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秀吉、覇業へ邁進す Ⅴ


さて、徳川家康は秀吉との対面を期して上洛したのであるが、この時の出来事として、史書の改正三河後風土記に逸話がある。

 家康一行は宿舎に数日逗留したのであるが、ある晩、夜ふけ近くになった頃に、秀吉が数名の供回りと小姓を一人連れて、宿舎の玄関先にふらりと姿を現した。

 徳川の家臣らは秀吉と聞いて仰天し、とにかくすぐさま家康に知らせる。

 これを伝え聞いた家康も驚いて、ともかくも出迎えに向かった。

 秀吉は懐かしい友人に会ったかのような気さくな態度で、宿舎の部屋に通されてからは手土産の地酒などをふるまってザックバランに家康と対面したのであるが、
その後、やがて周りの者たちを遠ざけて二人きりになると、その態度は急に改まり、

「ご上洛の件、まことにかたじけない。貴殿もご存知のように、わしは元々、大名の生まれではなく、卑せんの身の上です。
しかも、わしの配下の者たちは以前からの朋輩ばかりで、わしのことを常々軽く見ております。
そこで、貴殿との上洛式での対面では、諸候の手前、わしは偉そうに振る舞いますが、その時は、お気を悪くなさらずに、つまらない芝居だと思ってご堪忍願いたい。
大実力者の徳川殿が慇懃と拝謁して下されば、諸候や配下の者たちも改心して気を引き締めるでのう。」というと、真剣に礼儀を正し、頭を深ぶかと下げて一息もらした。

 家康は静かにそっと秀吉に近づき、その肩にやさしく両手をあてながら、

「おお、もったいないことを。お顔をお上げくだされ。わかってござる、わかってござる。」と、慎ましやかに答えたという。

 この話しは実に有名で、戦国のテレビドラマなどにも頻繁に使われているのだが、改正三河後風土記というのは徳川ビイキの史書なので、俄かには信じがたい逸話なのであるが、しかし、これに近いことは多分にあったかもしれない。

 秀吉が氏素性の知れない者であることは紛れもない事実であり、また、数多くの武将たちがそれを知っていたはずだからだ。

 この時代は戦国であるが、下剋上の世といえども、日本が依然として門閥重視の国家であることに変わりはない。秀吉に服従している武将らは内心、
「いやしい身分の、どこぞの馬の骨のくせに。運の良い成り上がり者めが!」と、思っていたに違いないのである。

 また、これも有名な逸話で、秀吉が若いころに今川家の松下嘉兵衛に仕え、その後、秀吉が未曾有の大出世をした時に、
松下夫妻を自分の城に招き入れ、あの頃に世話になった礼を言い、昔の恩返しとして数万石を与えたという話しがあるのだが、
改正三河後風土記には、その話しは、秀吉がその昔に、武家奉公をしたことがあるかのように演出したデッチアゲであると、言いたげに記されている。

 秀吉の幼名の日吉丸にしても、大名家の御曹司ではあるまいし、氏素性の知れない土民ふぜいに幼名などあるはずもなく、当時の門閥の武将たちからすれば不信感でいっぱいの疑念だらけであったろうし、その不快感から数多くの辛辣な風評なども水面下では異常なくらいに発生していたことであろう。

 このように、秀吉の前半生に関する憶測や風評がその足元でささやかれる中で、秀吉はずいぶん損をしたであろうし、人に語れない気苦労も実に多かったに違いない。現代風にいえば、心に抱える深刻なトラウマを持っていたといってよいのである。

そういったことに、大器量人の徳川家康が気づかないはずがない。


また、家康は秀吉に臣従を誓って上洛したのである。上洛式では、秀吉に言われなくとも、謙虚に振る舞うつもりでいたであろう。

辛抱強くも、家康は、秀吉に徹底的に尽くし切る覚悟を決めて、秀吉の最も忠実な家臣として尽力する気構えで上京したのだ。

この家康の忍従、我慢強さ、強靭な耐性、そして従順で律儀な態度が、今川義元を安心させ、織田信長は驚喜している。


 まさに、この徳川家康の特性である「強靭な耐性」は、家康の将来の嘱望を成就させるための重要なカギの一つであったといえるであろう。


 



 
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【2015/05/28 21:40】 | 未分類 | コメント(0)
秀吉、覇業へ邁進す Ⅳ



さて、徳川家康はついに上洛する決意を固め、さらさらとその準備に取りかかり、困惑して諫言する重臣たちをよそに飄々と上方に向けて出発した。

 
この時の出来事として、こんな逸話がある。

 徳川家の重臣で、剛毅で知られる本多作左衛門重次は、家康の上洛に大反対であり、いずれ秀吉が必ずや主君に害をなすであろうと思っていた。

そして、ある一計を思いつき、すぐさま行動に移す。


 本多重次は手勢を率いて、まっさきに秀吉の母親の住まう屋敷に向かい、その家のまわりにせっせと大量の薪を運び入れ、その薪を家の外壁にどんどん高々と積み上げていった。

 かがり火も、うんと用意した。


こうして、主君である家康にもしも危険があった場合には、秀吉の母親を焼き殺そうとしたのだという。


 なんとも鬼気迫るような話であり、秀吉に対する恫喝でもあり、また、徳川家中には秀吉に対するどうしようもないほどの不信感があったのであろうが、しかしこれは、
「思考停止の、ひねくれた継子根性まるだしの状態」といってよいであろう。


全国の統一を念願し、天下人を目指している最中の大器量人の秀吉が、家康に対してそんなちんけなことをするはずがないのである。


 しかしながら、この継子根性は笑えない。


 徳川家は、今川義元に徹底的に搾取され、利用され、武田信玄によっていいように騙されて、織田信長に都合よく使われたという経緯がある。

かたくなに頑固で頑迷になってしまうのも、これは仕方がないのかもしれない。



  ところが、家康は、このような家風の中で、家臣たちの心配をよそに、心穏やかに上洛を決意したのであった。


 徳川家康は、今までの経緯、自分のメンツの全てを捨て去り、秀吉に忠実に尽くし切る覚悟を決めたのである。


 ある一説によれば、

「家康はこの時、将来を期して雌伏を決め込んだのである。決して天下取りを諦めたわけではない。」とする見解もあるが、しかし、そんなことは、どうでもよいことなのである。

雌伏であろうとなかろうと、家康の律儀さを深く愛した今川義元、家康に絶大な信頼を寄せた織田信長を想うとき、秀吉がいかに家康の上洛を歓迎し、満面に笑みを浮かべて喜んでいたかがうかがい知れて、深みある興趣を誘うのである。



 そして天正14年(1586年)の10月下旬、家康は供回りを従えて大坂に到り、途中、秀吉の弟である羽柴秀長の手厚い出迎えを受けて諸事歓談し、その後は秀長の館に入っていた。


 この時の家康の心境は、まさに感無量の一言につきるものであったろう。


 ほんのわずかの4年前までは、秀吉は信長の家臣で、織田家の一武将にすぎなかった。それが、またたくまに信長の遺領のほとんどを継承し、今では絶大な勢力と権勢を掌中にし、ときの関白として朝廷の威信をも手に入れて日本に君臨していたのである。

秀吉は金銀をうんと使い、公家衆に働きかけて朝廷から豊臣の姓を下賜され、ついに天皇から信頼されるまでの天下人として振る舞っているのだ。
 

 何事も堅実地道に歩んできた家康にとって、まさに驚嘆すべき事実であったにちがいない。



 ところで、徳川家康公の石碑に刻まれた家訓として、

「人生は重き荷物を背負うて遠い道を行くが如し、焦るべからず、これを常と思えば悔いはなし」 というのがあり、家康公の遺訓として知られているが、、しかしこれは後世の創作であり、家康公自身が語った言葉ではない。


しかしながら、徳川家康の生涯とは、まさに忍従の連続であり、この言葉が家康公の遺訓として根強く伝播してしまうのも仕方がないのかもしれない。

 
 歴史の素人は、秀吉が好きになる。歴史の玄人は、家康が好きになる。というが、本当にそうだ。

 徳川家康公の生涯を細かく調べれば調べるほどに、自然と引き込まれていき、逐一、人生とは、運命とは何かを、常に問いかけられているようで、深く考えさせられてしまうのである。





【2015/05/23 21:25】 | 未分類 | コメント(0)
秀吉、覇業へ邁進す Ⅲ



さて、秀吉は、その母親までもを徳川家に人質同然に差し出して、家康の猜疑心を和らげて上洛を促すのであるが、しかし、家康の方としても、こうまでされては、いたしかたなしと感じたであろうし、もしかしたら内心、
「ここまで徳川家を高く売りつければ、もう十分だ。」と思っていたのかもしれない。


 徳川家康は、戦国の艱難辛苦を乗り越えてきた実際家の現実主義者だ。

 家康は義理や人情におぼれて動いてしまうような甘い人物ではないが、しかし結局のところ、家康が秀吉に対して反抗し続けることは、その勢力を見比べてみても、その財力を比較しても、当時の情勢を考えてみても、しょせんは無理な話しで、秀吉と戦い続けて共倒れになるどころか徳川家の滅亡は火を見るより明らかな形勢だったのである。


一説によれば、家康が北条家と手を組み、東の伊達と結び、西の島津と和親して秀吉を挟撃して対抗する手段もあったとする見解もあるが、しかしそんなことをしたところで、いずれはジリジリと負けるに決まっているのだ。

肝心の徳川家が、秀吉の老かいな調略攻めに遭ってひどい揺さぶりを受けており、隣国の北条とは上州沼田の件でもみにもめていて決して親しい間柄であるとは言い難い仲なのである。

また、史料その他の史書を細部に渡って検証するに、家康の周囲は徳川の存亡に関わる難題だらけであり、ヘビに睨まれて居すくんだガマの油と思っていい。


実際、この時、秀吉は側近の者に、

「あくまでも家康が反抗し続けるのであれば、その時は、徳川の領国を一つの城塞に見立てて、四方八方から非常線を張り、籠城攻めにして干し殺してやるまでのことじゃ。
そうしておいて、金銀を使って、徳川の家臣どもを調略する、徳川の領民を扇動して一揆を誘発させる、上杉、佐竹を動かして攻撃もさせる、北条には利害を説いて協力させる。時間はかかるが、徳川を滅ぼすはぞうさもないこと。」と、豪語したという逸話があるが、これはあながち嘘ではあるまい。


したがって、家康が他の諸大名たちと同じように秀吉に臣従しなければならないのであれば、あらかじめ、徳川の株を大いに上昇させておいたほうが、ここは断然に得策なところなのだ。


家康の正室として送り込まれた旭にしても、秀吉の母親の下向にしても、家康の株はこれ以上にないぐらいの急上昇ぶりなのだ。

 聡明な家康であれば、かなり早い段階からこのことに気づいていたであろうし、羽柴家の強大な軍事力、絶大な資金力、秀吉の人物としての器量もある程度は認めていたであろう。


  また、家康の座右の銘ともいえる、論語の「信」、人を信じるというキーワードも大きく関係していたのではないかと思われる。


 山岡荘八先生の小説「徳川家康」の中に、家康の人格形成に多大な影響を与えたであろう有名な逸話がある。

 家康がまだ竹千代といって9歳前後の頃、駿河国の今川義元の元で人質生活送っていた時に、臨済宗の高僧で、博識の豊かな大原雪斎和尚に手習い場において教示を受けている場面でのこと。

雪斎和尚いわく、

孔子さまの弟子が、「政治とは、なんでしょうか?」と質問した。

孔子さまは、「おおよそ国家とは、政治には、人と人とが信じ会う(信)と、食料の(食)と、国を守る武力(兵)がなければならない。」と、お答えになられた。

その弟子が、「そのなかで、どうしても一つを棄てなければならない時には、どれを捨てたらよいでしょうか?」 と聞いた。

竹千代殿なら何を捨てるかな?と、和尚はにこやかな笑顔で問う。


竹千代は、「兵を捨てまする。兵がなくても、人は生きていけますので。」と、答えた。

和尚はニッコリして、
「そうじゃ、孔子さまもそう答えたぞ。竹千代殿は本当に思慮深いのう。よし、よし。
うむ、それでじゃ、その弟子が孔子さまに再度、それでは、残りの二つのうち、どちらかをどうしても棄てなければならなくなったときに、どちらを捨てたらよいでしょうか?と、また聞いた。竹千代どのはどちらを捨てるかな?」とたずねる。


「信を捨てまする。信があっても、食が無くては生きていけません。それゆえ。」


和尚は一息入れると、真顔になり、ゆっくりとした口調で、

「(食)があっても、(信)が無なければ奪い合いになり、これすなはち獣、けものの道じゃ。

信が無ければ、食料を奪い合う血みどろの戦いとなり、負けた者はますます飢えていき、勝った者も、いつまでも勝ち続けることはできない。だから、獣は長くは生きられない。

人が野獣ではなく、人が人であるのは、「信」があるからであり、信じ合えるからこそ人間なのじゃ。わかるか。」という話しがある。




私は、この話しが大好きである。


感激、感動する。



あの東北の大震災のときに、ヘリコプターで救援物資を運んで来たアメリカ兵たちは、降下して荷物を降ろすことに躊躇したという。

なぜなら、各国で同じような緊急の場面の際には、必ず群衆が暴徒と化し、救援物資の奪い合いが始まり、殺し合いまではじまるケースが多くあり、殴る蹴るの暴行の末に死人まで出るという見るに堪えない光景に遭遇するからなのだという。

しかし、この時は、群衆は静かに整然としていて、着陸したヘリに代表者らしき日本人がに近づいてきて、深々と礼を述べ、次第に集まってきた人々が静々と救援物資運んでいったという。

そしてその代表者らしき日本人は、
「ここは、もう、これぐらいで十分だと思います。残りの物資は、至急、他の被災地に持って行ってください。よろしくお願いします。」
といって、アメリカ兵たちを感動させたという話しがある。


また、被災したコンビニの経営者が、店を解放して、
「好きなだけ持って行ってください。緊急のことです、代金は後日、いつでも構いませんので、いつか返して頂ければ結構です。」といって近所をまわった。

そして、次第にお店に集まってきた人々は静々と、申し訳ないといった感じで、暴動が起こるわけでもなく整然と商品を持って行ったという。

そして後日、落ち着いた頃に人々が続々と店にやってきて、あの時のお礼を言い、代金を置いて帰って行ったのであるが、その代金の合計は、本来のお店の売上代金の三倍をうわまわってしまったという。

 人々は、感謝の気持ちも込めて、代金に謝礼も含んで置いて行ったからである。



 日本人には、今の現代も「信」が生きている。
 

世界史の年表を見てほしい。中国大陸も、西欧諸国も、時代によっていろんな民族、いろんな王朝に支配されている。まさに弱肉強食、人を信用することなど、騙されて滅ぼされるかもしれないので、恐ろしくてできない。


 しかし日本は、他の異民族に支配されることなく、いろんな政権(公家の支配、幕府)はあったが、ずっと日本は日本、そのままだ。

 まさに天佑というべきか、「信」が育まれやすい土壌があったといってもよいのかもしれない。


  
 「信」は、日本の伝統的な文化であり、日本人の誇りであろう。




【2015/05/16 14:44】 | 未分類 | コメント(0)
秀吉、覇業へ邁進す Ⅱ


 ともあれ、秀吉は、半ば強引に旭を家康の正室として輿入れさせて、徳川家に対して最大限に譲歩したつもりであったのであろうが、家康は上洛するそぶりを全然見せない。

婚儀における形式上の答礼の使者が往来するばかりで、家康は全くのダンマリを決め込んでいたのであった。


 
 秀吉はまさに青息吐息、焦慮して悩んでいたに違いないが、
諸史料によれば、秀吉の風呂思案は実に有名な話で、ここ一番の悩みどころの時には、よく風呂に入り(この時代は、まだ蒸し風呂のケースが多い)、体を温めたり、こすり洗いなどして、なんとなく思案していると良いアイデアが自然に浮かんできて、今までの悩みの種であった難題がきれいに解かれて、九死に一生の窮地を脱することも多かったという。

 おそらくこの時も風呂に入り、ふと、ひらめいて、
「だれぞおらぬか!いますぐに官兵衛を呼べい!」などと言って、秀吉の知恵袋的な存在である黒田官兵衛にも相談していたことであろう。


そして、秀吉は悩み抜いた末に、敬慕する母親(大政所)を、家康の正室として嫁いだ旭を見舞うという名目で、徳川家に送ることにしたのであった。

これは、母親を人質として差し出したも同然なのである。

 秀吉の母親想いは実に有名な話しになっていて、当時も大変な評判であった。秀吉の書き記した書状、史料などを検証するに、秀吉の母親への敬愛の念、最愛の情などが赤裸々に書きつづられている。


秀吉は悲壮な面持ちで、断腸の思いであったにちがいないが、しかし、母親としては実にいい迷惑なところで、これも実にひどい話しだ。
実質的に人質となって敵地に送られるわけだから、恐怖もあり、寂寥感もあり、老年にムチ打つ思いで悲壮感もひとしおであったろう。


 まったくもって、当時の女性たちは本当に気の毒でならないのであるが、しかし、余談になるが、その時代に、たくましく猛々しい一面を見せた輝かしい女性たちも数多く存在しているのも事実である。


例えば、中世であれば、やはり木曽義仲の巴御前、山吹御前などは敵兵を無数に斬り倒しており、越後城氏の勇婦、板額御前は強靭な強弓の使い手で、敵将を弓で射殺すること無数、その弓矢の矢羽まで突き刺さる強弓で、死者算なしの状態となり、源為朝の再来を想わせる働きぶりを見せて、城に押し寄せていた鎌倉方はタジタジになっている。

戦国時代には、池田恒興の娘のせんが鉄砲隊を指揮して大激戦に参加しているし、家康の家臣である飯尾連竜の娘、お亀は戦場で勇敢にあばれまわって数十人の敵兵を斬殺している。


また、女性のやきもちも、その焼き方によっては相当以上の逸話も存在する。

福島正則は戦場において、一度たりとも、そのうしろ姿を見せたことがないと豪語していた武将であるが、ある日、妾をかこっていることが奥方にバレて、猛烈に激怒した奥方が薙刀を振り回しながら急迫してきた時は、さすがにその恐ろしさのあまり逃げ出して、ついうしろ姿を見せてしまったと述懐している。


また、細川忠興の娘のおこまは、夫と密通して、いけしゃあしゃあとしている侍女に怒り、火鉢にさしてある熱鉄の鉄箸を手に取って、その侍女に、
「ここへおじゃ。こちらにおじゃ。」といって近くまで呼び寄せ、その熱鉄の鉄箸でいきなり侍女の体を突き刺した。
肉のこげた臭いの中で絶叫してのたうちまわって苦しむ侍女に執拗に何度となく突き刺して、最期は、三本目の鉄箸で突き刺しているうちについに絶命してしまったという話しがある。



今の時代もそうであるが、男女ともに、信義・誠実を裏切った行動をすると、その報いも尋常ではないという好例であろう。



【2015/05/09 18:10】 | 未分類 | コメント(0)
秀吉、覇業へ邁進す Ⅰ




 さて、覇業の成就を念願する秀吉にとって、徳川家康の誘降は非常に重要なキーポイントであった。


 九州での島津家の猛威もそうであるが、関東では相変わらずの北条家がドッカリと腰を据え、関東八州を制して勢いさかんであるし、東北地方にいたっては戦乱による攻伐が繰り返され、伊達家の勢いが増大していた。

伊達家は、当主の政宗の代になると領土の拡張路線まっしぐらに突き進み、後年、秀吉とよしみを通じる佐竹・蘆名とも激烈に交戦し、秀吉からの停戦命令も全く無視して、
「お怒りはごもっともなれど、逆に、佐竹・蘆名が先にしかけてきたので、やむを得ず戦ったまでのことです。」などと、言い訳にならないような言い訳をしてごまかしてしまうという横着ぶりなのだ。油断ならないのである。


 秀吉がこのまま家康と敵対を続ければ、その兵力を集中的に動員することができず、九州征伐すらおぼつかないのが実情であった。


 一刻も早い天下統一を念願する秀吉にとって、家康の誘降は必要条件でもあったのである。


 小牧役の後、秀吉は織田信雄を通じて家康に上洛を促しているが、キッパリと断られている。

 
 秀吉は思案に暮れ、その後、政略結婚を思いつき、異父妹の旭を家康の正室として送り込むべく、その婚儀を家康に打診してみた。

家康はこれには即座に快諾して、婚儀はめでたく成立し、秀吉と家康は義兄弟の間柄となったのであるが、しかしこれは実にひどい話しだ。


旭はすでに既婚者で、兄の無理強いによって夫婦仲を強引に引き裂かれ、半ば人質の役目として徳川家に嫁いで行ったのだ。
その年齢も四十をとっくに過ぎており、当時であれば老年にあたるのだ。家康も好き好んでのことではなく、政略的な目的であったことは明らかなのだ。


 情愛の深い夫と強引に離別させられ、その挙句に無理やり白粉を塗られ、泣く泣く輿に乗せられて敵地に送られたのである。

 しかもその後、前夫は離別を苦にして自殺したという説まであり、本当に痛ましい限りだ。


 これは当時の権力者らのあさましさであり、その時代で権勢をふるう秀吉には、もはや、昔日の藤吉郎の姿はないのである。


 戦国の世の無常、非情さを本当の意味で実感していたのは、この時代に生きた女性たちであったろう。


 
【2015/05/05 15:07】 | 未分類 | コメント(0)
不如帰 ~戦国武将の幻影~


Ⅰ<覇王編>~逆賊 織田信長を討て!~  Ⅱ<争覇編>~織田家簒奪!秀吉の野望~

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