スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
【--/--/-- --:--】 | スポンサー広告
コラム NHK大河ドラマ天地人 武士の誇り、武士の意地

「奉公を構われる、奉公構(ほうこうかまい、ほうこうかまえ)」というのは、秀吉によって始められた慣わしであると云われる。
これが江戸時代になると武士に対する刑罰として一般化し、出奔した家臣や改易された者に対して主人である側の大名家が、
「なにがしは奉公構にした人物である。もしもこの者を仕官させたならば、当家は今後、そちらとのいっさいのつき合いをやめる。」といったような文言で綴られた回状を他家に乱発するのである。
これによって、他家への再仕官が非常に難しくなり、その土地からも追放されたというから、武士階級においては切腹についで苛酷な重刑であった。

 戦国時代の主従関係は君臣ともにお互いの資質や能力、人物としての器量や才能などを認め合うことによって成立した。
したがって頼むに足りない主人であったり、仕官するに値しない大名家であれば、家来の側はその場を立ち去って他家に再仕官することが多かったのである。また、そうすることによって「武士としての名を上げる」という考え方が当時の武家社会における一般的な通念であった。
 
 しかし、秀吉の天下統一が完成に近づくにつれて、これがなんとも具合の悪いことになってきた。
 
 家臣が出奔して諸大名の間を渡り歩くということは、その者は相当の上昇志向の持ち主であり、かなり腕に覚えのある人物なのだ。しかも年月に応じてその才覚や技能に磨きがかかり、大人物に成長して他家の重臣に取り立てられることもあったから、元々の大名家からすれば主人が無能であったようでおもしろいはずがない。
さらに、重臣ともなれば重要な機密を知り得る機会に恵まれているから、そのまま出奔されて他家に仕官されたりしては内情が筒抜けのようでまことに都合が悪い。
その他にさまざまな要因が複雑にからみ合ってその大名同士の仲がギクシャクしはじめて険悪な状態になったりしたら大変なのだ。封建主義社会を統治する上で、大名同士の争いごとほど始末の悪いものはないのである。
 秀吉は大名間での紛擾を防止するために奉公構を制度化しようと考えたのであろう。

 大坂の役の折りに、豊臣方として入城した後藤基次(通称は後藤又兵衛)、塙直之(塙団右衛門で有名)などは奉公を構われた人物である。
 後藤基次は黒田家に仕え、黒田官兵衛の元で勇将の名をほしいままにしたが、息子の長政とは実に折り合いが悪く、最後は主君の長政と大喧嘩になって出奔している。その後は旧主の長政の奉公構によって他家への仕官が困難となり、大坂の陣までのその生活は窮乏を極めたと云われている。
塙直之は主君の加藤嘉明と意見が衝突して出奔し、その後は小早川秀秋や松平忠吉、そして福島正則らに仕えたようであるが、いずれも旧主の嘉明の奉公構による邪魔が入って長続きしていない。一時期は仏門に入っていたという。
また、大坂冬の陣の時、徳川方の藤堂高虎の配下である渡辺了(わたなべさとる。渡辺勘兵衛で有名)が戦陣の采配のことで高虎と大喧嘩となり、その戦場での勘兵衛の独断専行がはなはだしかったという理由で高虎や重臣たちから疎まれるようになって後に出奔しているが、その後は旧主の高虎から奉公構に遭って不遇な余生を送っている。
渡辺勘兵衛といえば「槍の勘兵衛」で実に有名な勇士であり、勘兵衛の固めている陣と聞けば敵の武将がひるんだと云われるほどの采配の名人でもあった。しかし勘兵衛もまた傲然と剛情を張る人物であったようである。
 
戦国時代の武士は実に剛毅で豪快だ。特に、腕に覚えのある者であればあるほどこの傾向はいっそう顕著に現れた。こんな逸話がある。
 本多正信の弟の正重(直江兼続の養子になったのは本多正信の次男の政重。似ているので間違いやすいのである。)は剛勇で剛毅な荒武者で有名だ。
 本多三弥正重は家康の三河の一向一揆の際に出奔し、その後は諸家を渡り歩いて功名を立てたが、秀吉の九州征伐の時には蒲生氏郷の配下となって従軍している。
 蒲生氏郷は秀吉に豊前の巌石城攻めをしいて願い出て、これが許されてさっそく攻囲にかかるのであるが、氏郷が軍勢の士気を鼓舞するために自ら貝を吹くのだが、これが全然鳴らない。
本陣に居合わせた本多三弥がそれを見て、
「総じて腰抜けの吹く貝は鳴らぬものでござる。」と言った。
氏郷は激怒し、「ならばその方が吹けい!鳴らずば生かしておかぬ!」と怒声を放ちながら刀のつかに手をかけた。
 本多三弥は貝を取り上げ、高々と三度までも貝を吹き鳴らし、
「これが剛の者の吹く貝でござる!しかとお聞き候か!!」と言い捨て、槍を取って敵中に突入して行ったという。
 本多三弥という人物は平然とずけずけとものを言う人で有名で、これは特異な例であろうが、しかしこのような剛情な気質が戦国の武士たちには少なからずあったのである。 
 
 
 統治と統制とは両輪の関係にあるという。戦国から太平の世に向かう過程において、世の中の秩序が整い始めて安定に向かう一方で、独特で強烈な個性を持った武士たちが生きにくい時代になってきていたのであろう。


 
 ところで、ドラマでは大坂の陣が放映され、直江兼続と真田幸村の連携プレーによる千姫の大坂城脱出劇が映し出され、
「うむ、。。さもありなん。。。。」の気分で楽しく拝見させて頂いたが、確かに千姫の脱出劇については諸説あって定かではないのである。

 有名な説の一つに、石見津和野の領主である坂崎出羽守成正が大炎上する猛火の中に飛び込んで千姫を救って来たことになっている。江戸時代に流布した小説も、現代の演劇や映画もこの筋書きを踏襲している。

 この坂崎出羽守成正という人物は宇喜多家の一族で、宇喜多秀家のいとこにあたる。

 この人は実に剛情で、執拗なこと粘着質のごときタイプの人物である。戦国の武士の中でも無類の我が儘さ、強情さだ。

 長くなって疲れてきたので詳しい経緯は機会があれば詳述するが、この人の強情で強引な意地のために、三軒の大名家がつぶれている。

著者HP http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/
メールアドレス hokenpuro@yahoo.co.jp  
スポンサーサイト

テーマ:歴史小説 - ジャンル:小説・文学

【2009/11/20 09:59】 | 未分類
コラム NHK大河ドラマ天地人 曲学阿世の弊害


秀吉は慶長三年八月に病没したのであるが、その遺言の際に五大老の一人一人から、
「秀頼が成長して十五歳になったら必ずや親政する。」という内容の文言の入った起請文を取り付けている。
淀殿はこの誓約書の文言が守られることを固く信じ、彼らが将来的に秀頼を盛り立ててくれるであろうことに期待して信頼したに違いないが、秀頼の後見役であった前田利家は翌年の三月には早々と病没し、その後の前田家は家康によって首根っこを押さえられ、関ケ原役の後は毛利輝元・上杉景勝が徳川家に屈従し、宇喜多秀家は薩摩の島津家にかくまわれた後に家康から流罪に処せられてしまった。宇喜多秀家の八丈島での流人生活の逸話が多々あるが、彼は不遇のままに相当以上の長生きをしてその生涯を終えている。
 その後の家康は朝廷に働きかけて征夷大将軍職を賜り、慶長十年の四月には世子の秀忠が将軍職の後継者であることを平然と天下に知らしめ、秀頼に対しては上洛を促してもいるから以前の起請文の件を知っている豊臣恩顧の武将たちは憤懣やるせない思いであったろうし、期待を裏切られた淀殿が激怒するのも無理はないのである。母親の我が子に対する愛情はいつの時代も同じだ。息子の将来を心配し、わが子のために既得権をいっさい失うまいとするのは自然のなりゆきなのである。
家康の豹変ぶりはまさに慇懃無礼、力任せのやりたい放題であり、ドラマでの家康も冷酷的で権勢欲のかたまりみたいな印象を受けるが、しかし彼は冷血漢な人物ではない。
諸書によれば、秀頼は家康のことを、「江戸の爺(じい)。江戸の爺。」と呼んで慕っていたようであるし、秀頼と千姫との婚儀の件は老獪で政略的な打算であったことも事実ではあるが、豊臣家の生き残る道を模索して苦心惨憺する家康の温情も感じられるのである。
秀頼の上洛の件にしても、淀殿の心情に配慮し、豊臣系の諸大名の間にはいまだに秀吉の感恩の深いことを考慮して取り止めにしている。
「へたにこじれたら命取りになりかねない。」と思ったのかもしれないが、温情的になって時期尚早と考えて見送ったのであろう。


 そして、月日は流れ六年後の慶長十六年三月、家康は上洛して二条城に入り、織田有楽斎を通じて秀頼に上洛を促した。以前の蒸し返しである。
 
 この六年の間に徳川家の覇権はゆるぎないものになっている。
 
 また、豊臣恩顧の諸大名は家康の巧妙な財力弱体化政策によって財政難に陥り、軍資金にもこと欠くありさまになってしまっていたのである。
家康は西国の諸大名や豊臣系の武将たちに江戸市街の開発と整備、名古屋城・駿府城の増改築、二条城の普請、諸所の水路の開発や土木工事などを命じて財力を消耗せしめている。加藤清正・福島正則・浅野幸長・黒田長政・池田輝政などという豊臣恩顧の有力大名たちが特にかり出されているから豊臣家の勢力を弱体化させる方策であったことは明らかだ。

 さらに、大坂城に蓄蔵されている金銀の消耗もおびただしい。
 秀吉が建立した東山の方広寺の大仏殿は大地震で崩壊してしまったのであるが、家康は使者を通じて執拗に再建を勧めている。
 淀殿は肖像画にあるようにとても美しくて誇り高い女性であったように感じられ、諸書によれば母性愛の強い人であったように思われるが、しかし家康のたくらみを見抜けるほどの賢母ではない。喜んで再建に尽くすことになるのであるが、なんと方広寺の再建には十年もの歳月をかけて完成させているのだ。
再建中に火事に遭ってはやり直し、焼けこげてとけてしまった大仏を作り直したりして、やっと完成したのが慶長十七年の春であったというから膨大な費用に及んだことは想像に難くない。
 鐘の鋳造は慶長十九年の四月に完成させているが、その重量は一万九千貫もあったというから驚くほどの巨大な鐘である。その他に堂宇や大仏殿もあるのだからその費用たるや莫大であったろう。

 
 秀頼の上洛の件については機会があれば詳述するが、この鐘の銘文の件で後日、大問題が勃発する。

 
 鐘の銘文は、当時名文章家で評判の高い禅僧、文英清韓の作である。


 徳川家側は、「国家安康」というのは家康公の名を切断しているので無礼千万、「君臣豊楽、子孫殷昌」は豊臣家を君とし、子孫の殷昌を楽しむと隠し書きしており、徳川家を呪詛しているのだと言い張り、これは豊臣家の天下になることを祈願しているのだと言いがかりをつけるのだ。

 日本で漢文を訓読する際には、場合によっては返読しなければならないが、しかしだからといって「臣豊」を「豊臣」と読むことは絶対にできない。こんなことは漢文学の初歩なのだ。

 ところが、本当に驚くべきことに徳川家の儒官である林羅山がこれを認め、博識の高いことで有名な京都五山の長老のほとんどが認定しているのである。

 これは、破廉恥なほどの「曲学阿世」ぶりと言わざるを得ない。

 今の現代も、世間の人々が学者に対して直感的に一種の嫌悪感を覚えてしまうのはここのところに起因するのかもしれない。

 
「史記」儒林伝によれば、「曲学阿世」とは、学問上の真理をまげて、世間や権力者の気に入るような言動をすることをいう。

 
 この事態は、現代に生きる我々も肝に銘じておかなければならない教訓であろう。


著者HP http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/
メールアドレス hokenpuro@yahoo.co.jp 

テーマ:歴史小説 - ジャンル:小説・文学

【2009/11/10 14:15】 | 未分類
コラム NHK大河ドラマ天地人 兼続の政略
 


 戦国時代の当時は、江戸時代のような儒教に基づいた君臣関係はない。比較的に自由で弾力性があり、主人は家来を三年ぐらい使ってみて見込みが無ければ平気で暇を出すし、家来の方もしばらく仕えてみて頼りにならない主人であればサッサと立ち去ってしまうのである。
 戦国時代は君臣ともに「信頼するに足る人物かどうか」をしっかりと確かめ、お互いの合意があって初めて主従関係が成立したのである。

 直江家に婿入りした本多政重は以前、大谷吉継に仕え、その次ぎは宇喜多秀家の家臣になって二万石を与えられている。
関ヶ原合戦の際には宇喜多勢の侍大将格で奮戦しているから実に勇猛な武将だったことが分かる。
その後、福島正則の家臣になるのだが、まもなくそこを去って前田利長に召し抱えられて三万石を拝領している。
ドラマの冒頭で、本多政重のことを主家を次々に変える「得体の知れない人物」とのナレーションで紹介していたが、これは残念ながら少し時代考証の足りない見解であろう。
 本多政重は宇喜多家から二万石、前田家から三万石を拝領している。この時代は江戸時代と違って能力給なのだから有能な人物だったに違いない。
逸材の人であればなおさら、月日の流れや時代の変化に応じてその才能に磨きがかかり、さらに信頼するに足る主人を探し求めるようになるのであろうし、その結果として主家を次々に変えることになってしまうのである。有名な武将では島清興(通称は島左近)、藤堂高虎などがその好例だが、詳しく調べればきりがないほどに沢山あるはずである。

 直江兼続も政重のことを高く買っていたように思える。
 政重は本多正信の次男であるが、徳川家を出奔した後は秀吉の信任する大谷吉継の家臣となり、その次は秀吉の寵愛する宇喜多秀家に仕え、関ヶ原の合戦においては西軍の主力部隊の先鋒となって勇戦している。
どちらかといえば大坂方の人物であるし、有能な武将のように思えるし、徳川家の宿老である本多正信の息子であったりするので、主家の上杉の社稷をまっとうすべく策動していた兼続の目にとまったのであろう。
 1604年(慶長九年)の八月頃、兼続は政重(この頃まで正木左兵衛と称している。当時の武士は名前を変えることが多かったからややこしい)と兼続の娘である於松との婚儀を整え、政重は直江家の婿養子となって直江大和守勝吉と称した。
しかし翌年には於松が病死しているから、兼続の心痛はいかばかりであったろう。
当時の大名レベルの結婚は王朝時代の頃と違って恋愛もへちまもない。お見合いすらないのだ。
「家」と「家」とが結婚し、子孫を残すことだけを目的に結ばれるのである。
 恋愛に恵まれる機会すらなく、夫婦の情愛を知らず、政略の犠牲者となってこの世を去ってしまった娘を想う兼続の胸中は悲壮である。万感胸に迫る思いであったろう。

 その後、兼続は勝吉との養子縁組をそのまま継続し、1609年(慶長十四年)に弟の大国実頼の娘・阿虎を養女にして勝吉に嫁がせている。
弟の実頼は以前、兼続が政重を養子に迎える事に猛反対したのであるが受け入れてもらえず、憤懣おさまらずに強行手段に出て政重を迎えに来た兼続の家臣を斬殺して出奔している。
またこの年、本多正信が仲介役となって兼続の実子・景明が膳所藩主戸田氏鉄の娘を娶っている。この頃から勝吉は本多安房守政重と名乗るようになったようである。

 

 ところで、徳川家康は慶長八年二月に征夷大将軍となったが、それと前後して世子の徳川秀忠の娘である千姫と豊臣秀頼との婚儀を進めている。こちらも家同士の無味乾燥で味気ない結婚である。しかし二人とも幼少であったから飾り雛のように綺麗でかわいらしい出で立ちであったろう。

 家康はこの婚儀によって豊臣恩顧の武将たちの反感をやわらげ、淀殿の憤激を慰撫して煙に巻いてしまうつもりだったのかもしれないが、しかし翌年の慶長九年になると家康が上洛した際には大坂に赴いて秀頼に拝謁することもなく、まっすぐ江戸に戻ってしまっている。家康は上洛する度に大坂に足を運んで秀頼に謁していたが、天下の実力者たる覇者になってからはその態度を急変させている。

 さらに、翌翌年の慶長十年四月には世継ぎの秀忠に大軍勢(公称で十万とも云われる)を添えて上洛させているから、これは将軍職を徳川家が世襲することを公に表明したようなものなのだ。

 おまけにこの時、秀頼に対して上洛を促すようなことまでしでかしているから、豊臣系の諸大名である加藤清正、福島正則、浅野幸長などは疑心暗鬼に陥り、淀殿の憤激ぶりは察するに余りあるものがあったようである。

 家康はあまりにも強烈な拒絶反応に驚いて、慌てて六男の忠輝を大坂に派遣して秀頼の上洛の件はうやむやの内に取り止めになっている。

 
 秀吉が病没したのは慶長三年八月十八日だから七年余り、関ヶ原役からは五年も経過しているのだが、太閤秀吉の威光はまだまだ根強かったのだ。
 
 
 焦る家康を見て、あの世の石田三成が苦笑していたかもしれない。


 大坂冬の陣は、この年から約九年もの歳月を経過した後に勃発しているのである。


著者HP http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/
メールアドレス hokenpuro@yahoo.co.jp 

テーマ:歴史小説 - ジャンル:小説・文学

【2009/11/05 14:08】 | 未分類
不如帰 ~戦国武将の幻影~


Ⅰ<覇王編>~逆賊 織田信長を討て!~  Ⅱ<争覇編>~織田家簒奪!秀吉の野望~

不如帰 戦国人物伝


美容室・ヘアサロン・ネイルサロン専門税理士

ランキングに参加しています。。。バナーをクリックして頂けると励みになります!

お気に入り

  • 紫電改を伝えたい!あいなんからの祈り
  • 日本百名城の旅
  • ひこばえ
  • ghost mail
  • 芸能エンタメ タレント最新ニュース&ランキング
  • 怖い話します
  • おんぞーし ノブ様
  • ☆オリジナルの高校数学の問題を掲載していきます☆
  • 嘘八百のこの世界
  • KEEP CALM AND WARBLE ON
  • 国時代を追いかけて日本の歴史つまみ食い紀行
  • 戦国&幕末 セレクト日本史
  • 心のうた|みよ@こたつむりが詠む詩集
  • 天満のイラスト日記!!
  • 施設内虐待(高齢者虐待)と戦う
  • にゃん吉倶楽部
  • 龍好き画伯の妻
  • 穴掘って吠えるでござる
  • えくぼママの喜怒哀楽三昧♪
  • 愛犬ジュジュのときどき後ろ前!?
  • 道東からのフォト
  • 花の店みちくさ
  • すずめ四季
  • 猫ろころころ
  • 極小ヨーキーの子犬がやってきた!
  • 木工と個別課題の部屋
  • 残された石垣を見つけたい
  • のんびり ゆったり 自遊気儘
  • 鼻毛虎日記
  • 別府葉子公式ブログ ~葉子通信
  • ノーベル賞候補犬 サンちゃん
  • 下町ESPRIT
  • 戦闘SLGプレイ日記
  • 東京ぶらぶらり
  • 千葉県 市川市 小岩 茶道具 古美術 絵画  買取 あんてぃっく壱
  • にゃおそふとプライベート
  • うづらのたまご
  • 青の傭兵
  • 小田原で木彫
  • 花のように
  • ビーチサイドの人魚姫
  • 花筐~花がたみ
  • デジカメ人
  • ビールは命の泉です。
  • アダルトチルドレンのまま楽に生きる
  • 全日本丸顔協会
  • ぷりしら商店の雑貨達
  • 愚行の日々を
  • アメリカ観光おすすめスポットまとめ
  • 旅レポート
    ブログランキング

    不如帰 戦国武将の幻影

    武将が騒がしくて、音がうるさい場合はサウンドを(Sound ON)をクリックしてください。SoundがOFFになります。

    (1)サムライに斬られないように注意しながら、かがり火を2回クリックして炎を青くすべし。 (2)左右の炎を2つとも青くすべし。 (3)その状態でサムライに斬られるべし。 (4)カーソルが斬られる瞬間、クリックすべし。 (5)タイミングが合えば、システムが起動する。

    最新記事

    月別アーカイブ

    カウンター

    ブログランキング

    blogram投票ボタン
    プロフィール

    不如帰の幻影

    Author:不如帰の幻影

  • ☆☆著者HPへアクセス・保険☆☆
  • ☆☆著者HPへアクセス・起業☆☆

  • 最新トラックバック

    カテゴリ

    RSSリンクの表示

    ブロとも申請フォーム

    この人とブロともになる

    QRコード

    QRコード

    検索フォーム

    上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。