藤吉郎率いる七百の兵と徳川勢は朝倉方と壮絶な激戦を展開する。兵力差は明らかに多勢に無勢、朝倉が断然優勢だ。
 徳川勢・藤吉郎の部隊ともに甚大は被害を出し、戦死者が続出する。まさに生還は期しがたい激闘が続いた。

 しかし、家康の巧みな用兵は敵軍の一角を粉砕し、それに続く藤吉郎の部隊が勇戦して敵軍に突入。
ついに朝倉勢の重囲を突破し、両軍は奇跡的に危機を脱して、なんとかやっとのことで京都に戻り着いた。この時の事として、三河物語にはこう書いている。
「木下藤吉、御案内者を申して退かせられ給う。金ヶ崎の退口と申して、信長の御為に大事の退口也。この時の藤吉は、後の世の太閤なり。」
 私はこの時、藤吉郎と家康は親しく交渉を持ったと考えている。お互いに生死を賭けて共に戦った仲なのだ。言葉の一つや二つあってもよいところだろう。
しかし、家康の身分は信長の盟友であり、大名である。藤吉郎は織田家の一武将にすぎない。

 また、「この時の藤吉は、後の世の太閤なり。」の一節は、徳川方には全然思い及ばぬことであり、まさかの驚嘆をいみじくも表現しているようで感慨深い。後年、天下人となった秀吉は時折、金ヶ崎の退口の話しで宴席を盛り上げ、家康と楽しく談笑している。

 ところで、信長は早急に金ヶ崎から徹退し、朽木越えの間道を通過して生死の知れぬ逃避行を続け、道中の危難を何度となく切り抜けて、まるでスズメ蜂に追われて池に飛び込むような思いで京都に舞い戻った。
この難路の道中に、松永久秀が信長につき従っていたことは、以前の考察で書いている。
 
 こうして、信長の朝倉征伐は浅井長政の叛旗によって見事に頓挫し、信長も随分と憤怒してその怒りで目から火を吹く思いであったろうが、しかし、信長の読みも非常に甘かった。
 将軍を擁し、天を突く勢いで邁進する信長は、いざとなれば浅井家は味方するものとばかりに、先年の誓紙をいとも簡単に反古にしたのだ。浅井長政は誠実で信義に厚い武将なのだ。一朝の縁の為に長年の旧恩を捨てられないのである。

 戦国の世では、誓紙や盟約などは簡単に破られることが常であり、一時の権謀にすぎないので誓紙の反古に関して一概に信長を責めるつもりはないが、しかしながらこの判断は性急にすぎるであろう。
 浅井長政は信長の上洛にあたり、いろいろと骨を折り、心をこめて諸事に尽くして様々な手助けをしているが、信長は浅井長政に対して何ら恩を施していないのだ。
これは、信長にあるまじき疎漏であった。


 さて、敗退して京都に戻り着いた織田・徳川連合軍の面目は全くの丸つぶれであり、
信長は威信回復を期して再征の準備に取りかかるのだが、朝倉征伐が見事に失敗したことにより、以前から信長の足元でくすぶり続けていた火薬庫が、好機到来とばかりにいっせいに爆発して火を吹いた。
 六角の残党どもが勢いを盛り返し、近江の土民を扇動して一揆を誘発させる。浅井・朝倉が比叡山や本願寺と通謀して猛烈に反抗する。三好家がしきりに信長打倒を喧伝して摂津周辺を荒らしまわるといった状態で、畿内周辺とその近隣諸国は麻の如く乱れて大混乱となった。

 信長はこうした事態の一挙打開を図り、まずは頑敵の浅井・朝倉を屠ることにし、わずか二ヶ月足らずで戦備を整え、徳川の援兵と共に再度の出兵を決行する。
 そして、織田・徳川は近江の琵琶湖の北方にある姉川の手前で集結、諸隊が陣地を構築して戦備をはじめる。
 これを迎え撃つ浅井・朝倉勢は姉川を挟んで対陣に臨み、浅井勢が織田方に、朝倉勢は徳川方に布陣した。

 両軍はしばらく睨み合いを続けた後、早くも戦端が開いた。
 浅井勢は勇猛果敢に突撃を敢行し、織田方の急先鋒、酒井政尚の部隊は難なく蹴散らされ、あっというまに奮戦むなしく消滅する。
 浅井家の猛将、磯野員昌が織田勢を鋭く押し返しては切り崩し、次々に敵の陣営を突破する。
 織田方は十三段に構えた陣営のうち、十一段を破られ、織田の諸将は動揺し、慌てふためく。
 信長は後詰めの稲葉一鉄隊を投入するが、どうしても防ぎきれない。
 近辺の浅井方の横山城を重囲する安藤守就、氏家朴全に後詰めを要請するも、その着陣までには相当の時間がかかる。

 浅井勢の熾烈な突撃は鬼神の如く猛烈を極め、織田勢は累々と戦死者を野にさらしていく。

 
 
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【2008/10/21 08:11】 | 未分類
Ⅰ 姉川の死闘

 信長は足利義昭を傀儡し、朝倉家に上洛を促す。上洛の命令に背き、軍備を始める強気の朝倉主従。近江の浅井長政は両家の狭間で煩悶し、信義心により断腸の決断を下す。

 
 さて、将軍の足利義昭は朝倉家と通謀し、本願寺も抱き込んで反信長連合結成に向けて策動していた。義昭は当時、信長に実権を奪われた飾り雛と化していた。また、室町幕府の再興を願う義昭からすれば、信長はとんでもない叛逆者に見えたことであろう。
 しかし、自力での天下統一を志す信長にとって、義昭は大義名分の表題だけの存在で、将軍の擁立は政略的な手段でしかなかったのである。
 こうした義昭の暗躍ぶりを横目で眺め、辛抱強く我慢する信長であったが、火事もボヤ程度であれば消火も早いというもの、信長は頃合いを見計らい、朝倉に対して強圧的に上洛を命じたのである。これはまさしく将軍の擁立を利用した挑発であった。
 これを伝え聞いた朝倉家は蜂の子を突いたような大騒ぎとなった。元々、朝倉家は織田が大嫌いで、今では義昭と結託している。上洛の準備をするどころか戦備を始め、信長に対して公然と敵対の色を見せ始めたのである。朝倉は、信長の挑発にまんまと乗ったわけだ。

 元亀元年(1570年)、信長は上方見物と称して家康を誘い、京都で密会。両者は朝倉征伐の綿密な打ち合わせを終えて北陸道の雪どけを待った。
 そしてその年の四月、信長・家康ともに京都から出陣、総勢で公称十万もの大軍勢が朝倉の本拠地である越前に殺到し、またたくまに敦賀表の手筒山城を攻略。さらに、破竹の進撃を続けて金ヶ崎城を猛攻撃して一日で開城させた。
 もはや朝倉の本城である一乗谷城は目と鼻の先であり、信長は先鋒部隊に木芽峠を越えさせ、朝倉の本城に乱入させようと矢継ぎ早に指令を出していた。
 急先鋒の柴田勝家、森可成(有名な森欄丸の父)、金森法印らは敵本城の落城を期して早々に出発する。
 誰が見ても形勢は信長が断然有利、完勝まちがいなしであった。
 この時にもし、事が順調に進んで朝倉家を完全に屈服させていれば、信長の天下統一の事業は猛烈に恐ろしいほどのスピードで進み、歴史は大きく変わっていたかもしれない。
 
 ところがこの時、信長は信じがたい凶報に接し、がく然とする。
 江州の浅井長政が叛旗し、信長の退路を断つべく進撃中との戦慄すべき報告であった。
 信長は眉をひそめ、その情報を密偵に再度確認させるも、事実と判明した。

 まさに青天の霹靂の大珍事だ。このままでは背腹に敵勢を受けて全くの挟み撃ちである。
しかも、他の密偵の急報では信長の困惑を見越した本願寺派、六角の残党どもが蜂起する勢いなのである。信長は絶命の窮地に陥り、その全軍は騒然となった。

 ところで、この場面を鮮明に伝える有名な逸話がある。
 
 妹のお市から信長の元に陣中見舞いとして小豆が送られてきた。
 不思議なことにその袋の両端がひもでしっかりと結ばれている。これを見た家臣たちは首をかしげ、その意図するところが読めない。
 信長は少し思案して、「袋のねずみですよ。」との意味を察するという話しだ。
 これは絵本太閤記にある逸話で、少々講談じみており、残念ながらうさん臭い。

 さて、信長は全軍に総退陣を命じ、殿(シンガリと読む。撤退する軍勢の最後尾。危険が大きい)を藤吉郎に任せ、急いで京を目指して退却する。
 通史によれば、藤吉郎が自ら殿を願い出て、家康も救援に駆けつけ、両者が共に奮戦して見事な殿役を果たしたことになっているが、事実は少し違う。
 織田勢の主力部隊のほとんどが一乗谷城に向けて先発しており、信長の身辺で殿ができるのは藤吉郎の部隊ぐらいしかいない。
 また、三河物語によれば、信長は家康に退却の旨を伝えずに逃げ出したとあり、それゆえに徳川勢の退陣の時期が遅れ、結果的に殿役を藤吉郎と果たすことになったようである。

 
 

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【2008/10/20 00:20】 | 未分類
考察11 加賀百万石の祖 前田利家

 前田利家は尾張の小豪族の生まれで、加賀藩に伝わる亜相公御夜話(前田利家の言葉を筆録したと伝わる書)には、十四歳で信長に仕え、その年に初陣して功名をたてた、とある。
 戦国時代は、やたらと年少者が初陣して功名をたてているが、これは護衛している武士たちが敵兵を討ち取り、それを初陣した者の功名として報告するからである。現代のずるいカンニングみたいだが、これは昔から武士社会で認められた慣わしであった。
 信長と利家は男色関係にあったようだが、これは当時の風習であり、普通のことである。
 
 前田利家は「槍の又左」といわれ、数々の戦功を上げてメキメキと頭角を顕し、織田家の有力武将にまで成長する。また、諸書を見るに、利家は実直で篤実な人柄であった。

 利家は信長に勘当されたことがあり、こんな逸話がある。
 時は桶狭間合戦の前年、信長や佐々成政がひいきにする同朋(城内にいる給仕役)の十阿弥という者が利家の笄を盗んだ。
 利家は十阿弥を斬ろうとするが、十阿弥をひいきにする連中が必死にかばうので諦めたのであるが、しかし数日もすると、
「武士が一度斬ると言っておいて斬らないとは、さても軟弱な奴。」みたいな中傷が出まわる。
しかも、信長をはじめ十阿弥を必死にかばった連中からの陰口だったこともあり、利家は無念に思い、その後、信長の見える前で堂々と十阿弥を斬殺した。
 その光景を眺めて見た信長は激怒し、これにより勘当されたという。
 さすがの利家も、この時ばかりは余ほど腹に据えかねての仕業だったのだろう。上役の柴田勝家や森三左衛門が利家を必死にかばったが、信長は許さなかったという。
 その後三年間、利家は勘当された身で数々の戦闘に参加して武名を上げ、美濃での森部合戦の際に、斉藤家の勇士で「首取り足立」と恐れられていた足立六兵衛を討ち取り、この功績によって帰参を許されたようである。
 天正八年(1580年)信長は加賀の一向衆を討滅し、能登も平定した。その後、信長は加賀を佐久間玄蕃にあずけ、能登に利家を置き、佐々成政を富山に配置して、越前北ノ庄に本拠を置く北陸軍の師団長柴田勝家に全権を掌握させ、越中にまで勢力を張っていた上杉勢に備えさせる。
 この後、いちいち書いては果てしがないので書かないが、利家はあらゆる戦闘に参加して、彼は常に戦功をあげている。
 
 ところで、前田利家は加賀百万石の祖で有名だが、利家が加賀を統治するのは、信長が本能寺の変で突然横死し、柴田勝家が賎々岳の戦いで羽柴秀吉に敗れ、その後、柴田勝家が北ノ庄城で秀吉に滅ぼされた後である。
 前田利家は勝家を倒した秀吉から加賀国を拝領したのだが、利家にとって柴田勝家は昔からの大先輩であり、利家の良き理解者であり、大恩人でもあった。利家は秀吉とは年来の大親友だったのだから、争覇戦ともいうべき賎々岳の戦いは辛いものとなる。
 利家は賎々岳での戦いの際に、柴田勝家方で出陣している。
 自領の情勢上、仕方がなかったともいえるし、勝家の誘いを断われなかったともいえる。
利家は篤実な人柄だ。断われなかったのであろう。戦場において必ず戦功をあげる利家が、この戦いでは何ら活躍を見せていない。迷いがあったに違いない。
 この賎々岳での対戦の折り、前田勢は勝家方の敗色が見え始めた途端、早々と旗を巻いて退却し、これが全軍に多大な動揺を与えて勝敗の明暗を分けている。
 利家を弁護していえば、前田家の安泰の為、やむをえない判断だったといえるし、悪くいえば中小豪族たちと何ら変わらない利にさとい恩知らずといえる。まぁ、どちらにせよ、篤実な利家は勝家との決別に煩悶したであろうし、涙をのんだ辛い決断であったろう。

 さて、ここで前田利家の親族について書いておきたい。
 利家と秀吉は大親友の仲で、秀吉が藤吉郎と名乗っていた頃から家族ぐるみのつき合いだったようである。
 利家夫妻は子宝に恵まれない藤吉郎夫妻の為に娘を養女に出している。一人は有名な豪姫で、後年は宇喜多秀家の妻となる人。もう一人は、利家の側室であった笠間氏が生んだ子で、菊がいた。
この娘は七歳で夭折している。
また、利家の娘の「まあ」が後年、秀吉の側室になっている。
 これらの関係は政略的というよりも、利家と秀吉の仲の良さは本物と見るべきなのかもしれない。
 
 利家は子宝に恵まれた人だ。
 側室は五人を数えるが、当時としては多くはない。子供は全部で十九人もいたのであるが、
この子供たちが、後年の利家と加賀国を陰ながら支えるのである。




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【2008/10/19 20:04】 | 未分類
Ⅲ 戦国の名家 今川家滅亡す

 さて、遠江を経略した徳川家は猛虎の武田と国境となり、家康は早くも岡崎城から浜松城に移り住んでいる。
 老獪な信玄が、徳川領を狙うことを予期しての手配りであった。信玄に対する家康の強い意気込みが感じられるところだが、これは逆に信玄を警戒させることにもなり、織田信長はこの時に、家康に信玄を激発させないようにと忠告している。

 この頃、信長は京都を中心に越前・近江方面の経略に忙殺させられ、背後の武田家は脅威そのものであった。織田・武田は縁戚関係にあるが、今川家の例もあるのだから油断できない。
 武田信玄の嫡男である義信の妻は、今川氏真の妹であったが、氏真の母親は信玄の姉でもあったのだ。つまり、氏真は親戚で妹の嫁ぎ先でもある、叔父さんに国を奪われたことになる。
 このように、信玄の動静はどこまでも未知数なのであり、その動向は予断を許さない。

 今や、信長の地位は天下の副将軍的な立場にあったが、難題も山積みされていた。
 足利義昭は信長に実権を奪われ、ロボット将軍と化したことに我慢ならず、諸大名と策謀して反信長同盟の結成に向けて策動していたのだ。
 特に義昭にとって好都合なことに、朝倉家は強烈な織田嫌いであった。
 朝倉家は比叡山の大檀家であり、本願寺とは親戚関係にある。義昭はこの関連に目をつけて、まずは内密に朝倉義景と気脈を通じる。
 また、本願寺は以前、信長から石山寺の立ち退きを厳命されており、この前代未聞の命令に憤激して大騒ぎしているところに義昭の謀略話しが舞い込んできた。
 本願寺法主の本願寺顕如はこれを機会に中立的な立場を崩し、信長の領地内の一向衆を密かに扇動し始めたのである。

 こうして、足利義昭は策謀の限りを尽くして暗躍していたのだが、しかし、それら全てが信長に筒抜けであったのだから世話はない。信長はきっと、苦笑いでもして澄ましていたであろう。
 信長は胆力の人であり、まことに辛抱強い。我慢するだけ我慢して、いざとなればバサッとやる、これが信長らしさなのだ。
 信長は敵対勢力の動静を注視し、「決断を下すその時」を心静かに待つのであった。


 さて、この章を締めくくるにあたり、今川氏真を少し弁護して書いておかなければならない。
 故人であらせられる名作家、海音寺潮五郎先生はその書「悪人列伝・二」のあとがきの中で、
「歴史時代の人物は、自ら弁護する自由がありません。したがって、我々は検事ではなく、判事のような立場で、弁護士の言葉にも耳を傾けて判断を下すことが、その人物に対する礼儀だと思う。」と述べられている。
 また、「人物を褒貶して、新解釈と称する態度は最も嫌うところです。」と、現代の世相を嘆かれ、「もし、歴史時代の人を地下におこして来て、その人々と対決しても、ぼくは恥じずに顔を合わせることが出来る自信があります。」と毅然とした言葉で書かれている。
 そして、「これがまさに厳正な態度であると、ぼくは信じているのです。」と述べられている。

 まさに至言である。
 先生の含蓄のある言葉には、先人に対する深い情愛が感じられる。
 私は氏真のことを暗愚だとか、アホウであるとか、ボンクラだと書いたが、それはその時代の世相に適応した実力のある強者の立場から見た場合に、氏真はそうであったろうと私は今でも想うのである。
 しかし、氏真はいがいと賢い人で、自分の器量、時代の世相もしっかりと読んでいて、
「この下克上の争乱の世では、俺の実力ではどうにもなるまいよ。」と早くも見切りをつけ、
今川領内の強欲で狡猾な中小豪族たちにも嫌気がさし、政治家ではなく、文化人を目指していたのかもしれない。
だとすれば、政治に全く無関心であろうが、和歌や音曲、蹴鞠に興じていようが、それはそれで自然の成り行きであったはずで、ことさらにそれらをあげつらって氏真を誹謗中傷するのも問題なのかもしれない。和歌や音曲、蹴鞠などは、当時の文化的教養人のたしなみであったのだから。

 将軍家の血筋であった戦国大名の名家、今川家の嫡男に生まれた今川氏真の最大の不幸は、その背中に背負うものがあまりにも大きすぎたことにあったのかもしれない。
 


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【2008/10/19 10:09】 | 未分類
Ⅱ 戦国の名家 今川家滅亡す

信玄率いる武田勢が駿河に侵攻し、大仰天して慌てふためいた今川氏真は、早急に動員令を下し、約三万余りもの軍勢をかき集めて出陣するものの、そのほとんどの家臣たちが事前に信玄によって篭絡されていたり、以前から氏真を見限っていたりしたから、その将兵の士気は全然奮わない。いつのまにか持ち場を離れ、逃走していなくなる者たちが続出し、その軍勢はアレヨアレヨという間に三千ほどに減ってしまった。このありさまに氏真は戦意を全く喪失し、サッサと本城も放棄して逃走を始める。
 国主を失った駿河は武田勢の猛進撃により踏みにじられ、押し潰され、氏真の豪華絢爛の館もあえなく猛火につつまれた。
 あまりの慌てようのためか、氏真の奥方は乗るべき輿も無く、徒歩で逃げ出したという。
 こうして、駿河は国を挙げての大騒ぎとなり、大混乱の坩堝と化した。

 私見を少し書くが、諸書、史料を見るに、良民の周章狼狽ぶり、その逃げ惑うありさま、
敵兵の手にかかる女子供の悲惨な末路は筆舌に尽くしがたい光景であり、大都市の落ちる戦争ほど悲惨なものはないと改めて痛感させられる。
 良民にとって迷惑千万、氏真にとっては自業自得ともいうべき大災難であった。


 さて、一方、家康の軍勢は着々と遠江方面を侵攻中であった。
 今川氏真は信玄の軍勢に追われ、その尻に火がついたような様相で遠江の掛川城に逃げ込んでいた。
 家康は氏真の所在を素早く探知し、早々と掛川城に押し寄せて厳重に包囲する。

 そして、その城を重囲すること数ヶ月、氏真は精魂尽き果てて、家康に和議を申し入れ、ついに頭げ下げて降伏した。
 ほんの数年前までは、家康は今川家の人質であり、肩身の狭い思いもしたのだが、今では今川の当主が助けてくれと泣きつき、哀訴して降伏し、家康の捕虜と成り果てたのだ。
 戦国時代に生きる人間の運命は実に変転が激しい。
しかし、厳しい下克上の世にありながら自ら鍛えず、領国を顧みず、日々享楽に明け暮れていた氏真の罪でもあったろう。
 こうして、駿河・遠江・三河の三国の名家、今川家は滅亡したのである。
 捕虜となった氏真は妻の実家の北条家を頼ることにして、家康に警護の兵をつけてもらい、早々と落ち急ぐのであった。

 さて、遠江を平定した家康は三河と合わせて二国の領主となり、この時期に松平姓を徳川姓に変えている(異説あり)。
 この改姓については諸説入り乱れて不明なのだが、次のような説がある。
 松平家は三河地方の賀茂明神の氏子で、葵の紋章は賀茂明神の神紋である。家康の本姓は賀茂朝臣で、家康は徳川に改姓の後も本姓をそのまま名乗っている。
 また、家康の祖先をひも解いていくと賎民の疑いが濃厚であり、その後、家康の祖先が三河に流れついて土着化し、しだいに声望を得て庄屋になった頃に松平姓を名乗り、そのまま名乗っていたところで三河・遠江の大身となった。
 そこで、それにふさわしい姓も欲しくなり、この際、清和源氏の末裔ということにして徳川性を名乗ったという。
 徳川という名は、上州新田世良田村の字の名であるという。新田はご存知のごとく源氏だ。

 ちなみに、後年、家康は征夷大将軍職を賜り幕府を開くのであるが、征夷大将軍は源氏でなければならないというわけではなく、これは王朝時代からの伝統的な世相である。征夷大将軍といえば源氏という古来からの一般的な認識は、これは根の深い歴史的な背景があり、藤原摂関家と源氏との非常に深い縁による。源氏は藤原氏に家人の礼をとっていたのであるが、これには理由がある。

 以前に少し書いたが、藤原氏は荘園という国家財政搾取制度を作って私腹を肥やし、軍備を徹廃しなければならないほどに朝廷を財政難に追い込んだ。地方の在地領主は脱税の手段として土地を藤原氏に寄進して名義上の荘園の管理人となり、みかじめ料を藤原氏に納めながらその土地を支配するのであるが、朝廷は軍備を徹廃しているのだから自主防衛をするために家ノ子郎党を組織して外敵に備える必要姓に迫られた。
そして、各々の領主たちが各自バラバラで戦うよりも団結して戦うほうが非常に効率が良いから、
旗頭的な存在がいたほうが好都合だ。これが「武門の棟梁」と呼ばれる源氏のはじまりだ。
 
 また、藤原摂関家は、濡れ手に粟のような荘園が謀叛や叛乱で荒廃したら非常に困る。朝廷から国権を委ねられている身でもあるので、強大な武装集団に蜂起でもされたらやっかいなことになる。
 こうしたお互いの利害の一致をみて、臣籍に下った清和天皇の一族である源氏は頼信、頼義、義家と代々に渡って藤原摂関家に家人の礼をとって宮廷内で栄えるようになった。
 
 話しがそれて長くなったが、藤原摂関家に国政を牛耳られた天皇家は藤原氏の専横を苦々しく思い、新しい制度を作って藤原氏に対抗しようとする。これが院政だ。
 後三条天皇が苦心惨憺されてこの制度を考案されたようだが、実際に上皇になって実行に移したのは次の代の白河上皇のようである。この後、天皇から上皇に政治的な支配権が移るのであるが、白河上皇も鳥羽上皇も、藤原氏と同じように爪牙となる武装集団が欲しいのだ。源氏は藤原摂関家と非常に親しい仲であり、宮廷内においても隠然たる勢力を誇っているので接近したくない。
 そこで目をつけたのが桓武天皇の流れをくむ平氏だ。臣籍に下った桓武天皇の一族である平氏は地方の国司務めが多かったので宮廷内にあまり縁がなかった。院政を執る上皇側にとって非常に好都合だったのである。
 こうして、平氏は上皇と縁を結ぶ機会に恵まれ、平氏・源氏ともに後年は天皇と上皇との権力闘争に巻き込まれていく。保元の乱、平治の乱に発展していくあれだ。
 
 その時代の時代背景を語る際には、どうしても前々の時代についても詳述しておかなければならなかったので長々と書いてしまった。伝統的な因習や習慣を語ることなしにその時代について知ることは非常に難しいと考えてのことである。ご了承願いたい。



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【2008/10/18 20:52】 | 未分類
Ⅰ 戦国の名家 今川家滅亡す

 父の今川義元の弔い合戦をするわけでもなく、日々歌舞音曲にふけり、蹴鞠に興じる暗愚な氏真。今や堰を切った濁流の流れるが如く、家康・信玄が怒涛の進撃を開始する。


 さて、家康は明晰な頭脳とその武勇により、着々とその勢力の拡張に専念していたが、駿河の今川氏真は桶狭間の敗戦以来、亡き父親の威光にぶらさがり、政治に全く無関心であり、趣味遊興にうつつをぬかすありさまであった。
 折りから今川領内では、人々が身分の上下に関係なく踊り狂うという風流踊りが流行し、いたる所で日夜狂態が演じられていた。
 今川義元の敗死により、桶狭間での戦いぶりがだらしなかった老臣たちは面目を全く失い、それを恥じて出仕せず、次第に政権は新参者に限られるようになり、その権勢は氏真の寵臣で占められるようになった。必然、譜代衆の不平不満が沸き起こり、今川家は徐々に支離分裂し、日増しに自壊作用を早めるのであった。

 これを眺める隣国の甲斐の虎、武田信玄は老獪で領土欲旺盛、軍略の大家であり、食膳の珍味と化した今川家を放ってはおけない。自然、食指の命ずるままに今川攻略の算段を練るようになる。

 諸書によれば、武田信玄は非常に用心深い人物で、何事にも事前準備に優れる人である。
 ずいぶんと多くの今川の家臣に調略の手を伸ばし、あらかじめ篭絡しておいたに違いない。
 また、信玄は今川攻略に大反対する息子の義信(信玄の嫡男)を幽閉し、その妻を勝手に駿河に追い返し、一方的に今川家に義絶を表明する。
 そして、出兵中の叛乱を心配した信玄は、義信とその重臣たちを殺害して後顧の憂いを絶つ。
 妄執ともいうべき領土欲の前に、まさに冷酷非道、無慈悲限りなしである。
 ちなみに、武田信玄は信濃平定の折りに、捕虜とその妻子、捕らえた女子供を奴隷にし、
その各々に金額を書いた名札をつけさせてことごとく売りさばくことまでしているのだ。
 これは非常にむごい。
 信玄堤は今でも地元で活躍し、金山の開発や産業の奨励など、信玄の政治的な手腕は認めるが、ここまでやると冷酷にすぎて心寒い。信玄は父親を国外に追放したりしているので人格的評判はよくないが、これでは「残忍な人」であると評価されるのも仕方がないだろう。

 さて、信玄は重臣の山県昌景を三河の岡崎城に向かわせ、大井川を境にして遠江方面は家康の方で切り取り、駿河は武田が頂戴するという今川領分割協議の提案を申し出た。
 家康としては、信玄がいずれ遠江をも併呑せんと考えていることは自明の理だが、遠江・駿河の二国の経略となれば手に余る。家康は涼しい顔で首をたてに振り、快諾の旨を信玄に伝えた。
 これは狐と狸の化かし合いだ。氏真こそいいつらの皮である。

 この時の事として、改正三河後風土記におもしろい逸話が載っている。
 
 武田信玄は、家康に今川領分割協議の提案をする以前に、今川氏真に使者を送って、
「遠江を頂戴できれば、離反した家康を討ってさしあげましょう。」と言わせる。
 妹を勝手に追い返され、強引に縁を切られた氏真は怒り心頭の時だ。
「欲張りなじじいめ。いらぬお世話だ、いまに見ろ!」と腹を立て、小田原の北条家に使者を送って通謀し、信玄の領国への塩の移出を完全に封鎖して、いたる所に関所も設けて厳重に監視させた。
 これを伝え聞いた越後の上杉謙信は、
「勝負とは、あくまでも戦場での刀にかけて決すべきものである。塩止めなど、唾棄すべき輩の考えそうなこと。信玄も困っているだろう。」と言い、信玄の分国内に塩商人を多数送り、
しかも塩の値段を安くさせて送り込んだという。
 他国といえども良民をいたわる謙信の温かい気持ちが伝わり、男性的爽快さを想わせる話しだ。

 さて、こうして信玄は北から、家康は南から、弱体化した今川領を白アリのように少しずつ、
しかも確実に食いつぶしていくのである。
 
 そして永禄十二年(1569年)、公称で三万五千もの大軍を率いた武田信玄は駿河に向けて
怒涛の進撃を開始する。

 
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【2008/10/17 00:23】 | 未分類
考察10 明智光秀の謀叛の動機は?

 明智光秀は古典的教養人で、朝廷を敬い、伝統ある朝廷や幕府のカリスマによる秩序維持を望む中世の知識人であったと私は思う。その理由は、文武に励んで教養を身につけ、足利義昭を助けて有力大名の朝倉家を去り、織田家に仕えてからは義昭と信長との折衝役を引き受け、その後も義昭を親身に手助けをし、足利幕府の再興とその権威の回復に尽力していることが何よりの証しだ。

 その反面、織田信長は現実性、合理性を重視し、中世の積弊をこっぱ微塵に打ち砕く破壊者であり、朝廷の権威をも脅かす、近世的な直感に優れる徹底的した合理主義者であった。
 信長が京の御所の近辺で馬揃えを挙行した際(1581年 天正九年)、天皇をはじめとする朝廷の公家衆は疑心暗鬼に陥ったに違いない。
 馬揃えとは、今でいう観兵式のことである。全軍が派手な飾りつけをして、信長の嫡男の信忠をはじめ、柴田勝家、丹羽長秀、前田利家などの有力武将を参加させての示威行為ともとれるデモストレーションを敢行したのだ。
 時の天皇は正親町天皇であったが、天皇に譲位を迫る無言の圧力とも取れる行動だ。
しかもこの時、信長は官位を返上した状態であったわけで、厳密にいえば無位無官なのだ。
 官位に興味を示さない、強大な軍事力を背景にする時の大実力者が御所の近くで観兵式を行なえば、朝廷の高官の中には脅迫されている気分になった者も少なからずいたであろう。
 また、信長が官位に関心がないということは、朝廷の秩序から逸脱する事を意味し、朝廷サイドとしては、信長は非常に不気味な存在に映ったことであろう。
 さらに、室町幕府は足利義昭の追放劇で事実上滅亡し、朝廷は軍事力による術を失っていたのだ。

 こうした危惧すべき状態の中で、朝廷サイドは信長に対抗する手段として、明智光秀に白羽の矢を立てたのではないだろうか?
 明智光秀は当時、織田家に五人しかいない師団長クラスの一人であった。織田家と朝廷との交渉ごとは、そのほとんどが光秀に任されていたから公家衆には馴染みのある人物であったろう。
 光秀が古典的教養人であることも公家衆は知っていたはずだ。
 信長と光秀との間にある、なんらかの軋轢を利用して、光秀をそそのかして謀叛に踏み切らせ、光秀に信長を謀殺させようと公家衆は謀ったのではないだろうか?

 古来より、朝廷の勅命とは、すなわち天皇の命令であり、密命を賜って逆賊を討つことは、裏切り行為でもなければ後世に汚名を残すことにもならない。

 憶測になってしまうが、朝廷の公家衆は明智光秀に征夷大将軍職をもちかける。光秀は土岐氏の出身が建前(土岐氏は源氏)だから、征夷大将軍になれる資格もある。
 そして、光秀は信長追討の密勅を受け、首尾よく信長を討ち、その後直ちに征夷大将軍の宣下を賜る。
 しかし、早くも光秀の形勢が不利になると、朝廷は知らぬ存ぜぬを押し通し、
「将軍宣下?そんなもん知らん!」といった具合に明智光秀を見捨てたのではないだろうか?
 
 朝廷の天皇や公家衆の特性といえる、この非常に独善的で非人情、尊大でごう慢なやりかたは、実は昔から同じなのだ。後鳥羽上皇、後醍醐天皇、他にも探して調べれば沢山あるはずだ。
人に仕えてもらうことに慣れている彼らは、保身の為であれば平然と身代わりを強要し、無感動に平気で人を見棄てるのだ。
 承久の乱では、鎌倉方に打破られ、敗走して御所付近に逃げ込んできた官軍の将兵たちは、
倒幕の張本人である後鳥羽上皇の峻拒に遭い、紙くず同然に見棄てられている。
 後醍醐天皇は倒幕の密謀が何度となくバレて、そのつど罪科の及ぶことを恐れて忠臣に身代わりを強要し、その結果、何人の忠誠無私の者たちが死んでいったことか。
 楠木正成などは朝廷の命令により、一族に渡って何度となく死地を強要され、結果的に無残にも捨て駒にされて悲壮な最期を遂げている。楠木正成・正季伝、楠木正行伝、楠木正儀伝を読むと、めがしらが熱くなり、天皇や朝廷の高官に対して激しい怒りを覚えるのは私だけではないだろう。
 もっとも、朝廷の天皇家や公家衆は、昔から選民意識が非常に強烈で、特に武士に対しては、
人間と見なしていないと思われるほど侮蔑していたのであるが、これについて詳しく書くと長くなるので書かないが、一般的な感覚では分からないぐらいに彼らは独善的で非人情であった。

 このように、私は朝廷の天皇家・公家衆の特性に注目して、朝廷の黒幕説を取るといった次第(詳しくは、別の章で詳述する)。

 さて、明智光秀は戦国乱世の武将でありながら生まじめな教養人であっただけに、古来より
光秀の謀叛に関する様々な風説を呼んだのであろう。
 
 光秀の辞世の句に、

「逆順ニ門ナク、 大道心源ニ徹ス、五十五年ノ夢、覚メ来ツテ一元ニ帰ス。」とある。

 これは明智軍記からの引用なのだが、もし、本当にこれが光秀の作であれば、最期まで叛逆を
後悔していた、小心でまじめ、誠実な人だったのである。



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【2008/10/16 18:41】 | 未分類
考察9 明智光秀の謀反の動機は?

 明智光秀の謀反の動機は、古来より様々な風説を生み出している。

 史料では、怨恨説は総見記、明智軍記にあり、野望説は豊鑑、大村由己の惟任退治記に記されている。
 現代に至っては、光秀ノイローゼ説や、なんと光秀は無罪で、秀吉や家康の黒幕説まで登場している。秀吉や家康にはアリバイがあり、俄かには信じがたいがおもしろい。宣教師のイエズス会の陰謀説、ポルトガル・スペインの扇動説も説得力があって興味深い。
 しかし、古来からの様々な史料は、その記述をどこまで信用してよいのかは誠に不明確で曖昧であり、現代の諸説もそのまま鵜呑みにするわけにはいかない。

 ところで、明智光秀は前半生が謎の人物であり、出自もはっきりしない。
 一介の素浪人で明智十兵衛と名乗って諸国を遍歴して歩き、安芸の国では毛利元就にその才能を高く評価されたが、光秀の頭の形に叛骨の相があるので採用されなかったとか、美濃の土岐氏の末裔で、明智城の城主の息子であったとか、刀鍛冶、鉄砲鍛冶の息子とする説まである。

 光秀の遍歴で比較的に明確なのは、彼が朝倉義景に仕え、そこで細川藤孝や足利義昭と知り合っていることであり、後に足利義昭一行と共に織田家を頼っていることである。
 光秀の非凡なところは、足利義昭の家臣になり、織田家の家臣にもなって義昭と信長とのパイプ役を果たし、信長の信頼を得て織田家の有力武将にまでのぼりつめたことだ。
 また、光秀は当時にしては非常に珍しい教養豊かな武将で、細川藤孝や俳人の里村招巴と親交を持つ知識人であった。当時の世相は、武将は強烈な荒々しさ、たくましくて強いことが追求され、文盲で文字も書けない状態でも恥でもなんでもないのだ。非常に類い稀な武将であったことが分かる。

 信長は光秀の雄略の才を高く評価し、光秀に近江坂本の地を与え、後年、彼に丹波一国を任せているが、織田家の家臣の中で一番最初に領国をもらったのは光秀である。信長がいかに光秀を信頼していたかがうかがい知れる。
 光秀の民政手腕も実に見事なもので、今でも光秀が統治していた福知山地方にはその霊を慰める神社があり、当時から江戸時代を通して現代に至るまで、地元の人々でにぎわっているという。
まっとうな志し半ばで非業の最期を遂げた霊を慰めて祭るはずの神社に、謀反人の烙印を押された光秀が祭られているとは珍しい。彼がいかに良民に愛されていたかが分かるのだ。
 戦争は持久戦、補給戦がとても上手で、光秀が丹波を平定した際には、信長は安土城で光秀のことを激賞してねぎらっている。

 ところで、信長は仕事の大好きな人で、仕事上手の家臣を寵愛した人だが、家臣が与えられた仕事を終えて、「やれやれ。」と一息ついているところに前の何倍も上回る仕事量を持ってきて、
「期待しておるぞ。」なんて言いながらドサッと任せて、家臣の能力を推し量っていくのである。
 光秀はその高いハードルを乗り越えることのできた、非常に優秀な人材であった。

 さて、そろそろ本題に入るが、私は光秀の怨恨説も野望説もとらない。

 信長はいたずら好きで、合理主義で冷徹な面も確かにあった。家康に妻子の処刑を命じたり、宿老格の佐久間信盛や林父子を無惨に放逐したり、宴席で家臣をからかって面目を失わせることもした。時には家臣に暴行沙汰を働いてケガまでさせている。
 しかし、これは光秀に限ったことではない。柴田勝家や秀吉、他の家臣連中も随分とひどい目に遭っている。古来からの光秀の怨恨に関する様々な史料の記述も辻褄が合わない点が散見され、憶測にすぎて信憑性が疑わしいし、少々説得性に欠ける。
 光秀は気まじめで誠実な人柄であり、光秀が定めた明智軍法には、謀反する一年前であるにも関わらず、信長への感謝の念が赤裸々に書き綴られている。

 また、野望説は飛躍しすぎる。
 光秀ほどの人が、「自分の器の大きさ」を知らないはずはない。
 一説によれば、当時の戦国大名や、その元で働く武将たちは飽くなき野望を抱き、チャンスがあれば誰もが天下を狙っていたというが、これは非常に疑問の残る見解で、当時の時代背景を無視した暴論といえるかもしれない。
 戦国大名とは、在地地主の連合体を根本とし、中小豪族の寄り合い所帯で構成されている。
したがって、その統治者である戦国大名は、類い稀な政治手腕の持ち主でなければ領内の諸豪族の統制は乱れ、その国内は乱麻の状態となって天下をうかがうどころではなくなってしまうのだ。
 そもそも、戦国の中小豪族は義理もヘチマもない。保身の為であれば平気で裏切るし、家の保全の為であれば簡単に寝返るし、人質の妻子をも棄て殺しにする。
 強欲で狡猾なのも、戦国の中小豪族の特性だ。
 室町時代の守護大名や中小豪族は我欲満腹でもっとひどいのだがここでは長くなるので書かないが、上杉謙信も大友宗麟も、この諸豪族の統制には四苦八苦させられている。ついには嫌気がさして本城を抜け出し、世捨て人のようになって城下を何日もフラフラとさ迷い歩いたという逸話さえあるのだ。本当に一筋縄ではいかない困った存在なのである。
 したがって、戦国大名が天下を狙う野望を抱いていようが、そのチャンスに恵まれようが、
そのほとんどが国内の諸豪族を統制することで精いっぱいであったはずで、並みの政治手腕では領国の拡張すらおぼつかないのが実情であったろう。
 織田信長、西国の毛利元就、関東の武田信玄、北条氏康、東北の伊達政宗などは諸豪族を上手にてなずけ、その調整をそつなくこなす政治手腕の持ち主であったから、領内の諸豪族は心服して領国は磐石となり、領土の拡張路線に邁進することができたのである。
 ところが、戦国の超大名である信長の下で働く小大名、つまり、明智光秀に至っては、である。
 現に、謀反後の光秀の行動は生彩さに欠いている。
 頼みの細川家、筒井家に加担を断られ、娘婿の織田信澄(信長の甥。父親を信長に殺されている)に加勢を要請した形跡も見あたらない。織田信澄は光秀の謀反後、三日以上も経過してから大坂城内で丹羽長秀・織田信孝にむざむざ殺されているのだ。何らかの手段を使って光秀から内密の連絡があってしかるべきだろう。
 このように、もしも野望説であったら隠密裏の事前準備、類い稀な政治的才略なくして成功など到底おぼつかないし、こんなことは光秀に限らず、当時の武将であれば皆が知っていたことであろう。野望だけで謀反に踏み切ることは自殺行為に等しい。野望説は頭のいい光秀にしてはあまりにも短絡的にすぎるのではないだろうか。

 突然ながら、私は朝廷の黒幕説をとる。
 



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【2008/10/16 14:29】 | 未分類
Ⅱ 家康 悲願の三河平定
 
やがて、家康率いる松平勢と一揆勢との戦闘は長期戦となり、戦線は膠着化する。

 一向衆徒に味方する今川党の武士たちは徹底交戦の構えを見せ、相変わらず猛烈に反抗する。
しかし、宗門の教義と主君への忠義心との狭間に苦悶する武士も日増しに増え、戦場での働きは生彩さを欠き、士気も低下して動揺の色を隠せない。次第に首謀者である酒井将監の命令に従わない者も出てくる。

 そして、上和田の合戦で家康が鉄砲の銃弾を浴びて重傷を負い、それを伝え聞いた一揆勢の士気はみるみる低下、家康の身を案じ、帰参を願い出る武士たちが続出した。
 宗門の教えよりも主への情愛が深いとなれば、一揆勢が敗れることは明らかであった。

 はたして、一揆側から家康に和議の申し入れがあり、家康は帰参を懇願する武士たちを快く許し、寛大な処置を認めたのである。これにより、一揆の首謀者であった酒井将監と今川党は駿河を目指して逃走し、一揆勢の参謀役を務めていた本多正信は京都に逃れた。
この本多正信は後年、窮地の家康を救って帰参を許され、家康の智恵袋となる人だ。いずれは家康の側近第一の功臣となる人である。

 家康と本多正信の「あんうんの呼吸」、つまり、言葉で説明しないまでもお互いに真意を理解し合えるほどの仲、これを物語る逸話がある。
 後年、秀吉は唐入り(朝鮮役)を強行して病没したのであるが、その後、豊臣の石田三成と徳川家康が覇権争いで鋭く対立する。これが関が原役に発展するのだが、その少し前の出来事。
 
 石田三成は陰険な官僚肌の人で、秀吉の目付けとして朝鮮に渡来した際には、重箱の隅をつつくかのようにあら捜しをしては細かいことをツケツケと逐一本国に報告したからたまらない、
朝鮮に在陣中の加藤清正、福島正則、黒田長政、池田輝政、加藤嘉明などの武断派の者たちの深い恨みを買い、その強烈な荒武者たちが帰国して三成の命を狙い始めた。
 困惑して思案した三成は、火中の栗を拾うような気持ちで敵対する家康に庇護を求めるのだが、その深夜おそく、本多正信が家康の寝所の近くまで来て、小声で、
「石田のことにございますが。」と問う。家康は寝返りをうちながら、
「おお、そのことよ、たった今しがた、休んで思案していたところだ。」と言う。
正信は、「ご思案あるなら、別に話すことはございません。」と澄んだ声で言い、静かに退出した
という。 
 正信は、もしかしたら家康が三成を殺すかもしれないと心配したのだ。しかし、ここで三成を殺してはいけない。必ず起こるであろう大波乱を乗り切って諸将を心服させなければならないのだ。短い会話だが、その中にお互いに共通する鋭い洞察が感じられて味わい深い。

 さて、大苦戦を強いられた家康であったが、ここに一向一揆は辛くも鎮圧されたのである。

 そして、三河の安定的支配を念願する家康はさらに兵馬を進め、今川方を掃討しながら吉田城を落とし、そのまま進撃を続けて田原城を攻略して、ついに悲願の三河全土の平定を成し遂げるのであった。
 祖父の松平清康以来、父の広忠と家康は三河のために幼少期から苦難、苦渋の連続を味わい、悲痛な親子の断絶を余儀なくされ、悲哀に沈んだ日々を過ごし、波乱に満ちた人生を送らねばならなかったのだ。家康は感涙の絶えぬ思いであったろう。筆者も泣かずにはいられない場面である。
 
 ところで、家康と一揆勢との戦いは熾烈な大激戦であった。永禄六年の秋口にはじまり、永禄七年の三月頃まで続いたと云われるから約半年間、三河は戦乱の状態にあったわけだ。
 この時にもし、今川家が家康の背後をつくように兵を繰り出せば、家康は大打撃を受けて九死に一生の危機に見舞われたに違いない。
 享楽にふけるアホウな氏真は千載一遇のチャンスを見逃し、これ以後、今川領は家康によっていいように食い物にされてしまう。
 今川氏真の稀に見るボンクラぶりが、家康に幸いしたといえよう。

 さて、ここで家康の三河の統治ぶりを少し書いておきたい。

 家康は今川方の備えとして、吉田城を重臣の酒井忠次に守らせている。酒井忠次は家康の寵臣で雄略の人である。
 そして、三河の政務や訴訟には三奉行、すなわち、徳望の高い高力清長、公平で剛直な本多作左衛門重次、物静かで思慮深い天野康景に任せた。
この三人を物語る、三河で流行した当時の俗謡に、
「ほとけ高力、おに作左、とちへんなしの天野三郎兵衛」というのがある。「とちへんなし」とは、
平等で不公平がないという意味だ。民衆に口ずさんで歌われるくらい、彼らは親しまれていたのである。
 家康の人材配置はまことに適材適所であり、実にみごとである。

 また、今でも有名な「一筆啓上、火の用心、おせん泣かすな、馬肥やせ。」は、本多作左衛門重次が妻に宛てた手紙である。「おせん」は娘ではない、息子だ(仙千代のこと)。
直情径行な彼らしい簡潔な文章である。
 本多作左衛門重次は三奉行の中で民衆から一番に恐れられていたらしく、三河物語の一節に、鍋物がなかなか煮えないので、
「あまりに遅いと作左がくるぞ、早くしないと作左に叱られるぞ。」と、鍋に小言のように言った人がいたというから、相当なものだ。 
本多作左衛門重次は不動明王のように恐ろしい反面、非常に慈悲深い人であったろう。


 ところで、この章を締めくくるにあたり書いておかなければならないことがある。
 
 参州一向宗一揆宗乱記によれば、家康は一揆方と和議の誓紙を交わした際に、
「寺々の僧俗共にもとの如く立ておかるべきこと。」という約定を承諾したにも関わらず、逆に寺々を破却して一向宗の禁令まで布令している。
 僧徒が、「前々のように元通りにするという約定のはず。」と、違約の件を訴えるが、家康は、
「前々といえば、寺の建つ前は野原であった。だから寺々を打ち壊して野原にしているのだ。」
 という三百代言を弄して煙にまいてしまっている。

 この横着で信義に反するやり方をあげつらって家康のことを悪く書く書物を散見するが、これはなにも家康に限ったことではない。古今東西の英雄たちも似たようなものなのだ。よく調べると同じようなことをやっているのである。
 また、当時の寺領は法権を確立して自治権を主張していた。国王(領主)と法王(寺領)が政治的な支配権をめぐって衝突する例はいくらでもある。戦いに敗れて泣き寝入りするのも時代背景を考えれば仕方のないことなのだ。藤原氏の発明した荘園制度が時代に応じて姿かたちを変え、この時代にはすでに積弊と化していたのである。
 北条家や上杉家、島津家などは一向宗の禁令を布令しているが、これは宗教弾圧というよりも政治的な支配権を確立する為の手段と見るほうが妥当なのではないだろうか。当時の僧兵の生態を詳しく調べると、寺に雇われた傭兵の観をぬぐいさることができない。
 信長はこの僧兵の生態に気づき、兵農分離のヒントを得たような気がするのだが、話しが少しずれてきて長くなった。後の章で詳述する。
 


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【2008/10/16 09:51】 | 未分類
Ⅰ 家康 悲願の三河平定

 家康の三河領内で不輸不入の特権を主張し、勝手に法権を確立し、国主に税を治めず、法令を守らず、独善的に振舞う一向衆寺領。家康は三河の完全支配に向けて奮戦する。


 さて、永禄六年(1563年)、信長が美濃の斉藤家攻略に専念する頃、家康は今川方の備え
として佐崎に新しい砦を構築していた。その際、付近の上宮寺に糧食を借りようとしたのだが、
気の早い士卒たちが寺の承諾なしに寺領に侵入し、勝手に糧食を砦に運び入れてしまった。
 これは、監督責任者の菅沼定顕のミスだ。
 彼は上宮寺に謝罪しようと思っていたが、上宮寺の僧徒たちは頭に血がのぼって激憤し、我慢
ならない。僧徒らはすぐさま菅沼定顕の家に押し入り、乱暴狼藉の限りを尽くし、家財道具を略奪して立ち去った。これではまるで山賊の仕業だ。

 菅沼は上役の酒井正親にこの次第を訴え、酒井は上宮寺に詰問状を叩きつけた。
 だが、上宮寺は反省するどころか酒井の使者を侮辱し、セセラ笑って追い返したのである。

 この報告を聞いた家康は領主の面目上、絶対に見逃せない。厳しく糾弾せよ!と命じた。
 
 こうして、領主である家康の強権な態度に上宮寺は騒ぎ立ち、宗門破滅の危機であると人々を
扇動し、ついに一揆を誘発させるまでの事態となった。
上宮寺は親鸞上人以来、法縁の厚い寺だ。こうした格式の高い寺の騒動なので、武装した一向衆門徒が我先にと大勢かけつけ、集まり急いだのである。
 家康としては、領主の命令に服さず、領内の統制を乱し、勝手に自治権を主張して乱暴狼藉を働き、挙句の果てには一揆を起こすに至っては黙っていられるはずがない。
 家康は断固として成敗を決意した。

 ここで、この騒動の歴史的背景を少し書いておかなければならない。この事態は歴史的に非常に根が深いことなので、その根本を説明しておく必要があるからだ。

 大化の改新(645年)以来、皇室との姻戚関係によって栄えたのは藤原氏である。
 王朝時代の朝廷は公地公民制を採用して税収を確保していたのだが、朝廷を牛耳る藤原氏は
とんでもない制度を作り上げた。それは荘園だ。
 荘園は藤原氏の私領であるから税金を納めなくてもよいし、後年は官吏の立ち入りも禁止にする。これが不輸・不入の権だ。だから、荘園が増えれば増えるほど税収が減り、朝廷の財政は欠乏する。
 
 また、ずる賢い地方の領主は、建前の上で藤原氏に土地を寄進したことにして荘園の管理人に化け、藤原氏に名義借りの対価としてみかじめ料を払えば税金を納めなくてもよいことになる。
だから全国的に続々と荘園が増え、藤原氏はバンバン儲かり、逆に朝廷の税収はどんどん減るわけだ。あまりの税収不足のためか、朝廷は金のかかる軍備を撤廃したほどだ。

 朝廷は軍備を撤廃した代わりに検非違使などにその任務をまかせるが、なんのことはない、
元々が今の警察みたいな軽微な武装集団なので、強大な軍事力を持つ山賊などにはまるで歯が立たたない。頼りにならないのである。
 そこで、荘園の管理人(領主)は武装して自主防衛するようになる。これが武士の起源だ。
 寺領も同じことで、武装した僧を僧兵という。
 
 そして、年代が経つにつれて荘園の管理人(領主・寺領)は自主権を主張するようになる。
 上宮寺の騒動は、領主(家康)対寺領(上宮寺)の権力闘争なのである。

 さて、家康は上宮寺との対決を決意するが、家康の家臣の中には一向衆の熱烈な信者が多数いたようで、「君臣は現世限りの契り、仏祖如来は未来永劫の頼むところ」の教示を信じ、一揆勢に味方する三河武士もかなりいる。
 また、この一揆は宗教上の問題というよりも政略的な意味合いが強い。 
 この一揆の首謀者は、織田家との同盟に大反対していた酒井将監なのだ(異説あり)。
 家康は政略的な必要上、長年の松平家の方針を一変し、宿敵の織田家と同盟を結び、盟主の今川と手切れをしたが、今川と縁の深い家臣たちも大勢いたのだ。
 今川ビイキの多くが一揆側に参加していても不思議ではない。彼らは軍人なのだ、一揆勢とはいえ猛烈に強い。

 必然、家康自らが陣頭で指揮を執る、熾烈な激戦が諸所で展開され、家康は大苦戦を強いられた。
しかし、この問題を解決すれば家康は今川党の家臣たちを完全に押さえ込み、三河を政治的にコントロールしやすくなることも事実だ。家康はふんばりどころであった。
 
 一方、一揆勢の中には純粋に一向衆の教えを信じ、宗門の教義と俗世の忠義との間に挟まれて思い悩む者も多くいたようである。三河衆の中でも名の通る渡辺半蔵、蜂屋貞次などがそうだ。
 
 史書の三河物語によれば、ある戦場での壮絶な激戦の最中に、家康はたまたま蜂屋貞次を発見する。
 家康自身が槍をふるい、蜂屋をめがけて猛然と肉薄するのだが、それに気づいた蜂屋は急に馬を返し、その場から逃げ去ってしまった。まるで肩透かしのよう。
 それを見た家康側近の武士たちが勢いづき、気勢を上げて蜂屋を急追撃していくのだが、
蜂屋はすばやくとって返し、猛烈果敢に奮戦して家康股肱の臣たちを次々に討ち取っていく。
 その光景を眺める家康は、「おのれ蜂屋め!」と憤激し、すぐさま猛追撃にかかる。
 蜂屋は乱戦の最中で奮戦しながらも辺りを警戒し、迫り来る家康に気がつくや否や、すぐさま
その場から離脱し、大急ぎで逃走してしまう。

 ようするに、この繰り返しなのである。

 元々が忠義一撤、信義に厚い三河武士なのだ。主君の家康の命を奪うことなど到底できない
ことであったのであろう。



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【2008/10/14 16:49】 | 未分類
考察8 天下の智恵袋 黒田官兵衛

 黒田官兵衛は播磨(今の兵庫県南部)の出身で、出自はかなり確かである。
 
 官兵衛の祖父は自家伝来の効能ある目薬を売り、それが飛ぶように売れて財貨を蓄え、この財力を使って付近の住民を宣撫したり、世話をやいたりして在地豪族化したのである。

 黒田氏は小寺家に属し、官兵衛は小寺家の家老を務めていたが、信長の出現によって天下の形勢は急激に激変し、小寺家は所属すべき勢力の選択に迫られることになる。
 我々は、「信長につけばよい」と結果ですぐに分かるが、当時の情勢は、三好家が阿波で別系統の足利将軍を擁立してその勢力を張り、西国では隠然たる実力を誇っていた。織田家は京都を押さえて日の出の勢いであるし、中国地方では毛利家が尼子氏・大内氏を滅ぼして西国の覇者足りえている。
 一歩でも所属する勢力の選択を見誤ると、家を潰しかねない厳しい時代背景があるのだ。

 官兵衛はさかんに織田を薦めるが、他の重臣たちは毛利を主張し、激しい争論となる。
官兵衛は信長の人傑たるを主張して譲らず、結果的に織田家に決まり、彼はみずから安土城に赴き、信長に拝謁して小寺家の被官たる許しを得た。
 こうして、小寺家は織田方となり、官兵衛は見事に将来の覇者を選んだのであるが、この後、
彼はとんでもない大厄難に遭うことになる。

 後年、官兵衛は秀吉の与力となり、秀吉と共に中国地方の経略に専念するのだが、
ちょうどその頃、織田方の摂津有岡城主の荒木村重が毛利方に寝返って卒然と叛旗した。

 秀吉や明智光秀が荒木村重に直接対面し、改心を迫って懇々と説得するがまるで埒があかない。
そこで、弁舌にたける官兵衛が荒木を説得することになり、彼はサラサラと有岡城に乗り込んで
いった。
 ところが、官兵衛の主家の小寺家がその以前に毛利家に篭絡されていて毛利方に転身しており、しかも、強烈な織田方の支持者である官兵衛は主家から煙たがられて、なんと小寺家は秘密裏に、荒木村重に官兵衛を殺害するように依頼していたのだ。

 そんなことは露知らぬ官兵衛は入城してすぐさま捕縛されたのであるが、荒木村重も官兵衛も敬虔なキリスト教徒である。荒木は官兵衛を殺害せずに、ろう獄に幽閉するにとどめた。

 これ以後、官兵衛は約一年の間の苦渋に満ちた獄中生活を余儀なくされる。
持病の梅毒で肌はガサガサに荒れ、頭はジャリハゲとなり、片足は自由がきかなくなってしまった。後年、秀吉は彼を「瘡あたま」とか、「ちんばめ」というあだ名で呼んでいる。

 荒木村重が獄中で暗鬼のようになっていく官兵衛を見るに見かねて毛利に転身するように説得するが、彼はガンとして応じない。
官兵衛は強靭な精神力で屈せず、有岡城が織田勢の猛攻撃を受けて落城し、救出されるまで耐え抜いた。
 信長は助け出された官兵衛のひどいありさまを見て言葉を失い、泣いて激賞したという。

 実は、信長は有岡城に入った官兵衛がいつまでたっても出てこないので裏切ったと思い、
人質の松寿丸の処刑を厳命していた。
 竹中半兵衛がこれを聞きつけて信長を説得するも、全然聞き入れない。
 信長は、「斬れ!」と、言い張る。
 半兵衛は、「ならば、不憫なれど斬りましょう。」と、静かに言い、命令に従ったふりをして
自分の城に松寿丸をかくまっていた。それを後に伝え聞いた信長は自分の不明を恥じ、今は亡き半兵衛に感謝したという。

 
 官兵衛は調略の得意な人で、秀吉は彼のおかげで播州を難なく経略し、岡山城の宇喜多家も彼の力を借りて無血で味方にしている。官兵衛は非常に頭の切れる人であったが、
たまに切れすぎて・・・・・、とんでもない大失敗もしでかしている。

 信長の本能寺での横死を知り、放心して呆然としている秀吉に、官兵衛はスルスルと近づいて秀吉の膝元を軽くたたきながら、
「よくさせたまへ(裏を返せば好機到来の意)」と、つい、言ってしまった。
 
 秀吉は心底を見透かされたようで、随分と嫌気がさしたろう。これを機に、彼は主流をはずされていく。
 「才は才によって滅ぶ」の典型が三国志の魏書に引く陽修伝に載っている。
 何もかも見透かしたように曹操に進言する陽修はしだいに煙たがられるようになり、その最期は、曹操からつまらない罪を被せられて斬殺されている。
 才気が走りすぎると憂き目も多いから、いつの時代も世渡りは難しい。


 官兵衛は逸話の多い人である。こんな話しがある。

 秀吉は長い間、官兵衛の出家を許さなかった。「使えるだけ使って、コキ使ってやろう。」ぐらい
に思っていたのであろう。
 そんなある日、秀吉が家臣たちと雑談中に、「わしが死んだら、誰が天下を奪うと思う?」と
聞くと、前田利家、徳川家康、毛利輝元など、大身の大名の名前が出てきた。
 秀吉は、「ちんばめが取るわい。」とニヤニヤしながら言う。
「黒田殿は、たった十二万石の大名ですぞ!」と家臣たちが驚いて言うと、秀吉は急に小声に
なって、「大身が取るとは限らんぞ、わしを見ろ。あのちんばめの瘡あたまが、さっとかすめ取る
わい。」と言いざま、急に真顔になったという。

 その話しを伝え聞いた官兵衛は、「そのように思われては、黒田家の一大事!」と思案し、
秀吉に出家の許しを強く請い、その後許されて、如水円清と名乗るようになったという。

 ずっと後年のことだが、関が原役が起こった際、九州での官兵衛の活躍ぶりは非常におもしろいのだが、残念ながら考察が長くなった。別の機会に詳述したい。

 

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【2008/10/14 09:12】 | 未分類
Ⅲ 上洛と戦雲の兆し

信長は京都で暴徒を鎮圧した後、二万人もの職人を動員して将軍家の邸宅たる二条御所の建築に着手している。(二条御所は、足利義輝が殺された際に焼け落ちて廃になった)
 
 いつの世も、大建造物は平和のシンボルだ。高層建築物が人心を安定させる特効薬であることを聡明な信長は知っていたのであろう。
 信長はこの二条御所の工事と並行して皇居の修築にも着手している。皇居の修築には、なんと二年五ヶ月以上もかけている。
 わずか二ヶ月足らずで将軍家の御所を建てたことを思えば、信長がいかに皇室を大事にしていたかがうかがい知れるところだろう。
時の天皇の正親町天皇は非常に悦ばれ、荒れ果て放題の皇居もしだいに輝きを取り戻していく。

 ところで、信長に尊王の意思があったのかどうかは、未だに議論の分かれるところなのだが、信長が皇居を修築し、莫大な金品を朝廷に献じ、諸国に奪い取られていた御料地を回復し、公卿らの領地も回復して皇室の復興に尽力していることは事実である。

 私の見解では、上洛を果たして間のない信長の胸中には、尊王心はあったと考えたい。

 一説には、後年の信長は朝廷を軽んじ、公家衆を侮蔑し、朝廷の官位も返上していることを根拠にして、信長はすでに室町幕府に愛想をつかし、皇室の威光を徹底的に利用して日本中をたばね、その後、信長独自の政権の樹立に向けて邁進するという戦略構想をあらかじめ持っていたといい、信長は皇室の権威を利用するために「尊王心ありげ」に振る舞っていたのだという。

 しかし、この説は結果論から導き出された、安直ともいえる見解ではないだろうか?

 歴史は人間が作り、人間には必ず過渡期があり、その過渡期の中で人間は困難な現実に直面し、耐え難い悩み、悲痛な苦しみの連続の中で試行錯誤を繰り返し、その過程の中から人間は新たな事象を生み出す。そして人は、やがて新たな歴史的事実を作り上げるのだ。
 この過程がわからないと、歴史が陳腐なものになってしまう。

 上洛を果たしたばっかりの、ひよっ子で田舎者の信長が、なんら過渡期を経ずにいきなり皇室を利用した戦略構想を持っていたなど、私には到底信じられない。
 信長が室町幕府に愛想をつかしていたことは事実だったかもしれないが、皇室の利用価値については直感的なひらめき程度であったろう。
 ましてや、皇室を度外視し、朝廷から逸脱するかのような信長独自の政権構想は、ずっと後年のことであったに違いない。
 私は、信長が政略的手段で皇室の復興に手を貸したというよりも、信長の心に内在する中世的な観念からくる尊王心がそうさせたのだと思う。信長は室町幕府の存在を否定しながらも、未だに朝廷の権威主義に縛られ、新政権の樹立に向けて試行錯誤し、それに思い悩む信長の姿も想像できて人間味が感じられる。
 信長がたくましく成長していく過渡期の中で、皇室や朝廷を崇拝していたほうが、未だに中世の固定観念にとらわれて思い煩う信長の姿も想像できて、その時代に生きる人間らしさが感じられるのだ。
 信長は確かに天才だが、努力の秀才でもあったはずだろう。

 
 さて、近畿地方の磐石化を図った信長は、本国の岐阜に再び帰るにあたり、藤吉郎を京都守護職に任命している。
 この守護職は信長の代役を意味し、京の都を守る重要な役職だ。戦前の東京師団長並に責任が重い。時の人は柴田勝家か、佐久間信盛か、または丹羽長秀かと噂をしていたが、この役職は武辺だけでは務まらない。朝廷との折衝、公家さんたちとの交渉も上手にこなさなければならない。

 藤吉郎の才知と武略は、今や信長の太鼓判によって証明されたのだ。

 「織田家に藤吉郎あり」の名声が、世に鳴り響く瞬間であった。

 

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【2008/10/12 17:56】 | 未分類
Ⅱ 上洛と戦雲の兆し
上洛を目指して進撃する信長の軍勢は迅速を極め、岐阜を発してわずか二十日足らずで京に
入洛した。
 京都の周辺に防衛陣を敷いていた三好・松永連合軍はこの猛威に恐れをなし、すでに四散していて跡形もない。
こうして、信長は念願の上洛を果たし、足利義昭も無事に清水寺に入ったのである。

 少し余談を書くが、信長は実に決断と行動が素早い。信長の行動を年表で追っていくと、
間髪入れずに決断し、すぐに実行に移していることが良く分かる。しかも、非常に多くの仕事を
見事に重複させて上手に仕上げていくのだ。あらかじめの明確なビジョンを持つ者でなければ
こうはうまくいかない。信長はまさに、天下取りの設計図を持った仕事師であった。

 さて、入京した信長はすぐに市中警備に力を注いでいる。夜間の警備は藤吉郎が担当した
という。
 応仁の乱以来、京都は度重なる戦乱によって破壊され、暴行・略奪が横行の限りを尽くして
いた。信長は厳命と厳刑の態度で臨み、治安維持に努め、やがては洛中洛外の良民の心を自然につかんでいき、京はしだいに平穏を取り戻していく。

 また、さすがの松永弾正久秀も信長の威勢の前に降伏した。

 信長は寛大にも久秀を許し、その家臣の列席に加えるのだが、信長の擁立する足利義昭にしてみれば、松永弾正久秀は憎悪の的であり、斬殺しても飽き足らない奴であったはずだ。
 義昭は兄の足利義輝を久秀に殺され、自分自身も危うく謀殺されるところだったのだ。

 義昭はこの信長の寛大な処置に大いに不満があったろう。久秀はヌケヌケと素知らぬ態で
織田家に帰服を申し込んでいるのだ。松永久秀のしぶとさである。

 さて、信長は三好の残党狩りに向けてすばやく兵を繰り出し、またたくまに山城、河内、和泉、
摂津を平定する。
まさに鎧袖一触、畿内の有力な商業地域も信長の支配するところとなった。信長が最も望んだのは、この重商地帯の掌握であり、これが信長の切望する天下布武実現の為の有力な資金源となる。
 
 ちなみにこの時、松永久秀の擁立した将軍足利義栄は摂津から阿波へ逃亡している。その後、
しばらくは阿波で三好家に庇護されるが、まもなくして腸をわずらって病死したという。利用され
るだけの将軍であったわけで、まことに哀れな生涯であった。

その年の永禄十一年、足利義昭は征夷大将軍に補せられ、参議左近衛中将に任じられて足利幕府十五代将軍になることができた。
 信長は義昭の推奨する副将軍職や管領職を辞退し、朝廷からは従五位下弾正忠という軽い官位しか受け取っていない。これは、信長がすでに室町幕府の枠組みを越えた、何らかの新しい政権構想を抱いていたように思えて非常に興味深い。

 また、義昭は信長に感謝の念に絶えず、信長のことを「御父」とまで書状に書き記して敬意を表し、絶大な信頼を寄せている。義昭が信長に心から感謝していたことは間違いない。
 だが、義昭の目標はあくまでも室町幕府の再興である。しかし信長は、独自の政権構想で独力
で天下人たらんと考えているのだ。この両者の目標の食い違いが、後年の二人を険悪な仲にする。

 信長はわずか二ヶ月足らずで江州五畿内を席圏し、その雄略と武威を世に轟かせた。まさしく、疾風迅雷の早業であった。
 
 信長は諸地域を経略し、ひとまず京都を去って岐阜に帰るのであるが、その隙をつくかのように
三好・六角の残党がどこからともなく現われて蜂起する。まるでしつこくまとわりつくハエや蚊の
ように、本当にうるさい。
 信長はしばらくはその事態を静観していたが、京都での暴徒蜂起を聞きつけ、急きょ出陣を強行する。
一月の大雪をおかして難路を進軍し、三日の道のりを二日で飛ばし、その勢いで京都に突入、
激烈果敢に奮戦して暴徒を追い払って撃滅した。
 この事件を契機に信長の畿内における経略は徹底されるのであるが、しかし、畿内での信長の
覇権はゆるぎないものとならない。

 阿波では三好家が余勢を張り、近隣諸国に呼びかけて信長打倒に向けて策動し、何度となく
一揆を誘発させる。近江の六角家は四散したとはいえ、佐々木の六角といえば鎌倉時代からの名門であり、地縁・血縁が深く浸透しているのだ、近江の国人衆や地侍をさかんに扇動して根強い抵抗勢力として隠然たる余力を残していた。
 摂津の石山本願寺は中立的立場を堅持しているが、不穏な動きも見せて全く予断を許せない。

 織田信長の膝元は、まるでくすぶり続ける火薬庫だらけのようであった。
 


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【2008/10/12 15:35】 | 未分類
Ⅰ 上洛と戦雲の兆し

良い機会に多く恵まれながら、人は大抵、その好機をうまくとらえられず、いつのまにか取り逃がしている事が多いものだ。しかし、日々神経を研ぎ澄ませ、情報を吸収するアンテナを高くすると多くの良い機会をキャッチすることができる。

 信長は良い機会に非常に多く恵まれた人だが、彼は情報の収集力と高度な分析力で、
「最良の機会」をつかんでいたのである。決っして運が良かっただけではない(桶狭間の戦いが好例。あれは情報戦の勝利である。)

 永禄十一年、浅井長政とお市の方との婚儀が結ばれている頃、信長は足利義昭を岐阜に迎えることに成功している。
 
 足利義昭は家臣の細川藤孝の力添えで越前の朝倉家に身を寄せていたが、当主の朝倉義景は煮え切らない人物で、将軍を奉じて上洛することなど、夢のまた夢であった。

 義昭は落胆して失望し、日々悶々と過ごしていたのであるが、そんなある日、朝倉の家臣の一人、明智光秀と対面する機会を得た。そして、その口上によれば、どうやら新興勢力の尾張の織田家が頼りになりそうである。
 義昭は随分と心が晴々する思いであったろうが、この足利義昭が織田家に心を寄せ始めた事を信長はすばやくキャッチする。

 ところで、この話しに関する史料で、信憑性の高いと云われる「細川家記」によれば、
足利義昭を尾張に連れていく為に細川藤孝と明智光秀が相談して協力し合い、まず、光秀が朝倉家を立ち退いて織田家に仕官を求め、信長に義昭の意向も伝えて承諾を得る。
 その後、光秀は藤孝と連絡を取り合い、藤孝は義昭を連れて朝倉家を立ち去り、織田家側からは光秀が義昭一行を出迎えに行き、両者は浅井長政の領内の小谷山で合流する。
 そして、明智光秀の先導により美濃国の立政寺に向かい、そこで足利義昭と織田信長は対面したという。
 私見になるが、細川家記の記述をそのまま信用すると、上洛の大義名分の義昭が、棚からぼたもちのように信長の懐に転がり込んできたような印象を受ける。
 しかし、天下布武を念願とする信長であれば、かなり以前から将軍の利用価値に気づいていたであろう。気づいている以上、何らかの方策を講じていたはずだ。

 私は、織田信長が間接的に明智光秀をプッシュして、この運びにしたと考えたい。

 史料の美濃国諸旧記によれば、信長の妻(帰蝶)は明智光秀と「いとこ同士」とあり、信長は足利義昭の所在を捜し求めて見事に探知し、妻の縁者である明智光秀が朝倉家に仕えていることも知り、光秀に使者を送ってこの運びにしたと思うのだ。
 信長は強烈な行動派だ。これくらいやりそうな男である。

 ともあれ、信長は将軍家を奉じるという大義名分を手に入れ、天下統一の旗印を得たのである。
そしてこの時、もう一人、良い機会を得た人がいる。明智光秀がそうだ。
 光秀は建前の上では足利義昭の家臣で、実際上は織田家の家臣にもなり、義昭と信長とのパイプ役となって出世していくのだ。光秀もまた、鋭敏の人であった。

 しかし、機会をはずしてバカを見た者もいる。義昭に逃げられた朝倉義景である。
 自身に才略、器量がないことを棚に上げ、義景は信長をひどく憎悪するようになる。
「他を知り、己を知らず」の典型のような人であった。

 さて、信長は早々に北近江の浅井長政に上洛準備の旨を伝え、浅井家はこれに快く応じ、京への道を開き、様々な便宜を図る約束にも快諾した。
 しかし、南近江で勢力をふるう観音寺城主、六角承偵が言うことをきかない。
「信長ごときの家来になった覚えはない!」と、頑として受けつけない。
 
 六角家は松永久秀と共に、足利義栄を擁立しているのだ。反抗するのも道理ではある。

 そこで信長は、「ならば、踏み潰して押し通るまで!」と決意し、全軍に動員令を下し、
三万の大軍に徳川家の援兵を加えて南近江に殺到する。
 
 将軍候補を奉じての上洛戦なのだ。うだつの上がらない中小大名が「出世の好機」とばかりにこぞって信長の元に馳せ参じたので雪だるま式に大軍勢となったのである。 
 
 ところで、この南近江での戦いの時に、藤吉郎の名がはじめて「信長公記」に登場する。

 時は永禄十一年九月十二日、南近江の箕作城攻めの際の記述だ。

「佐久間右衛門、木下藤吉郎、丹羽五郎左衛門、浅井新八に仰せつけられ、箕作山の城攻めさせられ、申の刻(四時)より夜に入って攻め落しおわる」とある。
 この時、藤吉郎の年齢は三十代の前半、たくましく成長した彼は相当の手勢を率いた高級将校になっていたことがわかる。

 さて、こうして鎌倉時代以来の名門、佐々木の六角を攻城野戦で撃破し、信長の軍勢は迅速で
京都を目指し、熱望とともに猛然とばく進していく。


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【2008/10/11 06:54】 | 未分類
考察7 心優しい名参謀  竹中半兵衛

竹中半兵衛は秀吉の智恵袋、名参謀で有名である。彼の名は竹中半兵衛重治だが、半兵衛だけで名高い。史書「豊鑑」は、彼の息子の竹中重門の書である。

 半兵衛の生涯は所々不明な点が多い。半兵衛に関する逸話も有名人のわりには非常に少ないのだが、これは三十六歳という早世が、彼を逸話の少ない人にしたのかもしれない。

 豊鑑には「秀吉が半兵衛の死に臨んで落胆悲哀した」との記述があり、新井白石は「藩翰譜」で
「その昔、太閤殿下が数多くの武功を世に轟かせ、信長公を大いに喜ばせて認められたのは、
ひとえに半兵衛の助けがあったからである。」と記している。

 半兵衛が陰ながら秀吉を支えていたことも、伝説の少ない要因の一つであろう。

 美濃国で伝承され、江戸時代の元禄の頃まで真実として伝わっていた話しに、「半兵衛の稲葉山城乗っ取り」がある。

 竹中半兵衛は美濃の斉藤家に属し、菩提山城の城主であった。その場所は、今の関が原盆地に近い、垂井町の付近である。
 
 半兵衛は書物を愛好し、武辺ばらない柔和な感じであったので、斉藤家の者たちから軽く見られていた。
戦国時代の武家の世相は、男子たるものは荒々しさが求められ、公家や坊さんのように学問を好み、書物を愛好してそれに読み耽る者は軽蔑されたのである。人の外見や態度に「はやり」があるのはいつの世も同じだ。

 ある日、半兵衛が稲葉山城のとある門を歩いて通過すると、生温かいものが頭に触れた。
いぶかしげに見上げてみると、当主の斉藤竜興の近習どもが、門の橋の上から小便をかけて笑っていたのだ。
 半兵衛は、その場は黙って立ち去り、美濃三人衆の一人である安藤伊賀守に仕返しの相談をしに行く。しかし伊賀守は、娘婿ながら半兵衛のことを軟弱な輩と感じている。
「血迷って何を言い出すやら。そんな度胸もあるまいに」と内心思いつつ、得々と諭して半兵衛をかえした。
 加勢を頼めなかった半兵衛は、しばらく思案した後、自分の弟の久作に目をつけた。久作は人質の意味で稲葉山城におり、当主の斉藤竜興の側近くに仕えていた。
 
 そしてある日、半兵衛は弟の病気見舞いと称して城内に侵入、なんとわずか手勢十六人で城内の主要な箇所を押さえ、稲葉山城を占拠して当主の斉藤竜興を追い出してしまったのである。
 
 信長から、「美濃半国を譲るから、城を明け渡してもらいたい。」との誘いの書状もくるが、半兵衛は一蹴し、その後、竜興に城を返して山中に隠棲し、隠遁生活の日々を送るようになる。

 その後、半兵衛の領地は弟の久作が守り、竹中家は斉藤家滅亡の後、織田家に帰服している。

 ところで、半兵衛が秀吉の与力として登場するのは、豊鑑の記述によれば、後年の姉川合戦の前あたりからだ。
 後年、織田家と浅井家は手切れとなり、信長から最前線の長浜方面を任されている秀吉としては有力な戦力となる与力が欲しいところであった。
秀吉も半兵衛の噂は聞いて知っていたであろうから、あるいは半兵衛と直接対談して談論し、虚実を確かめた上で半兵衛を口説き落としたのかもしれない。
 竹中家は織田家に帰服しているから、半兵衛もその気になって、「うん」と言ったのだろう。

 半兵衛は調略を得意とし、浅井家の要を守る樋口三郎兵衛を篭絡して見事に味方に寝返らせた。
この功績によって秀吉の死守する最前線は絶大に安定し、浅井攻略は順調に展開するようになる。

そして、後年の姉川合戦の後、秀吉は信長の命令で浅井家から奪った最前線の横山城(浅井の本城の小谷城からわずか8キロ程度の地点にあったという。)に入るが、半兵衛の知略と巧みな用兵で何度となく押し寄せる浅井勢を毎度のごとく撃退している。

 また、諸書によれば、半兵衛は日々秀吉の補佐役として陰にあり、常に名参謀ぶりを発揮している。
おそらくは、古代中国の史記に登場する楽毅(春秋戦国時代の人。蜀漢の諸葛孔明が手本にしたといわれる人物。)や張良(前漢の劉邦の補佐役)を思わせる働きぶりであったろう。
 半兵衛は史書を愛好していたというから常に意識していた可能性はある。

 ところで、後年の秀吉の智恵袋となる黒田官兵衛は、息子の命を半兵衛に救われている。
 
 詳しい経緯は別の章に譲るが、黒田官兵衛が裏切って敵に寝返ったと勘違いした信長は、人質の松寿丸(後年の黒田長政)の殺害を命じる。
 秀吉からその命令を伝え聞いた半兵衛は、その幼子を処刑したことにして、密かに自分の城に保護してかくまうのである。きっと、官兵衛と親しい交情があったのだろう。

 後日、誤解がとけて松寿丸の命は助かり、それを知った官兵衛は半兵衛に感謝の念に絶えない気持ちでいっぱいであったに違いないが、それ以前に、半兵衛は体調を崩して重い病気にかかり、最期は播州の三木城で陣没している。

 黒田父子の感謝の念、届かぬ想いは絶大であったろう。


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【2008/10/10 05:23】 | 未分類
Ⅲ 信長 覇業への第一歩

 松永久秀は阿波義栄を十四代将軍に担ぎ出し、義栄を摂津の普門城に居住させ、その実権をがっちりと握り締め、早くも傀儡政権の樹立に向けて策動していた。

 信長は、なんとしても天下布武の実現に向けて上洛を果たし、逆臣久秀の掃討を念願していたが、肝心の足元である近隣諸国の動静を見極める必要があった。

 四方を見渡せば、三河の家康は安全だ。永禄六年、信長は娘の徳姫を、家康の長男である信康に与えて両家はさらに親密度を増している。
 上杉謙信は遠方にすぎ、山河の隔てもあって当面は特に問題ではない。近江の浅井家、伊勢の北畠家は外交政策で対応できそうである。

 ただ一人、難敵がいる。軍略の大家、武田信玄がそれだ。

 武田とは美濃と国境を接し、油断も隙もない。武田家は勇将が粒ぞろい、その兵馬は精強無比、その士気の高さは天下一品だ。万が一に事を構えれば、上洛するどころか危機に陥り、戦線は泥沼化するのは必定なのである。非常に手強い、一癖も二癖もある難敵なのだ。
 諸書によれば、戦国時代の当時、武田の恐怖は伝説的に世間に知れ渡っていたようである。

 しかし、さすが信長は聡明な政治家であった。武田信玄には常に低姿勢を崩すことなく、心のこもった手紙や、丹念に仕上げた贈り物を何度となく送って信玄の歓心を買い、ついに信長の養女を信玄の息子である勝頼に縁づけた。
 武田勝頼に嫁いだこの養女は後年、早い時期に病没しているが、信長はすぐに息子の信忠(信長の嫡男)に信玄の第六女を妻に迎えるように早々と交渉に乗り出している。

 信長が西進に集中できたのはこの婚姻政策のおかげであり、強国の武田と和親している間に、間髪入れずに行動してその勢力を拡大・拡充したのである。

 私見になるが、この婚姻政策には藤吉郎が深く関わっていたはずだ。秀吉はその生涯を通じてなるべく人を殺さず、武力によらず、外交で相手を味方にしようと心がけた人だ。後年はかなり耄碌して、甥(羽柴秀次)の一族からその関係者まで虐殺したり、無謀な唐入り(朝鮮役)をはじめたりしたが、若い頃の彼は心やさしい策略家であった。
 信長は藤吉郎の説く深慮遠謀をことごとく採用したに違いない。

 また、武力戦は勝っても味方の消耗も激しい。信長は伊勢の北畠・神戸を威嚇戦で脅迫し、その武威を見せつけ、信長の二男の信雄を北畠の養子に、三男の信孝を神戸の養子として送り込み、相手の面目を立てて実質的に伊勢を平定している。後に信雄は北畠大納言と呼ばれ、信孝は神戸三七信孝となる。
 信長には「戦争に強い」というイメージがあるが、後の章で詳述するが実は戦歴はあまり芳しくない。
 本当に上手なのは外交なのである。
 
 そして、信長は北近江の大名、小谷城の城主浅井長政にお市の方(信長の妹。従妹とする説あり。国色無双の美人で有名)を輿入れさせることに成功する。
 政略的な結婚ではあったが、後年、浅井長政とお市の方は仲睦まじい夫婦となったようで、 
多くの子宝に恵まれている。

 ところで、この婚姻が結ばれる際に、浅井長政は信長から一筆を取り付けている。

 北近江の浅井家は、南近江の六角家から何度となく激しい攻撃を受け、危急存亡の際には越前の朝倉家の助勢を得て辛くも救われたという経緯があり、朝倉を善とする家風があった。

 朝倉と織田は、元来が同じ斯波氏から政権を簒奪した下克上の戦国大名であり、朝倉は斯波氏の守護代から、織田は斯波氏の守護代の家臣から成り上がった。
 門閥の感覚で朝倉家から織田を見ると、織田家は格下なのだ。両家は互いに正統性を主張して譲らず、非常に仲が悪かった。これを心配した浅井長政は、
「終生、朝倉とはことを構えない」という誓紙を信長と交わし、信長はこれに快諾して婚姻はめでたく成立したのである。しかしこれが後年の悲劇のはじまりになろうとは、まさに人間の人生は一寸先が闇だ。

 さて、こうして信長の京への道筋はしだいに開いていく。
 
 しかし、信長は上洛における大義名分が欲しかった。衰えたりとはいえ、室町幕府の威光は
まだまだ根強い。これを利用できれば効果は絶大であり、畿内の中小大名たちがはせ参じることは確実なのだ。

 京に向け、上洛を志す信長の眼光は、熱望をこめて鋭く光り輝く。

 
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【2008/10/07 06:33】 | 未分類
Ⅱ 信長 覇業への第一歩

 さて、墨俣築城の逸話の真偽は別にして、藤吉郎は蜂須賀党を味方につけ、調略を用いて斉藤家の諸将の切り崩しに腐心する。
 調略とは、敵対者に利害を説いて説得し、寝返らせて味方にすることである。成功すれば効果は絶大だが、失敗すれば命を落としかねない危険な仕事だ。

 伝説的な逸話によれば、藤吉郎は鵜沼城主の大沢正秀の調略に成功する。

 藤吉郎は大沢正秀を連れて信長の元に向かい、すぐに正秀を信長にお目見えさせたのだが、信長は密かに正秀の殺害を藤吉郎に命じる。大沢正秀は猛将なので、また心変わりして謀反でもされたらやっかいな事になると信長は考えていた。

 藤吉郎は得々と諌めるが、信長は全然聞き入れない。「斬れ!」と、言い張る。

 説得を諦めた藤吉郎は大沢正秀に、「ここは危険になったゆえ、早々に退去なされ。」と言い、
「追手が心配であれば、私を人質に取って逃げればよい。」と告げ、刀や脇差をはずして全くの
丸腰になった。
 大沢正秀は信義を知る人ではなかったので、「それならば!」と言いざま藤吉郎を人質に取り、
夜陰に乗じて逃げ出したという。

 この逸話は、藤吉郎がいかに信義心を重んじる人物であったかを象徴的に物語っている。
流浪時代の経験から、迂遠なようだが、信義にまさるものはない事を熟知していたのであろう。
乱世においては人心は頼りなく、人間関係の信頼感は失われていた時代なのだ。
人心が荒廃する中での信義心は、最も感動的に人の心を打つ。
この「信義心」は、藤吉郎が大望を成就する上での最も重要なカギの一つであった。

 さて、信長の大仕掛けな調略により、美濃三人衆が主の竜興を見限り、斉藤家は完全に瓦解崩壊する。
 そして永禄十年、信長は大軍を率いて美濃へ侵入、破竹の進撃を続けて稲葉山城を重囲した。
 
 この時、藤吉郎は蜂須賀党を使って城内をかく乱し、目覚しい働きぶりを見せる。
 蜂須賀党の力を借りて城内に侵入した藤吉郎は、城門に迫る味方に合図を送るために、
ひょうたんをつけた竹ざおを高々と振りかざし、見事に味方の軍勢を城内に招き入れることに成功する(あくまでも、伝承的な逸話である)。
 以後、ひょうたんは藤吉郎の旗印となり、戦って戦勝するたびにそのひょうたんの数は増えていき、ついに「千成ひょうたん」の向かうところ敵なしになる話しは、今の現代でも伝承的に語り継がれている。後年の羽柴秀吉の馬印(総帥を表す旗印)はひょうたんである。
 藤吉郎はこの斉藤家攻略の功により美濃三郡を与えられたという。

 この逸話の真偽、ことの経緯はどうであれ、藤吉郎の武略と知略はこれを契機に大きく鳴り響くことになる。稲葉山城攻略戦は藤吉郎の晴れ舞台であったろう。

 こうして、信長は尾張、美濃合わせて百二十万石の大名となり、小牧山から稲葉山に居城を移し、この土地の名も「岐阜」と改めている。ちなみに稲葉山は、ロープウェイでの景観の美しい現在の金華山である。

 斉藤家当主の竜興は朝倉家を頼って落ちて行き、美濃を経略した信長は「天下布武」の印章を使いはじめる。読んで字のごとく、信長の天下取りへの熱意と意欲がはっきりと見て取れる。

 さて、信長の居城となった岐阜城には、京都から朝廷の使者が早々に現われ、美濃・尾張に所在する朝廷御料地の回復を切実に訴えたが、当時の京都は大混乱だ。

 1565年(信長が美濃を取る二年前)十三代将軍の足利義輝は三好家の家臣である松永久秀によって攻め殺され、久秀はその罪を主君の三好義継にかぶせた。
 松永久秀は、足利義輝の弟二人を殺害せんと策動したが、一人は謀殺し、もう一人の覚慶大僧上は取り逃がした。
 覚慶大僧上は知勇兼備の細川藤孝に助けられ、朝倉家を頼って落ちのびた。覚慶大僧上は後年の十五代将軍足利義昭である。

 京都は冷血非情、奸智で残忍な松永久秀の手によって押さえられ、天皇をはじめとする公家衆は震え上がり、室町幕府は今まさに滅亡せんとしていた。
 
 


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【2008/10/05 16:28】 | 未分類
Ⅰ 信長 覇業への第一歩
松平家と盟約を結び、東方の後顧の憂いを家康に任せた信長。藤吉郎は隣国の斉藤家攻略、諸大名との外交戦術などでその武勇と知略を示し、必然、信長の身代は飛躍的に伸びる。



 さて、桶狭間の合戦により、信長の武名は大いに上がり、信長に追従する者も次第に増大して、信長は難なく尾張全土をその掌中におさめた。念願の尾張統一はここに成ったのである。

 信長は尾張統一の後、早くも清洲城から小牧山に居城を移転している。
 これは、美濃の斉藤家を攻略するためだ。信長はその巨歩を進め、美濃攻めに有利な小牧山に移ったのである。
この本城の移転には信長の強い意気込みが感じ取れ、もしかしたら、信長はすでにこの時点で、天下に賭ける志しを抱いていたのかもしれない。

 ところで、信長は美濃の斉藤道三と一時休戦しており、しばらくの間は平和が保たれていた。
しかし、道三は息子の義竜に殺害され、その義竜も永禄四年に持病が悪化して死亡し、義竜の息子の竜興が当主となるのだが、竜興は暗愚ともいえる将で、家臣領民の評判は芳しくない。

 しかしながら竜興が暗愚な主君とはいえ、美濃が容易に没落しないのは優秀な家臣たちがしっかりと支えていたからである。
すなわち美濃三人衆、稲葉一鉄、氏家朴全、安藤伊賀守がおり、鵜沼城主の大沢正秀は知勇に聞こえた猛将であった。
 後のコラムで詳述するが、斉藤家を離れた竹中半兵衛も織田方ではない。

 斉藤家は「腐っても鯛」なのであり、信長は思案に暮れた。そして、ここで伝説的な逸話で有名な墨俣一夜城が登場する。(近年、新史料が発見され、三日で完成させたという。)
 
 この逸話の真偽は不明だが、藤吉郎の知略を知る上でおもしろい。
 築城の目的は、斉藤家の本城である稲葉山城付近の三角州のデルタ地帯に砦を築き、足溜まりを作る作戦だ。

 佐久間信盛は築城中に敵の攻撃を受けて失敗、柴田勝家は敵の強襲と梅雨による川の氾濫で大失敗、織田元澄は築城中に敵勢の夜襲を受け、あえなく悲壮な戦死。

 このようなありさまに、もう誰も進んで行く者がいない。信長はこの難題を藤吉郎に命じた。
 
藤吉郎は快く引き受け、流浪時代の知り合いの蜂須賀小六(正勝。政勝ともあり。)を説き伏せて、野武士千二百人を動員して墨俣に向かう。あらかじめ、築城の資材などは川を利用して隠密裏に運ばせた。

 そして、わずか数日のうちに墨俣に砦が出現し、斉藤方は驚き慌て急いで出撃する。

 藤吉郎と野武士たちは砦を頼りに防戦よく努め、何度となく敵勢を追い払った。
 藤吉郎以下、野武士たちは大いに喜び、これを機会に蜂須賀小六とその家来は藤吉郎の配下となった。
 信長は藤吉郎を激賞し、墨俣の城主にして五百貫の禄を与えた。一城の主となった藤吉郎は、これを機会に名を木下と改め、木下藤吉郎と名乗るようになったという。

 さて、この逸話に登場する蜂須賀は実在の人物であり、後年、秀吉の有力な与力大名になる人である。
 蜂須賀は土豪であった。場所は愛知県海部郡美和町の蜂須賀という説が有力視されている。
 
 蜂須賀党は戦国の動乱に乗じて寺領を奪い、土豪化したという説がある。彼らは主家を選ばず、政治的に自由で、必ずといっていいほどに勝ち組にしか加担しなかった。そうすることで所領の安全性を確保したのだ。
 彼らは必要であれば強盗、放火、縷言、暗殺、暴行、脅迫、略奪、なんでもやったという。
 まるで現代のシンジケートだ。

 藤吉郎が流浪時代に彼らと接触していた可能性は十分にある。
 
 武家社会では建て前上「できない」、もしくは「必要だが、やりたくない」ことが蜂須賀党にはできたのかもしれない。

 蜂須賀小六率いる蜂須賀党は藤吉郎の右腕として、陰ながら活躍するのである。



著者HP http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/
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【2008/10/04 23:54】 | 未分類
主要参考文献一覧
作品名・・・知っておきたい戦国武将の幻影 Ⅰ
覇王編 = 逆賊、織田信長を討て!=
作品名・・・知っておきたい戦国武将の幻影 Ⅱ
争覇編 = 織田家簒奪!秀吉の野望=

               
  <<主要参考文献一覧>>


武将列伝  「上・中・下 全巻」  海音寺潮五郎  文藝春秋  昭和四十年代発刊

新太閤記   全三巻         海音寺潮五郎  文春文庫  昭和四十年代発刊

乱世の英雄              海音寺潮五郎  文春文庫

悪人列伝   全四巻         海音寺潮五郎  文春文庫

実説武侠伝              海音寺潮五郎  文春文庫

武家盛衰記              南条範夫     文藝春秋

秀吉と家康              邑井 操     大和書房  昭和四十年代発刊

信長・秀吉・家康の戦略戦術    佐々克明     三笠書房 

戦国武将伝              白井一郎     文藝春秋

信長・秀吉・家康           津本陽 江坂彰  講談社

異議あり日本史            永井路子    文藝春秋

戦国武将101人がわかる!    小和田哲男   三笠書房

封印された日本史          井沢元彦    KKベストセラーズ

歴史謎物語              井沢元彦    廣済堂出版

歴史「再発見」物語          井沢元彦    廣済堂出版

逆説の日本史 9戦国野望編    井沢元彦    小学館

武士道                新渡戸稲造
              (訳・解説)奈良本辰也   三笠書房


鉄砲と日本人             鈴木眞哉    洋泉社

戦国武将学入門           道満三郎    発行・同朋舎 発売・角川書店

歴史群像シリーズ4号  関が原の戦い       学研

歴史群像シリーズ6号  風林火山          学研

歴史群像シリーズ32号 項羽と劉邦         学研

人間三国志 覇者の条件      林田慎之介   集英社

捏造された日本史           黄文雄     日本文芸社

乱世をスクープ!戦国史新聞              日本文芸社

小早川隆景              童門冬二   実業之日本社

日本史人物「その後のはなし」上巻  加来耕三   講談社文庫 

武田信玄               土橋治重    成美堂出版            

カルト教団の日本史         渋谷申博   瓜 生中 日本文芸社
 
参謀は名を秘す            童門冬二   日本経済新聞社                                                

戦略・戦術辞典            鈴木一夫 松田忍 他   ナツメ社

家系図から読み取る日本史     須藤公博   駿台曜曜社

国民の歴史               西尾幹二   産経新聞社




著者HP http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/
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【2008/10/04 09:21】 | 未分類
不如帰 ~戦国武将の幻影~


Ⅰ<覇王編>~逆賊 織田信長を討て!~  Ⅱ<争覇編>~織田家簒奪!秀吉の野望~

不如帰 戦国人物伝


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