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Ⅲ 争覇 秀吉と家康


 さて、織田家の凡庸なおぼっちゃん育ちの御曹司であった信雄は、秀吉の羽振りの良さがどうしても気に入らない。しゃくにさわる。

「おやじの後継者は、あの猿ごときではない。このわしじゃ!」と、言わんばかりだ。


 一方、秀吉のほうはといえば、その権勢の磐石化を図る為に信雄に対して老練な謀略を仕掛け、信雄主従の内部分裂を誘発する方策に出る。
 心術の策略にたける秀吉は離間の策を用いて、信雄つきの家老らが秀吉に内通しているかのように見せかけた。

 この見せかけ方が本当に老獪で、いやらしいほどだ。腹芸も、ここまでやると腹黒い。


 秀吉はまず、信雄に使者を送り、
「貴殿に内々に話しておかなければならない重要な事があるので、まずはご老臣である津川玄蕃、浅井田宮丸、滝川三郎兵衛、岡田長門守をおつかわし願いたい。」と、信雄がもっとも頼りにしている家老ら四名を大坂に遣わすように伝える。

 この家老たちは信雄の重臣中の重鎮で、信雄の領地内に支城を与えられて織田家中をきりもりしている。
津川玄蕃は伊勢松島、浅井田宮丸は尾張中島郡、岡田長門守は尾州星崎、滝川三郎兵衛は伊賀上野を任されていた。その家老らすべてを秀吉が招いているのだ、
「ほう、よほどに大切なことに違いない。事前に俺に天下を譲る段取りでもするのであろう。猿め、やっとその気になったか、ずいぶんと気をもませおって。」と、信雄はすっかりそう思い込んで秀吉の元に遣わしたのであった。


 
 一方、秀吉はその家老らと対面した折りに、
「今後は、お前たちはわしに味方し、信雄殿は説得せい。戦国の習いじゃ、わかるであろう。信雄殿は右府様の大切な忘れ形見ゆえ、けっして粗略には扱うまいぞ、約束する!」と言ってその場で迫り、起請文を書くことまで強要する。

 これは書かざるを得ない。

 この頃の秀吉は二十有余州を支配する超大名になっている。その石高は五百万石をゆうにこえる。信雄の領地は伊賀・伊勢・尾張で、その石高は百万石に毛のはえた程度だ。これではどう考えても相撲にならない。万が一に戦うことにでもなったら、その家老らの所領も実に危うい。その全てを一瞬にしてコッパみじんに失ってしまう可能性のほうが高いのだ。

 また、幸いなことに秀吉は信雄に対して好意的で温情をかけてくれている。長いものに巻かれるという戦国の習いもある。
 
 即座に断われば、すぐさまその場で殺される危険性もあったのだ。

 しかたがないので書いた。


 こうして、信雄の家老たちは秀吉に味方をする誓約をし、信雄の説得役も引き受け、秀吉に起請文まで取られて帰って行くのであるが、しかし信雄を説得することなど、どだい無理な話しだったのだ。

 秀吉は以前、柴田征伐の折りに、
「いずれは三七殿(信雄)を主人と仰ぎ奉り、生涯に渡ってご奉公させていただきますぞ!」などと、まるで熨斗をつけて天下をそのまま進上いたしますといったような、調子のよいことをさんざん言ってあおり立てていたから、信雄のほうも言われるままに真に受けて、すっかりその気になっていたのだ。
 
 秀吉としては、柴田勝家の擁立する織田信孝との対抗上、信雄のことを政略的にしかたなしに担いでいただけであったのだが、ともかくも世間知らずのアホウな信雄は秀吉の言葉を信じていた。

だから信雄は、その約束を守るそぶりを全然見せないでいる秀吉にイライラしたし、焦慮したし、しまいには憎悪するまでになったのだ。

そのことを秀吉は十分に知っていたし、信雄の家老たちも、もちろん分かっている。

 だから、これは言えない。家老らは困って途方に暮れたろう。

「羽柴に臣従することが御家のため、御身のためでございます。」などと説いたところで、「うん、そうか。」と、素直に聞き入れるはずがない。
逆に猛り狂って激怒するであろうし、最悪の場合、秀吉に内通したと疑われて殺される危険性があるのだ。

しかしだからといって、黙殺を決め込んで黙秘にしておくわけにもいかない。秀吉に起請文を取られているからだ。
後日、秀吉から信雄にその文面を知らされたりしたら、凡庸で直情径行の信雄に裏切ったと疑われて誅殺される恐れがある。

 ここのところが秀吉のずる賢さであり、実に陰湿で狡猾だ。

 どっちみちこの家老らの運命は、信雄の説得に失敗して殺されるか、秀吉に籠絡されて内通して帰ってきたと疑われて誅殺されるか、または、黙秘に耐えられなくなった者がいち早く他の家老らを出し抜き、まっさきに信雄にことのしだいを注進し、信雄の歓心を買って身の安全を図るしかない。

ようするに、秀吉は事前にこれら全てをきれいに見通して、信雄の手足ともいえる家老たちを削いだわけである。



 さて、四人の家老のうちの一人、滝川三郎兵衛(滝川雄利・滝川一益とは別系統の一族)が、早々と注進に走り、信雄の前で洗いざらい全部きれいにぶちまけた。
もちろん、
「悪らつな猿めが、我ら老臣に裏切りを強要いたしましたが、しかしわたくしは生きて信雄様の元に帰って参り、真実を申し上げたほうがよいと考え、窮地を脱する思いで起請文も書きましたが、もとよりこの滝川、二心などございません。」といったような感じの、自分にとって都合のよいように話したのであろう。

ともあれ、信雄は感激して、
「そなたの忠臣ぶり、まさしく忠義無類、実にみごとじゃ!ありがたく思うぞ!」と感動して涙ながらに言い、その他の家老らに対しては裏切りを信じて疑わず、憤慨していきり立った。


そして後日、津川玄蕃と浅井田宮丸は登城した際に信雄から無理難題をふっかけられ、強引に切腹を迫られて自害し、岡田長門守は相当の豪勇の者であったが、やはり登城した際にだまし討ちに遭って土方勘兵衛雄久という勇士に討ち取られてしまった。


著者HP http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/
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テーマ:歴史小説 - ジャンル:小説・文学

【2010/01/30 06:31】 | 未分類
Ⅱ 争覇 秀吉と家康


 
 また、
「織田家が親会社で、徳川家はその子会社のようなもの、家康はそこの社長さんだった。」といった見解なのであるが、家康が信長に臣下の礼をとって服属を誓ったことなどない。信長から封地を拝領したこともないのだ。

徳川家はどこまでも織田家の同盟国だったのであり、その領地は家康が信長の協力を得て、徳川家の総力を投入して自ら切り取ったのであり、その後に信長から領有権を認めてもらっただけである。

だいいち、親会社が倒産すれば、その子会社も何らかの損害を被ることになるが、織田家が滅亡したところで徳川家は何ら損害を被ることはないのである。その逆もしかり。


 
 秀吉は柴田征伐の後に、家康から戦勝の祝辞を受け取っているが、その使者を務めた石川数正が大感激するほどの丁重なもてなしをしており、その後には答礼の使者を浜松に送って不動国行の名刀を贈り、家康の歓心を買うようなことまでしている。

また、その後には公家衆に働きかけて家康の従三位参議の官位奏上を朝廷に願い出ている。秀吉は従四位下参議だったのだから、これは自分よりも高い官位を奏上していたことになるのである。

そして秀吉はこの頃に、家康に献上するかのように日向産の巣鷹を贈ることまでしているから、これらは家康のご機嫌を取り結ぶ為の政略的な手段であったといってよい。秀吉がいかに徳川家康のことを恐れていたかがよく分かるのである。 

 本社の有力な社長候補が、その子会社の社長を恐れ忌むことなど茶番に等しいであろう。秀吉は明らかに徳川家を難敵として大問題視していたのであり、信長の頃のように家康の真摯な協力を取りつけられるのかどうかで四苦八苦しているのである。

 
 諸説が登場することは大変に喜ばしいことであり、戦国史をより良く楽しめてまことに結構なことなのであるが、時として、宣伝上手な売らんが為の時代考証のあまい諸書が氾濫し、読者層を混乱させるのでやっかいなところである。

付け加えると、最近は戦国武将のことをおもしろおかしく書きたてる諸書を散見するが、しかし歴史上の人物たちには反論する余地がない。
だから、我々は検事や弁護士ではなく、巷の噂に流されることもなく、冷静に判事のような気持ちになって判断を下すことが肝要であろう。

それが、先人に対する礼儀であり、愛情であると私は思うのである。


 
 さて、少しかたい話しが続いたので、ここでおもしろい逸話をご紹介したい。

 後年、秀吉は天下人になって日本国に君臨することになるが、1598年(慶長三年)の八月十八日に病没する。その臨終の数日前の出来事。

 秀吉が病床にふせってうとうととまどろんでいると、突然、その夢枕に信長が立ち現れて、
「藤吉郎、もうよい時分であろう。こちらに参れ。」と物静かにささやいて言う。
秀吉は仰天して、
「今しばらくのご猶予を!明智を討伐してご奉公もいたしました!」と思わず叫び、何度となくその場で土下座をくり返し、その言葉を涙声で復唱する。
 信長は鋭い眼光で睨みつけ、
「いや、そうはいかん。わしの一族のこと、まことにふびんである。ごちゃこちゃ言わずに参れ!」と、凄まじい腕力で秀吉のむなぐらをぐわっとつかみ、秀吉を御世の国にひっぱり込もうとする。
 
 秀吉は戦慄し、懸命に抵抗してもがき苦しんではのたうちまわる。
 恐怖のあまり、秀吉ははっと目覚めたのであるが、なんと、我に返ったその場所は、寝床から飛び出して数メートルも行ったところであった。
 秀吉はその場にすっかり座り込んでぼう然とし、側近の者たちが何を言っても放心したままであったという。

 むろん、この話しは創作であろうと思われるが、しかし、秀吉の心の奥底に潜むトラウマと化したしょく罪の念を象徴的に物語っているようで、とても興味深い逸話である。


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【2010/01/26 05:32】 | 未分類
Ⅰ 争覇 秀吉と家康


 織田信雄は主家をないがしろにする秀吉に恨みを抱くようになり、しだいに憎悪するまでになっていた。

また、この信雄と同じような感覚・感情は、秀吉に従う織田家の旧臣たちにも少なからずあったようである。

 秀吉がまだ足軽に毛のはえた程度の身分の低い頃から温情をかけ、快く助けてもやり、陰にひなたに頼もしく支え続けてくれた丹羽長秀、織田家の勇将で名高い細川忠興、池田恒興、信長のお気に入りで雄略の才を期待され、その娘婿でもあった蒲生氏郷、皆々が秀吉に対して心平らかではなかったと伝えられている。
 
 
 秀吉の巧妙な主家乗っ取りに限りなく近い行為をにがにがしく思い、その事態を憂慮する武将たちもたくさんいたのである。



 ここで私見になるが、近年の諸説の中に、織田家の内部構造を現代の株式会社のようにたとえて、信長が社長、家康はその子会社の社長とし、羽柴秀吉をはじめ柴田勝家、明智光秀、丹羽長秀、滝川一益といった師団長クラスの武将たちを自社株(彼らの支持基盤である中小豪族のことを喩えている。)を保有する取締役で、彼らは派遣されたその地で支店長のような役目を果たしていたのだという仮説がある。

そして信長が突然横死し、その後の秀吉の実にめざましい働きぶりや、彼の得意な根回し戦術などが功を奏し、またたく間に他の師団長クラスの武将たちの保有株(中小豪族らの人気、その地での支持基盤など)を軍事力にものをいわせて強奪し、卓抜な政略を使って買収して秀吉の持ち株が恐るべきスピードで増大し、その結果として秀吉がついに信長に代わって社長になったというような見解なのであるが、しかしこれは実に不可解な解説であるように思われる。

 この説は戦国ブームの読者層を意識した、売らんが為の迎合主義マルダシの論法であるように感じられ、江戸時代の軍学者や講釈師と大差のない、現代版の人気取りの手法そのもののように思われる。


 当時の武家社会の内部構造と、現代の会社のシステムとでは大きな相違点があるからだ。

 まず第一に、会社の社員であれば仕事上の経費は認められ、会社がその費用を負担することになるが、織田家の武将らはほとんどすべてを自前で負担するのである。

 織田家の武将たちは信長から所領を安堵され、封地を拝領して身代を増大させていくのであるが、その反面、出陣の費用や戦時の補給物資、家臣たちの俸禄から領国経営にかかる費用まで、そのほとんどすべてを自腹できりもりするのである。
これは織田家に限ったことではない。その他の戦国大名たちもほとんど似たりよったりなのである。

 そして第二に、会社が倒産すればその役員・社員は路頭に迷うか、ハローワークなどを利用しながら仕事探しに奔走することになるが、織田家の武将たちは主家探しに骨を折るぐらいで、べつに食うに困ることはない。
彼らはどこまでも自分の所領を持っている在地豪族なのであり、織田家が滅んだとしても、他に頼りがいのある主家を探し選んで服属を誓えば、現存の勢力を保持することは十分に可能なのだ。

 第三に、会社の社員には上司・部下の明確な区別があるが、これは戦国時代の当時の寄親・寄子とは意味合いが異なる。
社長の信長の命令による上下関係であることは間違いないが、しかしそれはその場限りの上下関係なのであって、永続性のあるものではない。所有する領地の大差はあっても、その間がらは全くの同僚なのである。

 
 そもそもこの論法は、当時の武家社会の実情・実態を無視し、現代版の資本主義的な価値観で判ぜられた見解であり、過度の功利主義・成果主義を追求して人をまるで物のように切り捨てていく現代の企業の姿を下剋上の世に見立て、下剋上容認主義ともいえる、秀吉を弁明するために生まれた手法であるように思われる。

 戦国時代の人々が、「下剋上の世の中って、本当に素晴らしいな。」と、ルンルンしていたとでも思っているのだろうか?

 不思議である。。。

 
 
 秀吉が明智を討ち、柴田を滅ぼしていく過程において、なんとなく秀吉の人気が急上昇しはじめ、それに呼応するかのように織田家の諸将をはじめとする中小豪族たちの支持層もたちまち増大し、その他の諸大名らも御輿を担ぐようにこぞって秀吉を応援しだしたので、秀吉は自然の成り行きで信長の後継者になったのだと言いたげな見解なのである。

 
これでは、秀吉による織田家の簒奪ぶりが意図的に粉飾され、違和感が全然なくなってしまう。


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【2010/01/23 07:20】 | 未分類
Ⅲ 秀吉の野望



さて、こうして秀吉は敵対する諸勢力を徹底的に掃討し、瞬く間に信長の後継者としての地位を磐石なものにしていくのであるが、これを横目で黙々と眺めていた徳川家康の心境はどのようなものであったろうか。

 秀吉は抜け目なくも朝廷に働きかけて官位も徐々に獲得していき、天正十一年の頃には従四位参議にまでなっているのだ。

 
 卑しい草履取りの猿面の男が信長の彗眼にとまり、いつのまにか大抜擢されて将校にまで昇りつめ、浅井・朝倉連合軍との金ケ崎の撤退戦では共に協力し合って戦ったあの一武将が、今では四海をうかがうまでの大群雄に成長したのである。

 常に慎重・堅実地道を心がけてきた家康にとって、秀吉の驚異的なスピード出世劇は驚嘆すべきことであったろうし、秀吉のあまりにも見事な政略の才覚を伝え聞いて動揺の色も隠せなかったであろう。

腕を組んで、うなって考え込んでいたかもしれない。

 秀吉は柴田勝家を討滅した後、視野を全国にまで広げ、東は越後の上杉景勝と和親して融和策を図り、西は毛利家から吉川広家と毛利秀包とを人質として大坂に差し出させているぐらいの威勢のよさなのである。

 
 家康はともかくも重臣の石川数正を使者に立て、秀吉の元に送って戦勝の祝辞を述べさせている。


 
 ところで、ここで余談を書くが、秀吉の築いた大坂城は信長の構想した城なのではないかという説があるが、同感である。

 秀吉は柴田勝家を滅ぼした後に、摂津大坂の領主である池田信輝(勝入斎で有名。彼の母親は信長の乳母との説あり。池田家は元々は摂津ざむらいのようである。信輝の父親か、祖父の頃に尾張に移り住み、その後、大飛躍した信長から功績を認められて摂津を拝領したのである。信輝は山崎の戦いでは四千もの軍勢を率いて明智勢を撃破し、戦局を好転させたほどの勇将。)に頼み込んで信輝を美濃大垣城に移封し、築城の縄張りを黒田官兵衛に任せての大工事に着手している。

 これはあまりにも俊敏にすぎる決断・行動であり、すでに以前から大坂を本拠とする候補地と考えられていた節がある。
 
 信長は前々から征服すべき戦略目標に向かって居城を転々と移動しているし、大坂の地は西国のかなめで豊かに栄えていた重商地帯なのだ。信長の目にとまらないはずがない。

 秀吉は信長の弟子といってよいくらいの人物であるから、信長の手法を骨髄にしみわたるほどに体得していたであろうし、もしかしたら以前に信長から大坂の地の有用性を直接聞いていたのかもしれない。

 ちなみに、耶蘇会のバテレンであるフェローは本国への報告書の中で、大坂城の築城工事には三十余ヵ国の諸大名に手伝わせ、一日に三万人、多い時には六万人もの人員が動員されているとあるが、しかしこれは秀吉の威勢が全国に広がりはじめた天正十三年前後の頃のことであり、天正十二年前後の頃は秀吉の家中や仲の良い武将たち、付近の良民らだけを動かして手伝わせていたようである。

確かな史料がないのが残念ではあるが、秀吉が本拠を構えるための大築城工事なのだ、秀吉の歓心を買うために喜んで協力する武将たちも多かったに違いない。
大坂城の支城的な役割を担う和泉に中村孫平次(秀吉の播州遠征以来の股肱の侍大将。)、尼崎・池田には三好(羽柴)秀次、茨木に中川秀政、山城の槙島には一柳直末、そして大和に筒井順慶を配置しているから、おそらくはこの武将たちがもっとも尽力して協力したのであろう。


 
 さて、ともかくも秀吉は難攻不落の大坂城の築城工事を急がせ、信長の後継者たる覇者としての権勢を誇り、まるで天下人の如くふるまっていたのであるが、織田信雄が全然おもしろくない。

 「家臣のぶんざいで、わしをねじこみおる!」と、憤懣やるせない。

 織田信雄は側室の子だが、れっきとした信長の実子であり、身分ある大名の生まれだ。

 
 秀吉は出自の判然としない、卑しい土民ふぜいの生まれで、改正三河後風土記によれば秀吉が武家奉公する以前は、与助と名乗り、川でどじょうをすくい取って売っていたとあるぐらいなのだ。


 信雄にしてみれば、出自・素性・身分の上でも納得できず、しかも柴田征伐の折に秀吉は、
「勝利のあかつきには信雄様を主人と仰ぎ奉り、ご奉公させていただきますぞ!」などと、調子のよいことをさんざん言ってあおり立てていたから、信雄のほうもすっかりその気になっていたのだ。

 
 そんなわけだから、
「そろそろ俺にゆずってくれてもよい頃だろうに。」と、ヤキモキしながらイライラしているところで、いつのまにかおやじの後継者ヅラをして立ち振る舞っている秀吉に、好意を持てようはずもなかった。


 信雄の心中は、不満ダラケであった。


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【2010/01/19 05:23】 | 未分類
Ⅱ 秀吉の野望


 秀吉は越前北ノ庄城を落城させ、羽柴大反対党の旗頭的な存在であった柴田勝家を滅ぼし、攻撃の矛先を勝家に加担した残党たちに向ける。

 滝川一益は難攻不落を誇る伊勢長嶋城に拠り、羽柴方の蒲生氏郷の激烈果敢な攻勢に堪え忍んでいたが、勝家の敗報がいつのまにかその城内に知れ渡り、城の将兵らの士気はみるみる低下し、とうとう籠城に耐えきれなくなって頭をさげて降伏した。

 秀吉は滝川一益を丁重にもてなし、越前の大野で知行五千石をあてがってやり、一益の愛好する茶の湯でもたしなみながら心静かに余生を送るように促しているが、しかし滝川一益のこれまでの数々の功績を想えば、織田信長が太鼓判を押したほどの師団長クラスの武将であった有為の逸材を隠居扱いにしてしまうのは実にもったいないような気がする。

 おそらく秀吉は、いずれは時期を見計らって一益を起用するつもりでいたのであろうし、ここで一益に温情的な配慮をほどこしておけば、秀吉に対して心平らかでない織田家の武将たちも少しは心がなごんでくるはずであろうと踏んでいたのかもしれない。秀吉には譜代の家臣がいなかったのだから、これくらいの用心は当然といえるであろう。


 
 さて、美濃においては、岐阜城の織田信孝が羽柴方の稲葉一鉄、織田信雄らに急襲され、大奮戦するも力及ばず、信雄の降伏勧告を受け入れて開城している。

 
 ところで、信孝と信雄とはご存じの通り、異腹ではあるが、織田信長の実子であり、織田家の血筋を引き継いだ兄弟である。

 信孝は岐阜城の開城の後、信雄から無理やり自害を強要されて切腹して果てるのであるが、信孝の残した辞世の句には、脅迫的に自刀を迫った信雄にではなくて、秀吉に対しての恨みつらみが記されている。


 
 昔より あるじをうつみの 浦なれば 報いを待てや 羽柴筑前


「うつみ」とは、尾張知多半島の内海のことだ。

織田信孝は岐阜城の開城の後に、この地にたどりついたところで信雄の使者に自害を迫られ、この句を詠じて自刀したと云われる。

 内海は野間という地と近接した場所で、その昔(平安時代の末期)に平治の乱で戦いに敗れた源義朝(源頼朝の父)が本拠地の東国を頼って落ち急ぐ途中、野間にさしかかり、この地の住人で、源氏累代の家人であった長田忠致父子をたずねて馬と食料を乞うために立ち寄ったところ、信用しきって促されるままに蒸し風呂に入り、その最中に丸腰の状態でいるところを討ち取られてしまったという因縁がある。

 秀吉が密かに信孝の殺害を信雄に指令し、信孝を切腹に追い込んだことは容易に推察できることなのである。

秀吉は背後で信雄を操り、見るも無惨な兄弟相克をさせて織田一族の勢力を排除したのだ。


 秀吉びいきの方々(私も実はそうなのだが。)には耳の痛い話しであるが、秀吉は取り立ての家臣の分際でありながら、明らかに主家である織田家の纂奪を謀っている。

織田信孝の自害もそうだが、三法師などにいたっては何処へやら、その後の消息はまことに不明確であり、実にあいまいであり、後年の関ケ原役の前哨戦で、チョイト顔を出すぐらいである。

 三法師は、歴然たる織田家の当主であったはずなのである。


 江戸時代の幕府の御用学者でさえも、秀吉の遠大な謀略や、壮大な偉業の前に全く目がくらみ、三法師については詳しく記述していない。いつのまにか忘れ去られている。
今の現代においても、三法師が後年の織田秀信だとすぐに分かる人は、かなりの戦国マニアであろう。

 羽柴秀吉は自然の流れと思えるほどに、本当に巧み極まりない手法で織田家を纂奪しているのである。

 
 しかし、これも時代の罪であったともいえるであろう。
 
戦国の世とは、弱肉強食の風潮が実に濃厚に具現するという時代だったのである。
 
氏素性の知れない松永久秀は三好家の家宰にまで出世し、その一方で主筋の諸大名家をことごとく滅ぼしている。
 
斎藤道三が土岐氏の家督争いに乗じて国を奪っている。道三は油売りから身を立てたと云われるが、近年の諸説によればこれは疑問視されている。

 
松永久秀や斎藤道三、そして秀吉も明智光秀も、前半生が謎の人物であってもたぐい稀な実力があり、野心もあり、冷酷非情な現実主義者に徹することができれば、運が良ければいくらでも出世できる時代だったのである。

 
しかし、実力のない者は必ずといってよいほどに倒されてしまう、実に冷酷的で厳しい時代であった。

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【2010/01/17 00:09】 | 未分類
Ⅰ 秀吉の野望


羽柴秀吉と柴田勝家との熾烈な争覇戦、両者の雌雄を決っする天王山となった賤ヶ岳の戦いは、これは近年の諸説によれば、秀吉の率いる商人系武士団と勝家の擁する農業系武士団との決戦であったという見解がある。

そしてこの織田家の分裂騒動が、当時の戦国大名たちが農業系の武士から商人系の武士へと転換していくターニングポイントであったとも解説しているが、同感である。

 農民系の武士とは、兵士であると同時に農業に従事している軍人のことで、その典型として実に有名なのが四国土佐の長曾我部家の一領具足だ。
農作業の時には、田畑のあぜ道付近に槍や具足などを置いておいて、有事の際はササッと武装してすっ飛んで行くのである。

 商人系の武士とは兵農の分離した専業の軍人のことである。
 説明すると長くなりそうで恐縮であるが、かなり以前に別の章で詳しく書いているが当時の寺社勢力(比叡山延暦寺や本願寺など)の僧兵らが、なんであんなに猛烈に強かったのかというと、それは傭兵のような専業の軍人だったからだ。

 僧兵といえば、お坊さんや修行僧などが有事の際に武装して戦っている姿をイメージしがちであるが、実はそうではない。
寺社勢力に金銀などで雇われた専業の武士たちが僧徒の姿をして戦っていたのである。農業生産にはほとんど従事せず、日々戦闘訓練に励んでいる戦争の専門家なのだから、これは猛烈に強い。

 寺社勢力は朝廷の公家衆と結んで門前市をはじめとする「座」の特権をにぎっていたから、商いによる経済市場から濡れ手に粟のように金銀がざくざくと集まってくる。
 
 「座」とは同業者組合のことだが、これは現代の同業者組合とは意味合いが全然違う。
当時は、これに加入しないと商いができない仕組みになっていて、未加入のまま商売を続ければしつこい嫌がらせに遭い、時には殺されることもあったというから、この時代は商いも命がけだ。

この組合制度は、物価を自由に操ることができたと云われるくらいに実に独占的であり、寡占化された市場なのだから「座」の特権をにぎっている寺社勢力は恐ろしく儲かるのだ。

 だから、寺社勢力はその潤沢な資金をふんだんに使って専業軍人を養うことができたのである。

 
 また、当時の寺社勢力は実に強勢で、古来の朝廷から認められていた自治権を主張してやまなかったから、国主に対して租税を納めることもほとんどない。現代風にいえば脱税天国といったところか。たちまちにして金銀がたまるシステムになっていたのである。
したがって、これは一種の独立王国のようなもので、徳川家康はその昔に三河で一向衆と激烈に戦って弾圧し、薩摩の島津、越後の上杉、関東の北条などは一向宗の禁令を強いているほどだ。

 
 当時の寺社勢力は、資金力の豊富な独立王国のようなもので、しかも強力な武装集団だったのである。

 
 そして、その寺社勢力の資金力の源を鋭敏に嗅ぎとり、僧兵の実態を詳しく研究し尽くし、それをヒントにいち早く大々的に応用してみせたのが、織田信長だったのだ。

 織田信長は、関所を撤廃して商人たちを自由に往来させ(当時の領主・寺社はいたるところに関所を設け、通行税を取って荒稼ぎしていたのだ。)、楽市・楽座を断行して自由経済市場を発展させて重商都市を作り上げ、そこから課税して金銀を吸い上げて専業軍人を養うというシステムを開発したのである。
 
 これが信長流の兵農分離の方程式であり、いつでもどこでも戦える商人系の武士団の登場となるのである。
 
 織田信長の比叡山の焼き討ち、一向衆門徒の大虐殺は確かに善行とはいえないが、しかし、悪弊とでもいうべき寺社勢力・公家衆の既得権が経済の成長を妨げていたことも事実であり、寺社勢力が強力な武装集団となって戦国大名たちの国政を強烈に圧迫していたのであり、既得権益の上にあぐらをかいてのさばっている怪物、当時の誰もが手を焼いていた積弊と化したこの歪んだ社会システムに毅然とメスを入れ、まさに命がけで構造改革を断行したのが織田信長だったのだ。
 
 だから、信長はえらいのである。
 
 
 ちなみに、江戸時代になると士農工商という身分制度ができるが、その尖端を開いたのが信長なのである。
もっと詳しく調べる必要があるのかもしれないが、織田家の分裂騒ぎの頃がちょうどその身分制が確立されるまでの過渡期にあたっているように思われる。兵農分離から身分制度が生まれるまでのターニングポイントであったといっても過言ではないであろう。


 このような信長の重商主義を貫いて専業軍人を養うという手法は、織田家のそれなりの武将であれば気づいていて当然しかるべきことであり、後年の羽柴秀吉の港湾都市化政策、蒲生氏郷の重商都市化計画がそれを如実に証明している。
 柴田勝家もそれを十分に認識していたであろうと思うが、しかし勝家の主力とする支持基盤は北陸だったのだ。

 北陸地方といえば農作物の豊かな農業中心地帯であるから、どちらかといえば商業ではなくて、今の現代風にいえば日本の農作物の基幹産業たるメーカー側の方が適している。流通よりも生産を重視する政策のほうが効率がよい。

 したがって、早急な兵農分離など到底できるものではないし、旧態依然の兵農一致政策に頼らざるを得ない。

しかも、商業港湾都市も未発達であったから、貿易や流通による利得は期待できないのである。

 一方の秀吉は地の利に恵まれて早々と畿内の重商地帯を押さえていたから、資金力ははるかに豊富であったろうし、専業の武装集団でもあるから農繁期に関係なく年がら年中戦えるわけで、持久戦もめっぽう強い。

 
 諸史料によれば、柴田方の諸将は当初から士気が異常と思えるほどに低かったようである。

前田利家の賤ヶ岳での敵前逃亡に近い退却劇などはその最たるものであるが、しかし、利家は頭の中でソロバンをはじいて農業系武士団の限界を感じ取り、秀吉の率いる商業系武士団の将来性に賭けたのかもしれない。

 前田利家ほどの人物であれば、信長の手法を体得していたに違いないし、この選択は仕方がないところであったろう。


 
 柴田勝家の不運は、地の利に恵まれなかったことにあるのかもしれないが、しかし残念ながら、運の悪い者は英雄にはなれない。



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【2010/01/13 08:01】 | 未分類
Ⅲ 美女炎上


 さて、柴田勝家は本拠の北ノ庄城に辛くもたどりつき、すぐさま籠城の支度に取りかかり、複数の防衛陣を城外に構築して羽柴勢の来襲に備える。

 
 やがて、秀吉が膨大な軍勢を率いて北ノ庄に急迫して押し寄せ、柴田方の防衛陣地を難なく踏み潰して突破し、北ノ庄城は果てしなく黒みわたる大軍勢によって厳重に攻囲された。

 
 勝家は秀吉の降伏勧告を頑としてはねつけ、徹底交戦の構えをみせるが、しかし、しょせんは多勢に無勢、さすがの勝家も反抗を諦めて城を枕に自刀の覚悟となるのであるが、しかしこの最期の様相が実に豪快ですごい。

 勝家は家中の者たちを集め、今生の別れとて酒宴を催すのであるが、これが大変な大にぎわいであったらしく、宴席での声色や音曲の音色などが城外にまで響き渡り、これを聴いた羽柴方の者たちは、
「悲壮感が漂うどころか、ずいぶんと楽しそうではないか。柴田のおやじ様の最期にふさわしい、豪快なる前代未聞の末期の酒だな。」といってささやき合ったという。

 また、秀吉の咄衆であった大村由己はこの様相を、
「一族一家、しだいに、しだいに酌み流し(身分の順序に従って盃を与える)たるも、乱れ会ひ、入れ違へ(うちとけて、なごんできて、自然に各々の席が乱れてくるの意)、中ごろは思ひ指し(思い残すことのないように、以前から思いを寄せていた人と何度となく盃を酌み交わし)し、珍肴珍菓は、山の如く前に置く。
後には、上臈の姫公よりはじめて局々の女房たち、老婆、尼公にいたるまで、上中下をはばからず、若き妓女に酌を取らせ、一曲の歌、五段の舞、くりかえし、くりかえし、酔をつくす。」と、鮮明に描写している。

 今生の別れであったので、前後を忘れて酒を酌み交わし、かなり狂騒的になっていたのであろう。

 そして、その酒宴もやがて果てて後に、勝家は家臣たちの自刀を見とどけ、家中の子女らの介錯もすませた後に天守閣にのぼり、城を厳重に包囲する羽柴勢を眼下に見据えながら、
「後学にせよ!」と叫び、その場で割腹して五臓六腑を引きずりだし、家中の者の介錯でこの世を去っている。

 武士の作法では、落城の際には遺骸を残すことを恥じとするが、勝家はあらかじめ家臣に命じて爆薬まで用意させており、勝家の遺骸はその最期と同時に、天守閣もろとも吹っ飛んで消滅している。
 まさしく、武士の作法にならった潔い最期であったのである。


 余談になるが、以前、織田信長に反旗を翻した大和郡山の信貴山城主の松永久秀も、落城の最期の際には爆死を選んでいる。
 私は、信長は本能寺で爆死したのではないかと思う者であるが、当時の本能寺は深い堀に囲まれ、櫓や防護柵もあったと云われるから、あれは単なる寺ではなくて、城砦ではなかったかと思うのである。
だから、本能寺が城砦であったとすれば、明智光秀によって落城させられたことになるから、本能寺の落城の際に信長が武士の作法に従って爆死を選んだとしても不思議ではないのである。

 しかし、織田信長は破天荒な天才で、いたずら好きな人であったから、きちんとした作法や慣習に従ったかどうか、疑問の余地も残る。


 
 さて、勝家に再嫁していた国色無双といわれるお市の方は、夫に殉じる道を切望し、愛娘たちを残して自刀して果てている。

 
 お市が辞世の句として詠んだ歌は、

 
 さらぬだに 打ち寝るほども 夏の夜の 夢路を誘ふ ほととぎすかな 


 
 そして、勝家が返し詠んだ歌が、

 
 夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす 


 
 お市も戦国の女性だ。
 ほととぎすの鳴き声にねむりを誘われるかのように、その死に臨んであくまでも自然体を貫き通そうとしたのであろうし、柴田勝家の句には武士としての名を惜しむ気概、気骨さが感じられ、鎌倉武士の姿を髣髴と想い出させられる。


 
 ところで、お市の三人娘は密かに城を脱出して、秀吉の元に委ねられて無事に保護されている。

 この娘たちの脱出劇は、勝家サイドから内密に秀吉に連絡を取ったのか、秀吉のほうから話しがあったのか定かではないが、しかし、勝家夫妻は涙声をこわばらせて、とめどなく流れ落ちる涙を膝元にこぼしこぼししながら説得したのであろうし、その言葉にとまどい、うつむき、落涙し、泣きじゃくる娘たちの姿を想うとき、私は切ない感傷を覚える。


 戦国の世とは、本当に無情である。


 この娘たちの前半生は悲壮、実にはかない。


 実父(浅井長政)は母親の兄(信長)に殺され、その後、母子ともに権力闘争に巻き込まれ、母ははかなくも悲壮な自害。

 まだあどけない顔の少女たちが落城を二度までも経験し、その眼前で大炎上する城に、義父と母親を失っているのだ。

 もはや涙も枯れはてて、ただ沈うつに、その場でうつむくばかりであったであろう。


 
 あまりにもむごい現実であり、私にはこの少女たちをなぐさめ、いたわる適切な言葉がどうしても思いつかない。



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【2010/01/09 01:09】 | 未分類
Ⅱ 美女炎上

 ここで、前田利家にまつわる逸話をご紹介したい。
 
 亜相公御夜話(前田利家の言葉を筆録したと云われる伝記であるが、近年の研究では所々の部分的な記述については否定的な見解もある。)に、利家が側近の者に語った話しとして、
「人は、不運・悲運に遭ってはじめて、友の善し悪し、自分本来の心根が分かるものだ。
その昔、わしは十阿弥という者を斬って信長公に勘当され、その後は浪人のように過ごしていた頃などは、親しく交わっていたはずの友人の多くがいつのまにか遠ざかっていき、柴田勝家殿と森三左衛門可成殿のお二人だけが、度々に渡って温かい心づかいをしてくれ、ことあるごとに訪ねて参られて励ましてくれたものだ。
後年の小田原攻めの際も、わしが太閤殿下から御不興を被った時には、わしのところに親しく出入りし、わしも目をかけてやった者たちは、それを知るとすぐに疎遠となり、わしの悪口をいたるところで言いふらしたり、太閤殿下にざん言したりしていたそうな。
浅野長政や蒲生氏郷が、いろいろと世話をやいてくれて、太閤殿下にとりなしてくれたそうだが、人の心根・本性は、己自身が不運・悲運に沈んだ時にはじめてよく分かるものだ。
 そして、不運な境遇にある時は、心温まる気づかいをしてくれる人はまことに少ないが、しかし少ないながらも、そのような人物たちこそ、もっとも頼りになる者と思うべきである。
 しかし、どうゆうものか、不幸な境遇にあるとなぜか、ひがみが多くなってのう、情けないものよ。」と言ったという。

 この利家の言葉は実に含蓄に富み、現代の我々も大いに教訓とすべきところであろう。

 誠実で正直な人ならではの洞察眼である。

 また、不幸な境遇にある利家を心優しくかばい立てした面々が注目に値する。

 柴田勝家は義理がたい人、森三左衛門は人情の人、蒲生氏郷は律儀で篤実な人柄、浅野長政は誠実で実直な人物で有名だ。

 類は類を呼ぶのであろうし、前田利家公の性格がよくうかがい知れるのである。




 さて、秀吉は利家を説得して味方につけ、共に軍勢を率いて越前北ノ庄に向かうのであるが、川角太閤記によれば、利家の妻のまつ(後の芳春院)は、息子の孫四郎(利家の嫡男。後の利長)を呼び寄せて、秀吉に随行するように言い聞かせたという。

 まつは賢母であったろう。

 利家は篤実な人柄なのであるが、それゆえに、勝家と秀吉との板ばさみになって心境が揺れ、焦慮しては思い悩み、その結果、利家の進退はひじょうに不明瞭なものになってしまった。

 そして、利家は信義の人であるがゆえに、利害の損得勘定はおろそかになりがちだった。

 秀吉が勝家を撃ち破った以上、前田家はれっきとした羽柴方であることを明白にしておくほうがよい。
 
 嫡男の利長を秀吉に随行させるということは、これは人質としての意味もあるのだ。ここのところ、まつの姿に現実的に生きる女性のたくましさがうかがえる。


 余談になるが、戦国時代の女性たちは比較的に自由奔放で、実にたくましい。

 織田家の池田恒興の娘で、「せん」という女性は、自ら鉄砲隊を指揮して戦場に赴き、熾烈な大激戦に参加しているし、家康の家臣で飯尾連竜という武将の妻の「お亀」などは、戦場で奮戦して大いに暴れまわり、なんと、一度の戦闘で十二人もの敵兵を斬り殺している。

 また、この時代に来日したルイス・フロイスは、その手記の中で、
「日本の女性は、処女の純潔を重視していないようである。日本では、離婚や再婚は日常的であって、それによって女性が名誉を失うことも全くない。」と記している。


 ちなみに、室町時代から戦国時代にかけて発生している様々なお家騒動の数々には、詳細に調べてみると必ずといっていいほどに女性が深く関与しているし、継子いじめの逸話が異常と思えるほどに多いのもこの期間だ。

 現代の我々は江戸時代の倫理感にいまだに影響されている面が多々あり、戦国の女性を想う時にも江戸時代の女性像をだぶらせて想像してしまいがちであるが、戦国の女性はまことに自由奔放という一面も持ち合わせて、その個性を強烈に発揮していたのである。

 もっとも、時代をもっとさかのぼれば、源頼朝と覇権を争った源(木曽)義仲には巴・山吹といった武勇に長けた女性が義仲と共にあって大激戦地で大活躍しているし、義仲が信州を出た時には、葵という勇猛な女性も随行していたと源平盛衰記に記載がある。

 ついでに、越後の城氏の勇婦・板額も実に有名だ。
 
 越後の城氏が鎌倉幕府に叛旗を翻し、鎌倉方の佐々木盛綱(宇治川の先陣争いで有名な佐々木高綱の兄)を主力とする大軍勢に攻め込まれた際に、吾妻鏡の記述によれば、
「板額、女の身たりといえども、百発百中の芸ありて、ほとんど父兄を越ゆ。」とあり、櫓から打ち放たれるその強矢によって、寄せ手の佐々木盛綱の郎党らは死者算なしの状態になったという。

 板額は、乱戦の最中に強矢に太ももを射抜かれ、弓を棄て、すぐさまに抜刀して暴れまわっているところを生け捕られてしまった。

 こうして主戦力を失った城氏は士気を失って降伏したのであるが、しかし家名断絶はまぬがれて、戦国時代の頃は上杉謙信に従っていたが、その後は叛いて武田家に帰服している。 


 話しがずいぶんそれてしまったが、最後に、板額女史の名誉の為に書いておかなければならないことがある。

 古来より板額は醜婦であったと伝わっているが、これは全くの間違いで、吾妻鏡の記述によれば、板額が捕虜となって鎌倉に連行された際に、源頼家が興味しんしんの様子で対面した折りに、
「くだんの女が面貌はよろしきに似たりといえども、心の武きを思えば誰か愛念あらんや。」と言っている。
 
 美人ではあるが、心根が実に猛々しいので男たちがもてあますであろう、といった感じであろう。

 
 巴御前が実に美しい人であったことは有名であるが、板額も容貌の秀麗な美人だったのである。             

 
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【2010/01/04 22:08】 | Ⅱ 美女炎上
Ⅰ 美女炎上



 ところで、羽柴方の捕虜になった佐久間玄蕃盛政は、玄蕃で名の通った猛将である。
 
 信長が以前、北陸の加賀国を平定する際、玄蕃は果敢に勇戦して加賀一向衆の討滅に尽力し、その後、信長の信任を得て加賀の支配を任され、尾山城を居城に定めてその地を統治した。

 川角太閤記によれば、玄蕃は賤ヶ岳の戦いに敗れ、主戦場から辛くも脱出し、その敗走中に越前国の付近で落ち武者狩りの襲撃に遭い、その地の土民らに捕縛されて秀吉の元につき出されたことになっている。

 秀吉は柴田勝家を越前北ノ庄城に滅ぼして後に、玄蕃の武将としての器量を惜しんで召し抱えようとしているが、これはきっぱりと断られている。

 
 秀吉が玄蕃を捕虜にした時の出来事として、川角太閤記にこんな逸話がある。
 
 秀吉は、玄蕃ほどの勇将を捕獲することができたので大いに喜んでいたのであるが、玄蕃を捕縛した土民らはことごとく捕らえ、
「百姓ふぜいが、落ち武者狩りとは不埒千万。勝敗は兵家の常、わしが負けていたら玄蕃と同じような目に遭っていたところぞ!褒美として、はりつけにしてやろう。」と言って、褒賞するどころかすべて殺してしまったという。
 明智光秀も土民の落ち武者狩りに遭っているのだが、
「あれは主殺しの悪逆、日向守は大罪人だ。あのときの土民らに咎め立ては無用。あれとは違う。」と、秀吉が付け加えて申し渡したと伝えているが、これは屁理屈といってしまえばそれまでの話しであろう。ずいぶんひどい話しだ。
落ち武者狩りをする土民らに、そのような区別がつくはずがないのである。

褒美めあてに、執拗に落ち武者を狙って捕縛したり、金銀や具足・刀剣などをめあてに襲撃して殺してしまったり、時には追いはぎをしたりするのだが、しかしこれは当時の動乱時にはありがちな状態であり、その時代の悪弊とでもいうべき問題だったのである。
しかも、それが戦勝した側(今回の場合は秀吉)にとって有利に働いていたという実情もあったのだ。
理屈ではないのである。


 一方、玄蕃のほうはあくまでも秀吉の招致をはねつけ、最期は京都で斬られている。
「きさまのような猿ごときに、わしを使いこなせるのか?よけいなことをごちゃごちゃと言わずに、さっさと斬れい!」と、最後の最期までさんざん悪態をついていたので、秀吉が閉口して諦めたという説があるし、常に冷静沈着、礼儀正しい態度で、その最期まで実に立派であったという説もある。

 ともあれ、秀吉には譜代の家臣がいなかったのだから、玄蕃のような経験豊かな猛将を配下に欲しいと思っていたのであろう。

 
 秀吉はその後、玄蕃の旧領を前田利家に与えている。
 
 利家は玄蕃の居城であった尾山城に入って前田家の本城としたのである。尾山は、後の金沢であることは皆様ご存じの通りである。



 さて、秀吉は敗走する柴田方を猛追撃し、執拗に追尾を重ねて越前北ノ庄にまで迫る。

 秀吉はこの途上中に、前田利家を説得して味方につけ、共に勝家の居城をめざして進軍している。

 一説によれば、賎ヶ岳合戦の以前に、秀吉と利家との間で内応の密約が結ばれていたというが、前田利家公の伝記に精通する者であれば、ひじょうに受けつけがたい、信じかねる見解であろう。

 前田利家は誠実な人柄で信義を重んじ、なによりも曲がったことの大嫌いな人物だったである。秀吉から誘い話しがあったであろうことは想像に難くないが、しかし、確約の返答まではできなかったであろう。

 
 柴田勝家は敗走の途中、前田利家の籠もる越前の府中城に立ち寄り、利家の心温まる気遣いに感謝して立ち去っている。
 秀吉もまた、柴田方を追尾の途上、大親友の利家を愛惜して府中城を訪ねて、昔懐かしい話しなどをしながら利家夫妻と歓談している。

 勝家も秀吉も、複雑な境遇に立たされて思い煩う利家の心情を十分に分かっていたのであろう。お互いに認め合える仲で、信じ合える交情がなければこうはいかないのである。
利家が信義の人であり、篤実な人柄であったから、危険な戦時の最中とはいえ、利家を愛惜して、わざわざ利家との面会を求めて立ち寄ったのであろう。


 また、利家は前田家の自衛上、勝利の見込める側に味方するしかなかったであろう。

 もし、賎ヶ岳の戦いにおいて柴田勢が優勢であれば、利家は勝家を支持し続けた可能性が高い。


 しかしながら情義に厚い利家が、信義を貫き通せばよいのか、前田家の繁栄を第一に考えればよいのかという選択肢に加えて、長年苦楽を共にしてきた直属の上司であり、大恩人でもある大先輩を選ぶのか、長きに渡って家族同然に付き合っている大親友を選ぶのかという岐路に立たされ、悲壮ともいえる決断を迫られたのだ。その心境は察するに余りある。

 観念と唯物の狭間で思い煩うことほど辛いものはない。これは今の現代も同じである。

 前田利家のような篤実な人物であればなおさら、もっとも辛いところであったろう。

 
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【2010/01/03 10:09】 | Ⅰ 美女炎上
不如帰 ~戦国武将の幻影~


Ⅰ<覇王編>~逆賊 織田信長を討て!~  Ⅱ<争覇編>~織田家簒奪!秀吉の野望~

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