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コラム NHK大河ドラマ天地人 蒲生氏郷と上杉家の会津移封



 秀吉は北条家征伐の後、徳川家康に関東八州への移封を通達している。

 これは家康の武功を賞するという名目であったが、しかし八州といっても常州には佐竹家がいるし、野州には宇都宮・那須の両家があるし、上州には佐野家、房州には里見家が昔ながらにいたのである。
これでは正味のところ五・六州といったところであろう。
家康の所領は三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五州だったから多少なりとも石高は増えたのかもしれないが、しかし長い年月をかけて経略にいそしんできた土地を離れ、慣れ親しんだ良民の多くを手放しての移封であったから素直に喜んでよいものかどうか疑問なところであったろう。

また、秀吉は甲州に取立て武将の加藤光泰をおき、中村一氏に駿府を与え、山内一豊を掛川に、堀尾吉晴を浜松に、田中吉政を岡崎、池田輝政を三河の吉田(豊橋)にといった具合に秀吉子飼いの武将たちを配置し、羽柴秀次には尾張・北伊勢を与えて清洲城を居城と定めさせている。
まるで数珠をつなぐようにして徳川家を包囲し、秀吉恩顧の大名たちによって家康の中央への出口をふさがせた形勢になっていたのだ。
 
さらに、秀吉は奥州の仕置きの後、蒲生氏郷に会津を与えて伊達政宗を掣肘し、徳川家康を背後から牽制させている。
後年、奥州で一揆が勃発した(伊達政宗による扇動説が有名であるが、政宗が騒擾を起こさせたというよりも、一揆が発生したので好機到来とみて策動したのではないかと思われる。)が、氏郷は見事に一揆勢を鎮圧して秀吉の期待にこたえている。
この騒動の後に勃発した南部の九戸政実の叛乱においても氏郷は大軍功を上げ、奥羽の七郡を加増されて百二十万石の身代となったのである。百万石以上の大名といえば後年の五大老に匹敵するほどの石高だ。蒲生氏郷の能力推して知るべしである。
 
 
 蒲生氏郷は麒麟児と称されるほどの名将である。
 蒲生家は元々は近江の蒲生郡日野の小豪族であったが、氏郷の祖父である定秀の頃にメキメキと頭角を現し、衰運の著しい主家の六角家を親身に手助けしている。蒲生家の義理がたい家風は当時も実に有名で、織田信長も蒲生家の律儀な家風を愛し、蒲生定秀・賢秀(氏郷の父)の信義心に惚れこんで大いに厚遇しているほどだ。
氏郷は幼少期に人質の意味もあって織田信長に近習し、後年は信長の女婿になっている。信長に逸材の人物として見込まれるほどの大器に成長した証しであろう。
 
 蒲生氏郷は陣頭指揮型の猛将で、その軍勢は実に軍規厳正で精強無比、秀吉の小牧の役・九州征伐において大軍功を上げている。
政治的な手腕も卓抜であり、会津に入ってからは城下町の形成に心血をそそぎ、市日を数多く増やして商業の活性化を図り、近江などから商人たちを呼び寄せて産業を奨励して城下町を繁栄させている。
諸書によれば氏郷は戦国武将でありながらも和歌に通じ史書を愛読したと云われるから相当な文化的教養人であったに違いない。文武両道の達人であったろう。

 その氏郷が秀吉の唐入り(文禄の役)の最中に病没してしまったのである。享年四十才という実に惜しまれての死であった。病状は下血(腸出血と云われる)による病死であったという。
古来より秀吉の毒殺説が流布しているが、これは最近の研究では否定的である。
秀吉は毒殺するどころか右腕をもがれる思いであったはずだ。その理由は前述した秀吉を取り巻いていた状況と氏郷の人物像から容易に推察できるであろう。蒲生氏郷は天性の将器であり、律儀で実に義理がたい人物だったのである。
 
 その後、秀吉は蒲生家の家風に期待して氏郷の嫡男である秀行にそのまま会津の地を任せたのであるが、間もなくして蒲生家の内部で重臣同士の争いごとが発生し、秀行は宇都宮十八万石に削封となった。
一説には、秀吉が氏郷の未亡人に恋い焦がれてアタックしたが、「是非にも及ばず。」と言って尼になってしまったのを怒り、蒲生家を宇都宮に左遷したともいうが、これはいかがなものか。
確かに、秀吉は織田家の血筋の女性に異常な征服欲を燃やしている。淀殿をはじめ、三の丸殿は信長の第五女であったし、姫路殿は信長の姪だ。
信長に奴隷のように酷使されたという精神的なトラウマの反動が強烈な征服欲となって顕れたのであろうが、しかし当時の戦国大名は能力給なのだ。家臣らが権勢を争って家中が乱れるようでは戦略的な要地を任せられないのである。

 
 慶長三年正月、上杉景勝が蒲生家にかわって会津に移封され、上杉家は百二十万石の身代となり、西国の毛利家と並ぶ大大名となった。

 この移封の折に、秀吉は上杉景勝に言葉を添え、その後に直江兼続には米沢三十万石が与えられている。

 当時、大名クラスで三十万石以上となると指折りで数えるくらいしかいない。

 しかも兼続は大名ではない。陪臣なのだ。家臣でこれほどの領国を任されたのである。

 兼続の人物像、推して知るべしといったところであろう。



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【2009/08/26 06:26】 | 未分類
コラム NHK大河ドラマ天地人 羽柴秀次の自刃


 
戦国時代の武将は、名もない土豪から血みどろの苦闘と苦難の末に一国一城の主に成り上がったから個人的な力量は部下よりも抜きんでて優れていることが多い。
また、部下ができることはなんでもできるだけでなく、それ以上に優れていなければ部下の信望をつないで戦場で死力を尽くして働かせることができなかったのだ。
江戸時代の温室育ちの将軍や大名とは全く異なるところであるが、羽柴秀次は叔父(秀吉)の七光りのおかげで大出世したようなものであるから苦労の足りない殿様育ちであったことは事実かもしれない。

確かに羽柴秀次は優秀な人物ではなかったかもしれないが、しかし史料や風評などに伝えられるような悪行があったのかどうかは実のところ疑わしい。
 
 秀次は栄華を極めて奢侈に溺れ、妻妾にいたっては三十余人の多きにのぼる有様で、故池田勝入斎の娘を正室とした外に菊亭晴季(当時右大臣)の息女で以前に夫を亡くした未亡人を正室同然のように迎え入れ、さらには先夫との間に生まれたその娘をも溺愛し、母子ともに一時に寵愛したということから「畜生関白」と京の人々に罵倒されたと云われる。
また、むやみやたらに人を手討ちにしたり、夜な夜な城を抜け出して辻斬りをしたという評判から「殺生関白」との風評もある。これは俳句の「摂政(せっしょう)関白」にかけている。
さらに、秀次は密かに諸大名に財貨を貸し与えて恩を売り、用もないのに諸候と徒党を組んで武器・兵卒を数多く集めて謀叛を企てているという風評までが飛び交い、これが切腹に追い込まれた原因とする説まである。
 
 しかし、戦国時代の史伝や人物伝を読んでいて気づくことは、時の有力者が失脚させられる原因がいつもこのパターンなのだ。

 手討ち・辻斬り、酒乱の女狂いと乱倫、そして謀叛の策動が常套手段なのである。徳川信康(家康の長男)・武田義信と勝頼(改正三河後風土記の批評)など、他にも探せばいくらでもたくさんあるはずだ。
性質と素行について辛辣と思えるほどに言及し、悪い面は異常に感じるほどに誇大に表現し、良い面に関しては全く無視するかのように黙殺を決め込んでいるのである。

また、当時の大名は一夫多妻である。正室と妾の明確な区別はあったようであるが、正室と側室の区別はまだまだ曖昧であったという時代背景があるのだ。もちろん嫡妻はいるのだが、当時の大名は妻を何人でも持てたのである。
実際、厳密に調べれば秀吉・家康は妻妾を数えきれないほどに持っていたし、通常の大名家でも妻妾が十数人いても普通のことだったのである。
羽柴秀次は秀吉の後継者であり、いずれは天下を総覧するという上流階級の実質的な最上位にいた人物であるから妻妾の数うんぬんで批難するのもいかがなものか。秀次の母娘の一時の寵愛などにいたっては後世のオマケであろう。こんなことは事実として確かめようがなかったはずだから、これはつまらない俗説に違いないのである。

 秀次は暗愚な人物ではなく、良き書物を収集して勉学に励んだり、良書を朝廷に献上したりするなど好学な面もあったのである。朝廷に金銀を献上したり、財政難に窮した諸大名に金を貸し付けたのは内政を司る者として当然のことであり、秀次は時の為政者としての責務を果たしていたともいえるのだ。                   

 
 まことに残念なことであるが、この頃の秀吉はかなり耄碌していたと断じざるを得ない。
 
 ドラマでも放映されたが、秀次の高野山への追放、その切腹を石田三成の策動によるという説もあるが、しかしこれは独裁政権下での秀吉の命令に他ならないのである。武功夜話という史料によれば石田三成は秀次の無罪を主張していたと記載している。
 豊臣家の安泰を願うならば秀次が秀頼の後見役となって政務を司るように従わせるという方策もあったはずなのだ。しかし秀吉は秀次を懐柔するわけでもなく、縷言飛語が飛びかうを放置し、あげくの果てには秀次を自害に追込んでいるから、これは我が子(秀頼)かわいさによる確信犯の所業であったといってよい。
秀次の妻妾を惨殺して犬猫の死骸を捨てるかのように埋めて畜生塚と称されるまでに至っては、もはや昔日の藤吉郎の姿ではないのである。

 ちなみにドラマでは、秀吉が直江兼続に秀次の血筋を根絶やしにする為に妻妾その子全てを斬殺したと言っていたが、あれはウソで皆殺しにしたわけではない。
池田恒興(勝入斎)の娘で正室の若御前は助命されて兄の池田輝政の元に送り返されているし、後年の真田信繁の側室である隆精院も難を逃れている。秀次と小督の局との娘であるお菊(生後間もない幼児だったようである。)も許され、梅小路家に嫁いだ秀次の娘も助命されている。もっと詳しく調べれば他にも何人かいるかもしれない。


 現代医学の所見によれば、老化が進行して耄碌すると動脈硬化の傾向が顕著になって直情経口となり、判断の善し悪しに関係なく一時の感情に流されて決断するようになって激情に振り回されるようになるそうである。

 しかし、ある時に昔の冴えが蘇ってきて、事の次第に呆然とし、まるで別人のように正反対のことを言い出して決断が曖昧になることが多いという。秀次の一部の親族が助かったのも、こんなところにも理由があるのかもしれない。

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【2009/08/22 04:43】 | 未分類
コラム NHK大河ドラマ天地人 羽柴秀俊の運命


羽柴秀俊(後年の小早川秀秋)は秀吉の正室(北政所。後の高台院)の兄である木下家定の子と云われる。
生まれは1582年という説が有力であるが、その翌年には秀吉の養子になって羽柴秀俊と名乗り、その後は幼いながらも丹波亀山十万石の大名になっている。
 
 後年、秀吉の姉と三好吉房の子である羽柴秀次も秀吉の養子になっているが、これは1591年に秀吉の長男の鶴松(秀吉と淀殿の子)が死亡した後に養子になったのである。
羽柴秀次は羽柴秀俊よりも十四歳ぐらい年上で、1585年頃には近江四十三万石を与えられていたから、秀吉は子宝に恵まれなかった場合に備えて将来的に秀次に家督を譲るつもりでいたのであろう。
羽柴秀俊は義理の兄の子なのだ。秀吉の血筋にあたる「実の姉の子」である秀次に家督を継がせることとなり、秀吉は秀次に関白職を譲って自らは太閤と称することになった。
 太閤とは、以前に関白職を務めた者の総称なのであるが、今では太閤といえば秀吉の源氏名のようになっている。
大師は弘法に取られ、祖師は日蓮に取られ、中納言の唐名「黄門」は水戸光圀に取られ、半官といえば義経、前関白の別名「太閤」は秀吉といわれるほどである。天正十九年末の頃の秀吉は太閤殿下と呼ばれ、内政いっさいを後継者の秀次に任せて外征を志し、翌年には年号を文禄(1592年)と改めて唐入りの為の大動員令を全国に通達している。

 
 この唐入りの最中の1593年、淀殿がまるまるとした男の子を生んだ。後年の豊臣秀頼の誕生である。

 これによって羽柴秀俊は左遷されるかのように小早川家に養子に出されたとする説が有力視されている。
ドラマでは毛利輝元・小早川隆景がそれを迷惑がって上杉家に引き受け役を半ば強引に願い出る場面が放映され、羽柴秀俊が上杉景勝・兼続に直接談判して懇願する場面もあったが、しかしここは深い考察を要するところであろう。

 羽柴秀俊は1593年に小早川家の養子になっている。その時の推定年齢は十一歳前後なのだから直談判などできるわけがない。ドラマの羽柴秀俊役も大人にすぎるようである。
 毛利家が羽柴秀俊の養子入りを嫌っていたことは多分にあったに違いない。史料によれば秀吉は当初から毛利輝元との養子縁組を打診している。これは毛利本家が秀吉の一族に乗り取られる恐れがあった為、聡明な小早川隆景が秀吉に願い出て本家の身代わりになって引き受けたのである。
 
 また、羽柴秀俊は左遷されたと断定するには早急にすぎるであろう。
前述しているが羽柴秀俊は以前、秀吉の後継者選びからはまっさきに外されている。秀俊は秀吉の養子とはいえ、元々は秀吉の姻族にすぎないからこれは当然の帰結なのである。この当時はまだまだ血脈重視の風潮が根強い。
 
 羽柴秀俊は小早川隆景の養子になって九州の筑前・筑後を宰領することになるが、その石高は約五十万石である。当時の知行高は江戸時代とは異なり能力給なのだ、左遷されたというよりも秀吉から将来を期待されての配置だったのではないだろうか。
 
 折りしも唐入りの最中でのことであり、西国の中国地方から九州にかけての諸大名たちが中心となって朝鮮半島を転戦していたのである。秀吉は秀俊に、「豊臣家の頼もしい後ろ盾となる姿」に期待していたように思われる。

 

 しかし、人の運命は一寸先が闇だ。
 
 後年、小早川秀秋と改名した秀俊は慶長の役(第二次朝鮮出兵)の際に総大将に任命されるが、これが彼の転落人生の始まりとなる。

 この外征において小早川秀秋は秀吉から難癖をつけられ、ついに帰還命令まで出されてしまうのである。

 この時、小早川秀秋は十五歳前後、総大将にあるまじき行為との責任を取らされて越前北庄十二万石に転封となるのである。

 
 ところが後年、秀吉の病没の後、間もなくして小早川秀秋は筑前・筑後の領主に返り咲いている。


 これは、徳川家康のおかげなのだ。

 
 後年の関が原役での小早川秀秋の東軍への寝返りは、実に奥が深いのである。


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【2009/08/13 07:12】 | 未分類
コラム NHK大河ドラマ天地人 秀吉の唐入り

 秀吉の批評本を数多く読むと、前半から中盤にかけてベタ褒めばかりが長々と続いて、秀吉のことを散々持ち上げるだけ持ち上げておいて、後半の外征の前後あたりでドカリと蹴落とし、痛烈な誹謗中傷に豹変する。
 秀吉はボケていた。長年の疲労でモウロクした。心労がたたって発狂した。異常な誇大妄想にとりつかれた。領土欲の権化になった等々、賞賛が一転して批難に早変わりする。

これと同じ現象が、日清・日露戦争と大東亜戦争とを比較した批評本にある。
明治・大正の政治家や軍人たちは実に優秀だったと持ち上げてから、昭和初期の社会的優位者たちはダメだった。先の読めない人たちだった。身のほど知らずであった等々、こちらも痛烈な批難に大暗転する。

確かに、秀吉の唐入りも大東亜戦争も戦略的な暴挙に陥ったことは事実であろう。両方ともに結果が散々たるありさまだったのだから。
しかし、こんな批評であれば誰にでもできる。結果論からいえば、何とでも言えるはずだ。

 結果論から見た逆算的な視点は歴史を検証する上で必要な作業ではあるが、我々が歴史を考察する上でもっとも重要なことは、「何をしようと考えていたのか?」「どのように対処するつもりだったのか?」「取り巻いている情勢はどうだったのか?」「なぜ成功し、なぜ失敗したのか?」「失敗したのであれば、どうすれば成功したか?」といった歴史を教訓として深く学び取り、そして広い視野をもって史料を詳しく検証し、その経緯を深く考察することであろう。
 成功を褒めちぎり、失敗をけなすことばかりに終始するようではお粗末にすぎる。

 私見になるが、日清・日露戦争ほど身のほど知らずな戦争はない。これこそ、とんでもない戦略的な暴挙だ。
 相手は両国ともに超大国で、生産力・軍事力・兵力ともにずばぬけて絶大であった。
 一方の日本は全力戦の消耗戦、国家財政はパンク寸前、相手両国は一方面軍の局地戦でしかなかったのである。
しかし、相手両国の内政事情はガタガタ、アメリカ・イギリスは親日派、日本は停戦・終戦の手助け役にも恵まれていたのである。日本の勝利は当時の国際情勢が幸いしたからであって、戦略的な見地に立って考えれみれば日清・日露戦争は常軌を逸した暴挙であったし、当時の日本の政治家や軍人たちが優秀だったと断定づける論法も性急にすぎるであろう。
特に日露戦争などは、必ず勝てると確信していたのは軍の参謀本部だけで、当時の日本人の多くが敗戦を予感し、政治家・軍人たちも勝利に懐疑的だったのである。参謀本部の図上演習においても、戦争に踏み切れるだけの良い結果が出ていない。予想される厳しい局面において奇手機略を用いての作戦計画だったのである。

 
 さて、前置きが長くなって恐縮だが、秀吉は明国を征服するばかりでなく、東アジア全体を統括して支配するという遠大な戦略構想を持っていたようである。秀吉は日本を任せる武将、朝鮮半島を支配させる武将を具体的に選定し、北京に天皇家を招いて大陸を統治し、秀吉自らは寧波(ニンポー)に居を構えて東アジア全体を統括して総覧するという政治的な目標があったのである。これは、最前線の肥前名護屋城で指揮を執る秀吉が京都の羽柴秀次(秀吉の甥)に宛てた手紙に記されているので明らかだ。
また、朝鮮半島は明国に入る為の通り道だったのであり、朝鮮は戦略目標ではなくて単なる戦術的な目標にすぎなかった。

 だが、秀吉は緒戦の朝鮮半島で惨敗した。結果的に壮大な作戦計画はすぐさま頓挫したのである。ゆえに、後世の批評家たちから痛烈な批難を浴びることになった。

 失敗の原因は山ほどあるが、最たる要因は敵情認識の甘さであろう。
 秀吉は朝鮮のことを対馬の属国ぐらいにしか考えていなかった節があるし、明国の兵力に関しても無頓着もいいところだし、補給路の確保もいいかげんだし、生命線である制海権までも敵軍に奪われている。確かにダラシナイ戦いぶりで、
「本当に、本気でやる気があったのか?」と思えるし、「秀吉はボケていたのでは?」と感じさせるテイタラクぶりである。ドラマの冒頭で紹介していた通り、秀吉の動員可能兵力は二十万以上、予備兵力を入れたら途方もない大軍勢なのだ。さらに、最近の研究によれば日本は当時、世界有数の鉄砲保有国だったのである。この時代の日本は恐ろしいスピードで鉄砲の技術が発達し、鉄砲の保有量も数万を数えていのだ。当時の日本は強力な軍事大国であったといってよい。

ところが、大陸の情勢に精通する小西行長などは、とうとう秀吉につき合いきれなくなって、朝鮮半島での進軍途上で明軍に利敵し、逆に内兜を見透かされて大損害を被り、そのあおりを受けた日本軍将兵らもチリジリになって窮地に追い込まれたりしている。
また、石田三成や小西行長は秀吉にいいかげんな情報を伝えて騙すことすらしていたことは、この時代に詳しい方々であればすべてご存知なことであろう。豊臣家の主要なメンバーたちは和平を望んでいたのであろうし、諸大名らも厭戦気分であったに違いない。ドラマでは兼続がヒューマニズムに訴えて石田三成に外征の件で喰ってかかる場面が放映されたが、あれは現代版といえるだろう、諸所を転戦して軍勢を率いて散々人を斬殺しておいて今さらヒューマニズムもないだろう。当時の侍大将の姿にはほど遠いところであろう。

 
 さて、ここで視点を変えて国際情勢に着目すると秀吉の近世的で偉大な志しが見えてくる。

 当時の日本の裏側では、スペイン・ポルトガルの国王であるフェリペ二世が大帝国を誇って世界に君臨していた。
特筆すべきことは、フェリペ二世と秀吉は何度となく音信を結び、書簡を交わしたり贈答品のやり取りを行なっていたことである。さらに秀吉はフェリペ二世に宛てた手紙の中で、
「貴殿とは対等である。」と言い張っている。
これは、日本の枠組みを飛び越えて世界にはばたこうとする秀吉の挑戦とも取れ、非常に近世的な発想であったともいえるだろう。当時のヨーロッパ諸国は大航海時代の幕開け、飽くなき膨張主義の全盛期だったのだから。
 したがって、秀吉の思考力はその時代の最先端を走っていたともいえるのだ。


 
 ちなみに、大陸の明国は秀吉の病没後、わずか四十数年後には小国の金(清)に滅ぼされている。

 徳川政権下の家光の時代に、明国の急使が日本にやってきて救援を求めてきたが、保守的な幕府から全然相手にされず、アッサリと断わられている。


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【2009/08/04 16:07】 | 未分類
不如帰 ~戦国武将の幻影~


Ⅰ<覇王編>~逆賊 織田信長を討て!~  Ⅱ<争覇編>~織田家簒奪!秀吉の野望~

不如帰 戦国人物伝


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