スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
【--/--/-- --:--】 | スポンサー広告
コラム NHK大河ドラマ天地人 兼続と関白秀吉


 覇者をめざす秀吉は、当初は征夷大将軍になって幕府をひらきたいと考えていたようである。

 秀吉は前将軍の足利義昭に養子にして欲しいと頼み込んでいるが、これは手厳しくきっぱりと断わられている。
 足利義昭は当時、毛利家の食客のような身分で備後の室津にいたのであるが、落ちぶれたとはいえ、さすがに家柄を売ってしまうことは前将軍としてのプライドが許さなかったのであろう。
また、いくらなんでも実力任せの氏素性の知れない者に尊貴な家柄を譲ったとあっては足利尊氏をはじめとする御先祖様に申し訳が立たないのである。

 ところで源頼朝以来、征夷大将軍は清和源氏でなければならないというきまりがあったわけではない。
 鎌倉幕府は三代目の実朝以降、京都から藤原氏の者を迎えて将軍に擁立し、親王は四人も立てている。
 しかし、戦国時代の当時の人々には「征夷大将軍は清和源氏に限る」と信じられていたようである。
 
 ともかくも秀吉は困って公家の当時右大臣であった菊亭晴季に相談する。
 
 当時の公家は五摂家であろうがなかろうが実力無し、生活力は皆無、自慢できるのは家柄だけという状態だ。長い間の戦乱続きで苦しい生活を強いられてきたから金銀の力にまことに弱い。
菊亭晴季は水を得た魚のようになって秀吉の潤沢な金銀を公家衆にばらまきながら朝廷工作に奔走し、ついに秀吉は近衛前久の猶子ということになって関白の地位を獲得したのである。
 菊亭晴季のふところに莫大な謝礼金が転がりこんだことはいうまでもない。
 
 征夷大将軍は本来は鎮守府将軍と同格で、従五位上の位であるが、関白職が出来てからは一番えらい太政大臣よりも関白が上であるから征夷大将軍にこだわる必要はないという理屈であろう。金に困った公家さんの考えそうなことではある。

 ともかくも、こうして秀吉は関白になったのであるが、威張れるのは家柄だけの公家衆の評判は非常に悪かった。
 
 秀吉は莫大な金銀を公家衆にばらまいたり、皇室の所領を増やしたり、公家さんの領地を加増したりしてなだめてみるが、全然効果が現れない。
自慢できる唯一の尊貴な家柄を氏素性の知れない土民風情に乗り取られたとあっては憤懣やるせないのも道理なのである。
 
 秀吉が困り果てていると、ここでまた例の菊亭晴季が智恵をまわす。
 天皇の大権をもって新しい姓を下賜していただいて公家衆の憤懣をそらすという方策である。
 古来より藤原、平や源、橘などは天皇が賜ったことになっている。
 秀吉の富力にものをいわせた菊亭晴季がまたまた大車輪の怒涛の勢いで朝廷の内外を奔走し、ついに天皇は新たに「豊臣」という姓を立てられ、秀吉に下賜されたのである。

 天皇の大権で姓を下賜されることは七~八百年来のことであり、秀吉が莫大な財力にものをいわせて行われたことであるから、こんなことで公家衆の不満がおさまったとは到底考えられないのだが、ともかくも秀吉は政権の体裁を整えることに成功して日本国に君臨することになったのである。

 秀吉の勢力は西は下関海峡から以東の中国地方、南は四国・紀伊・志摩、五畿内はもちろん、北陸は越後以西、東は尾張以西という広大な領域に及んでいる。
後年、徳川家康が秀吉に臣従することによって東方の安全が約束され、秀吉は九州征伐を断行して天下統一にますます拍車がかかることになる。

 
 
 ところで、ドラマでは関白の威光を輝かせた秀吉が兼続に刃をつきつけて家臣になるように強要するが、あれはいただけない。

 秀吉は大器量人である。あのような料簡の狭い人物ではない。
 また、秀吉の本当の目的は兼続を直参の家臣にすることではない。有力大名の実力ある家老と懇親を結び、いざという時にその大名の内部から働きかけるという政略的な方策であったろう。
その良い例が後年の関が原役での小早川秀秋だ。徳川家康に内通する家老の助言で東軍に寝返ることになったのである。

 さらに、秀吉は兼続の才能を高く買っている。
 後年、上杉家は会津に転封となって百二十万石を与えられるが、秀吉はその折りに兼続に三十万石をあてがうように上杉景勝に申しふくめている。
当時、大名でさえ三十万石以上の身代は徳川家、毛利家、前田家、上杉家、伊達家、島津家、宇喜多家、小早川家、佐竹家、堀家、鍋島家の十一氏しかなかったのである。しかも兼続は大名ではなく陪臣なのだ。破格の優遇といってよい。

 戦国時代は江戸時代と異なり、殿様も家老も能力給なのだ。兼続は卓抜な才能の持ち主であったことは間違いない。

著者HP http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/
メールアドレス hokenpuro@yahoo.co.jp 
 
スポンサーサイト

テーマ:歴史小説 - ジャンル:小説・文学

【2009/06/30 18:02】 | 未分類
コラム NHK大河ドラマ天地人 兼続と秀吉のスカウト戦術

 秀吉は諸大名の重臣をスカウトしたことで実に有名である。

 徳川家の石川数正、上杉家の直江兼続、伊達家の片倉景綱、島津家の新納武蔵忠元など、有力な大名家の重臣中の重鎮に目をつけて籠絡の手をのばしているが、しかしその成果はあまり芳しくない。この中の人物では石川数正を除いてすべて断わられている。

 天正十三年に徳川家の岡崎城代の石川数正、信州深志(現在の松本)の城主小笠原貞慶、三河刈屋の城主である水野忠重らが出奔して秀吉に帰属している。
徳川の平松金次郎も出奔したが、こちらは運の悪いことに途中で討ち取られてしまった。 

 石川数正は徳川家の柱石的な存在であり、徳川の重要な機密をすべて熟知している人物であったから徳川家中は大震撼したのである。家康は仰天し、これを機会に国政を武田流に切り替えたと云われる。


 
 ところで、秀吉が織田信雄の四人の家老を籠絡して引き抜いたという話しをドラマの始まる前に紹介していたが、詳しく調べるとこれは史実と異なるようである。
 信雄の家老らは籠絡されたというよりも、秀吉の腹黒い謀略によって羽柴家に寝返ったと信雄に疑われ、疑心暗鬼の信雄に誅殺という名目で殺されたのだ。

 秀吉は賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を打倒したのであるが、元々は織田家の御曹司であった織田信雄はその後の秀吉の羽振りの良さがどうしても気に入らない。しゃくにさわる。
「おやじの後継者は、あの猿ごときではない。このわしじゃ!」と言わんばかりだ。

 一方、秀吉は信雄に対して老練な謀略をしかけ、信雄主従の内部分裂を誘う方策に出る。
 信雄は少し足りないアホウな人物であるが、四人の優秀な家老がしっかりと支えていたから彼らが邪魔になったのだ。
心術の策略にたける秀吉は離間の策を用い、信雄つきの家老らが秀吉に内通しているかのように見せかけた。

 この見せかけ方が本当に老獪で、いやらしいほどだ。腹芸もここまでやると腹黒い。

 秀吉はまず、信雄に使者を送り、信雄の家老ら四名を大坂に遣わすように伝える。信雄としては別に断わる理由もないのでこれを承諾した。

 秀吉はその家老らと対面し、
「今後、お前たちはわしに味方し、信雄殿は説得せい。戦国の習いじゃ、わかるであろう。信雄殿は右府様(信長)の大切な忘れ形見ゆえ、けっして粗略には扱うまいぞ。約束する!」と強引に迫り、その場で起請文を書くことまで強要する。

 これは書かざるを得ない。
 この頃の秀吉は二十有余州を領する超大名になっている。その石高は五百万石をゆうにこえる。
 信雄の領地は伊勢・伊賀・尾張でその石高は百万石に少し毛のはえた程度だ。これではどう考えても秀吉とは相撲にならない。いざ戦争になったら家老らも所領を一瞬にして失う危険性のほうが高いのだ。
 また、秀吉は信雄に好意的で温情をかけてくれている。
「長いものに巻かれる」という戦国の習いもある。ここで断われば、その場で即座に殺される危険性もあったのだ。
 
 しかたがないので書いた。

 こうして、家老らは秀吉に味方する誓約をし、信雄の説得役も引き受け、秀吉に起請文まで取られて帰っていくのであるが、しかし信雄を説得することなど、どだい無理な話しだったのだ。

 秀吉は以前、柴田勝家との対決を控えた折りに、
「いずれは三七殿(信雄)を主人と仰ぎ奉り、ご奉公させていただきますぞ!」などと調子のいいことをさんざん言ってあおり立てていたから、信雄のほうもすっかりその気になっていたのだ。

 秀吉としては勝家に組みする織田信孝との対抗上、しかたなしに信雄を担いでいただけであったのだが、ともかくもアホウな信雄は秀吉の言葉を信じていた。だから信雄は、その約束を守るそぶりを全然見せないでいる秀吉にイライラしたし、焦慮したし、しまいには秀吉を憎悪するまでになったのだ。
そのことを秀吉は十分に知っていたし、信雄の家老たちも勿論わかっている。

 だから、これは言えない。家老らは困って途方に暮れたろう。

「羽柴家に臣従することが御家のため、御身のためでございます。」などと信雄に説いたところで、
「うん、そうか。」と素直に聞き入れるはずがない。猛り狂って激怒するであろうし、逆に秀吉に内通したと疑われて殺される可能性のほうが高いのだ。
しかしだからといって黙って秘密にしておくわけにもいかない。黙秘したところで秀吉に起請文を取られているのだ、秀吉から信雄に知らされたりしたら寝返ったと疑われて誅殺される恐れがある。

 ここのところが秀吉のずる賢さであり、非常に陰湿で狡猾だ。どっちみちこの家老らの運命は、信雄の説得に失敗して殺されるか、秀吉に籠絡されて裏切って帰ってきたと疑われて誅殺されるか、または黙秘に耐えられなくなった者がいち早く他の家老らを出し抜き、まっさきに信雄に真実を注進し、信雄の歓心を買って身の安全を図るしかない。
ようするに、秀吉は事前にこれら全てをきれいに見通して、信雄の手足ともいえる家老連中を削いだわけである。

 さて、四人の家老の一人、滝川雄利(滝川一益とは別系統の一族)が早々と注進に走り、信雄の前で洗いざらい全部きれいにぶちまけた。勿論、自分にとって都合の良いように話す。
 凡庸な信雄は、「そなたの忠臣ぶり、ありがたく思うぞ!」と涙ながらに言い、他の三人の家老らに対しては秀吉に内通したと信じて激怒し、問答無用と言わんばかりにことごとく斬り捨てたのである。

 秀吉は信雄のこうした行為を大名にあるまじき暴挙と決めつけ、信雄の征伐に踏み切るのであるが、信雄のほうは徳川家康に助勢を頼み、これがいずれ小牧・長久手の戦いに発展する。

 
 
 徳川家康は豊臣家を強引に滅ぼしているのであまり評判がよくないが、秀吉は老練な謀略を用いて主家の織田を圧迫して政権を簒奪しているのである。

 家康は初めから大名であるが、秀吉は織田家の家来筋なのだから秀吉のほうがタチが悪いといえる。

江戸時代の御用学者を除くほとんどすべての諸書が秀吉を簒奪者とは見ていない。

 秀吉の遠大な雄略に目をくらまされているのである。 

 
 著者HP http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/
メールアドレス hokenpuro@yahoo.co.jp

テーマ:歴史小説 - ジャンル:小説・文学

【2009/06/23 05:13】 | 未分類
コラム NHK大河ドラマ天地人 兼続と真田父子

 真田幸村の本名は信繁である。

江戸時代に流布した真田三代記などの俗書が幸村の名を使いはじめ、それらが世の中に広く知れ渡っていつのまにかその名が一般化したと云われる。
本名よりも勝手に創作された源氏名のほうが有名になってしまったというところか。真田信繁公もあの世でさぞかし驚きながらも苦笑しておられることであろう。

 真田幸村の消息は諸説入り乱れて不明な点が多い。史料の上田軍記、真武内伝、上田市史、改正三河後風土記、その他の史料など、記述に異同があって整合性も合わない点が数多く散見される。
 真田幸村の動向について諸説あるのはそのためであろう。どの史料を重視するかによって見解が分かれてしまうのである。
 

 
 天正十三年八月、真田昌幸は上杉家の助勢を得て上田城に押し寄せる徳川勢を撃破し、上州沼田城に攻め寄せた北条勢も見事に撃退して追い払ったのであるが、しかしなんといっても徳川・北条の勢力は強大だ。
 
 昌幸のバックには上杉家がついてはいるが、その上杉は北越の新発田重家に手を焼いて越後一国すら平定できないでいる状態だったのだ。
 上杉景勝・兼続は猛将の本庄繁長をはじめとする上杉の有力武将たちに新発田征伐を任せるが、新発田重家は最上家・伊達家と通謀して猛烈に反抗するし、要害堅固で全然うまくいかない。険阻な山々に守られた天然の要塞であるうえに寒気の厳しい豪雪地帯なのだから無理もないのである。

また、上州を狙う北条家に備える為に軍勢を割く必要があったし、信州の徳川方の動静も予断を許さない状況下だったのである。上杉家は軍勢を集中的に動員できる状態ではなかったといえる。

 昌幸は次男の幸村を上杉家に人質として差し出して臣従していたが、上杉がいくら剛なりといえども上杉の助勢だけでは到底防ぎきれないと判断して秀吉を頼ることにした。この年の十一月頃までには嫡男の信幸を連れて上方に出向き、大坂城で秀吉に拝謁して被官たる許しを得ているから実に素早い行動だ。
この時に幸村も同行していたという説もあるが、これは残念ながら信じがたい。人質として上杉家に軟禁されている幸村を連れ出すことは至難の技であったにちがいない。

 
 
 さて、こうして頼もしい後ろ盾を得た昌幸は勇躍し、諸所に経略を手がけてしきりに攻勢に出る。
 
 折りしもよし、ちょうどこの頃に徳川家の柱石的な存在であった石川数正が出奔して秀吉の元に走ってしまったから、徳川家中はてんやわんやの大騒ぎの状態だったのだ。石川数正は徳川の重要な機密を全部熟知している人物なのだ。
 家康は驚いて有力武将たちを早急に呼び戻したので、昌幸の備えとして小諸に駐屯する鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉らは大急ぎで帰国したのである。

 昌幸は好機到来とばかりに小諸の依田康国らをじわりじわりと圧迫し、翌年の雪どけのあたりになると信州佐久郡をじりじりと切り取りはじめた。

 この徳川をなめ切った無遠慮極まる昌幸の行動に家康は激怒し、再度の真田征伐を決意して駿府に軍勢を集結させようとするが、この時は秀吉が仲裁に入って和睦させている。
この頃の秀吉は家康の篭絡にやっきになっている時だ。自分の妹夫婦を強引に離別させ、その妹を家康の正室として送り込むという無理なことまでやっている最中だったから、昌幸に厳命して自重させたのである。

 昌幸も上州の沼田が安全であれば徳川のような大勢力と争う必要などない。和睦交渉はすらすらとまとまり、家康も機嫌を直して秀吉の助言に従がっている。昌幸の嫡男信幸に本多忠勝の娘(小松)を家康の養女にして婚約までさせている。

 
 嫡男の信幸が家康の許に出仕し、正式に小松を娶るのは天正十七年の二月頃である。

 
 後年の関が原役の際に、この夫婦は昌幸・幸村によって微妙な立場に立たされる。

 しかし、天明宿で昌幸・幸村と決別して家康を主として決っして疑わない信幸の忠義心といい、
その戦後、
「己の武功にかえても父と弟を助命して頂きたい。この願い聞きとどけ給わずば生きている面目はない。」とまで言って嘆願し、本多忠勝・榊原康政を感動させたことといい、徳川の信任を得て真田家を存続させたことといい、実に見事な人物である。
「上田といえば真田」が思いつくが、実は真田昌幸が上田を支配したのは十八年ぐらい、信幸は二十数年の期間でしかなかったのだ。真田家が世代を通じて有名であり続けたのは家名を残した信幸(改名して信之)のおかげでもあるのだ。
 
 また、小松殿は賢母であったに違いない。
 西軍の味方になって上田に向かう途中の昌幸・幸村が沼田城(当時、信幸の城)に立ち寄ったのであるが、信幸からの知らせが何もないことに不審を覚えて入城を拒み、守備を固めて自身も薙刀をたずさえて陣中を督励したという。
しかし、その一方で昌幸の元に子供たちを送り、付近の寺で孫たちとの面会を許しているのである。

 聡明で情愛の深い女性だったのである。

著者HP http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/
メールアドレス hokenpuro@yahoo.co.jp

テーマ:歴史小説 - ジャンル:小説・文学

【2009/06/16 17:22】 | 未分類
コラム NHK大河ドラマ天地人 兼続と真田昌幸


 天正十三年、真田昌幸は上州沼田の領有権をめぐって徳川家康と鋭く敵対し、すぐさま徳川家を離反して越後の上杉家に通謀し、上杉景勝・兼続に助勢を求めて上田城に籠城するのであるが、この頃の徳川家康の領土は三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の五ヶ国、甲斐・信濃はまだ経略の途上であったが武田信玄の最盛期の頃を大きくうわまわる大勢力だ。
また、徳川勢は長久手の戦いにおいて羽柴勢にせん滅的な大損害を与えて快勝していたからその将兵らの士気は非常に高かったはずである。当時の日本最強の軍隊であったといってよい。

さらに、徳川勢が上田城を攻めている間に北条家が上州の沼田城を狙うかもしれないので、関東八州の北条勢に対しても敵として備えなければならなかったのだ。
 
 こんな強大な勢力と本気で戦争をする気になったのだから真田昌幸の度胸もだが、自信もあったのであろう。
 
 上田合戦の様相は諸書によって異なるので、詳しく書いては果てしがないので詳述しないが、実におもしろいのが改正三河後風土記の記述だ。
これは徳川方の史料だから敗戦ぶりをかなり割り引いて書かれているはずなのだが、それにしても目もあてられない惨敗ぶりなのだ。かなり信用してよいであろう。

 天正十三年八月、まずは援軍の上杉勢六千五百が上田に到着し、その後に徳川勢八千が上田城付近に現れて布陣する。
 
 徳川勢はまず、真田昌幸に降伏を促すが、昌幸はのらりくらりと生返事をしておいて時間を稼ぎ、数日してすっかり戦備を整えると降伏勧告をはねつけた。
 
 降伏するものとばかり思っていた徳川の諸将は騙されたことに激怒し、徳川勢はなかば逆上して上田城に殺倒するが、昌幸の計略によって城内に誘い込まれて鉄砲の乱射攻撃に遭って狼狽する。
千人あまりの足軽が撃ち殺されたというから相当なものだ。徳川勢は色を失って動揺したのであるが、そのうちに昌幸が次男の幸村とともに数百の兵を率いて突出してきた。徳川勢は先手先手と押しまくられ、驚き慌てながら城外に押し出されたのであるが、昌幸が馬上で大きく采配をふるうとそれに呼応して戸石城から嫡子信幸が数百の兵を率いて突出し、矢沢城からも矢沢三十郎が数百の兵を率いて押し出して来て徳川勢の後方をしきりに切り取ろうとする。

 徳川方の諸将は態勢を立て直そうとするが、そうこうしているうちに昌幸があらかじめ埋伏しておいた鉄砲隊の攻撃に遭って大混乱となり、ついに千曲川の川原にまで押し出されてしまった。
そこに真田勢の猛追撃が加わったからたまらない、徳川方は大損害を被り、この時に討ち死した将校級の者は三百五十人以上にのぼったという。

 まさかの大敗北に仰天して敗走する徳川勢であったが、武将の鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉らが見事にしんがりを務めて苦戦して踏みとどまる。大激戦となった。
 
 しかし、上田城の本丸から上杉勢が突出して来て、形勢は断然真田勢が優勢となる。
 
 徳川方は散々に敗れてほうほうの態で神川のあたりまで後退したのであるが、昌幸がかねてより堰き止めていた神川の上流の堰を切ったからたまらない、猛然と襲いかかる濁流が徳川方の将兵らを呑み込み、慌てふためきながら溺死する者算なしという大損害を被り、ついには驚き恐れて敗退したのであった。

 一方、この隙を突いて北条氏邦・氏照が大軍をもよおして上州沼田城を攻撃したが、沼田城守備の矢沢頼綱(昌幸の叔父)が巧みな用兵を駆使して見事に撃退している。


 こうして真田昌幸は徳川・北条勢を見事に撃退したのであるが、この上田合戦の後に幸村に矢沢三十郎ほか数百人を添えて人質として越後に送ったようである。
 
 上杉景勝は喜んで幸村を厚遇し、信州屋代郡で一千貫の領地を与えたという。

著者HP http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/
メールアドレス hokenpuro@yahoo.co.jp

テーマ:歴史小説 - ジャンル:小説・文学

【2009/06/10 23:25】 | 未分類
コラム NHK大河ドラマ天地人 兼続と真田一族

 織田信長が本能寺で横死した後、甲斐・信濃は大混乱となったが、いち早く軍勢を率いて信濃の経略に取りかかったのが上杉景勝である。
その折り、上杉景勝は信州長沼城に本陣を置いたのであるが、その時に真田昌幸は上杉家に帰服を申し出て来て長沼城において景勝に拝謁している。
家老職の兼続も同席していたであろうから、この時が昌幸との初めての会見であったろう。


 その後、真田昌幸は上杉を離反して北条方となり、その次は徳川に帰服するのであるが、詳しい経緯は以前の別の章に書いているので詳しくは書かないが、昌幸が利にさとい野心家であったというよりも戦国の中小豪族にありがちな「家の繁栄」を重視するあまりに出所進退が不明朗になったのであろう。
信長の死亡によって甲斐・信濃は徳川・上杉・北条の争地と成り果てたのだ。その地に所領を持つ知略たくましい武将であれば出所進退が不明朗になっても不思議でもなんでもないのである。



 
 ところで、ドラマでの上田城合戦の経緯については補足を要する。

 信長の横死の後、徳川家と北条家は甲斐・信濃・上州の領有権をめぐって鋭く対立し、甲斐において対陣して激しく戦かったのであるが、お互いに長期戦となることを憂慮して和睦した。

その和睦の際に、「甲斐・信濃は徳川領、上州は北条領とする。」という取り決めが結ばれたのである。

 徳川方の真田昌幸は上州沼田に所領を持っている。しかもこの度の合戦では北条方の糧道を封鎖して戦局を大逆転させるという大軍功を上げたばかりなのだ。
 そんな昌幸に対して家康は、
「沼田城を北条家に引き渡すように。今のところ代地がないのでいずれあてがうであろう。きっと悪いようにはせぬ。」と命令した。

 代地のないままに引き渡せとは随分な命令だ。これは家康にあるまじき疎漏であったろう。
 昌幸はこの横暴極まる命令をはねつけたのであるが、しかし腹の太い家康はこの問題をほっぽらかしにした。
 北条家から使者がやってきて沼田の引渡しの要請をするが、家康はのらりくらりと相手にしない。
「取るものは取ったし、あとはままよ。」といった感じだったのであろう。

 こんなわけだから、昌幸は家康の強権な制裁がないことに安心し、信州小県地方の諸豪族を宣撫して徳川方に帰服させて家康の歓心を買い、天正十二年には家康の許可を得て上田に城を築いて完成させたのである。

 その天正十二年の春、秀吉と家康との間で戦雲の兆しが見え始めた。後に小牧長久手の戦いに発展する合戦のことだ。
 
 家康は北条家に助勢を求めるが、北条は上州沼田の件をむしかえしてきてまるで埒があかない。
そして、なんだかんだしているうちに合戦も済んでしまったのであるが、家康は非常に不安であった。

 もう一度羽柴家と戦うことになったら分が悪すぎるのだ。
 
小牧長久手の戦いは秀吉四分、家康六分ぐらいの戦績であったが、秀吉の領土の広さといい、その富力といい、その軍事力といい、徳川家とは比較にならないほどに絶大なのだ。
家康は悶々と不安を抱えていたのであるが、翌年の天正十三年の春、北条家から使者がやってきてまた沼田の件をむしかえしてきた。

 家康が今回は沼田の件を真剣に考えたことは言うまでもない。北条家を味方にすれば少しは安心なのである。
 家康はさっそく昌幸に沼田を引き渡すように厳命したのであるが、昌幸はこれをはねつけ、上杉家に通謀して助勢を求める。

 家康はこれに激怒して派兵を決意し、こうして上田合戦に発展していくのであるが、昌幸が功利的な野心で徳川家を離反したというよりも、家康の政略的な威圧で篭城に追い込まれたと見るべきであろう。
 
 
 ところで、上杉景勝・兼続は以前に昌幸に裏切られているにも関わらず、六千五百の援軍を上田城に送っている。
強きをくじき、弱きを救う上杉謙信の骨法を見事に体現し、男性的爽快感のあふれる話しであるが、真田昌幸の次男である幸村(信繁)が上杉家の人質として越後に入ったのが上田合戦の前なのか後なのか諸説あって不明なのだが、幸村が寡黙でおとなしい性質で、温厚で実直な人物であったことは史料・諸書ともに一致している。

 真田幸村が実戦で陣頭を指揮して戦った戦闘は大坂の役のみである。

 幸村の名声は父の昌幸の威光のおかげであり、兄の信幸(改名して信之)の声望があったればこその感が否めないのであるが、しかし、大坂城に出丸を築いた戦術眼といい、そのすさまじい勇猛な戦闘ぶりといい、家康の本陣に斬り込みをかけて旗本勢を切り崩したことといい、日本無双の武士であったことは間違いない。
 史料の薩藩日記に、「五月七日、家康の本陣に幸村勢が斬り込み、徳川の旗本衆を撃破して討ち取った。三里ほども逃げ出した旗本は奇跡的に助かることができた。幸村勢は三度目の斬り込みで全員が討ち死にしたのである。真田は日本一のつわもの、古くからの物語にもないことだ。」と記載している。
 
 敵方でさえ讃嘆しているのだ。真田幸村は見事に武士としての死華を咲かせたのである。


著者HP http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/
メールアドレス hokenpuro@yahoo.co.jp 

テーマ:歴史小説 - ジャンル:小説・文学

【2009/06/02 15:20】 | 未分類
不如帰 ~戦国武将の幻影~


Ⅰ<覇王編>~逆賊 織田信長を討て!~  Ⅱ<争覇編>~織田家簒奪!秀吉の野望~

不如帰 戦国人物伝


美容室・ヘアサロン・ネイルサロン専門税理士

ランキングに参加しています。。。バナーをクリックして頂けると励みになります!

お気に入り

  • 紫電改を伝えたい!あいなんからの祈り
  • 日本百名城の旅
  • ひこばえ
  • ghost mail
  • 芸能エンタメ タレント最新ニュース&ランキング
  • 怖い話します
  • おんぞーし ノブ様
  • ☆オリジナルの高校数学の問題を掲載していきます☆
  • 嘘八百のこの世界
  • KEEP CALM AND WARBLE ON
  • 国時代を追いかけて日本の歴史つまみ食い紀行
  • 戦国&幕末 セレクト日本史
  • 心のうた|みよ@こたつむりが詠む詩集
  • 天満のイラスト日記!!
  • 施設内虐待(高齢者虐待)と戦う
  • にゃん吉倶楽部
  • 龍好き画伯の妻
  • 穴掘って吠えるでござる
  • えくぼママの喜怒哀楽三昧♪
  • 愛犬ジュジュのときどき後ろ前!?
  • 道東からのフォト
  • 花の店みちくさ
  • すずめ四季
  • 猫ろころころ
  • 極小ヨーキーの子犬がやってきた!
  • 木工と個別課題の部屋
  • 残された石垣を見つけたい
  • のんびり ゆったり 自遊気儘
  • 鼻毛虎日記
  • 別府葉子公式ブログ ~葉子通信
  • ノーベル賞候補犬 サンちゃん
  • 下町ESPRIT
  • 戦闘SLGプレイ日記
  • 東京ぶらぶらり
  • 千葉県 市川市 小岩 茶道具 古美術 絵画  買取 あんてぃっく壱
  • にゃおそふとプライベート
  • うづらのたまご
  • 青の傭兵
  • 小田原で木彫
  • 花のように
  • ビーチサイドの人魚姫
  • 花筐~花がたみ
  • デジカメ人
  • ビールは命の泉です。
  • アダルトチルドレンのまま楽に生きる
  • 全日本丸顔協会
  • ぷりしら商店の雑貨達
  • 愚行の日々を
  • アメリカ観光おすすめスポットまとめ
  • 旅レポート
    ブログランキング

    不如帰 戦国武将の幻影

    武将が騒がしくて、音がうるさい場合はサウンドを(Sound ON)をクリックしてください。SoundがOFFになります。

    (1)サムライに斬られないように注意しながら、かがり火を2回クリックして炎を青くすべし。 (2)左右の炎を2つとも青くすべし。 (3)その状態でサムライに斬られるべし。 (4)カーソルが斬られる瞬間、クリックすべし。 (5)タイミングが合えば、システムが起動する。

    最新記事

    月別アーカイブ

    カウンター

    ブログランキング

    blogram投票ボタン
    プロフィール

    不如帰の幻影

    Author:不如帰の幻影

  • ☆☆著者HPへアクセス・保険☆☆
  • ☆☆著者HPへアクセス・起業☆☆

  • 最新トラックバック

    カテゴリ

    RSSリンクの表示

    ブロとも申請フォーム

    この人とブロともになる

    QRコード

    QRコード

    検索フォーム

    上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。