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Ⅱ 小牧・長久手の戦い


さて、秀吉は膨大な軍勢を率いて織田信雄の所領である尾張領内にまで侵攻し、小牧山付近の楽田城に本陣を置いて兵馬を集結した。
 
その後、秀吉自らが全軍を督励して士気を鼓舞し、高揚させ、将兵らに命じて小牧山城の周辺に複数の城砦を構築させる。

 羽柴勢は十万以上を数えるほどの大軍だ。

そのような大軍勢が城砦に拠って連合軍側をジリジリと威圧しながら圧迫し、耐え切れなくなった家康・織田信雄を小牧山近辺から追い出してしまうという戦術であった。

 しかし、小牧山城は要害堅固で有名な城だったから、これが全然うまくいかない。

いくら大軍といえども無理な攻城戦を仕掛ければ、羽柴勢の損害は甚大なものになるに決まっているし、秀吉は家康の卓抜な武勇知略を知り抜いていたから、家康の巧妙極まる用兵を警戒して全然動きが取れなかったのである。

 また、ここで下手に大失敗でもしでかしたりしたら、家康につけ込まれる隙を与えることになってしまうから埒のあきようはずもなく、しかも、ここでマゴマゴしていると、秀吉に味方する織田の旧臣たちの動静も未知数なものになってしまう。
 戦国乱離の時代なのだ。寝返りなどは朝飯前なのである。

 秀吉は大いに焦らざるを得ないところであったに違いない。


 一方の家康としては、あんな膨大な軍勢とまともに戦かっては大損に決まっているし、小牧山城は難攻不落の要害でもあるし、このまま長期戦となって、得意の野戦で一つ二つ勝つことができれば織田の旧臣らも味方に馳せ参じる可能性も十分にあるのだから、涼しい顔をして全然相手にしないのである。

 家康は戦局を鑑みながら、気長にじっくりと待つつもりでいたのであろう。


 
 こうして、両軍は長々と睨み合いを続け、その戦況はしだいに泥沼の膠着状態に陥る。

 
 このような戦況の折りに、池田勝入斎が秀吉の元に作戦を進言する。
 
 戦術の概略は、本軍の一部を割いて別動隊を編成し、その部隊を隠密裏に三河国に乱入させて岡崎城を攻め落とし、徳川方に衝撃的な動揺を与え、その後、慌て急いで小牧山城から出撃して三河に入ってくる家康の軍勢を隠密部隊と秀吉の本隊とで挟撃して殲滅してしまうという方策であった。

 これは、当時の用語で「中入り」という。

 敵の手薄になっている地区に別動隊を乱入させて村々を焼き払ったり、城砦を攻め落としたりして敵軍の本陣の動揺を誘う戦法である。
これは成功すると効果は絶大で、戦局が大逆転することもあるが、失敗すると中入り部隊は敵地に深く侵入しての戦闘となるので殲滅的な大損害を被ることも多い。

 当時の武将たちはあらかじめ中入りに用心・警戒して、城砦の堀りを入念に深くしておいたり、柵や櫓を数多く設営するなどして、後々のことを考えて防衛陣地の備えを厳重にしてから出兵しているし、諜報網をいたる所に張り巡らして敵軍の動静を監視できるようしてから出陣する。

 中入りに備えての出陣、これが当時の常識・常道であった。

だから、よほどの名将でない限り、成功は実に難しかったようで、本隊と中入り部隊との連携がうまくいかないと逆効果になってしまう非常に危険な戦法だったのである。

 
 余談だが、上杉謙信と武田信玄の妻女山の攻防戦は、この中入りを知っているか知らないかで面白さが全然違ってくる。
 
 謙信公は、当時の中入りの慣例を全く度外視し、別動隊ではなくて、自ら本隊を率いて敵中の妻女山に本陣を置いて武田勢の度肝を抜いている。
 
 敵の総大将自らの中入りだったのだ。
 これは当時の中入りの常識から全く外れた、まさに常軌を逸した不可解な行動だったのだ。さすがの海津城の高坂昌信も驚嘆し、混乱し、驚き恐れながら信玄公に急使を飛ばして指示を仰ぎ急いでいる。

 一方の信玄公は、中入りの慣例を応用し、奇襲専門の中入り別動隊を編成して妻女山の上杉勢に夜襲をかけさせている。

 川中島合戦の前哨戦、武田・上杉の妻女山での攻防戦は、中入りの応用編・中入りのバージョンアップ対決だったのである。

 話しがそれてしまうのでこれ以上は書かないが、この知略の限りを尽くし切った名将同士の大勝負は実に雄大、実に壮大であり、いつになっても本当に魅了してやまない。

 ふと、脳裏に浮かんで実になつかしいのである。

 
 さて、近年の諸説によれば、秀吉は勝入斎の進言に懐疑的で、内心はこの作戦を危惧してためらっていたのだが、勝入斎はかつての織田家での秀吉の大先輩であり、以前の同僚でもあったので、むげに進言をしりぞけるわけにもいかず、懸念を抱きながらもこの戦術を聞き入れて出撃を許したのだという。

 しかしこの説は、少しまわりくどく考えすぎなのではないだろうか? 

 これは近年の癒し系ブームに便乗したかのような、小児的な発想から生まれた見解であるように思え、人の感情をああでもない、こうでもないとイジクリまわしながら妄想にどっぷりとつかり込み、秀吉の境遇と心情に同情を寄せて、あたかも長久手の戦いに惨敗した秀吉を弁護しているかのようにも思えるのである。

 
 しかしながら、そうではなかったはずだ。秀吉は作戦の成功を確信したからこそ、出撃を許したに違いないのである。
 
 この時代のリーダたちをなめてはいけない。女色に耽り、酒ばかり飲んでいた江戸時代の殿様くんだりとは全然わけが違うのだ。

知力・体力・時の運という言葉があるが、戦国の群雄の中で傑出して頭角を現わした英雄豪傑たちはこれら全てを必ずといってよいほどに要求されたのだ。

運の強い、実力のある陣頭指揮型の人物でなければ、配下の者たちの統率は恐ろしく困難だったのであり、家臣たちに負けないくらいの鍛練・修練を日々積み上げ、常にその実力を家中の者たちに見せつける必要があったはずなのである。

 その証拠に、信長はその生涯を通じて朝駆けを励行し、規則正しい生活を死ぬまで貫き通している。

 秀吉は家中の誰よりも数多くの仕事量をこなし、天下人になった後も、その家臣たち以上に働き抜いている。
 
 家康は探すように時間を割きながら学問に打ち込み、剣術に没頭し、馬術に励んでいる。家康の伝記に精通する方々であればすでに御存じのことと思うが、家康は弓術・剣術はもとより、鉄砲・槍・薙刀・鎖鎌など、ほとんど全て一流といってよいほどの達人になっている。

 彼らは誰よりも修練を積み重ね、鍛錬を積み上げていった行動派だったのであり、たぐい稀な実際家だったのであり、大いなる自信家なのである。 
 
 
 したがって、彼らの精神力は強靱そのものであったはずで、矮小であろうはずがない。

 
 作戦を進言した者がかつての大先輩だろうが、以前の同僚だろうが、そんなことは秀吉の眼中にはないのである。

 要は、現時点において、その作戦が戦術的に優れているかどうかなのである。
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【2010/02/27 00:45】 | 未分類 | コメント(0)
Ⅰ 小牧・長久手の戦い
 

 天正十二年(1584年)三月初旬、徳川家康は全軍に総動員令を下し、自ら軍勢を率いて浜松城を後にしている。

七日に浜松を出て、翌日の八日に岡崎に入り、九日には矢作付近で滞陣して兵馬を休息させながら諸所の将兵らの追いついてくるのを待ち、そしてその後の十三日には尾張に入って清洲城下に到着、そこで織田信雄の軍勢と合流し、信雄・その諸将たちと参会して清洲城内で軍評定をしているから実に迅速な軍事行動である。

 これは家康には非常に珍しいことだ。

 当時の家康は石橋を叩いても渡らないぐらいの慎重な人物で、まるで敵を怖れているかのような鈍重ぶりだったので、
「耳臆病の大将」と、家中の者たちから陰口をたたかれることもあったという逸話があるほどなのだ。

むろん、家康の鍛えぬかれた胆力は強靱そのものであったはずで、敵勢の噂を聞いただけで震え上がるような臆病な人物ではないが、しかし、家康の入念で綿密な情勢の分析力、用意周到で思慮深い性質、慎重にすぎると思われるほどの重厚な態度などが、家中の将士らにとっては実にまどろっこしくてイライラさせられたのかもしれない。

血気にはやる武将であればなおさら、じれったくて堪らずに、「耳臆病の大将!」と言ってしまいたくなるような思いだったのであろう。

 
 しかし、この時の家康はまるで別人のような迅速ぶりを見せている。家康の強い意気込み、熱望のほどが感じられるのである。


 それに比べて秀吉の動きはいつになくノロノロドテドテと非常に鈍かった。
 
 電撃的な疾風迅雷の機動を誇る秀吉が、三月の中旬頃になってやっと大坂を出立し、京都に入るとしばらく兵馬を休息させて、その後に近江の坂本城に到着して全軍の指揮を執っている。

 織田・徳川連合軍との戦端はすでに開いていて、北伊勢と伊勢に近い尾張の周辺では小合戦や小城の争奪戦が繰り広げられおり、伊勢では羽柴方が勝ち、尾張では連合軍側が勝利している。
 
 美濃大垣城主の池田勝入斎も森長可の軍勢と合流し、すでに勇猛果敢に攻勢に出て、熾烈な激戦の末に要害の犬山城を抜いて連合軍を追い散らした。
しかしその後、八幡林のあたりで連合軍側の朝駆けの奇襲に遭って惨敗し、この急報を聞いた秀吉は慌て急いで坂本城から出撃、本隊を率いて尾張に向かったのであるが、すでに軍勢を展開中の連合軍側に戦略的な要害である小牧山をしっかりと押さえられてしまい、しかたなしにその付近の楽田城に布陣して対峙することになってしまった。

 小牧山城は以前、信長が美濃攻めの為に本城を築いたほどの戦略的に重要な拠点だ。

以前の信長の小牧山の城普請は、これは若き日の秀吉が信長に進言して実現したといわれる逸話があるぐらいの堅牢な要害だったから、秀吉は小牧山を必ずや占拠するつもりだったに違いないが、当初から出遅れての出馬だったので、駆けつけるのに間に合わなかったのである。

 もう少し秀吉の大坂からの出馬が早ければ、戦局はもっと有利に展開していたであろうし、勝入斎もこんな惨めな惨敗劇に遭わずに済んだのかもしれない。
しかし、おそらくは秀吉は大坂の地から離れられない厳しい状況下にいたのであろう。

 大坂城内での秀吉は、大忙しの諸時難題だらけだったはずなのである。

 譜代の家臣がいれば、信頼して仕事の多くを任せることができるし、重要な採決などは老臣らに委ねてしまえばこと足りる。
行き届いた方針や方策などは家老衆に任せておけば安心であるし、細かい指図などは奉行の仕事なのであるが、秀吉には譜代の家臣がいない。
頼りになる親族もほとんどいない。せいぜい弟の秀長と、官僚肌の浅野長政ぐらいのものなのだ。有力で有能な配下がいないこともなかったが、しかしそのほとんど全てが織田の旧臣たちだったのだ。信頼して仕事を任せられないのである。

だから、西は毛利から東の北条まで、そのほとんど全ての政略的な備えを、秀吉自らが決断して諸事につけてこと細かく指図しなければならなかったはずなのだ。

 ずいぶんと手間取ったに違いないのである。

 当時、秀吉の勢力は二十四州にもおよび、その石高は六百万石をゆうに越え、動員できるその軍勢は十万以上を数えるほどになっていた。

しかし、戦局が不利になれば織田の旧臣らがまっ先に寝返る危険性も十分にあったから、これは図体だけは異常にでかいけれども順風満帆な状態ではなかったのである。
ここは秀吉にとって、人物の良否においても、物資・補給路の確保の選択にしても、情勢を推察する能力においても、あらゆる局面において的確な判断を下さなければ命取りになりかねない難しい状況だったのだ。

 秀吉にとって、先を見通す卓抜な洞察力を要求される厳しい正念場だったのである。


 ところで、当時の織田信雄の所領は伊賀・伊勢・尾張、その石高は百万石に少し毛の生えた程度、家康は三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の約二百八十万石ぐらいあったようであるから、連合軍側の石高は合わせて四百万石を少し下回るぐらいであった。

 石高はすなはち国力を表わし、出動可能な兵数の多寡を推測する為の有効な好材料なのであるが、改正三河後風土記の記述によれば、秀吉の諸所に展開する軍勢の総数は十二万五千余り、連合軍側が一万八千と記載しているが、これは信じられない。

 だいたい、勝利者側の史書・味方ビイキの史料の多くが偏向のはなはだしい記述を常とし、敵の兵力はできるだけ誇大に多く表記して、味方の兵数はできるだけ少なめにして記載している。
 寡兵で大敵を撃ち破ったかのような好印象を御披露しているわけだが、しかしこんなことは後世になればバレてしまって逆に信用を失いかねないところだろう。
 
 余談だが、平家物語は史書・戦記物ではなくて文学なのであるが、それにしても三十万の軍勢とか、五十万近い大軍などと、現実離れした兵力を平気で書き記している。
確かに、あの当時にそれだけの兵数を集められるはずがない。人口や食料、補給路の確保と兵站の問題もある。
しかし、平家物語は文学なのだから、その時代の雰囲気や情緒を深く味わってもらうために誇大な記述となっているわけだから、これはこれでよいのであるが、改正三河後風土記は幕府公認の史書なのだ。いかに勝利者側の史料はあてにならないかがよく分かるのである。
 
 
 最近の研究によれば、織田・徳川連合軍の総勢は五万から六万はあったようである。

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【2010/02/18 13:11】 | 未分類
Ⅴ 争覇 秀吉と家康



さて、織田信雄は猜疑心のとりこになって家老たちをことごとく謀殺したのであるが、その家老らの領地内はだしぬけに主人を失って蜂の子をつついたような大騒ぎだ。

領内の知行地を任されてあずかっている将士らは、乱心したかのような信雄の暴虐非道の仕業に驚いて恐怖し、
「ばかにつける薬はないというが、まさにこのこと。いずれは無理難題をふっかけてくるのも必定じゃ!」といった感じで信雄の厳しい追求を恐れて離反したり逃散する者たちが続出し、その噂は疾風の如くたちまち四方八方に知れ渡って信雄の領国内は乱れに乱れた。

 秀吉はこの尾張・伊勢・伊賀のてんやわんやの状態を好機到来と見て、
信雄のことを大名にあるまじき暗愚な暴君であるとか、信長さまがつけおかれた家老衆を謀殺した暗君であるとか、したがって信雄の領内を安寧にするために義兵を挙げるのであるとか、信雄が実は以前から隠密裏に挙兵を企てていたのだとか、いろいろな苦しまぎれの大義名分をふりまわし、織田家簒奪の最後の総仕上げとでもいうべき信雄の征伐に踏み切る。

 しかし、信雄のほうも黙って指をくわえていたわけではない。

 信雄は即座に秀吉の打倒を宣言し、徳川家康の協力もつつがなく取り付けていたのである。
 
 諸書によれば、信雄は典型的なボンボン育ちで、わがままで実に身勝手な人であったようである。もとより、
「天下は、実力のある者の天下である。」といった世相には全然無関心で、
「俺は、あの織田信長の実の息子なのだ!」といって威張り散らすだけの愚昧な人物だったのであるが、しかしこのような凡庸な信雄であっても、背後に徳川家康が控えているのであれば話しは別だ。

 当時、家康の卓抜な武勇知略は実に有名で、織田家の諸将でさえも畏怖せしめている。秀吉と十分に相撲になるのである。

 そして、これは家康にとって千載一遇の好機到来であった。

 明智光秀の討滅を秀吉に横取りにされて以来、家康は再度の争覇戦の機会に恵まれたのである。

また、家康にとって秀吉はしょせん、運のよい成り上がり者にすぎないのだ。
「氏素性の知れない、どこぞの馬の骨。」と思っていたかもしれない。

 家康は信長の盟友であり、お互いに協力しあう相棒であった。秀吉はその相棒である織田家の旧臣にすぎない。

この旧家臣の横暴を断固こらしめ、信長の遺児である信雄に助太刀して擁立すれば大義名分も十分に立つ。
 
「世間体のよい大儀名分」は味方の将士らの勇気を百倍にし、その逆に大義なき軍勢の士気は恐ろしいほどに萎えてしまうものなのである。
「秀吉は織田家の簒奪をもくろむ叛臣である!」と決めつけてしまえば、下剋上の世相といえども、いや、下剋上の世相であればなおさら信義心は切望されるところであり、もっとも感動的に人の心を打つものであろう。
実に世間体の良い大義名分であるし、織田の旧臣たちの動揺も必定なところなのだ。
 
 さらに、あれよあれよという間に織田家を吸収し、日増しに大膨張する秀吉の勢力は、徳川家にとって脅威そのものであったはずだ。このまま棄ておいては徳川家も呑み込まれてしまう危険性が十分にあった。

 この際、凡庸な信雄を擁立し、織田の旧臣たちに働きかけて広く招き入れ、「天下の義軍」と称して秀吉の軍勢を撃ち破り、いずれは信雄を骨抜きにし傀儡してしまえば天下の権を握ることもできる。


 まさに、天下を賭けた大ばくちの打ちどころであった。

 家康は信雄と協力して事前に外交的な布石を打ち、四国の長曾我部・西国の毛利家に出兵を促し、
紀伊の本願寺派の雑賀党には、
「勝利の暁には、大坂・加賀の地を返し与えるであろう。」といって旧領の回復を約束して秀吉不在の大坂城をつくように扇動し、越中の佐々成政にも使者を送って協力を取り付けていた。

 
 しかし、秀吉の外交戦略はもっと大がかりで遠大であった。
 
 長曾我部の押さえは淡路洲本の仙石権兵衛に任せ、毛利に対する備えは岡山の宇喜多家に依頼し、秀吉の最も頼りにする播州・但馬には羽柴秀長を配置して西国を監視させ、軍需物資・補給路の確保に努めさせている。
秀吉の金銀の大半は播州・但馬から生まれていたといっても過言ではなかったから、ここは軍資金などの財源となる重要な生命線であった。

そして、大坂から岸和田にかけては黒田官兵衛・中村一氏・蜂須賀家政(小六正勝の息子)に任せて雑賀衆の襲来に備え、加賀の前田利家と越後の上杉景勝に働きかけて越中の佐々成政を押さえ、
特に景勝には上杉家の領する信州川中島郡から家康の甲州・信州を狙わせ、常陸の佐竹家とも連携させて小田原北条氏を牽制することまでしている。
これは徳川と北条が親戚の間柄だったからだ。昨年、北条氏直の元に家康の娘のおふうが嫁いでいたから、北条家が徳川を支援する恐れが十分にあったのである。詳細は別の章に書いている。思い出して頂きたい。

さらに、織田信雄・徳川家康の配下の武将たちに得意の調略を仕掛けて秀吉の陣営に寝返らせる裏工作までしている。
信雄の家臣では丹羽氏次・沢井雄重、家康の配下では水野忠重、すべてことごとく断られて失敗しているが、成功したのは美濃大垣城主の池田勝入斎とその聟で鬼武蔵の異名で名高い森長可を味方に引き入れたことである。

 以前に別の章で書いたが、池田勝入斎は信長と乳兄弟同然の仲であったこともあって以前から生粋骨髄の織田方で、人質として次男の輝政を信雄の元に送って忠誠無私を誓っているほどであった。

 しかし、秀吉からの誘いがあってからの勝入斎の心はゆれはじめる。

 以前、秀吉が大坂に城を築く際に、勝入斎は秀吉の懇願によって摂津から美濃大垣に移ったのであるが、摂津で六万石だったのが大垣で十万石という加増にあずかって移封している。

こうした秀吉からの増封の恩がある上に、秀吉の甥の秀次には勝入斎の娘が嫁いでいたから親戚筋となって懇意な仲になっていた。
今回の戦いは秀吉のほうが優勢であるように思えるし、秀吉の急使からは、
「ことの成就の暁には、三河・尾張・美濃の三国を進上いたしましょう。」と言ってきている。

こんな約定は、決まって空手形に終わることを分からないではない勝入斎であったが、武勇に絶大なる自信を持っている上に、功名を立てればそれ相応の褒賞も期待できるところであろう。

欲をかけばかくほど迷うのあった。

しかし勝入斎は人質の輝政のことが気がかりで踏み切れずにいたのであるが、瀕すれば鈍する、窮地の時には知恵の鏡も曇るものなのであろう、
「勝入斎の織田家に対する忠義は特別である。こんな時にこそ、水くさいことは抜きにして、人質を返してやれば勝入斎は逆に感動してさらにいっそうの忠勤に励むであろう。」などと、信雄はのん気なことを言って輝政を送り返してきたのであった。

 
 これで勝入斎の腹は決まった。


 森長可も勝入斎の助言に従って羽柴方となった。


 秀吉は越前大野郡でわび住まいしている滝川一益にも使者を送って再起の機会を与えた。

 滝川一益は勇躍し、すぐさま手勢を率いて北伊勢に向かっている。

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【2010/02/12 01:21】 | 未分類
Ⅳ 争覇 秀吉と家康


 さて、伊勢長嶋城の織田信雄が秀吉の仕掛けた悪辣な離間の策略に見事にひっかかり、自らの手足ともいえるはずの家老らを次々に誅殺という名目で殺害している頃、口八丁手八丁でなんとか信雄の嫌疑を免れていた老臣の滝川雄利は、秀吉との開戦の近いことを予感し、人質として秀吉の元に差し出している息子の奪回を謀りはじめた。
 
 人質を取られての開戦では心苦しくて、このままでは芳しい働きができないと考えたのであろう。

 秀吉の命令で滝川の息子をあずかっていたのは脇坂安治(通称は甚内)であったが、
「我が妻が明日をも知れない重病で、残念ながら危篤の状態となってしまいました。はかなきことになる前に、せめて、愚息にだけは会わせてやりたい。」といったような文面を滝川が送って寄こしてきたので、篤実な脇坂はすっかりそれを信用して同情し、すぐさま人質を返してやったのであった。

 この報告を聞いて驚いたのは秀吉だ、
「甚内のお人好しめ!わしに相談もなく送り返すやつがあるものか!すぐに追っ手をかけて滝川を討ち取れい!」と激怒して厳命を下す。
 
 秀吉の命令書を奉じてやってきた急使の口上に、脇坂は大仰天し、ともかくもすぐさま二十騎ばかりを率いて滝川の本拠地の伊賀上野に向かう。


 伊賀は以前、天正七年に織田信雄の独断専行による軍勢の侵攻があったが、信雄の総大将としての指揮能力の不足、伊賀の剛勇で有名な百地丹波(ももちたんば・伊賀の有力な土豪で、剣豪。伊賀忍者の棟梁の一人であったとする説もある。)の働きなどがあり、この時は織田勢に甚大な被害を与えて撃退している。
しかし天正九年には信長の主力部隊も加わる再度の侵攻によって徹底的に蹂躙され、その地士や良民らが殺戮地獄といえるほどの憂き目に遭っている。

 信長が伊賀の人々の一般的ではない不気味な生態を嫌ったゆえの仕業であるとか、以前の信雄の大失敗の逆恨みの為とする説もあるが、しかし、当時の伊賀は間者(今でいうスパイ)養成の巣窟だったという側面もある。

伊賀・甲賀といえば忍者で有名であるが、伊賀の里の山ひとつ越えた場所に甲賀の里があり、お互いに交流を持って有事の際などは共に助け合うこともあったと云われる。

 伊賀・甲賀は仲が悪かったようなイメージがあるが、これは間違いで、江戸時代に流行した講談や後世の創作本の影響が多分にあり、甲賀VS伊賀にしたほうが話しが分かりやすくておもしろいので後世に根強く伝播してしまったのであろう。

しかし慣習やしきたりなどは、これはかなり異なっていたようで、甲賀者は主君と仰ぐ者に忠義を尽くして間諜を務めるが、伊賀者は金銀などで雇われて請け負った仕事を忠実に実行するだけだったようである。

 だから、当時の伊賀者(秀吉の時代以降は主人に忠実な間諜となって働いていたようである。)は敵味方に関係なく、金で雇われればどこにでも潜り込むということになる。

したがって敵味方の間を自由自在に潜入して行き来する可能性も十分にあるわけで、雇い主は伊賀者の報告を聞いて敵情を知りながらも、その内情が筒抜けになっている危険性もはらんでいたのだ。
現代風にいえば二重スパイの暗躍といったところか。これほど信用できない諜報機関はないのである。

 織田信長は類い稀な情報通だ。諜報がいかに貴重なものであるかを知り尽くしていた人物なのである。
 
かなり以前に別の章に書いているが、情報戦で今川義元の所在をつきとめて討ち取り、間諜を駆使して足利義昭の現況を探知し、そのおかげでその後は義昭の招致に成功して上洛を果たしている。
武田信玄の死も、上杉謙信の死も間諜を通じていち早くその事実を知ったという説もある。
 このような諜報の活用名人が情報の漏えい問題に無関心でいられるはずがない。信長は伊賀者を危険視して憎み立てていたように思えてならないのである。 

 西国の弱小豪族から興隆した安芸の毛利元就は諜報の達人で、敵の間者を逆に利用して敵勢を滅ぼすという芸当までやってのけており、織田信長も美濃攻略の以前までは同じような手段を用いているが、しかしこのような高等戦術は身代の小さい頃に必要とされる手法であり、身代が大きくなっていくにつれて機密の秘匿性が実に重要な課題になってくる。
 
 情報の収集も大切だが、情報の漏えいがまっさきに命取りになりかねないのである。これは現代の大企業も同じことだ。
しかも天正九年の頃といえば信長の覇権はゆるぎないものになっていたから、おそらくは伊賀者のようなダブルスパイの利用価値がなくなり、逆に機密の漏えいを憂慮し、都合が悪くなってきたので邪魔になったのかもしれない。

 目障りなものはことごとく滅ぼす、これは織田信長に限ったことではない。様々な伝記を読んでいて気づくことは、古今東西の英雄豪傑どもの処世術は、
「邪魔者は消す。」の一言に尽きる。
アンチ物の伝記や、偏向のはなはだしい書物では気づきにくいが、歴史上の英雄伝の類書を丹念に調べ上げると必ずといってよいほどに浮かび上がってくる言葉なのである。


 
 ともあれ、脇坂は手勢を率いて伊賀に入り、
「滝川利雄を討ち取った者は、褒美は思いのままぞ!」と、ふれてまわったからたまらない。織田は伊賀の人々にとって憎んでもあきならないほどの仇敵だ、しかも滝川はその地を阿修羅地獄と化した首謀者の信雄の老臣だったのだ、たちまち地士らがわきおこり、あちらこちらから集まり群がりはじめてなかなかの手勢となって伊賀上野城に急迫する。

 滝川は驚いて、辛くも城を脱出して伊勢長嶋城の信雄の元に逃げ込んだ。
 信雄は城を放棄して逃げ返ってきた滝川に不満気であったが、「代地として、そなたに伊勢松島を与えよう。」と言った。

伊勢松島は津川玄蕃の所領だ。

津川は伊勢長嶋城内で雄雄によって謀殺されたが、その領地は津川の親族たちが守っている。つまり、信雄は滝川雄利に、
「自ら切り取って我がものにせよ。」と言っているのだ。
 
 これはずいぶんひどい話しだ。
言うほうも言うほうだが、しかしやるほうもやるほうだ、滝川はすぐさま信雄から手勢をかりて松島城に乗り入り、城兵をことごとく討ち果たして占領したというからこんなばかげた話しはない。
津川配下の武将たちはことごとく離反して秀吉を頼って内通してしまうし、これは典型的な御家騒動なのだ。
「アホウな信雄さまがご乱心なされて、ついに正真正銘の本物になられた!」といった感じで信雄の領内は大騒ぎになって乱麻の状態と成り果てたのである。

 
 滝川雄利の軽率ぶりにはあきれ果てるばかりだが、しかしこれはすべて織田信雄の軽薄短小のアホウぶりの招いた大醜態だったのである。

 
 これが織田信長の実子の仕業なのかと思うと、笑うどころかむなしい寂寥感に襲われ、涙のとめどなくこぼれ落ちるような思いがする。

著者HP http://7daiyamonde.blog60.fc2.com/

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【2010/02/05 17:35】 | 未分類
不如帰 ~戦国武将の幻影~


Ⅰ<覇王編>~逆賊 織田信長を討て!~  Ⅱ<争覇編>~織田家簒奪!秀吉の野望~

不如帰 戦国人物伝


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    不如帰 戦国武将の幻影

    武将が騒がしくて、音がうるさい場合はサウンドを(Sound ON)をクリックしてください。SoundがOFFになります。

    (1)サムライに斬られないように注意しながら、かがり火を2回クリックして炎を青くすべし。 (2)左右の炎を2つとも青くすべし。 (3)その状態でサムライに斬られるべし。 (4)カーソルが斬られる瞬間、クリックすべし。 (5)タイミングが合えば、システムが起動する。

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