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秀吉の関東征伐 徳川家康の遠謀深慮  北条家戦国興亡記 6

 さて、秀吉は北条方の仕掛ける流言(離間の策略)などはサラサラと受け流していたのであるが、しかし、豊臣勢の将兵らの動揺は全軍の士気に関わる重要な大問題なのだ。
ここは、秀吉としては泰然自若と振る舞わなければならない重大な正念場だったのである。

 もっとも、史料・諸書によれば、一流の政治手腕に加えて天真爛漫な秀吉は、さすがは大度量の持ち主、人間心理の洞察に鋭い心術の達人であった。
ものの見事に流言などは忘れ去ったかのように平然として、時には小姓を一人連れて徳川家康・織田信雄の陣屋に出向いて楽しく談笑している。
この光景を見咎める諸将はいぶかしく思い、突発的な変乱の勃発などの心配もするのであるが、しかし、秀吉はそんなことは全然お構いなしといった感じで酒宴などを開いて、徳川家康・織田信雄と楽しく歓談する。
このようなことは一度や二度のことではなかったので、これを伝え聞いた将兵らは安心して胸をなでおろし、流言はいつのまにか封殺されたのであった。

 疑えばいくらでも疑えるところを温かく包み込んでしまうところ、秀吉の人物としての器量の大きさ、推して知るべしである。

 一方、徳川家康は以前から秀吉の猜疑心を警戒して、涙ぐましいほどに用心に用心を重ねており、
秀吉の小田原征伐の三か月ほど前には三男の長丸(後年の徳川秀忠)を大坂に人質に差し出している。これは、徳川と北条家は親戚なのだから、秀吉に疑念でも抱かれたら大損だと踏んだのであろう。

この時、秀吉は大喜びして、長丸に「秀」の一字を与えて秀忠と名乗るように伝えて、長丸との対面の折には、きらびやかで鮮やかな装束衣装を与えてその場で着替えさせ、そして、長丸を人質として大坂にとどめ置くどころか、すぐに家康の元に送り返したと云われている。
遠謀深慮のはびこるせちがらい乱世ではあるが、秀吉と家康との心温まる交情の感じられる好場面でもあろう。

 また、秀吉が主力部隊を率いて小田原に向かう途中、家康はあらかじめ領内の城々をきれいに清掃し、豊臣勢の要請があれば惜しみなく城も兵糧も補給物資も提供できる体制を整えていたという。

後年、秀吉が小田原を征伐して上方に向かう途上で徳川の駿府城に入った際にも、家康は盛大に歓待しているし、豊臣勢の通過しそうな道々をあらかじめ修理・整備し、領内の道中で宿泊しそうな所々には事前に宿舎まで建てておいたというから、これは本当に無尽の忠誠ぶりなのだ。
ここまで私心を捨てて尽くし切れる態度は尋常ではない。徳川家康の鍛え抜かれた耐性には、本当に驚くべきものがある。以前にも少し書いたが、この「耐性」は、家康の嘱望を成就させるための重要なカギの一つであったろう。


 ところで、この時の出来事として逸話がある。

 秀吉が駿府城に到着し、家康に手厚く出迎えられて歓談していた際の出来事。

 秀吉が家康の心づくしの接待を受けて、その饗応の数々に大満足していると、以前に秀吉の母親(大政所)を焼き殺そうとまでした、例の本多作左衛門重次がだしぬけに荒々しい態度で現われて、

「やぁ、殿。国主がすべての城を引き渡し、他人に明け渡して貸すなどということは、これはまさに前代未聞のことでござるな!
このようなありさまでは、他人(秀吉)が殿の奥方を貸せと申したなら、殿は、さっそくもってそうなさるのですかな?ばかばかしい、とても見られたものじゃない!」と、怒声を放ち、いきり立ちながらその場から立ち去って行った。

家康はまったく色を失い、閉口し、返す言葉も失って、しばらくして弁解ともつかない口調で秀吉に謝った。秀吉もあっけにとられていたが、

「徳川殿は、徳川思いの良い家来を持たれて幸せ者じゃ。」と言って、腹を立てるどころか逆に家康を慰めたという。


 遠謀深慮の家康も、この時ばかりはさすがにずいぶんと困ってイライラしたことであろうが、

しかし、「鬼作左」で有名な本多作左衛門重次は生粋骨髄の三河武士なのだ。

 鬼作左は徳川大事、お家第一主義者だったのだから、憤慨していきり立つ気持ちも、分からなくもないのである。



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【2015/11/26 21:15】 | 未分類 | コメント(0)
秀吉の関東征伐 風魔党の暗中飛躍 北条家戦国興亡記 5

 さて、小田原城に籠城する北条方は全くの孤立無援となり、その将兵らは青息吐息の状態と成り果ててしまったのであるが、
しかし、北条家は一事が万事、全く手をこまねいて何もしなかったというわけではない。

諸史料によれば「離間の計」、つまり、流言による内部分裂を誘うという策略を用いている。

この謀略は侮れない。

古来より勇名をとどろかせた古今東西の英雄たち、いや、いや、現代社会の政治家や企業のトップ集団までもが、必ずといっていいほどに決まってこの計略によって九死に一生の窮地から生きながらえて、そして、難なく敵対する諸勢力をことごとく滅ぼしている。
以前に書いたことがあるが、戦国時代においては毛利元就の権謀術数は達人の域を極めており、特に離間の策略はひじょうに卓抜な練れ者であった。思い出して頂きたい。

 北条家には有名な「風魔党」という諜報に優れる部隊もいたわけで、このような北条家存亡の緊急事態に使わないということはないのである。

 風魔党というのは、史料の北条五代記、新編武蔵風土記稿などに詳しいのであるが、しかし、史料の信憑性に疑わしい点が多々あり、その実態についてはよく分かっていないのが実情である。
 
 風魔党は、足柄山の麓の風間谷付近(現在の小田原市風祭のあたり)を本拠とし、後北条家の創始者である伊勢新九朗長氏(北条早雲公)を影ながら支援し、その後の北条五代の繁栄を下支えし続けた一党であるという。

 風魔といえば、伊賀や甲賀と同じような忍者というイメージがあるが、しかしどちらかというと、秀吉の大出世を当初から支え続けた美濃の蜂須賀党(小六で有名。蜂須賀正勝)に近いのかもしれない。

風魔党は、希望にあふれ勇躍する徒手空拳の伊勢新九朗長氏を影に日向に助勢し続けて大なる功績を残しており、
後年は1546年(天文15年)の川越夜戦や、1580年(天正8年)の黄瀬川の合戦などで戦功を上げている。

 もっとも、風魔や伊賀も甲賀も蜂須賀も、元々は氏素性の分からない山賊のような集団であり、強盗・暗殺・縷言・諜報・略奪暴行などを生業としており、乱世においてはひじょうに重宝がられる存在であったが、
動乱の時代が終息に向かいつつある過程において、蜂須賀は大名になり、伊賀・甲賀は大名の家臣となっていくのであるが、
しかし、風魔党は後北条家のみを善とし、江戸時代の頃には以前の状態に逆戻りして盗賊になったと云われている(異説あり。確証はない)。

 さて、豊臣勢は関東で長期に渡る攻城戦を展開中であり、京都・大阪などの上方の情勢や西国に関する情報は不明瞭で曖昧だったはずなのだから、ここは風魔党を使って流言・飛語を流行らせる絶好の好機であったろう。

様々な史料や諸説を検証するに、徳川家康と織田信雄が叛旗して秀吉を暗殺するという流言がまことに多い。

これは、小牧・長久手の戦いからそんなに間がないので当然ともいえるが、しかし、豊臣家の首脳陣内部ではかなり深刻な時期もあったようであり、
石田三成は当初から家康を警戒し、自ら出馬して小田原に向かう秀吉を強く諌めている文献も散見する。

 しかし、秀吉はおそらく高笑いして、うわさ話と軽くあしらって聞き流していたことであろう。

 織田信雄は別として、家康はそんな狭量の人物ではないのである。
秀吉はそれを十分すぎるほどに分かっていたであろうし、織田信雄にしても、いくらなんでもそんなバカげたことをしでかしてしまうほどのアホウな人物ではないし、
だいいち、いくら戦国乱離の時代だからといって、暗殺などという手法を使ったことが世間に広く知れ渡ってしまったら誰からも相手にされなくなってしまうのがこの当時の風潮なのである。
 
暗殺は当時、タブー視されていたし、武士道はこの時代には確立されていないが、しかし、「武士の恥」とする通念はあったのである。

 余談になるが、昔から斎藤道三・松永久秀の評判が悪いのは、このためだ。

 謀反した明智光秀の元に武将たちが集まらなかったのも、これが大きな要因になっている。


また、 「坂東武士は、主(あるじ)の上に主(あるじ)あるを知らず」というが、しかしこれは坂東武士に限ったことではない。

主(あるじ)の上に主(あるじ)あるを知ったら、封建制度は成立しないのである。

幕末になって、多くの人々が「主(あるじ)の上に主(あるじ)ある」を知り、つまり、将軍家の上に天皇あり、を認識しだしたので、
封建制度は崩壊して幕府は滅亡したのである(異説あり)。



【2015/11/20 16:04】 | 未分類 | コメント(0)
秀吉の関東征伐 「秀吉の一夜城伝説」は本当なのか 北条家戦国興亡記 4
 
秀吉は小田原城を重囲し、とても戦時体制とは思えないほどの雄大で壮麗な大遊園都市を作り上げて将兵らの士気を鼓舞したのであるが、
この壮大な壮挙を横目で眺めている北条家側はずいぶんと意気消沈したことであろう。こちらは悲壮感ばっかり漂わせながらむなしい評定を繰り返す毎日なのだから、これではすでに脈も上がったも同然なのである。

しかも、関東では北条方の城が次々と落城したり、すぐさま降伏して開城しているありさまで、
さらに、何度となく通謀して味方になってくれると期待していた奥州の伊達政宗が日和見を決め込んでいるらしく、援軍の急使を何度となく派遣してもノラリクラリと曖昧な返事をして態度を明らかにしないという横着ぶりなのだ。

そして、頼みの綱であった東北の諸大名らは、秀吉の威勢に驚き恐れ、こぞって秀吉の前に頭(こうべ)を垂れて帰服を申し込んでいるという始末なのだ。

 どうにもならんのである。

 こうして、北条家はガックリと肩を落とし、さらに胸をかきむしるような思いで籠城を続けていたのであるが、しかし運のないものはどこまでも運が悪いものだ、さらに追い討ちをかけるようにとんでもない事態が露見する。松田憲秀の謀反がそれだ。

 松田憲秀は北条家の重臣で、北条氏康の元で辣腕をふるうほどの重鎮であった。松田家はもともとが北条早雲の頃から仕える古い家柄であり、北条の宿老格であり、伊勢新九郎こと北条早雲公以来の後北条家を脈々と支え続けた名家だ。

 松田憲秀は歴戦の猛将であるが、しかし外交政策も実に巧みで鮮やかであり、経世家としての実力も抜群であり、ひじょうに柔軟性に富んだ人物であったように想われる。
松田憲秀は当初から小田原での徹底抗戦を主張していたが、しかし、すでに前述したようないろいろなこともあり、しだいにうんざりしてきて北条を見限る気になったのであろう、秀吉に内通して小田原城内の機密を漏えいしたり、北条家の重臣の寝返りに一役買っていたと云われる。
名人久太郎こと堀秀政の調略に引っかかって豊臣方に寝返ったという説もある。

 ともあれ、北条氏政・氏直親子はこの事実に戦慄し、はらわたが煮えくり返るほどに激怒し、松田憲秀を即刻捕らえて投獄したのであるが、
しかし小田原城内はお互いを疑い合い、やがて疑心暗鬼に陥るようになって厭戦気分のみなぎる状態に成り果ててしまっている。

 ほとほと嫌になって、嘆息する者も多かったであろう。

 この時の出来事として、有名な逸話がある。
 頑迷な北条家を見限った松田憲秀が秀吉の元に密使を送り、

「笠懸山にご本陣を置いてください。この場所から小田原城を眼下に威圧すれば、城内の将兵らは動揺し、いずれは戦意を喪失して降伏するは必定です。」と助言してきた。

秀吉はさっそく笠懸山を綿密に調査させる一方で、増田長盛、長束正家などに縄張りを命じた。
築城といっても、北条方をびっくりさせればよいわけで、本格的な城塞にする必要はない。セッセと杉の木を切り倒してはサッサと安普請の城を築きあげて、櫓などもテキパキとまたたく間に完成させた。

さらに、その城の外壁には杉原の白紙をびっしりと貼り付けたというからおもしろい。
翌朝に森林を切り払わせると、これを遠望する城内の将兵らは、

「昨日はあの山にはなにも無かったはずだが?さては魔法か、蜃気楼か?」と、度肝を抜かれての大仰天、大変な大騒ぎとなった。
だしぬけに姿を現した一夜城、いくら凝視しても実に立派な城にしか見えないのである。
城の石垣も整然と組まれているように見えるし、その外壁はまばゆいばかりに白く光り輝いている。

 この壮挙をまのあたりに眺め見た北条家はすっかり戦意を喪失し、真剣に降伏を考えるようになったという。


 ここで私見を書くが、神奈川県生まれの私は子供の頃から何度となく小田原城を訪れたことがあり、笠懸山も、もちろん知っている。
この、笠懸山は今は「白壁山」とか、「石垣山」と呼ばれているが、しかしこの呼び名はこの時代からのようである。元来は笠懸山だ。

 秀吉は笠懸山の城普請を完璧に完成させた後に、この城に移って本陣を置いたと伝わっているが、しかし今では少々の石垣を残すのみで、その城を想いしのぶにはほど遠い。

 また、上述した逸話は作り話の伝説にすぎないとも云われるが、現在の小田原城は関西の大坂城と同様に再建されて大きく作り変えられているので、敷地面積も、城塞の跡も、規模も大きさも大はばにずれている。
小田原城内での将兵らの大仰天ぶりを確かめようもないのが、とても残念だ。

 ちなみに、秀吉の一夜城伝説は、今回で四回目だ。

 初めは美濃の斎藤家攻略の足がかり、有名な墨俣での築城。

 次は鳥取城の兵糧攻め。

 その次は備中高松城の水攻め。

 今回の小田原の笠懸山で四度目である。

 もしも小田原城内に、秀吉の得意とする心理作戦である一夜城戦術を知っている者がいたら、これはもうバレバレの戦法なので、少しも驚かなかったに違いないし、かくいう私もそう思うし、きっとそうだったに違いないと想うのであるが、

しかし、まぁ、当時の交通事情もあり、当時の通信事情もあったりで、秀吉の一夜城戦術を知る者が一人もいなかったので、蜂の子をつついたような大騒ぎになっていたのかもしれない。



【2015/11/14 17:04】 | 未分類 | コメント(0)
秀吉の関東征伐 小田原の大歓楽桃源郷 北条家戦国興亡記 3
 
さて、長期に渡る持久戦では、攻め込まれた側は必死になって防戦に努めるので、どちらかといえば攻め込んだ寄せて側のほうが気分の緩みがちになるもの、厭戦気分が大充満するというものだ。

以前、小田原城は上杉家の大包囲網、厳重な重囲に遭い、その後、武田家からも攻城されているが、武勇絶倫の上杉謙信公も、勇武知略の武田信玄公でさえも、
武力戦による攻城の戦力の消耗を警戒してというよりも、長期の持久戦による将兵らの士気の低下を憂慮して攻城を諦めて引き上げている。

 しかし、「城攻めの大名人」の秀吉は、あらかじめこんな場合も考えてしっかりと手を打っている。小田原の陣中を大楽園都市にして、長期の持久戦に退屈する将兵らの気分を盛り上げたのだ。

 秀吉は遊びにかけても天才的で奔放、放埓とも思えるほどだ。
その陣中のいたる所で和歌、音曲、茶会、蓮歌会などを開いて大騒ぎして楽しんでいる。酒もかなり飲んでいたようである。
秀吉は陣中に淀殿を呼び寄せたりもしたので大変なにぎわいとなったし、諸大名たちも秀吉の許可を得て同じように真似をする。

しまいには戦時中でありながらも遊山を楽しむ者たちも現れて、陣中には遊女も大勢いたという。

徳川家の重臣である榊原康政がその陣中の様子を加藤清正に書き送った書状の中で、
「いたるところに屋敷が続々と立ち並びはじめ、所々では市場が開いている。良民や商人たちも続々と集まり、物資に不足なく、一生ここで過ごしても悔いはないと思えるほどだ。」と、言っている。

史料の北条五代記には、
「西国方面から兵糧を運んでくる大小の船が、常に数千艘も海に浮かんでおり、陣中は東西南北に小路を割って町作りし、大名たちの陣所は半永久的な館作りにして、書院もあれば茶室もあり、庭には竹木や草花を植え、陣屋毎にその周囲は菜園として、
うり、なす、ささげなどを作ってある。
また商店街もたくさんあり大盛況である。
全国各地の特産物もあり、中国や朝鮮の珍物もあれば、京・堺の絹布もある。食料なども穀物類から干物や生魚など、食べられるものであればなんでもある。

そして、遊女宿もあって、京都や各地の遊女たちが色めきあって客をいざない、海道沿いには茶屋があり、はたごやもあり、いっさい不自由なことはない。」と、その様相を詳しく書いている。

これでは、いくらなんでも北条家が気の毒だ。こんな攻められ方をしたら、精神的に参ってしまうのである。


しかし、もっとも、秀吉は諸将に厳命して油断なく厳重に北条方を監視させていたし、将兵らを絶えず督励して士気を鼓舞しているし、
その軍勢の配置変えにも細心の注意をはらっている。一部の部隊を割いて小田原城の出城を攻撃させたりもしている。

 秀吉公は未曾有の大軍勢を率いての総大将であり、その統率力、指揮能力は実に卓抜であり、
厳然と北条家と対峙し、しかしその陣中では厳粛になりがちな中ではちゃめちゃに愉快に楽しんでは遊び、その一方で抜け目なく仕事もきちんとこなしているのだから、豊臣秀吉公という逸材の人物は、本当にすばらしい。


 最後に少し余談を書くが、仕事は、「運・不運」、「むいている・むいていない」、「得意・不得意の資質」、「才能の有無」などを考慮して決めなければならず、
確かに「仕事選び」というものはとても難しいのであるが、
しかし、ひじょうに辛い逆境の中でも、なんとなく楽しく続けられる仕事であれば、おそらくそれが、あなたにむいている、一生続けられる仕事である可能性が高いように思うのである。

その仕事が、あなたの日常に楽しくとけこんで存在しているかどうかが、仕事選びのポイントなのではないかと思うのである。

 秀吉公もそうであるが、信長も、光秀も、柴田も、滝川も、その他の諸将たち、私の大ファンである真田昌幸公も、とても目まぐるしくて忙しい日常生活の中でありながらも、四六時中仕事のことを考えて、自然と熱中し、夢中に奔走して、
しかも、全然疲れを感じさせないのである。

これは、本当に心から仕事を楽しんでいたように想えるのである。


【2015/11/08 15:59】 | 未分類 | コメント(0)
秀吉の関東征伐 勇将一柳直末 北条家戦国興亡記 2

 また、北条家は小田原での籠城戦に備えて、ひじょうに珍しい方策を用いている。

 小田原城内に、関東八州の分国内に所領を持つ諸大名の当主をいっきに召集して、その諸大名らの持ち城には北条家直属の重臣や与力を派遣して防備を任せるという、実に風変わりな戦法である。

これは、ていのよい人質の意味もあるが、しかし、小田原が落城すれば関八州の諸大名らも一緒に運命をともにするという面白い作戦だ。
このようなわけで、北条家の分国内の将兵らは、当主の所在する小田原に豊臣勢を迫らせまいとして必死になって防戦するはずだったのであるが、
しかし運のない者はどこまでもツキがないものである。豊臣勢の先鋒部隊は濁流のように小田原に急迫し、運河の如く押し寄せるその軍勢がびっしりと黒み渡る幔幕を続々と張っていき、次々と陣地を構築しては次第に大地を埋め尽くしていくのだ。
秀吉もゆったりとした遊山気分で湯本の早雲寺に入っている。


しかしながら、秀吉もこの関東征伐の際に衝撃的な犠牲を強いられている。勇将の一柳直末の戦死がそれだ。

 一柳直末は美濃の豪族の生まれで、1570年の元亀元年の頃に秀吉に仕えて、織田家で奮闘する若き藤吉郎の大出世物語の裏方の立役者の一人であったといっても過言ではないぐらいの武将である。
後年は秀吉の黄母衣衆(親衛隊)となり、羽柴秀次の宿老としても有名である。

 秀吉は小田原での布陣の際に、小田原城の有力な支城攻略を諸将に命令しているが、一柳直末は羽柴秀次の右腕として伊豆の山中城攻めに参加して戦死したという。この報告を聞いた秀吉は、

「熊(一柳直末のあだ名。熊も恐れるほどの猛将の意)を失い、関東制覇の喜びもいっきに消え失せた。しかし、相当の激戦じゃったのだろうか。」といって意気消沈し、しばらくの日々は食事も喉を通らないほどに落胆悲哀したと云われる。

確かに、山中城の攻防戦は熾烈を極め、豊臣勢の総勢は徳川家康の約三万を加えた七万近い大軍勢であり、
一方の守将である松田康長、北条氏勝、松田康郷、蔭山氏広、間宮康俊らは、わずか四千で激烈果敢に交戦している。これは、北条家のために討死する覚悟の戦いであったといってよい。
壮絶悲壮である。
山中城はわずか半日で落城したのであるが、城主の松田康長は北条氏勝を脱出させて玉砕し、その他の将兵らの多くも全滅い近い状態であったという。

 ちなみに、伊豆の韮山城を死守する北条氏規は卓抜な用兵を駆使して頑強に徹底抗戦し、豊臣勢はうんざりして攻略を諦めて、居残りの諸将に韮山城を遠巻きに包囲させて小田原に向かっている。


 ところで、秀吉は城攻めの名人だ。かつての鳥取城の兵糧攻め、備中高松城の水攻めは日本戦史上、前代未聞の実に雄大で遠大な作戦計画であったが、
これは、できるだけ味方の損害を最小限に抑えようとした点でひじょうに優れた戦術であったといえる。

小田原城は無双の要塞なのだから、秀吉は当初から力攻めにするつもりはなかったであろう。そんなことをすれば兵卒らを無駄に犬死させるだけであるし、
しかも、後方から来援中の豊臣勢は関東の北条方の城をかたっぱしに降伏させている真っ最中なのだし、
いずれは小田原城が孤立無援の状態と化してしまうのは時間の問題なのだから、秀吉は何か月かかろうとも厳重な重囲を続ける腹積もりであったに違いない。

まさに、秀吉の才略が光り輝く、絶好の好機到来であった。


【2015/11/03 12:22】 | 未分類 | コメント(0)
不如帰 ~戦国武将の幻影~


Ⅰ<覇王編>~逆賊 織田信長を討て!~  Ⅱ<争覇編>~織田家簒奪!秀吉の野望~

不如帰 戦国人物伝


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