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王覇 信長の後継者 (秀吉、西国平定)

さて、九州において猛威をふるった島津であったが、秀吉の前代未聞の膨大な大軍勢の前に降伏し、島津家の当主である島津義久は剃髪して恭順の意を示し、急速に南下を続ける豊臣勢の総大将の羽柴秀長に対して寛大なる処置を懇願するのであった。

 この報告を受けた秀吉は快諾して許し、九州での今後の仕置きもテキパキと済ませて京都に凱旋するのであるが、
秀吉はこの九州征伐の際に、帰服して恭順する中小豪族たちに本領安堵状を乱発している。

 
 後日、秀吉に命ぜられて九州での新しい国主として赴任する武将たちにしてみれば、非常に不安だらけであったはずだ。

まさに、爆発寸前の火薬庫を抱えているようなものだったのだ。


 九州は広大な土地に加えて険阻な山岳地帯もことのほか多い。

地方豪族が割拠しやすい土地がらでもあり、山間部などは天然の要害になっている。

こんな場所で諸豪族たちに反抗し続けられたら大変にやっかいなことになり、九州征伐が非常に長引いてしまうであろうし、
豊臣軍は膨大な軍勢なのだから長期戦になれば兵糧の面でも心配なところであろうし、秀吉の不在による東国の動静も予断を許さない状態だったのだ。

秀吉の大風呂敷、太っ腹もそうだが、ヘタに地方豪族たちを刺激して警戒させるよりも、ここは気前よく本領を安堵してやったほうが九州平定もうまく運ぶというものだ。

こんなわけで、秀吉は本領安堵状を乱発したのであろうが、しかし、もともとが険阻な天然の要害に拠っている中小豪族たちなのだ、反抗する力も十分にあれば、長期に渡る防戦・籠城戦にも耐えられるし、地方豪族たちのそのほとんどが兵力を温存しての降伏だったのだから、反乱した場合においての戦力にも十分に自信があったはずなのだ。

これでは、まるで独立した諸勢力が混在しているようなもので、新しい領主となって赴任する者たちにしてみれば、これほど統治しにくい領国はあるまい。


 このあつれきは後年、九州の国人衆を中心とする一揆にまで発展し、やがて九州全土に広がり、新領主たちを悩ませて困らせることになる。

 一揆勢といっても、在地の国人衆が率いる軍勢なのだ。戦争の専門家なのだから、恐ろしく強いのだ。


 織田家の旧臣で、やむなく秀吉に降伏した佐々成政は肥後国を任されてその地に赴任するのであるが、猛将で有名な佐々が一揆勢の鎮圧に手を焼いて、隣国などの協力を得た末にやっとのことで平定している。

 後年、佐々に代わって加藤清正、小西行長が肥後国に入り、肥後を半国ずつにして統治することになるのであるが、両名ともに、頻発する一揆勢の鎮圧には大変に苦労させられている。

 有名な逸話で、小西行長が選りすぐりの精強な精鋭を集めて、その総勢三千人を船に乗せて一揆勢の征伐に向かわせたところが、一人残らず全員が討ち取られて、船頭だけが船をこいで帰ってきたという話しがあるほどなのだ。


 豊前の黒田官兵衛も非常に手こずって、息子の長政とともに半年以上もかけて鎮圧し、その後もヒンピンと発生する一揆をやっとのことで平定している。


 九州人の粘り強い性質に加えて天然の要害もあり、その兵力は上方の軍勢よりも実に精強で猛将勇卒の多いことで有名だったのだ。いかに難しい土地であったかが分かるのである。



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【2015/07/27 15:03】 | 未分類 | コメント(0)
コラム 総司令官 石田三成の悲運

 石田三成は実に優秀な行政官僚であるが、しかし、武将としての働きぶりはイマイチで、秀吉の小田原征伐の際にはあまりにもフガイナイ醜態ぶりを見せており、しかも、運も非常に悪い。

 秀吉は、石田三成の経世家としての才能を高く評価しながらも、その一方で、武将としての功名も立てさせてやろうと思ったのであろう。
この小田原征伐の際には、この時は珍しく三成は武将としての働きを見せて、その方面軍の総大将的な役割を担って出陣している。

石田三成は幕下の参謀として大谷吉継、長束正家らと共に各地から続々と集結する諸軍勢を率いて北条方の館林城、忍城を攻めたのであるが、
上州の館林城の攻略戦では、城の周囲の沼地に阻まれて攻城戦に手こずって難儀し、その沼地に木材をどんどん投げ込んで橋を作ってみたものの、
その橋の完成の翌日には、橋がすっかりと泥沼の中に沈み込んでしまい、三成の指令による諸将の寝る間を惜しんでの昼夜の突貫工事の日々の苦労にも関わらず、あえなくとん挫して大失敗。

ついに攻めあぐねて、降伏した北条方の使者(北条氏勝。黄八幡で勇名を轟かせた北条綱成の孫。)に城兵を説得させて、これでようやくのことで開城にこぎつけている。


なんだかんだの結果、なんのことはない、ようするに降伏して、開城したわけだ。



 つぎは武蔵に入り、忍城(北さいたまの行田市付近にあった城。)を重囲して、その付近の川を利用して堤防を築き、水攻めを断行するのであるが、
せっかく築いた堤防はあえなくあっけなく崩れてしまい、逆に味方の陣地・陣所がこの濁流の被害に遭って大混乱してしまう始末。

しかも、この濁流によって忍城の周囲は泥沼のようになってしまい、前回の館林城のような状態になり、マタマタ攻めあぐねてしまった。

そんな折に、豊臣方の真田昌幸、浅野長政らが精鋭を率いて応援に駆けつけてくれたのであるが、

失敗続きの小心者の三成は功をあせり、戦功を急いで抜け駆け、先駆けなどをするありさまで、これはもう、総大将どころか、端武者のごとき言語道断の仕業であり、実際、この時に温厚で実直なことで有名な浅野長政が、

「おのれ三成めが、平気でだしぬきおって!卑怯千万とはまさにこのことじゃ!」と、珍しく激怒しているぐらいなのだ。

だいたい、一武将ならいざ知らず、総大将ともあろう者が諸将を出し抜いて戦功を急いでいるわけで、こんな司令官では信頼性は限りなくゼロであるし、こんなていたらくぶりでは、諸将の結束は欠いてしまうし、したがって攻撃が散発的になって効果が全然上がらないしで、全くうまくいかない。


けっきょく、むなしく時を過ごして、北条家が秀吉に降伏し、小田原開城の後に、小田原からの使者がのこのこやってきて、その命令で忍城は開城している。


また、降伏して、開城したわけだ。
 

 さらに、

泥沼のかけ橋戦術、堤防の水攻め戦術と、秀吉のまねをしているところ、

「猿まねばっかり、するからじゃ!」と、諸将に思われていたに違いないのである。


 こんなていたらくな司令官では、戦場で命がけで戦う武将・兵士たちは認めてくれない。


 後年の関ヶ原役で、西軍のほとんどの部隊が動かなかったのは、石田三成の野戦司令官としての信頼性が限りなくゼロに近いものであったことも大きな要因であろう。



石田三成は優秀な行政官僚ではあったが、武将としての資質は非常に低かったと言わざるをえない。


しかし、私が、石田三成のことを書いていて思うことは、 

人の能力・才能・資質とは、「こうなのだから、これもきっと、こうなのだろう。」と、簡単に予測して割り切れるものではないということである。


今の現代も、「お金持ちには仁徳者が多い」とか、「名監督は名政治家」という言葉があるが、このような言葉がいかに的外れで、いいかげんで危険な判断であるかが分かるのである。


五輪選手やプロレスラー、芸能人などが政治家になってしまう時代なのだから。



【2015/07/18 17:28】 | 未分類 | コメント(0)
コラム 資質に得失あり、石田三成の悲劇

 こんな逸話がある。

古代中国の漢の創業者である劉邦が項羽を滅ぼして後、行政官僚の商荷の業績を褒めたたえて勲功第一にすると、諸将は不平不満を唱えた。
劉邦は笑みを浮かべながら、
「諸君が兵糧・糧食を少しも心配せずに項羽軍と戦い続けることができたのは、これは商荷が漢中・洛陽などからどしどし糧食を運び続けたからに他ならないではないか。

例えるなら、そなた達は猟犬だ。商荷はその猟犬たちが飢えに苦しまないように、いかなる時も、いかなる場所にも、絶えず十分な餌を与え続けてきたのだ。」と言ったという。

 史記によれば、確かに、項羽は竜虎のような猛将で、項羽の率いる楚軍は秦を滅ぼすほどの精強無比の軍勢であったが、商荷のような優秀な事務方(行政官僚)がいなかったばかりに、その後の劉邦軍との熾烈な戦闘で大勝利を重ねながらも、常に兵糧の欠乏を招いて撤退を余儀なくされて、それが西楚の覇王と恐れられた項羽を滅亡に導いた最大の要因であったと云われている。

 商荷は、劉邦の宿将であり、実に優秀な行政官僚であり、人徳の声望のある雄略の人であった。おそらく諸将は劉邦の言葉に納得して、黙って引き下がったことであろう。

しかし石田三成には、この声望が全くといっていいほどに無い。雄略の人でもなく、人格・人柄よりも技術・技能を重視する全くの合理主義の信奉者であった観が否めない。

三成は当代の実に優秀な行政官僚であったことは間違いないと思うが、彼の生涯を通観すると「虎の威を借る」の典型であり、 しかも、エコヒイキばかりが目立つのである。


 また、人情の機敏に恐ろしく鈍感・愚鈍といっていいほどだ。

 そして、必要性の感じられる物事には実に敏感であるが、必要性の無いことには全く無関心で、特に社会的な地位の低い者に対しては陰険で刻薄、冷徹で薄情なところがあったようである。

 石田三成の有名な逸話で、ある茶会での席上、ライ病をわずらっている大谷吉継が触れた茶器をさわるのを嫌がる者たちの大勢いる中で、三成だけが全然気にしなかったことに大谷吉継は感謝感激し、それが縁となって三成と深い親交を結ぶようになり、終生の友と誓うようになったという話しや、
三成が島左近に所領の半分を渡すから家臣になって欲しいと願い出て、その三成の心意気に感動・感激したので左近は三成と主従関係を結んだという有名な逸話があるが、
しかしこれらは、単に、三成が大谷吉継の知勇才略の必要性を感じていたので、そうしたのであり、単に、三成が島左近の勇武知略の必要性を感じていたので、そのように言ったにすぎないのではないかと思われる。
そこには、人間性も、人情味も、愛惜の念も、全然感じられない。
相手を思いやる、「温かい思いやりの心」がカラ回りしていて、三成のその場でのその場限りの「いやらしい、わざとらしい演技」としか思えないのである。
なぜなら、その後、三成は大谷吉継の諫言を聞き入れず、島左近の助言に従わず、軽いアドバイス程度にしか感じていない。

さらに言えば、必要なものがそろってしまえば、あとはそれですべて良しとしてかたずけてしまう官僚的な迷妄に、石田三成は陥っていたことは明らかなのだ。

 人を単なる物・道具としか見ることのできない偏狭な人物であったように思われる。

これは、すべてを事務的にさばいて片づけてしまおうとする官僚的な妄信に陥っていた石田三成の資質の限界であったろう。

 
  大谷吉継が三成を評して、「そなたには人望がない。すべては裏方に徹し、表に出ないようにしたほうがよい。」との忠告も、三成は全然聞き入れていない。

  また、三成には武将としての経験など、ろくにない上に、数字合わせの軍勢の多寡で戦いの勝敗が決まると妄信している。
 
関ヶ原役の前哨戦で、大垣城での西軍の軍議の際に、島津義弘・豊久が、
「今夜こそ、夜討ちしてしかるべし!」と提案するも、

「夜討ちは小勢の場合に仕掛けるもの、わが軍は大軍勢である。すべては大開戦で。」と、三成はこの貴重な進言を軽くあしらって席を立っている。名将で誉れ高い島津維新入道の発案に対してこの態度なのだ。全然話しにならないのである。


 
 石田三成は江戸時代での評判はすこぶる悪い。

 豊臣家の簒奪を図ったとまで書いている諸書もある。

 これは、石田三成が徳川家と敵対した関ヶ原役の首謀者だったからであり、その時代の将軍家への配慮でもあり、幕府からの恫喝、厳しい追及を恐れた御用学者らの曲学阿世(学問上の真理をまげて、世間や権力者の気に入るような言動をすること)のせいで悪者に仕立て上げられたからである。

 明治になると三成の評判は少し持ち直し、昭和の半ばの頃は豊臣家の忠臣として諸書やテレビなどでもてはやされたが、平成になるとその評判・評価はやや下降気味といったところであろう。

 
 
 私は、石田三成の豊臣家に対する忠誠心を疑う者ではない。

 石田三成の恩義に報いる貴い心があったればこそ、徳川家康との対立を生み、関ヶ原役を発生させ、その全財産を使い果たしてまで身命を投げ打った豊臣家の大忠臣であったと私は信じる。

だが、しかし、本当に心から豊臣家の行く末を思うのであれば、膝を曲げて座り、両手を畳について、深々と頭を下げて、豊臣恩顧の武将たちに涙ながらに誠心誠意、心から切々と説いたならば、あのような悲惨な豊臣家の末路はなかったように思う。


 石田三成の資質の限界であったと言ってしまえば、それまでであるが、しかし私は、それがとても残念でならない。



【2015/07/09 23:20】 | 未分類 | コメント(0)
コラム 優秀な行政官僚 石田三成

石田三成は秀吉の側近にあり、豊臣政権の権要を任される実に優秀な行政官僚であった。


諸史料によれば、石田三成は後年の外征の折りに、異国に出兵する軍勢に必要な補給物資の種類の数々や、その数量のほとんど全てを独自に計算してはじき出している。

これは、補給船の往復回数を含めた非常に複雑な計算なのだから、本当に大変な作業だ。これほど優秀な人材はめったにいない。特に戦国時代においては貴重な逸材の人であったろう。


豊臣政権下の重要な資金源である検地においても、主に石田三成が総覧して諸事について判断を下している。


  このように、石田三成は頭脳明晰な逸材の人であったことは間違いないが、しかし、三成には優秀な行政官僚には特にありがちな性質・性格、つまり、陰険、刻薄、陰湿、薄情といった性質の持ち主だったようである。

 
なぜか、古来から有名で優秀な行政官僚たち、いや、いや、現代の優秀な行政官僚たちにおいても皆、この性質を持ち合わせている人物が実に多い。

古代中国の秦の商央などはこの代表格であるが、石田三成もこの例にもれず、この性質が大いに災いして、思わぬところで非常に数多くの敵対者を作り上げてしまい、その羽振りがしだいに衰えて悪くなるや否やに、まっさきに命を狙われることになる。


 石田三成、加藤清正、福島正則、加藤嘉明などは、秀吉が北近江の長浜城主の頃に、その妻のおねの手によって養育されて、同じ釜の飯を食べた仲間であり、おねのことを「おかかさま」とまで親しんで呼び合っていた間柄であったが、石田三成は後年、この家族のように親しんだ仲間たちからも嫌悪されるのである。


 後年の外征(唐入り)において、石田三成が本国に所在するうちは、秀吉の威光に隠れてその性質は目立たずに済んでいたが、
三成が戦奉行として朝鮮に渡ってくるとその性質・性格は鮮明に現われて、在陣する諸将たちと事あるごとに激しく対立するのであるが、しかし、ほんのささいな小さなことまでも、アラを探すように、逐一秀吉に報告されては、これでは確かに武将たちもたまらないのである。


三成は三成で、それが仕事なのだから仕方がないともいえるが、しかし三成のような陰険で刻薄な性質の持ち主は、エコヒイキを平気でやる。ずいぶんと嫌われたに違いないのである。

 
 こうして朝鮮陣で作ってしまった反石田三成党の武将たちは、後年の関ヶ原役では徳川家康の有力な分子となって登場するのだ。


 ところで、戦国時代の風潮は、戦働きの武将たちが高く評価されて、四書五経などの書物を読んだり、算術などを得意とする行政官僚は軟弱な輩と決めつけられて軽視される傾向があった。


 竹中半兵衛はどちらかというと参謀肌の人物で、しかしながら行政官僚としての腕前も一流であり、戦場での武者働きも実に優れていた武将であるが、若い頃は、この風潮には大変に苦労させられて、美濃の稲葉山城を略取することによって武名を上げて世間の鼻をあかしている。


 
 徳川家康に叛旗して、武田勝頼に内通して徳川の滅亡を図った大須賀大八にしても、ソロバンをはじいて出世するのを武将たちからねたまれて、しだいに家中で孤立し、それが謀反の引き金になったともいえるのだ。




【2015/07/03 16:40】 | 未分類 | コメント(0)
不如帰 ~戦国武将の幻影~


Ⅰ<覇王編>~逆賊 織田信長を討て!~  Ⅱ<争覇編>~織田家簒奪!秀吉の野望~

不如帰 戦国人物伝


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