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徳川家康の臣従 Ⅷ (激闘 上田合戦 4)



真田昌幸は戦機を見計らい、息子の幸村とともに諸将に矢継ぎ早に指令を出し、自らも城外に打って出て果敢に突出する。

昌幸の巧みな采配は徳川方の急所を適格に衝き、先手先手と押し出して突き崩していき、その卓抜な用兵が敵兵を誘い込んではことごとく分断し、あらかじめ埋伏させておいた伏兵を使って何度となく鉄砲で応戦させる。

その激烈な銃撃で、狭路に誘い込まれていた徳川方の士卒らは、死者算なしの様相を呈して壊乱し、その士気は恐ろしい勢いで低下する。

そして、このようにダラシガナイほどに全く翻弄されて、ナサケナイぐらいに大混乱している最中に、幸村率いる一隊が突如、徳川方の後方に姿を現して、猛烈に挟撃してきたからたまらない。

徳川勢は神川の大増水で退路を絶たれている上に、幸村勢の挟み撃ちに遭って動揺の色を隠せない。

そこに、とどめを刺すかのように、昌幸の長男、真田信幸が援軍として来援して、徳川勢の側面を突くと、徳川方はたちまち総崩れを起こし、ホウホウの態で敗走したのである。


 こうして、真田昌幸の卓抜な用兵の前に、徳川勢は水攻めに遭い、誘い込まれて奇襲され、各個に分断されて動揺し、鋭く挟撃されて壊乱し、側面を突かれて敗退したのである。

昌幸によって、いいように料理されたようなものになってしまったのだ。


 徳川方は十分に自信もあれば、意気揚々の出陣であっただけに、なんともやりきれぬ思いであったろう。


 この上田合戦は、真田昌幸の武名を大いに上げただけで終わり、これ以後、真田家の旗印である六文銭は徳川家の鬼門になった感がある。


 家康はこの敗報を聞いて切歯扼腕したが、しかし、このまま昌幸を野放しにはしておけない。昌幸の背後には越後の上杉がいるのだ。

しかも昌幸は、信州の徳川方の家臣、依田信番の領地をジリジリと圧迫中で、このまま放置すれば、昌幸はますます増長して依田の領地を切り取りはじめるであろうし、実は依田は、元々が旧武田家の家臣なので、昌幸に調略される危険性も十分にあるのだ。

依田信番は以前、武田家の滅亡の際に、駿河の田中城を死守し、武田勝頼の亡き後は城を明け渡して信州に帰ったのであるが、その後、家康に見込まれて家臣になってはいたが、やはり昌幸は旧知の仲であるし、以前は依田の計らいで昌幸は徳川の被官になったりしているので、今は敵味方ではあるが、時運の形勢によっては昌幸に加担する可能性も十分にある。
 
さらに、昌幸を支援する上杉家は秀吉と和親しているので、ここは早急に昌幸を屈服させておかなければならないところだ。

 
このようなわけで、家康は、引続き諸将に厳命し、上田城を重囲させるべく小諸に徳川勢を再度集結させて戦機をうかがわせていたのであるが、

ところが、この最中にとんでもない事態が発生したのだ。




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【2015/03/29 14:23】 | 未分類 | コメント(0)
徳川家康の臣従 Ⅶ (激闘 上田合戦 3)



徳川勢は、真田昌幸からの使者の口上を信じ、まもなく降伏してくるのであろうと思い、しばらくの間はそのまま滞陣していたのであるが、その数日後、例の使者が再びやってきて、申し訳なさそうな口調で、

「当家の主人は、降伏した後の家臣や家人らの行く末を案じ、それぞれの身のふりかた・今後の処遇なども考える猶予が必要となりまして、恐れながら、あともう四・五日ほど待っていただきたいのです。」と、ハラハラと涙を落とし、頭をたれて言う。


 この口上に徳川方は、

「さすがは昌幸殿。武士は相身互い、家臣らを思いやる心がけはあっぱれ、実に見事なものじゃ。待って進ぜよう。」と、気を許して、マタマタ待つことにしたというのだが、しかし、これは実にいぶかしい話だ。

真田昌幸の元には、旧武田家の精強で勇猛な士卒らが多数召し抱えられていたので、それを知っている徳川方の諸将は、

「ヘタにこじれたら面倒だ。」と、思っていたのかもしれないが、しかし、これは実にまぬるい。

 一度ならずとも二度までも許して待つことなど、これは老臣らの明らかな怠慢であり、言語道断の仕業である。

 家康が在陣していれば、少しは補いもついたのであろうが、しかし、これも運命なのであろう。


 案の定、張本人の真田昌幸は、「アホウめ。うまくいったわい。」と、ほくそ笑んでいた。


 信州には、「さいぶり」といって、平地では普通に晴れているのだが、しかし山間部の奥地のほうでは大雨になっているという特殊な現象がある。

 川を塞き止めていた昌幸は、貯水量の頃合いを見はからい、堰を切る絶妙のタイミングを待っていたのだ。



そして、昌幸は神川の堰を切る頃合いよしと見るや否や、例の使者をマタマタ徳川方にやり、
その使者は、待ってましたとばかりに馬を飛ばし急いで、徳川勢の遠方にだしぬけにに現われるや否や、大音声に、

「徳川に一度たりとも反抗した者は、しょせん、一生浮かばれぬ身でござれば、城兵家臣一同、城を枕に討死する覚悟に決め申した。おのおの方、お好きなように寄せてこられい。」と叫び、一目散に逃げていったのだ。


 怒り心頭とは、まさにこの時のことをいうのであろう。


 うまく騙されてしまった徳川方は憤怒し、やみくもに上田城めざして殺到していき、怒涛の猛進撃を敢行しながら肉迫する。


 その刹那、昌幸が好機到来とばかりに川の堰を切らせたからたまらない。

 大轟音とともに大量の土石流が猛然と徳川勢に襲いかかり、その津波のような漆黒の濁流がたちまち兵士らを呑み込んでいき、その激流は徳川方の後方の退路までもを遮断した。


 ここで私見を書くが、退路を断たれた軍勢というのは、いつの時代も、その士気は恐ろしく低下し、諸将の指揮系統もほとんど麻痺して壊乱するのが常である。

前漢の名将である韓信は、趙軍との決戦において、自ら退路を断って背水の陣を用いて快勝したのであるが、しかしあれは韓信も諸将も、敵に謀略がないことを知っていたから用いた戦術なのである。よほどの名将でない限り、退路を断たれた軍勢を制御するのは難しい。


 さて、上田城内では、このような痛快な光景をまのあたりにして歓声がわき、昌幸の家老らは好機到来とばかりに出撃を強く主張するのであるが、

「待て、待て。そうせくでない。まずはひとつ、腹ごしらえじゃ。」と、昌幸はゆっくりと床几にすわり、側に控える幸村と共に湯づけをさらさらと食して、一息入れて落ち着き払う。





【2015/03/21 20:48】 | 未分類 | コメント(0)
徳川家康の臣従 Ⅵ (激闘 上田合戦 2)



真田昌幸が家康の厳命を無視し、上州沼田城を明け渡すどころか厳重に防備を固めはじめ、ついには信州上田城において徳川家に猛烈に反抗しだした頃、家康は駿河の駿府城に入り、すぐさま動員令を下して真田家征伐の軍勢の編成に執りかかった。


 家康自身は駿府城において指揮を執り、徳川の有力武将である大久保忠世、鳥居元忠、平岩親忠らを大将にして、昌幸の所在する上田城の陥落を期して出陣させたのである。

 その軍勢は総勢で七千余りであったという。


 ここで私見を書くが、家康が自ら現地に赴いて陣頭で指揮を執るわけでもなく、その軍勢は武将たちに任せっきり、しかも、その兵力は一万にも満たない軍勢だったのだから、家康がいかに昌幸のことをナメテかかっていたかが知れるところであろう。

しかし、もっとも、当時の徳川勢は猛烈に最強であり、おそらくは当時、日本一強い軍勢だったのではないかと思われるのだ。
家康もそれを十分に自負しており、家康の度胸もだが、自信もあったのであろう。

 徳川家はその昔、今川義元に都合よく使われて、さらに武田信玄に騙され、しまいには織田信長によって徹底的にコキ使われたという経緯があるのであるが、しかしその過程において、その軍勢は猛烈に鍛錬され、信長の軍勢とともに上方の戦いも何度となく経験し、いくさ慣れした知勇兼備の武将や勇猛士卒の多い強力な軍隊になっていた感があるのだ。


 また、時は天正12年の8月のことであったから、これは小牧役から4か月ほどしか経過していない。長久手の戦闘で羽柴勢をせん滅的に蹴散らして快勝したばかりの徳川勢だったのだ。その士気は非常に高かったはずである。


 ところが、史書の改正三河後風土記によれば、この日本戦史上有名な上田合戦において、徳川勢は散々な目に遭い、見苦しいほどに壊滅させられ、恐ろしくみじめなくらいに惨敗している。

この書物は徳川方の史書であるから、敗退の経緯はできるだけ穏便に、敗戦の経緯もずいぶんと割り引いて記されていると思うのだが、それにしてもひどい負けっぷりなのだ。
実に信憑性の高い記述であるに違いない。かなり信用してよいであろう。


 さて、意気揚々の徳川勢は信州で軍勢を勢揃いさせて、早くも怒涛の勢いで上田の城下を放火しながら進軍し、まさに敵なしの猛烈な勢いで上田城に迫る勢いであった。

 そんな折に、真田昌幸の使者が徳川の陣中に到着する。その使者の口上は、
「真田昌幸殿は、このたびの不忠をわびて、すぐにでも城を開いて降伏したいと申しております。早急に城を明け渡したく思いますが、なにぶん、城内は戦備のために見苦しいものになっておりますので、二・三日の猶予をいただきたくお願い申し上げます。」と、ただひたすらに平伏し、涙をこぼしながら、すまなそうに言う。

その膝は、涙ですっかり濡れてしまっている。

徳川方は、この誠実味のあふれる姿にすっかり感じ入り、使者の言葉を信用して許して待つことにしたのであった。





【2015/03/17 22:55】 | 未分類 | コメント(0)
徳川家康の臣従 Ⅴ (激闘 上田合戦 1)



さて、こうして真田昌幸は上杉家をバックにして、徳川・北条と相撲をとることになったのであるが、しかし昌幸と家康との上州沼田の一件は、これは昌幸の言い分のほうが正しいであろう。


 用心深いこと無類の家康にしては、今回はあるまじき粗漏だ。

代地の分からぬままに沼田を引き渡せとは、ずいぶんひどい命令だ。

 徳川家康は、真田家を完全になめ切っていたのかもしれない。

  「命令どおりにするもよし、言うことを聞かなければ、蹴散らして追い払うまでのことじゃ。真田のようなコッパ豪族、少し脅かしてやって、それでも反抗するなら、その時は昌幸の首をひとひねりのチョンじゃわい。」と、思っていたのであろう。

 私見になるが、これは戦国時代に限らず、あらゆる史書・英雄伝を読んでいると気づくことなのであるが、歴史上に姿を現した英雄豪傑どもの共通した処世術は、
「邪魔者は消す。」の一言に尽きる。

あの寛大な仁君で有名な劉邦は、項羽を滅ぼして後、国士無双と謳われた韓信を誘殺し、鯨布は楚領の六で攻め殺されている。
その他の功臣たちもことごとく殺されている。


狡兎死して走狗煮らる(こうとししてそうくにらる)という有名な諺がある。
獲物であるすばしこい兎が死んでしまうと、猟犬は用がなくなり、煮て食べられるということ。つまり、用済みになると棄てられるということだ。

源頼朝は執拗に義弟の義経の首を追い、足利尊氏は最も信頼していた弟の直義を毒殺している。

しかし、生き残りを賭けた実に厳しい現実の中で、英雄とは、冷酷で冷徹にならざるを得ない運命にあるのであろう。



さて、真田昌幸はヒシヒシと徳川勢の攻勢に備え、沼田は例の矢沢頼綱に任せて北条への備えとし、昌幸自身は上田城で全軍の指揮を執り、長期に渡る籠城の準備にも余念がなかったのである。

 また、上杉景勝は、真田幸村(信繁)に六千五百の援兵をつけて、つつがなく上田城に急行させている。(異説あり)


 徳川家康としては、秀吉に対抗するためには、ここはどうしても隣国の北条家の味方を必要とする。北条家との盟約上、北条を味方に引き入れる必要上、上州沼田の問題を解決させなければならない。


 話し合いでも、力ずくでも、ともかく何でもよいから、早々に沼田城を昌幸から奪い取り、上州から真田家の勢力を排除し、徳川の面目にかけても真田昌幸を屈服させなければならないことになった。



 
【2015/03/16 20:03】 | 未分類 | コメント(0)
徳川家康の臣従 Ⅳ


 
 小牧役での戦績は、秀吉四分・家康六分ぐらいであったが、家康が再び秀吉と戦うことにでもなったら、徳川家だけではまことに心細い。


上方で恐ろしい勢いで大膨張している秀吉の強力な勢力と対抗するためにも、是が非でも頼りがいのある味方が必要なところであった。

 
 このようなわけなので、家康は今回も万が一を考えてマタマタ北条家に加勢を頼んでみたのであるが、北条は何度となく家康から煮え湯を飲まされている。ムカムカしながら、

「随分とムシのいい話しですな。お味方したいのは山々なのだが、こちらには上州に難題があって気苦労に絶えぬわい。
家康殿も羽柴には気苦労に絶えぬご様子で?。。。先年の約定の件は、どうなったのかの?」といった感じで、
イヤミたっぷりに言い返され、また上州の沼田の件をむしかえしてきた。


 
 こうまで言われては、動かざるを得ない。



 家康は真田昌幸に使者を送り、凄みを利かせて、

「沼田は北条家に必ず引き渡すように。これは厳命である。代地は、今のところ余地がないので、後日あてがうように計らう。きっと悪いようにはせぬ。早々に実行せよ。」と厳しく命じた。


 
 この命令が、昌幸の逆鱗にふれた。


 
 真田昌幸は領土欲の強烈な人だ。

きっと激昂して、めまいを覚えてその場に卒倒し、しかし憤激のあまりすぐさま飛び起きて、その顔立ちは阿修羅の如き形相であったろう。

「沼田はわが手で切り取った領地だ。ゆえなく北条になど引き渡してたまるか!」と、吐き棄てるように言っていたに違いないのである。



こんなわけで、昌幸は即座に家康を見限り、今度は上杉景勝に通謀し、息子の源次郎(後年の幸村。幸村は俗名で、本名は信繁)を上杉家の人質に差し出して徳川家に猛烈に反抗し出した。

 さらに昌幸はその直後、家康に反抗するばかりか、その上に、徳川家の家臣・依田信蕃の領地をギリギリと圧迫しだして、ジリジリと切り取り始めたのだから恐れ入る。



 ところで、上杉景勝は以前に、真田昌幸に裏切られたという経緯がある。しかしこの時、景勝は窮地に陥る昌幸を見棄てることなく、寛大にも以前のことはきれいに水に流し、昌幸の被官たる願いを聞き入れている。


 
 上杉景勝という人物は、実に男性的な爽快さを見せる人であり、上杉家の骨法を貫き通す心意気が感じられる。彼は謙信の甥にあたるわけで、この特性は遺伝的な要素によるものなのかもしれない。






【2015/03/14 15:13】 | 未分類 | コメント(0)
徳川家康の臣従 Ⅲ



家康にしてみれば、甲州・信州の領有権を北条家に認めさせたし、取れるものはすべて取ったし、上州もいずれ時がきたら奪い取ってしまうつもりだったので、

「しばらくは、ノラリクラリと静観していたほうが得策だな。」といった感じであったのだろう。


真田昌幸には、

「ハイハイと言って黙って聞き流しておればよいものを、すぐにムキになりおって。小豪族は、これだから扱いにくいわい。」と、内心思っていたろうし、


北条家に対しては、

「ガタガタと騒がしいものよ、沼田が欲しいのなら、独力で取ればよかろうに。俺に頼んでくるようでは、北条家も長くはないな。」といった感じで、北条家の使者をていよく追い返したのであろう。


 史書の真武内伝、改正三河後風土記によれば、家康は昌幸に対して上田城の築城を許したり、昌幸の上州における領有権を認めたままにしているので、家康は本気で北条家に沼田の地を引き渡すつもりはなかったようである。


 こうして、家康は沼田の件をホッポラカシにしておいたのだが、この最中にとんでもない事態が勃発する。秀吉との風雲急を告げる、例の小牧役のことだ。


家康は強大な勢力を率いる秀吉に対抗するため、さっそくもって北条家に加勢を頼んでみたものの、

「例の沼田の件を先にかたずけたら、お味方するであろう。」みたいなことを言ってきて、剣もホロロに断られてしまった。



そして、なんだかんだ、こんなかんだしているうちに、小牧・長久手の戦いもすんでしまった。


こんなわけだから、沼田の件はマタマタ、ウヤムヤになっていた。



ちなみに、北条家は家康との交渉では全然らちがあかないので、鉢形城主の北条氏邦に命じて沼田城を急襲させたのであるが、
沼田城を死守する矢沢頼綱(真田昌幸の家老。昌幸の叔父である。)の巧妙極める防戦の前に難なくあっけなく撃退されて、スゴスゴと引き返している。



しかしながら、小牧役の後、家康は非常に不安になってきた。






【2015/03/11 16:16】 | 未分類 | コメント(0)
徳川家康の臣従 Ⅱ



さて、秀吉は、朝廷の公家衆にうんと贈賄して、ようやく関白になることができたのであるが、しかしもともとは征夷大将軍を望んでいたのだが、秀吉が平氏を名乗っていたので実現しなかったのだと云われている。


 だが、源氏でなければ征夷大将軍になれないというわけではなく、鎌倉時代には、平氏の四人の親王が鎌倉幕府迎えられて征夷大将軍になっているという先例がある。


 しかし、世間一般の認識・常識として、「征夷大将軍は、源氏に限る。」と思われていたのであろう。


ちなみに、征夷大将軍とは、王朝時代の頃に、朝廷の権力の及ばない東北地方の蝦夷を征伐するための責任者・大将軍のことである。


 征夷大将軍は、威風堂々と軍勢を率いて下向するのではなくて、まずは少ない人数で関東に下って行き、そこで兵を募り、そして、東北を目指しながら各地の軍勢と合流して大軍勢を編成して戦うのである。

これは、阿倍仲麻呂しかり、前九年の役・後三年の役の際も同じである。

したがって、昔から関東地方から東北にかけて、継続的な戦闘状態が続いており、そのほとんどの戦闘は源氏が担わされていたから、関東・東北地方の源氏が戦争慣れしていることもそうであったし、
いつのまにか「征夷大将軍といえば源氏に限る」という認識が世間一般に広まったのであろう。


 秀吉は、征夷大将軍になれなくて、本当にくやしくもあり、あまりにも無念だったのであろう、足利義昭に頼み込んで猶子となって源氏を名乗ろうとまでしているのであるが、しかしこれは義昭からキッパリと断られている。

さすが、落ちぶれたりとはいえ、名門の足利家の子孫のことだけはある。足利義昭は名門のプライドだけは忘れていなかったようだ。

 しかし、それにしても秀吉の官位の上昇ぶりは驚くべき早さである。

 柴田勝家を滅ぼしてから、わずか二年余りで関白となり、翌年の天正十四年には太政大臣にまでなっているのだ!

 
 秀吉の位人臣を極めること、全くの限りなしである。



 一方、徳川家康の方はというと、こちらはどちらかというと、これでもかというぐらいに不利な出来事ばかりが発生している。

 
 家康は長久手の戦いで大勝利を飾ったものの、いつのまにか神輿として担いでいた織田信雄を秀吉にかすめ取られてしまうし、秀吉・信雄の和睦によって天下を賭けた争覇の夢はタチマチとん挫してしまうで、ホトホト弱り果てている。

 
  しかも、こんな時に、真田昌幸が徳川家を離反したりするものだから、トコトン困り果てている。


  真田昌幸の動静については、以前の本文の中で前述している。思い出していただきたい。


 以前、徳川と北条が甲州・信州・上州の領有権争いをした際に、

「甲州・信州は徳川領。上州は北条領とする。」と、休戦する際に誓紙を交わしていた。上州には真田昌幸の持ち城である沼田城があり、上州には昌幸の所領も多い。

 
 徳川家の被官となっている昌幸は、家康の身勝手な和睦条件に激怒し、家康の横暴に対して事の次第を明らかにするようにと徳川家に急使を送ったりしている。


 北条家のほうも、早急に真田家の沼田城を明け渡すようにと、家康に使者を派遣している。



 
 しかし腹の太い家康は、両方ともに、ノラリクラリと曖昧な返事をして、すべての使者を体よく追い返したのだ。




 
【2015/03/08 18:56】 | 未分類 | コメント(0)
徳川家康の臣従 Ⅰ



小牧の役の後、秀吉は紀州攻略に踏み切った。織田信雄・徳川家康を支持する勢力を排除するためである。

 
 紀州を本拠地とする雑賀衆・根来衆は鉄砲を重装備し、傭兵のように戦地を自由自在に動きまわり、強大な軍事力にものをいわせて気まま勝手にその勢力を拡張し、その時々の損得勘定で勝利の見込める側の味方をするのだ。


今回、小牧役の際には、三万余りの軍勢を率いて岸和田城を攻め落とし、戦略的要害の大坂城に迫る勢いを見せて秀吉の後方をかく乱したのだ。

 
秀吉は断固たる決意で紀州に軍勢を派兵し、徹底的に彼らを討滅し、本拠地の雑賀庄を焼き払い、根来寺も消滅させたのである。

 紀州は元来、本願寺の門徒が多い土地柄で、織田信長の頃は本願寺派の頑強な抵抗に遭って紀州攻略には手を焼いていたが、しかし秀吉の時代の頃には本願寺派の影響力は微弱になっていたことも紀州攻略がスムーズに進んだ要因でもあったろう。


 また、長宗我部征伐も断行し、羽柴秀長に全軍の指揮を任せ、その軍勢を三軍に分かち、電光石火の勢いで三路より四国に上陸させた。

 さすがの猛将の長宗我部元親も反抗を諦め、平身低頭してその軍門に下ったのである。


もともと、長宗我部元親は織田信長と同盟関係にあり、織田家に反抗するつもりはなかったのであるが、長宗我部元親が四国を平定する勢いを見せるまでに急成長すると、織田信長は長宗我部家に対して土佐一国しか認めないという領土の領有権の制限を命じたのである。


これに腹を立てたのが元親だ。

長宗我部家は、織田家と同盟関係ではあるが、家臣ではないのだ。元親が腹を立てるは道理なのである。



 こんなわけだから、元親は、「いらぬおせっかいめ!」と言わんばかりに織田家に反抗しだし、信長と敵対するようになったわけである。


 ちなみに、長宗我部家と織田家の同盟関係に奔走したのは明智光秀であった。

光秀は重臣の斎藤利三の娘を元親の長男に嫁がせるほどの念の入れようで、光秀は長宗我部家に対して相当の約束もしていたと思われるのであるが、これでは光秀の面目は丸つぶれだ。

これも光秀の謀反の原因の一つではないかという説がある。




そして、秀吉は北陸の越中において頑強に抵抗する佐々成政にも大軍勢を差し向け、威嚇戦を展開して佐々勢の戦意を全く喪失させて難なくこれを降伏させている。


 こうして、秀吉は織田信雄・徳川家康を支持する諸勢力をかたっぱしに征伐し、朝廷工作も抜け目なく同時進行で働きかけて、ついに、その官位は織田信長を凌いで関白にまでなったのである。


【2015/03/04 19:04】 | 未分類 | コメント(0)
不如帰 ~戦国武将の幻影~


Ⅰ<覇王編>~逆賊 織田信長を討て!~  Ⅱ<争覇編>~織田家簒奪!秀吉の野望~

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