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Ⅳ 天下布武


 さて、こうして秀吉の中国戦線もまことに順調であり、信長は順風満帆の年を迎えることができたのである。
 付け加えるとこの天正九年に、信長は安土城下に神学校(セミナリオ)を開校している。イエズス会の宣教師たちが熱心に教育に従事し、信長も彼らの教義に耳を傾けたという。

 信長は観念的な宗教にはとても寛容で、政治権力に介入しない宗派にはまことに寛大であった。
 
 当時の日本の宗教界は政治勢力と強く結びつき、汚職まみれ、偽善まみれの巣窟だった。
 信長はまやかしが大嫌いな人物だ。彼は物事を懐疑的にとらえる徹底した合理主義者であった。
 来日した宣教師たちの多くが、その人格は高潔にして清貧、知識も非常に豊富であり、信長が彼らを歓迎して保護したことは十分にうなずける話しである。

 信長は以前、京に上洛した際に、松永久秀が発令したバテレン追放令を撤廃している。
 これは、熱心なキリスト教徒の高山右近の進言によって実現したのであるが、信長は実際に宣教師たちに会い、彼らの虚実を確かめている。
近世的な直感に優れる彼のことだ、大いに歓迎したにちがいない。ちなみに、宣教師の日本報告集の中に、「信長は世界地図を見て、地球が丸いことを即座に理解したので、我々はひじょうに驚かされた。」と記されている。信長は柔軟な思考力をもつ逸材の人物であったことが良く分かる。
 
 中世という時代は世界中のどの国々も固定観念、特に宗教色の非常に強い時期であった。
十五世紀ごろの世界は、スペイン・ポルトガルが異教徒征伐の名のもとに略奪と殺戮を繰り広げて諸外国を侵略し、イスラム教の国々との戦争に明け暮れ、アフリカで奴隷狩りをしては植民地で強制労働を強いていた時代である。
スペイン・ポルトガルはローマ法王庁の許可を得て、北大西洋と南大西洋の間に境界線をひいて地球上を分割して支配するトルデシリャス条約を結んでいたというから恐れ入る。

 現代の日本人は信仰心が薄いようであるが、鎌倉時代の宗教の隆盛、戦国時代の一向衆門徒の強烈な信仰心、キリスト教信者のキリシタン殉教などを想えば、元々は日本人も信仰心を強くもっていたのではないだろうか。
しかし、信教の自由を認められた現代でさえ、キリスト教信者が人口の10%も満たないところを見ると、日本人には一神教がなじまないのであろう。一神教は排他性が非常に強いことも日本人の文化になじまない原因の一つであるかもしれない。





 さて、天正十年(1582年)三月、信長は実に七年もの歳月を待ち続け、ようやく重い腰を上げ
た。
 念願の武田征伐に踏み切ったのである。

 武田家は隣国との戦争に明け暮れ、国は疲弊し、家臣良民から怨嗟の声が上がるほどになっていた。
 勝頼は、むやみやたらに関所を設けて税を絞り上げ、良民には様々な重税を課して苛斂誅求する。
全ては果てしない戦争の軍資金を調達するためであった。武田の金山は実に有名であるが、この頃には掘り尽くされて産出量が激減している。
 
 そして、勝頼は何かといえば武力にうったえてやたらと戦争を繰り返すのだが、奪い取る領地が少ないので家臣たちへの恩賞も満足に与えられない。必然、離反する者たちが続出し、ついに武田一門である木曽義昌も離反して、隠密裏に信長に内通を求めてきた。

 ところで、木曽氏は元来、武田家の被官ではない。その祖先は平安時代末期に源頼朝と覇権を競い合った木曽義仲であり、家柄は大変に良い。
 武田信玄の頃は、木曽氏は丁重にもてなされて一門衆並の扱いであったのだが、勝頼の代になると常に軍役ばかりを押しつけられ、勝頼は強圧的な態度に出るし、出兵しても恩賞はまことに微小だ。
「そろそろ武田も見切り時、とりたてて、さしたる恩を受けたわけでもあるまい。」といった感じで離反したのであろう。

 武田勝頼は木曽氏の離反に激怒し、すぐさま軍勢を差し向けるのであるが、織田・徳川連合軍が怒涛の進撃を開始、武田領内はたちまち大混乱に陥る。
 城を放棄して逃げ出す城主、無気力に逃走していく兵士、早くも降伏する将兵たち、武田領はあっというまに国を挙げての壊乱状態となった。
 武田一族の穴山梅雪などはまっさきに寝返って降伏し、敵軍の先導役まで務めて徳川家の歓心を買っている。

 しかし、武田勝頼の弟の仁科信盛だけは高遠城に籠もり、最期まで頑強に抵抗している。
 信長公記、甲乱記によれば、武将の仁科信盛は再三再四の降伏勧告をはねつけ、一族郎党、女子供にいたるまで武器を手に取って戦える者はすべて壮烈に奮戦し、全滅するまで戦い抜いている。敵兵に惨殺されるのを不憫に思い、自ら我が子を刺し殺し、すぐさま壮絶に敵中に突入して戦死した者もいるぐらいなのだ。まさに悲壮、凄惨にして無残な戦いであった。


 そして、勝頼は一族の武田信豊、武田信綱、武田上野介らにまで裏切られ、約二万はあった軍勢がわずか三千あまりになってしまった。土壇場になって裏切られたのだ。

 さらに、織田・徳川連合軍の追撃は厳しく、勝頼は敗走を重ねた末に、ついに天目山付近で最期を迎えるのであった。


 新羅三郎源義光以来の名門、武田家はこうして滅亡したのである。
勝頼をはじめ、織田一族の血筋でもある武田家当主の信勝(勝頼の息子)も自刃し、一族郎党四十人あまりが厳寒の山間部の雪中で自害して果てたのである。

 
 

 諏訪湖の湖底深くに永眠する武田信玄は、どのような気持ちでこの結末を眺めていたろう。

 
 信玄の隆盛期を想えばとても考えも及ばない、悲惨極まりない武田家の最期であり、
 人心の頼りにならないことを、改めて痛感させられる。

 人の和に誇りをもっていた武田家であっただけに、やりきれない虚脱感を覚えてしまうのである。


 
著者HP http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/
メールアドレス hokenpuro@yahoo.co.jp
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【2008/12/31 10:05】 | 未分類
Ⅲ 天下布武

 さすがの猛将吉川経家も、この事態に仰天した。
 鳥取城の重臣たちは、
「ご心配は無用でござる、もうすぐ刈り入れの時期、新米は近いうちに手に入ります。」と、悠長に構えてのん気なことを言っているのだ。

 吉川経家は毛利家から派遣された武将だ、秀吉の戦法であれば十分に熟知している。
すぐに本家の毛利に急使を飛ばして兵糧の輸送を依頼するのであるが、秀吉は事前に輸送路を遮断していたから邪魔をして通さない。

 さらに、織田勢は鳥取城付近の民家を放火しては暴れまわり、住民の多くに恐怖心を与えて城内に逃げ込ませた。これは、鳥取城の備蓄米の消費量を増やすためであった。

 そして、秀吉はここに未曾有の規模を誇る兵糧攻めをはじめるのだ。
 
 信長公記によれば、その塹壕の規模、柵の大きさと数、櫓の高さと規模の大きさは前代未聞、雄大にして壮大であり、古今東西の英雄たちも遠く及ばないほどの遠大な作戦であった。
 後日、秀吉は備中高松城を壮大なスケールで水攻めを断行するのであるが、このような雄大な攻城戦を展開した武将は、日本国内では秀吉以外に見あたらない。
 秀吉がもし、大陸で風雲にめぐり合っていたら、もっと途方もない大きな人物に成長していたであろう。残念ながら秀吉にとって日本は小さすぎたのである。

 
 さて、こうした水も洩らさぬ完全な重囲を受けて、鳥取城はたちまち食糧難に陥り凄惨を極めた。
 信長公記の記述によれば、草木の根っこを食べ、馬や犬を屠殺して食べ尽くし、とうとう食料に窮した城兵と住民が柵にしがみつき、
「たのむから、出してくれ!」と絶叫しながら柵をこわそうとするので、織田方が鉄砲で撃ち殺すと、その死体に大勢の人間が集まり群がり、その死肉を削いで奪い合ったという。
特に頭部の肉が美味いとみえて、先を争って頭の肉を奪い合ったとある。まさに阿修羅地獄のごとき凄惨さ、惨烈極まる話しだ。

 総大将の吉川経家はこの惨状に心痛し、ついに秀吉の降伏勧告を受け入れる。
そして、吉川経家は城兵の命と引きかえに切腹するのであるが、山名豊国を追い出した旧臣たちも自ら後を追い、ともに自刃して果てている。主君を見限った叛臣たちとはいえ、節義に殉じる最期は立派であったといえよう。

 一方、秀吉は約束通りに城兵や良民を救出して、大釜まで用意して食料を与えたのであるが、
吉田物語によれば、一度に大食した者たちは、すべてその日のうちに死んだという。


 ところで、毛利家の吉川元春が五千の軍勢を率いて鳥取城の救援に向かっていたが、時すでに遅しであった。
 毛利の吉川元春といえば猛将で名高い人だ。元春は寡兵ながら一戦を決意し、橋を切り落として後方の退路を自ら断ち、羽柴勢約三万との決戦を期して対陣に臨んだ。
 古代中国の前漢の名将、韓信は、趙軍との決戦で背水の陣を用いて快勝したが、窮鼠猫をかむの諺どおり、窮地に追い込まれた兵士は生存を賭けて死にもの狂いで戦う。人間の生存本能は死地に遭遇すると奇跡的な力を発輝する。いわゆる火事場のばか力のことである。
 ちなみに韓信は、敵の趙軍に謀略がないことを知っていたので背水の陣を用いたのである。
寡兵であるといえども、死力を賭けて戦えば必ず勝てるとの勝算があったから背水の陣を用いたのである。
 現代の企業戦士や独立起業家がむやみやたらに背水の陣をしいて火事場のばか力に頼り、いつのまにか消えていくのはやりきれない。孫子の兵法にいう「汝を知り、己を知れば、百戦危うからず」が根本にあり、その上で勝算を立てて背水の陣を用いれば韓信と同じ結果が得られるであろう。

 
 さて、こうして吉川元春が背水の陣を用いて決戦を期していたのだが、秀吉は敵軍の六倍を上回る軍勢を率いていながら接戦を避けて後退している。

吉川元春の武勇を警戒したのかもしれないし、
「勝ってあたり前、負けたら大損だ。」と思っていたのかもしれない。
 
 秀吉の中国経略はまだまだ先が長いのだ。
 
 保有する戦力は食糧や水と同様、非常に貴重であったろう。


 
著者HP http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/
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【2008/12/28 07:24】 | 未分類
Ⅱ 天下布武

 古来より、英雄たちの多くが天皇や朝廷の権威、若しくはカリスマを背景にして野望を成就してきた。あくまでも朝廷の枠内のことであり、実際上の権勢は別にして、天皇が最上位であり、朝廷そのものが権威の象徴であった。
藤原氏しかり、平清盛しかり、源頼朝しかり、鎌倉北条家しかり、足利義満しかり、室町幕府しかり、枚挙にいとまがない。

 だが、織田信長は官位を返上し、朝廷の枠内から逸脱し、独力での全国制覇に乗り出している。信長は、己自身を権威の象徴とする政権構想を持っていたのではないかと、私は今でも思うのである。

 信長は天正八年(1580年)に前後十一年にも渡って根強く頑強に抵抗し続けた本願寺を屈服させ、近畿での支配権を完全に磐石なものにし、播州の別所長治が秀吉の兵糧攻めの前に滅亡して播磨を平定した後に、織田家内部での大々的なリストラに着手している。

 宿老格の佐久間信盛、林秀貞をはじめ、安藤伊賀守、丹羽右近などの織田家の名だたる武将たちがクビにされた。
その結果、佐久間信盛は餓死したと云われているし、その他の者たちの余生もあまり良いものとはいえない。
 突然の解雇劇に遭った彼らは、能力がないから放逐されたというよりも、信長の新しい政権構想に向けた構造改革の犠牲者ではなかったかと私は考えている。織田家は限りなく大膨張し続けているわけで、現代風にいえば「社員募集」を大々的に打ち出している最中なのだ。
 単に能力の是非を問うならば、クビにせずとも配置替えでこと足りる。
 信長の人使いと適材適所の使い分けは実に見事なのだ。能力が無いならば、無いなりに使うはずであろう。
 クビにされた彼らは、信長の構想する新政権にとって何らかの弊害であったのではないかと私は疑っている。



 さて、私見はこれくらいにして話しを進める。
 
 天正九年(1581年)信長は朝廷御所の東門近くにある馬場で、馬揃え(観兵式)を挙行した。
 
 以前の考察の章で書いておいたが、織田家の有力武将である柴田勝家をはじめ、信長の嫡男の信忠、丹羽長秀、明智光秀、佐々成政、前田利家などが参加しての派手な観兵式を決行したのである。
 公家衆では近衛前久、鳥丸光宣なども参加している。
 しかし、天皇の御気持ちを考えた場合、随分と複雑な心境であったに違いない。信長は無位無官を宣言して華やかなパレードを挙行しているのであるから、朝廷サイドとしては疑心もあれば恐怖すら感じていたかもしれない。

 信長の真意をはかりかねるこの事態は洛中洛外の人々を驚喜させて、大盛況のうちに幕を閉じている。
 ちなみにこの時、織田家の北陸勢の有力武将たちの留守を突き、上杉景勝が越中に侵攻している。
 北陸方面の師団長である柴田勝家をはじめ、佐々、前田らが大急ぎで帰国の途につくのであるが、信長はこのような危険な事態に陥ることを覚悟の上で馬揃えを挙行したのだ。

 一説に、信長は朝廷に軍事力を見せつけ、無言の圧力を加えて天皇に譲位を迫ったのだという見解もあるが、諸書によれば、確かに時の正親町天皇と信長はしっくりといっていない感がある。
 信長が都合の良い皇子を即位させて天皇家を牛耳ろうとしたのか、それとも足利義満のように自ら本気で天皇になろうとしたのか、信長の真意は本当に測り難い。


 
 さて、そしてこの年、秀吉は素早くも取鳥城を攻囲している。播州の三木城と同じく、撤底した兵糧攻めであった。

 そもそもこの取鳥城の城主は山名氏の山名豊国であったのだが、この人物は非常に優柔不断にすぎて、ある時は毛利に帰属し、あるいは尼子に、次はまたまた毛利で、その次は織田と、あまりの節度のなさに家臣たちから、
「うちの殿は、いったい、どうなってんだ?」と言わんばかりに愛想をつかされ、とうとう出し抜けに取鳥城を追い出されてしまう。
そして、取鳥城には毛利方の吉川経家が総大将として招かれ、織田勢の攻勢に備えていたのである。

 秀吉は知略家だ。
 その身は播磨の姫路城にありながら事前準備に余念がなく、あらかじめ取鳥城近辺の米を高値で買い占めていた。大軍を率いて向かう前に兵糧攻めの下準備をしていたわけだ。

 そんなことは露知らぬ取鳥城は、米が高値でバンバン売れるので気前良く備蓄米を売り払い、とうとう三ヶ月分の兵糧だけを残して全て売り払ってしまったのだ。


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【2008/12/27 18:11】 | 未分類
Ⅰ 天下布武


 天正七年(1579年)は実に目まぐるしい年であった。

 家康の惨劇については前述したので書かないが、その他を挙げるとすれば、越後の上杉家の当主に上杉景勝が就いたことであろう。

 上杉謙信は生前、毘沙門天の神前で、
「戦場において不覚をとらないように御守護ください。そのかわり、私は生涯、女性を側に置かず、不犯を通します。」とまで祈念した闘神の権化のような人物であった。
まさに、戦うことだけに生きがいを感じた人であった。ゆえに、謙信は独身を貫き通したので実子がいない。

 養子をもらっていた。謙信の甥にあたる景勝と、北条家の北条氏政の弟である景虎だ(他にもいたが、ここでは割愛する)。
 上杉謙信は生前、景虎をかわいがって寵愛したようである。
 こうして、景勝と景虎が家督争いを始めると、景虎の方がなかなか優勢であった。謙信が生前に景虎を寵愛したことや、景虎のバックに強大な北条家がいた為、景虎を支持する派閥が大きく形成されており、北条氏政も武田勝頼に景虎の支援を要請していたのである。
北条家としては、上州方面からの越後への出撃は非常に難儀で骨が折れるので、武田家に依頼して信州口からの派兵を約束させたのだ。

 勝頼率いる武田勢が景虎を支援したことにより、景勝はたちまち窮地に陥る。

 しかし、景勝はあらゆる手段(主に贈賄だ。以前の考察で少し書いた。)を尽くして武田家を逆に味方につけ、うまい具合に武田との同盟にまでこぎつける。
これにより、景虎は次第にその勢力を失い、最期は追い詰められて自刃して果てた。
 
この顛末に憤激したのは北条家だ。
 いつのまにか武田には約束を踏みにじられ、その結果、北条家の一族である景虎は自害したのだ。
 こうして、関東は麻のごとく乱れ、武田家は北条や徳川と戦い、上杉家は北条との争奪戦に明け暮れ、関東の諸大名はその戦力をしだいに消耗していくのである。

 
 その反面、信長はその勢力を着々と大きく肥大させていた。

 この天正七年という年は、摂津有岡城主の荒木村重が謀叛した(以前の考察で詳述している。)年でもあるが、明智光秀は丹波を平定し、秀吉の中国地方の経略も順調に進んでいる。播磨のほとんどは経略済みで、あとは一年以上も攻囲する三木城の別所長治を滅ぼせば、播州の平定もようやく終わる。
 播磨の別所長治は以前、織田家に帰服していたのであるが、毛利家に篭絡されて叛旗した(この天正七年に竹中半兵衛は京都での病気療養の末、病をおして三木城攻囲中の陣中に戻り、病没)。 

 また、秀吉は毛利家の有力な属国で、岡山城主の宇喜多直家に黒田官兵衛を派遣して説得させ、見事に調略に成功して味方にすることができた。
これは、毛利家にとって大珍事の大打撃であり、戦闘によらずに中国地方に大きな風穴をあけることになる大軍功であった。
 ちなみに、宇喜多家が秀吉に篭絡されて織田家に帰服を申し込んできた際に、信長は、
「あのハゲネズミめ!宇喜多は力で切り取れと申し含めたはずじゃ、余計なことをしおる!」と、喜ぶどころか激怒したという。
 外交による大戦果とはいえ、信長がいかに独断先行を嫌っていたかが良くわかる。

 そして、北陸方面の加賀では、師団長の柴田勝家が奮闘努力し、順調に一向一揆を掃討していた。
国人衆・国侍を挙げての一揆勢は頑強に抵抗していたが、加賀の平定も間近であった。




 さて、信長は天下布武の実現に向けて邁進し、まさに破竹の進撃を続ける織田軍団であったが、従二位右大臣の信長は、天正六年に朝廷から正二位賜っている。これは天正六年の一月のことである。
 しかし、信長はその年の四月には正二位、右大臣ともに朝廷に返上しているのだ。

 したがってこの時点での信長は、建前はともかくとして事実上、無位無官なのである。

 
 朝廷の枠内を飛び越えた信長は、今や独力での全国制覇に乗り出していた。信長の保持する軍事力、そしてその権勢は、彼自身の権威の象徴として日本国に君臨していたのである。

 

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【2008/12/27 10:28】 | 未分類
考察18 覇者の必要悪


 織田信長は猜疑心が非常に強いことで有名であるが、しかしこれは信長に限ったことではない。
古今東西の英雄たちは必ずと言っていいほどに、猜疑心のとりこになっている。

 あの寛大な仁君で有名な漢の創業者である劉邦でさえ、該下で項羽を滅ぼして楚国を壊滅させた後に、猜疑心によって国士無双と謳われた韓信を誘殺し、鯨布は旧楚領の六(りく)において滅ぼされている。
 
 秀吉は謀将の黒田官兵衛を遠ざけ、功労のわりには十二万石しか与えていない。これも猜疑心による警戒のためである。
 
 後年、関白職を譲られた秀次は、あらぬ嫌疑をかけられて最期は自刃している。
秀次は殺生関白とあだ名されているが、信用のおける史料には切腹させなければならない程の理由が見あたらない。諸書を読んでも風説のような殺生の数々があるだけである。
 おそらく秀次は、秀頼を担ぐ一派(主に石田三成だろう。)との派閥抗争に負け、事実無根の嫌疑をかけられ、秀吉の猜疑心も手伝って自害に追い込まれたのであろう。

 徳川家康も関が原役での功臣たちを潰しにかけている。
 旧豊臣系の大名家で、関が原役において家康に加担した大名が数多くいたが、その戦後、嫌疑をかけられて憂き目に遭った大名も多い。彼らの協力なしに家康の天下はなかったわけで、これも猜疑心による功臣潰しであった。

 しかし、覇者の側から考えれば、覇業途上での家臣の謀叛は非常にタチが悪い。

信用して任せている、保持する戦力の大切な一部を根こそぎ奪われて、戦略の変更を余儀なくされてしまう。時にはとんでもないほどの致命傷にもなるのだ。
 疑いたくはないが、疑わないと倒されてしまう厳しい時代背景があったのである。覇者にとって猜疑心は必要悪であったろう。

 織田信長は、徳川家康に妻子の処刑を命じている。武田家との通謀がその理由であった。
 
 当時、武田家は勝頼の代であるが、織田・徳川連合軍が長篠の役で大勝したとはいえ、信長にとって侮りがたい敵であることに変わりはない。波乱に満ちた緊迫する情勢の中で、信長が徳川家に対して猜疑心を持つのも仕方がないといえる。
 しかも、徳川の宿老格の酒井忠次は、信長の嫌疑十二条のうち十を認めたのだ。
 信長としては、災いの根を絶つために、謀叛に対する見せしめの意味を込めて、撤底した処断を下さないと安心できないのである。
一説には、信長が徳川家の嫡男である信康の勇猛さを恐れて、これを機会に謀殺したとの見解もあるが、到底信じるわけにはいかない。
織田信長は天性の大器である。

 
 ところで、秀吉は主君の猜疑心をとても上手にかわしている。仕事があまりにも上手に出来すぎると、信長が妬むことも十分に熟知していたのである。秀吉はまさしく、心術の天才であった。
 淡路を平定し、播州を経略し、取鳥城を兵糧攻めにして、まさに向かうところ敵なしの破竹の進撃を続けている途上、秀吉は急いで安土に戻って信長のご機嫌をとっている。

その際、秀吉から信長に贈られる進物の数々の行列は、途方もない長蛇の行列となり、安土城の天守から眺めると、その行列は安土城から山のふもとに霞んで見えるほどに続々と続いて見えたという。
少々講談臭い逸話からの引用であるが、しかしこうまでされては悪い気はしない。

 また、毛利方の備中高松城を水攻めにした際、本当のところ、緊急の援軍は必要ないのであるが、信長に箸を取らせるために救援を要請している。秀吉の猜疑心をかわす細かい気配りは天下一品といえる。

 

 ところで、秀吉の細かい気配りを陽とすれば、家康のそれは陰であろう。

 家康は陰ながら少しずつ、コツコツと気配りを見せる努力型であった。

 あまり目立たないが、しっかりと地についた、篤い信頼を勝ち得る人物であった。
 


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【2008/12/25 01:06】 | 未分類
Ⅵ 家康を襲う悲劇


 ところで、信康が二俣城に幽閉されている頃、陰謀の張本人であった築山殿は、遠州の敷智郡に移され、そこの昌塚で斬られた。彼女の遺骸は浜松の西来寺に葬られたという。

 主命を忠実に果たし、帰城してその報告をする野中重政に対して家康は、
「尼にでもして、逃がしてやればよいものを。」と嘆き、嘆息したという。
 家康の立場上、逃がせとは言えない。家臣たちにうまく取り計らってもらいたかった。驕慢でしっと心の強い女性であったとはいえ、深く愛し合った頃もあったのだ。家康は胸の痛みを感じずにはいられない心境であったろう。

 そして、その数日の後、信康の元に検死役として服部半蔵正成、天方山城守通綱が到着する。
 
 信康は悪びれたところなく粛々とし、ただ、言葉静かに、
「武田に一味の件は、冤罪であると御父上に申し上げてくれい。」とだけ言い残し、礼儀を正すと見事に割腹した。
 
 しばらくして、信康は苦しみながら、
「半蔵、なじみのそちに介錯を。」と息をもらして言うが、服部半蔵はその場で泣き崩れて号泣し、起き上がることができない。
 これを見る天方山城守が、代わりに刀を振り下ろし、信康を最期の苦しみから救うのであった。
 
実に厳粛な最期であった。享年二十一才。

 
 検死役の二人は帰城して、家康の前に舞い戻り、頭を下げて平伏し、何度も復命だけを涙声で伝えて、その膝にはひたすら涙がこぼれ落ちていく。
 家康は無言のままであったが、その場に居合わせた本多忠勝、榊原康政をはじめとする一座は静かに退室して、次の間に入ると涙をぬぐい、座り込んで号泣するのであった。

 
 徳川家康はその生涯を通じて人をなるべく殺さないように努めた人であるが、これは、肉親との別れがあまりにも凄惨にすぎたからであろう。家康は多感な幼少期から肉親とは不幸の連続であった。家康の悲哀に沈んだ前半生は、察するに余りある。 





 さて、ここで逸話を少し御紹介する。

 酒井忠次が老年の頃に、自分の息子のことで家康に願いごとをしに行った。
 すると、家康はけげんそうに、
 「そちも、子はいとおしく思うのか。」と言った。
 忠次は全身汗まみれとなり、ただ平伏するばかりであったという。

次の逸話も、かなり後年になってからの出来事。
 家康が家臣たちと幸若舞いを観賞した折り、満仲の曲の場面となり、満仲が自分の息子である美女丸の殺害を仲光に命じるのであるが、仲光は主君である満仲の心境を察し、わが子の首を斬り、その首を美女丸の身代わりにして満仲に差し出す場面になると、家康は同席する酒井忠次と大久保忠世をかえり見て、
「おおっ、二人ともあれを見よ!あれをどう思うぞ。」と言い、二人をじいっと見つめた。
 二人とも身を震わせて、顔を上げられなかったという。

 
 次は、関が原役の場面でのこと。

 東軍の諸将が続々と関が原に集結し、勝山に軍旗を進めた家康は、
「やれやれ、年老いた身には、ずいぶんとこたえるわい。せがれがいれば、このような苦労もいらないだろうに。」ともらすように言い、嘆息した。
 これを聞いた側近の者が、「秀忠様なら、間もなくこちらに参られましょう。」と言うと、
家康は急に不機嫌になり、「その息子ではないわ!」と言った後、嘆息して肩を落としたという。
 家康の脳裏には、かつての信康の勇姿が、はっきりと見えていたのであろう。


 肉親の情愛に恵まれなかった家康であるが、子宝には恵まれた。男子十一人、女子は五人だ。
しかし、家康は秀吉に押し付けられた旭姫以外、正室は二度と置かなかった。
 側室は多くいたが、身分はかなり低いようである。滅んだ大名の家臣の娘、神主の娘、百姓の後家さんまでいる。
 家康は、身分の高い女性には、もう、こりごりだったのだろう。
 家康らしい、実用一点張り主義もそうだが、両親との悲しい別れを経験し、そして、今回の妻子を失うという惨劇から、家康は無類の用心深さを身につけ、同じ過ちを二度と犯すまいとするようになったのであろう。
 
 
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【2008/12/22 08:05】 | 未分類
Ⅴ 家康を襲う悲劇


 徳川信康は勇将であり、情義に厚い人物であったことは前述の通り、容易に推察できる。
だが、粗暴な振る舞いの多い人でもあった。これも前述してある。

 老臣たちは信康の性質が暴虐であると決めつけ、何かにつけてツケツケと信康に対して注意もしたであろう。
 しかし、信康はまだ二十歳前後の自信と活気に満ちあふれる青年武将なのだ。おそらくは口うるさい老臣たちを煙ったいものとして扱ったに違いない。
 改正三河後風土記には、信康は宿老の酒井忠次、大久保忠世と反目していたとある。

 老臣たちからすれば、自分たちの意見は無視され、冷遇され、嫡男は狂暴とあっては幸先が非常に不安だ。
 父親の家康としては、息子の狂態や常軌を逸した行動にだけ目を奪われず、信康の情愛の深さ、武勇の頼もしさを知り、息子の将来の姿に期待して気長に待っていたのであろう。
これは「大うつけ」を息子に持った織田信秀の心情にそっくりだ。
 ところが、老臣たちから見たら、まことに危なっかしい嫡男であったろう。この点、織田信長の若い頃にとても良く似ている。

 また、酒井忠次が信長に対して何一つ弁解をしなかった理由として、信康は嫡男にふさわしくないので、これを機会に信康を除こうと謀ったからであると改正三河後風土記には言いたげに書いてある。忠次は主君の嫡男を見殺しにした非情の人であるとも記されている。

 しかし、私の見解は違う。私は酒井忠次の性格を重視したいのだ。
 酒井忠次は御家第一主義者である。家の存続の前に、人情はいとも簡単に切り捨てる人だ。
 以前に、松平が織田家と同盟を結ぶ際、酒井忠次はまっさきに賛成している。大勢の人質たちが駿河の今川領におり、この決断は人質たちを棄て殺しにすることを意味する。
実際、家康の妻子を除き、人質のほとんど全部が殺されたのだ。家康の妻子が助かったのは、重臣の石川数正の働きがあり、家康の妻子は今川家の血筋でもあり、今川氏真のボンクラぶりも手伝って、それらが幸いしたにすぎない。

 酒井忠次が何一つ弁解をしなかったのは、弁解が嘘とばれた時のことを用心してのことであろう。

 時は冷酷非情な戦国時代なのだ。信長は今や天下無敵の大実力者であり、いくら徳川家の盟主といえども油断は禁物だ。信長は反覆常なきにもれず、以前に浅井家との誓紙をいとも簡単に反古にし、結果的に浅井家は滅んでいる。信長がその気になれば、徳川家はたちまち吹っ飛ぶのだ。

 しかも、徳川家の嫡男が仇敵である武田の家人の娘を寵愛していたのである。これだけでも信長に対する裏切り行為であろう。徳川信康がうかつであったことは否めない。
 酒井忠次も心苦しい立場であったろう。徳川家の安泰を思えば、弁解などできなかったはずだ。

 また、酒井忠次が嫡男の廃嫡を謀ったなどと、私には到底信じられない。
 忠次はそんなチンケな人物ではない。ただし、結果的に忠次が信康を見殺しにした形となってしまった。忠次もつらいところであったろう。
 ちなみに、改正三河後風土記では酒井忠次を批難していることもあり、徳川家康が後年、信康の件で酒井忠次をなじる逸話が数多く載せられている。これは後の章でご紹介する。




 さて、信康は厳重に監視されて諸所を転々とした後に、二俣城に幽閉された。

 家康は断腸の思いで、信長に対して信康の切腹を承知した旨を伝える。
 
 信康の守役であった平岩親吉が泣いて助命を嘆願するが、もはやどうすることができよう。

 家康は、二俣城を監視する大久保忠世が密かに息子を逃がしてくれることに期待もするが、
大久保忠世も御家第一主義者なのである。ただひたすらに警戒を厳重にするばかりであった。

 日々、家康の心は悶絶し、悲鳴する。

 

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【2008/12/21 16:12】 | 未分類
Ⅳ 家康を襲う悲劇

ところで、徳姫からの手紙を読んだ信長が最も驚愕した内容は、信康の常日頃に渡る狂態であった。
徳姫の侍女を手討ちにする、踊り子の服装が悪いからと弓で射殺した、鷹狩りの帰りの道中で法師に会い、獲物が少なかったのは坊主のせいだと難癖をつけて馬で蹴り殺した等々、まさに常軌を逸した行動であった。

 さらに、その手紙には信康に追い討ちをかけるように、
「信康殿は、勝頼に一味するとは申しておりませんが、築山殿は必ずや信康殿を味方にするつもりでございます。ご油断なきよう。」という具合に結んでいたのである。
 徳姫の心には、もはや夫に対する愛情は全く消え失せて、愛情から憎悪に変心していたのである。
情愛の深い夫婦であっただけに、その反動もまた、非常に大きなものとなったのであろう。
 

 私がこの章を書くにあたり、参考にしている書物は改正三河後風土記、三河物語であり、徳川家のことを悪く書くはずがないので、比較的に事実に近い話しであると思うのだが、しかし、この家康の親族にまつわる愛憎劇にはなんともやるせない、はかない気分にさせられるのである。
 正直にいえば、調べて書いていて気が滅入るのである。読者もあまり良い気はしないであろう。
 しかしながらがんばって読んで頂きたい。私もがんばって書きます。



 
 さて、信長が徳川家に対して猜疑心をムクムクと増大させている頃、ちょうどその頃に家康は信長に名馬を贈るために、重臣の酒井忠次を使者にして信長の所在する安土城に向かわせた。
 
 信長は酒井忠次と対面してしばらく歓談した後に、酒井を別の一室に招き入れ、徳姫からの手紙を取り出してきて罪十二か条を淡々と読み始めた。

 酒井忠次は、信長の読み上げる条文の一条、一条に逐一うなずき、全く弁解しないままに恐れ入り、ただ静かに控えて、「存じ上げております。」と言うだけであった。
 信長は澄んだ口調で、
「十二条のうち、すでに十を認めたとなると、もうこれ以上は読み上げまい。徳川の家老を務めるそなたが否定しないとなると、もはや疑う余地はないだろう。とても物になる人物ではあるまい。信康に腹を切らせるよう、徳川殿にその旨を伝えるように。」と、言葉静かに話して聞かせた。

 酒井忠次はただ平伏するばかりで、
「かしこまりました。」とだけ返答し、その後、信康の岡崎城を素通りにして浜松城の家康の元に信長の意向を伝えるのであった。

 この報告を聞いた家康の心境は、いかばかりであったろうか。まさに戦慄すべき命令であり、
彼の心情は煩悶して脳乱し、狂おしいほどに悲痛の念に絶えない思いであったろう。
 
 しかし、なぜ酒井忠次は弁解もせずに、あっさりと信康の罪を認めてしまったのだろうか?
三河物語、改正三河後風土記には、こうした酒井忠次の態度を痛烈に非難する記述が見受けられる。
 少しでも弁解が立てば、あるいは信康は助かったかもしれない。

 私が代わりに信康を弁護すれば、彼は非常に優れた面も多い。
 
長篠の役の前哨戦で、徳川方の吉田城に急迫する武田勢を見事に撃破し、大いに奮戦してその軍勢を見事に追い払っている。
しかもこの戦いの後、武田勝頼は敵将である信康の戦いぶりを振り返って大いに賞賛している。
 
 徳川信康は勇敢な猛将であった。

 また、家康が侍女に手をつけて産ませた於義丸は、父親の家康から極度に避けられて、全く顧みられることがなかった。家康は正室の築山殿をはばかり、於義丸のことを女の子として披露したぐらいなのである。
 
 しかし、信康は於義丸を不憫で哀れに思い、於義丸を連れて上手にとりなして家康に対面させてあげている。
 「いずれは私の助けとなる、最も大切な弟でございます。」と、信康は兄弟の固い絆を述べ、
家康を心から感動させ、その目じりをゆるませたものだ。
 このように、信康はまことに慈悲深い人でもあったのである。於義丸は、義兄のおかげで日陰者から開放され、後年は結城宰相秀康と呼ばれる人だ。

 
 於義丸にとって、また、たくましく成長した秀康にとって、信康は感謝の念に絶えない人であったろう。

 
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【2008/12/21 10:52】 | 未分類
Ⅲ 家康を襲う悲劇


 ところで、信康が他の女性を寵愛していることは、徳姫の耳にも当然入る。

当時は侍女があちらこちらにいるのだ。非常に円満な夫婦であっただけに、徳姫のショックは計り知れないものであったに違いない。自然、徳姫が信康のことを恨めしく思うのも人情の常だ。

 一方の築山殿は、さぞかし狂喜乱舞して、手をたたいて笑ったことであろうが、信康の寵愛する女性が仇敵である武田の家人の娘とあっては、これは穏やかな話しではない。

 私見になるが、築山殿はヒステリーが高じて、ノイローゼみたいになっていたのではないか?夫婦の仲を裂くだけであれば、武田家に全く縁のない女性でもよかったのである。
 明らかにこれは、家康に対するあてつけでもあり、織田家を無視したわけであり、天下の情勢を全く度外視した彼女の暴挙であった。もしかしたら、彼女の精神状態は錯乱に近いものであったのかもしれない。
築山殿はそのせいか、その頃になると気分が非常にすぐれないので、毎日のように病床にふせるようになった。
 現代の精神科医の所見によれば、ヒステリックな女性にかぎってあそこが痛い、ここが痛む、気分が悪い、だるくて疲れる、やれ何だと、日常茶飯事に渡って言うものなのだそうである。
 
 こうして、病状がいっこうに改善しないので、甲州から来た減敬という唐人の医師を招いて症状をみせると、しばらくして身体の調子がまことに良い。
こんなわけで、築山殿はしだいに減敬をことのほか寵愛するようになり、いつしか深い仲となって、とうとう密通するまでになった。そして、この減敬を使って武田家と通謀したのだ。

 
 築山殿は武田勝頼に密使を送り、
「信康は必ずや説得して、武田家に内通させます。甲州勢は岡崎城に御入城ください。家康、信長を滅ぼす計はあります。また、両家を滅ぼしたあかつきには、信康に旧徳川領の安堵をかさねてお願い申し上げます。そして、私には、武田家のしかるべきかたの妻として、お取り計らい願います。」というような文面で結んでいたのだ。

 もはや、築山殿には徳川も織田も武田もない。家康に対するしっと心で、すっかり頭に血がのぼっているのだ。
しかし女性の性とは恐ろしい。この時、築山殿の年齢は四十才余り、当時の平均寿命は五十才前後なのであるから老婆といっても過言ではないのだ。女性の妄執は、いつの世も強烈だ。

 一方、彼女の手紙を受け取った武田勝頼は、あきれ果てて苦笑したことであろうが、千載一遇のチャンスでもあったから喜びもしたであろう。さっそく返書をしたため、彼女の言いぶんを確約して返信してやった。

 築山殿は勝頼の起請文を見て狂喜し、それを手箱にしまい込んで大切に保管したのであった。
 そして、彼女は胸をときめかせて、いつしか早くも甲州行きの準備を始めだしたのである。
こうした彼女の行動を不審に思った侍女が、築山殿の手箱の密書を盗み見て、倒れんばかりに腰を抜かした。その侍女は驚きあわてて徳姫の侍女に通報する。
 築山殿の侍女は、徳姫の侍女の姉であったという。
 姉から戦慄すべき事実を知らされた徳姫の侍女は、すぐさま走り急いで徳姫に報告する。

 徳姫の心情としては、夫婦の仲を引き裂いた築山殿への怨みもそうだが、側室を深く寵愛して自分に冷たい態度を取る信康に対しても恨みを抱いていたであろうことは容易に想像がつく。
 また、築山殿の悪計に見事に引っかかり、側室を溺愛する信康をなさけないとも思ったであろう。
いつの世も、これほど女性のプライドを傷つけるものはあるまい。

 徳姫は築山殿の陰謀と信康の日頃の行状をことごとく手紙に書き連ねて、父親の信長に報告したのであった。


 

はたして、その手紙を開いて読んだ信長は愕然とし、きっと何度となく読み返したことであろう。
 
 まさに、青天の霹靂の大珍事であった。これが本当に事実であれば武田家は再び勢いを盛り返し、しかも、同盟国の三河が分裂して徳川家の動静は未知数なものとなってしまう。

 だが、愛娘からの報告とはいえ、にわかには信じがたい話しでもある。敵対勢力の謀略かもしれない。
 
 用心深いのは家康にかぎらず、信長もそうだ。

 信長は機会を見計らって事のしだいを明らかにしようと、心静かに胸の内に秘めた。

 しかし、信長の猜疑心は日増しにますます増大していく。


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【2008/12/21 06:18】 | 未分類
Ⅱ 家康を襲う悲劇


 そもそも、家康と築山殿との婚儀は政略的な意味合いが強烈に強かった。家康は今川家の人質だったわけで、これはいわば日陰者なのだ。築山殿としては大変な貧乏くじを引いた気分であったろう。
「妻になってやっただけでも、ありがたく思うがよい!」と、初めのうちは思っていたかもしれない。なんといっても、足利将軍家の血筋である名家、今川の息女なのである。
 
 だが、夫婦となり、生活を供にし、子宝に恵まれていくうちに夫に対する愛情もしだいに芽生え、驕慢な感情も少しずつ薄らいでいったことであろう。
 尊大で驕慢な女性がある転機を迎えて、最も愛らしい女性に変化することは今の現代でも珍しいことではない。
 しかし、前述した事態が彼女を苦悩させ、家康の無神経な態度も手伝い、ふたたび驕慢な性格がムクムクと頭をもたげて、ところ構わずに家康にあたり散らしたであろうことも想像に難くない。
かわいさ余って憎さ百倍とは、この時のことをいうのであろう。

 家康は徳川家を守り、家の安泰と発展を念願して選んだ道であったのだが、妻は感情に流されるばかりであったに違いない。プライドの高い、小心な女性だったのである。

 こうして、家康の方としても妻に罵倒されるばかりではおもしろいはずがない。しだいに愛情が冷めていくのも自然の成り行きなのであるが、しかしこれがさらに妻を逆上させる。

 しかも、息子の信康と信長の娘である徳姫との婚儀が、築山殿の血液を激しく逆流させる。信長の娘の徳姫は、築山殿にとっては絶対に許し難い仇敵の娘なのだ。
 今の現代でも、夫婦仲が非常に険悪で夫と疎遠になって愛情に飢えた女性が、その愛情を一心に子供に向けて溺愛するケースはよくある話しで、それによって精神の安定も図られているのであるが、築山殿は最愛の息子を、よりによって仇敵の娘に奪われたのだ。

 彼女の心境は憤懣やるせない心地であったろうし、日々悶々と過ごしたであろうし、これでヒステリーにならなければ、よほどのできた女性だろう。
 また、必然的に家康に対する風当たりも、さらにいっそう強くなる。
 家康はとうとう妻と別居し、岡崎城付近の築山に彼女を移したのであった。彼女が「築山殿」と云われるゆえんである。
 そして、家康自身は浜松城に住み、岡崎城は嫡男の信康に預けて任せるのであった。
 
 しかしながら、この処置は全くの一時しのぎであったことは言うまでもない。
築山殿は夫とますます疎遠になり、薄情な家康をしだいに怨むようになり、いつしか復讐の憎念を燃え立たせるようになる。
 まさに、女性の愛憎が強烈なしっぺ返しとなる典型である。

 そして自然、徳姫にも復讐の火の粉が降りかかるようになる。

 信康と徳姫はまことに仲睦まじい夫婦であった。この夫婦の間には二人の愛娘も授かり、円満で幸せがあふれんばかりであった。
 この光景を眺める築山殿は強烈なしっと心に駆られ、徳姫をさらに憎悪し、彼女のアラ探しに奔走するようになる。女の妄執がいかに強烈で、そら恐ろしいものであるかは知る人ぞ知る、である。

 築山殿は思案の末、信康が男子に恵まれないことに目をつけた。そしてある日、彼女は素知らぬ態で岡崎城に姿を現し、信康の耳元でささやくように、
「徳姫は、どうやら女腹のようじゃ。信康殿にお世継ぎたる男子がなければ、まことに心もとない。大将たる者、側室の一人や二人はあたりまえのこと。美しい側室を置いて男子が産まれれば、それこそ御家のため、御国のためではありゃしゃいませんか?」ぐらいのことを言った。

 信康は若くて活気あふれる青年武将だ。おおいに心動いたが、しばらくして後、築山殿が美しい女性を連れてきたのである。この女性は武田の家人、日向昌時の妾腹の娘で(異説あり。)その容貌がまことに秀麗であった。

 

 いうまでもなく、武田家と徳川家は仇敵の間柄である。
 
 しかし、信康はついに彼女の色香に迷い、しだいに迷いを忘れてのめり込んでいく。




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【2008/12/19 06:58】 | 未分類
Ⅰ 家康を襲う悲劇

 家康の妻が武田家に通謀した。家康の長男の信康も嫌疑をかけられる。家康は煩悶し、焦慮する。そして、信長から妻子の処刑を厳命された家康は狂おしいほどに懊悩し、痛恨の決断を下す。




 織田・徳川の同盟以来、信長の身代は飛躍的に伸び、そして十分に肥え太った。足利幕府は滅び、永禄から天正に改元されたあたりから、信長の勢力はさらにその伸びを急激に増していき、もはや信長は天下の覇者たる大実力者であり、従二位右大臣である。

 しかし残念ながら、家康の勢力の伸びは非常に遅かった。徳川家の隣国には猛虎の武田、古豪の北条がおり、油断も隙もない。徳川家は武田と壮絶に戦い、結果的に信長を助けてもいる。
信長の重要な東国の押さえを家康は担い、さらに織田家に援兵を送り、自ら出陣して助太刀まで果たしてきたのであるが、今や信長の絶大な勢力と権勢は、家康のそれとは全然比較にならないほどに、あまりにも大きくかけ離れてしまった。
 
徳川は織田の同盟国で、もちろん、信長に臣従などしてはいないが、しかし、もはや実力の上では対等ではない。
 対等ではないということは、信長の命に服さねばならない。
 信長の厳命に背くことは、すなわち徳川家を破滅させることにもなりかねないのだ。
 家康は信長の命令を厳粛に受けとめ、常に従順な態度を貫き通し、どのような厳命にも服従しなければならない情勢であった。
 このような緊迫した情勢の折り(天正七年・1579年)家康はとんでもない大事件に見舞われる。家康生涯の大厄難の発生であった。その事件の発端は家康の妻からおきた。


 すでに本文で前述しているが、家康の妻は今川義元の親類である関口刑部親永の娘で、亡き義元の姪にあたる。家康が今川家の人質であった時代に迎え入れた人だ。思い出していただきたい。
 
 年齢は家康より十才以上も年上の、いわゆる年上女房であった。
 いつの世もそうだが、年上の妻は夫を非常にかわいがるものである。ましてや、年齢が十歳以上も離れた年上女房であれば、なおさらであったろう。
 だが、夫を溺愛するだけであれば、それはそれで良いのであるが、このような女性に限って
なぜか妙にしっと深いのも事実であろう。夫の愛情が冷めたことが判明したりしたら逆上しかねないのである。家康の妻は、この性質を強烈に持った女性であったと云われている。

 家康が今川家の人質同然の身の上で、今川の有力な騎下として戦い、非常に従順でおとなしい内は仲睦まじい夫婦であった。二人の間には一男一女をもうけている。男は岡崎三郎信康であり、女は長篠城の守将である奥平貞昌(その後、改姓して信昌)に嫁いだ。有名な亀姫である。

 しかし、時代の急激ではげしい変化と変転が、この夫婦を微妙な心情に追い込んでいく。

 桶狭間で今川義元は敗死し、家康は仇敵の織田家と同盟を結び、今川を離反して叛旗した。
その結果、怒り心頭の今川氏真は関口刑部親永を切腹させたのである。

 家康の妻から見れば、仇敵の織田家によって伯父を殺され、夫はその仇敵と同盟まで結び、それゆえに、父親は自害に追い込まれたのである。
 家康の妻である築山殿は悪妻の典型とされ、今の現代においても非常に評判の悪い人であるが、このように同情の余地は十分にあるのだ。

 さて、こうした経緯や、夫婦仲の愛情問題も重なって妻が逆上し、家康は窮地に追い込まれることになるのであるが、さてさて、家康もまことに不甲斐ない夫のようにも思えるだろう。
現代なら、妻の心情に対する夫の理解が足りないと非難もされよう。

 しかし、現代社会の感覚で、家康を批判するのも考えものであろう。時代にはその時代の風潮がある。
 女性の心情に無頓着であるのも、この時代の風潮では、あるていどは仕方がないであろう。



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【2008/12/19 04:54】 | 未分類
Ⅲ 覇者 織田信長

先の章で少し書いたが、播州の経略に専念する秀吉は、信長の命令で北陸の加賀へ向かうのであるが、その折り、陣中で柴田勝家と意見が衝突し、その後、軍令に叛いて勝手に近江の長浜城に帰ってしまう。
しかしこれは、とんでもないことなのだ、信長は軍律に非常に厳しいのだ。
 信長が上洛して入京した際に、隊列を乱して京の女性をからかった兵士がいたが、その光景を眺め見た信長はいそぎ走り寄り、その者をその場ですぐさま斬殺しているほどだ。どんな理由があるにせよ、信長の軍令・軍律は絶対なのだ。
 秀吉も随分と大胆なことをしたものである。首のあたりをさすり撫でて、さぞかし身の凍る思いであったろう。

 先に結果を書いてしまうと、信長は秀吉を許し、再度の中国遠征に向かわせることになるのであるが、私見になるが、信長は秀吉の心境を十分に推察して勘気を解いたのかもしれない。

 秀吉は卑賤の身上から、織田家の師団長にまでなった人物である。これは時代背景を考えれば前代未聞の、非常に異常な大出世だったのだ。当時は門閥意識の非常に強烈な時代で、氏素性の知れない者が重臣になることでさえ家中の者たちからすればとんでもないことで、
「絶対に許せん、納得しかねる!」ことなのである。
 織田家中での秀吉は、同僚から妬まれ、先輩から憎まれ、部下からは軽く見られていたに違いないのだ。そのことに、人材管理に優れる信長が気づかないはずがない。
 信長は秀吉を呼びつけ、激怒して叱りつけながらも、秀吉の心中を察していたのであろう。

 また、信長は秀吉の雄略の才能を惜しんだのであろう。

 ここで秀吉に厳罰を加えて失脚させれば、一番に大喜びするのは信長に敵対する諸勢力なのだ。
 信長は、災い転じて福となすが如く、秀吉に厳しい条件つきでの再度の中国遠征を要求したであろうし、秀吉は必死の覚悟を決めて再度の遠征に向かったに違いない。

 さらに、秀吉の正妻である「おね」の働きもあったように思う。
 秀吉は大の女好きで、それに業を煮やしたおねは長浜城から安土に赴き、信長に相談している。
 信長は後日、おねに心温まる手紙を送り(この手紙は史料として現存している)、
「あなたは、あのはげねずみ(ハゲねずみ・当時の秀吉のあだ名)には、もったいないぐらいの女性なのだから、もっと陽気にして、りん気などをおこさないように。」と、励ましている。
 信長とおねとの間には温かい交情があるのだから、あるいは夫の秀吉を必死にかばい立てするおねの姿に感動して、信長は勘気を解いたのかもしれない。

 そして、秀吉の方であるが、信長の勘気を恐れて謹慎するのかと思えば、長浜城内で毎晩のように酒宴や踊りのどんちゃん騒ぎを繰り返す。家臣たちが心配して竹中半兵衛に相談するが、
「心配無用。筑前殿にお考えがあってのこと、気にするな。」と涼しい声で答えたという逸話がある。
 
じいっと謹慎などして、信長に讒言する者などが出てくれば、信長も謀叛を疑いかねないということであろう。信長の猜疑心を警戒する秀吉の心術が見え隠れする好場面である。




 さて、ここで話しを変えて、 信長の残虐性を象徴する非常に有名な逸話をご紹介したい。

 信長が浅井・朝倉を滅ぼした後の出来事。
 信長が主催した酒宴での席上、酒の肴と称して不思議な物が三つ、ぽつんと飾られていた。
それらは金箔の茶器のようにも見えるのだが、家臣たちはそれが何であるかがわからない。
 しばらくして、その物体が浅井長政・久政、朝倉義景の頭骨の一部であると聞かされ、家臣たちは腰を抜かして仰天し、驚き恐れたという。
 この話しは信長公記にある記述であり、諸書がこの史料を根拠にして信長の残酷性、異常性を強調して書いている。
 
 しかし、私の見解はかなり異なる。
 当時の時代背景、信長を取り巻いていた状況、当時の倫理観や道義心、そして、史料の記述の信憑性を考慮して判断しなければならない。
 
 以前に本文で述べているが、非情な戦国乱離の時代において、個人的な性質や性格と、
現状を打破する為の冷酷的な手段とは必ず一致するとは限らないはずである。
「あいつは、かくかくしかじかの事をしでかしたのだから、きっとああいう奴なのだろう。」
といった見解は、少々短絡的で幼稚にすぎるのではないだろうか。
 しかも、その物体が本当に頭骨だったのかは証明できないし、信長は作り物のドクロを使って家臣たちを驚かせ、威圧したとも考えられる。信長は大のイタズラ好きなのだ。これは十分にあり得る。
 
 いったい、当時の時代背景として、謀叛や叛乱などは日常茶飯事だったのだ。
しかも、信長は異常ともいえるスピードでその領土を拡張して、その強大となった軍事権を家臣たちに分け与えている。
信用して軍事権を任せている家臣に謀叛でもされたら、目もあてられないほどのひどい目に遭うだろう。信長は家臣たちの謀叛や叛乱を警戒する意味も込めて、作り物のドクロを使って家中の者たちを威圧したとも考えられる。

 また、そもそも、信長の残酷性を象徴する記述が信長公記に記載されていること自体、
すごく不思議ではないだろうか?信長公記の筆者、つまり信長の祐筆であった太田牛一は、主君の信長の残虐な性質を伝えたくて記述したのであろうか?
「私の主君は、こんな残酷なことをしでかしたのです。本当に残虐なことです。異常でしょう?」
などと言いたげに書く祐筆がいるのだろうか?信長公記の筆者は、本当に信長の祐筆だったのか?と、このように史料などは疑えばいくらでも疑えるし、史料の記述だけで歴史上の人物の個性や性格を推し量ることは至難の業なのである。


 私はここで、はっきりと明言しておきたい。
 歴史上の人物たちは、小説の人ではない。
 この地上に生まれ育ち、様々な環境や境遇の中で喜怒哀楽を経験し、数十年の年月を懸命に生き抜いて、そして、我々と同じように体内に血が通い、いずれは病気や怪我で死ぬ運命にあった人々なのである。

 思いやりのあるやさしい一面もあれば、残酷な面もある、それが、人間らしさであろう。


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【2008/12/19 03:06】 | 未分類
Ⅱ 覇者 織田信長

 天正四年(1576年)信長は重臣の丹羽長秀に安土城の着手を命じた。

近江の安土は琵琶湖にほど近く、水運・陸運の要衝であった。経済のこともそうだが、京への道のりもグンと近くなり、信長はこの地に居城を移す計画を立案し、道路も整備させたのである。

 築城工事に約三年もの歳月をかけたこの名城は、七層の天守閣をもち、天下泰平のシンボルとして堂々と完成をみる。
 安土城の壮麗な姿に人々は平和の招来を予感し、信長の威風はさらに天下に知れ渡ることになった。
 尚、この壮大な天守閣は、松永久秀が手がけた大和郡山にある多聞城がモデルになったのである。この技法は信長が独自に考案したものではない。

 近年は安土城付近の発掘調査が急速に進み、その研究も非常に盛んであるが、注目すべきことは天皇を置わし奉る、御所とも思えるほどの建造物の遺構が発見されたことであろう。
 信長は、天皇が御幸なされた際に招き入れる場所として建造したのか、いや、いずれは天皇家を滅ぼし、自ら使用しようとしたのか、様々な憶測の尽きないところである。歴史研究者や作家の方々の新説に期待したいところでもあろう。
 
さらに、安土城の境内には教会や神社が並存し、仏閣も数多く存在し、信長を自ら奉る神殿もあったようである。
 信長は観念的な宗教には寛大だったとはいえ、多宗教の形態を呈するその景観は、非常に異様なものであったろう。
もっとも、中世期に大帝国を創建した元のフビライ・ハーンが広大な大陸を支配した際に、各々の自治都市では同じような光景が見られたという。
宗教は人間の倫理観に通じる哲学なのだ。宗教に寛大であることも賢明な名君にとって必要な資質の一つなのであろう。

 信長は自らを奉る神殿まで築き、石ころを自分自身に見立てさせて家臣たちに参拝を強要したという逸話もあるので、
「信長は権勢をほしいままにしてしだいに驕慢・傲慢になり、自ら神になろうとしたのである。」という見解もあるが、しかし、信長の政教分離を推し進めていく上での一時的な政略的な手段であったとも考えられる。
 当時は非常に迷信深い世の中で、呪詛・調伏が最も恐れられ、それを利用して政治勢力に介入し、国主や良民から金品を不当に搾取する宗教集団も沢山あったのだ。
信長の胸中には、自ら神であると宣言することによって政治権力に取り入る宗教勢力を排除し、その弱体化を図るという狙いがあったのではないかと、私は疑っている。




 さて、翌年の天正五年(この年に松永久秀は信長に叛旗し、大和信貴山城で爆死している。)
羽柴秀吉は中国地方の経略のため、軍勢を率いて征西の途についた。
 信長の代理として、中国探題の全責任者となった秀吉は威風堂々と三軍を指揮して出兵したのである。
 織田家に仕えて実に二十年余り、藤吉郎も秀吉になり、筑前と呼ばれるまでになった。
今や宿老の柴田勝家と並ぶ、輝かしい織田家の師団長になったのだ。
 秀吉の側近に名参謀の竹中半兵衛がおり、この名コンビは才知と雄略を思う存分に発揮して、
毛利方の中小大名を屈服させ、やがて中国地方を席圏していくのである。

 一方、信長は悠然と旅立っていく秀吉の軍勢を見送りながら、自らも出馬したい衝動に駆られて随分とイライラしていたに違いない。
信長は陣頭指揮型の行動派なのだ。部下に仕事を任せて平然としていられるような人物ではない。

 だが、天下の情勢が信長の出馬を許さない。

 北に上杉謙信あり、東には武田勝頼が余勢を張り、膝元では本願寺が頑強に抵抗していた。そして、信長にとって一番の脅威は、上杉謙信の存在であった。

 武田信玄と互角に戦い、武勇絶倫の謙信の配下は比類なき猛将ぞろい、今や天下無双である。

 案の定、秀吉が播州の経略に専念する頃、北陸方面を任される柴田勝家は上杉勢に撃破され、蹴散らされ、ジリジリと圧迫されていた。
しかも京都では、上杉謙信が上洛の軍を起こすという風聞まで広まっていたのである。信長の周囲は全く予断の許さない状況であった。
 
 こうして、北陸の安定はしだいに危機的な状況に陥り、上杉謙信の上洛を危惧した信長は早急に播州の秀吉を呼び戻し、柴田勝家の助勢として加賀国への出動を要請する。
これは、師団長クラスの秀吉までをも投入しなければならなかったわけで、いかにその事態が深刻なものであったか、どれほど上杉勢が猛威をふるっていたかが窺がい知れるだろう。



 しかし、上杉謙信は翌年の天正六年、上洛の熱意むなしく病没してしまう。

 あっけないほどの、あまりにも突然の死であった。謙信の病名は、脳溢血であったと云われている。

 



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【2008/12/17 04:22】 | 未分類
Ⅰ 覇者 織田信長
 
仇敵の武田家に大打撃を与えた信長は、今や近畿中部を完全に支配し、その総石高は約五百万石。兵数は十万を数え、天下の覇者たる信長は朝廷から従二位右大臣に叙任される。



 設楽々原での激闘の末、織田信長は武田勢を総敗軍に追い込んだ。
 総崩れして逃げ散り、敗走する武田勢を眺める信長は、床机からゆっくりと立ち上がり、采配をふるって全軍に急追撃の命を下す。

 織田勢は正面より、徳川勢は左翼から砦を飛び出し、鮮血を浴びた木柵や無惨な戦死体を避けながらの追撃戦を展開する。
 壊乱する武田勢は次々に殲滅され、数多くの勇将士卒が討ち死にした。
「甲州の赤備え」で勇名をはせた山県昌景、知勇兼備の馬場美濃守、武田の副将と呼ばれた内藤昌豊も敗死した。

 ここに、精強を誇った武田騎馬軍団は大損害を被り、勝頼はわずかの供を従えて武節の城を目指して落ちていくのであった。
 壮絶な激戦となった戦闘は織田・徳川の大勝利に終わり、織田信長の武威はさらに天下に示され、信長はもはや覇者を約束されたも同然となったのである。


 ところで、武田勝頼は生まれて初めての大敗北を経験したのであるが、その後、七年を置いて(1582年、天正十年の三月)天目山付近で勝頼は自刃し、武田家は滅亡する。
 この時、信長は勝頼の首を検分しながら、
「日本にかくれなき弓とりなれど、運がつきさせ給いて、かくは成らせ給うものかな。」と評している。
また、家康は「強き大将であったが、機転なくして、一筋に強き計らいで、残念ながらおくれをとった。」と言い、中国地方に遠征中の秀吉は武田家滅亡の報告を聞いて、
「あたら人を殺したることの残り多さよ。われ軍中にあらば、強いて諌め申して、勝頼に甲州・信州を与え、関東の先陣としたらんには、東国は平押にすべきことを。」と、繰り返し嘆息したという。
 
 人物の正当な評価は敵方から出るという。
 勝頼が凡将であったならば秀吉の言葉はでまい。
 勝頼は勇猛な将であり、織田家の有力武将たちに負けないぐらいの実力のある人物であった。
惜しむらくは、父親である信玄の名声の前に日々悪戦苦闘しなければならなかった事であろう、無理をしすぎたのである。

 さて、武田勢を壊滅させた信長は京都に凱旋し、朝廷にことの次第を報告する。
 天皇家・公家衆はこの前代未聞の壮挙を賞賛し、信長に官位の昇進を薦めた。
 しかし信長は、官位の昇格の件は御断わりし、その代わりに配下の有力武将たちに官位を賜るように推薦している。
 宿老格の柴田勝家をはじめ、丹羽、林、佐久間、池田、明智、羽柴など、十五人が従五位となり、明智光秀は日向守に、秀吉は筑前守に任じられた。
 また、信長はこの時に朝廷に願い出て、明智光秀に惟任を、梁田政次には戸次、丹羽長秀に惟住という具合に、鎌倉時代の初期の頃から九州で栄えた有名な名族の姓をいただいている。
 
 信長の脳裏には、九州をも視野に入れた将来の展望があったのであろう。

 そしてその数ヶ月の後、信長は風雲急を告げる上杉謙信に備えるため、柴田勝家を越前に向かわせ、佐々成政、前田利家、佐久間盛政らの諸将を師団長である柴田勝家の与力にして組み込み、北陸方面の安定を命じて派兵させるのであった。

北陸には加賀で一向衆が勢力を張り、能登・越中では上杉謙信がその勢力を拡張していたのである。

 信長は遠国にまでその目を光らせ、その軍勢を遠方に派兵させるまでの実力をつけていたわけだが、この壮挙をまのあたりに見た朝廷は驚嘆し、しきりに再度の官位昇格を信長に薦め、      
信長はついに従二位右大臣の叙任を受けた。
 天皇をはじめとする公家衆は、信長が官位を受けたことに大いに喜び、心から安堵したことであろう。
時の実力者が官位を賜れば、それは朝廷の秩序に従うことを意味するからだ。

 
 しかし、信長の真意は計り知れない。
 信長はいずれ、早くも官位を返上するのである。


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【2008/12/14 10:17】 | 未分類
考察17 不人気な猛将 武田勝頼


 武田勝頼の不人気の原因は、長篠の役における設楽々原の戦いでの不甲斐なさにあるのであろう。
 この合戦の経緯が語られ、唯一信憑性が高いと目される史料は織田方の信長公記、徳川方の三河物語、改正後風土記であり、この諸書を勘案して作成された史料が旧大日本帝国参謀本部編纂の大日本戦史である。
 
 徳富蘇峰は史学界の権威であり、その論ずる史説はカリスマ的で、まさに不動の地位にあるのであるが、蘇峰翁は長篠の役、設楽々原の戦いは大日本戦史を敷衍されておられる。
なんといっても、時の秀才たちが集まっていた参謀本部の編纂した史料であり、その社会的な権威はピカ一だったのだ。蘇峰翁も納得されて採用なさったのであろう。

 したがって、近年においても史書のほとんどが同様に敷衍しているケースが数多く見受けられ、学校の歴史教科書にはまっさきに採用されて記載されている。
江戸時代に作成された屏風絵(長篠合戦図屏風絵)まで持ち出してきてイメージの高揚化を図り、設楽々原での武田勢の自滅的な突撃、間抜けな攻撃を何度となく命令するアホウな勝頼、物質文明に取り残されて鉄砲を全く重視せず、強靭な精神主義に溺れたバカな武田騎馬軍団といったような認識が広く出まわってしまった。
 これでは勝頼も武田家もあまりにもかわいそうだ。
 
 勝者側の史料は、敗者側に対して苛酷な批評となるのは古今東西同じであり、勝者側は必要以上に味方の功績を誇大に記述する傾向があることを忘れてはならないはずだ。
 勝者側の史料にばかり目を奪われず、その時代背景や現実的な認識力をもって公平に判断されるべきであろう。
確かに、敗者側の史料は野史に近いものばかりであるが、しかしだからといって勝者側の史料の記述をまっさきに採用するのもいかがなものか。

 武田勢の自殺的な突撃は、当時の主従関係を考えればあり得ない。

 戦国時代の当時は、江戸時代のような儒教に基づく君臣関係はない。比較的に自由放任であり、武将に限らず士卒たちも同様なのであり、家臣たちは勝てる見込みがあるからこそ、命がけで戦場において奮戦するのである。
だから、その逆に戦場で敗色が見え出したり、たった二、三人が逃げ出しただけで、当時の軍勢はいとも簡単に総崩れをきたしたのだ。
ましてや、武田の宿老たちが戦場での自滅を望んでいたなど、話しのつじつまを合わせようとする無理なこじつけにすぎない。

 史料や諸書を丹念に調べると、山県昌景も馬場美濃守も、元気に戦場を七時間以上も奮戦して走りまわっている。その士卒たちも同様なのだ。
彼らは「勝機をつかむ為」に奮戦しているのであり、自殺心など微塵も感じられない。

 また、戦闘の様相は野戦というよりも城砦戦に近い。城砦戦はお互いに睨み合い、戦線は膠着になりがちであるが、武田勢は後方の砦が夜襲を受けて退路を断たれた形勢となり、仕方なしに進撃したのであろう。
この時に撤退命令などを発令したら、武田勢は戦わずして総崩れとなっていたはずだ。
 戦国時代の当時は、戦場での戦闘による死者よりも、総崩れして敗走する際に、敵勢に急追撃されて数多くの戦死者を出したのだ。
こんなことは当時の常識であったろうし、勝頼もそれを十分に考慮し、撤退による総崩れの危険性を懸念して、断腸の思いで突撃命令を下したのであろう。もとより、鉄砲は十分に警戒していたはずである。

 しかし、肝心の戦闘の様相が実に曖昧であるし、鉄砲に関しても非常にいぶかしい点が多いので、この私の見解は間違っているかもしれない。
 武田勢は野戦ではなく、無理な城砦攻めを強行して、その結果、大損害を被ったとも考えられるのだから。



 さて、長々と私見を書いてしまったが、武田勝頼の生涯を十分に検証して考察すると、勝頼が
「智恵の足りない猪武者」であったとはどうしても思えない。
 すでに前述したことであるが、勝頼を取り巻いていた状況と情勢を冷静に見極め、敗者側の勝頼の見地に立って考えてみれば、その理由は、おのずから読者の方々にもお分かり頂けることかと思う。



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【2008/12/14 05:42】 | 未分類
Ⅲ 設楽々原の激戦
 まず第一に、戦闘の様相である。
 近年になって発掘調査が進み、長篠城をはじめとする設楽々原付近も入念に調べられているが、織田・徳川連合軍、武田勢ともに、砦をいくつも構築していた事実が判明している。
 特に注目すべきことに織田・徳川は外堀に限らず、内堀も含む大掛かりな城砦を築いていたと推定されている。
木柵も数多く構築したようだが非常に貧弱な構造で、とても騎馬突撃を防ぐことなど到底おぼつかない程度であったという。木柵はあくまでも足止め程度の物にすぎなかったようである。

 戦闘の様相は、野戦というよりも城砦戦だったのではないかと疑う研究者も数多くいる。
 戦国時代の当時は土木工事を含む大掛かりな城砦戦が他でも数多く行なわれており、秀吉・家康ともに最も得意とした戦法である。

 次に第二点だが、鉄砲の数である。
 織田・徳川の用意した鉄砲の数は、今の現在も一千丁なのか、三千丁なのか議論が分かれている。
 信長公記に「鉄砲一千丁あまり」と記載されているのだが、やっかいなことに一千の右上付近にカッコ書きで「三」と書いてあるらしい。らしいとは随分な話しだが、私は原文を見たことがないので断言はできない。
 鉄砲に関する諸書によれば、当時はどの戦国大名も総兵力に対して十%前後を目標に鉄砲を揃えているので、織田・徳川の総勢が四万近いことが本当であれば三千丁はあり得ない話しではない。三千丁の鉄砲をかき集めることは容易にできたかもしれない。
 だが、三千丁分の火薬、つまり「硝石」の問題を念頭におかなければならない。
 当時、硝石は輸入品で、非常に高価なものであった。そうたやすく手に入るものではないのだ。
 三千丁の鉄砲を間断なく連発し続ければ、非常に膨大な費用になることは想像に難くない。火薬の在庫の問題もあるだろう、信長の富力をして果たして可能であったのかどうが疑問の余地が残る。

 また、鉄砲の総数は別にして、実際に使用された鉄砲の数は一千丁ぐらいであろう、鉄砲の故障もかなり多かったはずだ。
 そして、火薬の問題が残る。鉄砲をいくら数多く揃えても、一発、二発で撃ち止めでは、たいした戦力にはならないだろう。相手は動く標的なのだ、そう簡単に弾丸が命中するはずがない。運よく命中したとしても散弾銃ではないのだから、必ず致命傷を負わせるとは限らない。
 鉄砲一千丁程度の散発攻撃で武田勢を壊滅させるにはあまりにも無理があるし、鉄砲による殲滅戦は誇張されすぎの感が否めない。

 第三点は、鉄砲の三段撃ちの真相だ。
 通説通りの野戦における鉄砲の三段撃ちは、事実上不可能であることが実験で判明している。
 隊列を三つに分け、かわるがわる鉄砲を撃ち放つのであるが、当時の戦地は泥田で、身動きが非常に手間取ってしまう。
 しかも、鉄砲足軽たちは並んで射撃するわけだが、隣同士が鉄砲の大音響にさらされ、耳の鼓膜が破れて大騒ぎとなる。耳栓をすれば、上官の命令が聞こえないだろう。
 また、火縄銃は発射時に高熱の火薬の残骸が飛び散るのだ。お互いによほどの距離をおかないと大やけどを負う。
 さらに、寄せ集めの鉄砲集団なのだから、かなりの訓練が必要なはずなのだが、集団で訓練を重ねた形跡が全然見あたらない。

 また、この三段撃ちは、信長が発明したものではない。鉄砲の段階射撃なら、紀伊の雑賀衆が以前に採用している。紀州を中心に繁栄した根来衆・雑賀衆は鉄砲の扱いに精通する傭兵のような集団であった。信長は長篠役の以前に雑賀衆と戦ったこともあるわけで、信長は彼らの戦術をまねて、それを大々的に応用したにすぎない。信長の鉄砲の段階射撃を「コロンブスの卵」ともてはやして賞賛する諸書もいまだに散見されるが、これは褒めすぎだろう。

 第四点は、連合軍の追撃戦がお粗末にすぎることだ。
 武田勢に壊滅的な大打撃を与えておきながら、急追撃を重ねに重ねた形跡が全然ないのである。

 

 以上、本当はまだまだ沢山あるのだが、書き続けるときりがない。別の機会に詳述する。
 しかし武田勢の損害が一万三千余りとは、あまりにも、あまりにも誇張がすぎる。
軍隊の総勢とは、戦う武士だけを指しているわけではない。食料・水・馬の飼料、土木作業の材料や工具など、運搬にだけ従事している者たちも大勢ふくまれているのだ。戦闘に参加していない者たちまで殲滅されたことになってしまう。
敗軍とはいえ、まっ先に逃げ出せるのは彼らであり、その彼らを急追撃して全滅に近い損害を与えることなど、どう考えても不可能だろう。

 また、以前の考察で書いたことであるが、武田騎馬軍団などは講談の話しであり、騎馬による密集突撃の波状攻撃など、この時代においてはあり得ない。

 武田勢は敗走し、勝頼が惨敗したことは事実であるが、詳述したとおり、戦いの様相と経緯は実に曖昧であり、勝った側から一方的に不当な評価を受けているのが、武田勝頼なのである。

 

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【2008/12/13 06:45】 | 未分類
Ⅱ 設楽々原の激戦

 ところで、戦いの戦機となった砦の夜襲攻撃は、家康の命を奉じた酒井忠次が織田の陣営に赴き、信長に提案したものであった。
 この時、信長は軍議の最中であったが、酒井の発言を聞いて難色を示し、あきれ果てた口調で、
「これだけの大軍勢が集まっているのだ。そのような小細工は必要なかろう、徳川殿もお気の小さいことよ。」と言い、全然相手にしない態で酒井を追い返した。
 酒井は恐れ入り、仕方なく帰路に向かうのであるが、その道中で信長の側近の者が追いついてきて、「先ほどはご無礼をいたしました。大殿(信長)は、敵の間諜がまぎれこんでいることを心配なされてあのように申し上げましたが、妙計であると大いに感心しております。徳川殿によろしくとのことでございます。」と言い、織田方の金森長近を初めとする諸将を夜襲部隊に加えさせる旨も付け加えて伝えた。
 酒井は喜び勇んで帰陣したと、改正三河後風土記に載っている。
 
 信長の用心深い性格、用意周到な性質をうかがわせる逸話である。
 また、家康の発案は武田勢を引きずり出す為の巧妙な戦法であり、この戦功を徳川家だけで独り占めにすまいとする、家康の信長に対する配慮もあったろう。



 さて、後方の退路を断たれた武田勢は、勇猛果敢な騎馬による突撃を開始し、左翼の山県昌景が三千の手勢を率いて進撃する。木柵を出たはずれにいて、武田勢をおびき寄せる役目を果たす大久保忠世、忠佐兄弟の陣に猛然と斬り込み、粉砕するかのように蹴散らして突入した。
山県昌景は「甲州の赤備え」と云われ、その勇猛さは広く知られている。大激戦となった。
精強な騎馬隊が徳川勢を踏みにじり、押し崩す。

 だが、山県昌景隊は横合いから激烈な銃撃を浴び、ついに敗退する。
 
 続いて小山田信茂隊が壮烈な突入を敢行するが、苛烈な銃撃により撃退され、続く小幡信貞・信秀兄弟が勇敢に突入していくが、熾烈な銃撃に遭い、せん滅的な大打撃を負う。

 武田勢の右翼を任される馬場美濃守信房は、柵外に陣を張る佐久間信盛に壮絶な白兵戦を挑み、勢いづいて壮絶な突入を敢行する。
この精強な騎馬突撃の前に、佐久間隊は次第に壊乱して敗走するが、知将である馬場美濃守は横合いからの銃撃を警戒して、ほどなくして踏みとどまった。
しかし、馬場美濃守に続いて突撃する真田信綱・昌輝兄弟、土屋昌次は隊を率いてさらに猛烈な突入を強行、苛烈極める銃撃の前に鮮血を吹き上げ、次々とその場で落馬して戦死する。


 武田勢は執拗に、ひるむことなく柵外に肉薄していく。
 柵の前で射殺される将兵、馬上で銃弾を浴びる騎馬武者、柵に取り付いて撃たれる兵士などが続出し、一挙に大損害を被る。
 織田方の柴田勝家・羽柴秀吉が頃合い良しと見て、北方から迂回して武田勢を横撃するが、
勇猛絶倫な武田勢は猛反撃に転じ、応戦して織田勢を難なく押し返して撃退する。

 武田勝頼は手許の三千の兵も解き放ち、騎馬による波状攻撃を命じる。

 激烈に銃弾の飛び交う中を武田勢は次々に突入していき、累々と鮮血の戦死体が横たわっていく。
 次第に武田勢の敗色は濃厚となった。

 信長はこの戦況を遠望し、全軍に総がかりの突出を命じる。織田・徳川連合軍は猛反撃に転じ、武田勢はついに総崩れと成り果てた。

 山県昌景は銃撃により敗死、馬場美濃守は殿を務めて勝頼の敗走を見届け、その無事を確認すると馬を返して敵中に突入、力の続く限り奮戦した後、敵兵に首を討たせたという。
 この戦いで武田方の戦死者は一万三千余り、信玄以来の宿老たちをはじめ、勇猛な勇将士卒の多くを失い、武田家は超一流国から二流国に大転落したのであった。



 ところで、この話しは通説で流布する中で最も有名な戦いであるが、最近になって数多くの疑問点が指摘されている。次章で詳しく考察してみたい。



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【2008/12/12 17:42】 | 未分類
Ⅰ 設楽々原の激戦

 ここで、長篠の役における設楽々原の戦いについて詳述するが、その前に筆者の解釈を交えた通説を先にご紹介したい。
 私は通説と見解が異なるのであるが、それは後ほど詳しく後述する。

 通説の史料としては信長公記、改正三河後風土記、旧大日本帝国参謀本部編纂の大日本戦史を参考にした諸書の記述を拠りどころにした。いずれも、史料的な価値が一級品と目される史料である。

 

 さて、武田の宿老たちは勝頼に自重を求め、長篠城付近から早急に撤退するように切々と説き伏せる。
 織田・徳川連合軍は総勢で四万近い大軍であり、また、敵軍に後方の退路を遮断されたりしたら一大事である。
味方の兵士たちは動揺し、撤退も非常に難しい局面となってしまう。

 しかし、武田信玄が存命中の頃に織田・徳川に背を向けたことなど、ただの一度もなかった。
また、勝頼は以前に明智城を含む十八城を陥落させ、信玄も攻略を諦めた高天神城を開城させている。
世間はこの壮挙に驚嘆し、勝頼も武田の武威を確信しており、精強無比を誇る武田軍は未だに健在である。
 勝頼は、この精強な戦力と強靭な精神力を持ってすれば、必ず勝てると信じていた。
ましてや軟弱で有名な織田の援軍など、勝頼の眼前には、もはや無しであった。
 決意の強固な勝頼は、
「み旗、楯無しも照覧あれ。一度に決戦し、いっきに勝負を決めるぞ!」と、激しい口調で言い放つ。
 この言葉に宿老たちは口をつぐみ、勝頼に賛同して決戦を誓うのであった。

 ところで、み旗とは、八幡太郎義家の旗のことである。楯無しとは、義家の父親の頼義から新羅三郎義光に与えられた鎧のことで、武田家に代々伝わる貴重な家宝であった。
 武田家はこの二つを神格化して崇拝し、武田家の時の当主が、
「み旗、楯無しも照覧あれ。」と言うと、評定での議論をやめて当主の決断に従うという慣例があったのである。

 この時の事として、改正三河後風土記に逸話がある。
 
 諫言に全く耳を貸さない勝頼に失望した宿老たちはその夜、仲間内で集まった。
 いろいろ雑談をして、勝頼が寵臣の跡部・長坂の意見ばかりを採用することに嘆息し、そして、
今回の戦いに打ち負け、いずれは武田家の滅亡をこの目で見るよりは、明日の戦いで潔く討ち死にし、先君の恩に報いようと約束し合った。
 そして、水盃などをかわしながら昔話に花をさかせて楽しく談笑し、いつのまにか夜更け近くになったのでそれぞれの陣に帰って行ったという。
 悲壮感の漂う、なんともやりきれない話しである。


 そして翌日、勝頼率いる武田勢は、夜明け前には設楽々原まで進出し、決戦を期して諸隊が布陣した。戦闘に備えて粛々と臨戦態勢に入る。
 
 一方、織田・徳川勢は前面に柵を何重にも結い、馬防柵を設けて騎馬隊の突撃に備え、つつがなく万全の陣形を構築していた。
 鉄砲が諸隊より集められて三千丁が出揃い、三段に分けて射撃ができるように隊列が組まれている。

かわるがわる鉄砲を撃ち放ち、やがて突撃してくるであろう武田騎馬軍団を殲滅する作戦である。
信長が強力な騎馬突撃に対抗する手段として考案したもので、信長独自の斬新なアイデアであった。


 

 さて、戦いの戦機は、武田方の砦が夜襲を受けたことから始まる。

 武田勢の背後にある砦が焼け落ち、守将の武田信実(信玄の弟)は敗死し、その砦から吹き上がる炎と黒煙は高々と立ちのぼり、これを背後に遠望する勝頼以下将兵は驚き恐れ、動揺の色を隠せない。

 武田勢は退路を断たれた形勢となり、このままでは将兵の士気は恐ろしく低下し、戦わずして総崩れをしかねない。
 
 勝頼は直ちに、
「全軍進撃、すすめ!」と、厳命を下す。

 この命令に武田勢は凛然とし、勇猛な騎馬の馬蹄がしだいに大地を揺り動かし始め、早くも柵外に疾風のように殺到し、精強な騎馬隊が敵陣に突入、猛烈に肉薄していく。


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【2008/12/10 01:04】 | 未分類
考察16 山本勘助は実在したのか?

 歴史の年表を何気なく見ていて、ふと、気づくことがあった。それは安土桃山という名称である。
安土は想像に難くないだろう。問題なのは桃山だ。
 浅学な私はさっそく調べてみたのだが、秀吉の居城はご存知の通り伏見城であるが、徳川の時代に伏見城は取り壊され、その一帯は桃畑になったのだそうである。ゆえに、桃山の名称がつけられたのだという。
 なんとも拍子抜けなこの解答に、「本当なのか?」と疑いたくなるような話しだが、このように歴史の気づきを深く追求していくと不思議な疑問点にぶつかるものである。

 私が今でも疑問に思うことは、山本勘助の実在性である。

 山本勘助は、その昔の講談のヒーローで登場し、ご年配の方々であればご存知な人も多いであろう。
 武田信玄の名軍師である勘助は、信玄の右腕として大活躍し、築城の名人ぶりも発揮する。
 
 武田信玄と上杉謙信との川中島での大開戦では、勘助は信玄にキツツキの戦法を進言するが、戦術にたける謙信にその作戦を見破られてしまい、逆に裏をかかれた武田勢は大損害を被る。

 自責の念にかられた勘助は無念に思い、卒然と上杉勢に突入していき、壮絶な最期を遂げるのである。
 この戦史上有名な川中島の戦いは熾烈な大激戦となり、武田信繁(信玄の弟。典厩で有名。)が壮烈な戦死を遂げている。
武田信繁は武勇絶倫と謳われた人物であり、しかも、信繁の周囲を屈強の武士たちが何十人も群がり集まって固めていたはずなのだから、それらを蹴破って突入し、敵将を討ち取った上杉勢がいかに精強であったかが窺い知れるところであろう。


 さて、山本勘助の活躍ぶりは、武田方の書である甲陽軍鑑に数多く記載されており、この書物の作成された年代は戦国時代末期から江戸時代の初期と云われている。
 また、甲陽軍鑑は武田家の武将の高坂弾正昌信と、その甥が書き上げたものとされている。

 以前の考察で少し書いたが、大名が編集したと云われる(異説あり)武功雑話も同時代に作成されているが、野史に近い甲陽軍鑑との記述が合わない点が多い。
したがって、信憑性の高い? 武功雑話の説を採用する見解がほとんどで、山本勘助は実在しない人物、若しくは武田家の武将であった山県昌景のごく身分の低い家臣ということで落ち着いた。
 山本勘助の実在性は否定的であった。

 しかし、昭和の半ば過ぎに市川文書という史料が発見され、今の現在も研究が進んでいる。
その中に、武田信玄が北信濃の武将に宛てた文章があり、
「詳しいことは、勘助が口頭で述べる。」という一節が見受けられ、注目されている。

 戦国時代の当時は、機密がもれることを心配して重要事項に関しては使者が直接口頭で述べることが通例であった。
当然、身分の低い者や信用のおけない人物に使者を任せることはできない。国政に関わる重要機密なのであるから、使者の適任者としては信頼できる人物でなければならない。
家中でもかなりの重臣か、若しくは身分の高い側近が使者として最適であろう。

 こうして、近年になってようやく山本勘助は注目を浴びるようになったのであるが、しかし、勘助は歴史上の犠牲者の観が否めないのだ。
なぜなら、山本勘助と軍学が非常に密接な関係にあるからだ。

 軍学とは、簡単にいえば「戦争のやりかた入門」のことである。
 江戸時代になると戦争はめっきり減って、逆に軍学が大流行して数多くの流派が生まれている。
甲州流、越後流、山鹿流、楠木流、もっともっと沢山ある。
 江戸時代に入って平和になったとはいえ、諸藩は建前上、地方軍の役目もあるのだ。
いざ戦争になった時に、「どうやって戦えばいいの?」では、まことに困ったことになるので、諸藩は軍学を大歓迎し、特に大名の間では軍学はたちまち大流行したのである。

 しかし、この軍学がタチの悪いクセモノだったのだ。
軍学書は一見、学問的に体系立てられており、いかにも高尚でもっともらしい書物なのだが、
なにしろ実戦経験など全くゼロに近い、軍学者と称する人物が机の上で様々な史料をしきりに読みあさり、ブツブツと考えながら頭の中でこしらえたシロモノ、これが軍学書なのだ。

 様々な史料を参考にしているとはいえ、現実離れした発想が生じて、空想の中での兵法理論が確立されてしまうのだ。
 しかも、江戸時代は戦争がほとんど無い世の中なのだから、軍学が実戦で使われる機会も絶無に近い。つまり、軍学の良し悪しの判断すらおぼつかないことになる。

したがって、実戦で全然使いものにならない軍学書でも、学問的で理路整然としており、見栄えが良くて面白くて、そこに社会的な権威(学者であるとか、大名であるとか)が乗っかれば、
その軍学ははやりにはやるということになる。
始末の悪いことに、こういった軍学が大流行した時代が江戸時代だったのである(現代の出版業界にも同じことがいえる。流行している本に駄本が多いのはこのためだ。世代を通じて読み継がれる本が、本当の意味での良書なのである。宣伝上手と流行が密接な関係にあるからやっかいなところだ)。

 さて、軍学の発詳は、甲陽軍鑑を参考にして作られた甲州流であると云われる。
したがって、軍学の元祖である甲陽軍鑑で大活躍する山本勘助は、江戸時代では大変な人気者のであった。
 しかし、幕末になると変乱が数多く生じるようになり、軍学は机上の空論であることがバレてしまった。
実戦経験者の高杉晋作などは、どの軍学も全然役に立たないので、しかたがないので西洋流を採用している。
 明治になると、軍学書のインチキ性を嫌う史学者たちが甲州流の参考テキストである甲陽軍鑑の信憑性までをも否定し、山本勘助の実在性もまた、歴史上から消え去ることになったのである。

 
 余談になるが、上記にご紹介した武功雑話には、甲陽軍鑑の記述にケチをつけている箇所が多々散見される。
 武功雑話は、山鹿流の山鹿素行がその編纂に深く関わった書物である。
 また、山鹿流とは、元々は本家の甲州流から分かれた流派なのだ。
つまり、甲州流は本家、山鹿流は分家ということになる。

 分かれた流派が本家に対して強い対抗意識を持ち、挙句の果てには本家をけなして、
「自分のほうが正統だ。」と言い張るのは、古いしきたりのある世界(生け花、舞踊、お茶など)ではよく見られる光景である。



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【2008/12/06 12:30】 | 未分類
Ⅲ 家康と東国の動乱

ところで、武田勝頼は猪武者で智恵の足りない人のように古来より云われているが、当時の勝頼を取り巻いていた状況から推察すると、そうともいえない。同情すべき点も非常に多い。

 改正三河後風土記では、勝頼の性格や性質を辛辣と思えるほどに非難している。
信玄の嫡男である義信の暗殺を企て、武田家の跡取りの座を奪うために策動したとか、信玄以来の宿老たちの意見を用いずに遠ざけたなど様々であるが、この書は徳川方の書物であり、仇敵であった武田家のことを褒めて書くはずがない。
また、この書物に基づいて敷衍して記述する本も数多くあるので注意が必要だ。

 
 武田信玄は当代一流の名政治家であり、その用兵の妙は他の群雄を抜いて追随を許さず、その軍勢は精強無比、信玄の名声と声望は日本国内で大変な勢いで広まっていた。
後に石田三成の右腕となった島左近勝猛は、信玄の名声に惹かれて甲斐に入って武者修行し、三方々原の戦いの際には武田勢に加わって徳川家康を脱糞逃走させている。
当時、信玄の声望は人々の心を惹きつけ、武田の恐怖は伝説的に知れ渡っていたのである。
 勝頼はまさに「偉大な父」に恵まれたことになる。
 
 しかし、これはいつの時代、いつの世もそうであるが、父親が偉大であればあるほど、二代目は父親の名声に押し潰されがちだ。
父親と同程度か、若しくはそれ以上の働きを見せないと周りの人々は良い評価をしてくれないものだ。
 しかも、信玄の代の宿老たちは事あるごとに、何かにつけ、
「信玄公ならば、こうするでしょう。」とか、「先君ならば、そのようなことはしません。」だとか
、「それは信玄公の規模と違うと思います。」などと、信玄公ならば、先君はと、ことあるごとにつけつけと言ったはずなのだ。
 これでは良き将でもたまったもんじゃない。これではまるで口うるさい小姑に囲まれて生活しているようなものだ。
 勝頼は佞姦な跡部大炊助、陰湿で欲の深い長坂釣閑らを重用するのであるが、自分の言葉に唯一耳を傾けて賛同してくれる彼らは、勝頼にとって非常にありがたい存在であったろうし、心地よい安堵感をもたらしてくれることもしばしばであったに違いない。

 また、勝頼は宿老たちを納得させるためにも、父親を越えた自分の姿を見せつける必要がある。
勝頼は美濃の明智城を攻略した際に、大小の砦を含んでいるとはいえ、いっきに十八城も攻め落としている。これは当時では前代未聞の快挙なのだ。武田の宿老たちもさすがに驚嘆したであろう。

 さらに、勝頼は信玄が攻略を諦めた高天神城を猛攻し、力攻めでは及ばなかったにしろ、ついに開城させて武田方の属城とすることに成功している。

 これらはまさしく、「親父越え」の為の出兵だったのだ。
 勝頼の生涯最大の敵は、「亡き信玄の名声」ではなかったかと、私は今でも思うのである。

 精強無比の武田勢を率いる勝頼が、長篠城を厳重に攻囲し、膨大な数の敵の援軍がやってくると聞いたところで、足元の長篠城を思うように落とせず、やがて来襲するであろう敵軍とも全く戦うこともなく、まるで逃げ出すかのようにその場を離脱することなどできるはずがない。
 
 ここで織田・徳川と決戦し、戦勝すれば勝頼の「親父越え」に裏書きがされることになるのだ。

 また、敵軍が二倍を上回る大軍勢とはいえ、明智城を含む十八城の攻略しかり、高天神城の開城しかり、比類なき大戦果を挙げたばかりの勝頼が自重などできるはずがない。
自重して我慢できれば、これは余ほどの名将であろう。
バクチで大穴をあてた人で、その後、我慢して二度と手をつけない人は多いだろうか?これは少ないはずだ。十八城の攻略は大穴、高天神城の開城は中穴に匹敵する。

 
 
 武田勝頼は信玄のような名将ではないが、決っして凡将ではない。
 長篠の役での織田・徳川連合軍と武田勢との戦闘をこれから考察するのであるが、この長篠役を引き合いに出して武田勝頼の愚将ぶりを評する方々が実に多い。

 
 長篠役、とくに設楽々原での戦闘では、織田・徳川が用意した三千丁もの鉄砲の前に武田騎馬軍団はもろくも崩壊し、三段に構えて放たれる銃弾によって勇猛な武田騎馬隊は殲滅される。

 武田勝頼の命令によって何度となく同じ波状攻撃が繰り返され、武田の勇将士卒のほとんどが戦死してしまう話しだ。
以前の考察で少し書いたが、現代の研究では疑問視される点が数多く発見されている。

 
 亡き武田勝頼公の名誉のためにも、次章で深く論じてみたい。



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【2008/12/05 23:27】 | 未分類
Ⅱ 家康と東国の動乱

 大賀弥四郎という人物は今でいう経済官僚で、彼のような財政のやりくり上手は戦国大名にとって貴重な逸材であった。
 
 戦国時代において、いくさ働きをする人は多くいても、机でソロバンを弾く地味な仕事は人気がない。仕事にも「はやり」がある。
 誰もがやりたがらない仕事をそつなくこなし、ましてや優秀な経世の才の持ち主であれば、主が喜んで寵愛するのも無理はない。その才能に目を奪われ、その人物の性格や性質を深く知らずに重く用いてしまうのも、ある程度は仕方がないといえる。
 大賀弥四郎は佞姦な人物であった。家康は見事に飼い犬にかみつかれたのだ。
用心深いこと無類の家康にしては、まことに珍しい大珍事であった。


 大賀弥四郎はのぼり旗まで用意して、満足げに腕を組んで武田勝頼の軍勢の進軍を待っていた。
 作戦は、大賀の命令で岡崎城の城門を開かせて武田勢を招き入れ、城主の家康の長男である信康を殺害し、三河・遠江の中小豪族の人質たちを奪い返して内乱を誘う手筈であったというから、恐れ入る。家康も随分と軽く見られたものだ。

 この騒動の数日前の事として、味わい深い逸話が三河物語に載っている。

 ある夜、晩酌でもしながらであろう、気を大きくした大賀弥四郎は妻に陰謀の次第をうちあけた。
 はじめは冗談交じりに聞いていた妻は、大賀の言葉に真実味がおびてくると血相を変えて仰天し、
 「おまえさん、それ、ほんとうのはなしかえ。御譜代衆さまよりも出世させていただいて、よりによって謀叛してこれ以上を求めたら天罰もてきめん。わしゃ、いやでござる。」と、泣き出した。
 「大丈夫じゃ。おまえはいずれ御台様と呼ばれるようになる。策略も完璧なのじゃ。」と言って大賀は全然聞く耳をもたない。
 「どだい陰謀など不首尾に終わることが常でござるだ。不首尾の時の恐ろしさを考えなさろ。
仏法は実が入れば傾き、人間は実が入れば反るというが、あんたのことですわいな。」と言って
妻はいっそう泣きくどいたという。

 大賀の妻は田舎女とはいえ、なかなかの賢母であったようだ。
 仏法は実が入れば傾き、人間は実が入れば反る、味のある言葉だ。
 宗教は盛んになると本質を失って堕落していき、人間は盛運を迎えるとしだいに驕慢・ごう慢になってついに滅亡するということであろう。いい言葉だ。


 さて、こうして自身満々の大賀であったが、しかし大賀もまた、飼い犬にかみつかれていたのだから世話はない。大賀の一味の者がにわかに心変わりして信康に訴え出て、驚愕した信康は浜松城の家康の元に急いで通報する。
 家康はその報告に仰天するというよりも、なんとなくぼう然としたろう、ともかくも大賀を捕らえ、きつく尋問するとアッサリと白状した。
この時ばかりは、さすがの家康も脳天から血を噴くほどに激怒したに違いない。用心深い家康が信用しきって騙されたのだ。

 家康は大賀の妻子をすばやく捕らえて念志原において磔にし、大賀は眼前で妻子の凄惨な最期を見せつけられた後、馬上に逆さに縛りつけられて所々を何日も引き回された。その後、手足の指を一本一本そぎ落とされ、土中に首だけ残して埋められたのである。
 当時の極刑に「のこぎり引きの刑」という惨刑があった。
 のこぎりは竹製のもので、首を切ろうとしても傷口がひろがるばかりで容易には斬れず、なかなか死なないのだ。道を往来する者にのこぎりを引かせるという極刑であった。
 武徳編年集成という史料に、
「土民、大賀を憎むのあまり、老若群参してこれを引き、七日にして死す。」とある。
謀叛に対する怒りもそうだが、大賀は租税の大元締めでもあったのだ。民衆から別の意味でも怨まれていたのであろう。

 ところで、家康はその生涯を通じて極刑をあまり用いることのなかった人であるが、この時ばかりは見せしめの意味を込めて用いたのであろう。武田家は織田・徳川の仇敵であり、家臣に内通者が出るようでは信長の同盟国としてはあまりにも不甲斐ないのである。家康の生涯最大の不覚であったろう。
家康はこの後、老年にいたるまで、このときの悔しさ、無念さを人に語っている。

 

 さて、武田勝頼は進軍の途上で大賀の陰謀が露見したことを知るのであるが、いまさら甲斐に引き返すわけにもいくまい。勝頼は猛将なのだ。それならばと思案した後、武田勢は徳川方の吉田城に進撃し、その武威を見せつけた後、矛先を転じて長篠城に向かい始めた(家康の嫡男の信康が吉田城に急迫する武田勢と戦い、勇戦して追い払ったのだ。この時、武田勝頼は信康の戦いぶりを見て賞賛している)。

 長篠城には奥平貞能・貞昌父子、そして副将の松平景忠、松平親俊がわずか城兵五百で守備していたが、あまりにも突然の武田勢の攻囲に、兵糧の準備がまことに心もとない。
寡兵ながら奮戦してろう城するも、とうとう兵糧はわずか四、五日程度となってしまった。

ここで、例の鳥居強右衛門の活躍となるのであるが、すでに以前の考察でご紹介している。
思い出していただきたい。
さらにいえば、この時の武田勢の中にも、鳥居強右衛門の義烈に感動して彼の最期の姿を旗に描かせそれを背負って戦う武田武士もいたというから、当時の武士たちがいかに感銘を受け、感動していたかが良くわかる。

 一方、家康は織田家の加勢の報告を受け取って大いに喜び、戦備を早急に始めていた。信長みずからの援軍でもあり、徳川家中の士気は大いに奮う。

 他方の長篠城を重囲する武田勝頼は、織田・徳川勢の来襲の情報をつかんでいた。
 織田・徳川の総兵力は武田勢の二倍を上回る、四万近い大軍勢だ。

 武田勢の宿老たちは早急の撤退を強く主張するが、勝頼は決戦を言い張り、きかない。

 勝頼の自負心が、どうしても撤退を許さない。
 
 

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【2008/12/04 22:37】 | 未分類
不如帰 ~戦国武将の幻影~


Ⅰ<覇王編>~逆賊 織田信長を討て!~  Ⅱ<争覇編>~織田家簒奪!秀吉の野望~

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