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Ⅲ 賤ヶ岳の衝撃


 さて、こうして、いつのまにか秀吉の主力部隊に厳重に攻囲された佐久間盛政は、闇夜にこつ然と姿を現した無数の大かがり火にぐるりと取り囲まれ、山々の草木を照らし尽くすがごとく、強烈に光り輝くその光景をまのあたりに見てがく然とし、放心する。

 まったく信じられない情景であり、とんでもない緊急事態であった。

 佐久間盛政は驚き慌てながらも早急に払暁までには撤退にかかるが、羽柴勢の四方八方からの総攻撃を受けて大損害を被る。

この急報を聞いて駆けつけた柴田方の柴田勝政が羽柴勢に突入し、後方から佐久間勢をしきりに援護するが、羽柴勢の怒濤の猛進撃に押し潰され、その部隊はやがて消滅し、柴田勝政はあえなく敗死した。


 この戦況を遠望する柴田方の諸将は、苦戦する佐久間盛政勢を後方支援すべきかどうかを決断しかねて、早急に勝家の本陣に急使を飛ばし、その指示を仰ぎ急いで待機していたのであるが、柴田方に加担していた前田利家の率いる軍勢が突如として、早々と旗を巻いて戦線から離脱し始めたのである。
しかも、その敗走ぶりがしどろもどろの体たらくぶりで、まるで痛烈に撃破されて遁走しているかのような逃げっぷりだったから堪らない。
この前田勢の不可解な敗走ぶりが柴田方の諸将をいっせいに疑心暗鬼に陥らせ、全軍を動揺させ、やがて戦線を離脱する武将たちが続出し、柴田勢はたちまち全軍総崩れと成り果てた。



 このとんでもない意外な結末に、勝家は切歯扼腕して、
「盛政めが!首を刎ねてもあきたらん!」と、怒声を放ち、あくまでも出撃を強行して秀吉との有無の決戦を言い張るが、側近の毛受家照に強く諫められ、その地に憤懣を残して越前北ノ庄をめざして落ち急いだ。

 一方、孤立無援の佐久間盛政は壮絶な死闘を繰り広げていたが、援軍来たらず、その兵力も続かず、勇敢に奮戦するも乱戦の最中に生け捕られてしまった。

 
 
 ところで、この戦いにおける賤ヶ岳の七本槍(福島正則・加藤嘉明・平野長泰・糟屋武則・脇坂安治・片桐且元・加藤清正)は実に有名であるが、この雌雄を決する戦いは、秀吉子飼いの武将たちをデビューさせるのにもってこいの晴れ舞台でもあったから、彼らの評判が世間に広く知れ渡り、諸大名の彼らに対する評価も高くなることを狙って秀吉が大いに宣伝したのであろう。
 小豆坂の七本槍とか、上田の七本槍とか、なんとかの七本槍というのは当時の宣伝文句であったといってよいのである。

 ちなみに真田十勇士とか、尼子十勇士とか、なんとか十勇士というのは、後年の江戸時代に流行した講釈師の講談の影響が色濃い。

 余談になるが、講釈師とか講談といっても、あまりピンとこないかもしれない。

 以前の考察で少し書いたが、江戸時代になると戦争がメッキリ減る。

したがって実戦がほとんど無いわけだから、実戦経験者はいないし、軍法を知る人も減ってくる。

しかし、諸藩は地方軍の役目もあるから、有事の際に、
「戦いかたがわかりません。。。」ではまことに困ったことになるので、その当時は軍法を説いた軍学が大流行したのである。

 軍学には越後流、甲州流、楠木流、いろいろたくさんあるが、しかし戦争がない時代なのだから軍学の善し悪しがわからない。実戦がないのだから、確かめようがないのである。

じゃあ、どんな軍学がはやったのかというと、これは現代の出版業界と同じだ。
学者だとか、有名人であるとか、社会的権威がある人であるとか、そういうのが乗っかった学説や書物がはやりにはやる。その軍学の善し悪し・役に立つのかどうか、嘘か本当かは別にして、すごい勢いで流行するのだ。

おまけに幕府は先生呼ばわりしてチヤホヤするし、それなりの役職を与えたりもするから社会的な権威はさらに上昇し、その軍学はもっともっとはやることになる。
しかも、諸藩もこぞって同じようなことをするから重職で召し抱えられることもザラにある。

 こうして、立派??な軍学者として大成し、食うに困ることもなくなるのであるが、しかし軍学者になりそこねた者も当然出てくる。
途中で挫折してしまったり、社会的な権威がなかったり、運が悪いこともあるだろう。このような者たちが軍学をおもしろおかしく脚色して談話のように話すことを講談といい、それを生業にして生計を立てていた者を講釈師と呼ぶのである。

 
 人間臭くて、あまりきれいな話しではないが、しかし、きれいごとばかりでは済まされないのも古今の常で、生き抜くということは、いつの時代であっても大変なものなのだと、本当に実感させられる。


 いつの時代も、いつの世も、虚実、玉石混合、運不運、まさに混濁だらけの世の中ではあるが、しかし、困難ながらもたくましく成長していく人物の姿ほど、人を感動させるものはないのである。

 これはいつの時代のどの人物でも同じなのである。だから、ぼくは史伝が好きなのだ。

 
 信長の大才

 秀吉の電撃

 家康の重厚

 特に、戦国時代は魅了してやまないのである。


 

 生死に前後あり。

 
 資質に得失あり。


 

 来年もよろしくお願い申し上げます。


                                    2009年12月29日 筆者記す


著者HP http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/
メールアドレス hokenpuro@yahoo.co.jp 
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【2009/12/29 11:31】 | Ⅲ 賤ヶ岳の衝撃
Ⅱ 賤ヶ岳の衝撃

 一方、近江中尾山周辺で柴田勢と睨み合いを続け、その動静を監視していた羽柴秀長は、さっそく急使を飛ばして敵将の佐久間盛政の突出を秀吉に知らせ、美濃の大垣城からの早急の引き返しを要請する。

 
 これはまさに秀吉にとって待ちに待った好機到来、勝家との雌雄を決する正念場であったろう。


 柴田勢を誘い出す陽動作戦が見事に功を奏したのであるが、しかし、この時点では危険性も実に大きかった。
中川清秀の大岩山砦の落城は、羽柴勢の全軍に衝撃的な動揺を与えている。
柴田方は大いに気勢を上げたであろうし、秀吉に味方する武将たちにしても形勢が不利になれば離反する可能性も十分にあったし、それが災いして全軍が総崩れと成り果てる危険性もあったのだ。

諸書を丹念に調べると、大岩山砦の落城に恐れをなした高山右近、桑山重晴らは持ち場の砦を半ば放棄しかけて、それを伝え聞いた上官の丹羽長秀が激怒している。

通説では高山右近、桑山重晴らは砦を死守して勲功を讃えられたと伝わるが、しかしこれは秀吉の主力部隊が舞い戻ってきたので、これを伝え聞いた砦の将兵たちは勇気百倍し、士気を十分に取り戻したからであったろう。
もし、秀吉の迅速な引き返しがなかったら、佐久間盛政の軍勢にせん滅されて落城していた可能性が高い。

ちなみに、高山右近は勇猛絶倫な武将で敬虔なキリシタン大名としても実に有名であるが、武将としての株は、この戦いの以後はいっきに暴落しているように思われる。
高山右近は後年(天正十三年)、秀吉から播州明石で六万石を拝領しているが、右近ほどの逸材の人であれば十万石以上あってもいいところなのである。しかもこれは秀吉のキリスト教の弾圧以前の時期であるから、なおさらだ。

 
 ここで高山右近のことを詳しく書いては果てしがない。右近のその後の経緯については別の機会に詳述する。


 さて、秀吉はすぐさま近江への引き返しの準備を開始し、急報に接したその日の夕刻頃には全軍を美濃大垣城周辺に集結。


そしてぶっつ続けで兵馬を飛ばし、強行軍に強行を重ねて走りに走り、その夜の内には近江にまで軍旗を進め、夜更け頃までには電撃的な素早さで佐久間盛政勢一万五千を完全に包囲したのである。

引き返すまでに二・三日はかかるであろう厳しい状況下の中で、秀吉はわずか六時間足らずで近江の陣中に舞い戻り、その日の深夜には賤ヶ岳を厳重に攻囲しているのだ。

 まさに、恐るべきスピード戦術である。
 
 これは以前の中国大返しの手法と全く同じだ。その沿道には無数の松明がこうこうと焚かれ、食料や水も十分に用意されていたというから、秀吉は家臣に厳命して事前に準備させておいたのであろう。

 ちなみに食料や水、酒などは、付近の住民から普段の十数倍もの値段をつけてあらかじめ買い付けていたというから恐れ入る。
 
 秀吉の金使いと人使いは本当にうまい。

 
 ここで余談になるが、金使いに関して、「金持ちはケチである。」という風評があるが、しかしこれは的が外れた見解であるように思われる。
 成金のような小金持ちであれば少々理解できないこともないが、本当の金持ちは実に勤勉で教養も豊かであり、博識の高い人が多いのである。
だから、普通の人々がふだん気がつきにくい無駄や、物品の粗末な扱いに敏感で、それが質実な倹約につながるのである。

 話しがそれてしまうが、そのことに関連したおもしろい逸話がある。

 後年の秀吉の唐入り(朝鮮陣)がはじまった頃の出来事。
 
 日根野備中という武将が、その出陣の為の費用に困り果て、ものは試しにといった感じでケチで有名な黒田如水を頼って借りに出かけた。
あまりあてにしていなかったのであるが、
「よろしい。ご用立ていたそう。」と、如水は一つ返事で快く承諾し、すぐさま軍資金を貸してくれたのであった。

 そして後日、日根野は借りた金を返す用立てがついたので、礼品として実に見事な大鯛も持参して金を返しに行った。   

その対面の折り、如水は土産物の大鯛を見て、
「これはみごとな大鯛。家中の者たちも喜びましょう。」と言い、すぐに家臣を呼びつけ、これを三枚におろせとか、頭の部分はこうしてああしろとか、この骨つきの部分を使って吸い物を作れとか、肉で刺身にしてああだのこうだのと、あれこれとやかく本当にこと細かく指図し、最後に、
「その料理を客人にもまいらせ、わしにも忘れずにくれよ。」と言った。

 秀吉の重臣中の重鎮の大名で、財貨の蓄えの多いことで有名な黒田如水ほどの人物が、その鯛を一つ残さず無駄なく食べ尽くすような念の入れようなのだ。「わしにもくれよ。」と言ったくらいだから、
「黒田殿のケチっぷりは本当のようじゃ。これは早く金を返したほうがよい。」と日根野は思い、すぐさま如水の面前に借りた金を丁寧に並べて、平身低頭しながら以前のお礼を述べて差し出したのであった。
 
 しかし如水は全然受け取らない。

「あの金は、はじめから貴殿に差し上げるつもりであった。わしが常日頃から倹約するのは、あのような時に皆々に役に立ちたいと思うからなのだ。」と、澄ました顔で平然と言った。

 日根野は自分の卑しい心根を恥じ、如水の心がけに感心したという。

 古今東西、見栄え・風評などで金持ちに思えたり、実際にそのように見えることも多いが、本物の金持ちというのは目的意識をしっかり持って蓄財に励み、しかし使うべきところでは、大抵の場合は出し惜しみをすることなく大枚をはたいているものなのである。

 欲望にまみれて金集めに狂奔して喜んでいる金持ちとは、雲泥の差であるといったところであろう。
 
 成り金の金持ちは、やがて凋落していつのまにかいなくなっていることが多いが、本物の金持ちはそうではないのである。

 時運があるのも、それは勿論そうなのであるが、普段の心がけが違うからであろう。


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【2009/12/26 10:42】 | Ⅱ 賤ヶ岳の衝撃
Ⅰ 賤ヶ岳の衝撃

 さて、秀吉は羽柴勢の主力部隊を近江の中尾山から美濃大垣城の周辺に移動し、自ら軍勢を率いて織田信孝の籠城する岐阜城に兵馬を向けた。

この情報を素早く探知した柴田方の佐久間盛政は、千載一遇の好機到来とばかりに出撃を主張する。

確かに、主力部隊の展開していない防衛陣地など、近現代の海軍に例えれば空母や戦艦が存在しない機動部隊のようなものなのだ、必ずや攻撃を仕掛ければイチコロに滅ぼせるのである。

 しかし、柴田勝家は織田信長が太鼓判を押したほどの師団長レベルの武将だ。勇猛なばかりではなく、知略もある。謀臣もいる。勝家もその幕僚たちも羽柴勢の不可解な軍事行動をいぶかしく思い、自重して全く動かない。
 
 佐久間盛政は何度となく勝家に願い出て、あくまでも出撃を言い張り、きかない。
まるで口うるさい小姑のようだ、ぐちぐちねちねちと大げさに騒ぎ立て、諸将も巻き込んでさかんに扇動することまでする。本当にうるさい。
 勝家はその度に思案して考え込んでいたのであるが、しかし慎重に過ぎると将兵の士気が低下してしまうことも事実なのだ、それを憂慮したのであろう、不安を抱きながらも、ついに折れてしまったのである。

勝家は慎重な面持ちで、
「敵の砦を占拠したら、ただちに引き上げてくるのじゃぞ!」と佐久間に厳命し、何度となく念を押して出撃を許した。

はたして、佐久間は一万五千の軍勢を率いて意気揚々と出陣し、羽柴方の中川清秀の守備する大岩山砦を強襲、熾烈な波状攻撃を何度となく繰り返し、たちまちにして砦を陥落させ、敵将の中川清秀も首尾よく討ち取った。


 ところが、幸先の良い戦勝に酔いしれたのか、佐久間勢は引き上げるどころか敵中深く侵入し、賤ヶ岳砦付近にまで軍旗を進めて全然動かない。
引き上げの準備をするどころか、逆に敵の他の砦を狙い澄まして今にも攻撃を仕掛けそうな勢いなのだ。
 
 勝家はこの事態にぼう然とし、早急に何度となく急使をやって引き上げを命じるのだが、佐久間は全然聞き入れない。
「わしにしわ腹を切らせるつもりか!あほうな盛政め!」と吐きすて、おそらくは床机を何度も蹴り飛ばして憤激したことであろうが、しかしどうすることもできない。



 ここで私見になるが、佐久間盛政は勝家の甥で、猛将で名の通った人物である。
盛政は少し知恵の足りない猪武者との定評もあるが、しかし盛政はこの時、秀吉の主力部隊が近江に舞い戻って来るまでに、いくらなんでも早くとも二・三日はかかると踏んでいたのである。

 この考え方は、当時の常識・良識なのだ。

 秀吉の所在する美濃の大垣城付近から、佐久間盛政の軍勢が展開する近江の賤ヶ岳までの距離は、約十三里。
 一理は約3、93kmであるから、およそ51km以上も離れていたことになる。
しかも、秀吉の主力部隊は約二万人もいたのだ。

こんな膨大な人数が、道の狭い山道のような美濃街道を通過して引き返すとなると、どう考えても一日や二日どころでは済まされないはずであろう。
 
 また、美濃岐阜城の織田信孝が撤退していく羽柴勢を背後から急追撃する可能性も十分にあったから、秀吉はそれに対する備えをしながら後退しなければならない。撤収しながらの迅速な軍事行動は実に難しいのである。

 したがって佐久間盛政の思案には、ある程度は頷けるのだ。

 おそらくは、この勢いに乗じて敵の他の砦を二・三攻め落とし、そこに強固な防衛陣地を構築して舞い戻って来る秀吉の主力部隊に備えるつもりでいたのであろう。

「勝家め、弱気になりおって。もうしばらくは黙って我が軍の働きぶりを見学しておれ!」と、言わんばかりの盛政であったろう。



 まさか、わずか六時間足らずで秀吉が引きかえしてこようとは、全く知るよしもない佐久間盛政であった。

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【2009/12/23 01:03】 | 未分類
Ⅱ 織田家分裂



 こうして、柴田勝家は怒気を含みながら日々を悶々と過ごし、大雪を恨む毎日を送っていたのであるが、刻々と推移する戦局の戦略的不利を悟り、ついに雪どけを待たずしての出撃を決意する。

将士を叱咤激励して積雪をかきわけさせ、何度となく払いのけて、凍てつく氷雪を打ち砕きながら進路を確保し、勝家は窮陰酷寒の三月に出陣を強行し、大雪を踏み越えて難路を進軍したのである。
 
これはまさしく男の妄執であったろう。憎悪と野望心に燃える男の執念は、なりふりかまわずどんなことでもする。

 そして、柴田勝家は諸将を率いて越前から近江に進出し、その地の中尾山付近で秀吉の軍勢と対峙することになった。
 
 柴田勝家は織田家屈指の猛将だ。
 
 勝家の出馬を伝え聞いた美濃岐阜城の織田信孝が渡りに船とばかりに再び叛旗を翻し、北伊勢で羽柴勢と交戦中の滝川一益も勇気百倍とばかりに頑強に抵抗する。
 
 近江の中尾山周辺では両陣営ともに複数の城砦を構築し始め、双方ともに相手の出方をうかがい、やがて戦線は泥沼のこう着状態に陥る。
城砦戦とは、防衛陣に拠って相手を威圧する戦術で、先に手を出した方が分が悪いのである。

 
 ここで焦りを覚えたのは秀吉だ。
 
 柴田勝家はなんといっても織田家の宿老筆頭格だったのであり、織田家の武将たちの信頼もいまだに篤い。
実際、秀吉の大親友の前田利家が柴田に味方して出陣している。前田利家は情勢上やむを得なかったという観もあるが、しかし前田利家も、秀吉に肩入れをする丹羽長秀や池田恒興、森長可などの織田家の宿将たちも、もともとは秀吉の大先輩だった人物なのである。だから、厳密にいえば現段階では秀吉の配下ではなく、秀吉の与力のような曖昧な状態だったのだ。丹羽長秀などは柴田勝家と並ぶ織田家の宿老だったのだからなおさらだ。
 しかも、柴田勝家は千軍万馬の猛将であり、織田信長の右腕として辣腕を奮っていたといっても過言ではないほどの人物なのだ。
 泥沼の長期戦ともなれば、秀吉に味方する諸将の中で柴田方に寝返る者も出てくるに違いないのである。
 
 ここは秀吉にとって即戦即決を要求される実に厳しい正念場だったといってよいであろう。

 
 秀吉は、こうした睨み合いの最中での戦局の打開を期し、四月の初旬には中尾山付近に押さえの将兵を残し、本隊を率いて岐阜城を攻めるという名目で美濃の大垣城に入った。
 
 羽柴勢の主力部隊が近江を離れて美濃に集結したわけだから、これは近江中尾山における戦線を放棄したと疑われても全然おかしくない軍事行動なのだ。
この近江の戦線から撤退するかのような奇妙な軍事行動によって、秀吉に味方する将兵たちは激しく動揺し、特に近江の中尾山付近に残された中川清秀や高山右近、桑山重晴らの部隊の士気は著しく低下し、敗戦を見込んで逃亡する者が続出したと云われる。
桑山重晴などは後に展開される賤ヶ岳の戦いでは、諸書によれば賤ヶ岳砦を佐久間盛政の攻撃から死守して武功を挙げ、褒美として二万石に加増されたと伝わるが、しかし詳しく調べてみると佐久間盛政の攻撃に耐え切れないと予測して、持ち場を離れて賤ヶ岳砦を半ば放棄し、上司の丹羽長秀がそれを伝え聞いて驚き呆れ、自ら実地検分して恐ろしく激怒しているから、これは相当以上に士気が低かったのであろう。

近江に残る将兵たちはまさにすて駒・すて石にされたような状況下だったのであるが、しかし、これは秀吉一流の陽動作戦だったのである。

 秀吉は戦局を打開するため、美濃の岐阜城を攻める素振りを見せながら主力部隊を大垣城周辺に展開し、最前線の近江の中尾山から退くことによって柴田勢を誘い出そうとしたのである。

 
 少し余談を書くが、孫子の兵法にいう、「兵は詭道なり。」とは、敵をあざむく為に、それを知られないように水面下で策動し、露見を防ぐために場合によっては味方をもだまし切ることであるが、しかしこれは生死を賭けた戦争であればよく理解できるところであるが、最近はこの孫子の兵法論がブームのようで、書店などには企業の繁栄や商売の繁盛のためにこれを応用的に使えるように工夫して会社向けに解説した書籍を散見するようになった。
「孫子に学ぶ経営学」とか、「企業の繁栄は孫子にあり」とか、なんとかと、よく目にするのである。

 しかし春秋戦国時代の孫子(孫武)は、非常事態の有事の際に限って使用する戦略・戦術論を説いたのであり、これを今の現代日本の治世下において、しかも商売にあてはめた場合には逆に弊害も多く生まれるように思われる。

 そもそも軍隊とは有事の際において、現場サイドの指揮官は独断先行、即断即決が要求されるのである。
軍隊が非常に閉鎖的で非民主的なのは、戦闘とはスピードとパワー、そして素早い的確な判断力とそれにともなう行動力・実行力が必要とされるからである。その際に、いかに少ない損害で相手を打倒するか、その心得を説いたのが孫子の兵法なのだ。これは六韜や三略、尉繚子も司馬法も考え方は同じだ。

相手をあざむき、だまし、出し抜いて、時と場合によっては味方もだまして相手を打倒する手法よりも、最近の流行ではあるが、WINーWINの関係(お互いに利益を共有し、共に栄える)という考え方のほうが商売向きであるように思われる。


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【2009/12/20 01:11】 | 未分類
Ⅰ 織田家分裂

 1582年(天正10年)六月、織田信長は本能寺で横死し、羽柴秀吉が神業とでもいうべき神速の中国大返しで畿内に突入し、明智光秀を山崎の戦いにおいて熾烈な大激戦の末に打ち破って主君の弔い合戦をみごと完遂した。

そしてその年の十一月、秀吉は大動員令を下し、大軍を率いて近江の長浜城に押し寄せて城主の柴田勝豊を降伏させている。
一説によれば、秀吉は調略「相手に利害を説いて説得し、味方にすること。」を用いて柴田勝豊を篭絡したというが、しかしこれは明らかに軍事力を見せつけてものをいわせた脅迫であったろう。
しょせんは無駄な抵抗だったのだから、勝豊はソロバンをはじくように損得勘定して開城したのであろう。

だいたい、武士の忠義であるとか、義烈などというものは鎌倉時代はまだましなほうで、南北朝の争乱期から室町時代になると建前のように成り果ててしまっている。この時代の戦闘の様相を詳しく調べていて実に驚かされるのは、先陣を切って敵勢に突入していき、そのまま寝返って投降していくようなケースなどザラにあったのだ。
戦国時代になるとこれが少し持ち直し、江戸時代には儒教的な倫理観や朱子学の影響で徹底されるようになるが、しかし江戸時代は戦争がほとんど無かった時代なのだから、こんなことは証明しようがないのである。

後年の幕末期の鳥羽・伏見の戦いでは、幕臣たちがポロポロと官軍に寝返っているし、戦国時代の藤堂高虎を藩祖とする藤堂家などは、「忠臣の手本」と讃えられていたにも関わらず、もっともハレンチな裏切り方をしている。  
 
 歴史上の人物の中には信義・忠義を重んじ、誠実で心がけの実に見事な人たちも確かにいる。

鎌倉時代の畠山重忠、南北朝の楠木一族、室町初期の細川頼之(足利幕府の礎を築いた人物)、戦国では本多忠勝、立花宗茂。しかしこれは稀なケースだったから有名になったといってよいのかもしれない。
昔に限ったことではなく、今の現代においても、我欲・面従腹背の克服は世間一般の普通の人々にはなかなか難しいのである。

 
 
 さて、そして翌年の初冬、秀吉は織田信雄、蒲生氏郷らに命じて北伊勢に向かわせて伊勢長嶋城に拠る滝川一益を厳重に攻囲させる一方、秀吉自らは本隊を率いて美濃に兵馬を進め、岐阜城の織田信孝を急襲してこれを降伏させている。

 私見になるが、戦争には必ず大義名分が必要なのであるが、そもそもこの秀吉の軍事行動は伊勢国を中心とする中小豪族たちの内紛が原因だ。 
 滝川一益の与力大名らの中に秀吉サイドに寝返る者あり、その裏切りを知った滝川サイドの武将が寝返った者の城を奪い返したりと、滝川一益の足元は乱れに乱れ、伊勢は乱麻の状態になり果てた。

 滝川一益の諸豪族に対する統率力にも問題があったのであろうが、戦国の中小豪族らは狡猾でとても利にさとい。義理もヘチマもあったものではない。
秀吉はこの内紛に乗じて伊勢の中小豪族たちを上手に宣撫し、味方にし、彼らを滝川の勢力圏から守るという名目で滝川征伐に踏み切ったのであるが、反秀吉党の盟主である柴田勝家が越前の深い雪に阻まれ、容易に動けないことにつけこんでの軍事行動であったことは言うまでもない。

 柴田勝家はさぞかしじたんだ踏んで悔しがったに違いないが、脳天から火を噴くほどにいきり立ち、憤激したろう。 美濃の岐阜城には織田家当主の三法師がいるのだ。

 秀吉のほうにも大儀名分があったとはいえ、仰ぎ奉る主君の所在する岐阜城に兵馬を向けたわけで、これは主家簒奪と見られても全然おかしくない行動なのだ。

 柴田勝家はあまり評判の良くない武将であるが、彼の生涯を通観するとまことに純朴であり、忠義心に厚く、義理がたくて誠実な一面も多い。典型的な頑固な鎌倉武士みたいな人物である。
主家を軽んじるような秀吉の行為に憤慨し、
「道義を知らぬ、成り上がり者の逆臣めが!」と、吐きすてるように言っていたに違いないのである。

また、正々堂々と争覇戦を挑まない、どこまでもこざかしい秀吉を侮蔑したことであろう。

 
 
 この信長亡き後の羽柴秀吉・柴田勝家を中心とする織田家の権力闘争劇を書いていて、
 私の恩師の言葉で、
「論理は論理によってひっくり返される。だから、いくら議論しても、思惑の絡んだ議論であればなおさら喧々ガクガクとなって、まるで埒があかなくなることがよくある。」というのを今になって思い出した。


「大儀名分」であるとか、「正論」などというものはシップ薬と同じで、つけようと思えばどこにでもペタペタとつけられるのである。


 
 政治権力者の思惑の絡んだ大儀名分ほど危険なものはない。これは今の現代も同じである。

 
 観応の擾乱、南北朝の争乱、応仁の大乱、そしてあの無惨な大敗北に終わった大東亜戦争、いづれにおいても、庶民は塗炭の苦しみを強いられている。


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【2009/12/14 10:21】 | 未分類
コラム NHK大河ドラマ天地人 終章 直江山城守兼続

 

何に関する書物で、著者が誰でいつ頃に読んだ本だったのか忘れてしまったが、その中にあった興味深い言葉で、
「物事に事実など、全く無いに等しい。物事には、いろいろな物の見方、様々な考え方が存在するだけなのである。」といった感じの文言であったように記憶している。

何となく哲学的な言い回しであるが、事実といっても人によって感じ方が異なるだろうし、物事の見方・考え方も人によりけりで様々なのだから、何事も事実であると断定して結論づけて終わらせてしまうのはいかがなものか、といったところであろう。
 今回の大河ドラマは、まさにその文言を彷彿と思い出させられる感慨深いストーリーであった。

 私の独断と偏見によるドラマの感想をいえば、ドラマの概要を説明する冒頭のナレーションの部分で、
<「~~~。←(この説明の部分)どうする?兼続!」>には史実的に偏見があって毎回のごとく不満であったし、直江兼続の人物像が陽気にすぎてなんとなくブレていたような気がするし(寡黙で重厚、実に威厳のある人物だったようである。)、熱烈な大ファンの真田昌幸公が土豪時代の蜂須賀小六みたいだったし、徳川家康にいたってはヤクザの大親分のような感じで、思慮深くて重厚な家康像とは大きくかけ離れていた(松方さんのヤクザシリーズは大好きなので、その影響なのかもしれないが)ように思われる。

このような私的見解によって、ドラマから史実をひもとくことは茶番なことかもしれないが、しかし、ドラマは主観的な既成概念や固定観念をぶち壊すのにもってこいの良薬のようなものなのかもしれない。

放映される映像を見ていて、
「うん?なんだあれは。そんなはずはないだろう。」と思いながらも、後で気になって諸書を丹念に調べ上げては再考を繰り返し、推敲を重ねながらいつのまにか深い思索にひたって、
「もしかしたら、このようなことだったのかもしれない。」と、新たな発想に恵まれる機会が多くなって新解釈の可能性も生まれてくるのである。
 私事で恐縮だが、明智光秀の謀反の動機などにいたっては、いまだにしつこく頭から離れないので困っているほどだ。
ある時に、ふと、謀反の動機について考えている自分に気がついて嫌になってしまうことがあるほどなのだ。永遠に答えが出ないとわかっていてもつい考えてしまうのだから、これは宿命的な謎解きのようで、本当にきりがないのである。



 
 直江兼続は、「朝日将軍」で有名な源(木曽)義仲の右腕として辣腕を奮った樋口兼光の末裔であると云われる。

その一族は戦国時代の頃は零落して帰農していたようであるが、兼続の幼少期の頃に、上杉謙信が兼続を小姓として召し抱えて近習させたという説がある。
 小姓とは男色相手のことで、この蛮行は平安時代に僧侶や公家衆の間で流行し、中世の頃には武家社会にまで浸透して広がったようである。戦国時代の頃は武家社会においては一般的な慣習になっており、上杉謙信は不犯を貫き通して女性をいっさい近づけなかったと云われるが、男色は愛好したという説があるから、もしかしたら兼続の上杉家に対する純朴で忠良な忠誠心は、こんなところでも薫陶されて育まれたのかもしれない。

 
 直江兼続は逸話の多い人である。こんな話しがある。

 上杉の家中の者が、無礼をはたらいたということで家来を手討ちにした。
 
 これは慶長二年の頃の出来事であったというから、戦国の荒々しい気質がまだ濃厚に残っていたのであろうが、その家来の一族たちはあまりの突然の事態に憤懣やるせないので直江兼続に直訴したのである。 
兼続がその真相を究明したところ、無理な手討ちであると判明したので、その一族たちに白銀二十枚をあてがってやるのだが、その者共は全然納得しない。
「本人を生前の通りにして、生かして返して頂きたい。」と頑強に言い張る。
 
 兼続は得心のいくように順々と諭すのであるが、全く聞く耳を持たないので、まるで埒があかない。

「その方どもの言い分、よくわかった。ならば行って取り返してくるがよい。わしが閻魔大王に添え状をつけてやるからな。」と兼続は静かな口調で言って、封書を用意し、その場でつらつらと手紙を書き始めた。

 
なにがしと申す者、誤まって貴地に送り申し候。
 
ついては迎えのため、一族の者三人をさしつかわし候間、早急におん返し賜るべく候。恐惶謹言。
 
 慶長二年二月七日
                                     直江山城守兼続
 閻魔大王冥官披露

 
 この添え状を丁寧に封書につつみ込み、それを紐のついた袋に入れて一人の首にかけさせ、三人共にことごとく首をはねてしまったという。

 随分と乱暴な話しのようにも思えるが、乱世に生きる快男子・直江兼続の真骨頂といってよいであろう。
 
 理屈抜きで一刀両断にしてしまうところ、爽快感なきを得ない逸話なのである。


 
 元和五年(1619年)十二月十九日、兼続は江戸で病没している。享年六十歳。

 世上ではその死を惜しんで人々が悲嘆に暮れたと伝わるが、おそらくは景勝がもっとも深く悲しみ、万感胸に迫って泣いたことであろう。
 時の幕府は銀五十枚を下賜してその霊を弔ったという。


 
 
 直江兼続は乱世であれば最も理想的な参謀長クラス、治世においては民政家としての理想的な知事クラスであったろう。
 
 しかし、それ以上の器量はなかったのではないかと思われる。
 

著者HP http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/
メールアドレス hokenpuro@yahoo.co.jp 
 

テーマ:歴史小説 - ジャンル:小説・文学

【2009/12/03 15:12】 | 未分類
不如帰 ~戦国武将の幻影~


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