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秀吉の関東征伐 北条家戦国興亡記 1

 さて、一方、天嶮の箱根の峠や、険阻極まりない碓氷峠に頼り切っていた北条家側は、ガックリと肩を落とし、その将兵らは大きなため息をついて意気消沈するのであった。
諸史料によれば、北条方は、豊臣勢の兵糧問題をあてにしていたと云われており、非常に短絡的で消極的な考え方であったように思えるのだが、
しかし、これは当時の極めて常識的な判断、いや、最善ではないにしろ、当時の良識であったといってよいのかもしれない。

 秀吉の動員する軍勢は20万近い膨大な大軍勢である。その兵糧・補給物資の消費量たるやハンパじゃない。

しかも、その補給路を確保しながら兵站を構築するのであるが、
天嶮の要害のような険阻の厳しい山々を越えて絶えず補給物資を運び入れ続けるとなると、これは確かに実に困難極まりない。
さらに、当時は道路といっても道幅の非常に狭い、けもの道みたいな作りがほとんどで、緩急の厳しい上り坂・下り坂もひじょうに多かったのである。

実際、北条方は豊臣勢の兵糧の現地調達を阻止するために事前に焼き畑などをしたり、補給路となり得る道々をあらかじめ破壊しておいて遮断を試みており、豊臣勢も一時期、兵糧難に陥って大混乱しているが、
しかし、豊臣勢の補給部隊はもっぱら海路を使ってスムーズにドシドシと補給物資を運搬しているのだから、これでは北条方の予測は早くもハズレてしまい、まったく悔しがるのみであった。

また、豊臣の諸将は各地の要所要所で次々と北条方の城をおとしいれて、まさしく無人の野を行くが如くの破竹の大進撃、一方の北条家は後世に名を残す「小田原評定」に日々明け暮れていたというのだから、これではすでに脈が上がっている。

青ざめた顔つきで何度となく争論を繰り返し、悲壮感を漂わせて篭城に専念するのみのテイタラクぶりであった。


 ところで、北条家の本城である小田原城は、天下の名城、難攻不落の要害で実に有名である。
これは、武勇絶倫の上杉謙信公の攻囲(1561年)をしりぞけ、後年は勇武知略の武田信玄公の攻城(1569年)も撃退したという経緯があるからなのであるが、
しかし、当時の上杉謙信公は鎌倉での関東管領就任の儀式のことで頭がいっぱいだったから、本当に本腰を入れて落城させるつもりであったのかどうか疑問である。

武田信玄公も本腰を入れた攻城ではなくて、今川を滅ぼして後の駿河を安定的に支配するための示威行為だったとする見解が有力である。

しかし、当時の小田原城が難攻不落の未曾有の大規模な城塞であったことは間違いないようである。


 余談を書くが、越後の上杉謙信公は関東の諸将を率いてまずは鎌倉で戦勝祈願をした後、小田原城を攻囲したのであるが、鎌倉市から藤沢市、そして茅ヶ崎市から平塚市を経由して小田原に向かっている。

私は神奈川県の茅ヶ崎市生まれで、地元の子供たちにこの話しをすると、とても驚くのである。

あんなに遠方の新潟県の謙信公が、まさかここまで来たのかと、

どの道を通って鎌倉から小田原に向かったのかと、


1号線の東海道か?


海沿いの134号線か?


さては大山街道か?と、


子供たちが、とても不思議な顔をするのである。



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【2015/10/28 01:34】 | 未分類 | コメント(0)
王覇 信長の幻影 (壮麗な豊臣水軍  秀吉の関東征伐)

天正18年(1590年)の四月、秀吉は全軍の総帥として動員令を下し、関東八州を征するを期して厖大な軍勢を率いて京都を後にしている。
諸史料によれば、秀吉をはじめとする諸将の軍装は実に華やかで、その装束などもまことに艶やかで優麗であったという。

 北条家を屈服させれば、全国制覇は目前なのである。平和の招来も近いことを大々的に宣伝するうえでも、ずいぶんと派手で華麗な出陣であったに違いない。

 群衆はこの輝かしい大軍勢を遠望して、驚嘆して騒ぎ立てたであろうし、良民らは戦乱の終息を期待して歓声をあげて見送っていたことであろう。まさしく、平和の気運を感じさせる、さっそうたる大軍勢であった。

 秀吉の事前の手配り通り、東海道筋では、すでに徳川家康が先鋒となって出陣しており、その後を追うかのように織田信雄、蒲生氏郷の軍勢が諸将を率いて続いていき、その後方から秀吉の率いる本隊が進んでいく。

 東山道からは主に真田家の真田昌幸、真田信繫、真田信幸らが索敵をしながら先鋒として進み、続いてその後方から超大物大名の上杉景勝、前田利家が諸将を率いて来援している。

 海上では、宇喜多秀家の総指揮により、長宗我部元親、脇坂安治、九鬼嘉隆らが水軍を率いて小田原をめざす。

 豊臣軍は、水陸合わせての総勢は15万以上とも、20万以上とも云われている。

最近の研究ではその総勢は20万ぐらいであったというが、しかしこれは輜重隊(主に輸送や補給に従事する)も含んだ数字ではないかと思われるので、
だいたい15万ぐらいとするほうが穏やかな見解であろう。しかし、いずれにせよ、日本史上類のない未曾有の大軍勢であったことは確かだ。

 ちなみに、日本の水軍の元祖は海賊だ。
 しかし、これは日本だけのことではなく、海外も同じようなものである。
有名なサー・フランシス・ドレーク(1543年頃 - 1596年)は、エリザベス朝のイギリスの海軍提督であるが、元々は海賊を稼業としており、ふだんも同じように海賊として海で暴れまわっているのだが、
しかし、エリザベス女王の招集があった場合には、全くの忠誠無私のナイトになって即座に応じて、野蛮な大海賊から女王陛下の正規軍に大変身する、いわば「半野良海軍」であった。

 日本では、瀬戸内海の海賊が実に有名であるが、瀬戸内は小島や入り江が無数にあるので、古来より船舶の技術の発達が著しく早かったのであろう。
瀬戸内海の海賊のほとんどは以前から毛利党で、織田信長の時代の頃は、毛利家が精強な水軍を駆使して本願寺や雑賀衆を支援し、信長を随分と悩ませている。

毛利党の水軍は、水上での戦術にも精通しており、戦闘にいたっては実に勇猛果敢で、武器・弾薬・兵糧をはじめとする大量の荷を積むことのできる大型艦船もあったと云われる。

 史書の「信長公記」に、信長が鉄甲船を使って毛利水軍を辛くも撃退したとあるが、ことの真偽は別にして、このような話しがあるぐらいに毛利党の水軍は精強であった。

しかし、秀吉の時代になると、毛利は豊臣家の配下同然になっているので、秀吉の軍勢は水運に苦労がいらない。北条征伐に必要な兵糧・武器・弾薬などの補給物資は海路を使ってドシドシと送り込んでいる。

また、秀吉はあらかじめ経世の才に優れる長束正家に命じて、兵糧の調達から港、倉庫などを事前に手配させており、長丁場の対陣になった時に備えての万全の準備に余念がなかったのである。

 
海賊ついでにここで余談を書くが、
最近の研究によれば、日本海の海賊で、朝鮮半島の湾岸を荒らしまわっていた倭寇は有名であるが、しかし、実は日本人ではなくて、そのほとんどが朝鮮半島の人々が倭寇と称して暴れまわっていたのだという。

まぁ、どちらにせよ、誰がやったにせよ、今となっては分からない、今となっては確認できない「目に見えない部分」といったところか。

「目に見えない部分」といえば、今現在、世間を騒がせているマンションの傾斜問題。

マンションの地中の杭にいろいろと、続々と問題が発覚してマスコミも大騒ぎしているが、しかしその販売会社の不動産屋の殺し文句、

「目に見えない部分だからこその安心と信頼です。」と、ヌケヌケと宣伝していたという。

本当に悪質なのは、人命の軽視が見え隠れしているところだ。

もしも倒壊していたらと考えると、本当に胸が張り裂けるような思いがする。


このような悪質な者どもは、織田信長の治世であれば、「一銭斬り」の対象者であったかもしれない。



【2015/10/23 01:08】 | 未分類 | コメント(0)
王覇 信長の幻影 (秀吉の関東征伐 徳川家康と督姫)

 以前に別の章で詳しく書いたが、本能寺の変で織田信長が横死したことにより、旧武田領の甲州・信州・上州は大混乱の状態となり、隣国の徳川家・北条家・上杉家の切り取り勝手しだいの争地と成り果てた。

特に、徳川と北条との激戦が諸所で展開され、しばらくは大勢力を誇る北条方が圧倒的に優勢であったが、しかし、徳川方の真田昌幸・依田信蕃が碓氷峠の北条勢を痛快なまでに蹴散らし、北条方の糧道を徹底的に遮断したことにより戦局が大逆転し、
その後、徳川・北条は和睦したのであるが、この時の和睦の条件よって徳川家康の娘の督姫(ごうひめ。「とくひめ」と読む書物も多い。名は、おふう)が北条氏直に嫁いでいる。

 したがって、家康にとって北条家は親戚なのであり、北条家当主の氏直は娘婿なのだ。

家康としては、なんとかして北条家を救ってやりたい気持ちも山々であったろうが、しかし秀吉に逆らうことは徳川の存亡に関わる危険な賭けであったろうし、
だいたい、元々が、これは好き好んで交わした縁組でもなかったし、あくまでも和睦を成立させるためだけの政略的な必要上のことでしかなかったのだから、
したがって、そんなことよりも逆に、ここで秀吉に対してさらなる恭順の意を表しておいたほうが大いに得策だとも考えたであろう。

家康は北条家をかばうことをサラリと諦めて、しかしその内心では娘の安否を心配しながらも、秀吉に忠実に従う覚悟を決めたのであった。

 ところで、長い余談になるが、督姫の「毒まんじゅう伝説」は実に有名な話しだ。

 督姫は上述のとおり、政略上の犠牲者となって北条氏直に嫁いだのであるが、しかし後年、北条家は秀吉によってお家とり潰しの断絶の憂き目に遭ってしまう。
 当主の北条氏直は家康の助命嘆願によって一命を取りとめて高野山に入り、督姫も夫に付き添うかのように従ったようであるが、
しかし運命とは皮肉なものだ。北条氏直は翌年には病没し、督姫は27歳にして寡婦となってしまっている。
その後は、傷心の身で父の家康の元に帰ったと云われる。

その後、秀吉の斡旋・仲介によって、妻と離別してやもめ暮らしをしている池田輝政に嫁いだというのだが、しかしこれはあやしい。

なぜなら、池田輝政が妻と離縁しなければならなかった理由が、いくら調べても不明瞭であいまいであり、
妻の産後の肥立ちが悪かったことによる体調不良を離別の原因とする説もあるのだが、しかしこれも詳しく調べると説得力が全然なくて、いっこうによく分からんのである。

おそらくは、池田輝政は、秀吉から内々に督姫との縁談をもちかけられていて、池田家の安泰と将来性を期して妻と離縁したのではなかったかと私は疑っている。

だいたい、当時の戦国武将たちは、とてもずる賢くて、実にさとい。
まぁ、そうでもしなければ生き残れないという厳しい時代背景もあったのだが、家康の娘との縁談ともなれば、これは、なりふりかまわずに飛びつく者も多かったに違いないのである。

 さて、ともかくも、ことの経緯はどうであれ、督姫は池田家に嫁いでいくのであるが、しかし父親の家康としては、前回はかわいい娘を北条に嫁がせて政略上の被害者にしてしまい、
今回は今回でまた、時の大実力者である秀吉からの助言に従わざるを得えなかったわけで、督姫には無理強いの犠牲者のような思いをさせてずいぶんとむごいことをしたものだと、深く後悔していたのであろう、後年は督姫ばかりではなく、池田輝政もその子供たちも家康から実に破格なほどに優遇されている。

 池田輝政も督姫を寵愛していたようで、あの目まぐるしく忙しい時代背景の中で、男子五人、女子二人の子宝に恵まれている。

 
 ところで、史料の吉備温故秘録によれば、池田輝政には前妻との間に利隆がおり、後年、督姫が実子の忠継を世継ぎにしたいと思い、
侍女に毒入りのまんじゅうを作らせて利隆の前に供した。

 利隆は、継母(督姫)から常に冷たい仕打ち、日頃からつらいめに遭わされているので、そのまんじゅうを不審に思い、手をつけない。
 
 侍女も利隆を哀れんで、手のひらに毒と書いてそれとなく知らせるが、それを見ていた忠継は利隆をふびんに思い、哀れみ、また、奸悪な母を憎んで、

「ほう、うまそうなまんじゅうだな。一ついただこう。」といって、その場でムシャムシャと食べ始めた。

吉備温故秘録に、それを見た督姫は、

「良正院(督姫)殿の御顔色、見るうちに赤くなり、青くなり、いろいろに変じたりといふ」とある。

督姫も今さらながら自分の不明を恥じたのであろう、彼女もその場でまんじゅうを食べて、その日のうちに亡くなり、忠継もその月の23日には死んだという。

この伝説は後年、昭和の50年代にすでにいろいろと検証されでウソと判明しているのであるが、しかし、いまだに根強く伝播してしまっているので、督姫の汚名を回復するために長々と書いてしまった。

このように、逸話や伝説には信憑性の薄い話しが本当に多いのだが、
しかし、歴史は、物語にしないとなかなか伝わらないものである。これは、今の現代も同じだ。コピーライティングを少しでもかじったことのある人であれば、すでにご存知の方々も多いであろう。

単純明快で、意外性があり、感情に訴える物語は、これは伝説や逸話に限らず、末永く、世代を超えて長々と伝播している。

督姫の毒まんじゅう伝説も、単純明快な話しであり、毒殺という意外性もあり、話しの内容は実に感情を揺さぶられる構成になっている。

しかし、だからといって、私は伝説や逸話や軍記物をまがい物として否定する者ではない。

なぜなら、歴史が歴史的な事実・真実を追及するだけのものであれば、これほど無味乾燥のつまらないものはないからである。

歴史の事実・真実などというものは、つまるところ、歴史上の人々を地下から起こしてきてインタビューして判断するか、タイムマシンで過去に行って見聞してみないと分からないのである。

必死になってあらゆる史料を丹念に検証して整合性を試みたところで、歴史の事実・真実に迫るには限界がある。あくまでも予想の領域を免れないからだ。



 伝説を聞いて、逸話や軍記物を読んで、しだいに歴史に関心を持つようになって、そして、やがて歴史上の人物たちの実像に興味を持つようになっていく。

そしてそのうちに、それが本当なのかどうか疑問に感じるようになり、ここでやっと、歴史の事実・真実の追及に興味をもつようになるのではないかと思うのである。

それが、自然の発露というものであろうし、だから、私は歴史が好きなのだ。

 

【2015/10/16 00:36】 | 未分類 | コメント(0)
王覇 信長の幻影 (真田昌幸と秀吉の関東征伐)

 さて、上州の名胡桃城を奪われた真田昌幸は激怒し、その脳天から火が噴くほどに憤激してその身をわなわなと震わせながら、
「しゃっ!あの北条の猪俣めが、なりふりかまわずやりおったか!」といった感じで、さっそく大親分の秀吉に北条家の横暴を訴えた。

真田昌幸にしてみれば、名胡桃城の件で北条家とはいずれ紛争になると覚悟はしていたが、
しかしまさか、このように簡単に騙されて名胡桃城を略取されるとは、これはいくらなんでも予想外の展開であったろうし、
しかも相手が相手なだけに、ここは独力では手におえないと思案して豊臣家を頼ることにしたのであろう。

 この事態に秀吉は、

「上州の沼田の件では、寛大に譲歩してうまく取りはからってやったのに、北条家はいまだに上洛する気配を見せないでいる。実に不快に思っているところに、こんどの騒ぎときている。もう、勘弁ならんぞ!」といった感じであったろう。

大海の如く広く深い度量の秀吉であったが、しかしこうまでされては我慢の限界、ついに堪忍袋の緒が切れたといったところか、ついに断固たる北条家征伐を決意したのであった。

 ところで、秀吉は朝廷の権威を大いに利用して、天皇の勅定として惣無事令を度々発令している。惣無事令というのは、大名間での争いを禁止させる、戦闘停止命令のことである。

 秀吉は九州征伐の時に、九州で猛威を奮う島津家に対して、惣無事令を大義名分にして九州征伐を断行し、
今回の関東征伐は、真田家の名胡桃城を略取した北条家に対して、この勅定を大義名分にしているのであるが、しかしこの惣無事令というのは以前、織田信長も使っている。

織田信長が将軍家に働きかけて惣無事令を発令している史料が多々あり、また、信長の甲州征伐の際には、関東から東北の諸大名に惣無事令を出している。

 しかし惣無事令というのは、大義名分のお題目のようなものであり、その実効力はほとんどなくて効果も薄い。どちらかといえば、権力者側の錦の御旗、敵対勢力を征伐するための大義名分、単なる方便・口実にすぎないものであったろう。

この秀吉の動向を知って震え上った北条家は、すぐさま弁解の使者を立てて北条氏規を大坂に派遣しているが、秀吉に体よく追い返されてすごすごと引き返している。

 秀吉は、プラス思考の積極果敢の逸材の人だ。
おそらくは、外征を志している秀吉は、北条に上洛を促して臣従させることをサラリと諦めて、この北条家征伐を外征の予行演習として位置づけていたかもしれない。

なぜなら、この北条家征伐は、秀吉の雄志を彷彿させるほどの壮大で遠大な作戦計画であり、大陸への侵攻作戦をも視野に入れたとしか思えないほどの雄大で膨大な軍勢であった。

秀吉の鳥取城の兵糧攻め、備中高松城の水攻めは実に雄大で遠大であったが、しかしあの時の秀吉は織田家の一方面軍の司令官でしかなかったのだ。

あれほどの働きぶりを見せた秀吉だ。
今回は時の権力者として、朝廷で権勢をふるう時の実力者として、天下の大軍勢を率いて出陣するのであるから、秀吉の意気込みも増々拍車がかかる、すばらしい好場面であったろう。


しかし、ここで大変に気がかりになったのが、徳川家康だ。



 
【2015/10/10 18:13】 | 未分類 | コメント(0)
王覇 信長の幻影 (驚天動地 真田昌幸と上州の騒乱)

 さて、真田昌幸は秀吉の命令に応じ、上州沼田の所領のうち、名胡桃城及びその周辺の領地だけを残して、全て北条家側に引き渡した。

 北条家は、家臣の猪俣直則を沼田城に入れ、厳重に防備をさせて守備を任せた。


そして、しばらくの間は、平和に何ごともなくすんでいたのであるが、猪俣直則はしだいに名胡桃城が気になりはじめる。

 それもそのはずだろう、沼田城の鼻っつらに、名胡桃城があるのだ。

名胡桃城というのは、沼田城の戦略的な要衝となる枝城であり、
しかも、そもそもが以前に、武田勝頼から上州の経略を命ぜられた真田昌幸がこの城を補強・強化して沼田城を執拗に狙い続けて、
しまいには調略を使って略取したという経緯もあったのだ。

ましてや、北条家は昌幸によって何度となく煮え湯を飲まされ続けている。否が応でも油断ならないので、どうしても気になるのだ。


 案の定、猪俣直則は寝ても覚めても、名胡桃城のことが気になってしょうがない。どうしても頭から離れない。

「あそこに真田の領地があっては、なにかと不都合じゃ!どうも落ち着かんわい。うまく騙して奪い取れればスッキリするというもの、お家のためにもなるというものじゃ。」と、いった感じであったのであろう。

猪俣はさっそく名胡桃城を略取する計略を練り始めた。


 一方、真田昌幸は鈴木主水という家臣に名胡桃城を任せて厳重に守らせていたが、しかしこともあろうに、鈴木主水の家臣らが北条家に内応し、名胡桃城は猪俣直則の軍勢によって占領されてしまったのである。

猪俣直則に内通した鈴木主水の家臣たちは、真田昌幸が鈴木主水を呼び寄せているという偽手紙をねつ造し、
この手紙の内容を読んで信じた鈴木主水は名胡桃城を離れて、主人の昌幸の所在する上田城へ出かけてしまった。

この隙を突いて、猪俣に通謀している鈴木の家臣らが名胡桃城の城門を開き、北条方の軍勢を迎え入れてその城をひしひしと固めてしまったというからたまらない。

この緊急事態を道中で聞きつけた鈴木主水は大仰天し、慌て急いで引き返したものの、もはやどうすることもできない。

 鈴木は自分の不明を恥じ、割腹し、自害して果ててしまった。

この報告を受け取った昌幸は、なんとなく茫然としたろう。

人を何度となく騙しはしたが、一度たりとも騙されたことのない昌幸なのだ。
戦慄するほどの計り知れないショックと、 心臓が飛び出しそうになるほどに驚き、腹わたが煮えくりかえるほど激怒したことであろう。

 
 ここで余談を書くが、しかし、いくら出先の者(猪俣直則)がしでかした事件であったとはいえ、北条家が上方(秀吉)の情勢に精通していたならば、このようなばかげた出来事は防げたであろうし、
北条家は、もはや昔日の北条ではなく、すでに脈が上がっていたとしか思えないほどの醜態ぶりだ。

これは、秀吉の馬印の「千成ひょうたん」にいきなり泥水をぶっかけて、
「いつでも来い!」と挑戦状を叩きつけたも同然なのである。

これでは、あまりにも世間一般の情勢に愚鈍であったかを証明して見せたようなものなのだ。

ちなみに、私は神奈川県生まれの神奈川育ち、小田原城には子供の頃から何度となく見学に行ったこともあるので、どうしても北条家に対して親近感があるのであるが、

しかし、この頃の北条家は、

「老舗(しにせ)の見識倒れ」であった感が否めないのである。


北条家の実情は、なにかといえばお国自慢ばかりに終始しているし、北条氏政・氏直は世間知らずのボンボン育ちのお殿様のようであったし、

その重臣・家臣たちに到っては、数代からの大大名であったりしたから、なにかというと権威をかさにして威張り散らし、

心おごり、不勉強の実力皆無、偏屈で生意気で、人を平気で見下すような軽薄短小の輩がほとんどだったようである。

 

 北条早雲公の艱難辛苦の連続、その息子の北条氏綱公は、父と共に野戦に明け暮れる血みどろの戦いの中に生き、その息子の氏康も、父と共に攻城野戦に明け暮れて、その痩身には七か所の刀槍の傷があり、その二つは顔面にあって、
世間一般では向う傷のことを「氏康傷」とまで言ったという。

 
 この偉大な祖父にして、このていどの愚昧な子孫なのかと想うと、なぜか、たまらなく胸がしめつけられ、熱い涙のこぼれ落ちる思いがする。



【2015/10/04 15:35】 | 未分類 | コメント(0)
不如帰 ~戦国武将の幻影~


Ⅰ<覇王編>~逆賊 織田信長を討て!~  Ⅱ<争覇編>~織田家簒奪!秀吉の野望~

不如帰 戦国人物伝


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