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Ⅰ 家康と東国の動乱
 織田信長の頑敵であった浅井・朝倉は滅亡したが、少し付け加えることがある。

 朝倉義景を土壇場で裏切った景鏡は、わずか数年後には一揆勢に殺されている。
朝倉家を離反した溝江長逸や重臣たちもその最期はあまりよくない。一揆勢によって殺害されたり、領地の争いをめぐって仲たがいを起こし、お互いにまもなく滅んでいる。
朝倉景健は、織田家の柴田勝家と激しい争論を起こし、しばらくして斬殺された。

 朝倉の叛臣たちは越前の民衆からひどく侮蔑され、織田家からは軽く見られていたのであろう。
 戦国の世とはいえ、主に対する裏切り行為を快く思う人はいまい。織田家側としても、形勢が不利になるとすぐに離反するようでは心もとないのである。

 ところで、浅井長政の長男の万福丸はすぐに織田方によって発見され、無惨にも斬殺されている。次男の乙若丸は仏門に入り、僧になったようである(異説あり)。

 滅ぼされた家の遺児たちの末路は悲惨だ。
 男子は必ずといっていいほどに殺され、女子は妾にされるのが常であった。勝者側は再起を恐れ、例外なく苛酷な手段に出るのだ。
 まさに冷酷非情この上ないことであるが、これは悲しい時代の罪であったろう。平清盛と源義経の例もあるのだ。
平治の乱の後、平清盛は池ノ禅尼(清盛の継母)の助命嘆願を聞き入れ、源義朝の遺児たちを助命し、頼朝は島流しにしている。
その結果、わずか数十年の後には、義経は軍事の天才と称されるほどの青年武将に成長し、頼朝の雄略は思う存分に発指揮され、ついに平家の滅亡を招いている。
あの時、清盛が助命していなければ、平家の安泰は長く続き、歴史は大きく変わっていたことであろう。人間の命運は、まさに一寸先が闇だ。


 さて、浅井・朝倉を滅ぼした織田信長は得意の絶頂であった。藤吉郎も織田家の有力武将に成長し、今や織田軍団の旅団長的地位を獲得したのである。織田家に仕えて苦節十六年、徒手空拳からの出発であった。藤吉郎は感無量であったろう。
ちょうどこの頃に、藤吉郎は改姓して「羽柴」を名乗っている。重臣の柴田勝家と丹羽長秀の名にあやかったのだ。
同僚に出世を妬まれたり、先輩に憎まれたりしないようにする為の配慮であったろう。会社勤めの方々であればよく分かるところである。

 こうして、信長は近畿地方の安定を確立し、さらに覇業に向けて邁進するのであるが、一方、東国は武田信玄の病没により、徳川・武田が領地の争奪戦に明け暮れていた。

 三方々原の前哨戦で、武田家の猛威に恐れをなした奥平氏は武田の軍門に降り、武田家に人質も差し出していたのであるが、武田信玄の病没の後は、家康の誘いを受け入れて徳川家から姫をもらって縁戚となった。
そして、武田家と手を切り、無尽の徳川方を宣言したのである。
奥平氏は武田に差し出した人質を、無情にも棄て殺しにしたということだ。並々ならぬ決意の叛旗であったに違いない。

 家康は奥平氏と共に武田方の長篠城を攻略し、奥平に長篠城を任せて厳重に防備をさせた。
 この事態を聞きつけた武田勝頼は激怒し、長篠城の救援に向かったが間に合わず、憤懣を残して引き返している。

 武田家は信玄亡き後とはいえ、名将は数知れず、精強な軍団はいまだに健在である。
しかし、腹の太い家康は遠江方面の武田方の諸城をかたっぱしに攻略し、武田の勢力圏は次第に奪われていく。
 家康としては、武田信玄との今川領の分割協議以来、不当に奪われていた遠江の領地を取り戻すべく策動していたのであるが、武田勝頼は猛将だ、とても我慢ならない。
天正二年(1574年)、武田勝頼は猛反撃に転じて美濃国に侵攻し、明智城をはじめとする大小の城を十八城も陥れ、遠江にも進撃して大野田新城を攻略し、高天神城を猛攻してわずか数日で開城させた。高天神城は、武田信玄が攻略を諦めた城だ。
これらの武威によって勝頼の武名は大いに上がり、武田の猛威は改めて天下に鳴り響いた。

 そしてその翌年、武田勝頼は一万五千もの大軍を率い、突如として三河国に進撃をはじめる。

 なんと、徳川家康の寵臣の大賀弥四郎が武田と密謀し、武田勢を招き寄せたのだ。
 
 大賀弥四郎は経世の才に優れ、家康に重宝がられていた人物である。
 ところが、大賀弥四郎は次第に権勢を誇って増長し、家康に叛旗して武田に通謀したのだ。


著者HP http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/
メールアドレス hokenpuro@yahoo.co.jp


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テーマ:歴史小説 - ジャンル:小説・文学

【2008/11/24 06:34】 | 未分類
考察15 武田家の大転落

 武田信玄が陣没後、信玄の遺言により武田信勝が当主となり、その後見役として父親の勝頼が実権を握る。
 信勝の母親は織田信長の姪で、その母は信勝を産んで早くに病没している。

 武田勝頼は三方々原での戦い以来、徳川家を仇敵視し、何度も徳川領に侵攻し、長篠城の奥平貞能、貞昌父子にも兵馬を向けた(武田信玄亡き後、家康は長篠城を奪い、奥平氏にその城の守備を任せていた)。
 奥平氏は、三方々原合戦の前哨戦で武田の武威に恐れをなし、すぐさま武田家の騎下に加わり、武田勢とともに徳川方を散々に蹴破り、徳川家康を脱糞逃走させた。
しかし、信玄の病没の後は、徳川家康に篭絡されて縁組も結び、無尽の徳川方を宣言したのである。

 
 さて、勝頼は徳川方の長篠城を重囲して攻撃するのであるが、城兵は五百名程度であるにも関わらず、要害堅固でうまくいかない。
 一方、長篠城内では、糧食がまことに心細い状態なので、徳川に救援を求める為に鳥居強右衛門を派遣することにした。

 鳥居強右衛門は不浄口から出でて川の中を潜行して泳ぎきり、武田方の監視網をくぐり抜けて家康の元にたどり着き、家康から織田・徳川の援軍が近日中に到来する旨を聞き、早急に城兵に知らせようと長篠城に引き返すのであるが、長篠城付近で武田方に捕らえられてしまった。

 武田の陣営では、不審者の侵入を防ぐ為に何重にも縄を結い、その縄には鈴をいくつも結びつけ、地面には砂をまいてきれいにさらしておき、兵士の腰ひもの色は部隊別に分けていたという。
 当時の実地における戦術は、かなり高等だ。

 捕縛された鳥居強右衛門は城兵の見える前で十文字に磔にされ、城兵に向かって降伏を呼びかけるように強要されるが、「援軍は近日中に到来!」と、逆に城兵を励ます言葉を声高に叫び、武田方によって串刺しにされてしまった。
これは実に有名な話しで、当時も大変な評判になったという。今の現在も岡崎城を散策すれば鳥居強右衛門の磔にされた銅像があり、その勇姿を偲ぶことができる。

 ところで、戦史上有名な長篠の役について少し書くが、近年、長篠城跡と主戦場となった設楽々原付近の発掘調査が進み、数多くの土塁や堀が発見されている。堀は外堀に限らず内堀も散見され、数多くの砦が構築されていたことが想定されている。
 長篠の役といえば、野戦における鉄砲と騎馬の戦いとイメージされているが、城砦戦ではなかったかと疑う研究者もいる(詳しいことは別の章で後述する)。

 しかしながら、野戦・城砦戦のどちらであろうとも、武田勢が惨敗したことは事実であり、数多くの勇将士卒を失い、超一流国から二流国に大転落したのは確かである。
 大打撃を与えたのは織田信長であったが、彼はまだ動かない。武田家の内部崩壊を気長に待つのであった。


 ところで、越後の上杉謙信が病没するとお家騒動が勃発した。謙信は急死したので遺言をする暇がなかったのだ。
 謙信には実子はいなかったが、養子をもらっていた。景虎と景勝である(他にもいたが、ここでは割愛する)。
 結果を先にいえば、武田勝頼は景勝を支援し、景虎は自刃してしまうのであるが、景虎は北条氏康の第七子であり、元々、北条家は勝頼に景虎の支援を要請し、勝頼もこれに快諾して景勝勢を飯山合戦で撃破し、景虎を援護していたのであるが、後日、上杉景勝が、
「景虎を打倒した暁には、私を武田の被官にさせて下さい。」などと勝頼に通達し、この甘言が勝頼を大いに喜ばせた。年来の宿敵が、家臣になりたいと言ったわけだ。
 また、上杉景勝は勝頼の寵臣で欲の深い跡部大炊助、長坂釣閑に多額の賄賂を贈り、この二人を使って勝頼を説得させている。
史料によれば本当に莫大な贈賄工作がなされたようだが、危急存亡の時なのだ、上杉景勝は金にいとめもつけずに膨大な金銀・財宝をばらまいている。

 こうして、今度は逆に景勝の支援を表明しだした勝頼は、当然、北条家と不和になり、勝頼の周りは敵だらけとなる。
 武田家は、織田方との国境には莫大な防備を強いられ、徳川・北条とは幾度となく戦い、その戦費の徴収の為に良民に苛斂誅求し、国は疲弊し、家臣良民から怨嗟の声が上がるようになる。

 織田信長はこうした事態を冷徹に静観し、武田方の木曽義昌の内通を確認すると、長篠役から実に七年目にしてようやく重い腰を上げた。
 上杉景勝はこの時、勝頼に、
 「織田・徳川・北条が御領内に侵入と聞き及びます。援軍を出しましょうか?」と言っているが、
 勝頼は、
 「無用。」と返書を送っている。

 これは、男の意地であったろう。負けず嫌いで、強がりな人物なのである。

 人の和に誇りを持ち、その団結力に定評のあった武田家であったが、勝頼の代で滅んでしまうのも天命だったのであろうか?

 


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メールアドレス hokenpuro@yahoo.co.jp


【2008/11/21 23:44】 | 未分類
Ⅱ 浅井・朝倉覆滅す

 朝倉義景は堅松寺で自刃し、越前の国を席圏した信長は、浅井征伐のために北近江の虎御前山に凱旋した。
 
十万もの軍勢が浅井家の本城の小谷城に殺到し、その城を厳重に包囲する。
 藤吉郎の手勢は浅井長政の父親(浅井久政)が籠もる京極丸を攻撃したが、藤吉郎が事前に篭絡しておいた浅井方の重臣が内応し、織田勢を城内に招き入れたからたまらない。
城兵はことごとく殲滅され、浅井久政は自害して果てた。

 織田勢は四方八方からひしひしと小谷城に押し寄せ、ついに城内に突入し、浅井長政の拠る一郭に最後の猛攻撃を加える。

 浅井長政は自刃を覚悟し、長男の万福丸、次男の乙若丸を寵臣に委ねて城外への脱出を図らせる。


 ところで、浅井長政の子息である長男の万福丸、そして次男の乙若丸は、妻のお市との子ではない。
 通史では、浅井長政が下女に手をつけて生ませた子であるという。
浅井長政の経歴を詳しく調べると、長政は以前に、六角家の重臣である平井加賀守の娘を妻に迎え入れたことがある。お市とは初婚ではない。
 
 長政の父親の久政が当主の頃は、浅井家は六角勢によって領土を散々に侵略され、ついに屈服を余儀なくされていた。
 久政は六角のご機嫌を取る為に、長政に六角の家臣の娘を押し付けたのだ。
 浅井久政は凡庸な将であり、政治は乱れ、家臣は離反し、浅井家は滅亡寸前であった。
 この事態を憂慮した重臣の赤尾清綱は家老たちと謀議し、久政を追放して琵琶湖に浮かぶ小島に隠居させる。
 そして英邁な息子の長政を立て、新領主を中心に家臣一同が結束し、日々奮戦努力して六角勢を追い払い、ついに浅井家は復興を見たのである。
この経緯は、武田信玄(当時、晴信。)が父親を追放したケースと似ている。
しかしながら後日、誠実な長政は重臣たちを切々と説得し、父親を城に迎え入れている。
父親の帰国を頑として認めなかった信玄とは、実に対称的である。

 浅井長政は六角家との義絶の際に、早急に妻を実家に送り返しているが、この六角家から迎え入れた妻との間にもうけた子供ではなかったかと、私は疑っている。
 だが、六角家と義絶した当時の長政の年齢は十六歳前後と推定されるので、二人の子供を持つにはあまりにも若すぎるので断言はできない。


 さて、浅井長政は妻のお市の方に愛娘三人を託し、城を脱出して信長を頼るようにと説得する。
 お市も戦国の女性だ。
 ともに自害を望みもしたであろうが、娘たちが不憫でならなかったであろう。まだ、あどけない顔の幼女たちであった。
 誠実な長政はめがしらを熱くして頼み込み、お市もまた、ただ泣くばかりであったろう。
はかなくも悲しい夫婦の別れであり、親子の悲痛な断絶であった。

 お市は娘たちと共に城を脱出し、藤吉郎の手勢に委ねられ、信長によって無事に保護された。
 浅井長政は妻子を見送ると身を正し、心静かに自害して果てたのであった。
 
 別の話しとして逸話がある。
お市が泣きながら信長に長政の助命を乞い、不破河内守が使者となって小谷城に入り、得々と長政を説得する。長政はついに心動いたが、側近の者から、
「お父上は、見事に御自害なされましたぞ。」と聞かされて決意がにぶり、その場で自刃して果てたのだという。
 この逸話は非常に信じがたい話しだ。数多くの家臣が離反したとはいえ、浅井家のために忠烈に戦死した家士も大勢いたのだ。浅井長政は恩義に篤い人である。しかも彼は誇り高き武将であった。
数多くの家臣に信頼された人物だ。妻子を信長の元に送り届け、その後、降伏してノコノコと敵陣
に向えるはずがない。
 浅井長政は戦国武将の中でも非常に珍しい、恥じを知る人であった。長政の生涯を通観すると
その性格は清廉潔癖が実によくあてはまる。


 
 ともあれ、ここに浅井家も滅び、信長の覇業はいっきに加速してますます拍車がかかる。

 勲功第一の藤吉郎には旧浅井領のほとんどが与えられ、藤吉郎は二十数万石の大名となった。
琵琶湖付近の今浜の地に居城を構築し、その地名を長浜と改めたのはこの時であった。

 

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【2008/11/19 17:09】 | 未分類
Ⅰ 浅井・朝倉覆滅す

比叡山は猛火に包まれ、武田信玄は病没し、将軍足利義昭は追放され、石山本願寺は恐怖に沈黙した。もはや、信長は畿内周辺を実質的に平定し、総力をあげて浅井・朝倉を攻撃する。



 将軍足利義昭を追放した信長は、義昭と気脈を通じる諸勢力を攻撃して排除した。
すなわち、淀城の岩成友通、芥川城の和田惟政、その他に伊丹城の伊丹親興や池田勝政らを追い払ったのである。
 こうして、畿内を磐石なものにし、ついに近畿での絶対的な優位を確立した信長は、懸案の課題であった浅井・朝倉征伐を断行する。

 天正元年八月、信長は大軍を率いて京都より出撃、北近江と越前との通路を遮断するために大岳の山田村に布陣する。
これにより、浅井・朝倉の連絡通路はたちまち断たれた。
 
 その後、信長は自ら虎御前山にまで軍旗をすすめ、浅井・朝倉の交通路を完全に遮断したのである。
 織田勢の素早い行動に浅井方は動揺し、しきりに朝倉家に援軍の急使を飛ばす。
浅井家の家臣には離反する者も次第に増え、その多くが信長の軍門に下り始めた。

 形勢を不利と見た浅井家の家臣たちは、雪崩れをうって降伏したのだ。家の安泰の為であれば戦国の中小豪族には義理も人情も紙くず同然だ。気にもとめずにポイポイ捨てる。
だが、家の保全上、長いものに巻かれてしまうのも悲しい宿命であったのかもしれない。

 
 さて、浅井家の要請を受けた朝倉方は、二万余りの軍勢を率いて出撃し、やがて北近江の北方にその姿を現した。しかし、朝倉勢は刀禰坂の戦いで難なく蹴散らされ、早くも一乗谷城に向けて敗走してしまう。
 この刀禰坂での朝倉方のだらしのない負けっぷりは、将兵の士気が低すぎたことが敗因となっている。
朝倉家の一族の景鏡、景健、そして重臣の溝江長逸は病と称して出陣を拒否し、これが将兵に動揺を与え、朝倉家の滅亡を予感させて戦意を全く喪失させたのである。

 刀禰坂で大勝した信長は勢いづき、諸将に急追撃を命じる。
藤吉郎を初めとする前田利家、佐々成政らが白兵戦を展開し、逃げ散る敵を掃討していく。
 慌てふためき、必死で遁走する朝倉勢の中で、勇将、山崎吉家の部隊のみが刀禰坂に留まって奮戦し、主の朝倉義景の敗走を助けて織田勢を必死にくい止め、勇戦して頑強に抵抗していた。

しかし、運河の如く押し寄せる織田勢の猛攻は熾烈を極め、たちまち絶望的な血戦となり、山崎吉家は壮烈な戦死を遂げ、その部隊は一兵残らず全滅した。
 刀禰坂での山崎吉家は、まさしく忠義一徹、実に勇敢であった。
朝倉家の諸将のうち、華々しい最期を遂げたのは彼一人だけだったのだ。弱腰で軟弱な朝倉家にも、山崎吉家のような武将もいたのである。

 

 さて、織田勢は敵軍を粉砕し、一乗谷城近くの敦賀に乱入する。

 この時、朝倉一族の景胤、景健が信長に降伏している。全くの意気地なしである。山崎吉家の爪のアカでも煎じて飲ませたいものだ。

 こうして、信長の大軍は迅速に急迫し、朝倉義景は残兵の少ない本城の一乗谷城を放棄し、重臣の溝江長逸の勧める金津砦を選ばずに、一族の朝倉景鏡の勧める大野城を目指して落ち急いだ。
 
 朝倉義景は一族の朝倉景鏡を信用しきっていたのであるが、冷酷非情にも、この時にはすでに景鏡は織田方の稲葉一鉄に篭絡されて内通していたのである。
 稲葉一鉄は景鏡に、
「大殿(信長)は、朝倉義景を殺害して降伏すれば、景鏡殿の本領は安堵するとのこと。よくよくご思案あれ。」と、通告していたのだ。
 佞姦な景鏡は手勢を率いて堅松寺に向かい、安心して無防備でいる主君の義景を重囲し、最後は自害に追い込むのである。

 この朝倉義景の最期は、武田勝頼の最期のそれと良く似ている。
後々の章で詳述するが、勝頼は真田昌幸の進言をしりぞけ、譜代の家臣である小山田信茂を信用し、その勧めに応じた結果、自害に追い込まれている。

 
 戦国時代の非情性であり、酷烈無惨、残酷さである。
 

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【2008/11/15 06:21】 | 未分類
考察14 織田家宿老筆頭 柴田勝家

刀狩り、といえば秀吉を連想するが、諸書によれば柴田勝家がいち早く越中で行なっている。
 越中は一向一揆が非常に盛んであった土地だ。
 勝家は良民から武器を取り上げ、使える物は没収し、使えない物は鋤や鍬に作り変えて無償で民に配布している。
 他に農地開発や産業の奨励など、なかなかの政治手腕の持ち主であり、さすがはハードルの高い織田家の師団長ではある。
 
 柴田勝家は織田家に古くから仕え、後年は宿老の筆頭格にまで成長する。

 勝家はかつて、信長の弟の信行(信勝ともあり)を担ぎ出して信長に反抗した経緯があり、
後年、信長から約定書を突きつけられている。
 その中に、
「今後は、余(信長)に足を向けて就寝してはならない。これを毎晩励行せよ。」
という条文などもあり、この約定書はどの箇所を見ても面白さ満載で興味深い。
あの猛将の勝家が、就寝前に信長の所在する方角を気にしながら寝ていたことを想像すると
とってもおかしいのである。

 柴田勝家は終生信長のため、織田家のために忠実に尽くしている。
 
 こんな逸話がある。
 信長が上洛を果たし、その後、朝倉征伐に失敗した後の出来事。
 信長は浅井長政の叛旗に遭い、朝倉征伐は見事に頓挫したのであるが、その後、畿内の治安は恐ろしく悪くなった。
特に、南近江の六角家が勢いを盛り返し、本願寺と連携して付近の豪族を扇動し、さかんに織田方を攻撃する。柴田勝家の拠る長光寺城も六角方の強襲を受け、急きょのろう城を余儀なくされる。

 六角勢は長光寺城を厳重に包囲して兵糧攻めの構えを見せ、その城の水の手も切った。

 こうして、勝家は長期に渡って頑強に抵抗するが、城兵一同は飲み水に苦労させられる。
一方、六角方は長光寺城内の水の消費量を見計らい、降伏を促す軍使を城内に派遣した。
 暑い夏の日だ。
 軍使は勝家との対面の折り、ものは試しにと飲み水を所望する。すると、大皿になみなみと
注がれた飲み水が出てきたのであった。軍使は不思議に思いながら帰陣し、六角方は、
「さては、城内の敷地に井戸があるのか?」と考え、長期戦を覚悟して油断した。
 
 一方、勝家は、すでに残り三つしかない水甕を持ってこさせ、その水を将兵に思う存分飲ませる
と、「残りの水は必要ない!」と言い、未練残さず三つの水甕を叩き割った。
 そして、勝家以下将兵が一丸となって城門を開いて突出する。
 油断しきっていた六角勢は散々に蹴散らされて敗走したという。これは、「甕割り柴田」で有名
な逸話である。

 
 後年、信長が朝倉家を滅ぼし、柴田勝家に北陸方面の経略を命じる。その後、信長は加賀を平定し、勝家に師団長として北陸方面を統括させ、越中に勢力を張る上杉勢に備えさせた。
 勝家は佐々成政、前田利家、不破河内守らと連携して北陸方面の安定に努めていたが、驚愕すべき凶報が勝家の命運を暗転させる。
 
信長の横死により、勝家は以前の魚津城攻めでの「高いツケ」を払うことになる。
 勝家は信長の弔い合戦を念願し、明智光秀征伐の軍を起こすのであるが、勝家の尻に上杉勢がしきりに噛り付き、諸事に忙殺させられて秀吉に先を越されてしまう。
秀吉に遅れること、わずか三、四日であった。
 上杉勢が怨み骨髄であった理由は、以前の考察「佐々成政」の章で書き記している。
 勝家は上杉方にとんでもないほどの高いツケを払わせられたのであるが、これは自業自得であろう。
 
 その後、勝家は秀吉との賎々岳合戦で敗れた。彼は敗走の途中、前田利家の拠る府中城に立ち寄っている。
 利家は賎々岳の戦いの際、敵前逃亡に近い行動をとり、これが柴田勢の全軍に動揺を与えて総敗軍に追い込んだ契機になっている。利家は前田家の保全上、柴田勝家を見棄てたのだ。
 
 勝家は府中城での利家との対面の折り、全く愚痴を言わず、利家をなじることもなく、
「湯づけを頂きたい。」と、食事を所望し、ゆるゆると食した後、利家としばらく歓談して、
「「かえ馬をご用意願いたい。」と言い、帰り際をみはからって、
「今後は、羽柴を頼りなされ。」と、爽やかに告げて立ち去ったという。
 この勝家の爽快な態度は実に見事である。柴田勝家は男気のある武将であった。


 さて、最後に総評を書いておきたい。
 柴田勝家は政治手腕に優れ、稀代の猛将で、情義に厚い武将であったことは間違いない。
しかし、残念ながら将の将たる器ではない。
 実は、人徳の声望に欠ける立ち振る舞いも多い。魚津城攻めでの事件など、一武将ならいざ知らず、師団長クラスの武将にいたっては言語道断だろう。
道を譲らない者を斬殺したという逸話もある。諸書を丹念に調べると「驕慢」という評価は残念ながら避けがたいのだ。

 人徳の声望のない者は、英雄にはなれない。


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【2008/11/13 21:04】 | 未分類
Ⅴ 第六天魔王の英断

 本論から少々それてしまうが、もう少しおつき合い願いたい。有名な狂歌で、
「織田がこね、羽柴がつきし天下もち、座りしままに食らうは徳川」というのがある。

 天下統一の推移という点で、いかに徳川家康が有利な立場にあったかを伝えるこの狂歌は、
家康の評判を不当におとしめてしまった。秀吉ビイキの感がいなめない狂歌であり、ズルイ狸
じじいの由来でもあろう。

 人は、非業な最期をとげた者に無限の同情を寄せるものであるが、しかし、その反動も非常に
大きい。
ヒイキにされる半官(源義経)に対しては源頼朝が、楠木正成に対して足利尊氏が、三国志では
劉備に対して曹操が、民衆から忌み嫌われるようになり、人気の下がっていくのも自然の発露で
あろうし、不当な評価を受けるのも仕方がないといえる。

 しかし、ヒイキにされない彼らの事跡を丹念に追うと、現実的な実際家としての苦労は想像を
絶するほどであり、驚嘆すべき精神力の持ち主でもあり、温かい人間性も十分すぎるほどに感じ
させてくれる。
 秀吉は歴史の素人に人気が高いが、家康は歴史の玄人にとても好かれると聞いたことがあるが、人物的な評価とは千差万別を常とし、私は一概にそう思わないが、実際家の経営者の方々に家康ファンが多いのも大いにうなずけるところである。

 さて、本論に入る。
 織田信長は足利義昭の追放を決意する。もとより、信長は義昭を殺害する気などサラサラない。
彼の冷徹な判断力がそれを許さないのである。信長はまことに辛抱強い人物なのだ。
 
 しかし、主君思いの藤吉郎は、信長の判断を確認せずにはいられない心境であったろう。
義昭を生かすか殺すかで、信長の値打ちは高騰もすれば大暴落もする非常に重要な分かれ道なのだ。
 戦国の世とはいえ、下克上の世相といえども、主殺しの汚名が世間で支持されるはずがない。

 また、戦国乱離の酷烈な時代背景の中で、人心が荒廃していればなおさら信義心は切望されるところであろう。
 この場面で、心術に優れる藤吉郎の誠実味あふれる進言があってもいいところだ。


 ともあれ、将軍足利義昭は信長から助命され、流浪の人と成り果てて、足利尊氏から始まり十五代続いた室町幕府は事実上滅亡したのである。

 想えば、室町幕府は創業時から非常に脆弱な政権で、これは足利尊氏が温厚で物にこだわらない気質が逆に災いして、諸侯に恩賞をばらまいて非常に広大で強力な守護大名の出現を招いてしまった結果であると云われるが、原因はそれだけではない。
 確かに、尊氏は物欲の少ない人で、権勢欲も非常に希薄であった。
 尊氏の弟、足利直義は雄略の人で、この人が、兄の立て役者となって陰ながら支え続けて政治的な采配をふるっていたのであるが、この時代の前後に荘園制度は大きく崩壊に向かって変質したのだ。 
強力な武装集団と化した領主・寺領が自治権を主張しはじめ、強力な圧力団体となって政治勢力に介入するようになったのである。
 だから、鎌倉幕府はあっけなく滅んだ。後醍醐天皇の建武の親政も大失敗だった。
 実は他にも様々な理由があるのだが、細かく書いては果てしがないのでここでは書かないが、
足利尊氏は、自治権を主張する彼らの要求に応えたからこそ、覇を唱えることができたのである。
 
 彼らの期待に応えるということは、自治権を承認してやり、恩賞をはずんではばらまいて歓心を
買い、彼らの果てしのない欲望を満足させてやるために出来る限り譲歩して、
強欲で強烈な我欲満腹感を満たしてやるためにその要求に応えるということなのである。

 したがって、室町幕府の脆弱性は必然的な宿命であったといえるかもしれない。 
 
 室町時代の世相は、本当に恐ろしく我欲満腹だ。
 領地をめぐる争い、みにくい相続争いなど朝めし前なのだ。女性もその個性を強烈に発揮して
いる。女性がお家騒動に深く関与して暗躍している。継子いじめの話しが一番に多いのもこの時代だ。強烈な母性愛の裏には、容赦のない排他性が潜んでいるからであろう。
 この時代は、人の心性が放埓ともいえるほどにむき出しになっている。

 今の現代は江戸時代に似ているとの風評もあるが、私は室町時代のほうがより似ていると思うが、これは気のせいであろうか。

 
 さて、足利義昭は将軍職を辞したわけではないので、一応、将軍ではある。
 権勢のない、流浪の将軍と成り果てた義昭は後年、西国の毛利家に身を寄せて憤懣の日々を
送り、幕府再興を賭けて謀略話しを練り上げる毎日を過ごし、諸侯に手紙を乱発しては溜飲を
下げる日々を送るのである。

 そして、その義昭が追放された年は1573年、元亀四年のことであったが、この年に年号が
「天正」と改元されている。
 
 改元は天皇の命、すなわち朝廷の役割なのであるが、この改元は覇者たる信長の要望によって実行に移されたのである。
  


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【2008/11/09 08:25】 | 未分類
Ⅳ 第六天魔王の英断
 将軍足利義昭は武田信玄の病没を知り、大いに落胆した。
 打倒信長の策に窮した彼は自暴自棄となり、憤然としながら槙の島城に籠もり、ろう城戦の構えを見せて公然と信長に叛旗したのである。

 まさに将軍のプライドを賭けたろう城であった。

 実は以前にも、義昭が槙の島城に籠もって信長に反抗した経緯があったのだが、その当時は、
信長はまだ頑敵の整理中で、将軍の利用価値も考慮して政略的にこれを許していた。

 しかし、今回は別だ。
 今や頑敵はその勢力を失いつつある。また、室町幕府の権威を凌ぐ実力を発揮しだした信長に
とって、もはや遠慮は無用であった。

 元亀四年(1573年)、信長は軍勢を率いて槙の島城を厳重に包囲した。
 この時、藤吉郎は信長が義昭を殺害することを心配し、信長を得々と諌めたと、史料の名将言行録に記載されている。
 信長公記には、義昭が信長の許しを請い、一命を取りとめた義昭は藤吉郎に警護されて河内に逃れたと記され、藤吉郎の諫言については記述がない。

 私見になるが、藤吉郎は信長を諌めたと思う。
だが、もとより藤吉郎は、信長が義昭を殺害し、自らが将軍殺しの汚名を被って墓穴を掘るようなことはしないと感づいていたはずだ。
 信長は、怒りが激しいと何をするか分からないといったイメージは誤りである。
 常日頃の狂態、宴席での暴言、傍若無人な態度、峻烈な発言や厳命など、数多くの書籍や現代のメディアが信長の個性や態度を強調して、「嗜虐的で冷酷な性格」の信長像を表現している。
確かに、そうであったかもしれない。
しかし、信長の政略的な判断はまさに天才的であり、現状の認識力と先を見通す洞察力は、一流中の一流なのだ。信長が足利義昭を殺害するはずがないのである。
 個人的な性格と資質(才能)とは、分別して考察されるべき問題であろう。

 付け加えると、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の性格を知る上での有名な句で、ホトトギスの句というのがある。信長は「鳴かざれば、殺してしまえ、ホトトギス」秀吉は「鳴かざれば、鳴かせてみよう、ホトトギス」家康は「鳴かざれば、鳴くまで待とう、ホトトギス」とある。

 この句の作者は不詳であり、江戸時代の中期頃の作品という説が有力だ。
 
 この句は現代の今でも実に有名であるが、秀吉、家康についていえば非常によくあてはまるが、信長に関しては全くの見当はずれもいいところで、全然あてはまらない。
 
 信長の冷酷性、短気な性格を表現した句であると云われるが、信長の採用した冷酷的な手段と
彼の人間性とは切り離して考えるべきことなのである。

 また、信長は創業時、尾張統一から上洛を果たすまで苦難の連続であり、辛い現状の中で苦心惨憺して決断を下し、それらを見事に実行している。
非常に困難ではあるが、覇業への意思を貫徹しているのだ。
「鳴かせてみよう」なのである。
 
 そして、足利義昭の暗躍により、金ヶ崎からの徹退では九死に一生の思いをさせられ、
しかもその道中で、本願寺派の杉谷善住坊に鉄砲で狙撃までされている。
 
 それ以後も、義昭は信長に謀略の限りを尽くして策動するのであるが、信長は忍耐の連続の中であるにも関わらず、その政略的な判断に曇りが生じることはなかったのだ。
 
さらに後年のことだが、武田家との長篠の役における設楽々原の戦いで大勝した信長は、武田の攻略には実に七年もの歳月を待ち続け、用心に用心を重ねてから踏み切っている。

 まさしく、「鳴くまで待とう」なのだ。
 



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【2008/11/05 17:54】 | 未分類
Ⅲ 第六天魔王の英断

 比叡山を焼き払った信長は、天魔の所為、仏敵、第六天魔王などと罵倒され、痛烈に誹謗中傷された。確かに、賛美される行いではないし、善行ともいえない。

 しかし八百年来、呪詛や調伏で恐れられ(現代では思い及ばぬほどに、その昔は迷信深い世の中だったのである。)、時の権力者は人心の離反を気にして手がつけられず、また、自治権を主張して大勢力を誇り、勝手放題に振舞う比叡山は消滅させねばならなかった。

 信長は強烈な退治屋であった。秀吉や家康には到底まねのできない峻烈な英断であった。
これにより、本願寺派は戦慄すべき恐怖に鳴りを潜め、民衆は心地よい開放感と安堵感に恵まれ、古い積弊から開放された新しい時代への期待感を持てたことも事実であったろう。


 さて、本願寺を萎縮させた信長は、藤吉郎に浅井・朝倉の切り崩しを命じている。

 すでに浅井・朝倉の覆滅を期する信長であったが、大軍で向かう前に入念な調略を使い、めぼしい中小豪族を味方にする為である。
 藤吉郎は信長の期待によく応え、竹中半兵衛と協力して浅井家の重臣を篭絡して味方につけ、
北近江の諸豪族を宣撫して懐柔策を使い、朝倉家の一族には裏切りの確約まで取りつけた。
 断わっておくが、竹中半兵衛は藤吉郎の家臣ではない。藤吉郎の有力な与力大名なのであり、同僚なのである。

 こうして、浅井・朝倉は日増しに戦力をそぎ落とされていくのであるが、これを横目で眺めて
いた足利義昭は心細くなり、非常に不安になった。
 当時、義昭が最も頼りにしたのは武田信玄であったが、その信玄の軍勢が、どうも行軍がおも
わしくない。
 三方々原での武田勢の大勝は義昭を狂喜乱舞させたが、信玄の軍勢は徳川の野田城を開城させた後、一度は長篠城に退き、再び徳川方の吉田城に出兵したが、しばらくして信州方面に戻ってしまったのである。

 信玄は病気であった。
 彼には持病があり、結核ともガンとも、また、その両方であったともいう。
徳川の野田城を攻囲中の陣中での発病らしいのだが、改正三河後風土記に引く柏崎物語におもしろい逸話がある。

 徳川方の野田城には笛の名人がいて、毎夜に渡って美しい音色が城内外に流れた。
 信玄はその風情のある音色に興味をひかれ、毎晩忍んで城の付近に隠れ潜み、笛の音色に聞き惚れていた。
 しかし、信玄の動静に気づいた徳川方が、ある晩に鉄砲で狙いすまして信玄を狙撃し、それが原因で持病が悪化して発病したという。
 信玄は信州下伊奈の駒場で死んでいる。五十三歳であった。
 当時は乱世であり、経済的にも不安定極まりなく、人心の荒廃も手伝って精神の消耗の激しい時代であった。この時代に医学が相当以上に進歩しているが、不治の病も依然と多く、長生きがとても難しい。

 ここで余談を書くが、この時代にタバコと梅毒が大流行している。ヨーロッパから東南アジアを経由して入り込んだのだ。タバコのほうが上陸は早いのだが、梅毒のほうが国内で大流行して根強く伝播している。喫煙欲よりも本能的な性欲のほうが強いからであろう。
 梅毒に罹患していた疑いのある政治家や大名は数多い。徳川家康を筆頭に、本多正信、黒田孝高、加藤清正、結城秀康など、京都や堺で遊んだ疑いのある者のほとんどが罹患している。
 家康の息子の結城秀康などは、鼻がポロリともげ落ちて、義鼻をつけていたというから相当なものだ。一般の民衆にいたっては、その被害状況については想像に難くないだろう。この新種の病気に対する認識の不足が、流行を早めた原因であったに違いない。

 
 さて、信玄の不可解な行軍に不安を抱いていた足利義昭であったが、彼は相変わらず信長打倒に策動する。
 以前、信長が義昭に提出した十七条の諌書などはことごとく踏みにじり、もとより反省の色など全くない義昭であった。
 信長は入洛して以来、義昭に煮え湯を飲まされ続けてきたのであるが、武田信玄の死を知り、
卒然と決意する。

 足利義昭の追放なくして、覇業を成しえないということを。


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【2008/11/04 06:21】 | 未分類
Ⅱ 第六天魔王の英断

 こうして、織田勢と浅井・朝倉連合軍との睨み合いは長期に渡り、両軍ともにしだいに疲れが見え始めた。
季節は、年末あたりだったというから厳寒の時期だ。琵琶湖の風も強烈にしみる。

 この事態の収拾は、足利義昭が朝廷に働きかけ、朝廷の仲裁によって終息をみている。
 
 信長公記では、朝倉方が義昭に嘆願して働きかけたといい、浅井三代記には、信長が義昭に依頼したと言いたげに記されている。
 浅井三代記は史料的な評価があまり良くないが、これは浅井三代記のほうが信用できる。
 この和睦で大助かりだったのは信長のほうであったはずだからだ。その理由は前述した信長の足元の状態を考えてみれば明白であろう。
 もしかしたら、信長が明智光秀に命じて足利義昭を説得させ、朝廷による仲裁を依頼させたのかもしれない。それぐらい、信長は危機的な状況に追い込まれていたのである。
 大久保彦左衛門の三河物語には、信長が、
「天下は朝倉殿がもちたまえ。我に望みなし。」と言って引き上げたとまで書いてあるのだ。
こちらは当時の風評を鵜呑みにした記述のようで信じがたいが、このような噂がたつほどに信長は窮地にたたされていたのである。

 さて、とにかくこうして和睦が成立し、浅井・朝倉は帰国するのであるが、信長は絶対主義の信奉者であり、彼の目的は政治権力の集中である。
 信長にとって浅井・朝倉はどこまでも政敵なのであり、近い将来の滅ぼすべき標的であった。
 
 また、信長は政教分離の信奉者でもある。僧徒が政治勢力に介入するどころか政敵に肩入れをすることなど言語道断なのである。
 何度となく使者を送って勧告すれども全くのダンマリを決め込み、忠告を無視して政敵に援助を惜しまず支援し、決果的に浅井・朝倉に味方した比叡山を、信長が許せるはずがない。

 
 元亀二年(1571年)信長はにわかに比叡山をひしひしと重囲する。
 はたして、問答無用とばかりに焼き討ちを決行、僧兵と戦いながら山上を目指し、堂舎僧坊をことごとく焼き尽くし、僧徒の多くを殺戮したのであった。
 この時、藤吉郎は山門の一門を開いて僧侶を少し逃がしてやっている。国宝級の仏像などを抱え持ちながら逃げ出した僧徒が何人もいて、大火から貴重な国の財産が守られたのであるが、
信長は軍律に非常に厳しいのだ、藤吉郎は少々のことでは信長は怒らないと思ったのかもしれないが、一歩間違えると簡単に首が吹っ飛ぶのだ。藤吉郎の横着なしぶとさである。
 また、これは「藤吉郎の横着さ」などではなくて、実は藤吉郎は戦闘員(僧兵)と非戦闘員(僧徒)の区別を意識していて、もしかしたら信長の厳命は僧兵の殲滅であって、僧徒の殺戮に関してはあずかり知らぬことであったのかもしれない。

 ここで私見を書くが、史料によれば、織田勢は僧兵も僧徒も徹底的に殺戮しているのであるが、戦闘の最中に戦闘員と非戦闘員を区別して戦うことは至難の業だ。
 
 私の祖父は戦時中、関東軍に所属して中国大陸で中国軍・ロシア軍と戦い、戦後は無事に帰還して、祖父が幼少の頃の私を膝に抱いて聞かせてくれたことだが、中国軍の「便衣隊(便衣兵)」には本当に苦労したという。
 近代戦になるとハーグ条約、ジュネーブ協定などで非戦闘員の殺戮は厳禁とされ、兵士は階級章のある軍服を着用して一般の市民と区別した服装で戦うことを義務付けられたのであるが、
便衣隊は、戦闘員が一般市民の服装でゲリラ戦術を挑んでくるので甚大な被害を被り、大切な部下の多くが戦死したと、祖父がめがしらを熱くして話していたことを思い出した。
 アメリカ軍による東京大空襲、原爆の投下など、戦闘員も非戦闘員も全然関係なく殺戮しているだから、これも明らかに条約・協定違反なのだが、戦勝国側の罪は常にうやむやにされ、敗戦国は常に戦犯として断罪され続ける。残念ながら、これはいつの時代でも同じである。

 さて、比叡山の堕落ぶりについては、以前の考察で詳述しているので書かないが、比叡山は人心信仰の的であり、古今の英雄たちは人心を失うことを恐れて手をつけず、朝廷も権力の介入を不可抗力視した、法権を確立して自治権を有する一大勢力であった。僧兵という強力な武装集団もあったのだからなおさらである。
 僧兵が単なる「武装したお坊さん」ではなかったことは以前に詳述している。藤原摂関家の荘園制度が武士の起源のはじまりであり、僧兵も同じなのである。思い出していただきたい。


 反対派に仏敵、第六天魔王と罵倒された信長であったが、この峻烈な英断なしに、シコリと化した旧時代の積弊は容易に滅びないのだ。



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【2008/11/03 07:27】 | 未分類
不如帰 ~戦国武将の幻影~


Ⅰ<覇王編>~逆賊 織田信長を討て!~  Ⅱ<争覇編>~織田家簒奪!秀吉の野望~

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