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秀吉、天下人への道 (戦国の麒麟児 蒲生氏郷)

さて、秀吉の九州平定は順調に進んでいくのであるが、秋月氏の拠る豊前の厳石城は天嶮の要害で、この難航不落の要塞を攻略した武将が蒲生氏郷である。

前田勢を始めとする他の諸隊などもこの攻城戦に参加しているが、蒲生氏郷の用兵はずば抜けて優れており、秀吉が比類なき名将と褒めたたえ、軍功第一として激賞しているほどだ。

 後年、奥州の伊達政宗の押さえとして会津の地を任される蒲生氏郷の武名は、この戦いで大いに上がったのである。 

この厳石城攻めの際に、以前に書いた話しであるが、おもしろい逸話がある。

 本多三弥正重という武将は、その昔、徳川家康の三河の一向一揆の際に、宗門の教えを信じて一揆勢に加担して徳川勢に反抗した人物だ。
家康によって三河が鎮定されると、本多三弥は家康からの誅殺を恐れて徳川家を出奔し、その後は、諸家を渡り歩いて功名を立てたが、秀吉の九州征伐の時には、蒲生氏郷の配下となって従軍している。その時の出来事。
 
 蒲生氏郷は秀吉に巌石城攻めをしいて願い出て、これが許されてさっそく攻囲にかかるのであるが、氏郷が軍勢の士気を鼓舞するために自ら貝を吹くのだが、しかしどうしたものか、これが全然鳴らない。

本陣に居合わせていた本多三弥がそれを見て、床几に腰かけたまま、
「総じて、腰抜けの吹く貝は、いざという時には鳴らぬものでござる。」といった。

この横柄な言動に氏郷は激怒し、

「ならばそのほうが吹けい!しかし貝が鳴らずば、決して生かしておかぬ!」と怒声を放ち、刀のつかに手をかけて鋭い眼光で睨みつける。
 憤激のあまり、今にも抜刀して斬りかかる勢いだ。

 しかし本多三弥は全然気にすることもなく、ゆっくりと床几から立ち上がり、氏郷から貝を取り上げ、

そして、高々と三度までも貝を吹き鳴らし、

「これが、剛の者の吹く貝でござる!しかとお聞き候か!!」と言い捨てて、槍を取って敵中に突入して行ったという。
 
 本多三弥という人物は平然とずけずけとものを言う人で有名で、これは本当に特異な例であろうが、しかしこのような剛情な気質が戦国の武士たちには少なからずあったのである。

 また、蒲生氏郷にはこんな逸話もある。

 蒲生氏郷は、戦場に臨んでは必ずといっていいほどに先頭に立って槍をふるう、陣頭指揮型の猛将であった。先陣を切って自ら戦場で戦うので、その将兵らは大いに励まされ、蒲生勢は実に勇猛果敢で精強であったと云われる。

 ある日、秀吉が家臣たちと雑談中に、
「織田信長公と蒲生氏郷が戦ったら、どちらが勝つと思う?」と問いかけたが、家臣たちは首をひねって考え込んでしまい、答えが出ない。

秀吉は笑いながら、
「信長公の軍勢が必ず勝つ。なぜなら、氏郷の軍勢の兜首が五つもそろえば、その中に必ず氏郷の首があるはずじゃ。信長公の首は、その軍勢を全滅させなければ取ることはできまい。」と言ったという。

確かに、蒲生氏郷は歴戦の勇将であったが、戦場においては常に陣頭で戦うので落命の危険性も大きく、近年になって氏郷のことを「猪武者」と評する見解もあるのだが、しかし、これにはちゃんとした理由があるのだ。


 甲州・信州・越後といった酷寒酷暑の気候下で黙々と鍛錬に鍛錬を重ねられ、地味甲殻な土地がらで練りに練り上げられた兵士らは実に木強・精強であるが、土地肥沃・気候の温暖な尾張・近江などの兵士らは体力、忍耐力ともに劣りがちであり、気力も気迫も勢いも、比較にならないぐらい劣弱であった。

こうした兵士たちを、生死を賭けた戦場で奮戦させるためには、主将自らが陣頭で指揮を執る必要があったはずなのである。

 武田信玄のように、本陣にどっかりと腰をすえて、「動かざること山の如し」のありようは、これは甲州武士の兵員の質に恵まれていたからこそ可能だったのである。

諸史料を調べると、秀吉は厳石城攻めの際に、蒲生氏郷の身を心配して、討死させてしまうことを懸念して出撃させることを非常にためらっているが、氏郷の強い要望もあって出陣を許可している。

 蒲生氏郷は本当に逸話が多い人だ。
 会津の地を大商業都市にしたのも氏郷であり、経世家としての腕前も一流中の一流である。

 
 人使いも本当にうまい。こんな逸話もある。

戦国時代の頃は、風呂といえば大変な馳走であった。

 もっとも、風呂といっても当時はむし風呂が主流で、現代版のサウナのようなものである。

 蒲生氏郷は、家中の者たちが自分の屋敷にやってくると、大いに饗応して風呂に入ることも勧めて、自ら裏方にまわって風呂の用意をして、マキをくべて火をおこし、それに筒木をつかって息を吹きかけて風呂加減の世話役までしたという。

 これに類似した逸話は他にも数多くあるのだが、当時の武将たちは、家臣の心をつかむ努力に余念がなかったのである。


 現代のサラリーマンの世界でも、命令するだけで威張っている上司は嫌われる。

 部下から慕われる人は、定年後も、人間関係の良好な方々が多いように思われる。

 

  
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【2015/06/27 23:14】 | 未分類 | コメント(0)
秀吉、天下人への道 (1 秀吉の九州征伐)


さて、九州の豊前口方面から侵攻した毛利勢を後方から支援するため、羽柴秀長に率いられた豊臣勢が黒田官兵衛を軍鑑(総参謀長的な役割)として向かいつつあり、やがて秀吉も主力の本隊を率いて出陣し、余裕しゃくしゃくの遊山気分で北九州に上陸して全軍を督励した。

 
 秀吉の九州征伐はまことに順調に進んでいき、島津方の秋月氏の拠る厳石城(がんじゃく城)攻めにかなり苦労させられたぐらいで、電光石火の素早い軍事行動で急速に南下を続けて島津を難なく降伏させている。

  九州全土を席巻して統一するかのような勢いを見せていた島津であったが、
秀吉の率いる膨大な軍勢の前に土崩瓦解し、島津方の諸豪族らは豊臣勢の威勢を知ってたちまち離反してあっさりと秀吉に降伏してしまう始末だし、
島津勢は戦略的な要地である高城付近に展開する豊臣勢に得意の夜襲を仕掛けてみたものの、逆に黒田官兵衛・藤堂高虎の軍勢に奇襲されて大損害を被って散々な目に遭ってしまうし、
どこの戦いでも勝つことができないしで全くいいところがなかったのであるが、あくまでも島津に味方して頑強に抵抗していた秋月氏の厳石城が落城したことが、島津家がやむなく降伏に追い込まれた契機になっている。


 前代未聞の圧倒的な軍勢を見せつけて威嚇戦を展開し、敵対する諸勢力を威圧して降伏させる手法は秀吉の得意とする戦法であり、これは織田信長から学んだ戦術といってよいであろう。

信長は、まだ身代がそう大きくなっていない頃から威嚇戦を展開し、易々と北伊勢を攻略しており、また、足利義昭を担ぎ出しての上京の際には、あくまでも敵対する諸勢力を威嚇して威圧し、そのおかげで観音寺城の六角氏も難なくひとあてに蹴破って上洛を果たしている。


 秀吉の威嚇戦の前にクモの子を散らすように島津から離反していく諸豪族の中で、秋月氏だけが唯一、島津家のために頑強に抵抗したのであるが、これは、島津との間に友情に似たような深い親交や、何らかの恩義を感じてのことであったに違いない。

 また、島津家としても、島津の身代わりのようになって孤軍奮闘する秋月氏のためにも、そう易々と降伏することなど断じてできないところであったろう。


 
 ここで私見を書くが、私は関東の神奈川生まれで、大学や社会人になって他県の方々と交流する機会が多くなったのであるが、
私は九州出身の人には親しみを感じて好意的になってしまう習性がある。

九州生まれの九州育ちの方々と出会って思うことは、本当に義理人情があって人間性にとても深みがある人が多いと感じることだ。
これは、私の独断と偏見にすぎないのかも知れないし、自分の経験不足ももちろんあるが、しかし今まで九州生まれの方々と知り合いになって嫌な思いをしたことがほとんどない。
実に人情味があって深みがあり、とてもおおらかで明るい人が多いように思われる。

九州は自然災害の多いところだ。
毎年のように大型台風の猛威にさらされて風災・水害に遭い、火山の噴火と火山灰の被害など、自然災害は数え上げたらきりがないのである。
このような過酷な環境下の中で、人と人とが協力し合い、信じ合える温かい深みのある人間性が自然に薫陶されるのかもしれない。

 
 島津家について諸史料を調べると、島津の家法に「武者引導(むしゃいんどう)」というのがある。

 これは、戦場で戦って討死した敵の兵士を丁重に埋葬し、ねんごろに弔い、供養することをいう。

 この武者引導は、島津家の家法であるので、どこのいくさでも行われ、在陣する大将格の武将が祭主となって執り行われている。

 時代が平和になると、毎年七月一日から三日までの三日間、鹿児島城北の福昌寺で大施餓鬼といって藩主がみずから参拝することになったようである。

 参勤交代で藩主が不在の場合は、一門の者が名代となり、家中の重臣たちを伴って参拝したという。

 戦死した敵兵をねんごろに弔い供養する話しは珍しくはないが、しかしそれを家法にまで位置づけて厳格に順守し、太平の時代になっても引き続き供養の儀式を踏襲し続ける島津家の姿は、本当にすばらしい。


 秀吉の出現によって島津の九州制圧はとん挫してしまったが、しかし、九州の諸豪族たちが島津家に慕い寄った気持ちがよく分かるのである。


 
 
【2015/06/20 19:03】 | 未分類 | コメント(0)
秀吉、天下人への道 (2 乱世の群雄)


さて、秀吉の九州平定において、豊後口から侵攻した四国勢は島津の苛烈極まる猛反撃に遭って大壊滅してしまったのであるが、その後、豊前口方面から上陸した毛利勢は順調に進撃し、小倉山城をわずか一日で開城させている。

毛利勢はたいした抵抗も受けずに快進撃を続けたのであるが、これは、四国勢のまさかの大敗北に秀吉が驚きながらも激怒して、毛利勢を督励して黒田官兵衛・羽柴秀長を軍目付として本腰をいれた派兵を決意したので、それを伝え聞いた島津勢が及び腰になり、本国での決戦にも備えるため、北九州の諸大名たちに現地を任せて引き上げ始めていたことも幸いしている。


 島津勢は本国に引き上げる際に、立花城の立花宗茂を警戒して宝満城を降将の秋月種実に任せ、例の岩屋城にも守備兵を入れ、付近に高鳥居城を築いて武将の星野吉実に守らせたのであるが、立花宗茂は積極果敢に攻勢に出て、卓抜な用兵を駆使して島津勢を撃破し、逆に高鳥居城を熾烈に猛攻して星野吉実を討ち取って落城させるほどの獅子奮迅の働きぶりであった。


 ところで、立花宗茂も逸話の多い人であるが、ここで一つ、有名な話しをご紹介したい。

秀吉は後年、群雄の北条家征伐を断行するのであるが、その数か月前に諸大名を召集して大広間に招いたことがある。その際の出来事。

 徳川家康をはじめ、そうそうたるメンバーが続々と大広間に姿を現して着座し、その席上にずらりと居並んでいた。
 秀吉はそば近くに控えている家康に、
「今日は、本多平八郎忠勝を連れていますか?」と、ささやくように言った。
 家康は、にこやかにうなずいて、
「はい、連れております。」と、即座に答える。
「ぜひ、ぜひ、この場に召されよ。」と秀吉は催促して、その一方で立花宗茂も呼び出した。

 ほどなくしてその両名が姿を現し、秀吉の前で参会すると、秀吉は満足気に大音声に、
「みなのもの、こちらが東国無双、武人で誉れ高い本多中書。こちらは西国で武勇かくれなき立花左近将監じゃ。本多中書は家康殿を助けて東国を守護し、左近将監は西国のかなめとなって忠義に励んでくれい。両名ともに、まさしく真の武人、日本にかくれなき無双の者じゃ。」と言って、秀吉の前で対面させて懇親を結ばせた。

これを眺める諸大名は非常にうらやましく思い、また、両名を賞賛してほめたたえたという。

秀吉は信長と同じように、本当にほめ上手な人で、天下一とか、日本無双の槍、鎭西第一、古今の名将などと言って武将らをほめたたえ、また、秀吉にほめられて感謝感激した者たちも数え切れないほどいるし、そうした逸話も非常に多いのであるが、私の見聞する範囲の中では、このような最上のほめられ方をしたのは、この両者だけである。

今の現代のサラリーマンでも、めったに会うことのできない社長にポンと肩をたたかれて、
「君の噂は聞いている、期待してるよ。」なんて言われて感激して、定年になってもいまだに記憶して覚えている人も多いのも頷ける話しである。

 また、両者ともに、相当に感激したらしく、その後日、立花宗茂が本多忠勝に招かれて参会し、武辺話しに花を咲かせていっそうの懇親を結んでいる。


 しかし織田信長も秀吉も、ほめ上手もそうであるが、人使いも本当にうまい。

 信長は、戦場には必ずといっていいほどに、棺桶のような細長く大きな箱を本陣に運び入れていて、その中には金板・銀板がザクザクと入っており、武者たちが敵将の首を取って信長の御前に報告に来るたびに、
「うむ、まさしく日本無双の槍じゃ。よくやった!」とほめたたえ、金板・銀板を片手にグワリとつかみ取って、
「それ、褒美じゃ。」と言って、ばらまくように投げ与えていたという。

 秀吉にも、同じような逸話があり、武士たちが期待していた以上の褒賞に驚き、想像以上のほうびに感謝感激している話しが多い。

 このような逸話がある。

 明智光秀の元に、秀吉の家臣だった者が仕官を求めてきた。

 「羽柴殿は、最近は本当に評判が良いが、何か変わったところがあるか?」と、光秀が聞いた。

 「さて、とくに変わったところはございませんが、しいていえば、こちらがびっくりしておどろくほどの褒美をくださることがございます。」といった。

 光秀は真顔になって驚き恐れ、しばらく無言で考え込んでいたという。


英雄には、ザックバランのイメージがあるが、相手の気持ちを洞察する細かい気づかいも必要なのであろう。




【2015/06/13 15:25】 | 未分類 | コメント(0)
秀吉、天下人への道 (1 乱世の群雄)

さて、徳川家康の臣従により、秀吉は東方の後顧の憂いを解消し、さっそく懸案の九州平定に乗り出した。

 家康の領国は今や、三河、駿河、遠江、甲斐、信濃にまで及んでおよそ五か国、その領地は武田信玄の最盛期に倍する以上の勢力であり、徳川家が東国のかなめとなってくれたおかげで、秀吉は安心してその兵力を西国に集中して動員することができたのである。

 一刻も早い天下統一を念願する秀吉にとって、徳川家康の臣従は実にありがたいことであった。

 秀吉のまわりにいる乱世の群雄の中で、最も恐るべき竜虎のような徳川家が秀吉の味方になったことで最速のスピード劇とでもいうべき早さで天下の統一が進んでいくのである。

 しかも、徳川家は秀吉と戦って負けて臣従したわけではない。


 まさしく、家康が秀吉に天下を取らせたといっても過言ではあるまい。


 さて、九州の豊前口からは小早川隆景の率いる毛利勢が主力となって上陸し、豊後口から仙石秀久が総大将となって長宗我部元親、十河存保といった歴戦の勇将らに率いられた四国勢を中心とする部隊が怒涛の快進撃を敢行する。


 だが、豊後口の四国勢は島津方の強襲のような熾烈な奇襲と猛反撃に遭い、あっさりと壊滅して瓦解崩壊してしまった。

豊後の戸次川(べっき川)において島津勢の猛烈な強襲を受けて、長宗我部元親の嫡男で猛将で有名な信親が大乱戦の最中に戦死し、大将格の十河存保も討ち取られて無念の敗死、四国勢は目もあてられないほどの大敗北の憂き目に遭い、早急に撤退するものの、島津の苛烈極まる猛追撃を受けて大損害を被り、その将兵らは恐怖に顔面蒼白のチリジリの状態となって敗走した。

総大将の仙石秀久などは逃げるに逃げたり、さっさと戦闘の総指揮を放棄して戦場からまっさきに逃亡し、遁走して海岸に出て大急ぎで船に乗り込み、全軍を見捨てて早々に四国めざして落ち急いだあげくに、こそこそと淡路島で雲隠れしてしまっている。


そもそもこの戦闘は、歴戦の猛者である長宗我部元親、十河存保が島津方の伏兵ありとみて総大将の仙石秀久に対して、不案内な地勢であり、急進撃を中止して物見を放っての敵情偵察の必要性を進言し、危険性を訴えて強く諌めたのであるが、強がりの仙石のじいさんが空威張りで強行したばっかりにこういった顛末になったのだ。

強がるわりには、いざとなると驚くほどにだらしがない人は古今東西いるものであるが、しかしこれほどまでに憶病で破廉恥な行状を見せた総大将も珍しい。珍重すべきである。


 この時、長宗我部元親は敗軍をまとめて戦場を離脱したのであるが、その時の事として逸話がある。

 元親は敗軍を率いて海岸に向かって離脱を図ったのであるが、浜辺の船が干潮で出しようがなく、撤退できずに難渋して困っていたところ、
島津家久の使いの者がやってきて、

「このたびのいくさでのご子息の討死、弓矢のうえでのこと、ぜひにおよばぬ次第でござる。しかるところ、干潮での船出の難渋とお見受けいたす。潮を待ってゆるゆるとお引き上げくだされ。」といったという。

 まさしく、島津家久とは薩摩隼人の典型、男性的な爽快さを見せる武将であり、その勇武才略の逸話も本当に数多い。

 島津といえば、やはり維新入道義弘公の武勇は実に有名であるが、島津家久公も勝るとも劣らない知勇兼備の猛将であった。

 こんな逸話もある。

 天正12年の三月頃、肥前の島原の有馬義純が竜造寺家の猛攻撃を受け、島津に援軍を要請してきた時のこと。

 島津家の当主である島津義久が、援軍の大将として、兵庫(義弘)と家久、どちらを遣わしたらよいか迷っていた。

 側にいた重臣の新納武蔵守忠元が、

 「兵庫殿は陣中にあって敵の噂を聞いて慎重に工夫しますが、しかし戦場にあっては勇猛果敢なお方です。家久殿は陣中にあって敵の噂や恫喝などには歯牙にもかけませんが、しかし戦場においては慎重に工夫するお方です。今回は家久殿が適任でありましょう。」といっている。

実際、島津家久は寡兵の三千の援兵を率いて奇襲、強襲、猛烈な獅子奮迅の働きで竜造寺を撃破し、当主の竜造寺隆信はこの戦いで討ち取られている。

二人の武将としての特徴の違いがよく分かる話しである。


 ちなみに、後年の関ヶ原の戦いの際、島津義弘は慎重にすぎて引き際のタイミングを失い、敵中突破して戦場から離脱するのであるが、その時に従軍していた島津豊久(家久の子)は、

「叔父上(義弘)が討死なされたら、島津はたちもさん。身代わりしてしかるべし。」と決意し、鉄砲隊を駆使して猛然と追撃してくる東軍将兵らを翻弄し、その最期は壮烈に戦い抜いて義弘の身代わりになって討死している。徳川の重臣である井伊直政は、この時に受けた銃撃の傷がもとで後年に死んでいる。


 ところで、島津家久には毒殺説があり、後年、羽柴秀長が家久の知勇才略を警戒して宴の席での食べ物に毒を盛ったという話があるが、この話しは到底信じられない。羽柴秀長は雄略の人である。そんなことをするはずがないのである。

 毒殺説といえば加藤清正、堀秀政、蒲生氏郷、羽柴秀長もそうであり、本当に惜しまれて亡くなった人物にはついてまわる話しなのである。
 


 
【2015/06/06 20:24】 | 未分類 | コメント(0)
コラム 徳川家康と毛利元就


徳川家康と毛利元就には、両者の伝記を詳しく調べていると、非常に酷似する点が実に数多くあることに気づかされる。

家康も元就も、弱小国を率いて、隣国の精強な大国に睨みを利かされて苦労させられたこともそうであるが、盟主と仰いだ大名から非常に大切に扱われ、とても信頼されていたことである。

 家康については本文で前述しているので書かないが、毛利元就は大内義興や尼子経久から非常に信頼され、本当に大切に扱われている。

 大内義興は周防・長門などを中心に大勢力を誇った西国の大実力者で、京都に入洛して辣腕をふるったほどの政治力の持ち主であり、信頼感のある大器量人であった。

 尼子経久は、まさに戦国の風雲児とでもいうべき人物で、その勢力の最盛期には中国地方全土を席巻するほどであった。

 少し話しがそれるが、尼子経久にはおもしろい逸話があるのでご紹介したい。

 尼子経久はたいへんに気前の良い、物にこだわらない人であったので、家臣たちに恩賞をはずんで与えたことはもちろんのこと、むやみやたらに物品を分け与えてしまうので、経久の館には貴重品はおろか、これといっためぼしい家財道具もほとんどなくなってしまい、したがって、その生活は実に倹約的で質素なものであった。

 家臣たちが経久の館を訪れた際に、何気なく経久の所有する物品をほめると、

「そうか、そうか、持っていくがよいぞ。」と、気軽に持って行かせたりするので、家臣たちはしだいに心苦しくなり、そのうちに、自然、経久の前で物品をうかつにほめないように気を配るようになった。

 そんなある日、家中の者が経久の館を訪れ、邸内を通されて縁側の廊下を歩いていた際に、なにげなく庭園の方を見やると、巨大な樹木が青々と風になびいていて、それはそれは見事な枝葉ぶりであった。

 その者は思わず、
 「ほほう、すばらしいものですなぁ。」と、つい、うっかりほめてしまったのであるが、
 経久は何も言わずにニコリとして、ただうなずいただけであったし、
 その者は内心、「まさか、あの巨木を持って帰れとは言わないだろう。だいいち、あれは巨大に過ぎて、運ぶことなど現実的に不可能じゃ。」と思い直し、すぐに安心して、その場は何気なく通り過ぎた。


 ところが、その数日後、その者は帰宅して腰を抜かすほど仰天した。

 なんと、家の門前に例の巨木が、大量のまき割りの姿となって届けられていて、それは山のように高々と積み上げられていたという。


 なんとも興味深い話しであり、かなり誇張された逸話であるとも思えるのだが、しかし、このような逸話が伝承されるくらいに、尼子経久は家臣たちから親しまれていたのである。

 
 大内義興も尼子経久も大器量人であったことは間違いないし、また、毛利元就はこの両者に挟まれながらも、その一方の傘下に加わった際には実に信義一徹、忠誠無私の精神で尽くし切っている。

 
 毛利元就が後年、大いなる野望に目覚めた契機には、大内義興の二代目の義隆が政治に無関心な文化的教養人を気どった凡庸な人物であり、
尼子経久から家督を継いだ孫の晴久などは、毛利家の勢力が微小であることをばかにしてせせら笑い、元就をぞんざいに扱ったことが反旗の起因となっている。

史料や諸書に誇張があるのかもしれないが、しかし、それにしても義隆と晴久は苦労の足りないボンボン育ちの感があり、暗愚ともいえる将であり、元就を上手に使いこなすことができずに日々悪戦苦闘し、その後、大内家・尼子家ともにみじめな状態に成り果てて、逆に元就によって滅ぼされている。


 家康も元就も、吹けば飛ぶような弱小国の当主でありながら、近隣の強大な群雄たちから一目置かれ、実に丁重にもてなされていた点、時の実力者が絶大な信頼を寄せて、やむなく敵対した場合においても非常に愛惜したという事実。

人心の収攬に優れ、分裂しがちな家中を上手にまとめ上げていた政治家としての手腕、耐え難い逆境の中で鍛え抜かれた実際家としての器量、その強靭な耐性を想うときに、毛利元就と徳川家康は兄弟弟子のように思えてならないのである。


 
【2015/06/02 00:37】 | 未分類 | コメント(0)
不如帰 ~戦国武将の幻影~


Ⅰ<覇王編>~逆賊 織田信長を討て!~  Ⅱ<争覇編>~織田家簒奪!秀吉の野望~

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