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コラム NHK大河ドラマ天地人 兼続と石田三成

 石田三成は江戸時代での評判はすこぶる悪い。
改正三河後風土記をはじめとする様々な史料が三成のことを佞姦、佞臣、陰険で酷薄な人物であったと非難している。豊臣家を簒奪するために策動したとまで書いている書物まである。
しかし、石田三成は徳川家康の仇敵であったわけで、封建主義の色濃い徳川の治世下においては石田三成は悪者にならざるを得ない運命にあったといえるだろう。幕府の目が光っているのだ、三成のことを徹底的にこきおろして悪者に仕立て上げたほうが作者も安心であったろうし、幕府の受けも良いにきまっている。三成はその時代の犠牲者であったろう。

 近年になってようやく石田三成の評価が見直されるようになったが、しかし彼が冷酷的に薄情で陰険な性質の持ち主であったことは事実のようである。
古代中国の秦の商央をはじめとする優秀な行政官僚で有名な歴史上の人物たちは、ほとんど全てといってよいぐらいにこの性質を持ち合わせている。
 三成は頭脳明晰な抜群の才子であり、豊臣家の政策のすべてを管掌していたから羽振りも非常に良いのだが、陽気でおおらかに振舞う秀吉の陰で政策の矛盾点を点検して調整し、強欲で狡猾な連中や政策に不満を持つ者たちからまっさきに敵視される存在でもあるのだ、陰険で酷薄でなければ務まらないきつい仕事なのである。
 現代の大物政治家の秘書が恨まれ役になるのも道理といえるだろう。

 
 石田三成は江州今浜(秀吉が長浜と改名)に近い北郷理村石田の生まれで、父親は正継といい、兄は正澄という。正澄は後年一万石の身上になって堺政所をつとめるぐらいの優秀な人物だったから、三成の卓抜な文吏的才能は遺伝的な要素によるものかもしれない。
 諸書によれば、三成の氏素性は比較的に明確で、その身分は郷士であったから、ドラマで紹介されていたような幼少期の寺小姓の三成像には多分に無理があるかもしれない。しかしおもしろい伝承的な逸話なので改めてご紹介したい。

 秀吉が織田家の武将で江州長浜城主であった頃、鷹狩りの帰りにのどが渇いたので観音寺に立ち寄ったのであるが、そこの寺小姓が大碗にぬるいお茶をだぶだぶと盛って持ってきた。
 秀吉がそれを飲み終わると、次は中碗にやや熱めの物が出され、しばらくした後に小碗に熱いお茶を入れて持ってきた。秀吉は感心して、
「小僧ながら、なかなか見どころのある奴じゃ。」と言って、住持に頼んで寺小姓であった三成を召抱えた。この時の三成は十三歳前後であったという。

 石田家は以前、観音寺城主の佐々木六角氏の被官であった時期があり、三成は郷士とはいえ身分ある家の生まれである。
どうゆう経緯で三成が寺小姓になったのか不明であるし、しかも観音寺では長浜から遠すぎるだろう。秀吉の領内でもない。
 長浜城近辺の寺としたほうが自然である。
 
 三成の利発性を象徴する話しであり、内容もおもしろいので伝承的に語り継がれたのであろう。

 また、三成の才幹を物語る有名な逸話がある。

 天正五年の初冬、秀吉は中国方面の司令官となって姫路城に入ったのであるが、その頃の三成は十八歳前後、秀吉の奏者(取次ぎ役)になって従軍している。主人の取次ぎ役であるから諸候が一目置くので羽振りも非常に良いのである。その時の出来事。
 秀吉が三成の奏者役に感心して五百石の禄を与えようとしたところ、三成は毅然とした口調で、
「宇治川と淀川の葦は、郷民に勝手取りにされていますが、これから運上を取る権利をわたくしにお与え下さい。お許し頂ければ五百石は返上するどころか、一万石の軍役を果たすでありましょう。」と言った。秀吉はこれを許し、すべて三成に任せておいた。
その後、秀吉は信長の命令で丹波国の波多野氏征伐に出陣することになり、三成も従軍したのであるが、その際に三成は数百騎を従えてきて約束通りの軍役を果たしたので秀吉は驚いたという。

 この話しは古今武家盛衰記、名将言行録、近年の諸書にも散見される有名な逸話であるが、史実としては非常に疑わしい。この頃は宇治川・淀川あたりは秀吉の領内ではない。明智光秀との山崎合戦の後に領有しているので、もしかしたら時期が違うのかもしれない。
 ともあれ、三成の卓抜な経世の才をうかがい知るには絶好の逸話である。


 
 羽柴秀吉と上杉景勝との落水城での会見は史実的に確かな傍証が無いので架空のことと思われるが、しかしこれと近いような会見があったかもしれない。天正十四年に石田三成は秀吉の命令で兼続に書簡を送り、景勝の上洛を促している。景勝は兼続と相談して上洛を決意、その年の六月七日には四千の軍勢を率いて入京し、十四日に大阪城で秀吉と対面している。
 
 以前に何らかの形で両者の会見があったから、この素早い運びとなったのであろう。

 
 また、徳川家康が甲斐を平定し、信州の諸豪族を宣撫して経略に専念している最中でのことだったのだ。北越の新発田重家も相変わらず頑強に抵抗していたので軍勢を割いて備えなければならなかったし、上州方面では北条家が虎視眈々と隙をうかがっていたのである。
 
 景勝と兼続は状況をよく鑑み、中原に覇を唱える秀吉と結ぶことを得策と考え、実際に秀吉と会見して真偽のほどを確かめた上で上洛を決意したのであろう。
 
 
 上杉景勝は上洛した翌年の天正十五年に新発田重家を滅ぼし、越後を完全に平定している。 

 
著者HP http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/
メールアドレス hokenpuro@yahoo.co.jp
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【2009/05/26 22:45】 | 未分類
コラム NHK大河ドラマ天地人 兼続と落水城の会見

 織田信長が本能寺で横死した後、甲斐・信濃は大混乱となったが、徳川家康は駿河口から甲斐に兵馬を入れ、その地の経略に専念しながら信州をうかがい、上杉景勝は約八千の軍勢を率いて信州川中島に進出して諸豪族の宣撫に努めていたが、関東の北条家も黙ってはいない。

 北条氏直は四万三千もの大軍を率いて、諸豪族を宣撫しながら碓氷峠を越えて信州川中島にまで押し出してきたのである。

 上杉家の先鋒大将の兼続は信州園平川に布陣し、果てしなく黒みわたる北条の大軍勢と対峙する。

 しかし、この時は合戦していない。
 信州海津城の高坂源五郎が上杉方から北条方に寝返り、合戦が始まると同時に北条勢とともに上杉勢を挟撃する手はずであったが、上杉景勝はこの策略を即座に見抜いて高坂源五郎を斬った。
こうして、上杉の精強無比は天下に鳴り響いている上に北条氏直の緒戦の作戦は見事に頓挫し、さらに、上杉景勝が徳川家としめし合わせて北条勢の後方の糧道を切り取ろうとしたので、北条氏直は慌てて本国に引き揚げている。
 
 上杉景勝は謀略を用いて大軍の北条勢を退かせ、信州川中島四郡を略定したのである。
 
なかなかしたたかな手法であり、これは側近の兼続の進言であったかもしれない。景勝は上杉謙信の骨法を見事に体得し、正々堂々を好む男気のある爽やかな人物だ。寡兵といえども有無の決戦を期していたに違いないが、しかし、この時は戦況を鑑み、兼続の進言する謀略を採用したのであろう。



 ところで、羽柴秀吉は明智光秀を討滅し、翌年の天正十一年に柴田勝家を滅ぼし、順風満帆なまでに信長の遺業を継いで天馬空を行くが如く、まさに日の出の勢いだ。
 天正十二年には越中に兵馬を入れて佐々成政征伐の下準備をしているが、その際、家臣の木村秀俊を上杉景勝の元に送って佐々に味方しないように要請している。
 景勝はこれに快諾し、羽柴家との修交上の和親を結ぶ。
 
 翌天正十三年の春、秀吉は佐々成政征伐を断行し、佐々は羽柴勢の膨大な軍勢にぼう然とし、戦意を全く喪失して頭を丸めて降伏。
この時、史料の北国太平記や藩翰譜によれば、秀吉が落水城にまで出向いて上杉景勝と会ったことになっている。
 しかし、この説は確かな傍証がなく、その他の諸書によれば史実としては否定的な見解が多い。
 ドラマの製作者もさすがにそのままの逸話を放映できなかったようで、逸話をもっともらしい話しに作り変えていたが、真偽のほどは定かではないがおもしろい逸話なのでご紹介したい。

 秀吉は佐々成政を降伏させた後、木村秀俊、石田三成、その他三十人足らずの人数で落水城下に出向いた。お忍びの潜行である。
そして、木村秀俊が使者となって落水城主の須田修理に、
「上杉公に御面会いたしたく、木村秀俊がここまで参りました。上杉公にお取り次ぎ願いたい。」と、突然の来訪の旨を伝えた。
 須田修理は驚いて、ともかくも木村秀俊のために旅館を手配し、しばらくして何事かと木村を訪ねたのであるが、木村秀俊の供回りの中から巨眼異相の男が進み出て現れ、
「実はわしは羽柴秀吉だ。上杉公にお会いするために潜行して来た。上杉公に伝えてもらいたい。」と出し抜けに言ってのけた。
 須田修理はさらに驚いて、とにもかくにも秀吉を落水城に招いて接待する一方、糸魚川城に入っていた上杉景勝に使者を送って知らせた。
景勝は羽柴勢の越中侵攻に備えて八千六百の軍勢を率いてこの城にいたのだ。

 須田修理の使者は、
「秀吉は城中におります。我が手の者で討ち取りましょうか。」と伝えてきた。この口上に景勝は、
「先年の誓約を信じ、そして上杉なれば卑怯な振る舞いはないと信用しての来訪であろう。そのようなことをすれば景勝の弓矢に疵がつくことになる。会見して話しが合わなければ、他日を期して堂々と陣して決戦すればよい。」と毅然として言い、直江兼続、藤田信吉、供回り六十人余りを引き連れて落水城に向かった。
 会見の折り、秀吉には石田三成一人が控えており、景勝の側には直江兼続ただ一人、双方ともに二刻余りも歓談し、景勝は秀吉の人傑たるを認め、秀吉は景勝の大器を見抜いたという。
 
 直江兼続と石田三成の交誼もこの時に始まったと云われている。


 伝承的な逸話で確証がないのが非常に残念であるが、秀吉は大の演出家だ、この話しに近いことはあったかもしれない。

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【2009/05/19 14:12】 | 未分類
コラム NHK大河ドラマ天地人 兼続と激動の時


 リーダーと親分とは、似ているようでかなり違う。

 親分は面倒見が良くて信頼感もあるので名声と人望を得るが、しかしリーダーになるためにはさらに明確なビジョンを持ち、それを現実化させるだけの意思と智恵と行動力が必要なのだ。
手ごたえのある確かなビジョンがあるから方向性が明確で、組織も非常に強固で柔軟性に富んだものになる。
 
 親分が死亡した場合、内部抗争が始まって組織崩壊してしまうケースがよくあるが、これは親分の心情や情緒に依存した組織形態だからである。
リーダーの場合はその明確なビジョンの継承者がいる限り、組織の方向性は失われない。リーダーを失って一時的に組織崩壊してもリーダーの資質に恵まれた者がトップになれば回復が非常に早いのである。

 かつて、たかが運よく美濃を取った尾張の田舎大名が「天下布武」などと、まるで誇大妄想とでもいうべきビジョンを打ち立てた信長であったが、そのビジョンの方向性に狂いなく現実味をおびはじめると、たちまち人と物資が急速に集まりはじめ、やがてその組織体は飛躍的に発展して大膨張したのだ。
 織田信長はまさしくリーダーであったろう。
 
 天正十年六月二日、その信長が本能寺で横死したのであるが、当時、織田家の師団長クラスの権限を持つ武将が4人いた。

 羽柴秀吉は毛利方の備中高松城を水攻めにして、援軍に駆けつけてきた毛利勢と対陣中。
 柴田勝家は上杉方の越中魚津城を落城させて首実験の真最中。
 丹羽長秀は織田信孝とともに摂津に軍勢を集結し、四国征伐の準備中。
 滝川一益は関東探題として厩橋城に入り、北条家に睨みを利かせ、信越地方の経略の真最中。


 本能寺の変の折り、摂津の丹羽長秀と織田信孝は全くの思考停止状態であった。まっさきに明智勢と決戦できる立場にいたにも関わらず、彼らはたいした軍事行動を起こさずして秀吉の軍勢と合流している。
明智勢の動静を見極めたり、近畿地方の諸候の動向をうかがったり、軍勢の多寡の問題など、諸事情があったことも確かであるが、しかしそれにしても悠長に構えすぎ、気おくれしすぎであろう。
 とてもリーダーの器とはいえない。

 滝川一益は関東の諸将を招いてザックバランに本能寺の変について告げ、金銀財宝を彼らに分け与えて北条勢と決戦し、結果的に散々に敗れて逃げ帰るように西上している。こちらも思考停止状態、ともかくも現状をどうするのかで精いっぱいといったような感じだ。リーダーとしてはいま一つであろう。

 リーダーとして迅速に機動したのが羽柴秀吉、柴田勝家、そして信長の盟友であった徳川家康である。
 秀吉の中国大返しは実に有名であるが、柴田勝家は秀吉に遅れることわずか3日足らず、家康は尾張熱田を行軍中に光秀討滅の報告を受け取っている。
勝敗は兵家の常、ともかくも光秀の討滅を期して迅速に兵馬を集結し、猛烈な勢いで上方に向かっていたのだ。柴田勝家は評判のよくない武将であるが、五里霧中の状況下、暗中模索の中で諸将をたばねた力量は卓抜である。リーダーとしての資質はあったといってよいであろう。

 柴田勝家は佐々成政に命じて富山城を中心に軍勢を展開させ、上杉勢の越中侵攻に備えさせてから上方に向かったのであるが、甲斐・信濃の織田家の諸将は早々と西上の途についていたからこの方面はがらあきの状態となった。上州沼田城の滝川儀太夫も六月二十日には西上を開始している。
 上杉家は絶望の窮地から蘇える思いであったろう。
上杉景勝は好機到来とばかり信州川中島に出兵し、諸豪族を宣撫しながら信州長沼城に本陣を置いた。
その兵力は約八千、兼続は景勝の側近にあって信州の経略を急ぐ。

 上杉家の家老職をあずかる兼続としては勇躍する思いであったろうが、しかし激動はさらに続く。
北条家の北条氏直が四万三千もの大軍を率いて碓氷峠を越えて信州川中島に押し出してきたのだ。

 関東での北条家の威風は絶大だ。信州の諸豪族のほとんどが北条方となり、上杉勢は五倍を上回る大軍勢と対峙することになった。

 この時の上杉勢の先鋒大将は兼続であった。上杉の直江家といえば上杉謙信に猛鍛錬された猛将勇卒がいることで有名だ。北条氏直が決戦をためらっていたぐらいだから相当なものなのである。


著者HP http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/
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【2009/05/13 06:05】 | 未分類
コラム NHK大河ドラマ天地人 兼続と第六天魔王


中世の日本は非常に迷信深いという時代背景があり、これは戦国時代の当時も同じなのであるが、世間では呪詛・調伏がもっとも恐れられ、神仏を司る宗教界の権威は非常に絶大であったにも関わらず、織田信長は比叡山を焼き払い、一向衆徒にいたっては数万人を虐殺したのである。
 神罰・仏罰を恐れぬこの仕業に、信長は仏敵、天魔の所為、第六天魔王と罵られたが、強烈な野生児である彼はあくまでも合理主義を堅持し、冷徹なまでに昔からの因習をもことごとく破壊して踏みにじり、冷酷なまでに現実主義の見地に立って非情な決断を平然と下したのである。

 浅井家との盟約を反古にして朝倉・浅井を征伐し、利用価値のなくなった足利義昭を追放し、社会的権威の象徴であった室町幕府を滅ぼしている。徳川家康は断腸の思いで妻子を斬り、織田家の宿老格の佐久間信盛、林通勝は無残にも放逐された。

 目的のためであれば手段を選ばず、義理・人情などは弊履のごとく棄て去るのである。
 
 すべては天下布武の実現の為、そのためだけに信長の総力が動員されるのだ。


 天正十年の二月初旬、織田信長は武田家征伐を開始し、信長の嫡男である信忠が総司令官となって甲斐・信濃を目指す。木曽口・伊奈口・飛騨口からの同時侵攻の快進撃である。
徳川家康は駿河口から兵馬を進め、北条家は軍勢を集結させながら興国寺城(根小屋)にまで進出して今まさに甲州に攻め入らんの勢いであった。
 
 武田勝頼は織田方に寝返った木曽義昌征伐の真最中であったが、木曽なんぞにかまっていられない緊急事態だ、早急に軍勢を集結させたのであるが、敗報に次ぐ敗報が将士の士気を著しく低下させ、武田三代軍記によれば、
「さむらい大将らはわれ先きにと身をひき、信綱(信玄の弟)、一条右衛門太夫、武田上野介、武田信豊(勝頼のいとこ)らは恨みの数々を書状に書いて勝頼に送り、一族をかたらって心を変じたので二万余人もあった軍勢は今はわずかに旗本勢ばかりの三千人足らずになってしまった。」と書いている。

 土壇場で裏切られたのだ。

 勝頼の寵臣であった長坂釣閑、跡部勝資などはもっとひどい。
詳しい経緯は以前の別の章で書いているので詳しくは書かないが、彼らはぎりぎりの土壇場の所で夜陰に乗じて逃げ出したのであるが、人質として勝頼の元に差し出している妻子を置き去りにして逃走したのだ。畜生以下のうすぎたない奴らだ。
 勝頼の人間洞察の鈍さにも問題があったと思うが、人は土壇場の窮地に陥らないとその本性が見えないという好例であろう。酒を飲んで語らったぐらいでは本性が見えないのと同じことだ。
普段から耳ざわりな諫言もし、窮地の際は温かく見守って手助けをする人は非常に少ないが、そのような人を一人でも多く手元に置くためには、やはり本人の日頃の心がけ一つにかかっているといえるだろう。

 一方、勝頼は越後の上杉景勝の援軍要請をことわっていたが、やはり景勝はさすがに謙信の甥だ、武田家を見棄てるは忍びがたく出動準備は整えていたようである。
しかし、織田勢の機動があまりにも迅速で、武田方が予想以上にもろく敗退している情報を聞きつけて断腸の思いで諦めている。
 
 ドラマではその後、兼続が謀略を練り上げ、景勝の軍勢が魚津城の救出に向かったと見せかけ、越後の春日山城を狙う海津城の森長可、厩橋城の滝川一益を引きずり出して叩くという架空の作戦が紹介されたが、それにしても小説の話しとはいえ作戦の意図がよくわからない。
 
 滝川一益が関東探題として厩橋城に入り、三国峠を越えて越後をうかがい、信州川中島の領主になった海津城の森長可が北国街道から越後を狙っていたのは事実であるが、さらに上州の真田昌幸から沼田城を受け取った滝川義太夫が北越からの侵攻を狙っていたのだ。
 どうにもならんのである。

 また、諸書、史料によれば景勝は魚津城の救援に向かったというよりも、越中の富山城の奪回の為に出陣したようである。

 富山城は織田方の神保氏春が守っていたが、越中の国人衆が一揆勢とともに富山城を攻撃し、もう少しで城の本丸に迫るほどの猛烈な勢いを見せたのであるが、神保の目付け役であった佐々成政が守山城から救援に駆けつけてこれを撃退している。
 この騒動を聞きつけた景勝は大軍を率いて越中に侵攻し、天神山に布陣して松倉城と魚津城との連携の構えを見せて気勢大いに上がっている。織田勢を威迫しながら攻撃して富山城を陥落させる作戦であったようだ。

 しかし、武田領に侵攻した織田勢の機動が非常に迅速で、信州・上州の織田方が予想以上の早さで越後本国を狙い始めたので、早急に撤退しなければならなくなったのだ。

 
 才子抜群の兼続ではあったが、第六天魔王の猛威の前に打つべき手段を失っていたことが実情であったろう。

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【2009/05/07 14:42】 | 未分類
不如帰 ~戦国武将の幻影~


Ⅰ<覇王編>~逆賊 織田信長を討て!~  Ⅱ<争覇編>~織田家簒奪!秀吉の野望~

不如帰 戦国人物伝


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