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王覇 信長の後継者 (秀吉の大望)

秀吉は、古代中国の前漢の創業者である劉邦のように徒手空拳の身の上から飛竜昇天の如くたちまち戦乱の世に頭角を現し、
まさに乱世の英雄といってよいほどの大偉業を成し遂げた人物であり、また、異常で異様とも思えるほどの日本史上前代未聞の大出世を果たした大幸運児だったのであるが、

しかし、残念ながら、肉親・親族には決して恵まれたとはいえない。

 秀吉が親族関係に恵まれなかったことも、豊臣家最大の不幸ではなかったかと思うのである。

秀吉の家臣団を形成する上において、地縁関係がなければ、せめて血縁関係で少しは補いもついたであろうが、弟の秀長は秀吉の片腕とでもいうべき雄略の人で、思慮深い逸材の人物だったのであるが、後年の小田原征伐の翌年には病没してしまう。
秀長の子である秀保も文禄三年頃に早世している。


 諸史料によれば、加藤清正・福島正則は秀吉と同じ尾張中村の出身で、史書の清正記では、秀吉と清正はいとこ同士と記されており、これが今の現在も信じられていて、映画やTVドラマなどでもそのように放映されているケースが多いのだが、
しかし、詳しく調べてみると疑わしい記述であるとの見解も非常に多いのである。

 
 また、福島正則は秀吉とは遠い親戚であるかのように云われているが、しかし、これも諸史料を検証するに非常にいぶかしい点も多く、厳密にいえば、出自の分からない「桶屋のせがれ」ということになるだけで、秀吉との血縁関係は非常に疑わしいと思われる。

 秀吉の妻、ねね(ねね、おね、ね、史料によって様々の記述あり)の親族に木下家定、浅野長政がいるが、この両名はどちらかといえば人の良い官僚肌で、これという人物ではなかったようである。


 惜しむらくは、秀吉とねねとの間に子がなかったことであろう。歴史にもしもは禁じ手であるというが、しかし、もし、この夫婦が早い段階でいく人もの子宝に恵まれていれば、秀吉恩顧の諸将の動静は限りなく未知数であったろうし、
そしてそれが、さまざまな憶測を呼び覚まして感慨深い興趣を誘うのである。


憶測ついでに余談を書くが、

 子宝に恵まれない原因が秀吉にではなく、妻のおねの体にあったかのように表現している歴史小説やTVドラマなどが実に多いが、しかし、これはいただけない話しだ。

 秀吉は数多くの妻(当時、妻は何人でも持てたのである。もちろん、嫡妻はいる。淀殿は側室ではなくて、れっきとした妻である。また、当時はまだ、妻と側室の厳格な区別はなくてあいまいであった)たち、側室たち、お妾さんも含めて、淀殿以外は誰一人として子宝に恵まれていないのだから、これは、秀吉の体に原因があったとする見解のほうが自然なのではないだろうか。


実際、早世した鶴松にしても、豊臣秀頼にしても、秀吉の実子ではないという風評は当時もたくさんあり、伊達政宗が、

「石田三成との子ではないのか。」といって、その噂を聞いた徳川家康から、

「軽率な言動は慎むように。」と、こっぴどく叱られている。


 伊達政宗は横着者の雄略の人であり、実に直感力の優れている人物なのだ。直感的にうさんくささを感じたので、なんとなく象徴的にそのように言ったまでのことだったのかもしれない。


 また、大野治長との噂も有名であるが、名古屋山三郎の説もあって、これは否定的な見解が多いのが、しかし棄てがたいのである。
小説的な文学にするとおもしろい話しになるかもしれない。

 名古屋山三郎とい人物は蒲生氏郷の家臣で、類稀な美貌の持ち主、戦国時代の伝説的な美少年で有名で、氏郷と男色関係にあったようである。
 
 織田信長と森蘭丸のような関係だ。


また、剣豪・豪傑としても有名であったが、氏郷の死後、蒲生家を出奔し、ダテを気取って身をもちくずしたようであるが、出雲の阿国と夫婦になったという伝説もあり、実際、後年の歌舞伎踊りに多大な影響を与えており、日本芸能史上、忘れてはならない人物となっている。


 このように、名古屋山三郎は、秀吉が寵愛する蒲生家に仕えていた人であり、武士として一流であり、遊芸に秀でた人物として有名でもあり、世上の女性たちにもてたようであったし、秀麗な美貌の持ち主であったりしたから、ひょっとして淀殿の引見があったかもしれない。


 ちなみに、名古屋山三郎は派手好きな人で、有名な前田慶次、伊達政宗などもそうであったが、派手好きを「ダテをする」というのが伊達家のダテが由来であるというが、これは間違いで、ダテは、鎌倉時代から使われている言葉である。




 さて、九州を制圧して西国を安定させ、京都に凱旋して天下泰平の気運を盛り上げた秀吉は、いよいよ東国の大群雄である関東に威勢を張る北条家にその眼光を光らせる。


 素浪人同然だった伊勢新九郎長氏が知勇の限りを尽くして北条早雲と名乗るまでになり、関東を切り従えて勢力を張ることついに五代に及び、今では関東八州を制するまでの大勢力になっていた。



 秀吉は北条に度々に渡って使者を遣わし、上洛の催促状を何度となく送っていたのであるが、北条氏政・氏直親子は、まるで意にかいさない。


「あれは、まともな関白じゃない。」と、思っていたのであろうし、上方の情勢に暗かったことも事実であったろう。



 彼らは頑迷な、井の中の蛙であった。




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【2015/08/28 20:14】 | 未分類 | コメント(0)
王覇 信長の後継者 (秀吉の遺産 関ヶ原役と家臣団)

諸説によれば、後年の豊臣家は武断派と文治派に分かれ、その派閥争いにつけ込んだ徳川家康が武断派を抱き込んで関ヶ原役に大勝したというが、
しかし、このような分裂騒動がなかったとしても、秀吉恩顧の武将たちの多くは、無念ながらも家康につくしかなかったであろうと思われる。

なぜなら、前章で書いたことであるが、秀吉の取り立て武将の多くは、その家臣団との信頼関係に非常に不安のある君臣関係だったからである。

独裁政権下で絶大な権勢をふるい、諸大名に睨みを利かせて重石役を果たしていた秀吉はすでに病没していたのだから、ここはなおさら不安なところであったろう。

また、精神論の上でも、

「武士たる者は、君主の前で潔く討死する」といったような武士道は、戦国時代にはまだ一般化していない。

この当時は、江戸時代のような儒教に基づく君臣関係など、まだ確立されていない。

この時代、家臣団の主たる構成員の老臣・家老たち、重臣・知行主である中小豪族らにしてみれば、他家の当主(つまり、家康のことだ)が実に頼りがいのある主人で、自分たちの所領を安全に確保してくれて待遇もよければ、人質を棄て殺しにしてでも、平気で離反して去っていくのだ。

秀吉の取り立て武将らの家中がこんな状態であるにも関わらず、秀吉亡き後の即席集団である豊臣家に加担したら、これは大名家のみならず、その家臣団を構成する知行主たちの家も潰しかねないだろう。


 秀吉のたぐい稀な政治的采配によってまとまっていた豊臣家が、秀吉の亡き後は、上から下まで全くの寄せ集め集団と化していたのである。


 徳川家康は豊臣家の大老職筆頭であり、あくまでも外征に反対であった良識者であり、徳川家の石高は諸大名中ナンバー1であり、
しかも、徳川家の内情は外征において全くの無傷の状態だったのだから、戦国大名にしろ、その家臣団を構成する老臣・重臣たちにしろ、知行主の中小豪族たちにしろ、どちらに加担したほうが家の保全上得策であるかは明白であったはずなのである。


 余談を書くが、後年、明治時代の頃にドイツの有名な戦略家が来日し、旧日本軍の高級将校らと関ヶ原に遊んで散策した際に、

「どうして西軍は敗れたのだろう。戦略は完璧な布陣なのだが。」というと、関ヶ原役での小早川秀秋の裏切りを聞いて、

「なるほど、そうだろう。そうであったにちがいない。」と納得したという話しがあるが、しかし、私には、この話しがどうしても信じられない。

これは、日本人の悪弊である「員数主義(その内実を問わずに、数字さえ合っていればいいという形式主義。数合わせの論理 )」の典型の話しであり、

戦争の勝敗を、数字合わせ・数の論理でかたづけてしまおうとする戦略家としてあってはならない員数主義の迷妄に陥っていると思うからである。


 関ヶ原役での西軍の敗因は、他にもたくさんある。

 
 西軍で激烈果敢に死力を尽くしてまともに戦っているのは、宇喜多秀家と大谷吉継の軍勢だけだ。

  また、小早川秀秋の裏切りが勝敗の明暗を分けたのは確かに事実ではあるが、しかし、これは後世から見た場合の結果論にすぎない。

秀吉の取り立て武将の多くは小早川秀秋の裏切りを聞いただけで、
まだ、小早川秀秋の裏切りが勝敗の決定打になるのかどうかも分からない五里霧中の状態であったにも関わらず、
西軍の敗戦を決め込んで早々と東軍に寝返る者あり、遁走するかのように戦場からサッサと逃走する者ありで、まったくのテイタラクの状態に成り果ててしまっている。

これは、前述した家臣団の問題点が爆発するかのように噴出した結末であったろうし、西軍の家臣団の中には、家康の調略がなかったとしても、あらかじめ徳川家への加担を熱望していた家老・重臣たちも多かったに違いないのである。


 小早川秀秋はあまり評判のよくない人物であるが、しかし、私は彼に同情的だ。


 前述の理由によって、老臣・家老・重臣たちが常に脅迫的に威圧して、小早川秀秋の東軍への加担を強いていたように思えてならないのである。

実際、諸史料によれば、小早川家の重臣の多くが徳川家への加担を切望しており、当主の小早川秀秋に対して諫言するかのように説得している。


 松尾山の陣中で、どちらに加担するか悩みに悩み、焦慮し、老臣の意見にまどわされ、徳川から鉄砲を撃ち込まれて慌て、うろたえ、そしてしまいにはなしくずし的になって東軍に寝返って西軍に突入する場面をTVドラマなどで見ることが多いが、

しかし、小早川秀秋公の立場を想えば、これは、是非もなし、いたしかたなし、といったあきらめに近い胸中なのではなかったかと思うのである。


 その胸中を想うとき、なぜか、目がしらが熱くなり、自然と涙がこぼれ落ちてしまうのである。
 

 
【2015/08/22 18:22】 | 未分類 | コメント(0)
王覇 信長の後継者 (豊臣政権の功罪 秀吉の家臣団)


秀吉は英雄中の英雄であるが、門閥の特性である主君を支える譜代の家臣団というものを持っていなかった。

織田信長は勇猛な尾張衆に支えられ、徳川家康は忠誠無私の三河衆を最も頼りにしていたのである。

その他の乱世の群雄たちも、優秀な家臣団に恵まれて、しかも実に強固な結束、家中の運命共同体的な団結力に支えられていたからこそ、その支配する領国は安定し、五里霧中の戦国乱離の世を生き抜くことができたのだ。


 また、譜代の家臣団というものは、長い年月を経過しながら次第に形成されるものであり、その時々の都合や気運や時運などで、まるでテマエミソのように簡単に出来上がるものではない。

古来からの血縁関係、地縁関係などから次第に協力関係が形成されて、それが強固な団結力となって主君と仰ぐ統治者を支えていたのである。


 
 出自のあやしい、門閥外の秀吉には譜代の家臣団などあろうはずもなく、したがって、秀吉は早急に、しかも短期間のうちに家臣団を編成しなければならない運命にあった。

その結果、非常に脆弱な間に合わせの感を否めない家臣団が形成されて、まるで即席の寄せ集め集団のようにならざるを得ない様相を呈することになったのである。


これは、秀吉が取り立てた数多くの武将たちの家臣団にもいえることである。

加藤清正、福島正則、加藤嘉明、山内一豊、中村一氏、加藤光泰、小西行長、石田三成、数え上げたらきりがないぐらいにまだまだ大勢いるのだが、彼らはわずか数千石の身上から、いきなり数十万石の大名になっているのだ。

彼らは秀吉から拝領した領国に赴き、その地で地縁・血縁で結ばれている中小豪族らの協力を得て家臣団を編成することになるのであるが、
しかし元々が地縁・血縁で結ばれているわけではないのだから、当主と家臣団との信頼関係は非常に希薄で脆弱なのだ。


また、彼らは大量に人員をかき集め、膨大にふくれ上がった領国経営の指揮・命令系統を早急に形成する必要性に迫られたから、
必然的に、信頼関係のある今までの部下たちの社会的な地位を引き上げて、重要な要所・要職を任せることになった。


その結果、にわか家老、にわか奉行、にわか目付、にわか物頭が続出することになったのだ。


つまり、元々が小者を五・六人ぐらいしか使っていなかった者を老臣にしたり、家老にしたり、
もともと士分の家来のいない者などは、中間や小者などを武士の身分にして、重臣にしたり、奉行にしたり、目付にしたりしたのだ。

これは、もちつけない権力をふるう者たちを続出させることになったのだから、言語道断な仕業が次々と続発することになった。


以前の章で書いた九州地方での一揆、後年の奥州地方で発生する一揆にしても、もとはと言えば、このもちつけない権力をふるった者たちの言語道断な横暴が原因で発生したといってよいのである。

一揆の原因に関する諸史料によれば、にわか奉行、にわか目付どもが部下を率いて農家に押し入って米穀を奪ったり、
百姓の男女をかすめ取ってきて下女・下人にしたり、身分のある旧臣の娘をさらって妻にしたり妾にしたりと、言語道断の乱暴狼藉の数々が記録されているのだ。


 ここで視点を変えて考察するが、

 秀吉に取り潰しの憂き目にあった大名家が多々あるが、しかし彼らのほとんどは、別に食うに困ることはないのである。元々が先祖伝来の領地を持っており、帰農するか、または他の主家を探し求めて仕えれば武士の身分は維持できるのである。

大名家が滅んで変わったことといえば、以前は知行主だったから納税の義務はなかったが、しかし今は単なる地主だから納税の義務がある。

ここに、にわか奉行・にわか目付らがやってきて納税の交渉となるのだが、しかし以前、要職を歴任したことのある旧臣たちにしてみれば、
どうみても役職(奉行・目付)のわりには能力が稚拙でヘタクソであるし、虎の威を借るの典型で態度がデカイ、無礼・非礼であったりするし、身分のわりには礼儀知らずでツケツケとものは言うしで、
これでは、身分ある旧臣であった者たちからすればおもしろかろうはずがない。

そこに先ほどのような言語道断の狼藉の数々とあっては、これでは一揆が発生しても不思議でもなんでもないのである。


 また、検地も一揆続発の原因だ。

 秀吉は占領政策として必ず検地を励行したのであるが、
農家には隠し田といって、これがあるから領主の苛斂誅求、横暴な年貢の取り立てなどにも耐えることができたのであるが、この厳密な測量方法によって隠し田を失う可能性があるのだから、騒がないほうがおかしいのだ。



【2015/08/16 13:42】 | 未分類 | コメント(0)
王覇 信長の後継者 (乱世の英雄と天皇家の野望)

天正16年(1588年)秀吉は後陽成天皇の行幸を仰ぎ、聚楽第への行幸を実現させている。

これにより、天皇家をはじめとする朝廷の権威を擁する秀吉が天下一の大実力者であることがさらに誇示され、全国の群雄らは秀吉の命令を無視できないものとなり、また、果てしのない戦乱の世から平和への招来を感じさせる気運と希望がいっそう高まったのである。

ところで、織田信長は、朝廷の権威を利用はしたが、その利用価値の必要性が感じられなくなると、すぐさま執着することなく捨て去り、
後年、建前の上では次々と官位の拝命を受けてはいるが、しかし、その後は実質的には官位を返上して、朝廷の枠組みを越えて逸脱していくかのような状態になりながらも覇者足りえている。

近世的な直感に優れ、懐疑的に物事をとらえる信長にとって、まやかしごとは大嫌いであり、旧時代の積弊・悪弊を蛇蝎の如く忌み嫌う実際家の現実主義者であり、したがって、実力のともなわない飾り雛的な官位などには全然興味の無いものであった。


こんな逸話がある。

信長が武田家を征伐しての駿河路を通っての帰路の際に、前太政大臣の近衛前久が同道を願い出ると、

「そなたは、木曽路でもとおって帰るがよい。」と、馬上で吐き捨てるようにいったという有名な話しがある。

 朝廷の最高位である前太政大臣閣下に対して、この態度なのだ。

朝廷の権威や官位など、この実際家の野生児には全然興味がないのである。

ちなみに、この逸話は「信長の暴言」ということで有名であるが、しかし史料の原文を詳しく調べると、これは親しい友人だからこそ使われる言葉であり、
どちらかというと暴言というよりも、近衛前久と親しい間柄であったからこそ使った言葉ではなかったかと思われる。

確かに、信長の態度は朝廷の権威を軽視している感はあるが、しかし、近衛前久との人間関係は良好であったように思うのである。


 さて、織田信長と比べて、秀吉のほうが熱心に皇室を崇拝し、朝廷を敬い大切に扱っていたかのように思えるのだが、しかし実はそうではない。
「そうせざるを得ない事情」が秀吉にあったという事が本当のところだろう。

 秀吉は門閥の生まれではない。

 まさに、徒手空拳からの立身出世、異常で異様とも思えるほどの前代未聞の大出世であった。門閥の背景を持たない秀吉が、門閥の国で覇者をめざすことになったのである。


頼りとする血縁に恵まれず、有力な地縁関係も持たない秀吉が覇者足りえるには、秀吉を擁護するカリスマ的な存在が絶対的に必要なはずだったのだ。

秀吉の盤石を期して築き上げていく豊臣政権下において、天皇を中心とする朝廷の権威は必要条件であったはずなのである。

 また、朝廷サイドとしても、秀吉の天下は歓迎すべきものであったに違いない。

 なぜなら、人に仕えてもらうことには慣れていても、人に仕えることを知らない、実に独善的で非人情な天皇家・公家衆にとって、
形式的な儀礼にばかりに終始して、実質的な政治力の無い、軍事力も経済力も皆無の彼らにとって、あくまでも朝廷を崇拝して天皇家を最上位として敬う秀吉を大いに歓迎したに違いないのである。


 私見を書くが、私は、皇室は日本の伝統的な存在であり、日本の歴史的な宝であり、今の現在も日本の貴重な象徴的な存在であると信じる者であるが、
 しかし日本史を歴史的に詳細に考察するときに、天皇家をを中心とする公家衆が歴史的な大問題を続発させて、その結果、その時代の社会的な通念を大混乱させたことも事実である。

一つは荘園制度。

 私は小学生の時に、荘園と聞けば「別荘のような庭園」を想像して、藤原氏が金にものをいわせて別荘地をたくさん作っていたかのようなイメージがあったが、
これはとんでもない錯覚であり、とんでもない間違いであり、この件に関しての問題点は別の章で書いている。思い出していただきたい。


 二つ目は、保元・平治の乱。

 これは日本史上、人倫上の大事件であり、上は天皇家から摂関家、下は平氏・源氏の武士にいたるまで、親子・兄弟が殺し合う凄惨な大事件であり、ことのはじまりが天皇家の権力闘争であったから社会的な影響力は大であったし、とにかく社会的にあらゆる点で、人倫上あらゆる意味で、非常に始末の悪い大事件である。


 三つ目は、承久の乱・建武の新政。

 天皇家・公家衆の特性を知るうえで、なくてはならない事件。

 承久の乱では、後鳥羽上皇は、討幕を決意して官軍を鎌倉に向かわせておきながら、その後、敗報を知るや否や保身に走り、鎌倉方に敗れて敗走してきた官軍の将兵たちは、紙くず同然に見棄てられている。

 後醍醐天皇などは、討幕計画の密謀がもれるたびに、次々と身代わりを強要して罪をまぬがれ、身代わりとなって罪を被せられた数多くの忠臣たちが死んでいる。

楠正成の一族などは、朝廷の勅命によって次々と悲壮な最期を何度となく強要されて、その一族郎党は全滅に近い状態に成り果ててしまったのだ。

後醍醐天皇という人は、時代錯誤もはなはだしい王朝時代の政治を夢見ていた人物であり、討幕の戦功や功績のある武士たちに恩賞を与えず、なんら功績のない朝廷の公家衆や蹴鞠の上手な者たちなどにばらまくように恩賞を与えて、そのあつれきが原因で建武の新政はわずか数年でとん挫している。


  四つ目は、応仁の乱。

 元々が天皇家の皇位継承問題、足利将軍家・公家衆のみにくい家督相続争いが原因であり、しかも始末の悪いことに、上がこうなら下はならえで、守護大名から地方豪族にいたるまで争いが飛び火して大混乱の状態となり、ついに下剋上の戦国時代に突入することになる。


 後年の徳川家康の功績は、どんなアホウでも長男(嫡男)を相続人とすることを制度化したことだ。

 これによって、天下万民のみにくい家督相続争いも激減し、安定的で平和な江戸時代が訪れるのである。

 
 最後に、古来より、天皇を中心とする朝廷(公家衆)は、万民から崇拝される権威を持つ社会的な優位者でありながら、熾烈な権力闘争あり、醜い皇位継承問題あり、親子兄弟が殺し合う凄惨な事件も頻繁に見受けられる。

彼らは、人に仕えてもらうことに慣れており、したがって人に仕えてもらうことが当然のことであり、ゆえに、人に仕える者たちの気持ちに恐ろしく鈍感で、日常的に独善的で非人情な体質になったのであろう。

 
日本史を知るとき、非人情で刻薄で陰険、人を無感動に平然と切り捨てる天皇家・公家衆の体質をあらかじめ知っておくことも、非常に重要な要素なのかもしれない。




【2015/08/08 19:59】 | 未分類 | コメント(0)
王覇 信長の後継者 (秀吉、天下取りの夢)

九州の肥後国(今の熊本県)は非常に農業生産力の優れた土地で、秀吉は九州征伐の時に肥後に入った際に、

「いまだかつて、これほどの美国を見たことがないぞ!」と驚嘆しているし、あの大東亜戦争当時においても、日本で自給自足にこと欠いたことのない唯一の土地であった。

秀吉は後年の外征(唐入り)において、肥後国を任せる加藤清正、小西行長を先鋒に立てて朝鮮半島に上陸させているから、肥後がいかに生産性の富んだ土地であったかがよく分かるのである。


 ここで私見を書くが、改正三河後風土記や、その他の諸説によれば、秀吉は以前から佐々成政を憎んでいて、肥後は天下の美国であるうえに、猛将勇卒を率いる国人衆の諸勢力の混在する肥後をわざと佐々に与えておいて、
その一方でいずれ続発するであろう一揆にかこつけて佐々を陥れ、その責任を取らせて切腹に追い込んだとする見解があるが、しかし、そうではないように思われる。

 秀吉は、佐々が肥後に入る前に、諸豪族を刺激しないようにする方策であるとか、検地は三年間行ってはならないとか、肥後の国人衆との融和策であるとか、こと細かく丁寧にアドバイスしている。

佐々成政は織田の猛将で実に有名な人物だったのだ。
秀吉が佐々に肥後を与えたのは、後年の外征を視野に入れて、猛将の佐々をその先鋒に使うつもりであったに違いない。


 さて、ともかくも九州を平定した秀吉は、京に築いた聚楽第の完成を楽しみにしながら意気揚々と凱旋するのであった。


 織田信長もそうであったように、秀吉も大の建築好きだ。

 現代の心理学者によれば、いつの時代も、高層建造物は「人心を安定させる特効薬」なのだそうである。


 秀吉は信長と同じく、人民が天下泰平のシンボルを強く望んでいることを直感的に気づいていたのであろう。

 また、秀吉は信長以上に派手でにぎやかなことが大好きで、その性格も実に陽気で明るく、果てしのない歓楽の追求者でもあった。
それを象徴する大イベントが有名な北野の大茶会である。

茶を愛好する人々を身分の上下に関係なく広く招き入れ、前代未聞の時の権力者主催の大遊園会を開催したのである。

 陽気な演出屋の秀吉のことだ、大いにその宣伝に励んだであろうし、開幕したイベントは様々な趣向をこらした華やかなものであったろうし、泰平の世の気運も十分に高まったことであろう。


 織田信長は戦国乱世を終息させる先駆者であった。中世の積弊、悪弊と化した古いシステム(荘園制度から派生した領主(後年の守護大名・戦国大名)・寺領(自治権を持つ寺領・僧兵)、同業者組合の座、流通を阻害する関所、既得権益にあぐらをかいている公家衆、などとの闘争の連続であり、ゆえに、血で血を洗う抗争は常に避けられないものであった。

 しかし、秀吉の時代になると、信長の偉業に拍車をかけた秀吉によって政治的な安定性がもたらされ、人々は平和を謳歌するだけの余裕が生まれたのである。


 ましてや、秀吉は人間学の大家であり、人をなるべく殺さないように努めた人物だ。
天下の英雄豪傑たちを呑み込むが如くの大度量の持ち主であった。

秀吉は「人たらし」で有名であるが、秀吉の人間的な魅力が人々を融和させて、平和の招来を感じさせる気運を盛り上げたことも事実であったろう。


ここで最後に、 少し私見を書くが、

 秀吉は、織田家の家臣だった人であり、信長のおかげで立身出世した人物であり、織田の師団長格にまで出世したとはいえ、しかし、どこまでも織田家の一武将にしかすぎなかった。


 秀吉は、どこまでも織田家を簒奪した逆臣なのであり、織田家当主の三法師から権勢を奪い取った叛臣であり、信長の偉業をうまく利用して活用したにすぎないことは明白な事実なのであるが、しかし、信長の後継者を想うときに、秀吉がぴったりの逸材の人物であったことは、
これは、残念ながら認めざるを得ないところであろう。




【2015/08/02 23:22】 | 未分類 | コメント(0)
不如帰 ~戦国武将の幻影~


Ⅰ<覇王編>~逆賊 織田信長を討て!~  Ⅱ<争覇編>~織田家簒奪!秀吉の野望~

不如帰 戦国人物伝


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