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コラム NHK大河ドラマ天地人 兼続の家老職

 上杉景勝は兼続を家老に大抜擢するのであるが、家老職と会社サラリーマンの重役とは全然違う。

 サラリーマンは会社が倒産すれば重役といえども収入源を断たれ、次の仕事探しに奔走することになるが、家老は在地領主であるから収入源に困ることはない。主家が断絶したら他家に服属すればこと足りる。
 しかし、重役サラリーマンの仕事上の経費は会社が面倒をみてくれるが、家老はそうではない。
家老職の者は、主家から在地領主として認めてもらう代わりに軍役や補給物資の確保、家臣の俸禄から領地の経営まで自腹で行うのである。
主家から恩賞として知行地や金銀を与えられ、それらを元手にさらなる領地の拡大と拡充に努め、運命共同体の主家の存続に挺身努力するのである。
軍役であれば、千単位の軍勢を出す必要があるし、軍費も膨大だ。その費用の裏づけに領地の経済政策があるのだから政治家としての能力も求められる。したがって家老職をあずかる者の能力は非常に高い。その勢力も大きい。運命共同体の責任者でもあるのだから責務も重い。
 家老は本当の意味での能力給を稼ぎ出し、自腹を切って主家を支え続けるだけの経済的な体力も求められるきつい役職なのである。

 上杉景勝は兼続を家老に大抜擢する際に上田衆を重用し、上杉家譜代の重臣たちの反感を買っているが、これは当然の帰結なのである。兼続には家老職を務めるほどの背景がないのだ。兼続の手足となる家臣団を早急にこしらえる必要があったはずなのである。景勝が景虎を打倒し、景虎与党の領地を没収して恩賞として上田衆にばらまいたのもそのためだ。

 ドラマでは、重臣の直江信綱や吉江宗信が、「我々が支えてやる。しっかりやれ。」と、兼続を励ましていたが、これではまるで兼続が若くしてサラリーマンの重役になったような感じでしっくりこない。
 
また、直江信綱も吉江宗信も他の重臣たちも、もっと恩賞が欲しいのだ。景虎打倒に粉骨した家臣たちから相当の突き上げがあったはずなのである。恩賞の配分に偏りがあったのだからなおさらだ。
軍役は自腹の出費、恩賞は収入なのだから、その均衡が大きく崩れると非常に深刻なのである。
出費の負担が大きい重臣であれば不満なのも道理だ。

 
 
 こうして、上杉家中は結束を欠き、さらに景虎の与党であった本庄秀綱が叛旗し、新発田重家が不穏な動きを見せるなどして北越地帯は擾乱状態であった。織田信長は上杉家の御家騒動につけこんで佐々成政、斉藤新五郎(斉藤道三の子。信長の妻である帰蝶の弟。)をして越中を半ば押さえていたし、関東の北条が国境に軍勢を集結させて示威行為に及ぶ。
 景勝は家中の乱れに心血をそそぎ、内乱の平定に東西奔走し、外敵を掃討するなどして実に目のまわる忙しさだ。兼続が常に景勝の側近にあって尽力していたことは言うまでもない。


 天正九年の春、織田信長は京都で大馬揃え(大観兵式)を挙行した。
 
 その際、北陸方面の経略を担当している柴田勝家や佐々成政、前田利家、不破河内守などの有力武将たちも参列の為に上洛した。

 上杉景勝はその隙を突いて越中に侵攻し、魚津城・松倉城を回復したのである。

 ドラマの織田信長は壮麗な屋敷でゆっくりとワインを飲み、美人を側に置いて実に優雅であるが、この頃の信長も実に目のまわる忙しさなのだ。詳しく書いては果てしがないのでここでは書かないが、以前に詳しく書いているのでそちらを参照願いたい。

 この天正九年の九月、直江信綱が春日山城内で毛利秀広によって殺されている。殺害の動機については恩賞をめぐる仲たがい、上田衆による謀殺説、とばっちり説など諸説あって不明であるが、信綱には実子がいなかったので、景勝が直江の家名の絶えることを憂慮し、兼続に信綱の未亡人を配して直江家を継がせたと云われる。

 直江家は代々重臣を務める上杉の重鎮であり、優秀な家臣団に恵まれた家柄である。

上杉謙信の薫陶によって猛鍛錬された士卒、長年に渡って直江家の領国経営を任される優秀な奉行衆がいたのだ。
 
 兼続は不幸中の幸いというか、運が良いというのか、ともかくも家老職を務める為に必要な鳳凰を手に入れたのである。
 
 兼続は直江家の当主になったことで英邁な気質を思う存分に発揮し、上杉家中においてメキメキと頭角を現し、やがて上杉家の内政・外交・軍事を管掌するようになり、
「上杉家に直江山城守兼続あり」の名声が諸国に知れ渡って有名になったのは、この頃のことである。

 
著者HP http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/
メールアドレス hokenpuro@yahoo.co.jp
 
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【2009/04/29 01:39】 | 未分類
コラム NHK大河ドラマ天地人 兼続の外交手腕

 天正六年三月十三日、越後の上杉謙信が病没し、その後、景勝と景虎が家督争いを始める。

 景虎は元亀元年(1570年)に上杉謙信の養子になった人で、その妻は景勝の妹である。
 景虎は北条氏康の第七子であったから、景虎のバックには強大な北条家がおり、北条は武田家に景虎支援を打診して協力を取り付けていた。関東から越後に兵を出すのは難儀なので、武田勝頼に信州方面からの派兵を約束させたのだ。

 武田家は織田信長との長篠の戦いで大敗北し、超一流国から二流国に大転落していたのであるが、その後、武田勝頼は天正五年正月に北条氏政の妹を甲府に迎えて妻とし、北条と和親して同盟関係にあった。
 同盟を結んで一年と少し経過したばかりの頃だ。武田勝頼はこの北条家からの要請に快く応じ、さっそく信州口から兵馬を進め、信州飯山で景勝の軍勢を痛烈に撃破して敗走させた。

 こうして、武田家の景虎支持が明らかになったので、景虎の勢いが大いに奮い、景勝は滅亡のピンチに追い込まれたのである。

 兼続は、「上杉家は謙信公の血脈に伝わるべきことは当然。」と、あくまでも景勝を支持したと云われるが、これは非常にいぶかしい逸話だ。景虎の妻は景勝の妹なのである。
血脈のことをうんぬん言うのであれば、景虎と景勝の妹との間には子供がいたようであるし、その子が将来的に上杉の家督を継げば血脈の絶えることはないのである。
 ドラマでの上杉景勝は非常に頼りない人物のような印象を受けるが、景勝の生涯を丹念に調べると実に男性的爽快感にあふれる人であり、上杉家の骨法を見事なほどに体得した人物である。
 上杉景勝が当主にふさわしい逸材の人であり、将たる大器であったから兼続は支持したのであろう。

 
 ともかくも、兼続は御家の存亡を賭けて智恵をしぼり、武田家工作に奔走する。

 ドラマでは、兼続が武田勝頼に莫大な量の黄金を献上して歓心を買ったように描かれていたが、これは補足を要する。

 諸書、史料によれば、上杉景勝と兼続は日夜謀議し、その後、甲府に使者を送り、
「武田家の御軍門に降りたく、ぜひにもお聞きとどけ願いたい。降伏の証しとして東上州を献上いたします。また、信玄公のご息女を景勝の室家に御迎えしたく存じます。」といった内容を申し入れた。
その際、武田家の重臣たちにうんと贈賄している。
 
 これは対等な同盟関係どころではない。上杉家が武田の家臣になりたいと言ってきたわけだ。
 
 また、この頃の武田家は連年の果てしない戦争続きで軍資金が底をつきかけたような状態であった。甲州金は実に有名であるが、この頃には産出量が激減している。

 上杉景勝・兼続の贈賄工作によって、佞姦で欲の深い武田勝頼の寵臣、長坂釣閑や跡部勝資などがしきりに勝頼を説得したことは言うまでもない。

 当時の情勢を考えれば、武田と北条は同盟関係にあり、景虎が上杉家の当主になれば関東から甲州・信州、そして越後・越中にいたるまでの日本を縦断するかのような大同盟が成立する可能性があり、仇敵の織田家・徳川家と対峙する勝頼ならば景虎を支持するほうが無難なのであるが、運の悪い時には智恵の鏡も曇るものなのであろうか、ついに勝頼は景勝の誘い水にまんまと乗ってしまった。
 景勝はそのお礼として越後布三千反、黄金一万両を献上、長坂釣閑、跡部勝資には黄金二千両ずつを贈っている。この二人には仲介のあっせん料を払ったわけだ。
 また、景勝はこの時、「終生、未来永劫、武田家を離反することはない。」とまで書いた誓紙を勝頼に送っている。 
ドラマでは、重臣の直江信綱や吉江宗信が怒り心頭であったが、これは無理もないのだ、宿敵の武田の軍門に降るわけだから骨を刺す思いであったろう。憤懣やるせない重臣たちも多かったに違いないのである。

 
 さて、こうして武田家は景勝方となって景虎勢をしきりに圧迫する。これは、勝頼が北条家との同盟関係を一方的に破棄したことを意味する。
 その後、景虎が滅亡したことによって北条家は武田を敵視し、徳川・織田と同盟して武田家と敵対することになった。
 後年、武田家はついに信長に滅ぼされることになるのであるが、服属を誓った主家の武田が滅亡したことによって、必然的に上杉家は自立することになる。
 上杉が武田家の軍門に降った経緯について、
「さすがは兼続、これは一時的な権謀にすぎなかったのだ。兼続の卓抜な洞察力が信長の動向を見極め、武田の滅亡を予測し、そして鋭い分析力で情勢をすべて見通していたのだ。」とする見解もあるが、これは少し褒めすぎの感が否めない。
 兼続が抜群の才子であったことは事実であるが、大胆かつ緻密な外交的手腕に加えて運も非常に良いのである。
 
 運の悪い者は、決っして英雄になることができない。これは歴史が如実に証明している。
 後年、兼続の英邁な気質はどんどん発揮されて大人物に成長していくのであるが、詳しく調べると運も大変に良いのである。
 
 上杉景勝の雄略、そして、兼続の英邁な資質が運気と幸運をよんだのであろう。 


著者HP http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/
メールアドレス hokenpuro@yahoo.co.jp
   

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【2009/04/26 22:47】 | 未分類
考察4 大友宗麟と立花一族 Ⅲ

 さて、大友宗麟は秀吉から後日の援軍の確約をもらい、優麗壮大な建造物や金銀珠玉に飾られた品々、秀吉のご自慢である組み立て式の金ピカ茶室なども見学して大いに驚嘆し、秀吉にすっかり丸め込まれて喜び勇んで帰国の途についたが、しかし、宗麟が国許に向かっている頃には岩屋城は陥落していたのである。

 約千人いた岩屋城の将兵たちのほとんど全員が壮烈な戦死、寄せ手側の島津勢の被害状況も非常に甚大で、史料の軍忠状によれば島津方の戦死者は三千あまり、負傷者が千五百人以上を上まわったというから熾烈な大激戦であったことが分かる。

 この時の出来事として逸話がある。

 島津方は名将で名高い高橋紹運を愛惜し、大友家の衰運を説いて何度となく使者を送って降伏を促すのだが、紹運は頑と跳ねつけて全然受けつけない。
 
 島津勢は和解を諦めて総攻めにかかるのであるが、岩屋城の陥落の後、島津の兵士が高橋紹運の遺骸を調べたところ、その胸元に、「島津中務殿へ」と書かれた遺書があった。
 島津中務とは、寄せ手側の総大将の島津家久のことである。当主の島津義久の弟で、暁将で有名な人だ。その書状には、
「降伏を拒んだのはすべて、主君への忠義のためである。わかっていただきたい。」とあり、これを読んだ家久は無念そうに、涙をこぼしながら、
「紹運のような人物と酒を酌み交わし、親しく交わりが持てなかったことは、まことに残念である。戦国の習いとは、かくも悲しきことか。」と言って肩を落としたという。

 高橋紹運はいうまでもなく、立花宗茂の実父である。
 岩屋城が陥落すれば、次は立花城であることは火を見るより明らかだったのだ。御家中心主義という時代背景、武士道があったとはいえ、己の死を賭して、父親である面目にかけても島津勢を一歩たりとも立花城に迫らせまいとしたのかもしれない。悲壮である。


 その後、島津勢は立花城に押し寄せたが、立花宗茂はパルチザン的な手法で島津方を大いに悩ませ、秀吉が九州征伐を決断し、羽柴秀長が軍監の黒田官兵衛を伴なって援軍に駆けつけてくるまで見事に立花城を守り抜いている。

 
 
 ところで、大友宗麟は天正十四年の四月頃に上洛し、秀吉に拝謁して島津の横暴を訴えたのだが、翌年の五月二十三日には病没している。

 宗麟は天正六年の島津勢との耳川での大敗北がよほどにこたえたらしく、その翌年の天正七年に家督を嫡男の義統に譲っている。
しかし、その実権はしっかりと握りしめて諸事難題に奔走したが、ついに島津方の攻勢に耐え切れなかった。島津家は天正十五年の五月三日に秀吉に降伏しているから、その死の間際に島津家の大転落を見届けることができたことだけでも幸いであったろう。宗麟は神父に付き添われて昇天したことになっているが、本当のところ、彼が信心していたかどうかは疑問である。目的は貿易の利であったように思えてならない。

 
 
 さて、立花宗茂といえば後年の唐入り、文禄の役での朝鮮陣で勇名を轟かせた人物だ。
 
 文禄の役の前半戦は先鋒部隊の加藤清正・小西行長が恐ろしいスピードで連戦連勝したが、後半戦は明軍によって押されぎみとなり、制海権を奪われて補給路の確保が難しくなると敗色は濃厚となった。

そんな折り、明軍が十万と号して平壌を占拠する小西行長を攻撃し、敗走する小西勢を追って日本軍の本営が所在する京城付近にまで迫ってきた。平壌での小西勢は猛烈に戦って反撃したが、ついに支えきれずに敗走となったのだが、この時の事として逸話がある。
 
 大友義統も文禄の役に従軍していて、平壌の小西行長を援護する陣形で付近の山上に布陣していたのであるが、平壌を包囲する明軍の膨大な大軍勢の噂を聞いてたちまち震え上がり、その後方に軍勢を展開中の黒田長政の陣中に逃げ込んだ。黒田長政はあきれた顔で、
「戦い敗走して救援を求めてくるのであればわかるが、敵の大軍の噂を聞いただけで逃げだした大将には、いまだかつてお目にかかったことがない。」と、嘲笑ぎみに罵倒したという。
 
 大友義統は非常に臆病な人で、意思薄弱、とても将たる器の人物ではなかったが、二階崩れの苦い経験のある宗麟があえて嫡男に家督を譲ったのである。優秀な家老衆がいればまだ補いもついたであろうが、これも運命なのだろう、これを伝え聞いた秀吉は激怒し、義統は所領を召し上げられている。 


 日本軍は総力を結集して碧蹄館(地名である)で明軍を迎撃し、先鋒部隊の立花勢が大いに奮戦してこれを撃破し、その後、明軍は恐るべき敵であることを悟って追撃も緩くなり、これによって日本軍の本国への帰還がスムーズに行われたのである。
 
 この碧蹄館での戦闘は、明軍は十万以上の大軍勢であったというから先鋒の立花宗茂の胆力は恐るべきものだ。
 立花勢は朝鮮に上陸した時は三千の軍勢であったが、この時点では負傷兵も多くいたはずだから実際に戦える将兵は二千を少し上まわる程度であったろう。強靭に鍛錬された勇猛な将兵であったことは間違いない。
 
 この時に従軍していた立花家の天野源右衛門は、地響きしてしだいに増大しながら押し寄せてくる敵影を眺めて、
「少し高き所あり。敵勢ここを押越ゆる時は、黒みわたりてひとへに大山のしげりたるを見るが如し。」と、その覚書に記述している。
 
 山が移動して見えるような、はてしなく黒みわたる大軍勢がひしひしと迫ってくるような光景だ。
 
 胸のゆらぐような情景である。


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【2009/04/15 23:40】 | 未分類
考察3 大友宗麟と立花一族 Ⅱ


 ところで、大友家の運の尽き始めは、有名な「大友家の二階崩れ」にはじまり、その余波によって発生した島津家との耳川合戦での大敗北が大友家の衰運を決定的なものにしたといってよいのかもしれない。

 大友家の二階崩れの概略は、宗麟の実父(義鑑)が嫡男の宗麟を廃嫡し、後妻の子に家督を譲ろうとしたことに始まる。
 大友家の柱石であった四人の家老がこれに驚いて、
「これはしたり、御家騒動のもとにござる。」と強く諌めたのであるが、後妻の愛欲に溺れた義鑑は後日、そのうちの二人の家老を冷酷非情にも登城にかこつけて誘殺する。
 義鑑の後妻は傾国の美女であったに違いない。義鑑を扇動してこういった顛末になったことは想像に難くないのであるが、強烈な母性愛の裏には容赦のない排他性が潜んでいるのである。

強烈な母性愛が、我が子に家督を継がせてやりたいという母の心になりふり構わずどんなことでもさせようとするのだ。それが、残忍で冷酷的な排他性につながってしまうのであろう。
こんな例は歴史上、枚挙にいとまがないほどにいくらでもある。

 さて、これを伝え聞いた残りの二人の家老は身辺の危険を感じ、先手を打って義鑑の城に乗り入り、
「我が手の者どもはいずくぞ!」と、叫びながら斬り込んでまわったからたまらない。城内で給仕に励んでいたその家老の郎党たちが馳せ集まってきてなかなかの手勢となり、義鑑を護衛する武士たちと熾烈な大激戦となったが、防戦むなしく義鑑は斬殺され、後妻とその子供も殺されたのであるが、家老の一人は乱戦の最中に討ち死にし、一人は国外に逃亡した。
 城内は鮮血に染まり、肉片が飛び散って凄惨を極めたという。

 
 このような経緯の後に宗麟は家督を継いだのであるが、貴重な柱石を削いでしまった大友家はしだいに求心力を失っていくのである。
 有名な島津家との耳川合戦での大敗北は、元々は諫言に全然聞く耳を持たない宗麟が出兵を強行したことが原因なのである。詳しく調べるとあの優秀な四人の家老が生存していれば宗麟の暴挙に歯止めがかかったように思われてならない。二階崩れ以降の大友家中の重臣たちは結束を欠き、権勢を競い合って反目しあい、支離分裂ぎみになっていたのもそのためであろう。
 
 
 さて、耳川合戦の経緯である。
 薩摩・大隅の島津家は急速にその領土を拡張し、北進を続けて強国の伊藤氏を撃滅し、さらに北上の兆しを見せたのであるが、大友家の背後には対戦中の毛利がおり、西南には肥前の竜造寺が敵対し、足元ではアンチ大友の秋月氏・筑紫氏などが虎視眈々と隙をうかがっていた。
 南に敵することは得策でないことは火を見るより明らかな形勢なのであるが、宗麟は後顧の憂いを立花道雪・高橋紹運に任せ、総勢で四万近い兵力を率いて南下し、日向の戦略的要害である高城に兵馬を向けたのである。
 その際、宗麟は行軍の道中で、異教徒征伐と称して道々の神社・仏閣を放火し、それらを徹底的に叩き壊し、その残骸や仏像の破片を泥道に敷いてその上を踏みにじって進軍したという。
 
 この仕業を西欧の史料では、宗麟のことを名君の英断であると褒めたたえ、日本の史料には悪逆無道の暴君と記されている。全くの正反対の見解なのであるが、その理由は説明するまでもないだろう。 
 
 宗麟は元々は臨済宗の禅にこりかたまっていた時期があるが、この頃の宗麟はすっかりクリスチャン気取りの時であり、日向をキリスト教国にしようと本気で思っていた節があるほどの熱の入れようの時期だ、なりふり構わず神社・仏閣を破壊したので仏罰を恐れる士卒たちの士気は恐ろしく低下する。
 そして、勇猛を誇る島津との耳川での決戦だ。
 士気の低い大友勢はたちまち総崩れと成り果て、甚大な大損害を被り、死者算なし、ご自慢の「国崩し」というポルトガルから輸入した大砲もぶんどられて、宗麟は命からがら豊後に逃げ帰ったのである。

 この耳川合戦は天正六年のことであるが、その後、島津は肥前の竜造寺家を痛破して当主の隆信を殺し、天正十三年の頃には島津の勢いは大いに奮い、九州での有力な勢力のほとんどが島津になびいてしまっている。
 立花道雪・高橋紹運は毛利・竜造寺・アンチ大友の諸勢力に備えて筑後の高良山に陣していたが、道雪はこの年の九月頃に陣中で病没している。享年七十三歳、高良山から柳川を睨んでの陣没であった。柳川の城は後年の立花家の居城であるが、この頃は竜造寺家の城だったのである。

 島津の猛威はとどまることを知らず、しだいに大友の属領である筑前国を侵食していく。筑前では立花宗茂の拠る立花城、高橋紹運の岩屋城だけが頑強に抵抗していたが形勢は全くの不利だ。このままでは豊後までも奪われかねない。

「豊臣家に頼る他なし。」と決断した宗麟は、大坂城に出向いて秀吉に拝謁し、島津の飽くなき横暴を訴えて大いに泣きついた。宗麟を取り次いだ羽柴秀長も同情の念に絶えなかったという。

 この頃の秀吉は、徳川家康の召致に四苦八苦して頭を悩ませている時期で、九州に派兵させることも非常に困難な状態だったのであるが、秀吉はひょうきんなお調子者だ、
「よし、よし、わしにまかせい。もう安心じゃぞ。」と、いつものように陽気な口調で宗麟を元気づけてやったに違いないが、この対面の折りに、宗麟は立花宗茂と高橋紹運を豊臣騎下の大名に取り立てて欲しいと誠心誠意を込めて願い出ている。
 大友宗麟はその生涯を通観すると天才なのか、アホウなのか、よく分からない人物である。
 ある時期は政治に熱心で非常に上手、戦争も実に強いのだが、ある時期は別人のように暗愚で酒色に耽り、政治を全然顧みることがなかったりする。戦争もだらしないほどに弱い。
どうやら偏狂的な志向の持ち主であったらしく、禅宗に凝ってみたり、キリスト教にはまってみたり、女狂いの時期は京にまで人をやって女漁りをしているし、家臣の妻を強奪して妾にすることまでしている。偏狂的に没頭する性質だったようであるが、何か極度の精神的なトラウマを抱えた人物であればこれは珍しい現象ではない。

 ともあれ、大友宗麟は頼もしい主人とはいえない人物であったが、この秀吉との対面の折りには実に頼もしいことをしている。立花宗茂と高橋紹運に感謝してのことであろう。
 
 

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【2009/04/13 18:22】 | 未分類
考察2 大友宗麟と立花一族 Ⅰ
 

 甲斐の武田信玄が側近の者に、
「できれば一度だけでよいから、ぜひ会ってみたい人物なのだが、かの地では、それもかなうまい。」と言い、非常に残念そうに嘆息したという逸話がある。

 かの地とは九州の豊後、その人物とは立花道雪のことである。

 名将で実に有名な立花道雪は、九州の豊後を本拠地とする大友家の重臣であった。
 大友家は歴史ある非常に古い家柄であり、キリシタン大名で有名な宗麟の代には九州六ヶ国を支配するまでになっている。
 大友家は宗麟の代からしだいに衰運を迎えるのであるが、立花道雪が類い稀な名将であり、主君の宗麟を親身に手助けをして尽力していたことは、道雪が在世中のうちは大友家が大きな破綻を見せていないことで良く分かるのである。

 立花道雪は壮年の頃に落雷に遭い、その足は萎えて歩行が不自由になってしまったという。
 この経緯を物語る逸話が名将言行録に記載されている。

 ある夏の日、夕涼みをしていた道雪の近くに突然雷が落ちた。

 当時の人々には落雷の知識など無い。
 非常に迷信深い時代であり、雷は雷獣という化け物がいて、それが悪さをしていると考えられていたようである。
 道雪は周囲の異様な気配を感じ取り、即座に刀を素早く抜いて雷獣を斬った。
 刀には確かに手ごたえがあったらしいのだが、この時に感電して体をこわしたのであろう。

 雷雲による落雷を刀で斬ることなど、到底信じられない話しであるが、当時の人々の間では大変な評判になっていたようで、迷信深い時代背景も手伝って人々に信じられていたようである。
 
 道雪は雷獣を斬った刀を「雷切り」と名づけて愛刀の一つに加えたという。
 
 刀は落雷で黒こげになったのではないかと思うのだが、刀鍛冶に頼んで焙じ直してもらい、護身用に帯刀していたのかもしれない。


 道雪は弓・鉄砲を入れた輿に乗り入り、それを壮者らに担がせて敵中深くに突入し、まさに斬人斬馬の向かうところ敵なしの勢いで数々の戦功を上げている。
 また、実に徳望ある人物であり、士卒の心をつかむことに優れ、名将言行録には道雪の心温まる逸話が数多く記載されている。

 立花といえば、道雪の家督を継いで女大名になった立花千代(道雪の一人娘)が有名であるが、これは珍しいことではない。
 女性が所領を相続する例は王朝時代から枚挙にいとまがないほどに多い。
江戸時代以前は、女性が所領を相続する慣習があり、日本は母系社会であったことは歴史に明るい方々であればご存知であろう。江戸時代の影響が強烈であるから珍しく感じるのかもしれない。
 男尊女卑の風潮は江戸時代からである。
 戦国時代の当時は女性が「家」の存続の為に政略的な犠牲を強いられることも多かったが、
これは現代と違って個人よりも「家」が重要な社会単位だったからである。江戸時代以前の女性たちは非常に自由奔放で、その個性を強烈に発揮している。

 
 道雪は高橋家から婿養子(宗茂)をもらって当主にするのであるが、宗茂の実父の高橋紹運は、
「宗茂は当家の嫡男であります。平にご容赦。」とことわったのだが、道雪は事あるごとに何度となくねだって、ついに「うん」と言わせたという。
 素質の良い宗茂に惚れこんでいたのである。

 宗茂が立花家に入ったのは14歳前後の頃なのであるが、まだ入る前の8歳前後の頃のことであろう、宗茂が道雪と食事を共にしている時に、焼き魚を手に取ってむしって食べていたところ、道雪がそれを見とがめて、
「そのような食べ方では、役に立つ人物にはなれんぞ。」と、叱りつけたという。
 深い愛情があるからこそ、気になってしかたがなかったのであろう。叱りながら、惚れこんでいるのである。
 
 また、有名な逸話で、こちらは宗茂が立花家に入ったばかりの頃、山路を散策中にイガ栗を踏んでしまい、「これ抜け!」と言いざま、由布惟信(立花家の勇士。雪下で有名。)が走り寄ってきて、逆にウンとイガ栗を押しつけた。
 悲鳴を上げるほどに激痛が走ったのだが、道雪が眉をつりあげて目を光らせてこちらを向いていたので、痛いとも言えず、泣くこともできず、苦痛をこらえるのに難儀したと、宗茂は後年、人に語っている。
 生死を賭けた戦場で生き抜く為に必要な教育方法であったろう。立花家の現実的で厳しい家風が感じられるが、この家風がたくましい勇士を育て続けたのである。


 立花宗茂と千代は夫婦仲が悪かったと云われるが、確かに子宝に恵まれず、後年は別居状態になっている。
しかし、性交がなかったから仲が悪かったと決めつけるのもおかしいし、詳しく調べると仲睦まじい夫婦仲を物語る逸話もある。
 千代は34歳で早世しているので状況証拠で判断するしかないのかもしれないが、宗茂は高橋家から相当以上の家臣たちを引き連れて立花家に婿入りしたはずだから、ひょっとすると家臣団の内輪もめを回避するために別居状態になってしまったのかもしれない。
 この時代は強烈な「家」中心主義だ。家の存続の前に個人的な感情は埋没させられてしまうのである。したがって、逆説的にいえば子宝に恵まれていたからといって夫婦仲が良かったとはいえない。 
 
 宗茂は後年、妻や側室を置いているが、とうとう子宝に恵まれなかった人である。



 宗茂の立花家への婿入りが決まり、実父の高橋紹運と別れの盃をかわした際に、
紹運は毅然とした口調で、
「親子の縁もこれまで。戦国の習い、高橋家と立花家が敵味方になることもあるかもしれないが、
その時はまっさきに道雪殿の先鋒となって必ずわしを討ち取れ。道雪殿は未練がましいことの嫌いなお人柄ゆえ、けっして迷いがあってはならぬ。
また、お前が何か不覚をして、道雪殿から離別を申し渡されることもあるかもしれないが、その時は当城に帰ってきてはならぬ、いさぎよくこの刀で自害せよ。」と言って刀を渡したという。

 実に厳しい武士の道、悲壮な親子の断絶である。
 
 めがしらが熱くなり、胸のつまるような思いがする。

 
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【2009/04/09 23:48】 | 未分類
不如帰 ~戦国武将の幻影~


Ⅰ<覇王編>~逆賊 織田信長を討て!~  Ⅱ<争覇編>~織田家簒奪!秀吉の野望~

不如帰 戦国人物伝


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    不如帰 戦国武将の幻影

    武将が騒がしくて、音がうるさい場合はサウンドを(Sound ON)をクリックしてください。SoundがOFFになります。

    (1)サムライに斬られないように注意しながら、かがり火を2回クリックして炎を青くすべし。 (2)左右の炎を2つとも青くすべし。 (3)その状態でサムライに斬られるべし。 (4)カーソルが斬られる瞬間、クリックすべし。 (5)タイミングが合えば、システムが起動する。

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