スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
【--/--/-- --:--】 | スポンサー広告
Ⅳ 争覇戦の行方


 天正十年、六月十四日の払暁、徳川家康は素早くも明智光秀征伐の軍を起こし、三河の岡崎城を後にして上方の京都を目指す。その総勢は一万六千余り(異説あり)。

 誰よりもいち早く、畿内において明智光秀と決戦し、光秀の軍勢を完全に叩きのめし、圧倒的な勝利を飾ることを念願して威風堂々と出陣したのである。


 少し私見を書くが、家康の胸中には、大いなる野望も少なからずあったであろう。

 家康にとって光秀の打倒は、これはまさしく天下取りのチャンスでもあり、その足がかりでもあるのだ。
 徳川家康のイメージは慎重で思慮深く、非常に辛抱強くて鈍重の感もあるが、家康は信長と同じく、類い稀な実際家の行動派でもあるのだ。これは、家康の生涯を丹念に調べ上げた者であれば容易に気づくことである。
なんで、こんな千載一遇のチャンスを見逃すことがあろうか!

 家康は、織田家の有力武将たちが京都に駆けつける前に、なんとしても明智光秀を滅ぼさなければならない。
 今こそ、その命運が限りないほどに大飛躍する、天命ともいえる絶好の好機なのだ。
 家康はここぞとばかりに将兵を励まし、必ずや徳川勢は京都に向けて走り急いだに違いないのである。



 しかし、家康率いる徳川勢が尾張領内に入り、熱田のあたりを通過して行軍する最中に、なんとも驚くべき、耳を疑うような急報に接する。

 すでに、羽柴秀吉が京都山崎において明智光秀を討滅したという知らせだ。
 さらに信じがたいことに、その知らせはご丁寧にも秀吉からの急使からだったのである。

 これにはさすがの家康も、無念に思うどころか驚嘆したであろう。

 大きな一息をゆっくりともらし、その胸は思わず反り返り、馬上で空を仰ぎ見ていたかもしれない。

 
羽柴秀吉の所在した場所は西国の備中高松。その戦況は水攻めの真最中。しかも羽柴勢の周辺には対陣中の毛利勢がそこらじゅうにうようよいたのだ。

 秀吉はそこから電撃的に引き返し、まさに神業とでもいうべき神速で畿内に突入して、六月十三日には明智光秀を滅ぼしているのだ。
 まさしく、驚異的なスピード劇であった。家康に限らず、誰一人として予想だにし得ない、驚くべき大珍事であった。



 織田信長の弔い合戦という名目を失った家康は、すぐさま引きかえして帰国の途につき、その後、以前から狙い澄ましていたかのように矛先を甲州・信州に向けている。

 今さら織田家に介入することはできない。
 
また、家康はこのような事態になることもあらかじめ想定していて、他に取れるところがあったらどんどん呑み込んでやろうと前々から考えていたのかもしれない。

 さらにいえば、聡明な家康のことである。織田家の今後の成り行きをある程度は予測していたかもしれない。

 織田家は元来、家中のまとまりが良くないのだ。

 信長がどしどし採用した人材登用法、全くの能力主義、古くからの慣例を度外視した実力による昇進主義が家中の譜代衆の反感を買い、家臣同士の競争意識が異常な軋轢も生んで、その家中は非常に険悪な状態になっていた。
 織田信長の卓抜な統率力、類い稀な信長の力量によって織田家は強固な結束を見ていたのであるが、今となっては非常に心細いこと限りなしの状態である。

 また、明智光秀を討伐した秀吉にしても、織田家に古くから仕えている武将たちからすれば、しょせん秀吉は、おべんちゃらの上手な運の良い成り上がり者にすぎないのだ。

ましてや、織田家の有力武将たちは依然として健在であるし、必然的に権力闘争も発生するかもしれない。
 そして今後、その権力闘争に敗れた者を抱き込むこともあるであろうし、それを利用して天下を賭けた争覇戦に挑むことも十分に可能である。

 織田家の内情に明るい家康であれば、これぐらいは想像できたはずであろう。



 家康は織田家の動向に注視しながら、徳川家の英気を日々着々と養い、東方に鋭い眼光を放ち、甲州・信州の経略に専念するのであった。


 上方の情勢をしばらく静観したところで、徳川家が損をすることは何一つないと、家康は安心して涼しい顔をしていたに違いないのである。
 

著者HP http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/
メールアドレス hokenpuro@yahoo.co.jp
 
スポンサーサイト

テーマ:歴史小説 - ジャンル:小説・文学

【2009/02/13 23:45】 | 未分類
Ⅲ 争覇戦の行方


 ともあれ、徳川家康は明智光秀の討滅を決意し、早急の上京に向けて出陣の準備を着々と進めていたのである。

 家康はこの時、明智征伐の戦備に夢中になりながら、何を考え、何を思い浮かべ、何を念頭に置いていたであろうか。その心境は、どのようなものであったろう。

 徳川家康は信長にあらゆる犠牲を払い、長年に渡って実に忠実に尽くし切った。
 
 そして、裏切りが横行し、人心のすさんだ戦国時代において、信長と家康はまことに稀有な間柄であった。
 お互いに活気のあふれんばかりの青年武将から実に二十有余年に渡って親しく交わり、仲の良い兄弟のように協力し合い、様々な難題も一緒になって突破してきた。
 二人は終始、お互いを思いやり、交情も非常に深いものであったろう。
 家康にとって、織田信長の横死は哀惜の念に絶えない、とても辛いものであったはずである。


 しかしながらこの親密な関係は、徳川家康が常に信長を立てることによって成立したのである。

 
 家康は御家第一、徳川家の安泰のために、その身を削り落とす思いで、身命を投げ打ってまで信長に尽くし切ったのだ。


 家康のこの態度は、織田信長に始まったことではない。

 家康は今川義元のために、喜び勇んで死地に向かい、その股肱の家臣たちの大半を失うという大損害を被りながらも必死に耐え忍んだ。
 強国の今川家を離れる際には、その妻子は危険にさらされ、家臣の人質たちの多くが冷酷無残にもほとんど全員が殺された。
 
 ほんの数年前には家康は、織田信長の猜疑心をかわすために、愛する妻子の処刑をも余儀なくされた。
 
 これらすべては、徳川家の安泰を考えての、家康の悲痛で悲壮な決断だったのだ!


 
 家康の心底には、信長の死を痛み悲しむ気持ちもあったであろうが、信長の弔い合戦を本気でするつもりがあったのかどうか、実のところ、疑問である。

 明智光秀を標的にして敵と決めつけたことも、それが徳川家にとって最善の選択であったからであろうし、信長に対する義理や信義心だけで、弔い合戦と称して徳川の貴重な戦力を投入しようとすることなど、到底あり得ない。
 
 家康は義理や人情に溺れるほど甘い人間ではない。彼はあくまでも御家第一主義者なのである。
明智光秀に加担するよりも、光秀を敵と決め付けたほうが徳川家にとって得策であるから、家康は出兵を決意したのであろう。

 信長が死亡したとはいえ、何らかの形で織田家が固く結束するとすれば、その勢力は絶大に強大であることに変わりはない。

 また、家康は当然、織田家の有力武将たちの動向もつかんでいたはずだ。

 
 織田の有力武将たちは前述の通り、遠国で敵対勢力と対峙中で早急には上京できない。


 明智光秀を討滅するチャンスを手に入れた家康は、弔い合戦の名目を大いに借りて明智勢を覆滅し、その見返りに織田家に対する発言権を獲得して、徳川家の勢力を拡大させようと考えたのであろう。

 
著者HP http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/
メールアドレス hokenpuro@yahoo.co.jp

テーマ:歴史小説 - ジャンル:小説・文学

【2009/02/10 06:30】 | 未分類
Ⅱ 争覇戦の行方


 ところで、織田信長の盟友、徳川家康の動向である。

 家康はこの年の五月中旬、数人の供まわりを連れて安土城を訪問し、信長の盛大な歓待を受けて大いに満喫している。
 そしてその後、信長の勧めに応じて上方の見物に出かけ、京都から堺を見てまわり、六月一日まで堺に逗留した。
 
 そして翌六月二日の未明、戦慄すべき急報に接し、危険な難路を何度となく踏み越えて、命からがら領国の三河にたどり着き、岡崎城に帰り着いて明智光秀征伐を家中に触れ、その戦備に追われる日々を送っていた。

 
 一説によれば、徳川家康が信長の謀殺に深く関与し、明智光秀をそそのかして謀叛に踏み切らせたとする「家康の黒幕説」も近年になって登場しているが、私には信じがたい見解である。

 確かに、堺から本国の三河に入るまでの家康の逃走ルートには、非常にいぶかしい点が数多く散見される。
 わざわざ遠回りをするかのように近江(滋賀県)に入り、その周辺をふらふらと通過してみたり、危険極まりない伊賀越えにチャレンジしたり、詳しく調べると非常に不自然で不審な行動が目立っている。

また、家康の逃走ルートじたいに疑問点も多く、その逃走経路は諸説入り乱れて不明であり、全く判然としない。

 しかし、もし、徳川家康が信長の謀殺に深く関与していたのであれば、その本国から徳川勢が早急に家康を出迎えに来ていなければならないはずだ。
 当時は内乱が発生すると郷民一揆があちらこちらで勃発し、落ち武者狩りも横行し、追いはぎなども跳梁ばっこする。盗賊・夜盗のたぐいが山中を棲みかにして山路を往来する人々を狙っていたりするのだ。
 この当時は、城下町や集落でも治安がすこぶる悪い。
 町や集落を出たら無法地帯といっていいぐらいの治安の悪さなのだ。
 商人たちはキャラバン(商隊)を組んで夜盗や盗賊に備えながら物資を運んでいたのではないかという説まであるぐらいなのである。

 
 したがってこうした危険な状況下は、当時の人間であれば事前に予測できたはずであり、家康が窮地に陥ることは明白なのであるから、徳川家の家臣たちがすぐさま軍勢を率いて駆けつけてきて、家康の逃走ルート上で落ち合うという算段が事前にあってしかるべきであろう。

 
 ましてや、徳川家康が信長の横死を予測していたのであれば、当然の如く、徳川家は事前に何らかの軍事行動の準備をしていたはずなのであるが、その形跡は全然見あたらないのである。

 

 しかしながら、家康は後年、天下人になっているわけで、証拠隠滅という手段は古今を問わず勝利者側の常套手段なので、徳川家康が全くのシロであると断言しているわけではない。
 
 私は歴史学者ではないので、古来からの文献や様々な史料の記述だけにこだわり、その信憑性や整合性にあくまでも執着して固執する必要はないのである。



著者HP http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/
メールアドレス hokenpuro@yahoo.co.jp

テーマ:歴史小説 - ジャンル:小説・文学

【2009/02/08 17:36】 | 未分類
Ⅰ 争覇戦の行方


 天下布武の実現に向けて邁進し、日本全土に勇名を轟かせた戦国乱世の覇王、織田信長が、京都本能寺において壮絶な最期を遂げた。天正十年(1582年)六月二日、払暁のことである。

 本能寺を急襲し、信長を滅ぼしたのは御存知の通り、織田家随一の武将、明智日向守光秀だ。

 光秀は戦国時代の当時としては非常に珍しい、武将でありながら知性の豊かな教養人であり、信長の信任も非常に篤く、織田家の師団長クラスの軍事権を任される人物であった。
その光秀が突如として信長に叛旗し、この世から天下の覇王を抹殺し、戦国の強烈な野生児をあっという間に葬り去ったのである。

 このあまりにも唐突であっけないほどの顛末に日本全国は寝耳に水のように驚いては騒ぎ立ち、どよめき、戦国の群雄たちは蜂の子を突ついたような大騒ぎとなった。
 信長の横死により、群雄と呼ばれる有力な戦国大名たちをはじめ、全国に点在する諸豪族が一斉にスタートラインについたようなものなのだ。

 彼らにしてみれば、信長によって奪われた所領を取り戻す、千載一遇のチャンスであったろうし、その領国を拡充、発展させる好機到来でもあったろうし、あふれんばかりの野望心を抱き、すぐさま奮い立って勇躍する者もいたであろう。


 また、だしぬけに主君を失った織田家の将兵らは唖然、がく然、ぼう然だ。

 特に、信長の指令で遠国にまで出向き、その地で敵対勢力と戦っている織田家の諸将は全くの孤立無援の状態となってしまい、その軍勢は必然的に命令系統も失って、いつのまにか流軍と成り果てたのだ。
 主君の嫡男が生存していれば、まだしも補いもついたであろうが、その織田信忠も明智勢の急襲に遭い、信長と時を同じくして京都二条城で敗死している。
 かの地での織田家諸将の困惑ぶり、敵軍と対峙する織田勢の混乱のほどが窺がい知れるであろう。

 その戦況は圧倒的に優勢、非常に有利に展開していた形勢が不意に急転して全くの不利となり、突如として絶望的な窮地に追い込まれたのだ。
 
 その将兵らの心境、推して知るべしである。

 ところで当時、織田家の諸将の中で明智光秀に匹敵する軍事権を持つ者、つまり、師団長クラスの権限を任されていた武将が四人いた。
 羽柴秀吉は西国の中国地方で毛利方と戦い、羽柴勢は備中高松城にまで進撃し、その城を重囲して水攻めの真最中。
 
 柴田勝家は北陸方面を担当し、越中(富山県)魚津城付近でその軍勢を展開し、上杉勢と対峙中。
 
 滝川一益は関東探題として厩橋(前橋)城に入り、柴田勝家の援軍として上杉家を背後からかく乱し、関東八州を誇る北条家には睨みを利かせていた。
 
 丹羽長秀は四国の長曾我部征伐のため、その軍勢は摂津において待機中であった。


 ここで私見になるが、彼らは必ずや、京都に舞い戻って明智光秀と決戦し、明智勢を撃滅しなければならない。
これは天下取りのためではない。信長の横死によって師団長の名目が宙に浮いてしまい、その軍事権が有名無実化する前に、早急に逆臣・明智光秀征伐の旗印を高々と掲げ、その軍団を結束させなければならない。なぜなら、当時の軍団の編成は近代の兵制とは異なり、寄り親・寄り子を基本とするからだ。
 
 寄り親・寄り子には、その軍団内部での命令・指揮系統を円滑に進めるために、建て前の上での上下関係はあるが、しかし、寄り子は寄り親の家臣ではない。
 寄り子とは、その軍団内部での単なる部下、その場限りの配下にすぎないのである。

 ようするに、上官の寄り親であろうが、それを手助けする寄り子であろうと、彼らはどこまでも自分の所領を持っている在地豪族なのであり、その間柄は厳密にいえば全くの同僚なのである。
 
 軍団を編成する必要上、信長の君命によって、この軍団内部での上下関係、その統制は保たれていたのであるが、今ではその限りではなくなったのだ。



 師団長クラスの武将が取るべき選択肢はただ一つ、それは、明智光秀の討滅であった。

 

著者HP http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/
メールアドレス hokenpuro@yahoo.co.jp

テーマ:歴史小説 - ジャンル:小説・文学

【2009/02/04 00:59】 | 未分類
不如帰 ~戦国武将の幻影~


Ⅰ<覇王編>~逆賊 織田信長を討て!~  Ⅱ<争覇編>~織田家簒奪!秀吉の野望~

不如帰 戦国人物伝


美容室・ヘアサロン・ネイルサロン専門税理士

ランキングに参加しています。。。バナーをクリックして頂けると励みになります!

お気に入り

  • 紫電改を伝えたい!あいなんからの祈り
  • 日本百名城の旅
  • ひこばえ
  • ghost mail
  • 芸能エンタメ タレント最新ニュース&ランキング
  • 怖い話します
  • おんぞーし ノブ様
  • ☆オリジナルの高校数学の問題を掲載していきます☆
  • 嘘八百のこの世界
  • KEEP CALM AND WARBLE ON
  • 国時代を追いかけて日本の歴史つまみ食い紀行
  • 戦国&幕末 セレクト日本史
  • 心のうた|みよ@こたつむりが詠む詩集
  • 天満のイラスト日記!!
  • 施設内虐待(高齢者虐待)と戦う
  • にゃん吉倶楽部
  • 龍好き画伯の妻
  • 穴掘って吠えるでござる
  • えくぼママの喜怒哀楽三昧♪
  • 愛犬ジュジュのときどき後ろ前!?
  • 道東からのフォト
  • 花の店みちくさ
  • すずめ四季
  • 猫ろころころ
  • 極小ヨーキーの子犬がやってきた!
  • 木工と個別課題の部屋
  • 残された石垣を見つけたい
  • のんびり ゆったり 自遊気儘
  • 鼻毛虎日記
  • 別府葉子公式ブログ ~葉子通信
  • ノーベル賞候補犬 サンちゃん
  • 下町ESPRIT
  • 戦闘SLGプレイ日記
  • 東京ぶらぶらり
  • 千葉県 市川市 小岩 茶道具 古美術 絵画  買取 あんてぃっく壱
  • にゃおそふとプライベート
  • うづらのたまご
  • 青の傭兵
  • 小田原で木彫
  • 花のように
  • ビーチサイドの人魚姫
  • 花筐~花がたみ
  • デジカメ人
  • ビールは命の泉です。
  • アダルトチルドレンのまま楽に生きる
  • 全日本丸顔協会
  • ぷりしら商店の雑貨達
  • 愚行の日々を
  • アメリカ観光おすすめスポットまとめ
  • 旅レポート
    ブログランキング

    不如帰 戦国武将の幻影

    武将が騒がしくて、音がうるさい場合はサウンドを(Sound ON)をクリックしてください。SoundがOFFになります。

    (1)サムライに斬られないように注意しながら、かがり火を2回クリックして炎を青くすべし。 (2)左右の炎を2つとも青くすべし。 (3)その状態でサムライに斬られるべし。 (4)カーソルが斬られる瞬間、クリックすべし。 (5)タイミングが合えば、システムが起動する。

    最新記事

    月別アーカイブ

    カウンター

    ブログランキング

    blogram投票ボタン
    プロフィール

    不如帰の幻影

    Author:不如帰の幻影

  • ☆☆著者HPへアクセス・保険☆☆
  • ☆☆著者HPへアクセス・起業☆☆

  • 最新トラックバック

    カテゴリ

    RSSリンクの表示

    ブロとも申請フォーム

    この人とブロともになる

    QRコード

    QRコード

    検索フォーム

    上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。