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Ⅴ 秀吉と家康


 ここで私見になるが、柴田勝家が近江の長浜城に固執した理由は他にもある。

 勝家の本拠地は越前だ。
 勝家党の佐々成政が北陸の越中、織田信孝は美濃の稲葉山城におり、滝川一益が伊勢長嶋城を中心に勢力を張っていたわけで、まるで日本を縦断するかのように反秀吉同盟が水面下で結ばれていたのであるが、秀吉に近江を押さえられてはこの連合の連携を断たれる恐れがあった。


 また、これは私の憶測であるが、勝家の本当の目的は琵琶湖の商業都市として栄えていた近江の大津を押さえておきたかったのではないかと思うのである。
 その理由を述べる前に、織田信長という稀代の天才について語っておかなければならない。

 信長の非凡なところは、徹底的に重商主義を貫いて兵農分離政策を強力に推し進めたことである。
 
 信長は楽市・楽座を施行して同業組合である「座」に圧力をかけ、所々に張り巡らされた関所を撤廃して関銭(通行税)を廃止し、商人たちを負担なく自由に往来させ、自由経済市場を発展させて商業都市を作り上げ、そこから税金のように課税して金銀を吸い上げて専業軍人を養うというシステムを開発したのだ。
だから、信長の軍団はいつでもどこでも戦えるし、長期に渡る持久戦もめっぽう強かったのである。

 旧態依然の兵農一致政策、つまり、農業との兼業の軍人ではこれができない。

 農繁期になれば兵士たちを田畑に帰さなければならないし、したがって持久戦など到底おぼつかないし、年がら年中の戦争では国の生産力はたちまち衰え、国力はあっというまに疲弊してしまう。

 柴田勝家は織田家の重臣中の重臣、信長から師団長を任せられたぐらいの武将だったから、このような信長の手法を十分に理解していたであろうし、感化されたろうし、軍事行動における重商都市の必要性に当然気づいていたはずであろう。
 
 ちなみに、秀吉は早々と商業都市として栄えていた大坂を押さえて本拠地とし、摂津、堺、兵庫といった港湾都市の重商化政策に専念している。
 
 先見性に優れる信長のことだ、信長は安土に居城を築いたが、将来的に大坂の地に居城を移すつもりでいたのかもしれない。秀吉はそれを前々に側近くで聞いていて、この機会を契機として実行に移した可能性は十分にある。
 

 さらに、織田信長の経済政策も非凡だ。
 
信長は支配する領国を綿密に測量させて生産高をつきとめているが、家臣に与えた知行地の生産高も調査し、家臣たちの扶持までも克明に記録させ、その検証の上で租税の法を明確に定めている。
 ここまで厳密な政策手法を用いた武将は織田信長、羽柴秀吉、長曾我部元親以外に私は知らないが、確かに、この綿密な調査なしには政治も軍事もはじまらないのである。





 さて、柴田勝家は越前の北ノ庄に帰国する際に、お市の方(信長の妹。他に「信長のいとこ」とする説もある。)を妻として迎え入れ、お市が浅井長政との間にもうけた三人の娘の義父になっている。


 これは、信長の息子の織田信孝が大いに勧めたのだ。

 この仕業は、実にあさましい限りだ!

 信孝は後ろ盾の柴田勝家のご機嫌を取るために、父親の妹、つまり、国色無双と呼ばれる叔母をいけにえのように差し出したのだ。

 

 戦国大名家の生まれといえども、戦国の女性は実に哀れであった。



著者HP http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/
メールアドレス hokenpuro@yahoo.co.jp
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【2009/03/18 13:19】 | 未分類
Ⅳ 秀吉と家康



 天正十年(1582年)六月二十七日、尾張の清洲城内に織田家の有力武将たちが続々と集まり、信長の後継者を決める会議が開かれた。
 
 秀吉は主君の弔い合戦の大功労者であったこともあり、絶大な発言権を有して会議に臨み、織田家宿老筆頭である柴田勝家の推薦する織田信孝をしりぞけ、織田信忠の長男、この時わずか三歳の三法師(後年の織田秀信)を擁立することに成功する。

 信長の嫡男が織田信忠であったわけで、筋目を考えれば、秀吉の意見が正論ではある。

 また、秀吉はあらかじめ織田家の宿老格である丹羽長秀、宿将の池田恒興をはじめとする諸将たちと密約を結び(主に領土の割譲)、事前準備に余念がなかった。

この事前の根回し戦術は、秀吉の最も得意とする政治的才略なのであるが、なんといっても秀吉の有する勢力圏は絶大で、強大な軍事力を背景にしているのだから、秀吉は調子の良いことをサラサラと言ったろうし、秀吉から誘われた武将らにしても、とってもおいしい話しであったろうし、これは態のいい脅し、軍事力にものをいわせた脅迫でもあったのだから、むげに断るわけにもいかなかったのであろう。


 こうして、秀吉のこざかしいまでの根回し戦術に翻弄され、ついに政争に敗れてしまった柴田勝家の胸中は悶々とし、まことに憤懣やるせない。
 
諸史料によれば、勝家は織田家の領土分割協議の際に、羽柴秀吉に対して、
「近江の長浜城は、俺に譲らんかい!」と言わんばかりに、実に強引に迫っている。

 琵琶湖にほど近い近江の長浜城は、秀吉が精魂を込めて丹念に作り上げた城であった。

しかし、越前国の北ノ庄(福井県)を本拠地にする勝家としては、大軍を率いて上京するとなると、
近江の長浜城はどこまでも目の上のたんこぶなのだ。

 脅迫的に強引な要求を迫る勝家は、後日の秀吉の打倒に燃えていたのである。

「運の良い成り上がり者め、口の達者な猿め、いまに見ろ!目にもの見せてやる。」
ぐらいに思っていたのであろう。
 勝家は秀吉に憎念すらも燃え立たせ、後日の争覇戦を挑むべく水面下で策動していたのである。
また、勝家を支持する武将たちも数多く存在し、滝川一益、佐々成政、織田信孝などは勝家党の有力な分子であった。

 一方、秀吉は勿論、勝家のこうした意図を十分すぎるほどに見抜いていたであろう。

 秀吉は、勝家の脅迫的な言動にしばらく沈思して考え込んでいたが、しかし意外にもその首を大きくたてに振り、深く頷きながら静かな口調で、
「勝家殿のご子息、柴田勝豊様に長浜城をお譲りいたしましょう。」と、あけすけに言い出した。

 この口上に、勝家はにが虫を噛み潰す思いであったはずだ。

 勝家と息子の勝豊は、親子の仲が非常に悪いのである。
 それを知っていた秀吉は心底で、
 「後日、勝豊を篭絡することなど、造作もないこと。」と、思っていたのかもしれないし、
 「勝豊など、大軍を率いて脅迫してやれば、すぐに城門を開いて降伏するわい。」と、たかをくく
っていたのかもしれない。

 ところで、柴田勝豊は勝家の養子になった人物で、親子ではあるが血縁はない。
 当時、勝家と勝豊の仲がぎくしゃくしていることは陰口のような形で評判だったようである。
 心術にたける秀吉に見透かされてつけこまれてしまったのだ。

 
 ともあれ、勝家はこれ以上、自分に長浜城をよこせとは強引に迫れない。

 自分の息子に譲られるのであるから、勝家の面子は十分に立っているし、ここで反論などすれば逆に勝家の人物としての器量が勝家党の諸将から疑われ、彼の面目はまる潰れとなってしまう。


 柴田勝家はしぶしぶながら、秀吉の意見に同意せざるを得なかったのである。



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【2009/03/16 16:58】 | 未分類
Ⅲ 秀吉と家康


 さて、徳川家康は急速にその勢力を拡張し、天正十一年(1583年)の夏を迎える頃には甲州を完全に掌握。信州は、上杉景勝の領する川中島四郡を除く全ての経略を終えていた。

 家康の有する領国は三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の五ヶ国となり、徳川家は以前にも増して広大な領土を支配する大強国にのし上がったのである。



 一方、羽柴秀吉は天正十一年の五月頃までには、まさに天馬空を行くが如くの大飛躍と大躍進でその身代は伸びに伸びまくり、織田信長の苦労して築き上げた大事業をもその掌中におさめ、亡き信長の権勢と威光、そしてその遺領のほとんどを順風満帆なまでに継承していた。

 秀吉もまた、電光石火のスピードで驚異的な大勢力を築き上げていたのである。

 秀吉は、天正十一年の十一月には難攻不落の大坂城の築城工事をほぼ終えて、すでにその城内に移り住んでいる。

 また、秀吉の卓抜な政治的才略によって畿内の中小大名たちを上手に宣撫してその傘下に加え、有力な戦国大名に対しては融和策をとり、早々と毛利家や上杉家と和親している。

 こうした秀吉の政治的な手腕は実に恐るべきものがあり、この政略の才は織田信長から深く学び取ったものであることは間違いないが、それにしても見事に磨き上げられた秀吉の政略的センスは実にすばらしいの一言に尽きる。
 師匠の信長の薫陶もそうだが、しかし、まさに秀吉の積年の苦労がいっきに報われて開花したような、惚れぼれする働きぶりを見せたのだ。

 人の命運が絶頂期にあるとき、その人間の背後には後光がさして見えるような気配を感じるというが、まさしく、この時の秀吉がそうであったろう。
 天正十年(1582年)六月十三日、中国地方から電撃的なスピードで引き返してきた羽柴勢は、京都山崎において明智勢と決戦、桔梗の旗印を徹底的に踏みにじって殲滅し、信長の弔い合戦を見事に成し遂げた。

 明智光秀は敗走の途上、小栗栖という場所で落ち武者狩りに遭い、その地で横死したということになっているが、後年、徳川家康のブレーンとして突然登場する天海和尚は、実は明智光秀だったのではないかと疑う説がある。
 
この説は有力な根拠に乏しく、確たる傍証も少ないのであるが、しかし、私はあるいはそうだったのかもしれないし、もしくは天海和尚とは別に、光秀は家康の黒幕として存在していたのではないかと考えている一人である。
 
 私が明智光秀生存説にこだわる理由をここで書いては果てしがないので詳しくは書かないが、後年、徳川家光の乳母となり、その後、大奥で絶大な権勢を誇った春日局の生涯を丹念に調べると数多くの疑問点や謎にぶつかるのだ。
 だいたい、超大名の徳川家が町中に乳母募集の高札を立てて、それで応募してきたおふく(後の春日局。斉藤利三の娘)を採用したと云われるが、これは俄かには信じがたい話しだ。
いくら関東が未開の地で野蛮だからといって、上方の女性がそれを嫌がって乳母候補がなかなか見つからないというのは非常に短絡的でおかしい。町中に乳母募集の高札などを掲げなくても、徳川の重臣や諸大名は喜んで乳母探しに奔走するはずなのだ。
 史実というよりも後世の創作の感が否めない。
 私の浅学な予想になってしまうが、おふくの採用には明智光秀が絡んでいたように思うのである。


 
 
 さて、羽柴秀吉は明智勢を痛快なまでに撃破し、さらに余力を借りて兵馬を進め、畿内での明智方の残存勢力を徹底的に攻撃して制圧、光秀の勢力圏をたちまち奪い取った。

 こうして、秀吉の有する勢力圏はまるで雪だるまを転がすかのようにたちまち大膨張して膨れ上がり、これを眺める畿内の中小大名たちもこぞって秀吉の元に走り急いでその傘下に加わった。

 
 戦国の中小豪族には義理もへちまもないが、大身の戦国大名も同類だ。
 
 御家の安泰のためであれば、彼らは平気で裏切るし、差し出した人質をも平然と棄て殺しにする。
 これも宿命的な時代の罪なのであるが、彼らの生存の鉄則は「長いものに巻かれる」ことであり、これによって秀吉の勢力は急速に拡大し、大膨張し得たのである。


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【2009/03/15 15:28】 | 未分類
Ⅱ 秀吉と家康


 大兵力を擁する北条方は、一万の軍勢をさいて別働隊を編成し、徳川勢の後方をかく乱する方策に出る。
 
 
 だが、徳川家康は事前に北条勢の軍事行動を素早く探知し、武将の鳥居元忠、水野勝成に命じて北条の別働隊を急襲させ、これを難なく撃退した。

 さらに、家康の巧みな用兵によって北条勢は進撃を阻まれ、さりとて後退することもままならず、北条方の陣中は厭戦気分がみなぎり、その将兵らは次第にあぐねはじめた。

 こうして、戦況は泥沼のこう着状態となり、徳川・北条の両陣営ともにひどく疲れが見え始める。


 家康は戦局の打開を図るべく思案に暮れていたが、そんな折り、最近になって北条家を見限り、近頃は徳川方になっている真田昌幸に、
「ひと働き所望」と、ものは試しにといった具合に急使を派遣した。

 真田昌幸は元来、信州(信濃)の豪族で、元々は武田家の被官であった人物だ。

 徳川方の史料の改正三河後風土記には、「真田昌幸は、生得危険の姦人である。」と、実に手厳しく批評しているが、後年、昌幸は徳川家を何度となく裏切り、家康を非常に苦しめている。
 
 詳しい経緯は別の章で後述するが、徳川方がこう書かずにはいられないほどに、昌幸は執拗に家康を窮地に追い込んでいるのだ。

 しかしこの時ばかりは、昌幸は徳川家のために忠勤を抜きん出る働きぶりを見せたのである。

 真田昌幸は依田信蕃(武田の旧臣。家康の信任の厚い人物。)と共に碓氷峠に陣を張り、卓抜な用兵を駆使して北条勢を散々に蹴散らし、その地を占拠し、小田原からの糧道(補給路)を遮断したのだ。

 
 少し余談を書くが、軍事行動には補給路の確保が必要不可欠なのであるが、日本人は昔からこの補給路の確保が非常に苦手で、明治時代の初期になっても兵站の必要性がなかなか根づかなかったようである。
明治の初期にプロイセン(ドイツ)から来日した軍事教官が、戦闘における戦略や戦術には非常に研究熱心であるのに兵站の必要性に無頓着でいる日本人将校たちにあきれ果てているぐらいなのだ。
 秀吉の唐入り(後年の朝鮮役)の際にも、日本軍将兵たちは明軍と戦うことよりも武器・食料の欠乏にひどく苦しめられている。
 
 この現象は、残念ながら狭い島国の小国育ちゆえだからであろう。
 広大な大陸で試練と経験を積み重ねてきた諸外国には、兵站の重要性が骨身にしみているのである。
 古代中国の項羽と劉邦の戦いにおいて、項羽軍は実に精強であったが、補給が続かないことが原因で戦線は長続きせず、次第に楚領を侵略されるようになって結果的に滅ぼされている。


 さて、この大珍事の緊急事態に、総大将の北条氏直は将兵の士気の低下を憂慮し、すぐさま家康に和議を申し入れた。
 和睦の条件は、上州は北条が経略し、甲州・信州は徳川領と定め、家康の二女の督姫を北条氏直の妻として迎え入れるとの約定であった。

 家康はこの条件に快諾し、こうして和議は無事に成立して徳川・北条は親戚関係になったのであるが、上州は真田昌幸が経略に専念する土地であり、沼田には昌幸が心血を注ぎ込んで略取した沼田城があるのだ。
 
 真田昌幸は非常に見切りの早い人で、武田家の滅亡の後、実にめまぐるしく、次々と主家を変えた人物なのであるが、これは、昌幸が利にさとくて身代以上に野心たくましい人物だったからだという意見も確かにあるが、しかし、結果的にいえば頼りがいのある主人に臣従し、所領の安全を確保してもらうためのことだったのだ。
 

 徳川の被官になっている昌幸にしてみれば、この和睦条件は実に不快極まりないものであり、
全く合点のいかぬところであったろう。

 上州は北条家の切り取りしだいと勝手に割り振られたのだ。昌幸の所領や沼田城のことが実に心配なところだろう。昌幸は微小の豪族だ、用心するのも頷けるのである。
 
 腹の太い家康は、
 「良い条件。とりあえず和睦して、あとはままよ。」といった感じだったのかもしれないが、
昌幸にしてみれば疑念だらけであったろう。


 これにより、家康は昌幸から不信感を買い、後年にいたるまでずっと苦しめられることになる。

 
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【2009/03/13 11:38】 | 未分類
Ⅰ 秀吉と家康


 ところで、織田信長の突然の横死により、甲斐・信濃は大混乱だ。

 武田家の滅亡の後、織田信長は甲斐・信濃方面に織田家の有力武将たちを続々と送り込み、小諸に道家政秀を、川中島に森長可、伊奈には毛利秀頼、甲斐に川尻秀隆を配置し、各々にその地の統治を任せていたが、本能寺の変の急報に接した諸将は西上の途につき、さっさと引き上げてしまい、川尻秀隆はなんと、突如として一揆勢に攻め込まれて防戦むなしく敗死してしまった。

徳川家康は、甲州の郷民らが信長の横死を知っていきり立って大騒ぎしている事を聞きつけ、川尻秀隆に急使を送ってその事態を知らせてやり、親切心から西上の道中の安全も確保してやったのだが、しかし川尻は、家康が自分を誘殺するのではないかと疑い、無情にも家康からの使者をその場で即座に斬り捨てた。

時は裏切りの横行する戦国の世だ。家康が東方に野心を持っている可能性は非常に高いので、川尻の用心も分からなくもないのであるが、こんなことをしたら自ら退路を断って窮地に陥る結果になってしまう。自ら家康に敵対の色を示し、孤立無援の状態になったわけである。
 
 武田家は滅ぼされてからわずか数ヶ月しか経っていないのだ、川尻秀隆はかっこうの標的になってしまい、甲州の郷民らは国侍や国人衆を巻き込んで一揆を起こし、すぐさま川尻の館を急襲して殺害したのだという。
 なんとも、やるせない話しである。


 こうして、甲州・信州は主人のいない無法地帯と化した。

 徳川家康は機を見るに敏だ。七月の初旬には浜松城から出兵し、甲州に入って宣撫活動に専念しながら軍旗を進め、素早くも九日には甲府に到着して旧武田家の遺臣を広く招いている。

 織田信長は武田の旧臣を非常に嫌悪し、憎悪と思えるぐらいに厳しく探索させてはことごとく殺害し、武田の遺臣を登用することも厳しく禁じていたが、徳川家康はこの時、まっさきに召抱えている。

 家康は甲州・信州の諸豪族を宣撫し、その地の経略を急いでいたこともあるが、旧武田家の戦力は精強そのもの、その配下は比類なき猛将ぞろいだったのだ。
将来の争覇戦に備える意味においても、喜んで探し求めては登用したことであろう。

 また、信長の厳重な探索網を恐れて隠れ忍んでいた武田の旧臣たちにとっても実にありがたいことであったろうし、喜び勇んで徳川家に仕官を願い出る者も多かったに違いない。


 
 さて、徳川家康はさかんに甲州・信州の経略に専念し、しばらくしてその地の安定を見ると、重臣の酒井忠次に統治を任せて引き上げたのであるが、諏訪に勢力を張っている諏訪頼忠だけが頑として誘降に応じない。
 諏訪頼忠は北条家に気脈を通じていたので猛烈頑強に反抗する。

 家康は諏訪征伐を酒井忠次に命じたのであるが、これを伝え聞いた北条家の北条氏直がさっそく大軍勢を率いて乗り込んできて、なんと五万(異説あり。)もの大兵力で押し寄せてきた。
 
 北条勢は信州佐久郡の海野口より兵馬を進め、その先鋒部隊は梶々原にまで進出し、徳川勢をいっきに呑みこみ、殲滅せんとばかりに悠々と陣営を構築していく。
北条方の陣地を遠望すれば、その大軍勢は運河のようにどこまでも果てしなく黒みわたり、大地を完全に埋め尽くようであったという。

 家康はこの急報に接してすぐさま諸将を率いて新府より出撃し、急場の支えのような状態で北条勢と対峙して睨みを利かす。

 徳川勢の兵力は、わずか八千足らずである。

 しかも、緊急の出動であった為、その将兵たちの装備は実に心もとない状態であった。

 
 
 ここで少し余談を書くが、
 古来より戦闘の記録は、勝利者側の史料は味方の兵力は少なめに記述し、敗者側の兵力を誇大な大軍勢にして多めに書いているものである。その理由は説明しなくてもお分かり頂けるであろう。

 この戦闘における諸史料を勘案して考察すれば、徳川方の兵力はだいたいこんなものだったと思うが、北条方の五万は誇大にすぎる感がある。
 しかし、徳川家はつい最近まで武田家の仇敵だったのだ。
 家康は旧敵地で北条の大軍勢と対陣に臨んでいたことになる。
 旧武田家の遺臣の中には徳川家を離反し、北条家に味方する豪族も少なからずいたであろう。
 
 また、なんといっても北条家の勢力は関東で絶大なのだ。仇敵だった徳川家に従うよりも、北条家の被官になったほうが得策と考える武田の旧臣たちは多かったはずだ。

 兵力の大小もそうだが、家康は非常に不利な状況下にあったといえる。

 こんな危険な情勢下で万単位の北条勢と本気で戦争する気になったのだから、家康の度胸もだが、自信もあったのであろう。


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【2009/03/10 11:04】 | 未分類
考察1 毛利元就と三本の矢

 戦国時代の当時、中国地方の安芸(今の広島県)の吉田郡山に毛利家の居城があった。

 毛利氏は元々、源頼朝の重臣、政所別当で有名な大江広元の子孫だ。
 
 朝廷の下級官吏であった大江広元は、現実的な実態にそぐわない政策ばかりを打ち出す朝廷の無為無策ぶりに愛想をつかし、朝廷から政権を切り離して幕府を開いて政策を担うという統治形態を考案し、源頼朝の側近にあっていまだかつてない政権構想の実現に向けて邁進した人物である。
幕府体制の創始者であり、非常に頭脳明晰な人物であった。

 大江広元は頼朝から現在の神奈川県秦野市の周辺を拝領し、後年、安芸の毛利荘も与えられて、その子孫の一族がその地に赴いて土着し、毛利氏を名乗って在地豪族化したという。
 このように、非常に格式の高い家柄なのであるが、下克上の風潮でしだいに微小の在地豪族に成り果てて、戦国時代に入った頃になると周防・長門に勢力を張る大内家、西国の風雲児尼子経久率いる出雲勢に呑み込まれんばかりの弱小国になっていた。

 毛利家は小国の運命に漏れず、あるいは大内家に味方し、またある時には尼子方になったりと、その出所進退を不明確にしなければならず、重臣たちも情勢に応じて大内方・尼子方それぞれに分かれてひいきにして支持するようになって毛利家中は結束を欠き、しだいに支離分裂して混乱を極めていた。

 このような内憂外患の折に、毛利家の当主になった元就は卓抜な謀略を用いて生き残りを図る。
 
 尼子家の二代目の当主になった晴久が凡庸な人物であることを即座に見抜き、反間の計を使って晴久を疑心暗鬼に陥らせる。
そして暗愚な晴久は、尼子の精鋭と謳われた尼子国久率いる新宮党を自ら滅ぼしてしまうのである。

 毛利元就は謀略を使って尼子の主戦力を見事にそぎ落とし、巧みな調略を用いて次々に尼子の重臣たちを篭絡して味方にし、まるでシロアリが家を食い潰すかのように尼子領を侵食していく。


 その一方、後年、大内家の重臣である陶晴賢が謀叛を起こし、当主の大内義隆を急襲して謀殺し、九州の大友家から大友宗麟の弟(義長)を貰い受けて傀儡政権を樹立すると、毛利元就は好機到来とばかりに反目の色を見せ始める。

 元就の巧妙極める謀略戦によって陶晴賢は疑心暗鬼に陥り、股肱の寵臣たちの多くを殺害し、以前から晴賢に忠誠を誓う家臣たちをも自ら遠ざけるようになってしまう。

 そして1555年、毛利元就は戦史上有名な厳島の決戦で陶晴賢を自刃に追い込み、いずれは大内領をも併呑し、その後、北九州にまで触手を伸ばすまでに成長するのである。


 ところで、毛利元就は「ぼやき」で実に有名な人だ。

 元就の書状を読むと、めめしい文章が長々と続き、あれはできない、こうなったらどうしよう、あれがとても心残りだ、やれなんだと、意気地のない言葉が延々と書き記されている。
鋭い洞察眼で尼子家を同士討ちにさせたり、陶晴賢を厳島におびき寄せるという見事な謀略を用いたりと、あのような遠大な謀略をやってのけたマキャべリズムの信奉者とはとても思えないのであるが、元就は三人の優秀な息子に恵まれ、政治・軍事に限らず、あらゆる面において息子たちに助けられ、小言のぼやきには心を尽くして励まされている。優秀で誠実な息子たちであった。

 長男の隆元は雄略の人。二男の元春は吉川家を継ぎ、三男の隆景は小早川家を継いで「毛利の両川」と云われ、毛利本家の為に後年に至るまで忠実に尽くしている。
また、三兄弟が団結して物事にあたることを「三本の矢」に喩えられているが、この故事は古代中国からのもので、毛利氏が発詳ではない。

 
 さて、長兄の隆元は兄弟の調整役となり、大膨張する毛利領の領国経営に貢献し、その領主にふさわしい才略にも恵まれていた。
惜しむらくは、元就が尼子家を徹底的に追いつめ、ついに尼子の居城である月山富田城を攻囲した際に、隆元はその援軍に向かう途上で暗殺された。
 尼子方の刺客によるという説が有力であるが、詳しく調べると非常にいぶかしい点も多々あり、数多くの謎を残している。

 次男の元春は猛将で有名、「鬼吉川」の名を西国にとどめず、日本全土に轟かせた。
 元春は少々頑固な人物であったようで、彼の秀吉嫌いは実に有名だ。
 こんな逸話がある。
 後年、秀吉の九州征伐の折に、吉川元春は本家から出動命令を拝命したのであるが、
「秀吉は大のお調子者で、あれは武士ではない。虫の好かない奴め。」といった感じで、嫌いで堪らず憤懣やるせない。
しかし、毛利本家の立場も考えて、しょうがなしに、死ぬほど嫌で出兵したのであるが、
にが虫を噛み潰す思いで行軍を続けたので精神的に極度に消耗しきり、「病は気から」というが、
とうとう九州の小倉のあたりで急に発病し、本当に死んでしまったのだという。
 秀吉による毒殺説もあるが、これは早世を惜しまれる人物にありがちな話しであり、蒲生氏郷や加藤清正にも毒殺説がついてまわっている。才能ある有望な人材だったのである。

 三男の小早川隆景は雄略の人であり、その才略は秀吉を唸らせ、後年の外征における朝鮮陣では碧蹄館において劣勢でありながら膨大な軍勢で押し寄せる明軍を撃破し、寡兵ながらも見事な用兵を駆使して敵軍を追い払い、日本軍の本国への撤退に貢献している。
 
 碧蹄館の戦いといえば、九州柳川の大友家の暁将、立花宗茂の大活躍が有名であるが、史料を詳しく調べると総司令官の小早川隆景は別働隊を編成して明軍に横槍を入れており、後方から敵軍を襲撃させており、小早川隆景の巧みな用兵も陰ながら大活躍している。 

 後年は五大老の一人に選ばれ、早世の際には、秀吉の家臣が、
「実に惜しい人材を失いました。小早川殿は、西国のフタとでもいうべき人物でありましたものを。」と言うと、秀吉は不満気に、
「ばかなことを申すでない。日本国のフタにしても、余りある男だったぞ。」と言い、ため息をついたという。

 秀吉の智恵袋といわれた黒田官兵衛は竹を割るように即座に妙案を出し、のちに後悔することも多かったようであるが、小早川隆景は実に物静かな人物で、推敲と熟慮を何度も重ねた上で発言するので後悔のない、明快で実に行き届いた名案が多かったという。

 
 まことに残念なことに、毛利家は関が原役の後、二百三十万石から二十六万石に減俸され、歴史のひのき舞台に出るには、後年の幕末まで待たなければならない。

 
 毛利隆元の子、毛利家当主の輝元は篤実で実に温厚な人物であったが、徳川家によって縮小を迫られた領国経営に悪戦苦闘して奔走し、後半生は苦悩の多い日々を送った人であった。

 
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【2009/03/04 02:29】 | 未分類
不如帰 ~戦国武将の幻影~


Ⅰ<覇王編>~逆賊 織田信長を討て!~  Ⅱ<争覇編>~織田家簒奪!秀吉の野望~

不如帰 戦国人物伝


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    不如帰 戦国武将の幻影

    武将が騒がしくて、音がうるさい場合はサウンドを(Sound ON)をクリックしてください。SoundがOFFになります。

    (1)サムライに斬られないように注意しながら、かがり火を2回クリックして炎を青くすべし。 (2)左右の炎を2つとも青くすべし。 (3)その状態でサムライに斬られるべし。 (4)カーソルが斬られる瞬間、クリックすべし。 (5)タイミングが合えば、システムが起動する。

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