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あとがき


 バブル崩壊後、時の大蔵省は監督責任を放棄したかのようなズサンな管理体制がバレて、銀行は倒れ、保険会社が倒産し、証券会社はついにパンクした。
金融業界の安全神話はモロクも崩れ去り、大蔵省は財務省と名称を変えてイメージの高揚を図るも、今や外資系資本に踊らされて散々たるアリサマである。

 外務省は公金横領の事実がバレて国民の不信感を買い、防衛省は汚職まみれ、文部科学省は隣国の外圧に負けて歴史教科書を訂正する始末。政府の責務であるはずの防疫はその効力を失い、狂牛病が難なく国内に流れ込み、国民を不安に陥れ、そして食肉業界に大打撃を与えた。
時の農相が焼肉パーティーを開催し、幼稚なパホーマンスを披露して食肉の安全性を訴えるも、わずか数日後には新たな感染源の牛が発見されて逆に政府の信用度はガタ落ちというテイタラクぶり。
少しは教訓が生かされると思いきや、事故米の流出が政府の威信を大失墜させ、防疫に対する不信感は多くの人々を恐怖に陥れて混乱させた。

 また、失業率、自殺者数はうなぎのぼりとなり、株価は一万円台を維持するどころか大幅に下落して、毎日がフラフラと落ち込み激しくヘナヘナの状態。急激な円高は輸出産業に大打撃を与えている。

 政府は相も変わらずシタリ顔で、国会議員はその首に青筋を立ててお題目のような陳腐化した構造改革を声高に叫ぶも、不況による企業の連鎖倒産が相次いでいる。
 ミサイルが領海に落ちても大騒ぎして忘れ去り、近海に不審船が自由に往来しても平気な顔をして無頓着ぶりを見せる。大災害であった神戸の震災の事実を、テレビの報道番組で知った首相がいたことはいまだに記憶に生々しい。

 歪んだ官僚体制が知的エリートを根絶させ、市場で四苦八苦してのたうちまわる企業が過度の功利主義・成果主義を追求し、金拝主義が横行して人間をまるで物のように扱い、企業の倫理観も欠如して商品の偽装にまで手を染めて金儲けに狂奔している。


 政治はガタガタ、経済もヨレヨレ、危機管理意識は限りなくゼロ。痛ましい犯罪が毎日のように横行し、司法と人権擁護の下で被害者遺族は泣き寝入り。

 
 このような国家に愛着を持つ者がいたとしたら、それこそ異常だろう。

 優秀な人材は海外に流失し、日本は産業構造の空洞化にますます拍車がかかって瀕死の重態。
そして、国民の政府に対する不信感、民衆の投げやりな政治的無関心、無気力感はますます助長される。

 まさに亡国の時であり、危急存亡の時でもあり、変革の時期でもあろう。

 しかしながら、テレビや新聞にむかって政府や首相の無為無策ぶりに落胆しては批難し、平和を念仏のように唱えて自己欺瞞に終始する人々の多いことも、残念ながら明白な事実であろう。
 自分一人では何もできない、何も変わらないとばかりに全て人任せ、ただ傍観するだけで痛烈に批難して、日々溜飲を下げているようではまことに心もとない。

 織田信長が尾張を統一した頃、信長は数人の供回りを連れて上京したことがある。
 信長はその後、将来の上洛を切望し、その夢を人に話したところ、それを伝え聞いた京都の人々はクスクスと嘲笑してせせら笑ったという逸話がある。

 だが、信長は自分の持てる力をふる活用して専心する。
 日々一歩ずつ、絶えまなく努力して諦めず、そして、ついに念願の上洛を果たした。

 せんべい布団でしっかりと抱き合う藤吉郎とおねは、明日を夢見て熱く語り合い、疲れを癒して慰め合い、藤吉郎は毎日の鍛錬を惜しまず、絶えまない努力を怠らず、おねはそんな夫の身を案じ、夫の苦労に心を痛めながら日々耐え忍んだ。そして、こうした確かな一歩の積み重ねが、やがてはこの夫婦を天下人に押し上げていく。

 家康は早くに両親と生き別れて悲嘆に暮れ、人質生活に疲れ果て、断腸の思いで妻子を失い、後年は辛抱強くも秀吉に臣従する。
 家康もまた、日々の耐え難い苦労の積み重ねが幸いして、天下人の道を歩むことになったのである。

 信長は尾張の大たわけからはじまり、秀吉は貧農の子せがれから、家康は危険な人質生活から天下に覇を唱えるまでに成長したのだ。

 現代に生きる我々も、日々の一歩を大事にしたい。日々の積み重ねを大切にしたい。
 自分の出来る範囲から、少しずつでもいい。諦めてしまいがちなことを、やりたいと思っていることを、真剣に考え抜いてやってみようではないか。

 立ち止まり、腕を組んで考え込んでも、良い発想は生まれない。
 
 行動して失敗しても、落胆することはない。
 
 万が一しくじって嘲笑されても、それは、あざ笑うほうがおかしいのだ。
 世の中が狭量な人物だらけであることは、今も昔も変わらない。
 人の志しを尊重し、相手の胸中を深くおもんばかる器量人は本当に数少ない。これは古今の常なのだ。

 嘲笑したければ、勝手に笑わせておけばよい。嘲笑に目くじらを立てて行動がおろそかになるようでは、あなたも彼らのようなつまらない人たちと同類になってしまう。気にしないことだ。
 己を信じて行動することが、いかに大切であるかは本作品で実証済みであろう。

 「失敗は成功の母」であるという。この言葉は真理を鋭くついている。
 
 古今東西の英雄たちは、必ずといっていいほどに大失敗もしでかしている。
 信長は金ヶ崎で九死に一生の目に遭い、秀吉は軍令に背いて勝手に長浜城に帰城してしまい、危ういところで信長に殺されそうになった。家康は三方々原の戦いでせん滅的な大損害を被り、脱糞逃走して奇跡的な命びろいをしている。飼い犬の大賀弥四郎にはひどく噛みつかれた。
 古代中国では、前漢の創業者である劉邦が項羽との戦いで、数えきれないほど惨敗している。
 三国志の曹操は赤壁において、まさかの大敗北を喫っしている。

 しかし、彼らは諦めない。絶えまない行動力に、努力を惜しまない。

 きっとそこに、得がたい貴重な何らかのヒントが隠されていることを、彼らは経験で知っていたのであろう。
 そして、日々の努力の中から、突破口とでもいうべきチャンスをつかんだのであろう。


 自分のことでもいい。人の為ならなおさらいい。国家の為なら人々はあなたを高く評価し、それは非常に尊いものとなるであろう。そして、それが今の歪んだ日本を再構築させるものであれば、あなたは偉大な英傑として、ずっと後世にまで語り継がれる人物になるであろう。

 
 また、プラス思考で今の日本を考察するならば、現代ほど自分自身の生涯の在りかた、人々の在りかた、国家の在りかたを真剣に省察できる好機はないのではないだろうか。
 戦国という時代を生き抜いた信長をはじめ、秀吉も家康も、そして彼らの強い影響を受けた将星たちも、その生涯に渡って深く熟慮した課題であったはずなのだから。
 

                                 平成21年1月26日 筆者

著者HP http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/
メールアドレス hokenpuro@yahoo.co.jp
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テーマ:歴史小説 - ジャンル:小説・文学

【2009/01/26 22:33】 | 未分類
Ⅱ 家康の逃避行

 ともかくも、家康一行は帰国を急いだ。

 この時に家康につき従っていた家臣は酒井忠次、石川数正、榊原康政、高力清長、服部正成、阿部正勝、本多忠勝、渡辺守綱らと他数人、そして、小姓や小者が数人いただけである。

 また、四方八方を警戒しながら進むのであるが、一番不気味なことは明智方の情報はもとより、上方の情勢すら分からないことであったろう。彼らの心労のほどがうかがえるのである。

 ただし、良いこともあった。
 思いがけずも、その道中で本多正信一行と出会えたことである。本多正信は三河の一向一揆の折り、家康に反抗して逐電したのであるが、旧主の難儀のほどを思い、この時に帰参したのであった。
 心細い家康一行にしてみれば、感激の出会いであったろう。

 家康は本多正信の進言に従い、まずは宇治の上林政重を頼ることに決めた。

 当時は内乱が発生すると追いはぎ、落ち武者狩り、郷民一揆などがすぐに続発する。
その道中は実に危険極まりないのだ。道を選ぶにしても、慎重に進まないと待ち伏せに遭うこともある。肉体的、精神的に疲労度の大きい逃避行であった。

 
 身を潜めて休息し、野宿などをして進んだ家康一行は、なんとか上林政重の元にたどり着くことができた。六月三日のことであった。
 上林政重は快く出迎えに来てくれて、家康一行もひとまず安堵し、休息と食料、武器の調達などをする。
 そして、上林政重の案内により、家康一行はその日のうちに甲賀郡多羅尾城の多羅尾光俊を頼り、無事にその城に入ることができたのである。

 家康は一息ついて安心もしたであろうが、油断は禁物だ。時は裏切りの横行する戦国乱世なのだ。多羅尾一族に野心がないとも限らない。家康につき従う家臣たちは歴戦の猛者ばかりであるが、なにしろ多勢に無勢なのだ。
この時の深夜、本多忠勝は家康の寝所にただ一人座り込んで黙々と控え、一睡もせずに警護していたという逸話がある。
 

 さて、明けて六月四日の早朝、無事に一夜を過ごした家康一行は難関の伊賀越えを志す。
 
 多羅尾光俊は家康の身を案じ、千五百の兵を率いて家康一行に追従している。
 家康は、多羅尾光俊に感謝の念に絶えない思いであったろう。多羅尾は信義の人であった。
 家康は騒乱がおさまった七月頃、多羅尾光俊に莫大な贈り物を送り、この時の苦労をねぎらっている。
 伊賀越えの道中は、家康一行も多羅尾勢も苦難の連続であった。
 追いはぎはハエのように集まり群がり、時には郷民一揆と小合戦になったり、落ち武者狩りを追い払ったりと、全く休む暇もなく難路を進んだのである。疲労困ぱいとは、まさにこの時のことをいうのであろう。

 
 しかしながら、伊勢付近にまで来ると家康一行は安心した。伊勢は織田信孝の領国である。

 味方の圏内に入った家康一行は、安堵しながらも急いで白子浜に向かい、海路を取って三河の岡崎城を目指すのであった。
 家康はきっと、最後まで追従して自分たちを見送る多羅尾光俊の手をしっかりと握りしめ、大いに感謝の声をかけたに違いない。多羅尾は家康にとって大恩人であった。



 
 
 さて、無事に岡崎城に入った家康は、素早くも明智征伐の準備に取りかかっている。

 
 徳川家康は信長の家臣ではない。

 家康は信長の盟友だったのであり、徳川家を率いる、三国を領する一大名なのである。

 
 
 この際、家康は弔い合戦の名目を大いに借りて、ひとばくち打つつもりでいたはずだ!



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【2009/01/26 00:46】 | 未分類
Ⅰ 家康の逃避行


 
 京都郊外の山崎の地勢は、淀川と天王山に挟まれる戦略的要地であり、明智光秀は優勢な羽柴方をこの地に誘い込み、各個に撃破する方策に出る。

 だが、羽柴勢の進撃は非常に素早く鋭い。
 
 早くも天王山付近は羽柴方で埋め尽くされ、明智勢の不完全な包囲網は難なく突破された。

 形勢を不利と見た明智勢は巻き返しを図るべく、諸将は勇敢に敵中に突入し、奮戦して猛烈に斬り込んでいく。
 明智勢は一万六千足らずである。
羽柴方の膨大な軍勢に加えて形勢は非常に不利とあっては、兵卒たちが恐怖のうちに逃げ出す恐れもあった。明智方の諸将は勇敢に攻勢に出て、兵卒の士気を鼓舞し、猛然と羽柴勢に突出して力戦する。
 斉藤利三は部下をしった激励し、苛烈極まる突撃を敢行、その勇猛な斬り込みが羽柴方を蹴散らし、敵勢を追い払う。

 しかし、大軍勢の羽柴方は明智勢を逆包囲し、各固に撃破して分断する。

 たちまち明智方の諸隊は連携を断たれ、やがて殲滅されて敗色が濃厚となった。敗走する兵士もしだいに続出し、ついには全軍総崩れと成り果てる。
 
 光秀は敗軍をまとめきれず、無念を残して勝竜寺城を目指して退却するのであった。



 さて、ここで話しを変えて、気になる徳川家康の動向である。

 のんびりと京見物を終えた家康一行は、次は堺に入り、松井有閑邸で茶の湯などを興じて宿泊している。その後、六月一日まで今井宗及も交えて歓談し、幸若舞や茶の湯で楽しみ、酒宴などを開いて二人の盛大なもてなしを受けていた。

 そして、六月二日の早朝、堺見物を満喫した家康一行は、信長の所在する京都に向かうための準備を始める。信長との約束で、会見する予定だったのである。信長が毛利征伐に向かうので、留守の間の東国に関する指示を仰ぐためであったという。

 徳川家の重鎮、本多平八郎忠勝は信長に上京の旨を知らせる為に先発していたのであるが、道行く忠勝一行は六月二日未明、馬を飛ばし急ぐ茶屋四郎次郎にぶつかった。

 茶屋四郎次郎は家康と親交を持つ町人である。本多忠勝も見知っている人物であった。
 茶屋四郎次郎は忠勝に気がつくや否や、素早く馬から飛び降り、血相を変えて、
「本多殿、一大事!明智日向守謀叛、上様は本能寺にて御自害!」と、息を詰まらせながら言う。

 これを聞いた本多忠勝は唖然、ぼう然だ。
 早急に堺に向けて引き返し、家康を警護しなければならない。忠勝はすぐさま来た道を舞い戻りはじめ、家康一行を求めて走り急いだ。家康はすでに出発しているはずであった。

 そして、忠勝が馬を飛ばし急ぎながら飯盛山の付近にさしかかると、家康一行らしき姿がかすかに見え始める。
 
 

 家康は、ものすごい形相で走り寄って来た忠勝にも驚いたが、報告を聞いてさらに驚愕して目を見開いた。
 がく然とその場に立ちすくんだ家康は、
「うーむ。」と、一言唸りをもらし、焦慮しながらその指の爪を噛み続け、しばらく放心して思案に暮れる。


 私見になるが、この時点での徳川家康の身辺は実に危険極まりないのだ。信長を偲ぶゆとりさえなかったであろう。
なぜなら、明智光秀は当然、家康の上方見物を知っているはずだからだ。
 光秀は確実に家康を狙っていたであろうし、部下たちに厳命して、家康の行方を厳重に探索させていたに違いないのだ。

 光秀の戦略上、家康の生け捕り、若しくは家康の殺害は必要条件であったはずである。

 もし、家康が上方見物をせずに岡崎城、若しくは浜松城に居たとしたら、光秀は謀叛の決行を諦めていたかもしれない。
 徳川家は三河・遠江・駿河を領する大国であり、隣国の武田家は滅亡し、北条家とは険悪な仲ではない。家康は、大軍を率いての早急な上京は十分に可能であった。

 
 そのような光秀の胸中を、家康は十分すぎるほどに分かっていたであろう。


 心細いことに、今の家康一行は、丸腰同然であった。

 
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【2009/01/25 23:08】 | 未分類
考察21 戦国のKEYMAN 真田昌幸


 武田勝頼から上州の経略を任された真田昌幸は、北条家の占拠する沼田城に狙いをつける。

 沼田城は上州の戦略的な要害で、上杉・北条の争奪戦の末、北条方の城となり、鉢形城主の北条氏邦が軍勢を率いて乗り込んできていた。
 
 昌幸は密偵を放って沼田城内を探らせると、北条方と城兵との仲が非常に険悪であることをつかんだ。
 北条氏邦は常に尊大に振る舞い、その家臣たちも城兵に対して威圧的な態度に出る。
 
 北条家は関東八州を押さえる大勢力であり、それを鼻にかけてのことであろう。
 いつの世も、虎の威を借る話しはよくあることだ。

 このようなわけで、地元出身の城兵たちはしだいにあぐね、なんともいえない嫌気がさしてきた。

 昌幸はこうした城兵の不平不満をうまく利用し、密使を城内に送り込み、つつがなく内応を約束させる。
 そしてある日、真田勢は城兵と呼応して城の内外から沼田城を急襲し、北条方を追い払ったのである。 
 こうして、沼田城は武田方の城となり、昌幸は家老の矢沢頼綱に沼田城を守らせて、昌幸自身は岩櫃城で指揮を執っていたのであるが、武田勝頼が天目山に滅ぶと事態は急転する。

 真田昌幸は武田家滅亡の寸前に、北条家に被官の願い状を出し、許されて北条方となっている。
 昌幸は武田勝頼を迎える準備をしながら、北条に被官の願い状を出していたことになる。
 武田家をすでに見限っていたか、もしくは北条家の力を借りて武田家を再興させようとしたのか、非常に見解の微妙なところであろうが、どちらにせよ、油断ならない話しだ。

 そんな折り、織田家の滝川一益が関東探題としてやって来て、厩橋(前橋)城に入り、北条家に睨みを利かせはじめる。
 昌幸の身代は微小の身だ。早くも北条家を裏切り、織田方となって信長に臣従を誓う。
 
 戦国の小豪族は本当に節度というものを知らない。
 しかし、これも置かれた立場の運命であったろう。
 昌幸は、沼田城に入った織田家の武将滝川義太夫に人質として幸村(本名は信繁。なぜか、江戸時代の中期頃から幸村という名で流布している。)を差し出して、その指揮下に入ることになった。

 しかし、本能寺の変で織田信長が横死すると、事態はまたまた急転する。

 織田家の武将たちは西上の途につき、関東探題の滝川一益、沼田城の滝川義太夫も早々に引き上げて行った。人質になっていた幸村は無事に昌幸の元に送り返された。
 昌幸はこれ幸いとばかりに空き城同然の沼田城を取り戻し、さっそく上州の経略に執りかかろうとする。

 ところが突然、上杉景勝が好機到来とばかりに上州に侵攻してきた。
 
 上杉謙信亡き後とはいえ、上杉勢は精強そのもの、勇将も粒ぞろいだ。昌幸の対抗できる勢力ではない。
 やむなく、次は上杉家に臣従を誓い、その被官となった。


 しかしながら、今度は北条勢が上州に押し寄せてきて、付近の諸豪族をしきりに宣撫する。

 ここら辺で、上州の中小豪族たちは家の保全上、上杉家・北条家の力量比べ、考量を始める。


 これは断然、北条家のほうが上だ。
 関東での勢力は絶大であるし、伊豆も領有している。
 また、織田家の師団長クラスの滝川一益は関東を引き上げる際に、北条勢と決戦し、散々に破れて大損害を被っている。北条家の武力の衰えていないことは明らかだ。
 こんなわけで昌幸はあっさりと上杉家を見限り、再び北条家の被官になった。
 
 まさに変転極まりなしである。実にめまぐるしいので、いつの時点で、どこの誰の被官だったのか、チェックしておかないと忘れてしまいそうだ。


 
 さて、徳川家康はこの頃、甲州・信州の経略に専念していた。

 話しが少し戻るが、旧武田家の重臣で、依田信蕃という実に信義の厚い武将がいたのであるが、依田は武田家の滅亡の際、駿河国の田中城を守り通し、家康の降伏勧告を頑として跳ねつけて頑強に抵抗していた。
 家康は、武田勝頼の死を依田に知らせて再度の投降を促す。
ところが依田は、
「主君の敗死を確認するまで、決っして投降などできぬ!」と言い残し、田中城を徳川方に明け渡して甲州に帰って行った。
 家康はこの時の依田信蕃の忠義心に惚れこみ、後日、依田を探し出させて家臣にしたのであった。

 その後、依田信蕃は家康から甲州・信州の経略を任されて、武田の旧臣である真田昌幸に協力を頼んだ。
 
 昌幸は依田信蕃の勧めに応じ、あっさりと北条家を裏切り、今度は徳川家につくのである。

 
 良く言えば柔軟性のある的確な情勢の分析力、悪く言えば変心限りなし、野心丸だしの真田昌幸であった。

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【2009/01/22 01:42】 | 未分類
Ⅳ 秀吉 中国大返し


 秀吉の率いる軍勢は恐るべき速さで引き返し、神速ともいえるスピードで摂津尼崎にまで軍旗を進めたのであるが、秀吉は当初から天運ともいうべき幸運に恵まれている。

 毛利家との講和がうまく運んだこともそうだが、毛利勢は羽柴方を追撃しなかったのである。

 秀吉が信長の横死を知った数日後には、毛利家も雑賀衆からその知らせを受けていた。
 諸説によれば、聡明な小早川隆景が追撃戦を強く主張する毛利家中を押さえ、誓約を固く守って自重するように説いたというし、
「秀吉は人傑である。今は静観したほうが良い。」と言って、血気にはやる武将たちを説得したともいう。
 どちらともそうであったろうと思うのだが、毛利勢には上方に迫る余力がなかったことが本当のところだろう。
 当時の毛利家は、隣国の九州の大友家とは非常に険悪な仲なのだ。毛利の主力部隊を上方に向けては背後に不安があったに違いない。
 また、毛利家中には先君の毛利元就の、
「西国をつつがなく守り、天下に望みをかけてはならない。」という遺訓が脳裏をよぎった者も少なからずいたであろう。
ちなみに、大の秀吉嫌いの吉川元春は追撃戦をあくまでも主張し、小早川隆景と口論になったという。


 ともあれ、秀吉は毛利勢の追撃を受けずに済み、素早くも摂津尼崎で飄々と軍容を整えはじめ、畿内の諸大名には急使を飛ばして参戦を促した。
以前に手回し良くも、逆臣光秀討伐の回状を乱発しておいたおかげで、秀吉の下には数多くの軍勢が集まり急いだ。
高山右近、中川清秀などの有力武将たちも騎下に加わり、四国征伐のために摂津に軍勢を集結させていた丹羽長秀、織田信孝も次第に合流する。
 
 こうして、秀吉の軍勢はみるみるうちに増大し、その総勢は四万近い大軍勢になっていた。

 
 一方、明智光秀は細川家・筒井家に加担を断られ、その軍勢は一万三千余りであった。

 細川家は光秀の娘である玉子を幽閉して義絶を明らかにし、筒井順慶は悩みに悩んで迷った挙句、持ち城にろう城して万が一に備えて戦備を固めていた。筒井順慶の「洞ヶ峠を決め込む」は実に有名な話しであるが、順慶はそこにすら行っていない。全くの日和見を決め込んでいる。
 筒井順慶は以前、信長から大和国を拝領した際に明智光秀に世話になった経緯がある。
 順慶は光秀の介添えで大和の拝領にあずかったわけで、いわば、光秀は大恩人であった。
 
 しかし、順慶は形勢を傍観して光秀を見棄てたのである。

 光秀を見限った理由は様々であろう。
 戦国時代であるとはいえ、主殺しが大罪であることに変わりはない。逆臣を支持したのでは体裁が悪いと思ったであろうし、兵士の士気が奮わないとも考えたであろう。世間の目も冷ややかであるに違いない。
 しかしながら最大の要因は、秀吉の驚異的なスピードを誇る引き返しであり、その膨大な軍勢にあったろう。
 戦国の中小豪族は義理・人情などは平気で切り捨てるが、戦国大名も同類だ。「家」の保全と安泰が第一なのである。彼らの生き残るための鉄側は「長いものに巻かれる」ことであった。

 
 こうして、明智光秀は頼みの綱を失い、その軍勢の士気は著しく低下する。
 光秀の騎下に旧室町幕府を支持する勢力の援兵三千が馳せ参じたが、秀吉の擁する軍勢とは全く相撲にならない。
 また、光秀の勢力圏の周りには不穏な動きを見せる勢力だらけであり、光秀は本拠地の坂本城に残す五千の精鋭部隊を動員することができなかった。


 
 そして六月十三日、羽柴勢の先鋒部隊の加藤光泰、池田恒興の円明寺川の渡河がはじまり、ついに戦端が開いた。

 羽柴勢の山のように黒みわたる大軍勢が津波のように押し寄せ、明智勢をいっきに呑みこみ、押し潰す。


 光秀は京都郊外の山崎で陣容を立て直し、再度の白兵戦を決意して、熾烈な大激戦を挑みにかかる。

 

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【2009/01/18 22:46】 | 未分類
Ⅲ 秀吉 中国大返し


 話しが少々それるが、秀吉の人使いを象徴する逸話をご紹介したい。

 ある日、明智光秀の元に仕官を願い出る者がいた。
 この者は以前に秀吉に仕えたことがあり、光秀は非常に興味深そうに、
「羽柴殿は最近、本当に評判の良い方だが、何か変わったところはあるか?」と尋ねた。
 その者はしばらく思案した後、
「特にこれといってございませんが、少し変わっているといえば、褒美をいただく者たちが驚いて喜ぶことぐらいでしょうか。」と言った。
 光秀は急に顔色を変え、深く考え込んだという。

 秀吉は苦渋のどん底から懸命にはい上がった人物なのだ。人に使われる者の気持ちや、彼らの期待するところを上手につかみ、先行投資のつもりでびっくりするほどの褒美を与えていたのであろう。
有能な人材であれば喜んで仕官を願い出たであろうし、苦労人ならではの人使いの極意といえるだろう。

 
 さて、秀吉は京都に向けて迅速に引き返すことができたのであるが、
しかしこれはいったい何の為のあらかじめの手配りであったのかが大いに疑問なところだろう。
 ここで秀吉に黒い疑惑が生じてもいいところだ。

 当時の京都周辺は武力的な真空地帯で、そこに無防備な織田信長がすっぽりと入ったわけだ。

 秀吉は師団長クラスの武将だから、主君の動向を十分につかんでいたはずだし、貴重な情報源である情報網・諜報網をいたる所に張り巡らしていたはずである。

 うがった見方をすれば、秀吉は事前に信長の危険な状況をキャッチしながらも、それをわざと見逃して、事前準備万端よろしく、信長を見殺しにして天下取りのチャンスをうかがっていたとも考えられる。
 さらにもっとうがった見方をすれば、秀吉は事前に朝廷の公家衆や明智光秀と共謀していたのかもしないし、光秀に謀叛をそそのかしたのかもしれないし、光秀の叛逆をあらかじめ知っていたとも考えられる。
 しかも、結果的に秀吉は天下人になっているわけで、秀吉に対する疑惑はますます深まる。
 有史以来、どの時代であろうとも、証拠隠滅は勝者側の常套手段なのだ。秀吉が同じことをしていたとしても不思議でもなんでもない。

 しかしながら私は、秀吉は無罪であったと推定している。その理由を書いてみるが、
 第一に、秀吉の軍勢は本城の姫路城から備中高松城にまで進撃しているので、その補給路は非常に長く伸びきっていた。その結果、後方の退路と補給路を確保しておく必要上から、その道中には数多くの兵站基地が存在していたはずなのだ。
 しかも、近日中に信長が軍勢を率いて出馬して来るので、その道中や道々の兵站基地を充実させておく必要もあったはずである。道路周辺の整備も必要不可欠な案件であろう。
 したがって秀吉の事前の手配りは、京都に迅速に引き返すためというよりも、羽柴勢の置かれていた状況が必然的に招いたあらかじめの手配りであったに違いない。

 第二に、あの素早い引き返しは秀吉でなければ不可能なのだ。
 先の逸話でご紹介した通り、秀吉の人使いは織田家中でも群を抜いて優れていた。
 あのスピードは秀吉ならではのことなのである。実際、後年の柴田勝家との賎々岳合戦の前哨戦で同じスピード劇を演じて見せて快勝し、猛将の佐久間盛政を生け捕りにしている。

 第三に、秀吉は軍略家というよりも、類い稀な大政治家であったことである。
 秀吉はその生涯を通じて、敵対勢力との戦闘は極力避け、懐柔して味方にしようと心がけた人物である。外交戦略は凄腕なのだ。信長は秀吉の政治力を高く評価して重用しているし、毛利家との和睦交渉がうまく運んだのも、それゆえである。

 第四として、まさしく秀吉に天運が働いたということだ。
 古今東西の英雄たちは、必ずといっていいほどに、ここ一番の正念場で天運にめぐり合っている。
 彼らは土壇場の窮地で天祐に恵まれて、絶命の危難から救われているのである。
 なぜか不思議なくらいに絶妙のタイミングで幸運が訪れて、その後の彼らの命運は眩しいほどに光り輝く。
 これは有史以来、歴史に登場した英雄たちが如実に証明している。
「不運な英雄」と呼ばれる人物も少なくないが、これは盛者必衰のことわり通り、ある時期を境にしてその運勢が下り坂になったことを意味する言葉だ。

 
 
 
 私見になるが、
 我々は戦国時代の日本を上から見下ろすことができるが、あの状況下で信長が横死したからといって織田家の武将たちが本気で天下取りを考えていたとは思えない。
 近代の兵制とは異なり、この時代の軍隊編成は寄り親・寄り子を根本とする。寄り親・寄り子は上下の区別はあるが、寄り親・寄り子ともに所領を持つ豪族なのであり、基本的には同僚なのだ。
信長の君命によってその上下関係は保たれていたのであるが、信長の横死によって必然的に命令系統を失い、上下の区別も曖昧になって指揮系統も混乱している状態なのだ。

 この状況下であれば、「いかにして生き残るか。」が最優先の課題であったはずなのである。
 

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【2009/01/18 06:55】 | 未分類
Ⅱ 秀吉 中国大返し

 秀吉の俊敏な頭脳は素早く回転する。

 毛利家との和睦を早急に締結し、京都に取って引き返し、明智光秀と決戦してその軍勢を撃滅すれば、天下取りのチャンスがふところに転がり込むのだ。

 秀吉と同席する武将たちは戦慄すべき事実を聞かされ色を失い、がく然と放心していたが、
謀将の黒田官兵衛は秀吉の心中を鋭く見抜いている。するすると秀吉に近づき、
「殿、今こそ大博打の打ちどころですぞ。」と、穏やかな口調で励ましの声をかける。

 秀吉の側近くに控えていた、名人久太郎こと堀秀政も大賛成だ。深くうなずき、熱いまなざしで秀吉を見つめる。

 秀吉は全身に痺れる躍動感を覚え、決意のうちに卒然と立ち上がり、これに呼応するかのように諸将も総立ちになった。
 秀吉は奔走しながら次々と飛ばすように指令を出し続け、諸将がその指示を仰ぎ急ぐ。

 はたして、一丸となった全軍は早くも行動を開始し、陣中は闇夜の中で騒然と動き出したのである。
 
 まさに、前代未聞の迅速を誇る中国大返しが始まる瞬間であった。

 
 信長が本能寺で横死したのは六月二日の早朝、秀吉がその知らせを受けたのは六月三日の深夜、明けて四日の午前には高松城に使者を派遣し、清水宗治を切腹させて城兵を救出し、その日のうちに毛利家と和睦の誓紙を取り交わした。

 翌日の六月五日には堤防を完全に破壊し終わり、その水を全て吐き出させて高松城を接収し、
残る城兵全員を毛利方に助けて返し、秀吉は全軍を後退させて、たちまち京への引き返しの準備を全て完了する。
 そして翌六日の早暁、総勢が山津波のような勢いで引き返しを開始。

 猛烈なスピードで走りに走り、無理に無理を重ねて強行し、早くも六月八日には播磨に入り、
その日のうちに秀吉の本城である姫路城に到着した。

 秀吉はすぐさま姫路城内の底倉から金銀・財宝・兵糧などの全てを持ち出させ、それら全部を将兵に残らず分け与え、兵士の士気を鼓舞し、十分に休息させて、翌日の九日には再び強行軍を開始。

 ぶっ続けで昼夜を問わずに進軍し、強行に強行して兵馬を飛ばし、猛烈なスピードで軍勢を進め、早くも六月十一日には、秀吉の軍旗は摂津尼崎にその姿を現したのであった。

 まさに、恐るべきスピードである。
 明智光秀はこの事態に、ただぼう然とするばかりであったろう。

 私見になるが、この迅速な行軍は、事前準備なしには到底おぼつかないはずであろう。
 秀吉は本能寺の変の以前に、大軍が短期間のうちに京都に舞い戻ることのできる手配をしていたのだろうか?心の準備、そしてあらかじめの手配りがなければこうはうまくいかない。

 実際、秀吉の配下である前野長康などは、引き返しの準備を神わざとでもいうべき素早さで行なっている。
 行軍の道中では薪がこうこうと焚かれ、夜でも昼間のように明るかったというし、その道々には、にぎり飯や飲み水まで用意されるという手配りの良さなのである。

 また、秀吉は海路を使って先回りもしている。
 諸将や兵士たちを督励するためだ。
 秀吉を乗せた船は所々で陸地に上がり、秀吉は供を連れて周辺を歩きまわり、道中を汗だくになりながら走る兵士たちに近づいていき、
「誰々の手の者、何某」と従者に記録させて、走り急ぐ兵士たちに後日の褒美を約束して督励したという。
 こうまでされては疲労困ぱいの兵士たちでも、後日の褒美につられて自然に力がわいてくるというものだ。ここのところ、秀吉は人使いと金使いが本当にうまい。

 
 前述しているが、秀吉は姫路城の底倉にあった全部の物を、惜しげもなく将兵にすべて分け与えている。

 その軍勢の士気は、恐ろしいほどに高揚したことであろう。
 
 
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【2009/01/17 00:24】 | 未分類
Ⅰ 秀吉 中国大返し


 本能寺を急襲した明智勢は桔梗の旗印を高々と掲げ、織田信忠の拠る二条御所にも攻め寄せた。
 
 明智勢は喚声を上げ、怒涛の猛攻撃を敢行する。

 織田信忠には数百の軍勢がいたが、明智方と比べれば寡兵であることに変わりはない。信忠は奮戦するも力及ばず、炎の中で壮絶な最期を遂げた。


 こうして、明智光秀は信長とその嫡男を首尾よく討ち取り、謀叛は大成功のうちに幕を閉じたのである。
 光秀は朝廷に願い出て将軍宣下を受ける(おそらく、宣下を受けたであろう。)一方、朝廷に金銀を献上して公家衆の歓心を買い、その軍勢は素早くも丹羽長秀の佐和山城、羽柴秀吉の長浜城を占拠し、光秀自ら安土城を接収してまさに天下人たらんの勢いである。
 そして、近畿の諸大名には傘下を促す急使を飛ばした。
 光秀は有力大名の細川藤孝とは足利幕府の再興のために協力し合った仲で、年来の親友だ。
 細川藤孝の嫡男の忠興には、光秀の娘の玉子(後年の細川ガラシャ夫人)が嫁いでいる。親戚の間柄なのだ。
 また、大和国の実力者、筒井順慶とは苦楽を共にした戦友であった。
 筒井順慶は信長から大和を拝領したのであるが、これは光秀のとりなしと尽力があったから実現している。筒井順慶にとって光秀は大恩人なのだ。
 この二大勢力を傘下に加え、近畿の中小大名たちをなしくずしに抱き込んでいけば、光秀の勢力圏は強大になる。
 しかも、光秀の背後には錦の御旗がある。正真正銘の官軍なのだ。

 明智光秀は現状の予測に確信を抱きつつ、全国の諸大名には信長の死を知らせる急使を走らせ、織田家の有力武将たちが容易に動けないように牽制もする。

 光秀は様々な手段を画策し、近畿の統一に向けて策動していた。



 一方、六月三日の深夜おそく、信長の出馬を心待ちにする秀吉の陣中に急使が到着した。
 
 その使者は京都の長谷川宗仁からの者で、その姿は汗みどろであり、顔面は蒼白であった。
 只事ならないその姿に、黒田官兵衛が早急に秀吉に取り次ぎ、秀吉はさっそくその書状を開いて読む。
「光秀謀叛、上様は本能寺にて御自害、信忠様も二条御所にて御自害」との戦慄すべき文面であった。

 秀吉は唖然として、しばらく無言であったろう。
 放心してぼう然とし、いっきに全身が脱力し、やりきれない虚脱感に襲われたに違いない。

 信長は、秀吉にとって大恩人であった。
 流浪の民同然の自分を取り立ててくれ、その才能と働きぶりを認めてくれた最高の主人であった。
 ときには憤激を買うことも多かったが、主従の情愛を感じさせてくれた名君でもあったろう。

 しかし、秀吉の心の奥底に、なんともいえない晴れやかな開放感と安堵感があったことも事実であろう。

 我々は、旧ソ連時代のスターリンの死を思い出さなければならない。
 スターリンが会議の席上で倒れ、死の床に着いて永眠した時に、その側近の中には拍手する者あり、小躍りしながら大喜びした者たちも大勢いたのだ。

 織田信長は強烈な独裁者であった。
 
 信長の命令は厳命であり、いかなる理由があろうとも命令違反は絶対に許されない。
 逆らえば必ず殺されるか、無残にも放逐された。
 信長は非情な決断を平然と下し、比叡山を焼き払い、一向衆徒を殺戮し、盟友や家臣には酷烈極まる悲惨な決断を迫ったのだ。
 徳川家康は妻子を斬り、佐久間信盛は餓死した。
 秀吉も長年に渡って信長に仕えてみて、身の気のよだつほどの恐怖を感じたこともあったろうし、随分とその身の細る思いもしたであろう。

 また、裏を返せば、信長の横死は千載一遇のチャンスでもあった。

 信長の出馬を伝え聞いていた毛利家は弱腰になり、秀吉の元に条件付きの和睦を申し込んでいる最中だったのだ。

 秀吉に好意的な毛利方の外交担当者、安国寺恵慶と会談すれば、毛利との和睦を早急に締結できる可能性もある。


 まさに、秀吉の才略が光り輝く絶好の好機であった。


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【2009/01/16 22:34】 | 未分類
考察20 戦国の彗星児 織田信長


「織田信長は、本当に日本人だったのか?」と、私は疑問に思う時がある。
 
 三国志に登場する魏国の曹操の目の色は、ブルーだったという風説を聞いたことがあるが、
「信長の目も、青かったのでは?」と、考えたりもする。信長は、実は外人だったと言ってくれたほうが、なぜかすっきりする。

 普通に考えれば、信長の出現はとても奇妙であり、理解に苦しむ。
「信長は天才だった。」の一言ではどうしても納得できない。私は長々と信長の偉業を書き連ねてきたが、確かな手応えがどうしても感じ取れないのだ。

 当時は非常に迷信深い世の中であるにも関わらず、信長は宗教に感化されることなく、合理主義をあくまでも堅持し、冷徹な決断を平然と下して比叡山を焼き払い、僧徒を殺戮したのである。一向衆徒にいたっては数万人が殺された。

 いくら政教分離のためとはいえ、腐敗した坊主が多かったといえども、あの時代背景の中で、
「本当にやったのか?」と思えてならない。

 居城の移転もそうだ。信長は親族間の相克の末、那古野城から清洲城に早くも移り住む。
 そして、尾張をやっとの思いで統一した小豪族が、美濃を取るために居城を小牧山に移し、美濃を攻略するとまたまた本拠を稲葉山に移して、挙句の果てには「天下布武」などと豪語しているのだ。
 当時の人々には、「身のほど知らずの田舎者め、なにをほざいているのか。」ぐらいに映るほうが自然であったろう。
 織田信長には誇大妄想癖があったのではないだろうか?尋常の精神状態ではないように思えるのは私だけであろうか?

「信長は、天下統一の設計図を持っていたのだ。」と、私は本文の中で書いたが、たかが運良く美濃を取った尾張の田舎大名が、こんな大それた発想を持っていたこと自体、非常に理解に苦しむし、本当に変なことだろう。
 だいいち、信長のように攻略すべき戦略目標に向かって居城を移転する発想は、当時の大名たちには全然見あたらない。本拠とする居城をしっかりと構えて、そこから領土の拡張を目指したほうが無難であり、それが当時の常識であったろう。
「居城の移転は、本当にあったのか?」と、どうしても疑念を抱いてしまう。

 他にもまだまだ沢山あるのだが、ようするに信長の発想といい、やった事といい、信長は当時の常識や良識から逸脱しすぎるのであり、信長の思考は当時の日本人のそれから遠くかけ離れすぎているということである。
 いくら信長が天才だからといって、あの発想と決断は超人的でありすぎて、どうも信じがたい。
 作家の半村良氏の作品である「戦国自衛隊」のほうが本当にすっきりするというものだ。タイムスリップした重装備の自衛隊員が信長の代役を果たしてくれたほうが、なんとなく納得できる。

 また、当時の尾張兵の風評は、ひ弱の軟弱の弱兵で非常に有名だったし、「兵農分離の採用だ。」「大量に鉄砲を揃えたのだ。」と、織田軍団を擁護して書いてみたところで、言い訳がましく聞こえないこともない。
当時、武田も上杉も兵士は精強無比で実に有名であったし、詳しく調べると鉄砲も数多く持っていたのである。信長が勝ち残るほうがとても不自然なのではないだろうか。

 ともあれ、信長は想えば想うほど突然変異に似た、非常に不思議な人物なのである。
 朝廷の黒幕説も決定打があるわけではないし、信長の殺され方もあまりにも無防備にすぎて摩訶不思議だろう。



 
 さて、後世の批評家たちは、秀吉の治世を引き合いに出して、
「あの時点で信長が倒れたことは、その後の日本の平和にとって良かったのだ。」というが、
私はそう思わない。

 ずっと書いてきたことなのであるが、信長の残虐性はその時代の罪なのであり、信長の個人的な個性や性質を物語るものではないと、私は信じる。

 冷酷的な手段を取らざるを得ない信長の悲しい宿命が、その時代にあったはずなのだ。


 秀吉と同じように、中道にして倒れた信長の真意もまた、「平和の招来」にあったはずなのだから。


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【2009/01/16 17:56】 | 未分類
Ⅳ 争覇 本能寺へ


 濁流の流れ込むように本能寺に押し寄せた明智勢は境内に突入し、信長を探し求めて乱戦を繰りひろげる。
 信長の供回り衆は無勢ながらも勇敢に防戦に努めるが、絶望的な血戦となり、壮絶な死闘の末に次々と絶命していく。

 その光景を眺める信長は鋭い眼光を放ち、敵兵を睨みつけながら渾身の強矢を丹念に撃ち放つ。
 
 鋭い強矢が音もなく飛来していき、敵兵に命中しては突き刺さり、矢羽根がのめり込むほどにその体を貫き通す。

 信長は弓の弦が切れると、すぐさま槍に持ち替えて敵を突いて猛烈に斬りまわる。

 鮮血を浴び、負傷しようとも、信長は精魂の尽き果てるまで力戦する。

 信長の全霊を込めて、力の続く限り、命の炎を焼き尽くすが如く、倒れ込むまで壮烈に奮戦するのである。
 まさに、信長らしい戦いぶりであり、信長の最後にふさわしい戦闘であった。


 やがて疲れ果て、重傷も負った信長は、かすかに笑みを浮かべながら寺の奥深くに引き下がり、自ら火を放ち、誰の介錯もないままに自刃して果てたのであった。享年四十九才。

 信長の愛唱である敦盛の一節の如く、自分の死生観を見事に貫徹させた最期であった。
 また、信長はその生涯を通じて「覚悟の座り」を持つ人であった。
 死に臨んで未練など、微塵もなかったであろう。
 全くもって実に見事な人物であり、壮烈で立派な最期であった。


 
 
 さて、信長は自分の遺骸を光秀に渡すまいとして、徹底的にそれを焼失させている。
 この乱の後、光秀は顔面を蒼白にして、あたふたと信長の遺骸を捜し求めて追求したであろう。
 光秀は小心者だ。信長の死を確認できなければ、夜もおちおち眠れないところだろう。

 私見になるが、信長は爆薬による爆死であったように思う。松永久秀がその首をさらされるのを恥じて信貴山城の天守閣で爆死している。後年のことになるが、柴田勝家も同じ理由で爆薬による爆死を選んでいる。この時代は「恥の文化」がまだまだ非常に根強いのだ。
現代の政治家や高級官僚は厚顔無恥と思えるほどに平気で恥をさらしているが、織田信長の爪の垢でも煎じて飲むべきであろう。
 ところで、「信長の棺」というTVドラマを見たことがあり、非常に興味深く拝見したのであるが、
当時の武士階級の「恥の文化」という時代背景を考えると俄かには信じがたい話しであるが、しかし、いたずら好きの信長のことだから、ひょっとすると遊び半分の気持ちで本能寺の地下に脱出口を設けていたかもしれない。信長は入京の際には本能寺に宿泊することが多かったのは事実であり、万が一に備えていたとしても不思議ではない。
 非常に想像力のたくましい見解であり、このような歴史小説家が出てくることは本当に喜ばしいことである。

 
 
 信長最大の不幸は、直属の軍隊を持たなかった事にあるかもしれない。
 戦前の天皇陛下は直属の近衛師団にしっかりと警護され、軍隊の叛乱に備えて警戒を厳重にしていた。アドルフ・ヒトラーは親衛隊であるSSを直接掌握して軍隊を監視し、直属のSA(警察隊)は叛乱分子の摘発に一役買っていた。
 直属軍隊の必要性に気づかなかった信長は、師団長の叛乱に遭ってこの世を去ったのであるが、しかしながら、私は少し安心している。ホッとするのである。
 あの、中世から近世へという過渡期の時代の中で、信長が直属軍隊の必要性に気づく人物であったら、天才にすぎて少し怖いのである。

 尾張に生まれ育ち、田舎の地方豪族の寄り合い所帯からはじまり、他領を侵略して次第に吸収し、そして限りなく膨張し続けた果てに滅んだ織田信長は、まさしくその時代に生まれた人であり、確かに時代の過渡期に生きた人物であった。それが、私を安堵させるのである。

 信長の事績は超人的でありすぎた。
 現代に生きる我々から見ても、信長は不思議なくらいに革命的なことをやってのけている。
当時の人々からすれば、
「織田信長は、常軌を逸した野蛮人!」に映って見えたことであろう。

 また、織田家の家臣たちの心労、体力の消耗度も、察するに余りある。

 明智光秀や羽柴秀吉の行動を丹念に順を追って調べていくと、二人とも席の温まる暇もないほどにあらゆる場所に姿を現して動きまわっている。その部下たちにいたっては、想像を絶する忙しさだろう。
 ましてや、居城はコロコロ変える、高層建造物はバンバン建てる、果てしのない戦争の日々で軍資金はドンドン飛ぶわけだ。
 彼らは苛酷な重労働の上に、金の調達に目のまわる毎日であったろう。

 しかも、織田信長が絶対君主制を目指していたとしたら、身も心もボロボロにして働き抜いた過労死寸前の光秀も秀吉も、お払い箱になる運命だったかもしれないのだ。
 
 これは歴史が如実に証明していることなのであるが、絶対君主制下において、ナンバー2で居続けることは非常に困難なのであるから。

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【2009/01/16 12:14】 | 未分類
Ⅲ 争覇 本能寺へ

 謀議に同席している斉藤利三も大賛成であった。光秀に世辞を言う重臣もいたという。

 後世の儒者らは、光秀を諌めようとしない重臣たちの態度を痛烈に批難しているが、この批評は江戸時代の儒教学者特有のもので、武士の主従関係とは、儒教的な倫理観でわりきることはできないのである。
「坂東武者は、主あるを知りて、主の上に主あるを知らず。」という古い言葉があるが、主人の上の主を真剣に考えたら封建制度は成立しない。
 封建社会において、武士の忠義とは直属の主人に対するだけの忠義であり、忠誠であることが建前であるはずだ。
 後年の幕末に見るような「将軍の上に天皇ありき」の主人を飛び越えた主に対する考え方を真剣に持てば、封建制度は瓦解崩壊してしまうのである。


 さて、明智光秀率いる一万三千の軍勢は、京都に近い老ノ坂を越え、沓掛に着いて休息した。

 謀叛については重臣と一部の高級将校以外、まだ誰も知らない。

 翌六月二日の夜明け前、総勢は再び進軍をはじめ、闇夜の中を整然と行軍して行く。
 明智勢はしばらく進軍を続け、桂川のあたりまで来ると、光秀は全軍に停止命令を出し、臨戦態勢に入るように指令した。

 武士たちはこの命令に随分と戸惑ったことであろう。彼らは信長に晴れ姿を見てもらうつもりでいるのだ。また、近辺に敵軍がいるとも聞かされていない。
 しかし軍令は絶対なのだ。ともかくも命令どおりに全軍が粛々と戦備を固める。

 やがて、戦闘態勢を整えた明智勢はゆっくりと桂川を渡りはじめ、光秀は緊張した趣きで総勢を見渡し、熱いまなざしで諸将の渡河を見届ける。


 そして、総勢が無事に渡河を終えて、隊列を組み直して整然と待機していると、
明智光秀はとうとう、全軍の前で本心を打ち明けたのだ。
 
頼山陽いわく、
「ワガ敵ハ本能寺ニアリ、汝ヨク力メヨ」だ。


 度肝を抜くとは、まさにこの時のことをいうのであろう。
 
 驚愕のあまりぼう然として、放心してもおかしくないところだ。大騒ぎするゆとりさえなかったであろう。


 しかし、直属の上司たちはしだいに闘志をたぎらせて活気立ち、やる気満々なのだ。
しかも、戦国乱世の興亡の中で何度となく熾烈に戦い、たくましく生き抜いてきた兵士たちなのだ。
 彼らが我に返った時には、断然、大いに奮い立ったに違いないのである。




 
 天正十年(1582年)六月二日の早暁、信長の宿泊する本能寺は明智勢によって厳重に包囲された。
 本能寺の周辺では軍馬や雑踏により、かなり激しい雑音がしていたはずだ。

 この不審な物音で目覚めた信長は、がばりと跳ね起き、
「なにごと、家人のけんかか?」と言うと、森蘭丸が血相を変えて走り寄り、
「殿、どうやら謀叛のようにございます!」と驚きの色を隠せない。
「どこの手の者か?」と落ち着き払う信長の問いに対し、
「まさしく青い桔梗の旗印、これはまさに惟任日向守!」と言いざま蘭丸は絶句してその場にうなだれた。
信長は、「日向か。是非にも及ばず。」と漏らすようにただ一言を発する。

 信長は、光秀の軍略であれば良く知っている。
 厳命して仕事の多くを光秀に任せ、それらを完璧に仕上げるように指導もしてきた。光秀はそれによく応えた逸材の人物であった。
 信長の心境は、もはや諦めるよりほか無しであったろう。
 光秀は信長を討ちもらすことのないよう、しっかりと手配済みなはずであった。

 しかしながら、信長はここで諦めて死ぬような人物ではない。
 彼はあくまでも行動派なのであり、強烈な野生児なのだ。
 卒然と覚悟を決めた信長はすぐさま奮い立ち、正面の死線に毅然と挑んだに違いない。


 一方、本能寺には喚声とともに火矢が次々に射ち込まれ、明智勢は閉じられた門を壊しにかかる。

 そして、その門を打ち破った明智勢が怒涛の勢いで踊り込み、猛然と抜刀しながら肉薄する。
 

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【2009/01/15 15:34】 | 未分類
Ⅱ 争覇 本能寺へ


 川角太閤記によれば、月がかわって六月一日の夕刻、光秀は、
「京より森蘭丸殿の使者が参り、上様(信長)が我が軍の軍容を見物したいとの仰せである。早々に京へ出発するので左様に心得るよう。」と家中に触れを出した。
 
 この突然の出動命令に家臣たちは驚き、慌て急いでその準備に奔走するのであるが、どうにか日没前までには出動準備を全て完了し、明智勢は整然と隊列を組んで粛々と亀山城をあとにして行く。

 私見になるが、諸説によれば明智勢はしばらく中国路を行軍し、その途中で謀議を図り、早急に軍勢を反転させて信長の所在する京都を目指すことになるのであるが、これは信じ難い見解だ。

 大軍勢での進路の変更は、高級将校のみならず下級将校までも疑心暗鬼に陥らせ、織田家に通報・通謀する家臣たちも出てくる可能性が非常に高いのだ。そんなことでは信長打倒を画策する隠密裏での作戦行動は限りなく不可能に近い。
初めから全軍が京都に向けて進軍する説のほうが現実的で説得力があり、実際に証言を得て筆録したと云われる川角太閤記の説のほうが信用できる。
 
 光秀の脳裏には、最後のぎりぎりのところまで全軍を騙し切る覚悟があったはずなのである。



 川角太閤記によれば、この行軍途上で光秀は自ら全軍を督励してまわり、その軍勢の隊列を三段に分けて入念に検分し、その後、馬の手綱をゆるめて総勢を見渡していたところ、たまたま光秀の側近くを通りかかった斉藤利三に声をかけ、
「我が軍は、どのくらいの軍勢になるであろうか。」と尋ねると、斉藤利三は無表情に、
「総勢で一万三千はござろう。」と、何気なしに答えて通り過ぎて行ったという。

 いまだに謀叛の戦略に思い煩い、その不安を隠しきれないでいる光秀の心情、そしてその光秀の心境など露知らずに自然に受け答えて通り過ぎていく利三の姿が鮮明に想像されて、簡単な問答の中に深みのある興趣が感じられる。



 さて、京都に向かう道中をしばらく行軍した後、光秀は明智左馬助光春を呼びとめ、重臣たちを早急に集めるように頼んだ。
 光秀は一足先に幔幕に入り、自ら重臣たちの床机を一つずつ丁寧に用意する。

 やがて床机をきれいに整え終えた光秀は、床机の一つにその身をずしりと沈め、しだいに集まり来だした重臣たちの一人一人に声をかけ、物静かな口調で床机を勧めて座らせる。


 
 光秀は同席する重臣たちを心静かに見渡し、改まった趣きで粛然とし、しばらくの間は無言でいたのであるが、ついに、心の内をすべて打ち明けた。
 
 

 
 光秀の口から発せられた言葉に重臣一同は仰天したろう。
 
 恐怖すら感じたかもしれない。戦慄すべき無言の沈黙がしばらく続き、その場の雰囲気は凍りつくようであったろう。

 しかし、その沈黙を破るかのように、卒然と重臣の一人一人が思うことを語り始める。

 
 しだいに話しのやり取りが交わされるようになり、やがて重臣たちは気力を取り戻し、思案しては納得し合い、
そしてついに、重臣一同は毅然として明智光秀を仰ぎ見たのである。

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【2009/01/15 06:24】 | 未分類
Ⅰ 争覇 本能寺へ



 織田信長の出動命令に従い、丹波国の亀山城に戻りついた明智光秀は五月二十八日に愛宕山で参詣、神前にて武運長久を願い、謀叛の成就を祈願した。
しかし、まだ迷いがあったであろう。織田信長は光秀にとって大恩人である。わずか三千石の武士から二十数万石の大名に取り立ててくれたのは、織田信長に他ならない。 

 ところで、この時代は愛宕山権現様の参詣が大流行だ。
 神様にも、はやりすたりがあるようで、その時代に応じて天神様が非常に人気を集めたり、熊野権現様の参詣がはやって伊勢参りが大流行したりしている。御利益を施す神様もその時代の流行によって非常に暇であったり、めまぐるしく忙しかったりで大変だ。日本人の宗教観を如実に示す好材料であろう。
もっとも日本の歴史を過去にさかのぼって考察すると、戦乱や暴動の災難というよりも自然災害や飢饉との戦いの連続であった。
過去の統計から地球上で起こる震度六以上の大地震の40パーセント前後は日本で発生しているし、大型台風が頻繁に通過するのも世界で非常に珍しいという地域性がある。
自然災害には逆らえないという意識が非常に強い民族性があり、多神教的な自然崇拝(アニミズム・シャーマ二ズム)が日本人の心性の根底に根強く流れ続けているのも道理である。多神教的な自然崇拝が日本民族の特性の一つといえるであろう。
ちなみに、イギリスや西欧諸国は自然を征服せんとばかりにレンガ造りの高層建造物をバンバン造ったが、あれを日本で構築したら大地震でイチコロだったのである。千年以上の法隆寺は地震対策がバッチリの高層建造物であり、地震の際には建物自体が揺れて平衡を保つように設計されているのだ。
 自然との調和・融和が日本の伝統的な文化であり、それが日本人の宗教観にも強く影響しているのであろう。 
 
 
 さて、戦勝祈願を終えた光秀はこの時、連歌師の里村紹巴と西の坊で連歌を詠み合っている。
 光秀は、
「ときは今あめが下しる五月かな」と発句した。
 五月は旧暦で梅雨の時期、雨を題材にしているのであるが、裏には深い意味が込められている。
 ときは「土岐氏」にかけ、あめが下しるは「天下を知ろしめす」にかけている。

 この発句を受けて、西の坊の住人は、
「水上まさる庭の松山」と詠じ、里村紹巴は、「花落つる流れの末を関とめて」と続けている。

 西の坊の住人が詠じた句のまさるは「勝る」にかけ、松山のまつは「時期まで待て」という意味。
 
 里村紹巴の歌の落つるは「落つる=信長の死」を意味し、流れの末を関とめては「織田家の諸将を防いで」という意味にかけている。

 光秀の真意を十分に推察しての受け答えであろうが、それにしても実に見事な歌の詠みあいである。
少々講談臭さがあり、作り話しの感が否めない。

 この時の出来事として、改正三河後風土記におもしろい逸話がある。
 連歌のやり取りの最中で、席上の者たちが連歌の句を思案している時、光秀が突然つぶやくように、
「本能寺の濠だが、あれはかなり深いのだろうか。」とぽつりと言った。
同席する者たちは驚き呆れ、里村紹巴が静かな口調で、
「歌の真意を口に出しては、もったいなくて興ざめですよ。」とたしなめた。
 光秀はハッと我に返り、慌てて両手で口をふさいだという。

 また、その席上にお茶うけの菓子として、ちまきが出されていた。
 光秀は笹の葉をむかずにかじりつき、それを黙々と食べ始めたので周りの者たちは仰天したという。

 明智光秀はこの連歌興行の後、その夜は西の坊に宿泊したのであるが、その日の深夜おそくに里村紹巴がふと目を覚ますと、光秀が何度となく寝返りをうってはため息をついていたので、
「眠れませんか。」と尋ねると、
「いや、連歌の句を思案しているのだ。」と言って寝静まったという。

 光秀は決断に迷い、戦略に悩み苦しんでいたのであろう。これらの逸話の真偽は不明なのだが、光秀が謀叛の思念にとらわれて、思い煩っている情景が目に浮かぶのである。場面の描写としては最高だ。


 そして、織田信長が京都に入った五月二十九日、明智光秀は丹波の亀山城に帰り着いた。
 
 この時、光秀はすぐさま指令を発し、食糧や武器・弾薬を運ぶ荷駄隊を中国地方に向けて先発させている。
 この命令に家臣たちは当然、中国遠征が近いと信じたことであろう。

 光秀は用心して、まだ誰にも謀叛については語らない。

 
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【2009/01/14 03:33】 | 未分類
Ⅳ 夢 まぼろしの如く
 したがって、当時の状況下で織田信長を討ったとしても、その勢力を支えきれないことぐらいなら明智光秀であれば容易に推察できたはずであろう。
 信長亡き後の織田家諸将の動向は未知数であるし、徳川家康の動静は予測不可能だろうし、短期間のうちに近畿地方を押さえたとしても光秀の四方八方は敵だらけとなる。

 明智光秀の理性と知性、そして情勢を鋭く見抜く優れた分析力が、織田信長の恣意殺を許さないはずなのだ。

 ところが古来より、明智光秀の心情や感情に謀叛の動機を求める諸説や逸話が非常に多い。
 
 信長に対する積年の恨みが爆発したとか、信長と性格が合わなかったとか、信長に殺されそうなので先手を打ったとか、天下取りの野望を抱いていたとか、信長から所領を召し上げられるのを危惧したとか、枚挙にいとまがない。
 先に書いた心情や境遇であれば、織田家の武将であれば全員が持っていたであろう。明智光秀に限ったことではないはずだ。

 ましてや、信長を殺害するチャンスだからといって、短絡的に実行してしまうほど光秀は愚かな人物ではあるまい。
 
 しかし、もし、明智光秀の背後に朝廷の権威が味方していたら、しかも光秀が幕府の再興を念願していたなら、先述した話しは変わったものとなるであろう。詳しいことは以前の考察で書いている。
思い出していただきたい。

 ちなみに、光秀の性格は小心でまじめな人だ。勤勉で正直な人だ。このようなタイプの人物は確かに気分転換が非常に下手である。いつまでもくよくよして、心の傷を腹の中に溜め込んでしまうことが多い。いたずら好きの信長であればそんな光秀の姿にむずむずして、まっさきにからかいたくもなったろう。
しかしだからといって、光秀が積年の恨みだけで謀叛に踏み切ることなど到底あり得ないだろう。

 明智光秀は朝廷の権威を利用し、公家衆や宗教勢力の力を借りてその政権を維持しようと考えていたのであろう。

 このように、私は朝廷の黒幕説を取るのだが、他にも諸説があるのでご紹介する。

 細川家記によれば、光秀は武田勝頼に密使を送り、共同で信長を打倒しようと提案したのであるが、勝頼は織田家による策略だと思い、全然相手にしないで捨て置いた。
 そして武田家の滅亡後、徳川家康が武田一族の穴山梅雪をともなって安土城に来る事となり、
光秀は以前の謀略の経緯が穴山梅雪の口から露見するのを恐れて、先手を打って信長を殺したのだという。
 しかしもしもこの話しが本当であれば、光秀は非常に危険な賭けをしていたことになる。
 私が武田勝頼の立場であれば、光秀の書状を受け取り、逆に謀略を弄して明智光秀の内通の件をまっさきに織田信長に伝えるだろう。
この謀略たった一つで、織田家の師団長である光秀を失脚、もしくは信長によって光秀を殺すことができる。

 次は、明智軍記にある説。
 信長は光秀の領国である近江・丹波を取り上げて、そのかわりに石見・出雲を与えると言った。
 当時、石見・出雲は毛利領である。
 光秀はこれを危惧し、将来的に所領をすべて召し上げられると心配して謀叛したのだという。

 この説の傍証として、織田信孝(信長の息子)が丹波の国侍に出した天正十年五月十四日付けの軍令書があり、この時点で明智光秀は丹波における軍事権を取り上げられていたとする見解がある。

 しかし、これはおかしい。
 明智軍は国侍で構成されている。近江国だけではなく、丹波の国侍も大勢含まれているのだ。

 しかも、軍事権を剥奪されたら補給はどうするのか?武器・弾薬が尽きたら素手で戦うのか?
食糧や武器を略奪しながら戦うのか?部下に与える俸禄や恩賞はどうやってあてがう?
明智軍は根なし草のようになった状態で毛利領に乱入するのか?
まだまだ疑問点が数え切れないほどあるのだが、軍事権がなければ明智軍は全然軍隊として機能しない状態と成り果ててしまう。まともな作戦行動すらおぼつかない状態になってしまうだろう。

 ましてや、光秀に中国地方への出動を命じて間もない信長が、光秀から軍事権を取り上げ、明智軍を動けないようにすることなど、あの時点であり得るのだろうか?

 そもそも軍令書一枚の解釈で「明智光秀の軍事権剥奪」とするのは、非常に飛躍しすぎた解釈なのではないだろうか。

 
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【2009/01/10 16:07】 | 未分類
Ⅲ 夢 まぼろしの如く


 ところで、ここで明智光秀の謀叛の動機について詳述したい。
 
 以前の考察で少し書いたことなのであるが、光秀は古典的な教養人である。織田信長は中世の積弊をこっぱ微塵に打ち砕く破壊者であった。

 中世の積弊の打破を手がける信長の姿は、当時の特権階級の者たちから見ると、
これは、「憎んでも憎み足りない、とんでもない奴!」なのである。
なぜなら、信長の政治目標と政略的な手段が、彼らの特殊権益を一番に侵害しかねないからである。

 主に公家衆、僧侶や神官なども信長を非常に憎悪していたに違いない。いつの世もそうであるが、急激な政治改革の深刻的な犠牲者は一般の庶民というよりも、あぐらをかいて特殊権益にあずかっている一部のエリート層たちだ!
 しかも、話し合いもなにもない。強大な軍事力を背景に強圧的に政治改革が断行されてしまうのである。
 信長は建前上、官位を返上して無位無官となり、朝廷の秩序から逸脱し、朝廷を度外視した完全な政治権力の集中を念願していたふしがある。おそらく信長の念頭には、天皇家や朝廷は日本の象徴ぐらいの位置づけでしかなかったであろう。
このように、もしも信長が絶対主義を目指していたとしたら、朝廷の公家衆の有する特殊権益(主に「座」の特権)は、たちまち吹っ飛ぶ可能性が非常に高いのだ。

 また、信長は宗教勢力の政治的な介入を極端に忌み嫌っていた。信長の政治的な目標は専制主義の樹立にあったようであるから、これはしごく当然のことなのであるが、これにより、宗教勢力が一番の旨みにしていた自治権は、織田信長によってことごとく奪われた。
比叡山が焼かれ、加賀は討滅され、そして本願寺は降伏して退去した。
 また、寺社勢力は朝廷の公家衆の威光を借りて特殊権益にあずかっている。
 当時の市場は門前市が主流で、寺や神社の付近で市場が開放されていたのであるが、同業者組合の「座」に加盟している事業者から上納金をせしめていたのが寺社勢力なのだ。
 織田信長は楽市・楽座のように市場開放論者なのであるから、坊さんも神主さんも不安になるのも道理なのである。
したがって、こうして信長の覇業の達成がしだいに近づくにつれて、公家衆も寺社勢力も幸先があまりにも悪すぎるのだ。
ここで公家衆や寺社勢力の自衛本能が働かなければ逆におかしいであろう。
 織田信長が話し合いに応ずるかどうかは別にして、彼らが信長に対抗する勢力を陰ながら資金協力などして応援するか、もしくは何らかの方法を用いて信長を殺害するしか自衛の手段がない。
しかし、織田家の勢力はあまりにも絶大で、信長の対抗馬というと見あたらない。毛利は押されぎみであるし、島津も北条も伊達も遠国にすぎるし、信長の対抗馬としては非常に心細い。
 それでは信長を殺害しようとしても肝心の軍事力がない。室町幕府は滅亡し、朝廷は軍事力の術を失っていたのだ。
 
 しかしながら、謀叛であれば織田信長を倒すことは可能であろう。

 シーザーは、政変に不満をもつ特権階級から政敵と決めつけられ、最も頼りにしていたブルータスに殺されている。ケネディ大統領は急激な政治改革を推進し、時のエリート官僚や軍需産業の首脳部に睨まれ、熱望むなしく暗殺された。
このような例は歴史上、探せばまだまだ沢山あるのだが、両者ともに死を境にして政治改革は頓挫している。
信長もこの例に漏れず、急激な政治改革を断行し、短期間のうちに強行に推し進めていたのである。
 
 したがって、根強い抵抗勢力である公家衆や寺社勢力は謀叛による信長打倒を画策し、明智光秀に目をつけたのではないだろうか?
 明智光秀は織田家の有力武将で、師団長クラスの軍事権を持ち、中世の知識人でもあり、教養豊かであるから、窮地に陥る彼らの立場をいち早く理解しやすい人物でもある。
また、光秀も信長の急激な政治改革に対して危惧の念を抱いていたかもしれない。


 ところで、明智光秀の怨恨説や野望説は、私には到底信じられない。
 
 光秀は頭の良い人である。武将ながら教養も高く、感情に流されて理性を忘れることなどあり得ないだろう。信長は光秀の知性、教養もそうだが、情勢を鋭く見抜く卓抜な洞察力も高く買っていたからこそ、織田家の師団長にまで大抜擢したのだ。
 織田信長の家臣の能力を推し量る才能は、本当にずばぬけて優れている。
 桶狭間の合戦で今川義元を討ち取った毛利新介は、今でいう係長どまりであった。
 信長は明智光秀の潜在的な英知と実力を見込んだからこそ、大抜擢して師団長という大役を任せたのである。 

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【2009/01/09 01:33】 | 未分類
Ⅱ 夢 まぼろしの如く


 川角太閤記の記述の信憑性がどうであれ、ともかくも明智光秀は徳川家康一行の大満足する盛大な接待の実現に向けて東西に奔走した。
 
 また、織田信長は秀吉の援軍要請を快く聞き届け、中国地方遠征の下準備に忙しかった。

 羽柴秀吉の出馬要請は、まさに毛利家覆滅の好機到来であった。
 秀吉は山陽道で毛利の主力部隊と睨み合っている。
 この際、手薄になった山陰道から一軍をして毛利領に乱入させて、信長が大軍を率いて両道から後詰めをすれば毛利方は壊乱し、覆滅まちがいなしの形勢なのである。

 しかし、山陰道を任せられる武将は明智光秀しかいない。
 
 敵地を経略しながらの進撃となると師団長クラスの武将でなければ務まらない仕事だ。また、ある程度の実績のある武将でなければ任せることができない。

 織田家には当時、五人の師団長クラスの武将がいた。
 
 柴田勝家は北陸方面を担当して越後の上杉家と交戦中、滝川一益は武田家滅亡の後、関東探題として厩橋城(前橋)に入り、北条家・上杉家に睨みを利かせている。丹羽長秀は摂津に軍勢をたむろさせて四国征伐の準備に忙しい。羽柴秀吉は前述の通りであり、残るは明智光秀ただ一人であった。

 信長は光秀の接待役を自ら引き受け(川角太閤記によれば、信長は光秀の接待役を罷免し、代わりに堀秀政を任命したとあるが、近年の研究者の間ではこれは疑われている。)、五月十五日、緊急に動員令を下し、明智光秀をはじめ、細川忠興、池田信輝、高山右近、中川清秀らに早急に帰国して戦備を整えて出陣するように指令した。


 一方、徳川家康一行はちょうどその頃に安土城に到着。光秀の準備した饗応の数々に大満足し、信長からの盛大な歓待に喜んでいた。
 信長は上機嫌な家康に上方見物を勧め、家康も大いに心動いて安土城に数日逗留した後、五月二十一日には京都に入った。この日、信長の命令で嫡男の織田信忠も室町薬師寺の妙覚寺に到着。
信忠の供はわずかの小姓と馬まわり衆だけであった。

 徳川家康は京都見物で数日を過ごした後に、大坂、堺、奈良などを見てまわる予定であった。
 
 織田信長の方は、上方見物に向かう家康一行を見送り、直ちに毛利征伐の準備を急ぎ、五月二十九日には安土城を出発、その日のうちに京都に到着し、わずかの供を連れて本能寺に入った。



 さて、ここで私見を書くが、当時の京都は武力的な真空地帯であった。
 
 
畿内で織田家に敵対する大名はことごとく滅ぼされ、または屈服し、本願寺は降伏して織田家の鼻息をうかがっていた。まさに、織田信長にとって京都は安全地帯であった。
ゆえに、信長も信忠も丸腰同然の状態で入京したのであろう。

 また、家臣の謀叛など、全く想定外であったに違いない。
 織田家の有力武将たちのほとんどが遠国におり、謀叛が発生した場合、彼らはすぐさま京都に駆けつけることができない。信長は当然、それを十分に熟知していたであろう。信長は家臣の謀叛など度外視していたに違いない。史料・諸書を読んでも家臣の謀叛に対する警戒心など、微塵も見せていないのだ。
 
 ところで、明智光秀の謀叛の動機については、以前の考察でご紹介している。思い出して頂きたい。
 
 つけ加えるならば、明智光秀と朝廷のつながりがあったとすれば、両者の間で交わされた謀議はこの段階ですでに済んでいたであろう。
 公家衆は謀略好きだから、もしかしたら何らかの手段を使い、信長を京都におびき寄せたのかもしれない。
「天皇が譲位を望んでいる。」などといった偽りの情報で信長を誘い出したのかもしれない。


 

 ともあれ、「信長は慢心し、こともあろうに油断したのである。」という見解もあるが、しかし、
この情勢下でのこれ以上の見切りは、人知を超えた限界であったろう。

 しかしながら、謀叛をたくらむ者であれば、こんな千載一遇のチャンスはあるまい。



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【2009/01/08 09:41】 | 未分類
Ⅰ 夢 まぼろしの如く

 織田信長は徳川家康の盛大な歓待に大いに喜び、弟のように自分を慕う家康に全幅の信頼を寄せて、つつがなく居城の安土城に到着した。天正十年四月のことであった。

 信長は入城して間もなく、素早くも四国の長曾我部征伐を発令し、丹羽長秀、織田信孝がすぐさま出動準備に取りかかる。摂津に大軍勢を集結させて四国に上陸させる作戦である。


 ところで、長曾我部家の当主、長曾我部元親は四国土佐の大名で、元々は身代はそれほど大きくなかった。長曾我部家は一時期、近隣の諸豪族によって滅亡寸前にまで追い込まれたことがあったが、長曾我部元親は英邁で勇猛、寡兵ながら勇戦して武名を轟かせ、ついに四国全土を平定する勢いを見せるまでに成長したのである。
 長曾我部家の勢力が四国の三分の一くらいの頃、信長は長曾我部元親と盟約を結び、その交渉は明智光秀が任されていた。
 光秀は深い絆で結ばれた同盟関係が良策と考え、光秀の重臣である斉藤利三の娘を長曾我部元親の嫡男の長曾我部信親に嫁がせていたのである。
 
 だが、織田信長の予想に反して長曾我部の勢力が四国全土を席巻する兆しを見せ始めると、信長は長曾我部元親に領土の領有制限を厳命する。これに対して元親は、
「わが手で切り取った領地じゃ、いらぬおせっかいめ!」と嚇怒し、すぐさま盟約を反古にして反抗し出したのである。
 これでは、交渉に骨を折った明智光秀の面目は丸つぶれであり、重臣の斉藤利三も憤懣やるせない。

 諸書によれば、上述の経緯が明智光秀の謀叛の動機とする見解もある。


 ここで少し、斉藤利三にまつわる逸話をご紹介したい。
 斉藤利三は元々、稲葉一鉄の配下だったのだが、利三は明智光秀を慕い、いつのまにか光秀の元で召し抱えられた。
 これを伝え聞いた一鉄は唖然呆然だ。すぐさま利三に直接対面して切々と説得するが全く聞き入れない。光秀に頼みもするが、まるで埒があかない。
 
 稲葉一鉄は信長に訴えた。
 信長は斉藤利三を稲葉一鉄に返すよう、明智光秀に厳命するのであるが、
「利三が一鉄斎殿に仕えることも、私に仕えることも、殿(信長)のために働くことは同じにございます。どうかご容赦下さい。」と、光秀が丁寧な口調で述べた。この言葉に信長は激怒し、
「わしの命が聞けぬのか!」と言いざま光秀のむなぐらをつかみ、その場に引き倒して足蹴にしたという。
 信長の横暴は別にして、斉藤利三がいかに頼りになる優れた武将であったかが良く分かる逸話である。有名な春日局の父親だ。





 さて、徳川家康は五月に入ると間もなく、上方の安土に向けて浜松城を後にしていた。
 信長から駿河、遠江の領有を許されたので、その御礼言上のためであった。

 道中を行く家康の胸中は、感無量であったろう。
 信長と同盟を結んだ頃は、家康が二十歳、信長が二十八歳の青年武将同士であった。
 そして、お互いに協力して戦国乱世をかいくぐり、苦難の連続を乗り越えたときには、家康が四十一歳、信長は四十九歳である。
 長年の苦労が走馬灯のように蘇える思いであったろう。

 家康は元亀元年以来、実に十三年もの長きに渡って浜松城から東国に睨みを利かせ、攻城野戦に明け暮れる日々を送っていたのだ。信長もそのような家康の姿を頼もしく思っていたことであろう。
 反覆常なき戦国時代において、織田・徳川のように二十数年以上も同盟が続いた大名は、他には全くなかったのである。
 どのような理由があるにせよ、まさに稀有の間柄であり、戦国の美談であったといえよう。
お互いに器量のある人物でなければ、こうはいかない。


 
 ところで、家康の来訪を知った信長は、明智光秀に命じてその歓待の下準備に取りかからせる。
 明智光秀は織田家随一の教養人だ。
 信長の意向に報いるべく、随分とはりきって奔走したに違いない。

 川角太閤記によれば、信長が調理場で料理の検分をしていると魚のひどい悪臭がしたので、
「きさまは、徳川殿に腐ったものを食べさせるのか!」と光秀に怒鳴り散らし、光秀の役目を取り上げて、すぐさま光秀に中国地方への出陣を命じた。
 面目を失い、怒り心頭の光秀は、下準備した料理の数々や調度品の全てを安土城の堀に投げ捨て、ぶ然とした面持ちで領国に帰って行ったという。

 しかし、最近の研究によれば、明智光秀はきちんと接待役を務めてから、出陣のために帰国していることが有力視されている。

 
 
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【2009/01/06 09:44】 | 未分類
考察19 戦国のニューフェイス 真田昌幸


 織田信長の嫡男である信忠は、武田家攻略の総司令官として甲斐の国に破竹の進撃で侵攻し、その軍勢は無人の野を行くが如く、猛烈な勢いでばく進する。

 この緊急事態にしどろもどろの武田勝頼は本城(新府城。まだ築城中で完成していなかった。)から避難すべき城を思案していたのであるが、その時、上州の真田昌幸が、
「拙者の岩櫃城が要害堅固でようござる。時が経てば、甲州御回復の機会もありましょう。」
と意見し、勝頼もひとまずそれで納得した。
 真田昌幸は家老の矢沢頼綱(昌幸の叔父)に、
「勝頼さまの御入城ゆえ、人数に不足なきようにせよ。」と、この時に命令書を送っている。
 この命令書は今でも現存しており、確かなことのようである。

 ところがしばらくして、勝頼の寵臣の長坂釣閑が、
「真田は一徳斎(真田幸隆。昌幸の父)からわずか三代の家柄ですぞ。御譜代衆の小山田信茂の勧める岩殿城がようござる!」と語気を強めて言うと、弱気になっていた勝頼はそれに同意し、ついに行き先を変更してしまった。
 これが運の尽きの始まりで、勝頼一行が岩殿城の近辺に来ても小山田勢は待てど暮らせど全然出迎えに来ないし、人質にしていた小山田信茂の母親は夜陰にまぎれて姿を隠してしまうし(小山田信茂の手の者が密かに連れ去ったのだ。)、いつのまにか不安になった家臣の多くが逃げ去ってしまった。

岩殿城を勧めた長坂釣閑、跡部大炊助も隠れるように逃げ出したというから、ひどい話しだ!

 しかも、勝頼一行が心細くも岩殿城に近づいて行くと、小山田勢は鉄砲を撃ちかけてきて全く寄せつけない。
 こうして勝頼一行は行き場を失い、一縷の望みを賭けて北条家の庇護を求めて落ちていくのであるが、雪深い厳寒の山間部をさ迷い歩き、とうとう天目山付近で力尽きて最期を迎えるのであった。


 
 ところで、上述した真田昌幸は元来、信州(信濃)の豪族である。
 昌幸の父である真田幸隆は、同じ信濃の豪族の村上義清に所領を奪われ、一時期ではあるが上野国(上州。長野県)の箕輪城主の長野業正を頼っている。

 長野業正という武将は凄腕の猛将で、上州は北条家・上杉家の争地になっていたにも関わらず寸毫も譲らず、屈せず、上杉や北条と互角に戦って領地を確保していたのである。
 真田幸隆は客将のような身分でしばらくここに滞在することになるのであるが、しょせんはよそ者、居心地はあまり良くなかったようである。
 
 そんな折り、信濃経略に腐心する武田家が真田幸隆に注目し、後年になって武田信玄によって招かれることになる。武田家の重臣、板垣信形の進言による招来説や、山本勘助が真田幸隆を招くように助言したともいう。山本勘助の実在性については、以前の考察で詳述している。

 
 こうして、武田信玄という鳳凰を手に入れた真田幸隆はその辣腕をふるい、信玄に仕える年数に応じてしだいにめきめきと頭角を現し、ついに武田家の重臣にまでのぼりつめる。
 弁舌にたけ、調略を得意とし、勇敢な猛将でもあった。真田幸隆の総身には、戦闘による古傷が三十五箇所以上もあったという。
 また、真田幸隆の名は一徳斎で実に有名だ。武田信玄が入道した際にお供をしたのである。



 さて、一徳斎の元で鍛錬された昌幸は、武田家中でその有望な才略が買われ、若い頃に武田信玄の近習を勤めている。
 
 武田信玄が昌幸の才能を深く愛したことは間違いないであろう。後年の真田昌幸の軍略は信玄のそれと酷似しており、信玄の影響が強く感じ取れる。

 また、真田昌幸は一時期、絶家となった武藤姓を名乗っていたのであるが、長篠の役における設楽々原の戦闘で兄の信綱・昌輝が敗死したので、武田勝頼の命令で真田姓にもどったのである。






 後年、真田昌幸は武田勝頼の要請を受け、上州方面の経略に専念することになる。


 上州の地は前述した通り、北条家・上杉家が領地の争奪戦に明け暮れる、果てしない争地であった。

 
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【2009/01/05 20:44】 | 未分類
Ⅵ 天下布武


 織田信長は武田を征伐した帰路の途中、徳川領を通過して家康の盛大な歓待を受けている。

 信長の個人的な性格は史料だけでは本当に推し量りがたい。
 気難しい面もあれば子供のようにやんちゃでもあり、わがまま放題かと思えば非常に心優しい配慮も見せる。確かなことは、信長は大のいたずら好きであったことであろう。

 彼は小説の人物ではないのでその性格を一概に判断することは難しいが、徳川家康が身の細る思いで接待に努めたことは間違いない。今や、織田信長は天下の覇者たる大実力者なのである。

 家康はこの時、誠心誠意を込めて自ら信長を出迎えに行き、城内では盛大に歓待して信長を悦ばしている。信長と心なごやかに歓談して、信長のために諸事に尽くし、天下の覇王を大満足させて送り出している。
 家康のイメージは鈍重の感があるが、家康も秀吉と同じように人心の収攬に非常に優れる大器量人であった。


 また、家康は信長の来訪を大歓迎したとはいえ、信長の厳命によってその妻子を失っていたわけで、信長との歓談中のその忍耐力たるや、実に恐るべきものがある。
 トルストイは、
「天才とは、強烈なる忍耐者である。」と言ったが、まさしく家康がそうであったといえよう。






 さて、ここで話しをがらりと変えて、明智光秀について少し書いておきたい。

 明智光秀は織田家のナンバー2の地位にまでのぼりつめた人物なのであるが、これは光秀の事績を追いながら丹念に考察すると大いにうなずける話しである。
 光秀は足利将軍家や朝廷とのやり取りをそつなくこなし、信長のために親身になって手助けもして、織田家の威光を輝かしめている。
 また、信長からその雄略の才能を認められ、領国の拝領をいち早く受けている。
 さらに、あらゆる戦線に参加して必ず軍功を上げている。

 特筆すべきことは、足利幕府が滅んで後、光秀は信長から丹波国の平定を命ぜられ、その経略に年月をかけて専念するのであるが、その合い間を縫いながら本願寺攻めに参加し、雑賀衆征伐にも出兵し、叛旗した松永久秀の討伐にも出兵している。
安土城の築城工事の責任者は明智光秀だとする説もあり、もしそうであれば築城工事にもしげしげと顔を出したことになる。

 このように、光秀が敵地の丹波国を経略しながらも諸事につけて随所に姿を現すということは、
信長がいかに光秀の才能を高く買っていたかが良くわかるのである。信長が寵愛するのも当然であったろう。

 明智光秀の逸話で有名な「母親の棄て殺し」は、上述の丹波平定の際の出来事である。

 史料の総見記によれば、信長は光秀の丹波平定の遅いことに激怒し、光秀を山城口から、但馬口から羽柴秀長(秀吉の弟。)、接津口から丹羽長秀を同時に侵攻させて、
「早々に切りとれい!」と各々に厳命した。
 信長から大不興を買い、この作戦は秀吉の献策であったこともあり、織田家ナンバー2を自負する光秀は非常にあせった。
 しかも、羽柴秀長がいち早く受け持ち区域を全部かたづけて軍功第一となった。
 光秀も軍功を上げたが、肝心の波多野氏の本城である八上城を抜くことができなかったのである。

 戦功を急いだ光秀は、八上城に母親を人質として送り込み、波多野氏に本領の安堵を確約して全面降伏を促した。
そして、これ幸いと安心して城を出てきた波多野兄弟を即座に捕らえて縛り上げた。
 これを知った八上城の城兵たちが違約に憤激し、光秀の母親を即座に惨殺したのだという。

 この逸話は多くの疑問点があって信憑性も非常に低いのであるが、なぜか世間に広く知れ渡っている。
 明智光秀の両親はかなり以前に亡くなっているし、光秀の叔母であるという解釈もあるのだが、
信憑性の高いと云われる信長公記には、
「調略により召し捕る。」とあるだけで、母親うんぬんの記述はないのだ。

 
 私見になるが、明智光秀は波多野氏の家臣を篭絡して味方につけ、織田方に寝返ったその家臣との協力の末に、騙されて城を出てきた波多野兄弟を即座に捕らえたとするほうが自然な解釈であろう。


 近年の諸書によれば、明智光秀の丹波平定の折り、織田信長は安土城で光秀を大いに歓待して長年の苦労をいたわり、かつてないほどに激賞している。


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【2009/01/05 05:22】 | 未分類
Ⅴ 天下布武


 天正十年四月、秀吉は備中高松城を重囲し、壮大な規模の水攻めを断行していた。

 高松城を死守する清水宗治は知勇兼備の猛将で名高い人物だ。
 秀吉は強引な力攻めによる甚大な損害を懸念し、ここに日本戦史上類を見ない、未曾有のスケールを誇る水攻めを始めたのである。

 驚異的に長い堤防をこしらえて川をせき止め、濁流と化した川の水を高松城の周辺に注ぎ込んだのだ。
 
 近年、高松城付近の発掘調査が進み、川をせき止めた堤防の長さは一キロメートル前後であった事が判明している。
また、研究者の中には懐疑的な見解もあり、堤防の長さは六百メートル前後しかなかったと推定する意見もある。
元々、その昔から高松城の周辺は湿地帯なので水が溜まりやすい土地柄で、大雨が降ると大量の水が溜まる地勢なのだそうである。地元の人々には以前から周知の事実であったらしく、昔は台風が通過すると家がすっかり水没するほどであったという。

 したがって、水のはけ口にあたる部分を頑丈にせき止め、雨水や川の水を流し込めば容易に水攻めは可能となる。水のはけ口にあたる部分が六百メートル前後であったと予想されているわけだ。
 水のはけ口にあたる部分には発掘によって堤防の跡が出土しており、現在も調査中のようである。
秀吉はあらかじめ、高松城近辺の地勢を入念に調べ上げ、季節も十分に考慮に入れて水攻めを断行したのであろう。

 こうして、高松城はたちまち湖水に浮かぶ城と化した。
諸書によれば、城兵は木材を水に浮かべて、それにつかまって城内を往来したというから相当の水が流れ込んでいたのであろう。
 こうなっては、さすがの猛将清水宗治でも手の施しようがない。
しかも季節は五月の梅雨の時期にさしかかる。水かさは日増しに増えて高松城は水没しかねないありさまとなってしまった。

 毛利家の当主である輝元が自ら総大将となって出陣し、吉川元春、小早川隆景も急いで救援に駆けつけるが、秀吉の軍勢が用意周到に防砦を構築していて容易に近づけないし、膨大な水量にも邪魔されて高松城を救うことができない。毛利勢は切歯扼腕するばかりであった。

 一方、秀吉は毛利家の主力部隊が迫っている情報をつかみ、信長に出馬要請の急使を飛ばしている。
 
 秀吉の軍勢は、宇喜多勢が加勢しての総勢で約四万、防砦を築いての戦闘であるから地形は絶対的に優勢、目前の高松城は落城寸前である。対する毛利勢は三万弱、本国からの遠路の行軍で疲れ果てている軍勢だ。
したがって、この段階での援軍要請はあまり必要ではなかったはずなのだ。
しかし、秀吉はあえて安土に向けて急使を派遣しているのであるが、ここのところ、秀吉の読心術の名人ぶりが窺えるのである。
「大功は、君主を恐れさせる。」ことを秀吉は知っていたのだ。
 古代中国の前漢の名将韓信、日本では源義経が天才的な軍事力を思う存分に発揮して敵軍を滅ぼしているが、韓信は宮廷内で暗殺され、源義経が悲惨な末路を迎えている。
寛大な仁君で有名なあの劉邦が、まるで用済みであるかのように韓信を誘殺し、雄略の人であるはずの源頼朝が義弟であるにも関わらず執拗に義経の命を狙っている。
「狡兎死して走狗煮らる」という古代中国の有名な諺がある。
ウサギ狩りに使われた猟犬も、ウサギを捕らえてしまうと用なしとして煮て食われる、という意味だ。
必要があるときは重用されるが、用済みになるとかえって邪魔になり、惜しげもなく捨てられてしまうということである。

 織田信長は権力の集中を目指す独裁者なのだ。ここで毛利家の主力と決戦して、もしも勝ったりしたら征西の功績を独り占めにしてしまう。ここで秀吉の読心術の名人ぶりが発揮されても良い場面だ。
「ここまでやり遂げれば上々だ。あとは信長公に箸をつけてもらおう。」と思ったに違いない。
あるいは謀将の黒田官兵衛、秀吉の右腕の羽柴小一郎秀長、宿将の蜂須賀正勝といった面々が進言したのかもしれない。
 まさに秀吉らしい配慮であり、信長の猜疑心に対する用心であったろう。




ところで、織田信長はこの年の三月に武田家を滅ぼし、ゆっくりと富士山見物などを楽しみながら威風堂々と帰路についていた。
 この道中の前の事としておもしろい逸話がある。
 五摂家出身の近衛前久が信長に同道を願い出ると、信長は非常に迷惑そうな顔をして、
「あなたは、木曽路にでも行きなされ。」と言い捨てて全然相手にしなかったという。
 近衛前久は前関白、この頃は太政大臣なのだ。

 近衛前久にしてみれば、「なんと無礼な。」と憤懣やるせない心境であったろう。
しかしこれを信長の尊大で傲慢な態度とだけで結論づけるのも考えものだ。

 当時の公家衆は五摂家であろうがなかろうが寺社勢力と綿密に連携して、「座」の権限を寺社に与えて特権の乱用を許していた、いや、許すというよりもわざと見逃していた。
 その結果、油、ろうそく、塩などの庶民の必需品である品々の値段が不当につり上がり、必然的に物価の上昇を招くことになったのである。
 ようするに、公家衆は寺社勢力と組んで「座」という特権をちらつかせて普及させ、良民から半ば強引に搾取するルートをセッセ、セッセとこしらえて、ぬれ手に粟のように金銀を荒稼ぎしていたわけだ。

 当時、朝廷の公家衆の有する所領はまことに微少で、したがって彼らの生活手段のほとんどが「座」という特権に依存していたから、私は一概に公家さんたちを責めるつもりはないのだが、うさん臭いまやかしごとを蛇蝎の如く忌み嫌う信長にしてみれば、彼らが侮蔑の的であったことは想像に難くない。

 信長は、同道などまっぴら御免だと思ったことであろう。



著者HP http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/
メールアドレス hokenpuro@yahoo.co.jp 


 

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【2009/01/04 01:47】 | 未分類
不如帰 ~戦国武将の幻影~


Ⅰ<覇王編>~逆賊 織田信長を討て!~  Ⅱ<争覇編>~織田家簒奪!秀吉の野望~

不如帰 戦国人物伝


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