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コラム 秀吉の唐入り(朝鮮陣)は、無分別で身のほどをわきまえぬ愚行だったのか? 2

 さて、秀吉の外征、つまり有名な「秀吉の朝鮮役」についてだが、しかし、そもそもこの名称自体がおかしいのである。

誰がこんな名称をつけて流布させたのかは知らないが、いまだに学校の教科書などにもしっかりと「秀吉の朝鮮役」と記載されており、
歴史の素人が朝鮮役と聞いたら、秀吉は朝鮮半島の占領が目的だったように思ってしまうであろうし、
そもそも、戦前は「秀吉の唐入り」と教えられていたはずなのである。ちなみに、私の祖父は帝国陸軍の軍人で、戦中は満州の関東軍に所属し、
戦後は無事に日本に生還して後に中学校の教師をしていたが、祖父との時折の会話の中で、「秀吉の唐入り」と言っていたのをはっきりと記憶して覚えている。

 しかし、まぁ、ともかくも、秀吉の戦略的な目標は朝鮮半島ではなくて、大陸の明にあったことを我々は忘れてはならないであろう。
秀吉は明の征服を念願し、東南アジアを含む遠大な貿易立国構想とも想えるほどの具体的な目標を持っていたのである。

 秀吉は将来的に日本を任せ預ける武将、朝鮮半島を支配させる武将などを具体的に選定し、日本の天皇家を北京に招致して大陸支配の象徴とし、
秀吉自らは寧波(ニンポー。中国,浙江省の,東シナ海に注ぐ甬江(ようこう)の下流に臨む河港都市。
遣唐使船や室町幕府の勘合船が寄港するなど,古くから対日貿易港として栄えた。ねいは。 )に居を構えて東アジア全体を統治・統括して総覧するという壮大な政治的目標があったのである。

朝鮮半島は明に入るための通り道だったのであり、朝鮮は戦略目標ではなくて、単ある戦術的な目的の用に供するための目標に過ぎなかったのである。

 しかしながら、秀吉は朝鮮半島で惨敗した。秀吉の雄大で壮大な作戦計画は緒戦でとん挫したのである。ゆえに、後世の批評家たちから痛烈な非難を浴びることになった。

 失敗の原因は山ほどあるが、最たる要因は、敵情認識の甘さであろう。

 秀吉は、朝鮮のことを対馬の属国ぐらいにしか考えていなかった節があるし、大陸の明国に関する生産力・軍事力などに関しても無頓着もいいところだし、
兵站や補給路の確保なども出たとこ勝負のようないいかげんなものだったし、生命線であるはずの制海権までもを明の水軍によって何度となく奪われている。

確かにダラシガナイ戦いぶりで、「本当に、本気でやる気があったんかいな?」
「秀吉はボケてたんじゃないのか?」と感じさせるテイタラクぶりである。

 大陸の情報に精通する小西行長などは、秀吉につき合いきれなくなって、朝鮮半島での進軍途上で明軍に利敵し、しかし逆に内兜を見透かされて大損害を被り、
そのあおりを受けた日本軍将兵らはチリジリになって窮地に追い込まれたりしている。
有名な碧蹄館の戦い(文禄2年1月26日(1593年2月27日)に朝鮮半島の碧蹄館(現在の高陽市徳陽区碧蹄洞一帯)周辺で、平壌奪還の勢いに乗り漢城(現ソウル)めざして南下する提督李如松率いる約20,000の明軍を、小早川隆景らが率いる約20,000の日本勢が迎撃し打ち破った戦い。)になったのも、これは、元々が小西行長の厭戦気分が原因といってよいのである。

また、石田三成や小西行長は、秀吉にいいかげんな情報を伝えて騙すことすらしていることは、この時代に詳しい方々であればすべてご存知のことであろうし、
秀吉の信奉者である加藤清正は、石田三成・小西行長の所業に業を煮やし、秀吉を騙して欺いていると信じてやまず、彼らを憎悪するまでになっている。

 しかしながら、諸史料によれば、豊臣家の主要なメンバーたちは早急の和平を強く望んでいたようであるし、そして現地で戦う将兵らも、戦闘による疲労・疲弊よりも、実際は食糧難のほうで苦しめられていたから、これでは厭戦気分になってしまうのも無理はないのである。

 ところが、この時代の国際情勢に着目すると、秀吉の偉大な志しが見えてくる。

この当時、日本の裏側では、スペイン・ポルトガルの国王であるフェリペ二世が海洋国家の大帝国構想を誇り、世界制覇を目指して大いに威張っていた。

 特筆すべきことは、秀吉はフェリペ二世と何度となく音信を結び合っており、贈り物のやり取りや、書簡を交わしていたことである。

さらに、秀吉はフェリペ二世に宛てた手紙の中で、
「貴殿とは、対等なのだ。」と、言い張っている。

これは、日本人の思考の枠組みを飛び越えて、世界にはばたこうとする兆戦のようにも想える、秀吉の毅然とした態度が感じられ、ひじょうに近世的な発想であったともいえるだろう。
当時の西欧諸国は大航海時代の幕開け、飽くなき膨張主義の全盛期だったのだから。

 したがって、秀吉の思考力は、その時代の最先端を走っていたともいえるであろう。


 ちなみに、大陸の明は秀吉の病没後、四十数年後には小国の金(清)に滅ぼされている。

 徳川政権下の家光の時代に、明の急使が日本に救援を求めるためにやって来たが、全然相手にされず、アッサリと断られている。



 
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【2015/12/22 23:14】 | 未分類 | コメント(0)
コラム 秀吉の唐入り(朝鮮陣)は、無分別で身のほどをわきまえぬ愚行だったのか? 1

 秀吉に関する諸書を数多く読んでいると、その前半から中盤まではベタホメばかりが長々と続いて、秀吉の事績を散々持ち上げるだけ持ち上げておいて、
しかし後半の唐入り(外征)のところあたりでドカリと蹴落とし、痛烈な誹謗中傷に一変する。

秀吉はボケていた。長年の疲労でモウロクした。心労がこうじて発狂した。躁うつ病を患っていた。異常な誇大妄想につりつかれた。領土欲の権化になった等々、それまでの輝かしい称賛から一転して痛烈な非難に早変わりする。

これと同じ現象が、日清・日露戦争と大東亜戦争とを比較した批評本の中に数多く登場する。

明治・大正の政治家や軍人たちはとても優秀だったと持ち上げてから、昭和初期の政治家や軍人たちはダメだった。先を読めない人たちだった。身のほど知らずであった等々、こちらも痛烈な非難へと大暗転する。

 確かに、秀吉の外征も、大東亜戦争も、結果的に戦略・戦術的な暴挙に陥ってしまったことは事実であろう。両方ともに、結果的に散々たるアリサマだったのだから。

 だが、こんな論議であれば誰にでもできる。結果論からいえば、なんとでも言えるはずだ。

 結果論から検証する逆算的な視点は、歴史を検証し直すうえで必要な作業であり、非常に優れた手法ではあるが、しかし、我々が歴史を考察するために最も重要なことは、

「その民族国家の歴史的な伝統(歴史的な流れ・背景・風習・習俗・特性・特徴・哲理・哲学・宗教など)はどのようなものだったのか?」

「何をしようと考えていたのか?どのように対処するつもりだったのか?」

「取り巻いている国際情勢はどうだったのか?」「なぜ成功し、なぜ失敗したのか?」といったような歴史を教訓として深く学び取り、そして、広い視野をもって史料を詳しく検証し、その経緯を深く考察することであろう。

成功をホメちぎり、失敗をけなすことばかりに終始するようでは、これでは少々お粗末にすぎる。


 私見を書くが、日清・日露戦争ほど、無分別で身のほど知らずな愚行だった戦争はない。これこそ、とんでもない戦略的な暴挙だ。

当時、清・露の両国ともに超大国であり、軍事力・生産力ともにずば抜けて絶大であった。
一方の日本は総力を挙げての全力戦で、日本の国家財政はパンク寸前、しかし、相手両国は一方面軍を主力とする限定的な局地戦でしかなかったのである。

しかしながら、清・露ともに内政事情はガタガタ、米・英は親日派、日本は国際間での停戦や終戦の手助け役にも恵まれていたのである。

したがって日本の勝利は、これは国際情勢が幸いしたからであって、戦略的な見地に立って考えてみれば日清・日露戦争はとんでもない暴挙であったし、
実際に日露戦争のときは、必ず勝てると確信していたのは軍の参謀本部だけで、当時の政治家・軍人・民間人の多くが敗戦を予感し、戦況を非常に心配していたのである。

 話しがそれて誠に恐縮ではあるが、東洋思想家で経営コンサルタントの田口佳史先生によれば、
江戸時代は四書五経(儒教の教典で重要な9種の書物のことで、四書とは、「大学」「中庸」「論語」「孟子」、五経は、「詩経」「書経」「礼記」「易 経」「春秋」)を中心とする人格教育が行われており、
そのおかげで人格・見識ともにひじょうに優れた逸材の人物を数多く輩出したが、
明治政府が国民皆学を目指して明治5年に施行した学制によって、人格教育から技能教育中心になってしまい、その結果、知識一点張りの視野の狭い、道義心を欠いた、見識に問題のある人々が続出したと言っている。

同感である。

確かに、日清・日露戦争の頃の日本の政治的な主導者たちは、江戸時代の教育を受けた人々であり、ひじょうに大局的な思考に優れ、道義心のある教養人が多かったが、大東亜戦争の頃の首脳陣は、明治政府の技能教育を受けて育った人たちだ。

また、当時は日本のまわりの中国・東南アジアのほとんどすべての国々が西欧諸国・アメリカの植民地となっており、
帝国主義を推進する列強諸国の植民地支配の回避を狙う日本としては富国強兵を目指していたという事情も確かにあった。

ゆえに、早急の富国強兵を実現するためには、優秀な官僚を養成する必要があったので学制を施行したわけだが、
しかし皮肉にも、このシステムは現代も生き続けており、現在の教育界をむしばみ、官僚の汚職・腐敗を誘発し、規範意識の退廃が社会を大きく混乱させている。


話しがそれて本当に申し訳ないのだが、現代社会に生きる我々は、もう一度、江戸時代の人格教育を想い出して励行する必要があるのではないだろうか。


【2015/12/18 22:24】 | 未分類 | コメント(0)
秀吉の関東征伐 乱世の英雄・北条早雲の幻影 北条家戦国興亡記 8

 さて、智謀雄略の黒田官兵衛は誠心誠意、親身に、懇切丁寧に北条氏政・氏直親子を得々、切々と説き伏せ、降伏して開城するように促したのであった。

 そして、北条家はついに官兵衛の言葉に従って開城を決意し、叛逆者の北条家の宿老である松田憲秀を血まつりに上げて惨殺し、
その後に豊臣家に屈服して降伏したのであるが、これは、初めから徹底抗戦をあくまでも主張し続けていたはずの、あの松田憲秀が、あっさりと裏切っていたことによほど腹に据えかねてのことであったろうが、しかし、秀吉はこの行為を理由に北条家を取り潰してしまったという説がある。

近年の諸説では、秀吉は北条家の取り潰しは以前から織り込み済みで、
松田憲秀、大道寺政繁などの宿老たちへの切腹命令は、これは、彼らの恥知らずと思えるほどの所業の数々に対する見せしめの為であるとか、
北条の宿老としての責任を取らせるために切腹させる必要があったとか、いろいろと意見の分かれるところであるが、
しかし私見では、松田憲秀は北条方の強烈な圧力によって殺されているように思うのである。確証はないが、海音寺潮五郎先生はご著書の武将列伝の中で書いている。

 ともかくも、北条氏政、氏照、大道寺政繁らは切腹を申し付けられ、氏直は辛くも許されて高野山に配流と決まったのである。北条氏直は家康の娘婿なのだから、秀吉が配慮、遠慮して助命したのであろう。


 後北条家の始祖、北条早雲公はまさに戦国乱世の風雲児であった。早雲の出現をもって、室町時代から戦国時代へと時代区分する学説がたくさんあるほどだ。

 北条早雲がまだ伊勢新九郎と名乗っていた頃は、彼は徒手空拳の流浪の民同然の身の上であったが、
数多くの友人たちと明日を語り合って固い絆を結びあい、皆々と将来を約束し合って、
「この中の誰かが、いずれ大出世したら、残りの俺たち全員がその者の家臣になって大いに盛り立てていこう!」と誓い合い、頑迷固陋(がんめいころう)の門閥の世相であるにも関わらず、
血みどろの戦いの中で粉骨して縦横無尽に奮闘努力し、
やがては竜虎の昇天するが如くメキメキと頭角を現してたちまち相模を平定し、その後の関東制覇の礎を築いた乱世の英雄であった。

有名な大道寺政繁の大道寺家は、勇躍して飛竜昇天する伊勢新九郎を当初から盛り立て支え続けた親友の末裔である。

また、早雲が高僧から六韜三略の教授を受けた際に、とてもうんざりして、
「もう、よい。そんなことなら、わしは、とうの昔に知っている。」といって、片手をあげて講釈をさえぎったという逸話は、実に有名だ。

 たぐい稀な英知と勇武知略・武勇絶倫の早雲公は、血みどろの逆境を何度となく乗り越え、苛烈極まる戦国乱世に勇名を轟かせたのだ。
そして、その息子の氏綱も、孫の氏康も、熾烈で激烈な阿鼻叫喚の生き地獄の乱世を生き抜いて、ただ後北条家の繁栄をひたすらに願い続けながら血みどろになりながら家中をまとめ上げてきたのだ。

 その艱難辛苦のほどは、想像を絶するに余りあるであろう。


 ところが、北条家は氏政の時代の頃になると、お国自慢ばかりに終始し、時勢を読む目も、大局を推し量ることも、上方の情勢に関心を示すこともないのだから、これではまるで話にならないのである。

 北条氏政について調べると評判の悪い逸話だらけなのであるが、真偽のほどは定かではないのだが、おもしろい逸話があるので少々ご紹介したい。

 氏政が父の氏康と食膳を共にしたときの出来事。
氏政が湯漬けの飯に汁をかけるのだが、何度となく汁をかけて食べていた。それを見咎めた氏康は、
「毎日のように食べている、たった一杯の茶碗の飯にかける汁の分量すらわからぬのか?
こんなことでは、とても国政や軍事のことなど、到底おぼつくまい。北条家も、わしの代でおしまいか。」といって嘆息し、涙をこぼしたという。

  次は、氏政と武田信玄が同道したときの話し。
北条と武田が共同で松山城を攻め落とした後に、氏政と信玄が馬を並べて道を行くと、ちょうどその時に、大量の麦を積んだ馬車が通りかかった。
 それを眺め見た氏政が急に、もの欲しそうに、
「腹がへって、麦飯が食べたくなった。ここで少し休息して、麦飯を食べよう。
あそこの馬車を引く農民に頼んで、麦を少し分けてもらってくるがよい。」と、側近の者たちに命じた。

氏政の側近らはモジモジして困っていると、信玄はわざわざ氏政の近くにまで馬を寄せながら、
「さすが、北条殿は大国のお生まれですな。大変におおようで、まことに喜ばしく結構なことではございますが、
しかし麦飯となりますと、少々時間がかかりますぞ。
麦をこいて、こなしては乾かし、その他にも手間取る作業をいくつもして、水で煮るわけですから、食べるころには、日もとっぷり暮れておりましょう。」と、麦飯の作り方をいちいち丁寧に教えて言った。

それを聞いていた氏政の側近の者たちは、爆笑をこらえるのに苦労したという。

 以上の逸話の真偽は、先ほども書いたが定かではない。
しかし、お坊ちゃん育ちの氏政と、苦労人の武田信玄公がまことに対照的な逸話なので書いた。

信玄はもちろんのこと、信長、秀吉、家康、謙信、政宗、その他の当時の英雄たちなら、農民が川のタニシを食べることまで当然知っていたであろう。

 当時の英傑たちは、必ずといっていいほどに決まって民情を知り尽くしている。

 とても残念なことではあるが、北条氏政公は、英雄ではなかったようである。



【2015/12/10 23:50】 | 未分類 | コメント(0)
秀吉の関東征伐 名将黒田官兵衛の智謀 北条家戦国興亡記 7

こうして、徳川家康は忠誠無私の精神で徹底的に従順なまでに秀吉に惜しみなく尽くし切り、北条家をあくまでも敵として決めつける態度は首尾一貫していたのである。

家康は流言・飛言などに全く動じることもないのだから、必然、徳川と親戚関係にある北条家は失意ぼう然であった。

しかも、奥州の伊達政宗が秀吉に帰服したことを知るに及んで、ついに息も絶え絶えの状態となり、小田原城内では、「しょせんは亡国」の気運がみなぎり、厭戦気分が大充満の状態と成り果てたのであった。

そのような折に、秀吉は小田原城内の様子を見透かして、弁舌にたける黒田官兵衛を城中に送り込む。

通説では、秀吉は最初、家康が適任であると思い、徳川に使者を送って相談したのであるが、
「北条家は親戚筋なので、かえって埒があかないのでは。。。」と、家康は丁重に断ってきたので、その後、黒田官兵衛に相談すると、
「それでは、拙者がつかまつりましょう。」と言って引き受けたことになっているが、しかし諸書を丹念に調べると、秀吉はまず、内々に官兵衛に相談していたように思われる。
そして、官兵衛は秀吉の提案に対して、内心、
「徳川殿は、おそらく、引き受けないに違いない。」と思いながらも、しかしとりあえず秀吉に同意したふりをして、その後、家康が断ってきたら官兵衛自身が引き受けるつもりでいたのではないかと思うのである。

なぜなら、官兵衛は「これは、自分こそが適任である。」と自負していたようであり、したがってこの引き受け方はとてもまどろっこしくてひじょうにまわりくどいのだが、
しかし、この時期の秀吉と官兵衛との関係は昔年の面影はなく、ひじょうに微妙な間柄になっていたのだ。

 官兵衛は秀吉の猜疑心をかわすことにやっきになっている時でもあり、事実、この時は隠居を請い願って認められていない状態だったのだ。

官兵衛の智謀知略が、官兵衛の功名と威勢が、秀吉の猜疑心をくすぐり、竜虎のように恐れさせているのだとしたら、ここは、どうせ引き受けるなら、ワンクッション置いたほうがとても賢いやり方なのである。


 さて、官兵衛はまず、酒と肴を小田原城内へ贈り届けるのであるが、
その答礼として小田原城からは鉛と弾薬が送られてくる。この答礼のメッセージの解釈は黒田家中でいろいろと分かれるところであったが、しかし、官兵衛の狙いはそんなところにはない。

官兵衛はさっそくその返礼を口実として、酒2樽、鱧や鮎などの粕漬け10尾をたずさえ、涼しげな肩衣袴(かたぎぬはかま)で刀も持たずにサラサラと城内へ入っていき、北条氏政・氏直父子と対面して懇切に説得する。

官兵衛の弁舌は実にさわやかで、ひじょうに説得力があり、あまりにも見事に誠実味あふれるものであったのであろう、北条父子が官兵衛に感謝して日光一文字の太刀と吾妻鏡を贈ったと云われる。


 ここで私見を書くが、関東八州の北条家の石高は250万石以上であり、最大で10万の兵力を動員できると云われており、秀吉は1~2年の長期戦になることを覚悟していたようである。
私は神奈川県に住んでいるが、以前、さいたま県の上尾市に所在したことがあり、暇をみてはドライブ気分で遠方にまで足を運んで、行田市、館林市ともに車で訪れたことがある。
その時に、
「こんな遠方の場所まで、北条方だったのか!」と驚嘆したものである。

確かに、地図上では小田原からの距離はたいしたことはないが、しかし、実際に自分で上尾市から移動した距離と、小田原から上尾までの距離を重ね合わせた実感は、ずいぶんと果てしなく遠方にきたように感じたのである。

 しかも、私の移動手段は車や電車だが、戦国時代の当時は、移動手段といっても馬を使える身分の者はごくわずかで、兵士のほとんどが徒歩だったし、
道路は未整備な状態がほとんどで、細いクネクネ道を登ったり、くだったりして歩いて移動していたのだから、当時の人々であったらその実感は、さらにいっそううわまわるものであったはずであろう。

これに加えて箱根の峠、碓氷峠を越えることを考えたりした日には、ゾッとする。

 この秀吉の関東征伐を書くにあたって、日本地図を見ながら豊臣の勢力範囲と、北条家のそれとを見比べると、
「やはり、北条家は井の中の蛙だったのだ。」と、軽くあしらいがちになるのだが、上述したような実感を想い出すとき、関東八州を押さえていた北条家が、
「持久戦なら、必ず勝てるはずだ!」と思ってしまうのも、無理はないのではないかと、つい、考えたりもする。

 歴史を語るうえで、地図や史料ばかりだけではなく、自分自身の体を動かして、目と手足と頭を使った実体験も必要なのだと、あの時の実感を想い出して痛感したしだいである。



【2015/12/03 16:06】 | 未分類 | コメント(0)
不如帰 ~戦国武将の幻影~


Ⅰ<覇王編>~逆賊 織田信長を討て!~  Ⅱ<争覇編>~織田家簒奪!秀吉の野望~

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