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コラム NHK大河ドラマ天地人 利休切腹

 千利休は秀吉の茶頭であり、かつては織田信長の茶道の指南役であった人物である。
 
 利休は堺の豪商としても実に有名で、当時の経済界の巨頭であったといってよい。秀吉にその意見を採用されることが多かったから豊臣政権下での利休の勢力は絶大で、諸大名らは利休に取り入る為に競って茶道に励んだのである。
以前、九州の豊後の大友宗麟が上洛した際、秀吉の弟の羽柴秀長が、
「公儀のことは美濃守(秀長自身)、内々のことは宗易(利休)にご相談あれ。」と言ったという逸話があるくらいに側近として隠然たる勢力を誇っていたのである。

 利休は茶道(わび茶)の大家として知られる。利休の「わび」とは、日常的な現実生活から隔絶したものではなく、庶民の日常生活の中から茶の湯の美的な要素を掘り起こし、現実生活に溶け込むように茶道として昇華、様式化するのである。秀吉は組み立て式の金ピカ茶室をこしらえて嬉々としてiいたが、利休の影響であろう、長くなるので詳述しないが北野の大茶会ではわび茶に向き直った感がある。利休から指摘があってのことであったに違いない。

 天正十九年二月二十八日、その利休が秀吉の命令で切腹する。

 諸説によれば、利休は権力を濫用し、茶器の目利きや売買に介入して私服をこやしたり、専横なふるまいが多くて実に評判が悪かったという。

 また、利休の娘の吟(梶ともあり。)は才色兼備の無双の美人で、女好きの秀吉が横恋慕して利休にとりもってもらおうとしたがキッパリと断わられたので深く恨んだという説もある。
 
 吟は婚姻歴がある。父親と同じ堺の豪商で、父の門人であった鵙屋宗安の妻になったのであるが、鵙屋宗安は四十歳前後に他界してしまい、吟は若くして未亡人となってしまったのである。
才色双絶の未亡人であったから秀吉が恋いこがれる気持ちも分からないでもないが、しかし器量人の秀吉が横恋慕の逆恨みで利休を殺すことなどあり得ないだろう。こんなことをすれば吟の気持ちがますます秀吉から離れてしまうのは明白なのである。つまらない俗説であろう。

 秀吉の逆鱗にふれた利休の事件といえば、大徳寺山門の利休像の逸話が実に有名だ。

 大徳寺は秀吉が宰領して織田信長の法要を行った寺であり、信長の墓所でもある。
 天正十九年二月十五日に秀吉は鶴松(秀吉の第一子。病弱であったようである。)の平癒祈願の為に大徳寺に参詣したのであるが、その境内に入る前の山門の上に等身大の利休像が置かれていたというから恐れ入る。足はせったばきで、杖をついた利休の木像であったという。
 山門をくぐって境内に入るわけだから、参詣に訪れる秀吉をはじめ、天皇家・公家衆、諸大名たちは利休像をうやうやしく仰ぎ見ながら出入りするということになるのだ。
秀吉は自分自身に対する侮辱感もそうであるが、後年の徳川政権のように皇室に捨扶持を与えて権力を掌握するようなことはしていない。豊臣家は皇室を利用して栄えはしたが、実に勤皇的で朝廷の繁栄を願い、天皇家の権威には絶大の敬愛の念を持って臨んでいたのである。

 これは秀吉に対する侮蔑であり、公家・諸候などの有力者に対する侮辱であり、天皇家の権威は利休のせったで踏みつけられたも同然になったのである。
 利休は利休なりに何か理由があってのことだったのかもしれないが、しかしこの逸話が本当の出来事であれば、当時の一般的な批評としてはこれは利休の不遜であると責められてもしかたがないであろう。
 

 
 利休切腹事件の最大の原因は、秀吉が物質界の大親玉であったのに対して、利休は哲学的な精神界の王者であったことが、この二人の間にある深い溝を深刻なものにしたのかもしれない。
秀吉は有史以来の未曾有の大英雄となり、利休はその秀吉の精神的な支柱として天下に知られていたのである。
共に「天下一」を自認して自信に満ちあふれている者同士が、お互いを理解しつつ、しかしそのゆるぎない自信・確信ゆえにお互いに譲り合うことをしなかった悲劇であった感がある。このような例は古今東西の英雄伝に限らず、今の現代においても頻繁に見受けられることである。

 

 物質界で活躍する男と精神界に生きる男、共に「天下一」の自信を持っていただけに、おそらくは唐入り(征韓の役)の件で強烈に衝突したのであろう。
大政所(秀吉の母)や正室北政所が利休に密使を送って和解を促すが、利休は全然聞き入れない。婦女子の助けを借りて死を免れたとあっては天下の聞こえも如何かと固辞したのであるが、しかしあくまでも自説に忠実であり、妥協を許さないのである。

 甫庵太閤記に、
「京都の庶民は利害に敏感だが、堺の町人は武士の風情がある。」と記されている。

 自由都市の堺で育まれた、伝統的なきかん気の性質だったようである。


著者HP http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/
メールアドレス hokenpuro@yahoo.co.jp 
 
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【2009/07/28 03:57】 | 未分類
コラム NHK大河ドラマ天地人の補足 北条家征伐の契機


 さて、真田昌幸はすぐさま秀吉の命令に応じて、名胡桃城だけを残して上州の沼田の地を北条家にすべて引き渡したのである。
 北条家はさっそく家臣の猪俣直則を沼田城に入れ、厳重に防備をさせて守備を任せた。

 そして、しばらくの間は何事もなかったのであるが、猪俣はしだいに名胡桃城が気になりはじめる。

 それもそのはずだろう。沼田城の鼻っつらに名胡桃城があるのだ。

 猪俣は寝ても覚めても名胡桃城のことが気になってしょうがない。頭から離れない。
いわば、我が寝床に人の毛ずね足が横たわっているような、なんともいえない嫌な気分になったのだ。
「あそこに敵の城があると何かと不都合じゃ!うまく騙して奪い取れればスッキリするというものよ。御家の為にもなるだろうて。」といった感じで早急に名胡桃城を略取する計画を練りはじめた。

 一方の真田昌幸は、家臣の鈴木主水という者に名胡桃城を守らせていたが、こともあろうにその鈴木の配下の者たちが猪俣直則に内通して、鈴木はすっかりと騙されてしまったのである。
猪俣に内応した鈴木の家臣らは、昌幸が鈴木主水を呼び寄せているという偽情報をねつ造し、この報告を信じた鈴木は名胡桃城を離れて昌幸の所在する上田城へ出かけてしまった。
この隙を突いて、猪俣に通謀した鈴木の家臣らが城門を開いて北条方の軍勢を迎え入れて名胡桃城をひしひしと固めてしまったのだ。
 この緊急事態を道中で聞きつけた鈴木主水は大仰天し、慌て急いで名胡桃城に引き返したものの、もはやどうすることもできない。
 鈴木主水は自分の不明を恥じ、昌幸に詫び状をしたためると自害して果ててしまった。

 この報告を聞いた真田昌幸はなんとなくぼう然としたろう。
 
 人を何度も騙しはしたが、一度たりとも騙されたことのなかった昌幸なのだ。はかり知れないショックの後に、激しい怒りを覚えてその身をわなわなと震わせていたに違いないが、しかしなんといっても相手が強国の北条家だ、独力で城を奪い返すには骨が折れる。さっそく秀吉に北条方の横暴を訴え出て、これが北条家征伐の契機になったのである。
 
 秀吉としては沼田の一件を寛大に譲歩してうまく取りはからったつもりであったが、北条家は相変わらずのんきに構えて全然上洛する気配を見せないし、非常に不快に思っているところにこんな騒動が転がり込んできたのだから、これはもう我慢の限界であったろう。
 
 北条家はすぐさま弁解の使者を立てて、北条氏規を大坂に派遣し、
「あれは、出先の者たちが勝手にやったことでございます。すぐに名胡桃城は返上いたします。」
と、言い訳にならないような言い訳をして秀吉をさらに激怒させ、逃げ帰るようにスゴスゴと本国に引き返している。

 そして天正十八年(1590年)の四月、秀吉は大動員令を下して京都を後にしたのであった。
 東海道筋では、徳川家康が先鋒となって出陣し、その後を追うように織田信雄・蒲生氏郷の軍勢が続いて行き、その後方から秀吉の率いる本隊が進んで行く。
 
 東山道からは真田昌幸が先鋒となり、続いて上杉景勝・前田利家らが後方から来援する。
 
 海上では長曾我部元親・脇坂安治・九鬼嘉隆たちが水軍を率いて続々と小田原を目指す。
 
 豊臣方の水陸合わせての総勢は十五万以上にものぼる途方もない大軍勢であった。

 ちなみに、日本の水軍の元祖は海賊だ。
 瀬戸内海の海賊は実に有名であるが、瀬戸内は小島や入り江が数多くあるので、古来よりその発達も著しく早かったのであろう。
瀬戸内海の海賊のほとんどは、以前から毛利党であった。信長の時代の頃は、毛利家が強力な水軍を駆使して本願寺や雑賀衆を支援し、織田家を随分と悩ませて苦しめている。信長は鉄甲船を使って毛利水軍を辛くも撃退したという逸話があるぐらい、毛利党の水軍は精強無比であった。
しかしこの頃には、毛利の水軍は秀吉の配下同然であったから、豊臣勢は水運に苦労がいらない。
北条征伐に必要な兵糧・武器・弾薬などは海路を使ってどしどしと送り込み、秀吉は経世の才に優れる長束正家に命じて兵糧の調達から港・倉庫などもしっかりと手配させていたのである。

 
 ドラマでは、小田原城の包囲の様相が大パノラマ的に放映されたが、まさしくあのような光景であったに違いない。録画していたので、私は思わず何度もしみじみと見入ってしまったのである。

著者HP http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/
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【2009/07/24 15:07】 | 未分類
コラム NHK大河ドラマ天地人 兼続と北条家征伐


 天正十八年、秀吉が北条家征伐を断行し、上杉景勝・兼続は北国勢として前田利家の指揮下に入り、上杉勢は先鋒の真田昌幸らと合流して碓氷峠を越え、まずは北条方の松井田城を攻囲して陥落させる。
そして、その後に武蔵国に侵攻して鉢形城・八王子城を攻囲している。
 
 北条家は後世に名を残す「小田原評定」に明け暮れ、その将兵らの士気は著しく低下していたようである。北条家の重臣たちは関東八州を鼻にかけてのお国自慢ばかりに終始し、上方の情勢や激動的に変化する時勢に暗かったことも事実であったろう。すでに脈は上がっていたのである。

 石田三成は大谷吉継・長束正家らと共に館林城・忍城(さいたま県行田市)を攻囲しているが、館林城では架け橋戦術で大失敗し、忍城では水攻め戦術で大醜態をさらして武将としての信頼性を大失墜させている。秀吉の戦術を真似ての大失態であったから、
「猿まねばかりしおって!」と、将兵たちに思われたに違いないのである。
三成を弁護して言えば運も非常に悪いのだが、しかし運の悪い人物は一般的な評価が低くならざるを得ない運命にあり、これは残念ながら古今の常なのだ。三成の文吏的な才能は卓抜であるが、こんなテイタラクぶりでは武将としては信頼されないのである。
この詳しい様相は別の機会に詳述するが、後年の関が原役において、石田三成の総司令官としての信頼度が限りなくゼロに近いものであったことも、あの大敗北の一因であったといえるだろう。
武将とは「部下の命を託すに値する」主人であれば、戦場において猛烈に奮戦するのである。西軍の諸将のほとんどが傍観を決め込んでいたから、三成の武将としての評価はかなり低いものであったと思われる。


 
 ところで、ドラマではサラッと流して放映された名胡桃城の問題について詳述する。北条家征伐の契機となった出来事である。少し長くなると思われるので、二回に分けて書くことをお許し願いたい。

 以前に少し書いたが、真田昌幸は秀吉という強力なバックに支えられ、上杉景勝には恨まれながらも許されて、徳川家とは秀吉の仲介役も手伝って親戚となり、なんとか和睦することができた。
こうして、上州の沼田の地は以前と変わらずに昌幸の勢力圏のままだったのであるが、北条家が全然おもしろくない。度々に渡って上洛を促す秀吉に対して、
「沼田の地は徳川家との盟約上、北条家のものと決めたにも関わらず、依然として真田家が沼田を領有し、北条に反抗して敵対している。豊臣家の威信にかけて沼田を北条家に引き渡すことができれば、仰せの通り、いずれ上洛するであろう。」といって通知してきた。
 秀吉はこれに快諾し、さっそく昌幸に使者を送り、
「早急に沼田を北条家に引き渡すように。代地は徳川家から出させるように手配もしてある。安心してすみやかに実行せよ。」と知らせた。
 
 秀吉は九州征伐の折に、陣中に帰服を申し入れてきた対馬の大名の宗義調に対して、
「いずれ明を征服する為に朝鮮半島に将兵たちを上陸させる。朝鮮国王に道を貸すように通達しておけ。」と命令している。
秀吉の念頭には大陸への侵攻作戦があるのだから、貴重な軍資金や兵糧を無駄に消耗したくないところなのだ。ゴタゴタする沼田の問題をサッサとかたづけて、北条家が素直に上洛して秀吉に臣従を誓ってくれれば、これにこしたことはないのである。
また、北条家を降せば東北の諸大名らも期せずして秀吉の元に馳せ参じることは明らかなのである。

 秀吉の天衣無縫な大度量もそうだが、ずいぶんと北条家に譲歩したのであった。

 一方、昌幸としては秀吉の命令に従がわざるを得ない。なんといっても豊臣家の勢力は絶大中の絶大だ。これを機会に北条家と結んで秀吉に叛旗して反抗したとしても所詮は無駄な抵抗なのである。また、昌幸は秀吉に信服しきっていたようであるから離反することなど到底考えられないことであったろう。
 
 しかし、野望心横溢、領土欲旺盛な昌幸にとって秀吉の命令は実に無念で悔しいことであった。

 そして、昌幸は無念のあまり、秀吉にウソをついている。

 昌幸は秀吉の命令書に対して、
「沼田の名胡桃城には、先祖の墓が所在しています。真田家のゆかりとする土地でございますので、名胡桃城だけはご容赦願います。その他の領地については必ずや全て北条家に引き渡すでありましょう。」と返書を送っているが、これが百パーセントのウソッパチなのだ。名胡桃城の付近に真田家の先祖の墓などあるわけがない。昌幸が上州の経略に専念し出したのが天正八年の頃、たった数年前のことなのだ。ありはしない。

 真田昌幸ファンの方々であれば、将来的に昌幸が上州方面を経略する機会に恵まれるかもしれないので、この時点でわざとウソをついて、いずれは上州の経略に取りかかれるように窓口として名胡桃城を残しておいたのだと反論も出てくるかもしれないが、しかしこれは昌幸の性格からすると単に惜しいのであり、妄執とでもいうべき執着心がなせる業ではなかったかと、熱烈な真田昌幸ファンでありながらも私は思うのである。

 それにしても秀吉は器量人であった。
「へたにこじれては面倒だ。」と思ったのかもしれないが、秀吉はウソ臭いと思いながらも昌幸の言い分を認めてやっている。
ここのところ、人物としての度量の広さ、器量の大きさは秀吉と昌幸とでは段違いなのである。

 私見になるが、秀吉や家康、信長もそうだが、人物像があまりにも大きすぎて、狭量の私にはピンとこないのである。
 
 人間臭くて業の深い昌幸のほうが、なんとなく昌幸の気持ちがよく理解でき、昌幸の動静を調べていて実におもしろくて楽しいのだ。稀代の軍略家で強国をものともせず、長いものに巻かれることを嫌う偏狂的ともいえる叛骨精神、自主独立を志す強靭で執拗な忍耐力、真田昌幸という人物は実に人間味があって味わい深いのである。

 また、昌幸の長男の信幸はまことに誠実で実直な武将であり、次男の幸村は篤実な人柄で実に温厚な性格、とても素直な人物であった。

 「反面教師」とでもいうべきものなのであろうか、子供たちが「父親に全然似つかわしくない」ところがまた親子の面白さであり、実に感慨深い興趣も感じられ、真田一族の伝記を調べていて本当に楽しいのである。

著者HP http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/
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【2009/07/22 23:55】 | 未分類
コラム NHK大河ドラマ天地人 兼続と独眼竜政宗

 東国の奥州(陸奥の国)を席巻した伊達政宗は戦国時代末期の風雲児である。

 父親の輝宗から家督を譲られたのが若年の十八歳、奥州の片田舎の米沢から他領を侵略することわずか五年、天正十七年の頃までに会津四郡、仙道七郡を平定し、出羽の国にまで兵馬を進めている。

 強国の芦名家を攻め滅ぼして本城を会津の地に移し、二十三歳の政宗は百万石を領するまでの戦国大名にのし上がったのである。
 
 政宗の戦歴を一々書いては果てしがないので詳述しないが、彼はたぐい稀ないくさ上手であり、政略的なセンスも抜群であり、運もことのほか強い。天運・強運に恵まれた政宗はまさしく英雄であった。
 外交政策などは若年であるにも関わらず実にしたたかで老練で、秀吉のご機嫌を取りながらも関東の北条家に通謀したりしている。
野心旺盛な政宗は羽柴家・北条家のどちらに転んでもよいように二股をかける一方、その合い間を縫うようにして近隣の諸豪族をかたっぱしに征服している。豊臣家に帰服を誓う諸豪族らも同様にことごとく征伐しているのだから恐れ入る。
 政宗は秀吉と親交のある前田利家、徳川家康、浅野長政などの有力者にどしどしと贈り物を送り、彼らと親しく音信を結んで取り入るという老練ぶりである。万が一を考えて、せっせと種をまいていたのだ。
後年、秀吉が北条家征伐を断行して小田原城を重囲した際に、その参陣に遅れた政宗は辛くも秀吉に許されて首がつながったのであるが、秀吉の太っ腹、大度量もそうだが、以前にまいておいた種が生きたともいえる。
政宗が遅参ゆえの死罪を免れたのは、政宗を弁護してくれた武将たちのおかげであり、徳川家康も随分と骨を折って政宗のことをとりなしている。
 家康は家康で、後年のためにせっせと種をまいていたわけだ。


ところで、政宗は隻眼であったと云われ、彼は独眼竜で有名である。独眼竜という名は、古代中国の五胡十六国の時代、後唐の創業者である李克用のあだ名にちなんでつけられたようである。
 李克用は隻眼の弓の名手で、後年になって李克用がめきめきと頭角を現し、世間に広く知れ渡るようになると独眼竜と呼ばれるようになったという。
 
 政宗は幼少の頃に疱瘡を患い、その膿が眼に入った為に隻眼になったと伝わっている。

 ドラマの始まる前に政宗の親族相克が紹介され、父親を見殺し、弟を謀殺し、母親からは命を狙われたと放映されていたが、伊達政宗公の伝記に明るい方々であれば実に不満の残る紹介のされ方であったに違いない。
 弟の謀殺については伊達家内部の複雑な事情があり、母親の実家の最上家との確執も絡んでおり、母親の政宗毒殺未遂説などは決定的な傍証に基づいた説ではないのだ。父親の見殺しにいたっては見当違いもはなはだしい。伊達成実の成実日記、明良洪範、その他の史料によれば政宗は父親を棄て殺しにせざるを得ない厳しい状況下に追い込まれたのであり、個人よりも「家」を重視する当時の風潮を想えば伊達家当主の政宗の判断は断腸の思いの決断であったろう。
 詳細は長くなるので詳しい経緯は別の機会に詳述したい。


 ドラマでは政宗と兼続の会見の様子が放映されたが、筆者は子供の頃から松田優作の大ファンで、今の現在もそうなのであるが、優作さんの息子である政宗役の松田龍平さんの俳優としての成長ぶりに感心し、「おやじに似てきたなぁ。」と感嘆したこと以外に何ら見るべきものがなかったのが残念であったが、政宗と兼続に関する有名な逸話があるのでご紹介する。

 これはかなり後年の出来事。
 伏見城に諸候が集まって参会している席上で、政宗が当時珍しい小判を取り出して見せてまわった。
 列席の諸候らが珍しがって政宗のところに集まりはじめたのだが、兼続は末席にあって全然興味がない様子で素知らぬ顔をしていた。
 政宗がそれに気づき、兼続の元まで来て、
「これが珍しい小判でござる。」と言って兼続にそれを手渡そうとすると、
兼続はさっと扇子を取り出して広げ、小判をその扇子の上に受けてぽんぽんと羽根をつくようにして表裏を見ていた。
「手に取って御覧あれ、遠慮は無用にござる。」と政宗が言うと、兼続は静かな口調で、
「上杉謙信公の時から先陣を指揮して采配をふるった手に、このような卑しき物をさわって取れば、この尊き手がうす汚れ申すゆえ、平にご容赦。」と言いながら、政宗にぽんと投げ返したという。

 兼続は上杉家の政治・外交・軍事のすべてを管掌していたのだ。民政手腕も抜群の才子だったのだから金子を手にしなかったはずがない。

 これは政宗に対するつらあてであったろう。ようするに政宗のことが気に入らないのである。
 
 政宗は英邁な横着者だ。実直で威厳を重んじる兼続にとって政宗は日頃から虫の好かない人物であったのだろう。
 
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【2009/07/14 23:36】 | 未分類
コラム NHK大河ドラマ天地人 兼続と秀吉の錬金術


 秀吉は徳川家康を臣従させて東方の後顧の憂いを断ち、本格的に九州の島津征伐に乗り出したのであるが、あらかじめ西国の毛利勢・四国勢を中心にして九州に上陸させ、天正十五年の三月下旬頃には秀吉自らが本隊の軍勢を率いて九州の赤間関付近に到着している。

 そして、豊後口からは秀吉の弟の羽柴秀長に南下させ、秀吉は豊前口から南下して先鋒部隊の有力武将たちに退却する島津勢を追尾させながら進軍し、ついに薩摩に入って島津家を降伏させたのである。

 ドラマでは秀吉の九州遠征を吹っ飛ばして放映し、来週あたりは秀吉の北条征伐もサラッと流して放映しそうであるが、ドラマの主役が主役なだけにこれはいたしかたない。秀吉の九州征伐の詳細や雄大で遠大な大作戦劇となる北条家征伐についてはいずれ別の機会に詳述したい。

 
 ところで、戦争には莫大な金がかかる。
 秀吉は九州征伐を断行し、京の都では金銀を惜しげもなくふんだんに使って壮麗な聚楽第を造営し、北野の大茶会を催したり、膨大な費用をかけて巨大な大仏まで建立している。この大仏は木造で、金銀をちりばめて装飾した仏像であったと云われる。

 秀吉は通貨の鋳造にも着手し、銅銭や銀貨を鋳造して天正通宝と名づけ、その後に天正大判と称される大判金までつくっている。
天正大判は重さが四十四匁三分もあったというから、これはもはや通貨ではなくて贈答品用であったと思われるが、しかし刀剣などの価値づけの際に、金何枚というのは大判金で何枚という意味であると云われるから、やはりこれは通貨と考えたほうが良いのかもしれない。

 また、天正十七年の五月には聚楽第で「天正の金銀くばり」が行われている。

 皇族から公家、諸大名からその母や夫人にいたるまで金銀を分け与え、金子四千七百枚、銀子二万千百枚、総額にして三十六万五千両もの膨大な金銀をばらまくように使っている。
 当時の学者であった大村由己はこの秀吉の壮挙に、
「まさに前代未聞、卑しき身分ながら高位高官に昇り、ついに天下人となったのは不思議なことではない。唐土(中国)では卑しき身分から帝となった例もあるが、日本ではいまだかつてなかったことである。天授の英雄とは、まさに殿下(秀吉)のことをいうのであろう。」と、褒めに褒めちぎって記述している。
 大村由己は大名ではないが、秀吉は股肱の臣下たちや朋友らにも金銀をばらまいて分け与えているから大村由己も少しは分け前にあずかったのであろう。

 
 秀吉は金山・銀山をたくさん持っていたようなイメージがあるが、詳しく調べると但馬の生野銀山他二~三ぐらいしか見あたらない。
 上杉家の佐渡金山は実に有名であるが、秀吉は上杉景勝・兼続に佐渡を直轄領にすると申し渡してはいるが、しかし強制的に実行に移すことまではできなかったようである。
上杉家は会津に転封の後も佐渡金山を支配しているから、秀吉の権勢をもってしても佐渡の直轄化は実現しなかったのである。佐渡金山は関が原役の後に上杉家が惜しみながらも手放して徳川家が支配することになる。

 また、秀吉の直轄領からの歳入は二百万石~三百五十万石ぐらいだったようである。小瀬甫庵の太閤記は史料的な評価が高くはないが、秀吉の歳入は二百万石余りであったと記されている。
後年の江戸幕府でも秀吉のような金遣いはできなかったであろうから、秀吉の直轄領からの歳入だけではないことは明らかだ。
 秀吉は検地を施行してはいるが、民に苛斂誅求して租税をしぼり取ったという記録もない。

 
 秀吉の錬金術の秘密は貿易にあったに違いない。

 堺の町人や貿易商人と親交を結んで出資者として投資するのである。当時、これを投げ金、投げ銀という。
 
 この手法は織田信長から学んだのであろう。
 信長は茶の湯を通じて千利休や堺の貿易商人たちと親しく交わり、投げ金・投げ銀によって莫大な富を手に入れていた可能性がある。あの現実的な合理主義者の信長が単なる趣味で茶の湯に興じていたとは思えないのである。
 また、信長は通貨の鋳造にも熱心で、板金・板銀をこしらえている。
 信長が戦場に金銀のざくざく入った櫃をたくさんもってきて、本陣で功臣たちに投げ与えていたのはこの板金・板銀だ。
これは板状の金銀なのであるが、しかし重量も不正確で価格表記がなかったと云われるから通貨とはいえないのかもしれない。


 秀吉も信長と同じように堺の豪商たちと懇親を結んでいる。おそらくは茶の湯などを通じて親しく引見したり、大出資者として親交をもつために貿易商人たちと懇意にしたのであろう。席の温まる暇もないほどに大忙しの秀吉なのだ。単に趣味や遊興のつもりだけで茶の湯をたしなんでいたとは思えないのである。
 ドラマでは、いともたやすく秀吉に拝謁できるような印象を受けるが、この頃の秀吉は実に忙しい。
秀吉に拝謁するのに何日も待たされる大名はざらであったし、とうとう拝謁がかなわずに羽柴秀長や奉行方の石田三成や浅野長政などとの面会で終わってしまう諸候がたくさんいたのである。

 
 秀吉は九州征伐の後、博多の町の復興に尽力している。
 
 博多は大友家と竜造寺家の抗争で荒廃していたが、秀吉は島井宗室や神屋宗湛などの貿易商人と親しく交わり、石田三成を奉行として博多に赴任させている。

石田三成も島井宗室・神屋宗湛と終生仲が良かったようである。


著者HP http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/
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【2009/07/08 09:39】 | 未分類
不如帰 ~戦国武将の幻影~


Ⅰ<覇王編>~逆賊 織田信長を討て!~  Ⅱ<争覇編>~織田家簒奪!秀吉の野望~

不如帰 戦国人物伝


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    不如帰 戦国武将の幻影

    武将が騒がしくて、音がうるさい場合はサウンドを(Sound ON)をクリックしてください。SoundがOFFになります。

    (1)サムライに斬られないように注意しながら、かがり火を2回クリックして炎を青くすべし。 (2)左右の炎を2つとも青くすべし。 (3)その状態でサムライに斬られるべし。 (4)カーソルが斬られる瞬間、クリックすべし。 (5)タイミングが合えば、システムが起動する。

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