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王覇 信長の幻影 (秀吉の外征と真田昌幸の反骨精神)

さて、真田昌幸公のファンの方々であれば(私も実は大ファンなのであるが)、いずれは、あの本能寺の変の後のような天下を揺るがす騒乱・動乱が将来的に発生するかもしれないので、
だから、ここはとりあえず、

「名胡桃城の周辺には、真田家先祖代々の供養のゆかりの地がある。」ということにしておいて、これはいずれウソとばれてしまうかもしれないが、
しかし、ここはとりあえず、秀吉をだまして時間を稼いでおいて、

そして、もしもの万が一の時に、素早く上州の経略に取りかかれるように窓口として名胡桃城を残しておいたのだと、ここで反論も出てくるかもしれないが(実際に、そのような諸説あり)、しかし、真田昌幸公の性格・性質からするとそうではないだろう。

単に「惜しい」のであり、妄執とでもいうべき所領に対する執着心のなせる業ではなかったかと、私は思うのである。


それにしても、秀吉は実に寛容で大度量の持ち主であった。

「ヘタにこじれては、なんとも面倒なことになる。。。」と、内心思っていたのかもしれないが、
しかし、秀吉は非常にウソくさい話しだと知りながらも、昌幸のいい分を認めてやっている。


余談になるが、秀吉はこのように真田昌幸に対して実に寛大で寛容なのであるが、しかし、これには理由がある。

一つは、徳川家に対する掣肘だ。

秀吉は徳川家康と和親しているとはいえ、徳川が依然として油断のならない、侮りがたい仮想敵であったことは明白なのだ。

後年、秀吉が徳川家康を関東に移封したのも、徳川家を関東に封じ込めるように、まるで数珠をつなぐように豊臣恩顧の武将たちをその周りに配置したのも、
東北の戦略的要衝である会津の地を蒲生氏郷、後年は上杉景勝に任せたのも、これらすべては徳川家康をけん制するためだったのである。

真田昌幸は、武田信玄の近習として仕えた経験があり、父の幸隆が武田二十四将に数え上げられるほどの名将であり、
長篠の戦では兄の信綱・昌輝を失っており、
武田勝頼の指令で上州の経略に取りかかって武田家のために上杉・北条と戦い、武田家滅亡の際には、勝頼を庇護して昌幸の領する岩櫃城に入城させる下準備までしていたのだ。
ちなみに、勝頼が昌幸を頼っていたならば、あの悲惨な最期はなかったかもしれないのである。


ともかくも、だから、武田を善とする真田昌幸にとって、織田・徳川は「どうしても忘れ難い仇敵」なのである。

しかも、あの三方が原の戦いで、徳川勢を痛快なまでに徹底的に撃破し、激烈果敢な大攻勢によって徳川の重臣を多数討ち取り、
戦慄すべき恐怖で逃げまわる徳川家康を脱糞逃走させた武田信玄の旧臣なのだ。

「徳川家康、なにするものぞ!」との反骨精神が、必ずやあったはずなのである。


なので、したがって、徳川を掣肘したい秀吉にとって、昌幸は大変にありがたい存在だった違いない。


もう一つは、秀吉の外征(唐入り)の構想である。

以前に少し書いたが、私は、秀吉はかなり早い段階から外征を志していたと考えている。

秀吉の外征には諸説があるが、私はルイス・フロイスの「日本史」の記載で、

織田信長が、「毛利を平定して、日本六十六ヶ国を支配したら、一大艦隊を編成して、中国を武力で征服する。日本は我が子たちに分かち与える。」と言ったという記述に注目している。

宣教師が直接聞いているぐらいなのだから、織田の師団長クラスの重臣(秀吉)ならば信長から直接聞くなり、伝聞なりで知っていた可能性が高い。

特に、秀吉は信長の一番弟子といっていいぐらいだったから、信長の思念・使命感が秀吉に与えたその影響力は計り知れないものであったろう。

こんなわけで、秀吉の念頭には「唐入り」があり、

ともかくも昌幸の言い分を聞いてやって、許してやって、

北条家にサクッと上洛してもらい、サッサと日本を統一したいところだったので、秀吉は大盤振る舞いの寛容・寛大さを見せたのであろう。


最後に、少し話がそれるが、

秀吉の外征(唐入り)に関する諸史料を調べていて気づいたことなのであるが、

秀吉は九州征伐の際に、九州のキリシタン大名たちの実態を見聞きして仰天・がく然としている。

ひどいところでは、神社・仏閣は徹底的に破壊され、キリスト教に改宗しない僧徒や一般庶民を数万人も虐殺したり、奴隷にして海外に売り飛ばすことまでしている。
諸説では、50万人以上もの日本人が奴隷として海外に流失し、海外から帰国した天正遣欧使節団や、支倉常長の一行によれば、
海外で奴隷となっている日本人の悲惨な現状が数多く報告されているのだ。

特に、秀吉が戦慄したのがキリシタン大名の大村純忠の所業だ。イエズス会に土地を寄進することまでしている。

これは、イエズス会を通して日本の一部の土地がスペイン・ポルトガル領になったということなのだ。

秀吉は仰天して、すぐにその土地を取り上げて直轄領にしているが、
この宣教師たちを裏で操っていた当時のスペインのフェリペ二世のことをもっと入念に調べれば、信長・秀吉のその当時の現実的な外交政策がもっとよく見えてくるかもしれない。



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【2015/09/30 21:18】 | 未分類 | コメント(0)
王覇 信長の幻影 (秀吉の雄志と真田昌幸の術策)

 さて、秀吉は度々に渡って北条家に使者を遣わして上洛を促すのであるが、

「上州の沼田の地は、以前の徳川家との盟約上、北条のものとすると決めたにも関わらず、いまだに約定は履行されず、
その上に、依然として真田家が沼田を領有して北条家に敵対している。
豊臣家の威信にかけてでも、この沼田の地を北条家に引き渡すことができれば、仰せのとおり、いずれ早い時期に上洛いたすでありましょう。」と、
北条家が無心するかのように無遠慮にねだってきた。

秀吉はこれに快諾し、さっそく真田昌幸に使者を送り、

「上州の沼田の地は、早急に北条家に引き渡すように。
代地は、徳川家から出させるように打診ずみで、すでに手配もしている。安心してすみやかに行うべし。」といった感じで、微に入り細に入りの用意周到な準備をして知らせた。


 秀吉は以前、九州征伐の際に、陣中の本営に帰服を申し入れてきた対馬の大名の宗義調に対して、

「いずれ、大陸の明を攻略するために朝鮮半島に将兵たちを上陸させる。朝鮮国王に道を貸すように指示しておけ。」と、きつく念を押すかのように命令している。


 秀吉の念頭には、大陸への侵攻作戦の「唐入り」があるのだから、こんなところで軍資金や兵力・兵糧などを無駄に消耗したくないところだ。


 ゴタゴタする沼田の問題をサッサとかたづけて、北条家が素直に上洛して秀吉に臣従を誓ってくれれば、これに越したことはないのである。

また、北条家を屈服させれば、東北の諸大名も、暴れん坊の伊達政宗も、期せずして秀吉のもとに馳せ参じるであろうことは容易に推察できることなのである。

 秀吉の天衣無縫、大度量の太っ腹もそうであるが、秀吉の雄志の実現のためにも、ここは雄大な計略を使ってずいぶんと北条家に譲歩したのであった。


 一方、真田昌幸としては、これはどう考えても秀吉の命令に従わざるを得ない。

いくら沼田の地に執着してみたところで、なんといっても豊臣家の勢力は絶大中の絶大だ。

 これを機会に北条家と手を組んで秀吉に叛旗して反抗したとしても、これはしょせんは無駄な抵抗なのである。


これくらいの時勢なら、真田昌幸ほどの人物が読めないはずがないし、また、昌幸の信服しきっている秀吉の命令でもあり、

しかも、以前の徳川家のとんでもない所業とは全然違って、秀吉はしっかりと代地を用立ててくれているのだから、これは豊臣家を離反することなど到底考えられないところであったろう。


しかし、強烈な野望心、領土欲旺盛、異常なまでに所領に対する執着心の猛烈な昌幸にとって、秀吉の命令はあまりにも辛く、とても悔やまれる現実であったに違いない。


 そして、昌幸は無念のあまり、秀吉にウソをついている。


 昌幸は秀吉の命令書に対して、

「沼田の名胡桃城には、真田家の先祖伝来の墓があります。真田のゆかりとする土地でございますので、
名胡桃城だけはご容赦願います。その他は、必ずやいっさいすべてを北条家に引き渡すでありましょう。」と、しばらく経ってから返書を送っているのだが、


これが100パーセントのウソっぱちなのだ。


名胡桃城の付近に、真田家の先祖の墓などあるわけがない。


真田昌幸が上州の経略に専念し出したのが、天正八年の頃なのだ、これはたった数年前のことだ。


ありはしないのである。


【2015/09/26 21:33】 | 未分類 | コメント(0)
王覇 信長の幻影 (秀吉の策謀と真田昌幸)

真田昌幸は大胆不敵にも徳川領の信州佐久郡をジリジリと圧迫し、あらゆる計略を駆使してその略定に腐心中だったのであるが、
しかしながら、この頃は秀吉と家康との仲は大いに好転に向かっている。

秀吉は、妹の旭を半ば脅迫的に夫と離縁させて、強引に家康の正室として押し付けるような無理なことまでして家康の歓心を買おうとやっきになっているときなのだ。


秀吉は昌幸に対して、

「徳川殿は、わしの親戚じゃ。よけいなことをするな。」と、いった感じで注意している。

昌幸は後年、秀吉の絵に描かれた姿を居間に飾り、朝夕に礼拝していたという逸話があるぐらいに秀吉を尊敬し、信服しきっている。


すぐに了承した。


秀吉のほうも気を利かせて、昌幸と家康との和睦を取りはからっている。

真田昌幸の長男、信幸(改名して信之。後年、昌幸・幸村が反徳川だった為、家康をはばかって「幸」から「之」に改名したという)と徳川家の重臣、本多忠勝の娘との婚儀がそれである。


この婚儀には有名な逸話がある。

秀吉からアドバイスをもらった家康は、この縁談を昌幸にしてやると、

「徳川の家臣の娘など、まっぴら御免、平にご容赦。」と、きっぱりと剣もホロロに断ってきた。


家康は思案に暮れ、後日、秀吉に相談すると、

「徳川殿の養女にして、もう一度、話しを持ちかけてみてはどうか。」という。


さっそくそうして、昌幸に再度の縁談をすると、

「良縁でござる。異存はござらん。」と、慎ましやかに言ったという。


真田家は小なりといえども領国を支配する一大名である。本多忠勝は徳川の家臣なのだから、社会的な立場が違うといったところであろうか。

当時の門閥に関わる社会的な背景を考えれば、ありそうな話しではある。


こうして、昌幸の長男の信幸と、本田忠勝の娘の小松殿はめでたく結ばれて夫婦となったのであるが、

しかし、この夫婦をはじめ、真田本家、舅の本多忠勝までもが後年、昌幸と幸村によって大変に身の細る思いをさせられるのであるから、
まさに人の運命とは、一寸先は闇、 人間万事塞翁が馬 、 吉凶はあざなえる縄のごとしである。


 さて、ともかくもこうして、真田昌幸は、秀吉という最強のバックに支えられ、上杉景勝にひどく恨まれながらも許されて、徳川とは秀吉の仲介役も手伝って親戚となって和睦することもできた。


こうして、上州の沼田の地は、以前と変わらずに真田家の勢力圏のままだったのであるが、


しかし、徳川家康からは以前の約定の件をホッポラカシにされ、


しかも、真田昌幸からは何度となく煮え湯を飲まされている北条家が、これは全然おもしろくないのだ。



【2015/09/22 21:39】 | 未分類 | コメント(0)
王覇 信長の幻影 (縦横無尽、真田昌幸の真骨頂)

さて、真田昌幸は大強敵の徳川勢・北条勢を痛快なまでに翻弄して徹底的に撃退したのであるが、
しかし、今後の徳川・北条の巻き返しの大攻勢に切実な不安を覚えて、

なんと、越後の上杉景勝が秀吉に謁見するために上京しての留守を幸いに、人質の源次郎(昌幸の次男、信繁。幸村というのは、江戸時代の寛永年間の「難波戦記」という軍記物でつけられた俗名という説があるが、
しかし、後年の大坂冬の陣での信繁の大坂城入城の時に、本人が自ら真田幸村と改名して名乗っていたという説がある。

幸村はその生涯を通じて、とても素直で誠実な性格であり、本当に心の優しい人物であった。
おそらくは、徳川方について真田本家を守る実兄、真田信之の苦境的な立場を考慮しての、苦心苦肉の改名だったのかもしれない。)を、勝手に呼び戻し、
すぐさま秀吉のもとに信繁を人質として差し出し、
しかも、上杉景勝の許しもなく、なにくわぬ顔で勝手に羽柴家の直属の被官たる許しを願い出て、これが許されて大喜びだったというのだから、これは実にひどい話だ。


後日、上方から越後に帰国した上杉景勝は、この事実を知るに及んで烈火のごとく憤激して激怒している。

秀吉が怒り心頭の上杉景勝を上手になだめたので、景勝の腹の虫もなんとかおさまり、昌幸は上杉家からなんら咎められることも無くことなきを得たと云われているが、
しかしこれは、実に破廉恥極まりない言語道断な所業だ。


 真田昌幸は以前、上杉家を離反した経緯があったのだが、上杉景勝は再び泣きついてきた昌幸に同情を寄せて、微小の地方豪族の真田家を哀れに思い、
上杉家中の大反対を押し切って再度の帰参を認めてやり、以前の破廉恥な裏切り行為も快く水に流すように許してやっているのだ。

しかも、その上に真田家と徳川勢との上田合戦の際には、異説があるとはいえ、窮地に陥る昌幸を見棄て難いということで援軍まで送っているのだ。


ここで私見を書くが、私は、真田昌幸公に好意を寄せる者であるが、しかし、これほどまでに信義に反する行為は、いくら戦国時代といえども、これはもってのほかの仕業であり、この不誠実極まるやり方には一抹のいきどおりを覚え、とても無念で残念に思えてならない。

史書の改正三河後風土記に、

「真田昌幸は、生得危険の姦人である。」と、まことに手厳しい批評があり、いくら「改正三河後風土記は徳川方の史書なので徳川ビイキの史料である」といえども、確かにそのように思われてもしかたがないであろう。

とても苦しい言い訳になってしまうが、しかし、昌幸を少し弁護していえば、これは、身代以上に知略が異常にたくましいがゆえに、このように不明朗なことになってしまったのかもしれない。


余談だが、そもそも、「信義心」であるとか、「忠義一徹」であるとか、「律儀で誠実」であるといったことなどは、裏切りの横行する下剋上の戦国時代には無かったはずという諸説があるが、

しかし、諸史料を丹念に調べれば分かることなのであるが、そんなことはないのである。

信長も、秀吉も、家康も、その他の武将たちも、その身代が微小の頃から「信義心」「忠義」を心がけて励行しており、

特に信義心は、彼らの嘱望を成就させるための重要なカギの一つであったことは、これはこの時代だけに限ったことではなく、日本史に明るい方々であればすでに周知の事実であろう。

かつて、江戸時代の寺子屋などでは、「織田信長は信義の人であった。」と教えられていたのであるが、今ではその事実がすっかり忘れ去られている。

とても残念なことであるが、今の現代は、メディアや出版業界の売らんがための宣伝文句のせいもあって、戦国時代の実態、戦国武将の実像などが大はばにぶれてしまっている。

「天下は麻の如く乱れ、乱世の群雄たちは誰もが天下を狙っていた!」というのは異常に誇張がすぎるキャッチコピーであるし、

群雄たちは誰もが天下を狙っていたなどというのは、これは時代考証があまりにも甘すぎる、誇大広告のようなキャッチコピーなのである。

また、相変わらず三国志演義で使われている手法、善玉・悪玉を仕立てあげて両極端の人物像を作り上げ、まるで小説やドラマに登場するかのような非現実的な戦国武将の実像が作り上げられてしまっている。

現代は、メディア・出版業界が麻の如く乱れて横行し、戦国武将たちは誰もが虚像になっている!?と、いったところか。


 さて、ともかくもこうして、
真田昌幸は羽柴家という実に頼もしい後ろ盾を得て、ここは思案のしどころ、奇貨居くべし、まさに好機逸すべからずといわんばかりに信州の略定に着手し、

しきりに徳川領の信州佐久郡に打って出て、すぐさまジリジリと切り取り始めたというのだから、このあまりにも素早すぎる自信満々の豹変ぶりには本当に恐れ入る。


まさに真田昌幸の真骨頂、稀代の軍略家ではあるが、昌幸の領土欲、野望心の旺盛な膨張欲は、とどまることを知らない。



【2015/09/21 21:11】 | 未分類 | コメント(0)
王覇 信長の幻影 (戦国のニューフェイス 真田昌幸)

 関東八州に蟠踞して絶大な勢力を奮う北条家が、関白の秀吉によって征伐される話しを書く前に、例の真田昌幸の動静について語っておかなければならない。


なぜなら、秀吉は元々、九州征伐の頃から外征(唐入り・朝鮮陣)が念頭にあって、北条家は勅命による外交的な圧力で屈服させるつもりであったのだが、

その後、卒然と小田原の征伐を決意して強行した動機には、真田昌幸の所領である上州の沼田の地が深く絡んでいるからだ。


 以前に、本文に書いて触れたことであるが、徳川家は真田昌幸との上田合戦において散々に敗れ、みじめなぐらいの敗退劇を演じて大敗北したのであるが、

しかし、真田家にとって、徳川の勢力が依然として強大であることに変わりはない。


また、この上田合戦の折りに、北条家は抜け目なくも昌幸の隙を突いて沼田城を攻撃している。

北条家は、上田城で戦備に明け暮れる昌幸の間隙を縫うかのように、鉢形城主の北条氏邦に命じて沼田城の奪取にあたらせたのである。


だが、昌幸の指令で沼田城を守る矢沢頼綱(昌幸の家老で、叔父)の巧みな用兵で毎度のごとく果敢に防戦よく努め、いつもの北条氏邦も、いつものように撃退されて、毎度のことながらスゴスゴと引き上げていた。


こうして、真田昌幸は徳川勢を追い払い、北条勢とも戦い、これら強敵を難なく撃退したものの、しかしなんといっても北条の勢力は絶大で強大だ。

再度、北条が本腰を入れて攻め込んできたりしたら、いくら軍略に優れる昌幸でも、これはどう考えても防ぎようがない。


真田家の後ろ盾には越後の上杉がいるが、しかし、徳川・北条と相撲をしなければならない昌幸は心細くもあり、いくら強豪の上杉家がバックにいるとはいえ、ここは今後の展開に不安もあったろう。

ちなみに、以前、織田信長が武田家を滅ぼして後、上州の厩橋(前橋)城に関東探題として将領の滝川一益が入り、沼田城には滝川義太夫がおり、甲斐に川尻秀隆が入って北条家に睨みを利かせていたが、

信長が本能寺で横死して後、総帥の滝川一益は関東の諸将に金銀・財宝・戦利品などをばらまくように分け与えて北条家と有無の熾烈な決戦を挑んだのであるが、
散々に打ち負けて総敗軍となって死者算なしの様相を呈して逃げ帰っているから、北条家の武力の衰えていないことは明らかなのだ。

こうして、真田昌幸は上杉家の援護だけでは不安になり、上杉の後ろ盾になっている秀吉の被官になることを考え始める。


羽柴家の直属の被官であることを強くアピールして、徳川・北条を威圧してけん制しようと思ったわけだ。

この思案は、戦国の小大名にはありがちなことであり、こうでもしなければ生き残れないという厳しい時代背景も確かにあったのであるが、

だが、この後、昌幸はとんでもないことをしでかすのだ。


これはよくいえば、身代のわりに知略のたくましい野心家ともいえるが、


しかし、今の現代もそうであるが、人間的に度量の狭い野望心の強烈な男は、なりふりかまわずどんなことでもする。


【2015/09/18 01:03】 | 未分類 | コメント(0)
コラム 独眼竜 伊達政宗 Ⅲ

 伊達輝宗は数名の供を引き連れて畠山義継の見送りに出たのであるが、
その輝宗の陣屋から表門までは、高々と竹垣でしっかりと作られた狭い通路になっていて、
ほんの一人か二人がやっとのことで並んで通れるかどうかの狭い通路になっている。

その細長い通路を通過して表門まできて、皆々がその門前に出てくると、
義継がゆっくりと振り返り、その場に座し、伊達衆にむかって今日の御礼言上を丁寧に述べるや否や、

だしぬけに突然、いきなり抜刀して輝宗に襲いかかり、輝宗の胸ぐらをしっかりとつかみながら強引に引き寄せ、その胸のあたりに刃を突きつけて人質も同然にしたからたまらない。

また、それに呼応するかのように義継の郎党らも次々と抜刀しはじめ、義継を包囲するかのように守りを固め、用心しながらしきりに威嚇する。

そして、畠山義継一行らは辺りを警戒しながら、輝宗を強引に引き連れて二本松城をめざして歩き急いで行く。


 その場に居合せた輝宗の家臣たちは、このだしぬけの緊急事態に大仰天し、うろたえ、慌て、騒ぎ、 周章狼狽の大混乱の状態となったのであるが、
しかし、かといって手出しもままならずに、ひたすらにおろおろとするばかりで、無念ながら義継一行の後ろをひたひたと追うばかりであった。


 しばらくして、鷹狩に出ていた政宗はこの急報に接し、すぐさま手勢を率いて素早く駆けつけたのであるが、しかし、事態は急だ。このままでは川を渡られて畠山義継の二本松領に入られてしまう。


 政宗はぎりぎりと歯ぎしりし、激憤し、もだえ苦しみ、焦慮し、懊悩し、その顔面に脂汗をびっしりと浮かべながら、


「お家のためだ、仕方がないぞ!」と絶叫し、断腸の思いで突撃命令を下す。

その刹那、伊達勢は恨み骨髄とばかりに弓・鉄砲を速射し、猛然と抜刀しながら畠山勢に肉迫していく。

こうして、畠山勢は一人残らず討ち取られ、義継の遺骸はずたずたになるまで切り裂かれたのであるが、

しかし肝心の輝宗はすでに義継によって何度となく刺されており、無惨な最期を遂げて横たわっていたという。


 さて、この話しは伊達家側の史料によって書いたのであるが、

 しかし、畠山義継側の史料によれば、
輝宗があらかじめ義継を謀殺する算段をしていて、
この時をはずさずに討ち取ってしまおうともくろんでいると勘違いした義継の供の者たちが、これを即座に輝宗との会見中の義継の耳に入れたので、
義継はそのことを聞いて驚き恐れ、このままでは安全に帰城もかなわぬと恐怖し、迷い、錯乱して、
その結果、しまいにはあのような顛末になってしまったので、これは、そもそもが誤解から生じた事件であったという説がある。

また、これは誤解ではなくて、
元々がはじめから輝宗と政宗は共謀して畠山義継を謀殺するつもりであったのが、それに勘付いた義継が、決死の先手を打ったのだとする説もあって、
双方の史料をいろいろと勘案して考察するに、しかし、この事件の様相は全く判然としない、いくら考えても、いっこうに分からんのである。


畠山義継のあのような仕業には、もっともらしい理由がいくら探しても見つからない。


だいたい、降伏したとはいえ、伊達領はまだ危険な敵地であり、そこで油断をついて輝宗を捕えたからといって無事でいられるはずがないのだ。

畠山義継の仕業は、心労で疲れ切って平常心を失い、錯乱して、ついに発狂したのではないかとも思えてしまう。


ここで私見を書くが、

伊達家側の史料には、この事件は畠山義継の暴虐だと言いたげに記されているが、
しかし史料を詳しく検証すると、
事件の経緯に関する記述に不自然な点があり、わざと明言を避けている部分や、肝心なところが曖昧な表現になってぼかされていたり、明らかに他の史料との整合性が合わない部分が散見される。

なにか、言いたくない、書きたくない、隠しておきたい、といったようなニュアンスが感じられる。

畠山義継側の史料にしても、これも同じようなものであり、しかも、こちらは憶測につぐ憶測のオンパレードの記述ばかりで、どこまで信用してよいのか分からないのであるが、

しかし、前章に少しだけ書いたが、

伊達家中にひどく恨まれている者があり、畠山義継がこの者を庇護してかくまっていて、

政宗がこの者の引き渡しを要求するも、畠山義継があくまでもこの者をかばって拒んでいたという説があり、


私は、この者に、何らかのヒントが隠されているような気がして仕方がないのである。

もっとも、政宗が畠山義継と会見している頃には、この者はすでに芦名家を頼って逃亡している(異説あり)。


この者とは、これは、伊達政宗公の伝記に明るい方々であれば、すでにご存知であろう。



【2015/09/10 23:36】 | 未分類 | コメント(0)
コラム 独眼竜 伊達政宗 Ⅱ

ところで、伊達政宗の人格形成に多大なる影響を与えた事件といえば、まず第一に、政宗は幼少期の頃に疱瘡を患い、その膿が片方の目に入った為に隻眼になってしまったことであろう。

この時代は、まだ、長男が嫡男として家督を継ぐという決まりはないのであるが、しかし、戦国の世を乗り切れるだけのそれ相応の実力が認められれば、まずは長男を重要視して、優先的に家督を譲るという風潮・風習はあったのだ。

だから、長男として誕生した政宗は、嫡男として伊達家中の期待も実に大きなものであったろうし、
特に政宗の母親は、家中の期待感を一身に背負わされて、しかも、その期待にこたえなければならないという責任感から日増しに重圧感さえ感じざるを得えない状態になっていたのではなかったかと思うのである。


これは、他の有名な戦国武将の母親たちにもいえることかもしれない。


上杉謙信も、織田信長も、武田信玄も、その家の長男として生まれた有名な武将は他にもたくさんいるのだが、

彼らの伝記を読んでいて本当に痛感させられることは、いずれも共通して実母との仲がひじょうに険悪で、どちらかといえば母親のほうが嫌悪して長男を遠ざけているケースが多いということだ。


当時の女性には、江戸時代のような厳しい倫理観も道徳観もない。社会もそれを強く要求していない。この時代は女性も自由奔放で、その個性を強烈に発揮している。

また、母性愛というのは、環境や条件によっては、慈愛に満ちた愛情にもなれば、その愛情が愛憎に変わることもあれば、強烈な憎悪にすら変化することもある。これは、今の時代も同じことだ。


政宗の母親とすれば、伊達家中での強烈なストレスの上に、さらに、そのうえに、政宗は隻眼になってしまい、弓取りの武将として致命的な欠陥を背負うことになってしまったのだから、その家中での重圧感たるや、なおさらであったろう。


政宗も上述の戦国武将たちと同じように母親から忌み嫌われて、そのせいでもあったろうか、少年時代はひじょうに内向的で、てれやのはにかみやであったと云われている。

しかし、そのてれ屋のはにかみ屋が、後年は横着者の大器量人にまで成長するのであるから、人の運命とは、本当に人知の及ぶところではないと痛感させられるのである。



そして第二に、政宗の生涯を語るうえでの一番の大惨事は、彼の最愛の理解者であった父親との壮絶悲壮な別れであろう。


この経緯は、伊達成実の成実日記、史料の明良洪範、その他の諸説を勘案すると、こうなる。


伊達領の隣国には、畠山義継という武将の領する二本松城があった。

畠山義継は以前、伊達家に所属していたのであるが、やがて威勢の良い強国の芦名家によしみを通じるようになり、ついに伊達を離反して猛烈に反抗しだした。


しかし、衆寡敵せず、伊達の武威に恐れをなし、政宗に再度の帰服を申し入れた。


政宗はこの時、伊達家の家督を父親の輝宗から譲られたばかりであったので、伊達家中の心情も考慮して、畠山義継の帰参に対して過酷な条件を提示する。

また、畠山義継は伊達を叛いた経緯があるのだから、もしかしたら芦名家の間諜となっている可能性も否定できない。

しかも、畠山義継は伊達家中から深い恨みを買っている者をかくまっており、その者を引き渡すことを拒み、いまだにそのままの状態で帰参を願い出ているので、ますます信用することができない。疑わしいのである。



さて、政宗の口上に、畠山義継は青ざめて条件の緩和を要求するが、政宗は頑として聞き入れない。


困り果てて、隠居している伊達輝宗の元に何度となく出向いてとりなしを頼むのであるが、まるで埒があかない。


こうして、ガックリと肩を落とし、悲壮な顔立ちて帰っていくのだが、さすがに輝宗も気の毒に思ったのであろう、丁寧に見送りに出たのであるが、


これが、まさかの油断になってしまった。



【2015/09/07 18:44】 | 未分類 | コメント(0)
コラム 独眼竜 伊達政宗 Ⅰ

東国の奥州(陸奥の国)を席巻した伊達政宗は、戦国時代末期の風雲児である。

父親の伊達輝宗から家督を譲られたのが、若年の十八歳の頃、奥州の片田舎の米沢から他領を侵略することわずか五年、天正十七年の頃までには会津四郡、仙道七郡をたちまち平定し、その勢いはとどまることを知らず、出羽の国にまで兵馬を進めている。


強国の芦名家を攻め滅ぼして本城を会津の地に移し、二十三歳の政宗は約百万石を領するまでの大大名にのし上がったのである。


ちなみに、そもそも芦名家というのは、三浦半島の久里浜周辺の豪族であった佐原氏の一族である。

 源頼朝が奥州平泉の藤原氏を滅ぼした際に、その戦いで忠勤を抜きんでた佐原氏が会津の地を拝領し、その一族で三浦半島の芦名に所在していた芦名ノ盛連の一族が鎌倉時代の末期に会津の地に移り住んだのである。


伊達政宗が虎視眈々と狙っていた芦名家には、伊達輝宗の妹が嫁いでおり、したがって、その伊達御前にとっては政宗は甥にあたるわけで、ここが戦国時代の実に恐ろしいところだ。領土欲の前に義理もヘチマもない。

まさに無慈悲限りなし、野望心旺盛な政宗の欲望にまったく限りなしである。

もっとも、政宗によって芦名家が攻め滅ぼされる一年ぐらい前に、伊達御前は病没しているようであるから、この悲惨な現実を知らずに済んではいるのだが。


 余談であるが、この伊達御前は、非常に繊細で嫉妬深い人であったようで、もともとは、芦名盛氏から家督を譲られた息子の盛興に嫁いで女の子を一人だけ産んだのであるが、
夫の盛興(酒毒の胃潰瘍で20代の後半ぐらいに死んでいる)は、伊達御前の侍女(芦名の重臣、片平家の女)に手をつけて、伊達御前と同じ時期に男の子(幼名は力丸という)が産まれているのだ。

これが原因で、伊達御前は精神的に不安定になり、その侍女を殺そうとまでしたという伝説がある。

また、伊達御前は力丸を憎み、芦名家の世継ぎたることを頑強に認めず、後年は、その存在すら消し去るように忘れているほどで、
この伊達御前の嫉妬により、芦名家はしかたがないので、二階堂家の血筋の者や、佐竹家の一族を当主に迎えている。
これが、芦名家の重臣たちの分裂を助長し、政宗につけいる隙を与えてしまうのである。

伊達御前が早々に力丸を芦名家の当主と認めていれば、芦名の結束は強固なままであり、
あの摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)の様相は一変したかもしれないし、もしかしたら政宗の野望はとん挫してしまったかもしれない。


 
 さて、伊達政宗の戦歴を一々書いては果てしがないので書かないが、政宗はたぐい稀な戦(いくさ)上手であり、運もことのほか強い。

 外交政策もまことに巧みで、時の権力者である秀吉のご機嫌を取りながら、しかしその一方では関東の大群雄の北条家に通謀したりしている。

どちらに転んでもいいように二股をかける一方で、近隣の諸豪族をかたっぱしに征服している。

豊臣家に帰服を誓っている諸豪族らも、同様にことごとく征伐しているのだから、恐れ入る。


 政宗は、秀吉と親交の厚い前田利家、徳川家康、浅野長政などにドシドシと贈り物を送り、彼らと親しく音信を結んで取り入るという老練ぶりである。

万が一に備えて、セッセセッセと種をまいていたのだ。


後年、秀吉が北条家征伐を断行して小田原城を重囲した際に、その参陣に遅れた政宗は辛くも秀吉に許されて首がつながったのであるが、秀吉の大風呂敷、太っ腹、大度量もそうだが、以前にセッセとまいておいた種が生きたともいえる。


政宗が遅参ゆえの死罪を免れたのは、政宗を弁護してくれた武将たちのおかげでもあり、特に徳川家康はずいぶんと骨を折って政宗をとりなしている。

家康は家康で、セッセと種をまいていたのだ。



 こうした政宗の煮ても焼いても食えない横着な性質は、後年の関が原役において鮮明に現れるのであるが、詳しく書いては果てしがない。別の機会に詳述したい。


 ところで、伊達政宗は隻眼であったと云われ、政宗は独眼竜で有名である。


 独眼竜というのは、古代中国の五胡十六国の時代に、後唐の創業者である李克用のあだ名にちなんでつけられたようである。
 
 李克用は隻眼の弓の名手で、後年になって李克用がめきめきと頭角を現し、世間に広く知れ渡るようになると、独眼竜と呼ばれるようになったという。
 

【2015/09/04 01:29】 | 未分類 | コメント(0)
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